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四条畷神社

2013年11月09日
四條畷神社(大阪府四條畷市南野2丁目18番1号)です。

四条畷神社1  四条畷神社2

建武中興十五社の一社で、旧社格は別格官幣社です。

南朝の将として戦い、四條畷の戦いで敗死した楠木正行を主祭神としています。
父の楠木正成が大楠公(だいなんこう)と呼ばれるのに対して、嫡男の楠木正行は小楠公(しょうなんこう)と呼ばれますが、地元四條畷市民や近接地に住む大東市民の間で単に「楠公さん」と言えば正行や当社を指す場合が多いです。
昭和50年には「楠公」という町名まで誕生し、他にも周辺に楠公と付く地名が複数誕生しています。


河内国讃良郡南野村字雁屋に「楠塚」と呼ばれる楠木正行の墓がありました。

明治期になると明治政府によって南朝が正統とされ、正行の父である楠木正成が大楠公として神格化されると、その父の遺志を継いで南朝のために戦い命を落とした嫡男の正行も小楠公と呼ばれ崇められるようになりました。

それに伴い、明治11年に楠塚は「小楠公御墓所」と改められ、規模も拡大。

同じ頃、南野村飯盛山の山麓にある住吉平田神社の神職らが中心となり、楠木氏らを祀る神社の創建を願い出た結果、明治22年に神社創立と別格官幣社四條畷神社の社号の宣下が勅許され、明治23年に住吉平田神社の南隣の地に創建された。

当社創建以降、明治28年に浪速鉄道が大阪市中心部から当社近くの四條畷駅まで開業するなどして四條畷神社周辺は大いに栄える事となり、所在地の讃良郡甲可村(南野村ほか6ヶ村合併による)には「四條畷」と付く施設が次第に増え、「四條畷」は甲可村の別称のようになって行った。
昭和7年に甲可村はついに四條畷村に改称するに至り、これが現市名にまで継承されている。
同年には浪速鉄道から転じて国鉄路線となっていた片町線の四条畷駅以西において関西国鉄初の電車運転が開始されるなどして、四條畷神社創建をきっかけに周辺一帯は北河内地方随一の大市街地に発展してその賑わいは現在も続いている。
Wikipedeaより

曽和伝左衛門
土佐国長岡郡小籠村出身。正直。慎八郎。

文久元年、
土佐勤王党に加盟。
文久2年、五十人組に総頭の1人として参加して江戸に赴き、諸国の志士と交流して国事に奔走しました。
文久3年正月、藩から関西方面の探索を命じられ、山本七郎、依岡権吉らと共に河内を経て大和で森田甚庵、乾十太郎、高野山では山本実之助に面会し、十津川郷川渡村で野崎主計、丸田藤左衛門らに会い、紀州新宮、伊勢山田、伊賀上野を経て京都へ赴き、のち帰国。
勤王党の獄では、同志救出のために活躍。
慶応3年9月藩命により京都に行き、三条実美卿を迎えて、土方楠左衛門、清岡半四郎、黒方直方らと共に行動する。
戊辰戦争に参加して、軍事周旋役として活躍し、軍功を賞される。

明治維新後、高知藩大従事権大属などをつとめ、大阪、徳島、大分の諸県庁の役人を歴任、明治26年
四条畷神社の宮司となる。
坂本龍馬大辞典より



帰宅後知ったのです!
四條畷神社が土佐勤王党とゆかりがあったなんて!

七五三で御祈祷してもらってきました。
山の中腹にありました。
この日は、七五三にはちょっと早いからでしょうか、そんなに混んでいませんでした。
私たちの前後は、5組ほどの家族が御祈祷してもらっていましたが、たまたまもうひと家族との2人だけでした。

鳥居が伊勢神宮からのものだというのは、書かれてありましたから、格式はあるのだろうな~とは思いました。

帰宅後、坂本龍馬関係の本を開いていると、“四条畷神社の宮司”という文字が目に入りました。
あわてて見てみると、土佐勤王党の曽和伝左衛門という人が宮司を1年だけですがやっていたとあるではないですか。
土佐勤王党にゆかりの人が関わった神社!もっとじっくり観察してくればよかったです。

四条畷神社ってここの四條畷神社でいいんですよね?

坂本龍馬や武市半平太を知る人が居てたというので、歴史を身近に感じてしまいました。







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