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千葉周作生誕の地

2010年07月06日
旧:宮城県栗原郡花山村(現:宮城県栗原市花山)に千葉周作生誕の地があります。

千葉周作生誕地1053

千葉周作生誕地2054  千葉周作生誕地3055

千葉周作の出生地には岩手県陸前高田市、宮城県栗原市花山(生まれも育ちも主張)の2説があります。
近年の研究では、陸前高田市気仙町字中井の天満宮下で出生したとする説が有力とされています。
父は千葉忠左衛門成胤(馬医者として浦山寿貞とも)。
曽祖父の道胤は相馬中村藩の剣術指南役であったが、御前試合で敗れたために役を辞して栗原郡長岡村荒谷(現宮城県大崎市古川荒谷)へ移り、その子の吉之丞常成は北辰夢想流剣術を創始したと称します。
父・成胤もいったんは指南役に推挙されたが、辞して馬医者になったという。
その後、松戸(現千葉県松戸市)に移り、馬医者を開業する。

周作5歳の頃、父は妻を捨て周作だけ連れて家出をし宮城県栗原郡長岡村荒谷へ移りました。
まもなく周作は親元を離れ(しばらく松戸の父の許に滞在したと言う説もあり)中西派一刀流の浅利義信に入門。
他にも浅利義信の師匠の中西子正などの指南を受けて腕を磨き、一時は浅利義信の婿となって後を継ぐことを期待されました。
しかし、後に組太刀の改変について浅利義信と意見が対立したため、妻(浅利の養女)を連れて独立し新たに北辰一刀流を創始。

その後、武蔵・上野などを周って他流試合を行い門弟数も増え、伊香保神社に奉納額を掲げることを企画したが、地元の馬庭念流がこれを阻止しようとする騒動が発生し、掲額は断念。
この騒動で周作自身は名を挙げたが、北辰一刀流は事実上、上野から撤退し、上野(群馬県)では明治中期まで北辰一刀流を教える者はいない状態となった。

江戸に帰り、文政5年秋、日本橋品川町に玄武館道場を建て、後に神田於玉ヶ池に移転し、多数の門人を抱えて、江戸に剣術の一流を興しました。
この北辰一刀流は精神論に偏らず合理的な剣術であったため人気を得ました。
それまでの剣術は習得までの段階が8段階で費用も時間も多くにかかるのに対し、北辰一刀流の教え方は、主に竹刀を使用し段階を3段階と簡素化したことが特徴です。

玄武館の人気は絶大なものとなり、「力の斎藤」(練兵館)・「位の桃井」(士学館)とならんで、玄武館は「技の千葉」と称され、この3道場は後に幕末江戸三大道場と称されました。

天保3年に周作の盛名を聞きつけた水戸藩前藩主の徳川斉昭の招きを受けて、剣術師範とされ、馬廻役として100石の扶持を受けた。

弟の千葉定吉は京橋桶町に道場を持って桶町千葉と称された。次男の栄次郎成之と三男の道三郎はそれぞれ水戸藩の馬廻役となっている。

千葉周作の門下から幕末の重要人物を多数輩出した。
主な人物として浪士組幹部の清河八郎、山岡鉄舟、新選組幹部の山南敬助などが挙げられ、門弟の井上八郎、塚田孔平、海保帆平らは優れた剣客として名を上げました。

墓所は、東京都豊島区の本妙寺。
wikipediaより


これも前回に引き続き、行って来た友人から頂きました。
なのでごめんなさい、詳しい場所がわかりません。

千葉周作はなんとなく江戸の人という、イメージがありました。
宮城の人だったのですね。
龍馬とゆかりの人物かと思っていても、実は…、弟の定吉の桶町道場に通っていたので、周作とは見た事がある程度の接触だったのかもしれません。








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