三分一湧水

2016年09月28日
私は三分一湧水(山梨県北杜市長坂町小荒間292-1)というのは知りませんでした。
近くにあるというので行ってみました。

三分一湧水1  三分一湧水2

三分一湧水3  三分一湧水4

三分一湧水は、豊富な水量を誇る湧水を農業用水として利用するための堰。
戦国時代の頃、水争いをしていた三つの村に等配分するために武田信玄が築いたという伝説が残っています。
その堰の真ん中には三角石柱が設置されていて当時の知恵が現在も残っています。
八ヶ岳から1日に約8500トンという豊かな湧出量を保ち、水温は年間を通じて約10℃。
富士の国やまなし観光ネットより


樹が生い茂る静かな場所にありました。
駐車場から三分一湧水の場所に行く途中、「スズメバチ注意」の張り紙がありました。
私としてはもうビクビクです。
幸い、蜂はいませんでしたが、夏から秋はスズメバチが怖いです。

さて、三分一湧水はきれいな水が、豊富に出ていました。
三方向に同じ水量が行くってことですよね。
昔の人ってすごい!
人間が持っていたすごいモノをフル活用して、いろいろな事を考え出すんですよ。
今ほど教育もみんなに行き渡っていなかったであろう時に、これを考えるんですから。

そしてこれが武田信玄の伝説とつながっているというのを知り、さらに驚きました。
確かにここは山梨県 甲斐の国です。
武田信玄ですね。
私は武田信玄は詳しくないのですが、領民の評判はどうだったのでしょうか?
三分一湧水を築きそうな武将でしょうか?
あまり印象を持てないのですが…。

三分一湧水があることは確かです。
誰が作ったとしても、これがあってこの辺りの人が助かっていたことは確かな事です。
先人の知恵に脱帽です。
















山梨県立まきば公園

2016年09月25日
山梨県立まきば公園(山梨県北杜市大泉町西井出8240-1)の様子です。

山梨県立まきば公園3  山梨県立まきば公園2

諏訪湖から山梨県に入り、まきば公園に行きました。
アイスクリーム食べたくなり、まきば公園に行けばおいしいアイスクリームが食べられるのではないかと思ったのです。
おいしかったですよ!

羊とヤギを撫でてきました。
おとなしい時の羊とヤギはかわいいです。
子供の頃、牧場に行ってお弁当を食べていたら(もちろんお弁当OKの牧場です)、羊がお弁当に群がってきて、すごく怖かったのを思い出します。
今回は、食べ物を出していないので、羊もヤギものんびりとしています。

そして案の定雨が降ってきました。
去年、蒜山高原の牧場に行った時も途中で雨が降り…、雷までなりました。
今年は雨だけでしたが、やっぱり雨女だな~。

雲がかかって八ヶ岳は見えませんでした。













諏訪湖

2016年09月22日
中央自動車道 諏訪湖SAより諏訪湖(長野県)を眺めました。

諏訪湖

長野県岡谷市、諏訪市、諏訪郡下諏訪町にまたがる湖。河川法では、天竜川水系の一部として扱われる。
面積は長野県内最大の湖沼。

冬期に諏訪湖の湖面が全面氷結し、氷の厚さが一定に達すると湖面の氷が昼夜の気温差に応じて膨張と収縮する為、昼間の気温上昇で氷がゆるみ、気温が下降する夜間に氷が成長するため「膨張」し湖面の面積では足りなくなるため、大音響とともに湖面上に氷の亀裂が走りせりあがります。
この自然現象を御神渡り(おみわたり)と呼ぶ。御神渡りが現れた年の冬に無形民俗文化財に指定されている御渡り神事が八剱神社の神官により諏訪湖畔で執り行われます。
御渡り神事では、亀裂の入り方などを御渡帳などと照らし、その年の天候、農作物の豊作・凶作を占い、世相を予想する拝観式が行われます。
古式により「御渡注進状」を神前に捧げる注進式を行い、宮内庁と気象庁に結果の報告を恒例とします。
尚、御神渡りはその年の天候によって観測されないこともあるが注進式は行われ、観測されない状態を「明けの海(あけのうみ)」と呼びます。


武田信玄の水中墓伝説があります。

戦国時代に甲斐国の武田氏と信濃諏訪氏は同盟関係にあったが、天文11年に武田晴信(信玄)は諏訪侵攻を行い、諏訪氏は滅亡し諏訪地方は武田領国化されました。
信玄は元亀4年4月12日に信濃国伊那郡駒場(長野県下伊那郡阿智村駒場)で死去します(死没地を浪合・根羽とする説もある)。
信玄の遺体は駒場もしくは甲斐の円光院で火葬され、天正4年に甲斐の恵林寺で後継の勝頼により正式に葬儀が実施されます。

