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“八重の桜”効果

2013年05月02日
NHK大河ドラマ“八重の桜”のおかげで、研究が盛んになり色々と史実がわかってきたと、2013年4月30日付の朝日新聞に載っていました。

八重の最初の夫、川崎尚之助はその中でも一番研究が進んだそうです。

川崎は但馬国出石(兵庫県豊岡市)の出身で、会津の籠城戦で逃亡したという見方があったそうです。
しかし、会津藩士の名簿(1865年5月付)で「大砲方頭取」という肩書と共に確認され、戦後に東京で謹慎させられた名簿にも名前があり、戦い抜いた事がわかりました。

川崎は東京謹慎後の1870年、現青森県東部の斗南藩へ移住しています。
斗南藩は米の収穫量が少なく、藩民が飢えに苦しみ、川崎は函館で、斗南藩で収穫予定の大豆を中国米と交換する契約をデンマーク商人と交わしました。
しかし、仲介した人物にだまされ、裁判にかけられています。
その記録が北海道立図書館などにあります。

川崎は1875年3月20日、判決前に東京の病院で亡くなりました。

豊岡市の川崎家の菩提寺の「墓石明細簿」から同じ命日の「川光院清嵜静友居士」という戒名が見受けられます。
これが尚之助に間違いないとされています。


八重は、1871年に京都の覚馬の家に移ります。

鶴ヶ城落城から3年の空白期間がありましたが、最後の1年は山形県米沢にいたことがわかりました。

八重は母の佐久や覚馬の妻ら5年で1870年から米沢城下の内藤新一郎方に身を寄せていました。

内藤は米沢藩の名簿で中級家臣と分かりました。
内藤の備忘録によると、内藤は会津で川崎から大砲の訓練を受けていました。
その縁で八重は内藤を頼ったとみられます。
八重ら4人は覚馬に呼び寄せられて京都へ出発しましたが、覚馬の妻は離縁となり、斗南藩に向かったという記述もありました。

八重の家族についは、名前が不明であった長姉が「浦(うら)」で、覚馬より年長でした。
同音の覚馬の妻は「宇良(うら)」でした。

八重が襄の死後に養子を3人取った事もわかりました。
サダ、初、小一郎。
サダと初は実父が米沢藩士。
サダの実父は内藤と同様に会津で砲術訓練をしていたそうです。


以上、朝日新聞より

私は新選組ファンで幕末ファンでもありましたが(今ももちろん大好きです)、山本八重の事は知りませんでした。
覚馬の名前を知っているぐらいで、会津の女性といえば中野竹子や西郷頼母の家族が思い出されます。

大河ドラマもそれなりに見ていますが、ん~まだどんな女性かピンっときません。

この新聞記事を読むと、川崎尚之助がすごく良い人なんですよね。
そこまで会津に尽さなくても…って思ってしまいます。

八重とそれほど強い結びつきがあったとも感じられず…。

八重は新島襄とはラブラブエピソードがあるようですが、若気の至りで川崎尚之助と結婚しました的な気がするのは私の穿った見方でしょうかね(笑)

これから大河ドラマも本題に近付いてきます、私の中の八重の印象が少しでも良くなればいいのですが、どうなるのでしょう。
川崎尚之助が良い人に書かれると嬉しいです。
せっかくの研究の成果が生かされますように。








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