丸岡藩砲台跡

2016年08月15日
丸岡藩砲台跡(福井県坂井市三国町)です。

丸岡藩砲台跡8  丸岡藩砲台跡9

丸岡藩砲台跡2  丸岡藩砲台跡1  丸岡藩砲台跡3

丸岡藩砲台跡4  丸岡藩砲台跡7

幕末の嘉永5年、丸岡藩の砲術家栗原源左衛門(高島秋帆の門人だといわれている)によって作られた砲台の跡。
ペリー率いるアメリカ艦隊が浦賀に来航する前年のこと。

高さ1.8m、長さ33mの石垣でつくられた胸墻(きょうしょう:敵の射撃をよけ、味方の射撃の便のために土を胸の高さほどに積み上げたもの)に5つの砲眼を設けています。
外面は土砂で築き、内面と側面は石を積み上げて作られているます。

丸岡藩では後に藩主・有馬道純自らが西洋流砲術家の江川太郎左衛門に入門しています。
また藩士も大野藩の学問所「洋学館」に砲術修業のため入学しています。
Wikipedia&福井県の文化財HPより


丸岡藩砲台跡6
丸岡藩砲台跡より海を望む

丸岡藩
越前国(現在の福井県)坂井郡などを支配した藩。居城は丸岡城(現在の福井県坂井市丸岡町霞)。

丸岡は戦国時代、織田信長配下の勇将・柴田勝家の養子・柴田勝豊が治めていました。
勝豊が賤ヶ岳の戦い後に病死すると、青山宗勝・青山忠元父子が入りました。
青山氏は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に与したため、戦後に改易されました。
代わって越前福井藩に入った結城秀康の重臣・今村盛次が2万5000石で入りましたが、慶長16年の福井藩重臣による内紛に巻き込まれて流罪とさます。
その後の慶長18年5月、徳川家康のもとで仕えて「鬼作左」の異名をとったことで有名な本多重次の子・本多成重が4万石を与えられて入り、秀康の後を継いだ松平忠直を本多富正と共に補佐しました。
大坂の陣でも活躍し、武功を挙げています。
寛永元年(1624年)、忠直が豊後国に流罪とされると、成重は4万6300石に加増され、福井藩から独立した大名として取り立てられました。
成重とその子・本多重能、そして孫の本多重昭の3代は検地・城下町の整備・新江用水の新設など、藩政の確立に尽力しましたが、重昭の子・本多重益は酒色に溺れては無能の上、家臣の本多織部と太田又八の間で内紛が起こり、遂に元禄8年に幕命により改易されてしまいました。

代わって戦国時代のキリシタン大名で有名な有馬晴信の曾孫・有馬清純が越後糸魚川藩から5万石で入部します。
第2代藩主・有馬一準の時代である正徳元年(1711年)に外様大名から譜代大名へ格上げされます。
第5代藩主・有馬誉純は若年寄、第8代藩主・有馬道純は老中という幕府の要職に就任しました。
特に誉純の代は安永元年から約50年間という長期にわたって藩主を務め、藩政改革を行なって藩政を安定させた上、藩校である平章館の設立や藩史・地誌の編纂に力を注ぐなど、文化面でも大いに貢献しました。
明治2年6月、道純は版籍奉還により丸岡藩知事となり、明治4年9月の廃藩置県により、道純は東京に移住して丸岡藩は廃藩となりました。
Wikipediaより



今回は砲台跡です。
でもゴメンナサイ、ここを目的に福井県に行ったのではありません。
夏の旅行で行ったのが福井県。
子供はいとこたち家族と海水浴に行ったので、私はその間、「近くに史跡はないかな~」と探し、見つけたのが丸岡藩砲台跡でした。
砲台跡というぐらいですから、おそらく幕末頃の史跡のはず!
で、「丸岡藩って?」という疑問が…。
福井の皆さんすみません、丸岡藩って聞いた事がありませんでした。

今、寄り道中の戦国時代織田信長の家臣 柴田勝家関係者の藩だったんですね!!
もうビックリ\(◎o◎)/!
砲台は幕末ですから、藩主は有馬さん。
新選組をみていては丸岡藩は出てこないか…。

駐車場から歩道を歩いていくと、開けた場所に出ました。
よく見ると、こんもりとした物が並んでいます。
一瞬、わかりませんでした。
「あっ、これが砲台跡か」と気づきました。
夏場は案の定、草が生い茂っています。

意外と高さがない?
こんなもん?
どれくらいこの砲台を使ったのでしょうか。

ここから見た日本海はとてもきれいでした。
砲台がいるような事があったとは思えないほど、きれいで静かな海でした。








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