遠景

2016年09月19日
福井県坂井市三国町のホテルからの遠景です。

ホテルより望む1  ホテルより望む2

みくに龍翔館の屋根や九頭竜川、日本海が見えます。

九頭竜川
日本の福井県嶺北地方を流れる一級河川。
九頭竜川水系の本流。
流域面積2,930km²は福井県の面積の約70%にあたり、県のシンボルの一つとされている。

九頭竜川は急峻な地形の上に上流の奥越地域は多雨地帯である事、又中流部の鳴鹿地区から扇状地となり、放射状に流路が変遷していたことから、有史以来氾濫を繰り返し「崩れ川」と呼ばれるほどでした。
その一方、有数の穀倉地帯でもあり、古代より治水・利水のための開発が繰り返し行われて来ました。


越前支配の要・十郷用水(幕末まで)

古代には福井平野は大きな湖であり、洪水のたびに水害が起きていました。
5世紀~6世紀に掛けて越前を支配していた男大迹王(継体天皇)は九頭竜川河口を広くして湖の水を海に出やすくしたといわれています。
継体天皇が九頭竜川治水の先駆者であると現在でも伝えられています。
奈良時代に入ると東大寺領の墾田が数多く開墾され、利水の為の用水路整備が始まりました。
766年の溝江における用水が九頭竜川の利水の端緒といわれている。

平安時代末期の保元年間(1156年 - 1159年)、越前国惣追捕使・藤原国貞は九頭竜川流域の灌漑を図るため鳴鹿地区より用水路を掘削・取水しました。
これが十郷用水です。
鎌倉時代以降は十郷用水を中心とした利水開発が主体となりました。
1515年、越前守護・朝倉孝景は十郷用水の支配に乗り出し運用に関する詳細な規定を定めた。
その後朝倉氏を滅ぼした織田信長は北陸総司令官として柴田勝家を越前に封じたが、勝家は「十郷用水条々」を1578年に制定。
更なる運用規定を定めた。
一方治水に関して手付かずに近い状況であった。

福井藩による治水・利水事業

関ヶ原の戦いの戦功により越前北ノ庄68万石の太守となった結城秀康(徳川家康次男)は、重臣を要衝に配置し加賀前田氏の押さえとなりました。
秀康は北ノ庄を福井と改め、福井藩の藩祖となるが藩政確立の為の領内整備を行いました。
特に治水・利水においては家老・本多富正の功績が大きい。
富正は家康の重臣・本多重次(作左衛門)の養子で秀康付きの家老となった人物です。

彼は福井城外堀への引水と城下の上水道・灌漑を目的に九頭竜川から日野川まで芝原用水を開削、日野川筋にも関ヶ鼻用水を開削して新田開発を促進しました。
また、九頭竜川本川に「元覚堤」、日野川に「昼夜堤」を建設して中世には放置同然であった治水にも力を注いだ。
この他家老の一人今村盛次は十郷用水の公正な配水慣例を制定し、以後この慣例にしたがって十郷用水の水利権は履行されました。

これ以降も洪水を起こす九頭竜川の治水は藩政として続き、寛政8年には木部輪中が造成されました。
幕末、松平慶永(春嶽)は混乱期の中においても九頭竜川の治水計画を策定し、明治2年より大規模な引堤に着手したが明治4年の廃藩置県によって計画は頓挫しました。
Wikipediaより



九頭竜川…名前は耳にします。
地理で勉強したはずですが、どこを流れている川かよくわかっていませんでした。
福井県だったのですね。
龍が九頭いて、暴れ川ってイメージがわきます。
本当に暴れ川だったようです。

なんていうのでしょうが、いろいろな想像をさせてくれる名前で少し神秘的です。
もしかしたら龍の伝説なんかがあったりして…。

そしてみくに龍翔館の屋根は本当に目立ちます。
異国情緒あふれる屋根。
幕末の開国派松平春嶽の印象あって町にあっている気もします。












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