久米通賢翁顕彰碑

2014年09月09日
久米通賢翁顕彰碑(香川県坂出市元町一丁目1-1)が坂出駅北口を出た所にありました。

久米通賢翁2

すみません。
久米通賢…初めて聞きました。
いつの時代に活躍されたのかもわかりません。

が、碑があるという事は、有名な人なんだろう。
帰ったら調べなくっちゃ、という事で写真をパチリ。

調べてみると、香川県ですごい業績を残していますね。
伊能忠敬より先に地図を作っているのもビックリ!
出来る男だったのですね。

もし高松藩から出て仕事をすれば、幕府の頭脳になったかもしれないなような人に思いました。

それぞれの地元には凄い人がいるものです。
そしてもしかしたら、地方に埋もれたまま終わってしまい、実はとても惜しい人がたくさんいるのかもしれません。
が、いまの政治の世界ではそんな人がいるのでしょうか?


久米通賢
くめみちかた。つうけん[。
1780年(安永9年) - 1841年6月25日(天保12年5月7日)は、江戸時代の日本の発明家、暦学者、測量士、洋学者などです。
通称は栄左衛門。

伊能忠敬よりも早く、日本初の実測地図を作った人物です。
地元香川県では偉人として顕彰されており、「讃岐のエジソン」「塩田の父」などと称されます。

安永9年、讃岐国大内郡馬宿(現在の香川県東かがわ市)の農家に生まれました。
幼少のころから利発で学問好きな子だったため、引田港から大坂に向かう船の舵取りも務めていた父の嘉兵衛は、大坂に行くたび通賢のために書物を買ってきていました。
また、手先が器用で熊や獅子を粘土で作るのが得意だったため「獅子熊」と呼ばれていました。
7歳の頃、通賢は父に連れられ大坂の町の時計店に行く機会があり、当時最先端の機器であった時計の修繕を熱心に眺めていた。
そこへ別の客がやってきて店の者に時計の修繕を依頼したが、店の者は誰も手がすいていない。
そこで通賢が店の道具を借りて見よう見まねで修繕をしてみたところ、時計は元の通り動くようになったため、皆大いに驚き喜んだといいます。

寛政10年、大坂へ出て暦学者の間重富の門下となり、暦学・数学等を学びました。
享和2年、父・嘉兵衛が逝去したため帰郷。
その後も郷里で勉学に励みます。
江戸時代も末期になると、外国船が日本近海を訪れるようになっていたため、通賢も兵法、オランダ流砲術等を学んでいます。

文化3年、高松藩の測量方に採用され、領内の引田から西へと実地測量地図の作成に従事しました。
この地図は伊能図より早い讃岐国最古の実測地図です。
また翌年には軍艦の設計も行っています。

文化5年、幕府命令で日本地図を作成していた伊能忠敬一行が讃岐国を訪れ、通賢もこれに協力しました。

文化12年には従来の火縄式銃を火打ち石式に改良することに成功しています。

文政7年、このころ、財政難に陥っていた高松藩の第9代藩主松平頼恕は、通賢の多才な才能を見込んで財政再建策を頼った。
通賢はこれに応えて阿野郡坂出の浜に新たな塩田を開発することを進言。

文政9年、高松藩はこの案を採用し、通賢は普請奉行に任じられました。
通賢は塩田開発の陣頭指揮を執るだけでなく、自ら率先して作業に参加したため工夫達の士気も上がり、工事ははかどった。
ところが高松藩の財政難は深刻で、途中から塩田開発工事資金がとどこおるようになりました。
通賢は工事を完成させるため、私財を投入して工事を継続させます。
この献身的な働きのおかげで文政12年に坂出の東大浜、西大浜に入り浜式塩田がついに完成しました。
藩主頼恕は大いに喜び、通賢の功績を称えるため、現在も残る「阪出墾田之碑」(坂出市指定有形文化財)を建立しました。
この塩田完成で坂出の塩生産量は日本全体の約半分を占めるまでにいたり、高松藩の財政をうるおし、戦後に工業地域に転換されるまで塩業は讃岐国・香川県の代表的産業となりました。

天保7年、通賢は藩の職を辞し帰郷。
その後も日本初の国産マッチ(雷汞マッチ)等様々なものを発明しています。
1841年(天保12年)死去。

高松市にある久米通賢の旧宅は有形文化財に指定されています。
Wikipediaより











関連記事
Comment

管理者のみに表示