一方、『甲陽軍鑑』に拠れば信玄は死去に際して「自分の死を三年間秘密にせよ。その後、遺骸は甲冑を着せて諏訪湖に沈めよ」と遺言したといいます。
このため諏訪湖には古くから信玄の水中墓伝説があります。
『甲陽軍鑑』では他に勝頼がその子・信勝の陣代となることも遺命したとされ、諏訪湖に遺体を沈めた以外の点に関しては、文書上の所見がある。

昭和61年、国土地理院のソナーによる湖底地形調査では、湖底に一辺が25mとされる菱形の“物体”が発見されました。
これが信玄の水中墓ではないかとされ、信州大学、読売新聞、日本テレビなど複数の団体が10数年にわたって調査を行いました。
電磁波探知機により墓標のような立体が確認されたとも報道されたが、最終的には謎の菱形は湖底の窪地の影であるとの結論が出された。
しかし、問題の菱形が自然にできたとは思えない程はっきりとした形をしており、湖底は泥が深く目視による実地調査が困難であることから、水中墓説を支持する声は現在でも多い。
Wikipediaより


諏訪といえば、諏訪湖、諏訪大社、諏訪大社の御柱祭を思い出すでしょうか。
私は相楽総三・赤報隊を思い出します。
相楽総三が捕らえられた下諏訪。
元新選組隊士の鈴木三樹三郎も赤報隊に加入しています。
しかし諏訪方面には行ってなかったはず…。
それに鈴木三樹三郎はやっぱり新選組・御陵衛士という印象です。

偽官軍といわれていましたが名誉は挽回されています。
でも、偽官軍といわれていたという話の方ばかりが耳に入るのと、凶悪な新聞社襲撃事件で犯人が赤報隊を名乗ったりで、赤報隊や相楽総三の名前を出すことが悪いことのように思って、青山墓地でもお墓詣りに一抹の不安があったりしました。
そんなことはないんですよね。
諏訪を通るので、下諏訪の相楽総三の史跡に寄っていきたかったのですが、高速道路を降りることがなかったので、相楽総三も眺めたであろう諏訪湖を眺めるにとどまりました。

後で知ったのですが、武田信玄の水中墓説。
面白いです。
本当か噂かわかりませんが、夢があります。
もし甲冑を着た人骨が出てきたら…。
それが武田信玄だったならば、今の科学技術で武田信玄のあらゆることがわかるかもしれないんですよ!

歴史はロマンだわ。









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福井県立恐竜博物館

2016年09月21日
福井県立恐竜博物館(福井県勝山市村岡町寺尾51-11 かつやま恐竜の森内)を楽しみにしていました。

福井県立恐竜博物館1  福井県立恐竜博物館2

満員だろうとは思っていましたが、こんなに満員だとは…。
発掘体験は夏休み中は予約でいっぱいだったので、そこは初めからあきらめていました。
いざ、博物館につくと、駐車場も遠い場所しか開いていません。

入場は普通にできたのですが、中は満員でした。
子供は幼稚園で、大阪市立自然史博物館で恐竜を見て、その後も恐竜の勉強をしていたので、今回の恐竜博物館を楽しみにしていました。
幼稚園児が知りたい程度の見学はできましが、その後で楽しみにしていたお土産は、店の外まで並んでいて買えずでした。

私もここで恐竜の何かを買いたかったのです。
めちゃくちゃ残念でした。
夏休みに行くものではないですね。
平日の休み(創立記念日とか、何かの振り替え休日とか)に行って、ゆっくりと見て、買って帰りたいものです。

恐竜ブームはそうそう消えないでしょうから、こちらで空いている日を推理して計画しないとダメですね。
これは史跡めぐりでもいえる事。
大河ドラマとかがあると、普段はガラガラの史跡が超満員になったりするのです。
ファンとしては、私の憩いの場所、私だけの○○(歴史上の人物名)なのにと、嫌だったりします。
昔からの恐竜ファンの方もそう感じているのかな?




