ぜんざい屋事件跡

2008年09月22日
ぜんざい屋事件跡(大阪府大阪市中央区瓦屋町1-11-1)には、碑が建てられています。
大利殉難の地碑
元治2年1月8日、谷万太郎ら4名が大坂のぜんざい店石蔵屋を急襲して、土佐の大利鼎吉を斬殺しました。

元治元年11月、長州に潜伏していた田中光顕ら土佐を中心とする浪士が、大坂城を焼き討ちにしようと企てていました。
道頓堀の鳥毛屋を拠点として準備を重ね始めました。
しかし幕府側に動向を察知されて、拠点を松屋町のぜんざい店・石蔵屋に移しました。
ここは武者小路家家臣の本多大内蔵が、商人に変じて開業した店でした。
田中光顕、大橋慎蔵、那須盛馬の3人が先に石蔵屋に入り、その後大利鼎吉が入りました。

この石蔵屋を、尊攘派とも交流のあった谷川辰蔵が訪れていました。
谷川は谷万太郎と旧知の関係で、田中らの潜伏と焼き討ち計画を谷に密告しました。

1月8日、田中・大橋・那須は鳥毛屋に同志を訪ねて、石蔵屋には主人の本多と大利が残っていました。
谷万太郎は兄の三十郎、門弟の正木直太郎、高野十郎とこの店を急襲しました。
高野はかつて阿部慎蔵と名乗って、新選組にいましたが、池田屋事件直前に脱走して谷の門弟になっていました。
谷らの急襲に本多と大利は抵抗しましたが、大利は斬殺されました。
本多は逃走しましたが、谷は本多の妻れんと母の静を捕縛しました。

その後、高野十郎は阿部十郎の名で新選組に復隊、さらに谷川辰蔵も隊士として加入しています。

現在、その場所には「贈正五位大利鼎吉遭難之地」という碑が建っています。
正面の碑銘は田中光顕の筆によります。
裏には「ちりよりもかろき身なれと大君にこころはかりはけふ報ゆなり」という大利が、死の前日に詠んだ辞世となったものです。

田中光顕は「遺骸は何処に埋められたか、はっきりしない」と書いています。
新選組史跡事典より


「大坂 新選組」 というキーワードからは、「ぜんざい屋事件 谷万太郎」を思い浮かべます。
私だけでしょうか?
新選組関係の中で「大坂」といえば「谷(兄弟)」となってしまいます。

このぜんざい屋事件跡の住所から地図をみると、店が並ぶ場所なので、このような碑が建っている事を知ったときは、とても驚きました。
松屋町筋といえば、“人形の町”です。
人形の町となった場所と、斬り合いのあった場所が結びつきません。

実際に行ってみると建っていました。
本当に人通りの多い、史跡があると思えないような場所に建っていました。

しかしこの碑が何の碑か関心を持って、立ち止まる人もいませんでした。
いたとしても、これがぜんざい屋事件の碑と思う人も滅多にいないでしょうね。
そのぜんざい屋事件は新選組が関係している…なんて知っている人も少なそうです。
碑の側面に簡単な、事件の内容等が刻まれていますが、もっと目立つような説明板でも建てたら立ち止まる人は増えるでしょうか?無理かな。

昭和61年の「大阪史跡事典」には、ぜんざい屋は現在菓子問屋になっているとあるそうです。
(新選組大事典には屋号も記されていました。)
建物は当時の物ではないのでしょうね。
そこまでは書いてありませんでした。
実際に見に行けば、判るかもしれませんし、推測もしやすいのですよね。


ぜんざいや事件
大利鼎吉
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