伊勢神宮-宇治橋からみた風景

2013年11月14日
宇治橋(三重県伊勢市)からみた風景です。

宇治橋より1  宇治橋より2

宇治橋は、三重県伊勢市にある皇大神宮(内宮)の参道口にある橋。
別名御裳濯橋(みもすそばし)。

宇治橋は伊勢の神宮の内宮の参道口にある長さ101.8m、幅8.42mの木造の和橋(わきょう、日本風の橋)で、橋の両側に神明鳥居がある。
五十鈴川に架けられたこの橋は内宮参拝時の記念撮影の名所になっており、内宮のシンボルとされる。
神宮の定義では宇治橋を渡った先は神域ではなく神苑であるが、崇敬者・参拝者は通常神域と扱うことから、一般に「俗界と聖界の境にある橋」とされる。


宇治橋は内宮創建当初には架けられておらず、五十鈴川の浅瀬に石を並べ渡っていたと考えられている。
雨で増水すると渡れなくなり祭事に影響するため、架橋が望まれていた。
斎王が神宮を運営していた時代には朝廷の公費で運営されていたが、五十鈴川への架橋の費用は認められなかった。

内宮前の五十鈴川の橋の最古の記録は1190年代(建久年間)に書かれた『皇太神宮年中行事』の津長神社(つながじんじゃ、現在は内宮摂社)での「橋」となる。
続いて南北朝時代に斎王が廃止されたころの1342年(康永元年)に書かれた『伊勢太神宮参拝記』となるが、いずれにせよどのような橋であったかは記されておらず定かではない。
これ以後は室町時代に度々流されたと記録されていることから、仮橋か水面すれすれ程度の低い橋であったと推測される。
斎王廃止とともに朝廷からの運営資金が滞るようになり、式年遷宮が遅れがちになった。

足利幕府の政権が揺らぎ始め徐々に政情が不安定になると伊勢国国司の北畠氏や志摩国の土豪などが神領(神宮の領地)を取り上げ始めた。
荘園などからの収入が激減した神宮は弱体化し、1429年(正長2年)に外宮の神人(下級神職)と地下人(村人)と合戦が生じた。
これ以降、宇治山田合戦に代表される神領での争乱が多発した。
北畠氏や土豪が争乱に介入して神領を次々に収奪、結果として神宮は困窮を極めた。
外宮では1434年(永享6年)の第39回式年遷宮を最後に中絶となり、内宮では第40回式年遷宮が予定より11年遅れて1462年 (寛正3年)に行なわれたもののこれを最後に戦国時代には中絶され、外宮内宮両宮のすべての宮社が荒廃した。

神宮の荒廃を嘆いた僧尼たちが神宮の許可の得て日本中を回り、五十鈴川への架橋を主とする資金を集め始め、これらの僧尼は勧進聖と呼ばれた。
聖の最古の記録は室町時代の1452年(享徳元年)の賢正と最祥の2人の僧であるが、10年以上の行脚ののちに2人とも行方不明の結果に終わった。

この2人の消息が不明になったころに大橋勧進聖本願坊を名乗る聖が現れ、1464年(寛正5年)に大橋が完成し、荒木田氏経ら10人の禰宜が13,000回のお祓いを行ない、橋が末永く使えるように祈願した。
「大橋」の名はこの時の記録が初出であるが、このころには橋が何回も流されていたため、橋祈祷を行なうことが通例となっていた。
この「大橋」は翌年の夏に洪水で流されてしまったため、仮橋架橋の費用として足利将軍家から100貫匁が大橋勧進聖本願坊を通じて寄進されたが、この仮橋も1年もたずに流されてしまった。

現世と来世の利益を庶民に説いて回った稲苅十穀乗賢という聖が、1477年(文明9年)に宇治橋を造営する資金の調達に成功した。
沙門道順、観阿などの活動がこれに続き、守悦は8年の活動ののちに1505年(永正2年)に御裳濯橋架橋を成功させた。
これら聖は宇治橋だけでなく、風日祈宮参道の風日祈宮橋も造替している。
守悦法師から3代目の清順は1547年(天文16年)に御裳濯橋を造営し、戦国時代末期の1563年(永禄6年)、約150年間途絶えていた外宮の遷宮を再興させた。
この功績で清純は後奈良天皇から慶光院の号を許され慶光院上人となり、守悦は初代慶光院上人と呼ばれるようになった。
1594年(文禄3年)に豊臣秀吉が宮川下流左岸の磯(現在の伊勢市磯町)の100石を慶光院の寺領として与えた。磯の住人には神宮式年遷宮で内宮正殿の御扉木の用材を奉曳(用材を運搬すること)する特権が与えられた。
磯の住民による奉曳は慶光院曵と呼ばれ、慶光院が明治に廃寺となったのちも受け継がれ、第62回神宮式年遷宮での御扉木は2006年に慶光院の子孫と磯の住民などにより宇治橋の前を経由して奉曳された。
天正年間に海賊大名で知られる九鬼嘉隆が宇治橋奉行を務めた。

江戸時代になり大坂夏の陣で豊臣氏が滅んでから4年後の1619年(元和5年)には時の将軍徳川秀忠が宇治橋を造替した。
徳川幕府の政権下で日本の政情が安定すると、御師が活発に活動するようになり、安定した資金調達により式年遷宮は途絶えることはなくなり、宇治橋の造替も滞りなく行なわれた。
お蔭参りが流行したころには宇治橋五十鈴川へ投げ銭をする参拝客が多く、橋の下で投げ銭を網で拾う人が現れ網受けと呼ばれた。
網受けは明治初頭に神域に相応しくないと禁止された。
懐かしむ声により一時的に復活したものの、再び禁止された。

明治初期までは宇治橋の内にも民家があったが、神苑会による神苑整備の一環として退去させられた。
このころに五十鈴川は石垣で護岸され、宇治橋西側が参道口として整備され饗土橋姫神社が山寄りに移動させられ、現在の宇治橋前の景観が整えられた。
Wikipediaより


宇治橋からみた風景です。
清流ではないのですよね。

神社には、禊ぎをする川がありますね。
伊勢神宮の五十鈴川、上賀茂神社の御手洗川など思いだします。

それにしても、この宇治橋の歴史は読んでいておもしろかったです。
宇治橋内にあったという民家は、どういう人たちが住んでいたのでしょう。
信念整備の一環、悲しい理由です。






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