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東尋坊

2016年09月20日
東尋坊(福井県坂井市三国町安島)に行きました。

東尋坊2  東尋坊6

東尋坊4  東尋坊5

東尋坊3

東尋坊8

東尋坊の由来は、昔、平泉寺には数千人僧侶がいました。
その中にいた東尋坊という僧は、怪力を頼りに、民に対して悪事の限りをつくしていました。
東尋坊が暴れ出すと手がつけられず、誰も彼を押さえることが出来ず、東尋坊はまさにやりたい放題でした。
平泉寺の僧侶は困り果てていました。
そして、東尋坊はとある美しい姫君に心を奪われ、恋敵である真柄覚念(まがらかくねん)という僧と激しくいがみ合います。

そんな寿永元年4月5日、平泉寺の僧たちは皆で相談し東尋坊を海辺見物に誘い出します。
一同が高い岩壁から海を見下ろせるその場所へ着くと、早速岩の上に腰掛けて酒盛りが始まりました。
皆次第に酒がすすみその内、東尋坊も酒に酔って横になり、うとうとと眠り始めました。
東尋坊のその様子をうかがうと一同は目配せをし、真柄覚念に合図を送った。
この一同に加わっていた真柄覚念は、ここぞとばかりに東尋坊を絶壁の上から海へ突き落としました。
平泉寺の僧侶たちのこの観光の本当の目的は、その悪事に手を焼いた東尋坊を酔わせて、高い岩壁から海に突き落とすことにあったのです。
崖から突き落とされつつ、ようやくそのことに気付いた東尋坊でしたが、もはや手遅れ。
近くにいた者どもを道連れにしつつ、東尋坊はまたたくまに崖の下へと落ちて行きました。

東尋坊が波間に沈むやいなや、それまで太陽の輝いていた空は、たちまち黒い雲が渦を巻きつつ起こり青い空を黒く染め、にわかに豪雨と雷が大地を打ち、大地は激しく震え、東尋坊の怨念がついには自分を殺した真柄覚念をもその絶壁の底へと吸い込んでいきました。

以来、毎年東尋坊が落とされた4月5日の前後には烈しい風が吹き、海水が濁り、荒波が立ち、雷雨は西に起こり東を尋ねて平泉寺に向ったといいます。


東尋坊は、今から約1,200 ~ 1,300万年前の新生代第三紀中新世に起こった火山活動で、マグマが堆積岩層中に貫入して冷え固まってできた火山岩が、日本海の波による侵食を受け地上に現れたものとされています。

東尋坊の火山岩は白色の斜長石の斑晶や暗緑色の普通輝石・紫蘇輝石の斑晶を含む安山岩で、マグマが冷えて固まるときにできた五 - 六角形の柱状の割れ目(柱状節理)がよく発達しています。
Wikipediaより


東尋坊は私が2歳、3歳ぐらいの頃に行ったらしいのですが、もちろん覚えていません。
テレビでは見るので、どんなにすごいんだろうとワクワクしていきました。

崖から覗くのは怖くて、近づけませんでした。
が、もっともっと雄大で広いのかと思っていました。
何だろう、確かに怖いほどの崖で、テレビでみていたのと同じ場所ではあったのですが、誇大想像しすぎていたのですよ。
凄い!と思いながら、もっと広くてすごいかと思っていたという、両極の感想になってしまいました。

でも、崖からは覗けませんでした。
もう少しちゃんとした恰好をしていたら、這いつくばって覗いたのですが、子供もついて来ようとするのでこけても岩場という辺りで断念しました。
自然ってすごいですよね。

前にテレビでここの崖から飛び降りている人を見ました。
もちろん自殺ではなく、趣味?として飛び込んでいました。
よくそんな気になるな~と思います。

それにしても東尋坊も心霊スポットとして有名ですが昼間は観光客でにぎわっているので、霊も出てこなさそうな感じです。
でも実は東尋坊からも見える雄島の方が怖いらしいです。
島全体が心霊スポットだとか…。
下から2枚目の写真に写っているのが雄島…だと思います。
私は霊感はないと思うので(心霊現的な体験は片手で足りるほどしかありません)、雄島に行っても普通に行って、普通にかえって来る気はします。

松平春嶽に会いに来た坂本龍馬は東尋坊に来たことがあるのでしょうか?
反対派に落とされたら大変ですから、危ない場所にわざわざ行かない?
いや、坂本龍馬だったら好奇心の方が勝つでしょうね。

そうそう、鳥取にできた“すなばコーヒー”ならぬ、“IWABA CAFE”というのがありました。








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遠景

2016年09月19日
福井県坂井市三国町のホテルからの遠景です。

ホテルより望む1  ホテルより望む2

みくに龍翔館の屋根や九頭竜川、日本海が見えます。

九頭竜川
日本の福井県嶺北地方を流れる一級河川。
九頭竜川水系の本流。
流域面積2,930km²は福井県の面積の約70%にあたり、県のシンボルの一つとされている。

