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有岡城 壱

2016年05月17日
幕末から少し離れます。
なかなか幕末の史跡に行けないので、行ける史跡が戦国でした。

最初は有岡城跡(本丸:兵庫県伊丹市伊丹2丁目)に行きました。
有岡城は伊丹城ともいうようですが、有岡城跡の碑があります。

有岡城2  有岡城3

南北朝時代、摂津国人の伊丹氏によって建築され、文明4年には改築され、それまでの伊丹城が日本最古の天守台を持つ平城となりました。
しかし、天正2年11月5日、荒木村重によって攻め落とされ、のちに伊丹氏の伊丹城を大改修し、有岡城に改称しました。

荒木村重は後に謀反を起こし、有岡城は織田信長に攻められて落城した。

大坂城や江戸城などにもあった惣構えの最古(2005年現在)の遺構が発掘された。
城の東側を流れる伊丹川との間は崖になっており、さらにその東側には駄六川と猪名川が流れており、これらの河川が天然の要害となっていました。

南北朝時代:伊丹氏により築城。伊丹城と称する。
天正2年:荒木村重が城を落として大改修。ついで、有岡城と改称。
天正7年:村重謀反により織田軍に攻められ落城。
天正8年:池田之助が城主になる。
天正11年:之助が美濃に転封されることにより、廃城。
明治26年:鉄道敷設の為、当城東側破壊。
wikipekiaより



有岡城跡は,猪名川の西岸伊丹段丘東縁部の一角に位置します。
城だけでなく,侍町と町屋地区をも堀と土塁で囲んだ惣構の城です。

有岡城は城である「主郭部」と家臣団の住む「侍町」、そして一般町人の住む「町屋地区」に分かれています。
主郭部は伊丹段丘が東に突出した位置に築かれ、西側と南側に人工の堀を設けていました。
そして、侍町と町屋地区を含む東西0.8km、北1.7kmの範囲を堀と土塁で囲んだ「惣構」の城としました。
また、北・西・南の要所にはそれぞれ「岸の砦」「上ろう塚砦」「鵯塚砦」の3つの砦を築いていました。

天正6年秋、村重は織田信長に反旗をひるがえし、有岡城は包囲攻撃をうけました。
10ヵ月の篭城の末,村重は嫡子村次(むらつぐ)のいる尼崎城に逃れ、まもなく主を失った城は侍町を焼き払われて陥落しました。

天正8年、信長の家臣池田信輝(恒興)の嫡子之助(ゆきすけ)が入城しますが、天正11年には美濃へ移り、伊丹は秀吉の直轄領となりました。
その後大名は置かれず、いつしか城は放置され、江戸時代には地元の人々から「古城山」と呼ばれるまでになりました。
明治に入ると、川辺馬車鉄道や阪鶴鉄道(いずれも現在のJR宝塚線の前身)の建設工事により主郭部の東半分が失われました。

国鉄伊丹駅前の整備事業にともない昭和50年から主郭部の発掘調査が始まり、北部の金光教跡からは本丸跡の石垣や建物跡、駅西側の荒村寺跡からは庭園遺構が見つかりました。
遺跡のうち主郭部の一部(伊丹1丁目地内)と「きしの砦」が置かれていた猪名野神社境内,そして惣構の輪郭線である水路と道路敷きの一部が国の史跡に指定されました。

土塁の石垣や建物・井戸・堀跡などが復元されました。
有岡城跡・伊丹郷町遺跡からの出土品の一部は市立博物館の常設展示や市立伊丹郷町館で見ることができます。

岸の砦跡
伊丹市宮ノ前3丁目ほか(猪名野神社境内)

伊丹市HP参照しました。


JR福知山線 伊丹駅西側すぐです。
厳密には伊丹駅も城内になるのではないでしょうか?

数年前のNHK大河ドラマの“黒田官兵衛”の時に、有岡城に監禁されていたのを見て行かなければ!と思っていました。
その後、何度も伊丹駅に行く用事はあったのですが、「あっ、カメラを持って来ればよかった」状態でした。
そして最近、“信長協奏曲”で、少し気になる池田恒興がこの城と関係があると知り、これはもう行かなければと行ってきました。

歴史好きそうなおじさま2人がいるぐらいで、城跡にはひと気はありませんでした。

有岡城跡の階段を上りましょう!

















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