久々知須佐男神社 - 矢文石

2016年07月13日
久々知須佐男神社(兵庫県尼崎市久々知2丁目3-28)には多田満仲に由来する矢文石があります。

久々知須佐男神社1

久々知須佐男神社4  久々知須佐男神社3

拝殿前の大石は、「矢文石」と呼ばれます。
『小田村勢』では多田(源)満仲がふんばって多田城へ矢文を射たあとを残した石とされます。
しかし、神社に伝わる伝承では、満仲が矢を射て、九頭の大蛇を退治したあとだと伝わります。

社伝によると、満仲が摂津の国守として赴任したとき、住吉神の神託によりこの石の上から矢を放ちました。
矢ははるかに飛びあがり、池田の方角へ光を放ちながら落ちていきました。
満仲が矢の行方をたずね歩いたところ、頭が九つもある大蛇に突き刺さっていました。
大蛇から流れた血水のあとが多くの田のようにみえたことから、そこを「多田」と名付け、移住しました。
また、矢を問いながら来たところから「矢頭(やとう)」という地名をつけました。
尼崎百物語より


多田(源)満仲
平安時代中期の武将。
清和源氏、六孫王経基の嫡男。
多田源氏の祖で、多田満仲とも呼ばれる。
諱は満中とも記される。
神号は多田大権現。

当初は都で活動する武官貴族であった。
天徳4年(960年)平将門の子が入京したとの噂があり、検非違使や大蔵春実らと共にこの捜索を命じられた武士の一人として現れたのが史料上の初見。
武蔵権守の任期を終えていた応和元年(961年)に満仲の邸宅が強盗に襲撃される事件が起こり、自ら強盗の一味であった倉橋弘重を捕らえました。
弘重の供述によれば醍醐天皇の皇孫親繁王と清和天皇の皇孫源蕃基がそれぞれ主犯と共犯であったという。

左馬助在任時の康保2年(965年)に、多公高・播磨貞理らと共に村上天皇の鷹飼に任ぜられる。
同4年(967年)に村上天皇が崩御すると、藤原千晴と共に伊勢に派遣される固関使に命ぜられるが、離京することを嫌った双方が辞退を申し出たが、満仲のみ病による辞退を許されました。

安和2年(969年)の安和の変では、源連らによる皇太子・守平親王(のち円融天皇)廃太子の謀反があると密告して事件の端緒をつくった。
この事件で左大臣・源高明が失脚したが、満仲は高明の一派であり、これを裏切り密告したとの噂があります。
また、この事件で満仲の三弟・満季が対立する有力武士・藤原千晴の一族を追捕しています。
満仲は密告の恩賞により正五位下に昇進しまた。

藤原摂関家に仕えて、武蔵国・摂津国・越後国・越前国・伊予国・陸奥国などの受領を歴任し、左馬権頭・治部大輔を経て鎮守府将軍に至る。
こうした官職に就くことによって莫大な富を得た満仲は他の武士からの嫉妬を受けたらしく、天延元年(973年)には武装した集団に左京一条にあった自邸を襲撃、放火されるという事件が起きています。
この事件による火災は周辺の建物300軒から500軒にまで延焼したという。
また、この事件でも同日中に三弟満季が嫌疑人を捕らえているが、実行犯については明らかでありません。

二度国司を務めた摂津国に土着。
摂津国住吉郡(現在の大阪市住吉区)の住吉大社に参籠した時の神託により、多田盆地(後の多田荘。現在の兵庫県川西市多田)に入部、所領として開拓するとともに、多くの郎党を養い武士団を形成しました。

また寛和元年(986年)に起きた花山天皇退位事件に際し、花山天皇を宮中から連れ出した藤原道兼を警護した「なにがしといふいみじき源氏の武者たち」とは、満仲の一族であったと考えられています。
この政変後、満仲と主従関係にあったとみられる藤原兼家は一条天皇の摂政に就任した。

翌永延元年(987年)多田の邸宅において郎党16人及び女房30余人と共に出家して満慶と称し、多田新発意(しんぼち)とよばれた。
この出家について、藤原実資は日記『小右記』に「殺生放逸の者が菩薩心を起こして出家した」と記しています。
また『今昔物語集』には満仲の末子で延暦寺の僧となっていた源賢が父の殺生を悲しみ、天台座主院源と仏法を満仲に説き出家させたという説話があります。
なお同書ではこのときの年齢を六十余歳と伝えており、これによれば生年は延喜19年(919年)から延長6年(928年)の間になります。

長徳3年(997年)8月27日に卒去。
遺骸は多田院(現在の多田神社)に葬られた。
Wikipediaより


近松門左衛門の墓のある広済寺の横にある神社です。
近松公園からも行くことができます。

大きな石がありますが、ここから矢を放っても川西市までは…。
多田神社まで15kmも矢は飛ばないですよね。
と、言ってしまったら歴史の面白味は台無しになります。
1,000年以上前の歴史なのですから、一般人はそういう伝承を楽しむのもありですよね。
研究されている先生方はそれだけではいてけないでしょうが。

1,000年以上前って考えると、すっご~い前ですよね。
それを考えると、幕末なんてほんの少し前?
最近少し読んでいる戦国時代でも500年経つか経たないか。
近くに感じてしまいます。

1,000年前のこの辺りはいったいどういう風景だったのか、想像もつきません。
みんな一生懸命生きていたことはわかるのですが…。










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