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七松八幡神社 - 荒木一族処刑の地

2016年06月16日
有岡城から始まった、荒木村重関係の史跡の一つ、七松八幡神社(兵庫県尼崎市七松町3丁目10-7)です。

七松八幡神社3  七松八幡神社4

七松八幡神社7

七松八幡神社2  七松八幡神社6

七松八幡神社8


荒木村重
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。利休十哲の1人である。幼名を十二郎、後に弥介(または弥助)。

天文4年、摂津池田城主である摂津池田家の家臣・荒木信濃守義村(よしむら)の嫡男として池田(現:大阪府池田市)に生まれました。

最初は池田勝正の家臣として仕え、池田長正の娘を娶り一族衆となりました。
しかし、三好三人衆の調略に乗り池田知正と共に三好家に寝返り、知正に勝正を追放させると混乱に乗じ池田家を掌握しました。

その後、元亀2年8月28日の白井河原の戦いで勝利し、池田氏が仕えていた織田信長からその性格を気に入られて三好家から織田家に移ることを許され、天正元年には茨木城主となり、同年、信長が足利義昭を攻めた時にも信長を迎え入れ、若江城の戦いで功を挙げました。
一方義昭方に属していた池田知正はやがて信長に降って村重の家臣となり、村重が完全に主君の池田家を乗っ取る形となった(下克上)。
天正2年11月5日に摂津国人である伊丹氏の支配する伊丹城を落とし、伊丹城主となり、摂津一国を任されました。
以後も信長に従い、越前一向一揆討伐・石山合戦(高屋城の戦い、天王寺の戦い)や紀州征伐など各地を転戦し、武功を挙げました。
この間、従五位下摂津守に任ぜられます。

天正6年10月、三木合戦で羽柴秀吉軍に加わっていた村重は有岡城(伊丹城)にて突如、信長に対して反旗を翻しました。
一度は糾問の使者(明智光秀、松井友閑、万見重元)に説得され翻意し、釈明のため安土城に向かったが、途中で寄った茨木城で家臣の中川清秀から「信長は部下に一度疑いを持てばいつか必ず滅ぼそうとする」との進言を受け伊丹に戻りました。
秀吉は村重と旧知の仲でもある小寺孝隆(官兵衛、のちの黒田孝高)を使者として有岡城に派遣し翻意を促したが、村重は孝高を拘束し土牢に監禁。

以後、村重は有岡城に篭城し、織田軍に対して1年の間徹底抗戦したが、側近の中川清秀と高山右近が信長方に寝返ったために戦況は圧倒的に不利となりました。
その後も万見重元らの軍を打ち破るなど、一旦は織田軍を退けることに成功するが、兵糧も尽き始め、期待の毛利氏の援軍も現れず窮地に陥ることとなる。
それでも村重は「兵を出して合戦をして、その間に退却しよう。これがうまくいかなければ尼崎城と花隈城とを明け渡して助命を請おう」と言っていたが、天正7年9月2日、単身で有岡城を脱出し、嫡男・村次の居城である尼崎城(大物城)へ移ってしまいました。

11月19日、信長は「尼崎城と花隈城を明け渡せば、おのおのの妻子を助ける」という約束を、村重に代わって有岡城の城守をしていた荒木久左衛門(池田知正)ら荒木の家臣たちと取り交わした。
久左衛門らは織田方への人質として妻子を有岡城に残し、尼崎城の村重を説得に行ったが、村重は受け入れず、窮した久左衛門らは妻子を見捨てて出奔してしまいます。
信長は村重や久左衛門らへの見せしめの為、人質の処刑を命じた。

12月13日、有岡城の女房衆122人が尼崎近くの七松において鉄砲や長刀で殺された。
12月16日には京都に護送された村重一族と重臣の家族の36人が、大八車に縛り付けられ京都市中を引き回された後、六条河原で斬首された。

その後も信長は、避難していた荒木一族を発見次第皆殺しにしていくなど、徹底的に村重を追及していきました。
天正9年8月17日には、高野山金剛峯寺が村重の家臣をかくまい、探索にきた信長の家臣を殺害したため、全国にいた高野山の僧数百人を捕らえ、殺害しています。

