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岡山 後楽園へ

2014年12月13日
後楽園(岡山県岡山市北区後楽園1-5)へ向かいました。

後楽園5

日本三名園のひとつです。


江戸時代初期に岡山藩主・池田綱政によって造営された、元禄文化を代表する庭園で、国の特別名勝に指定されています。

後楽園は岡山藩主・池田綱政が岡山郡代官・津田永忠に命じて造らせたもので、貞享4年に着工し14年の歳月をかけ元禄13年に完成しました。
岡山市内を流れる旭川をはさみ、岡山城の対岸の中州に位置します。
藩主が賓客をもてなした建物・延養亭を中心とした池泉回遊式の庭園で岡山城や周辺の山を借景としています。
江戸時代には延養亭を茶屋屋敷、庭園を後園または御後園と呼んでいました。
明治4年、園内を一般開放するにあたって、これを後楽園と改めました。

総面積は133,000㎡であり、東京ドームの約3倍である。
同園は現在、岡山県が所有管理


現在、後楽園から旭川を隔てて南にある岡山城は慶長2年、豊臣家五大老の一人で、時の岡山藩主であった宇喜多秀家が旭川の流域にあった「岡山」という小高い山を利用して築城したものです。
この時、旭川を城および城下町の防御を固めるための堀の代わりとして用いるために、旭川の流路を岡山城の手前で大きく東方へ曲げて城の北東面に沿わせ、さらに南流するように変えたのです。
これにより、城と城下町の防御は強固なものとなりましたが、あまりに不自然な流路となったため、以後、岡山城下はたびたび洪水に悩まされることになりました。

藩主の座は宇喜多氏の後、小早川氏から池田氏へと移り変わり、4代目の池田綱政の治世となる。
池田綱政は父・光政に見出されていた津田永忠を登用し、度重なる洪水の被害に疲弊していた岡山藩の財政再建のために新田開発はもとより、放水路・百間川の開削などの抜本的な洪水対策を行い、藩の財政を再建させました。
貞享3年ごろに百間川が完成し、藩の財政にも余裕が生じてきたため、綱政は永忠に命じて城北側の旭川沿い低湿地および宇喜多秀家によって集められた小姓たちが居住していた「小姓町」に自らの休息のための庭園を造るよう命じました。

池田家史料によると、貞享4年12月に着工し(鍬始め)、翌 元禄元年には本格的な土木工事にとりかかり、次々と園内の建造物や植栽が完成していきます。
藩主・綱政は岡山在城中に足しげく庭園に通い、工事開始4年後の元禄4年には、完成したばかりの延養亭で綱政が永忠ら工事に携わっている家臣の労をねぎらって園内で宴を催していることからも、この時点で綱政が満足できる出来栄えになっていたとみられます。
途中、洪水の被害を受けて施設の建て替え等を余儀なくされたが、その後も庭園の拡張や新たな施設の建築が行われ、元禄13年に一応の完成をみます。

なお、庭園は工事が始まった当初は「御菜園」、「御菜園塚」などと呼ばれていたが、元禄8年頃には城の背後にあることから「御後園」または「後園」と呼ばれるようになりました。

幕末まで
御後園の管理には専門の奉行職が設けられて徹底した管理が行われ、園内は時の藩主の好みによってところどころ変えられていきました。
また、当初の園内は綱政が田園風景を好んでいたため、田んぼや畑が多く配置されていたが、明和8年に藩が財政難に見舞われ、藩主・池田治政が経費節減のために芝生を植えさせ、次第に現在のような景観に変化していきます。

御後園には藩主が岡山在城中に休息のために度々訪れていたが、幕府が大名の生活を厳しく監視していたため、他藩の藩主や客人等が岡山に来訪した時には御後園は用いられず、すべて岡山城内で接待していました。
御後園で岡山藩主が客人らをもてなすようになったのは、幕府の力が衰えた幕末になってからで、天保元年と天保9年に9代藩主・池田斉敏が実の父親で薩摩藩主であった島津斉興をもてなした記録があります。
また、日を定めて藩内の人々を対象に園内の公開が行われていました。

明治以降
明治2年の版籍奉還によって御後園は岡山城とともに一時的に明治新政府の手に渡りました。
翌明治3年11月に御後園は再び岡山藩の所有となり、明治4年)2月7日に藩知事に就任していた池田章政が日を限って一般に開放しました。
この時、「御後園」の名称を中国・宋の范仲淹が著した『岳陽楼記』にある「先憂後楽」(「先天下之憂而憂、後天下之楽而楽」)からとって「後楽園」と改めたました。

しかし、それまで池田家の居住していた岡山城が兵部省管轄下になり、居住場所を失ったため、同年7月14日には嶺泉院(9代藩主・池田斉敏夫人)、10代藩主・池田慶政夫妻らが後楽園に移住することとなりました。

その後、明治15年に多額の負債を抱え財政的に苦しかった池田家は当主の章政が岡山県に後楽園を土地は無償で、建造物と樹石は有償で譲渡することを打診。
明治16年12月22日から27日にかけて開催された県会では反対派の議員から後楽園に県有とするだけの価値があるかどうか疑問の声が上がり、後楽園買収の議案はいったん否決されたものの、後楽園の文化的価値や観光地としての価値を再検討した結果、1万2500円で買い取ることを決定しました。

後楽園はこの後、岡山県庁の付属地として扱われ、明治17年に一般に広く公開されるようになり、「日本三名園」の一つとして挙げられ多くの人々で賑わっていた。

こうして明治以降も江戸期の姿をそのままにとどめていた後楽園であったが、太平洋戦争中の1940年代前半には食糧事情の悪化に伴い、園内の芝生部分がイモなどの畑に転換され、さらには昭和20年6月29日の岡山空襲により、延養亭など江戸期から残されていた園内の建造物の多くが焼失しました。

終戦後の昭和22年頃には進駐軍の宿舎として使用され、園内には花葉の池の北に25mプールが造られていました。
進駐軍の撤退後は再び岡山県の所有となり、およそ2億円の費用を投じて園内を本来の景観に復元。
昭和29年6月1日からは有料として一般に公開されるようになりました。
昭和42年に園内の全ての建造物の復元が完了し、後楽園は往時の姿を取り戻しました。
Wikipediaより



日本三名園のひとつです。
どんなところだろうと、ワクワクしながら進みますが、後ろに見える岡山城の方が気になってたりして…。
振り返り振り返り、何度振り返ったかわかりません。

そして橋を渡り、入口に向かいました。
が、ここは正門ではないんですね。
でもチケット売り場があるので大丈夫。

お昼頃だったので、中で何か美味しい物(岡山名物)がないかな~と楽しみにして向かいました。







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