間人皇后・聖徳太子母子像(京丹後市丹後町間人)が立岩と同じ場所にあります。
6世紀末、聖徳太子の母で、用明天皇の后の穴穂部間人皇后が、蘇我、物部氏間の戦乱からこの地に逃れ住み、乱がおさまった後、都へ帰る時に里人へ感謝の念を込め自らの名「間人」を村名に贈りました。
里人は皇后の名をそのまま地名にするのはおそれ多いとして、皇后の御退座にちなみ、「間人」と書いて「たいざ」と読み伝えたといわれています。
ただし、『日本書紀』『古事記』などの文献資料には穴穂部間人皇女が丹後国に避難したとの記述はありません。
京都府観光連盟等を参考にしました聖徳太子はほぼ関係無いはずです。
間人皇后が来たというお話ですよね。
聖徳太子ゆかりの地といえば、やはり飛鳥でしょう。
飛鳥は日帰りで行ける距離で、聖徳太子巡りもしました。
そうか間人皇后の墓所は、叡福寺にある「叡福寺北古墳」で、いわゆる聖徳太子御廟・磯長陵なんですよね。
行きましたよ。
でも6世紀末に奈良方面から京都府京丹後市まで行くってなかなか考えられません。
女性でしょ?
皇后という身分で歩いて行った?
馬に乗ってとしても、当時だと何日かかったのか…。
戦乱から逃れるとしても、もう少し近場を選ぶのではないのでしょうか?
もちろん当時は中国大陸から多くの人が来ていたようで、その人たちが日本海側に到着していたのかも知れません。
そこから奈良まで来ていたのかもしれないですが、ちょっと遠いと思いませんか?
間人……「たいざ」と「はしひと」同じ漢字を書きますが、この辺りの歴史にそれほど詳しくない私は怪しんでいます。
ここに像があることを知らないと、いきなり現れて驚きます。
意外と大きいです。
日が沈む頃で、曇りがちの日で、さらに誰もいない海岸だったので、この像がすごく寂しそうに見えました。
夏の人が多い時ならまた見え方も違ったのかもしれませんね。