しかし肝心の村重本人は息子・村次とともに荒木元清のいる花隈城に移り(花隈城の戦い)、最後は毛利氏に亡命し、尾道に隠遁したとされます、

天正10年6月、信長が本能寺の変で横死すると堺に戻りそこに居住しました。
豊臣秀吉が覇権を握ってからは、大坂で茶人として復帰し、千利休らと親交をもった。
しかし有岡城の戦いでキリシタンに恨みを持っていた村重は、小西行長や高山右近を讒訴して失敗し、秀吉の勘気を受けて長く引見を許されませんでした。
さらに、秀吉が出陣中、村重が秀吉の悪口を言っていたことが北政所に露見したため、処刑を恐れて出家し、荒木道薫(どうくん)となった(はじめは過去の過ちを恥じて「道糞」(どうふん)と名乗っていたが、秀吉は村重の過去の過ちを許し、「道薫」に改めさせたと言われています)。

銘器「荒木高麗」を所有していた(現在は徳川美術館所蔵)。

天正14年5月4日、堺で死去。享年52。

村重の織田信長に対する謀反の理由は、諸説があって今でも定かではありません。
ただ、信長は村重を重用していたため、その反逆に驚愕し、翻意を促したと言われています(信長公記、フロイス日本史など)。
Wikipediaより


天正6年11月9日、再三の説得にも応じなかった村重に対して、信長は自ら追討軍を率いて出陣しました。
高山重友、中川清秀といった武将を次々と降伏、帰順させていきました。
さらに12月4日には塚口に陣し、8日には自ら有岡城を攻めました。
村重は翌7年まで有岡城に籠りました。
しかし、同月には妻子と一族の荒木久左衛門を城中にとどめ、尼崎に移りました。
信長側は、織田信忠の軍が出陣、七松に砦を二ヵ所築き、村重と対陣しました。
村重は華熊城とともにこれに抗し、その後村重自身も華熊城に入り、雑賀衆とともに戦いましたが、毛利方に逃亡しました。

村重が反旗を翻したころyり信長は再三村重に降伏を進めていました。
有岡城を落としたのち、村重の家臣、妻子を人質にとり、尼崎・華熊の引き渡しを迫りました。

有岡城で信長軍に捕らえられた村重の一族は、
七松に連行され、処刑されました。
天正7年12月13日の事でした。
処刑の場所が七松だったのは、尼崎城包囲のおり、信長勢が布陣していたからでしょう。
下級武士の妻子388人が殺され、若党124人は、4戸の農家に押し込まれ、火をかけて焼き殺されました。
(磔ののち、鉄砲で撃たれる者、鑓や長刀で刺し殺される者と処刑の方法は様々)
村重の妻子は、京都に送られ12月16日、六条河原で斬首されました。
尼崎百物語より


JR西日本 神戸線立花駅からすぐです。
南側に降りて、線路沿いに東に向かいます。
踏切のある交差点まで来ると南に曲がります。
真っ直ぐ歩いていると七松八幡神社に到着です。
550mで約7分です。

この七松で荒木村重関係者が処刑されたんですね。
荒木村重の親族は京都まで連れていかれ処刑されたようですが、その他の下級武士の関係者は有岡城の近くでだったのですね。
この尼崎でそんな陰惨な事があったのはしりませんでした。

考えてみると、長い歴史の中で何もない土地なんてないのかもしれません。
でも、女・子供まで…考えると怖いです。
藩主の妻子なら…まだあり得るかなと思うこともできるのですが、下級の武士の妻子まで…。
藩主にあったこともないような人達までもが、連帯責任ですか?
戦国時代までの話でしょうか?
幕末ではあまり聞いたことがないですよね。

そして改めて、尼崎に織田信長が来ていたと知りました。
それはちょっとワクワク(過去の有名人が来ていたという事であり、残虐性は遠慮したいですね)です。

ここは有岡城と尼崎城の中間地点。
荒木村重本人は尼崎城まで逃げているので、最後は尼崎城を訪れないといけませんね。
でも、尼崎城はどこを尼崎城として訪れるといいのか難しいです。
ちょっと考えます。


ちなみに、この七松八幡神社は、「忍たま乱太郎」に出てくる七松小平太の絵馬があり、乱太郎ファンにも人気があるそうです。









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