天保山-朝陽岡

2008年09月24日
天保山の頂上付近を歩いていると、朝陽岡(大阪府大阪市港区築港3丁目)がありました。
朝陽岡
これは、大阪港の開港と発展のために尽くし、大阪築港事務所初代所長を勤め、大阪府知事でもあった西村捨三が愛したという「朝陽岡」と彫られ彦根藩邸に在った庭石です。

西村捨三は天保14年(1844)彦根の医師の家に生まれました。
本名を得三郎といったが素行が悪く「捨三」と呼ばれたといいます。
10歳から14歳まで彦根藩主井伊家に仕えていた頃、庭園にあった此の石「朝陽岡」の前で休憩したと伝えられています。

17~18歳頃に江戸の彦根藩桜田屋敷に住み、20歳で京都周旋方を命じられ、戊辰戦争(慶応2年)では会津攻めに参加したそうです。

京都の半分を焼亡し、人口も落ち込んだ京都復興計画で平安遷都1100年記念祭が採用され、明治28年(1895)10月25日に行なわれたのが第一回時代祭です。その発起人が西村捨三です。

鳥羽・伏見の戦いで惨敗を喫した新選組の近藤勇は江戸に戻ると、甲陽鎮撫隊と名を改め、千葉,流山に陣を移して新政府軍を迎え撃ちました。
この時、新政府軍として近藤勇逮捕の功のあった西村は軍参謀になっています


明治5年、西村捨三は旧藩主・伊藤直憲の欧米視察に随しました。
帰国後の明治9年に内務省に勤務し職員として沖縄に行きました。
明治16年・沖縄県令を兼任後、明治19年には沖縄を訪れた山形有朋と上京し内務省土木局長として木曽川・長良川・筑後川等の河川改修工事を完成させています。
明治20年(1887)大阪府知事となっています。
大阪では水道の敷設し・淀川改修公園を造り大阪湾築港計画を立てました。
明治22年頃には 四条畷神社の創建や楠木正行の顕彰を訴えてもいます。
明治24年(1891)第1次松方正義内閣の農商務省次官を最後に退職後は北海道炭坑鉄道会社・大阪築港事務所長を歴任し、大阪湾工事の陣頭指揮を執り、明治36年秋に完成しました。
その頃捨三は、脳溢血に倒れて彦根に戻っており明治41年1月14日66歳で永眠しています。
港区HPなどより

この朝陽岡が何なのか、まったくわかっていませんでした。
気が向いたら、調べてみようと写真を撮っておいたのですが、今回調べてみて、
「近藤勇」「甲陽鎮撫隊」という文字が出てきて驚きました。

近藤勇の捕縛に功績があったと書いてあるではないですか。
この人西村って人が…。
意外なところで、近藤勇の名前を見て、歴史を侮ってはいけない、歴史って深い、人と人との繋がりは意外な所にあるんだ、といろいろと思いました。

写真を撮っていない、西村捨三の銅像を見に行かないと!


西村捨三
朝陽岡
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