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三縁寺(岩倉)-吉田稔麿 六名墓

2008年07月16日
三縁寺(京都市左京区岩倉花園町)の吉田稔麿・杉山松助・北添佶摩、望月亀弥太、石川潤次郎、廣岡浪秀の墓です。
吉田稔麿達の墓
吉田稔麿は吉田松陰門下の四天王と称せられていました。
文久3年に奇兵隊に入隊し、幕艦朝陽丸を拿捕する事件が起こった時、藩命を受けて江戸で老中板倉勝静を説いて解決しました。
帰国後、長州冤罪のため幕閣入説の命を受けて東上の途中、京都に留まって宮部鼎蔵らと朝議回復を図りました。
池田屋では新選組との闘いで重傷を負い、裏二階から中庭へ飛び降り、警固の兵を斬って長州屋敷へたどり着きました。門が閉まっていたため、塀の外で自害し、翌日発見されました。


北添佶摩は土佐国高岡郡岩目地村で、庄屋・与五郎の五男として生まれました。
間崎哲馬に学びました、父の死とともに庄屋職を継ぎ、大内村に移りました。
尊攘論に応じ、志士の同盟に加わり、文久3年同志能勢達太郎と脱藩しました。
元治元年、本山七郎と変名し京都へ上りました。
池田屋で死亡した時は、30歳でした。


杉山松助、萩藩足軽から士籍へ。吉田松陰門下です。
文久3年5月、久留米に赴き真木和泉の解禁に尽くし、真木らと尊攘運動を行いました。
桂小五郎が池田屋出かける時、同行を許されませんでした。
桂に「自分が出て行った後は門を閉めて、誰も出入りさせてはならぬ」と命じられました。
池田屋の変の報が入ると、桂の身を案じて槍を抱えて飛び出しました。加賀屋敷前で会津・桑名藩兵と遭遇し、斬り合いとなりました。
右腕を深く斬られ、駆け戻り「御門お差留」と叫んで昏倒し、翌朝死亡しました。27歳。
墓は京都東山、萩市浜崎町泉流寺です。
三縁寺にも名前がありますが、桂小五郎や長州藩京都留守居役乃美織江によれば、池田屋の会合に出席しなかったのは確かです。

望月亀弥太は土佐藩士で、望月団右衛門の次男です。
文久2年、藩主の供で江戸に上りました。翌年、勝海舟の海軍塾に入り、大阪湾の測量もしました。
元治元年、海軍操練所を脱して京都に入りました。宮部鼎蔵らと長州藩主父子の朝議回復を策しました。
池田屋の変では、2階から飛び降り逃れました。
警戒中の会津兵に見咎められて斬り合いとなりましたが、長州藩邸に辿り着きました。しかし門は固く閉じられており、逃れられないと観念し、河原町二条角倉屋敷前の路上で自害したといわれています。27歳でした。
墓は高知市吸江護国神社にもあります。


石川潤次郎は土佐藩士です。土佐国高知城下鉄砲町出身です。
文久元年、武市半平太の土佐勤王党の龍馬と同じく同盟し連署血判しました。
吉村虎太郎・望月亀弥太とも親交が深かったです。
元治元年藩命で京都に上り、山内家の親族、三条家の黒谷別邸守衛の任に当たりました。
池田屋の変では、
集合した同志を訪ねたところ新選組と出くわし。討死しました。
享年29歳。

廣岡浪秀は長門国美禰郡大嶺下領の八幡宮の神官の家に広岡若狭の長男として生まれました。
下田条約締結や四港開港などに憤り、尊攘の志に燃えました。
文久2年上洛し、河原町の長州藩邸に住みました。
八月一八日の政変で、長州が京都から追放されてからは、江戸や大坂、江州などで同志と連絡を取り合い、京に入ると、公卿家に出入りし、藩主毛利敬親の冤罪をはらそうと尽力しました。
池田屋の変で斬殺された時は、24歳でした。
新選組大事典より


墓域はすぐにわかりました。
鳥居(というのでしょうか?)が見えたので、そこに近づいていくとまさにそうでした。

六名が一つの墓碑で祀られているというのは、意外な感じがしました。
吉田稔麿は吉田松陰の門下生でも四天王と呼ばれるほどの人物だったら、個人の立派なお墓が建立されていると思っていました。

しかし全員がここに埋葬されたわけではないといいうことなら、合同墓碑でもおかしくないですね。

鳥居を潜って左側にあります。


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三縁寺の事
三縁寺はもともと、三条大橋東端縄手下ルにありました。
池田屋事件のあったのは、祇園祭の宵山の日、真夏のことです。
翌朝に、近隣の者は検視のすんだ即死者と、附近に倒れて死んでいた九人を四斗樽につめて三縁寺に運び込みました。
当時の住職であったと言われる吉水賢融上人は、記録によるとこの時は三円寺の住職ではなかったようだが、腐ってゆく志士の遺体を無視することは出来なかった。
誰かも識別出来ない状態であったのを
池田屋の女中・清水うの(小川ていという説もあり)に遺体の確認をさせた後、その遺骸を葬りました。
この時、一体ずつ葬られたのではありません。ですから、墓碑が合同でも当然のことと思われます。
ちなみに、昭和54年6月16日、三縁寺が岩倉に移転することに伴い、旧
墓は丁寧に発掘され、遺骨は岩倉の墓地に改葬されました。
この時、記録では9名であった埋葬者の遺骨は、15体文が発見されたともいわれています。

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