那須俊平・信吾邸跡

2008年08月01日
梼原町には那須俊平・信吾父子邸跡(高知県高岡郡梼原町)があります。
那須親子邸跡1  那須親子邸跡2

那須親子邸跡3  那須親子邸跡5

那須親子邸跡4  屋敷跡の池?
写真集には"屋敷跡の池は昔のまま"とありましたが、水のある場所は見つかりませんでした。

那須俊平は、藩士坂本代吾の長男で、同村の郷士那須忠篤の養子となりました。山田喜馬太に槍を、三木広作に剣を学び「土佐一の槍の達人」と称せられました。
浜田重民(信吾と改名)を養子として迎え、娘為代の婿に向かえ、家に道場を作り弟子を教えました。

文久2年3月25日夜、龍馬と沢村惣之丞が那須家に宿泊し、翌日二人は那須父子の道案内で、国境の韮ヶ峠を越えて脱藩しました。俊平は伊予大洲領の宿間村(五十崎町)まで案内しています。

文久3年6月に脱藩し、長州の忠勇隊に入り、禁門の変に参加しましたが、越前兵堤五市郎に討たれました。
墓は京都市北区鞍馬口通り寺町の上善寺と京都市東山区清閑寺霊山町の霊山墓地。
梼原町には邸跡のすぐ上に招魂碑、化粧坂の六志士の墓地にあります。
享年58歳。

那須信吾は土佐国高岡郡佐川村出身です。藩士浜田宅左衛門の次男として生まれ、幼くして父を亡くし、兄金治の教育を受けました。浜田辰弥(後の田中光顕)は甥にあたります。

梼原村の那須俊平の養子となりました。
六尺(182㎝)の身長があり、健脚は有名で「天狗さま」の異名がありました。

龍馬と沢村惣之丞の脱藩の案内は、韮ヶ峠までです。
その直後、信吾は高知城下に現れ、4月8日、雨の帯屋町で藩の参政吉田東洋を暗殺し、脱藩して京都へ向かいました。
翌文久3年、吉村虎太郎らと天誅組をおこしましたが、八・一八の政変で挫折、9月24日に大和鷲家口で戦死しました。

墓は奈良県吉野郡東吉野村明治谷と京都市東山区清閑寺霊山町の霊山墓地。
梼原町には邸跡のすぐ上に招魂碑、化粧坂の六志士の墓地にあります。
享年35歳。
坂本龍馬大事典より

迷いました。
国道沿いにない事だけは、写真をみて判断できました。
なので茶堂から伸びる、山道を歩くという想像はできました。
茶堂の説明に、「那須邸跡より500m付近にある」と書いてあったので、茶堂から那須邸跡までが500mという事にもなります。
山道をひたすら歩きました。
しかし歩けど歩けど、木・木・木・木・木………何もありません。
しかもスズメバチが1匹…。
怖かったです。

500mって遠いですね。
ようやく屋敷跡を発見しました。
木が生い茂り、草がボウボウ。屋敷跡に降りて行く道も無くなっていました。
草を掻き分け降りて行ったのが、上の写真です。

この草の生えた場所に屋敷があり、坂本龍馬や沢村惣之丞が泊まったのです。
という事は、坂本龍馬が確かにこの地に立ったという事です。
京都や高知市内の坂本龍馬の史跡には行った事がありました。
街中の史跡が多かったので、ちがった感じで楽しかったです。

草を掻き分けて山道に戻りました。
「えぇぇぇぇぇ!!!!! 何これ!?!?!?!?!?」
私のパンツの膝下にびっしりと、それこそ隙間無く、いわゆる引っ付き虫(私の住む場所では、服に付く草の事をこういいますが、全国的にはどうなのでしょう?)が付いていました。
手で取ることが困難なほどでした。
ガムテープがあれば一発でとれそうなのに…。
本当の虫でなくてよかったです。


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(2006/12)
一坂 太郎

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