九頭竜川は急峻な地形の上に上流の奥越地域は多雨地帯である事、又中流部の鳴鹿地区から扇状地となり、放射状に流路が変遷していたことから、有史以来氾濫を繰り返し「崩れ川」と呼ばれるほどでした。
その一方、有数の穀倉地帯でもあり、古代より治水・利水のための開発が繰り返し行われて来ました。


越前支配の要・十郷用水(幕末まで)

古代には福井平野は大きな湖であり、洪水のたびに水害が起きていました。
5世紀~6世紀に掛けて越前を支配していた男大迹王(継体天皇)は九頭竜川河口を広くして湖の水を海に出やすくしたといわれています。
継体天皇が九頭竜川治水の先駆者であると現在でも伝えられています。
奈良時代に入ると東大寺領の墾田が数多く開墾され、利水の為の用水路整備が始まりました。
766年の溝江における用水が九頭竜川の利水の端緒といわれている。

平安時代末期の保元年間(1156年 - 1159年)、越前国惣追捕使・藤原国貞は九頭竜川流域の灌漑を図るため鳴鹿地区より用水路を掘削・取水しました。
これが十郷用水です。
鎌倉時代以降は十郷用水を中心とした利水開発が主体となりました。
1515年、越前守護・朝倉孝景は十郷用水の支配に乗り出し運用に関する詳細な規定を定めた。
その後朝倉氏を滅ぼした織田信長は北陸総司令官として柴田勝家を越前に封じたが、勝家は「十郷用水条々」を1578年に制定。
更なる運用規定を定めた。
一方治水に関して手付かずに近い状況であった。

福井藩による治水・利水事業

関ヶ原の戦いの戦功により越前北ノ庄68万石の太守となった結城秀康(徳川家康次男)は、重臣を要衝に配置し加賀前田氏の押さえとなりました。
秀康は北ノ庄を福井と改め、福井藩の藩祖となるが藩政確立の為の領内整備を行いました。
特に治水・利水においては家老・本多富正の功績が大きい。
富正は家康の重臣・本多重次(作左衛門)の養子で秀康付きの家老となった人物です。

彼は福井城外堀への引水と城下の上水道・灌漑を目的に九頭竜川から日野川まで芝原用水を開削、日野川筋にも関ヶ鼻用水を開削して新田開発を促進しました。
また、九頭竜川本川に「元覚堤」、日野川に「昼夜堤」を建設して中世には放置同然であった治水にも力を注いだ。
この他家老の一人今村盛次は十郷用水の公正な配水慣例を制定し、以後この慣例にしたがって十郷用水の水利権は履行されました。

これ以降も洪水を起こす九頭竜川の治水は藩政として続き、寛政8年には木部輪中が造成されました。
幕末、松平慶永(春嶽)は混乱期の中においても九頭竜川の治水計画を策定し、明治2年より大規模な引堤に着手したが明治4年の廃藩置県によって計画は頓挫しました。
Wikipediaより



九頭竜川…名前は耳にします。
地理で勉強したはずですが、どこを流れている川かよくわかっていませんでした。
福井県だったのですね。
龍が九頭いて、暴れ川ってイメージがわきます。
本当に暴れ川だったようです。

なんていうのでしょうが、いろいろな想像をさせてくれる名前で少し神秘的です。
もしかしたら龍の伝説なんかがあったりして…。

そしてみくに龍翔館の屋根は本当に目立ちます。
異国情緒あふれる屋根。
幕末の開国派松平春嶽の印象あって町にあっている気もします。












瀧谷寺

2016年09月18日
戦国時代に関係する、瀧谷寺(福井県坂井市三国町滝谷1-7-15)です。

瀧谷寺3  瀧谷寺2  瀧谷寺4

瀧谷寺8  瀧谷寺5  瀧谷寺6

瀧谷寺(たきだんじ)は、福井県坂井市にある真言宗智山派の寺院。

南北朝時代の永和元年、睿憲上人によって開山されました。
中世には、戦国大名の朝倉氏や柴田勝家、福井藩主の松平家、丸岡藩主の有馬家ら、歴代領主の祈願所として、帰依と保護を受けました。

石龕開山堂は室町石仏または朝倉石仏(笏谷石) 内側石棺に十三仏が浮き彫りにされています。
この石室は、堀江氏が室町時代に築造したものです。
また、堀江氏は後に織田信長と相通じ、当寺は信長より「陣取放火」等の禁制状をうけ、兵火からまぬがれることができたと言われいます。
山門(鐘楼門) は天正年間建築、元禄11年改修。
柴田勝家の寄進と伝わります。

