由良台場跡の大砲

2017年07月09日
由良台場跡の大砲(鳥取県北栄町由良宿1458-16) がありました。

由良台場の砲台3  由良台場の砲台1

安政5年の暮れに武宮丹治が御台場築立掛に任命されました。
しかし、御台場築造が本格化するのは文久3年になってからです。
文久3年6月に御台場築造に取りかかり、翌4年2月に完成しました。
この後、伯耆国では橋津・赤碕・淀江・境港に、また因幡国では浜坂・賀露・浦富に御台場が造られました。

文久3年8月がつには、完成した藩内の御台場に六尾反射炉で鋳造された大砲を配備することが決っていました。

敷地は東西125m、南北83mの短形の前面の2つの隅を切った六角形で、周囲約400m、面積約90a。
周囲に高く土塁をめぐらし、特に前面(北側)の三辺は土塁を高く厚くし、底面の幅35m、高さ4.5mで外面はやや急斜とし、内側は最上段とともに三段になっていて中段に大砲を備えつけるようにしています。
六尾の反射炉で鋳造された大砲が7門備えつけられました。
実践に使われることなく、大砲は全て廃棄改鋳されました。
北栄町HP参照


鳥取藩
外様
32万5千石

藩主池田慶徳は水戸の徳川斉昭の第五子。
文久2年に上京し、公武間の斡旋につとめた。
藩内には尊攘を唱える改革派と守旧派との激しい対立があった。
翌年8月、京都留守居の河田左久馬を隊長とする尊攘派が、藩主の側用人黒部権之助らを血祭りに挙げた。
藩内抗争は鳥羽・伏見の前まで続けられたが、河田らは長州へ走り、河田自身は東山道征討総督の参謀として活躍しています。
しかし、鳥取藩は禁門の変で長州藩と敵対し、第一次征長には大西儀左衛門のひきいる600人を浜田へ派遣、第二次征長にも出雲今市へ出動する。
このため、藩主慶徳はのちの新政府で要職に就けなかったいわれる。
鳥羽・伏見の戦いに際しては、家老荒尾成章の決断によって政府軍につき、藩内勤王派が力を盛り返した。
東海道鎮撫使は、先鋒の前隊として岡山、佐土原、大村、水口、膳所諸藩の767人を擁し、熊本藩283人を本体とした。
その後隊をつとめたのが鳥取藩兵410人である。
その後、江戸、奥羽、北越へ転戦した。
一方、接収後の桑名城の監守をつって、とめている。
戊辰戦争での活躍によって、鳥取藩兵は賞典を受けている。
幕末維新事典より



道の駅大栄からお台場公園に向かって歩いていると、何やら大砲のようなものが見えてきました。
公園の中に大砲が一門おかれているので、何だろうといってみました。
公園の場所は確かに海からすぐそこなのですが、今は北条バイパスや防風林があり、大砲の場所から海が見えなかったので、大砲の存在が凄く不思議な感じがしました。

幕末当時はバイパスはなかったでしょうし、防風林もなかったかもしれませんよね。
海防の為に木は植えてなかったのでは?

大砲がある…と思いながら、もう少し先に台場跡があるようなのでそちらに行ってみることにしました。


大砲は何か所かで見ましたが、印象に残っているのは山口県下関市みもすそ川公園の大砲です。
関門海峡に向けて、5門の大砲が並んでいたので印象的でした。
やはり周りの景色により当時を想像しやすくなるものです。





[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

元九郎奔る 幕末鳥取藩士の手記
価格:1620円(税込、送料別) (2017/7/9時点)






関連記事
Comment

管理者のみに表示