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大村益次郎寓居跡

2008年10月01日
大村益次郎寓居跡(大阪府大阪市西区江戸堀2丁目6)も、土佐堀通にあります。
大村益次郎寓居跡1  大村益次郎寓居跡2
大村益次郎は、兵学者で長州藩士です。
周防国鋳銭司村の医者の家に生まれました。
本姓は村田、幼名は惣太郎で長じて蔵六。大村益次郎と改めたのは、慶応元年長州藩に討幕派藩政府が出来たときです。
医学を防府の蘭医梅田幽斎に学びましたが、弘化3年から改めて大坂の緒方洪庵の適塾で医学だけでなく、西洋学の勉強に励みました。
在塾中に長崎まで赴いてシーボルトに師事し、また適塾に戻って塾頭をつとめました。

安政3年には、幕府の蕃書調所教授、さらに講武所教授方を務めました。
長州藩はこれに驚き、自藩士として召抱えようとし、万延元年成功しました。
江戸長州藩邸で洋学を講じさせました。その間、益次郎は横浜にいたヘボンに師事して、英学を学びました。
文久元年、藩命で萩に帰り、洋学者養成に従事する傍ら、下関近辺の防備計画に参与しました。
慶応元年、討幕派藩政府が出来てからは、幕府軍を迎え撃つための軍制改革の中心人物となりました。

戊辰戦争の全作戦を指揮、上野に立て籠もった彰義隊を1日で討伐しました。
それ以後の東北戦争や箱館戦争も益次郎の統括下で遂行されました。

維新の内乱が終結後、長州藩で奇兵隊以下の諸隊を運用した経験を持ち、西洋近代国家の実状に明るい益次郎は、徴兵制を主張し、自分が全権を握っている兵部省をその方向に基礎固めしていきました。
しかしそれが武士身分の完全廃止につながる事を察知した反動士族は益次郎の命をねらいました。
明治2年9月、関西を視察中の益次郎を、長州藩士神代直人、越後の五十嵐伊織ら数人が京都木屋町の旅宿に襲撃しました。
大坂の病院で治療をうけましたが、傷は重く、11月病状悪化で死去しました。享年46歳。

その遺策は、長州藩の元奇兵隊長山県有朋によって実現されました。
幕末維新人名事典より

薩摩藩大坂蔵屋敷跡(三井倉庫)の斜め前辺りにあります。
蔵屋敷にいい場所に、寓居跡というのも珍しいかもしれません。
大村益次郎が、船を使って荷物を運ぶ事も考えられませんよね。

大村益次郎というより、村田蔵六の方が私の中では印象深いです。
例の如く、「竜馬におまかせ!」なのですが、その中に村田蔵六が出てきます。
吉田松陰を甦らせるとかいう、史実ではありえないストーリーでした。
が、その独特のキャラクターがよかったです。

史実での大村益次郎がどういう人だったのかは、語れるほど知らないのですが、肖像画を見る限りでは個性的な人に思います。
司馬遼太郎氏の「花神」の主人公です。


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大村益次郎 村田蔵六
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