維新の門 (補足)

2008年07月30日
あまり目にしない方々(あくまでも私の中で)の、略歴を紹介しておきます。
今のところ、下記に書いた人に関する、他の史跡を巡っていません。
地元や土佐勤王党関係では、大変有名な方なのかもしれませんね。

掛橋和泉
土佐の尊攘派。神官。
高岡郡梼原村の郷士那須常吉の次男に生まれ、のち神官掛橋因幡の養子となりました。
通称、順次。和泉と称しました。
郷士那須俊平について剣術と儒学を学びましたが、ペリーの来航後、尊皇攘夷を唱えるようになりました。
師の俊平、吉村虎太郎らと武市半平太の勤王党の運動に加わりました。
文久2年8月、藩主山内豊範の上京が実現し、吉村は単身で脱藩しました。掛橋も吉村にならって脱藩、上京の決意をしました。
しかし、活動資金を家から持ち出したり、他から借りていたことが家人に知られました。
養母にその使途を詰問されましたが、答えるわけにいかず、事情を友人に話して、養父の墓前で自殺しました。
幕末維新人名事典より


前田繁馬
高岡郡梼原村松原の庄屋。
土佐藩士下元善平について書を学び、のち前田恒五郎に浅山流の武技を学び、また公文藤蔵について長沼流の兵学を究めました。
安政6年、過失により庄屋の職を追われました。
文久3年2月、親戚の前田要蔵が藩務で京都守衛の為上京するので、奴僕となって京都に行き尊攘の士と交流を持ちました。
この年8月、天誅組が大和五条で挙兵、吉村虎太郎らと参戦しました。
各地を転戦中、9月7日に彦根藩兵が大和下市に駐屯するところを襲い、兵糧などを奪い任務を果たしました。
しかし戦いには敗れ、傷病者を助けて逃走し、初瀬で津藩兵と戦い倒れました。
墓は慈恩寺の共同墓地。享年26歳。
幕末維新人名事典より

沢村惣之丞
土佐国土佐郡潮江村の出身の土佐藩士。海援隊士。
間崎滄浪に学びました。
土佐勤王党にも参加し、吉村虎太郎に同調して脱藩しましたが、同志の説得ために引き返し、龍馬と再び脱藩しました。
龍馬と別れたあとは、公家に仕えていましたが、文久3年4月に再会した龍馬と大久保一翁と会談して啓発されました。
5月ごろには、勝海舟の門下となり、神戸海軍操練所で航海術を学びました。その後は亀山社中、海援隊の中心人物となりました。
英語に通じていたそうです。
龍馬の死後、京都油小路の天満屋を襲撃。慶応4年1月には、海援隊を率いて長崎奉行所を占領しますが、誤って薩摩藩士を殺害し、その責任を負って自刃しました。
享年26歳。墓は長崎市筑後町の本蓮寺。
坂本龍馬大事典より
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