小浜城

2013年03月29日
小浜城(福井県小浜市城内1丁目7-55 小浜神社横)です。

小浜城石垣2  小浜城天守址
      天守閣跡              天守跡

小浜城小天守1  
      小天守

小浜城石垣1  小浜城石垣3
     小浜城石垣

小浜城 


雲浜城(うんぴんじょう)といわれています。

江戸時代初期に、京極氏によって後瀬山城にかえて、海と河川を取り込んで築かれた海城です。

1601年、京極高次の代に着工され、京極氏2代にわたって普請工事が行われましたが、完成を見ずして京極氏は出雲国松江に加増転封されました。

替わって入封した酒井氏が二条城の様式を取り入れるなど、大幅に城の縄張を変更し、本丸天守を造営。
その8年後の1642年に小浜城は竣工しました。
以降、若狭酒井氏の居城として明治を迎えました。

明治時代に大阪鎮台の第一分営が置かれましたが、失火によって大部分の建物を焼失し残存していた天守も撤去されています。
北川の河川拡張などにより現在は本丸以外は河川や住宅街となり、城の遺構としては本丸部分の外周石垣を残すのみです。
建築遺構としては、藩校の「順造館」正門が福井県立若狭高等学校の正門「順造門」として移築され現存しています。


慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで功績があった京極高次が若狭国を拝領、後瀬山城を居城としました。
詰城であった後瀬山城本丸は標高が高すぎ、麓の旧守護館は近世大名として政務を執るには狭すぎたため、慶長6年、北川と南川と小浜湾の三角州に新たな居城(小浜城)の築城に着手し始めました。

近世の城として戦時の防御性よりも行政処理の利便性に重きがおかれ平坦な平野の中央部に築かれました。
京極氏2代京極忠高は越前敦賀郡を寛永元年(1624年)に加増され、小浜藩の藩領が確定しました。

その後、寛永11年(1634年)に京極家が出雲松江藩へ転封されると、徳川家譜代の重鎮である酒井氏の酒井忠勝が12万3,000石で小浜藩に封じられ入城、城の整備拡張が続きました。
寛永12年(1635年)には、3重3階の天守が完成、寛永19年(1641年)に城が完成し藩主が移っています。

その後、酒井氏のもと明治維新を迎えましたが、明治4年(1871年)に城内に大阪鎮台第一分営を設置する工事中に出火し天守を除く城の大部分を焼失。
残存した天守は1874年に売却撤去されました。

明治8年(1875年)に本丸跡に藩祖である酒井忠勝を祀る小浜神社が建立されました。
Wikipedeiaより


幕末の小浜藩
藩主酒井忠義は安政5年に京都所司代に再任され、井伊大老の腹心として活躍。
9月、勤王志士の逮捕となり、小浜脱藩の志士梅田雲浜を召し捕る羽目にないりました。
それが、安政の大獄の端緒です。
公武合体をはかる皇女和宮の降嫁には、朝廷と幕府との周旋に努力しました。
しかし、文久2年、所司代不適任としてしりぞけられ、さらに隠居を命ぜられました。
のち、水戸天狗党の浪士の拘禁、斬罪の任を加賀藩とともにつとめました。

鳥羽・伏見の戦いには旧幕軍として450余人の藩兵が参加、淀川の左岸橋本に布陣して敗れ、小浜へ戻る途中、藩主酒井忠氏は山陰道鎮撫総督に降伏帰順しました。
北陸道鎮撫の先鋒を命ぜられた小浜藩は400人の藩兵が越後、信濃、武蔵へと転戦し、5月に帰藩。
6月、300余の藩兵と旋条野砲二門をもって奥羽征討に参加しました。
幕末維新史事典より


小浜市の一番の繁華街はどこなのでしょうか?
城跡付近かと思っていましたが、すごく静かな場所でした。
市役所の近くとか、市の中心に近い場所とかに城址がある事が多いとおもうのですが、今回は違った気がします。

お城があった当時と今とでは違いますから、今は静かでもおかしくはないのですが、あまりに静かで驚きました。
今、残っている石垣から考えるとそれほど大きな感じではないですね。
ん~、大坂城や姫路城を見慣れているので小さく感じるのですが、大坂城や姫路城のような規模のお城の方が珍しかったのかもしれないのですね。
戦国時代やお城には詳しくないので、率直な私の感想です。

今、幕末の小浜藩について本をみてみると、淀川の左岸橋本砲台に布陣しているではないですか!
橋本砲台、行きましたよ!
そうかあそこで戦っていたのが小浜藩だったのか…。
小浜からの帰路、天王山を通りました。
天王山の川の向こうが橋本付近です。
でも、小浜から京都と大阪の境まで…遠いですよね。
今、車でも数時間かかるのに、当時はもちろん徒歩ですから、どれだけかかったのか。
それも、幕府の為とは言いながら、見たこともない徳川家の為に家族と離れての出陣ですから、下級武士の人たちは内心「なんでやねん」と思っていたかもですね。








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