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大坂城

2010年04月05日
大坂城(大阪府大阪市中央区大坂城)と桜です。

大阪城&桜

徳川慶喜、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬は京橋口より、城を脱出しました。

新選組がはじめて登城したのは、慶応4年1月7日でした。
第一の目的は、鳥羽・伏見の戦いでの負傷者の治療でした。
6日の夜、旧幕軍の総大将 徳川慶喜は松平容保らとともに城を出て、天保山沖の船にいました。
新選組も旧幕軍として、負傷者以外は深夜、隊士たちは城から退去しました。


<大坂城>
摂津国東成郡大坂(現在の大阪府大阪市中央区の大阪城公園)にあった安土桃山時代から江戸時代の城。
別称は金城あるいは錦城。

姫路城、熊本城と共に日本三名城の一つに数えられています。
現在は、昭和初期に復興された天守と櫓や門などが現存し、城跡は、国の特別史跡に指定されています。

天正11年、安土桃山時代に石山本願寺の跡地である上町台地に、豊臣秀吉が築城を開始しました。

完成に1年半を要した本丸は、石山本願寺跡の台地端を造成し、石垣を積んで築かれたもので、巧妙な防衛機能が施されました。
秀吉が死去するまでに二の丸、三の丸、総構えが建設され、三重の堀と運河によって囲むなどの防衛設備が施されました。
天守は、絵画史料では外観5層で、外壁などに金箔をふんだんに用いた華麗な姿で描かれている例が多く、それに則した復元案が出されています。
大坂城の普請中に秀吉を訪問し、大坂城内を案内された大友宗麟は、大坂城を三国無双と称えた。

築城者である秀吉自身は、京都に聚楽第、伏見城を次々に建造し、大坂城よりもそれらに居城していました。
慶長4年、秀吉の死後、秀吉の遺児豊臣秀頼が伏見城から、完成した大坂城本丸へ移り、また政権を実質的に掌握した五大老の徳川家康も大坂城西の丸に入って政務を執りました。


現在、城内には、大手門、焔硝蔵、多聞櫓、千貫櫓、乾櫓、一番櫓、六番櫓、金蔵、金明水井戸屋形などの建物遺構が残っていて、国の重要文化財に指定されています。また、桜門の高麗門については、明治20年に日本陸軍大阪鎮台によって再建されたものですが、国の重要文化財に指定されています。

また、現存する石垣も多くが当時の遺構です。
江戸時代の大坂城は、徳川幕府の天下普請によって再築されました。石垣石は瀬戸内海の島々(小豆島・犬島・北木島など)や兵庫県の六甲山系(遺跡名:徳川大坂城東六甲採石場)の石切丁場から採石さました。また遠くは福岡県行橋市沓尾からも採石されました。 石垣石には、大名の所有権を明示するためや作業目的など多様な目的で刻印が打刻されています。

徳川氏は大坂城を再建するにあたり、豊臣大坂城の跡を破却して盛り土した上に、縄張を変更して築城したため、現在大坂城址で見ることができる遺構や二重の堀、石垣は、みな江戸時代の徳川大坂城のものです。
大坂の陣で埋め立てられた惣堀を含む豊臣大坂城の遺構は、大阪城公園や周辺のビルや道路の地下に埋没したままで、発掘も部分的にしか行なわれていません。
新選組大辞典&Wikipediaより


土曜日に大坂城公園へお花見&散歩に行ってきました。
大阪は今が満開です。

鳥羽・伏見の戦いに敗れ大阪に敗走した新選組は桜の季節ではなかったので、この桜を見る事はなかったでしょう。
でも、出張で大阪に来て、桜を目にすることはあったかもしれません。
新選組の各隊士が故郷で見ていた桜はどんな桜だったのでしょう。

桜を見ると春だなぁ~と思います。
春爛漫…何もかも(景気や政治)が、落ち着いていたらもっともっと、心から春を満喫できたかもしれません。
ある意味幕末と同じくらい動乱の世の中なのかもしれませんね。



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Comment
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Re: No title
最近は、諸事情で出かけられないので、近場ををウロウロという感じですが、出かけられるようになった時に、すぐにあちらこちら行けるように、色々と調べておこうと思っています。
宜しければまた、覗きに来てください。

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