幕末には、京都より勤王僧「道雅」が来て法統を継いだことで、梁川星巌梅田雲浜らの志士がしばしば当寺を訪ねて国事を論じました。
Wikipedia&瀧谷寺HPより

戦国時代に少し興味があり、織田信長関係者の柴田勝家の名前が出てきたので気になりました。
楼門が柴田勝家の寄進と言われているのですね。
朝倉家もゆかりがあるとか…。
福井県ですから、朝倉氏の後に柴田勝家が治めていたのですよね。
由緒あるお寺ですから、実際に朝倉義景や柴田勝家も訪れた事があるかもしれないです…よね?

と、戦国時代に夢中になっていますが、私の本拠地幕末にも縁があったんです!
梁川星巌や梅田雲浜が訪れているなんて!!
梁川星巌や梅田雲浜は名前は知っていますが、人となりなどはよく知らないのですが、幕末が好きな人なら名前はよく見ると思います。
京都の史跡は回りました。
そういえば、福井県小浜市にある梅田雲浜生誕地にも行きました。

福井といえば、松平春嶽&坂本龍馬ってイメージでしたが、まだまだ活躍した人の足跡が残っていました。
さらに由比公正や横井小楠も龍馬と縁のある福井藩士でした。
幕末前期には橋本佐内もいました。

今回は戦国と幕末の両方にゆかりの地に行けてよかったです。
惜しむらくは、一乗谷や福井城や北の庄城跡に行く時間がありませんでした。








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ONOメモリアル ブルーケーキ

2016年09月15日
散歩をしていて見つけたのがONOメモリアル&ブルーケーキ(坂井市三国町緑ヶ丘3丁目6-13)と書かれた建物でした。

小野ブルーケーキ1

涼しい朝にホテルの周りを散歩してみました。
涼しいといっても暑い!

ブラブラと特に目的もなく歩いていると、“ONOメモリアル Blue cake”という案内を見かけます。
手にしていた地図にも載っています。
ブルーケーキ? ケーキ屋さんとか喫茶店?
でもメモリアルって?葬儀会館?

と、思いながらブラブラしていると、近くまで来ていることに気づきました。
畑や雑草の生い茂る草むらの中の細い道を歩いていると、古い家がありました。
奥には青いガラス張りのような建物。

古い日本家屋の庭にはオブジェがたくさん飾られていました。
何かイベントをする場所かなと…。
人の気配はないのですが、スリッパがたくさん置いてあり、人が訪れることはわかりました。
たくさんのカラフルなキノコをくっつけた木には傘がさしてありました。

帰宅して調べてみるまで、メモリアルやブルーケーキがなんであるかはわからずじまいでした。

芸術に疎い私は、調べてもよくはわからなかったのですが、すごく有名な方が住んでいたのというはわかりました。
有名な芸術家が住まわれていたとはなかなか考えない古い民家でした。


ブルーケーキ
開館時間
3月から11月までの金曜、土曜、日曜日及び祝日
午前10時から午後4時まで

ONO MEMORIALは、小野忠弘画伯の画業を顕彰し、新しい芸術の創造と人材の育成を目指す美術館です。
三国湊を見下ろす高台に建つ故小野忠弘画伯の旧宅とギャラリーです。
ギャラリーはコバルトブルーの外観とその形状から、BLUE CAKE(ブルーケーキ)と名づけられました。

入館料は無料ですが、企画展の際には別途設定する場合があります。
また、駐車場がありませんので、お車でお越しの際は、みくに龍翔館の駐車場をご利用ください。

小野忠弘
青森県弘前市で生まれながら、その人生のほとんどを三国の地で過ごしたジャンクアート(廃品芸術)の鬼才。
昭和30年代、国際的に高い評価を得た後も、天才的な感性で作品を発表し続け、平成13年88歳で亡くなりました。
小野は、創作活動の一方で、三国高校の美術教諭として人材の発掘育成に努めました
小野は、昭和49年三国の街や九頭竜川を望める小高い丘に古い民家を移築改造して住居兼アトリエとしました。
小野が亡くなった後に、ご遺族から作品100点とともに住居及び土地を一括寄贈されたことから小野画伯を顕彰する声があがり、教え子達の支援もあって、文化施設として整備されたのが「ONO MEMORIAL」です。平成17年10月22日のことでした。
坂井市HP&小野メモリアルより










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