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川口居留地跡

2016年05月27日
川口居留地跡は大阪市立本田小学校(大阪府大阪市西区川口1丁目5番19号)の横にあります。

川口居留地3  川口居留地2

旧川口居留地は、1868年大阪開港と同時に、大阪市西区川口付近に設けられた外国人居留地があったエリア。

江戸時代末期の安政五カ国条約(1858年)によって大坂は、函館・新潟・東京・横浜・神戸・長崎と共に開港または開市(外国人に商取引を認めること)されることが決定されていました。
時の政府はその時期を引き伸ばし続けてきたがついに1868年、東京・神戸・新潟とともに大阪が開市・開港されました。
開市は慶応3年12月、開港は慶応4年7月のことでした。
開港と同時に外国人居留地と定められた川口町26区画の諸外国への競売が行われ完売し、直ちに街路樹や街灯、洋館が並ぶ西洋の街へと整備されました。
居留地に接する本田、富島、古川、梅本町も外国人雑居地となりました、

川口が貿易港として継続的発展をなしえなかったのは、安治川河口から約6km上流に位置する河川港であるため水深が浅く、大型船舶が入港出来なかったことによる。
そのため、外国人貿易商は良港を有する神戸外国人居留地へと移住していきました。
彼らに代わってキリスト教各派の宣教師が定住して教会堂を建てて布教を行い、その一環として病院、学校を設立し経営を行いました。
平安女学院、プール学院、大阪女学院、桃山学院、立教学院、大阪信愛女学院といったミッションスクールや聖バルナバ病院等はこの地で創設されました。
それら施設も高度な社会基盤が整備されるに従い、大阪の上町エリア(天王寺区・阿倍野区など)へ次々と移転して川口は衰退への道をたどることになりました。
対照的に大型外国船が集まるようになった神戸港は、1890年代には東洋最大の港へと拡大していきます。

日本聖公会大阪主教座聖堂川口基督教会は1995年の阪神淡路大震災により塔などが崩壊し、その後に多くの寄付を受けて復旧されました。
Wikipediaより


用事で近くに行ったときに、偶然見つけました。
何やら碑があるぞっ!と、近づいてみると川口居留地跡の文字があり、説明の出だしが慶応4年です。
慶応4年はギリギリ幕末?!

学校の横に碑はありましたが、周りは倉庫や会社が多く、学校があるのが不思議なくらいに思いました。
しかし多くの有名学校がここから始まっているのですね。
当時は多くの外国人の方もいて、賑やかだったのが想像できます。

居留地としては大型船が入ってこれず衰退したようですが、江戸期は各藩の蔵屋敷が多くあった場所ですから、国内程度の船なら十分だったということなんでしょう。











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