大坂城・京橋口

2008年10月02日
大坂城(大阪府大阪市中央区大坂城)は、豊臣秀吉を思い出しますね。
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徳川慶喜、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬は京橋口より、城を脱出しました。

新選組がはじめて登城したのは、慶応4年1月7日でした。
鳥羽・伏見の戦いに敗走した新選組は、大坂に退却し、八軒屋の京屋に宿陣しました。
そして7日に大坂城に入っています。
その第一の目的は、負傷者の治療でした。

6日の夜、旧幕軍の総大将 徳川慶喜は松平容保らとともに城を出て、天保山沖の船にいました。
大坂城では、和戦両論が対立し、近藤勇が抗戦論を説くため板倉勝静に面会を求めましたが、大坂からの全軍退去を決定していた板倉は、近藤勇と会いませんでした。

新選組も旧幕軍として、負傷者以外は深夜、隊士たちは城から退去しました。
その間に城外で火災があり、負傷者たちは、この火災を新政府軍の攻撃と誤認して、自刃する者もあり、村上清もそのひとりでした。
新選組史跡事典より

大坂城といえば、太閤秀吉かもしれません。
今は立派な天守閣がありますが、1665年に落雷により天守閣が焼失して以来、天守閣を持たないお城でした。
幕末の頃も天守閣はありませんでした。

近藤勇も土方歳三も沖田総司も、今、私達が見ているものとは全く違う風景を見ていたのです。
お堀ぐらいは同じでしょうね。

1928年、当時の大阪市長が天守の再建を提案し、集められた市民の募金150万円によって陸軍第四師団庁舎移転と天守建設がすすめられました。
天守閣の再建工事は1930年に始まり、翌年に完成しました。

太平洋戦争中の空襲では、慶応4年の火災では被害を免た二番櫓・三番櫓・未申櫓・伏見櫓・京橋口門を焼失、また青屋門に甚大な被害を受けました。
Wikipediaより


今の大阪城はコンクリートで、エレベーター付きの建物になっています。
2階から7階までは、豊臣秀吉と大坂城についての資料などが展示されています。
8階の展望台からは、大阪を360度見ることができます。
豊臣秀吉の時代の事がほとんどなので、新選組や幕末関係の資料はほぼ無いと思って行ってください。


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