全然違う

2016年07月30日
幕末ごろの地図はよく目にしていました。
新選組ファンですから、どうしても幕末になります。
そんな私が、今戦国時代をさまよっているのですが、先日安土桃山時代の京都の地図という本をみました。
全然違う!!

現代とはもちろん違いますが、幕末の頃とも全然違う!!
戦国から幕末の間、ざっくり260年ぐらいですよね。
ちがう~!
これは秀吉が大改革(?)をしたからですか?
伏見の辺りを見ると、有名大名屋敷がたくさんありました。
確かに幕末の頃も各藩の下屋敷とかありましたが、藩名ではなく武将の屋敷なんですね。

変わっていないな~と思ったのは、道路の位置と形です。
碁盤の目はそのままでした。

幕末から現代もざっくり250年くらいですから、この間も町は大変革しています。
もしかしたらこの250年の方が跡形もなく変わっていますよね。

500年という歴史を改めて感じた瞬間でした。




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史跡は遠くにありて想うもの

2016年07月24日
子供の病気で外出できない(涙)
症状は“メチャかる”家の中ではいろんなことをしているのですが、次回の診察までは外出できない…。
ので、子供がテレビを見ている間、パソコンであれやこれやと見ていました。

長久手古戦場………あった!
えぇ~、目の前に大型ショッピングモールですか!!
恒ちゃん戦死の場所ですが、恒ちゃんもビックリ\(◎o◎)/!

たぶん、地元の方はだから何?なんだと思います。
史跡って、身近にありすぎると意識の中ないモノですよね。
それが当たり前なんですから。
周辺がどういう風景になっても、古戦場は古戦場でしかありません。
私としたら開発される前に古戦場に行きたいです。

関西に住む私からしたら、大阪城はコンクリートは普通の事だし。
京都の史跡が、微妙に位置が動かされていたりはそんなもんかと思ったり。
近松門左衛門の墓は、あって当たり前で特に何も考えませんね。

史跡って、遠くにあってなかなか足を運べないから、魅力が倍増しているのかもしれません。
それに「前に通ったことある」と、当時は全然興味がなくて素通りしてしまっていて、今度いつそこに行けるかわからなくて悔しく思ったり…。
遠いからこその、思い入れの強さがあるのかもしれません。

だって今、幕末関係があまりなくて、信長協奏曲をみて戦国に寄り道している私が、頑張れば自転車でも行ける距離の所に“佐々成政墓”があるので、行こう行こうと思いながらなかなかスイッチが入らないのですから。
やっぱり近いといつでも行けると思ってしまうんです。
(どうやらお墓のあるお寺は、保育園もされているようですごく賑やかだとか…)

史跡は遠くにあって、そうそういけないから、いろいろと調べることになり、それがまた楽しくって(⌒∇⌒)
行くまでの下調べと、現地での探索と史跡めぐりは2度おいしいのです。

佐々さんのお墓は行くとして、戦国と幕末をミックスして中部地方辺りをぶらぶらしたいです。








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悲しい…寂しい…

2016年07月23日
映画版“信長協奏曲”を観ました。

ドラマ版ももちろん重い内容の部分もありましたが、コミカルで軽快な場面も多かったですよね。
映画版は全体的に重い(まじめ)な内容で話が進んでいきましたね。

まあ、内容が「本能寺の変」ですから、仕方がないんですけれど…。
帰蝶の尻に敷かれるサブロー(信長)もなかったし、家臣たちも仲がいいな~の時期もすぎ手柄をたてる事が中心でギスギス感も感じられました。
ある意味それが普通だとは思うのですが、ドラマ・映画ですからね~楽しい方がいいです。

合戦シーンも多くて、私としては軽妙な会話劇(ドラマの方)が好きでした。
光秀(本当の信長)とサブロー(偽信長)のあの本能寺でのシーンはよかった。
光秀が悪者というだけで殺されるのではなかったので、見ている私としては救われました。

やっぱりサブローが帰蝶にプロポーズするシーンや、最後の別れのシーンは何度見てもジーンとします。
私のおすすめ場面です。

では、本物、歴史上の本物の信長とはいったいどういう人だったのでしょうか。
冷徹、冷酷、独裁者的なイメージもありますが、残っている書簡をみると優しい、細かいことにまで気配りできる人だと感じることもできるのですよね。
こういう人と言い切れないところが、人気がある部分なのかもしれません。


余談ですが、昔、霊能力者が帰蝶(濃姫)を霊視した本をみました。
いろいろな事に興味を持つ、当時のお姫様としては行動的な人。
みたいに書かれていました。
もちろん霊能力を丸々信じているわけではありませんが、信長協奏曲の帰蝶って意外と史実の帰蝶に近いのかもしれません。
信長を尻に敷く帰蝶。
史実でもそうだったら面白そう。







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もしドラマの歴史が本当だったら…

2016年07月21日
信長協奏曲”の映画をやっと観ることができました。

私がフッと思ったのは、最後の帰蝶のビデオレターとそれを見るサブロー時間的なもの。

サブローが戦国時代にタイムスリップしたのは高校生ですから、17か18歳ぐらい。
史実では帰蝶と結婚したのは1548年。 
タイムスリップした時には結婚していたので、1548年にはなっていたのでしょう。
そして斉藤道三が長良川の戦いで戦死していて(1556年5月28日)、いろいろと合戦があって、本能寺が1582年です。
ということは、戦国時代に34年はいてますよね。
明智光秀として山崎合戦で死んだときには、18+34で52歳になっていたってことですよね。
現在に戻ったサブローは若かったけど(笑)

34年後に現代に戻ったら、なにもかも違っていて大変だろうな~。
と、思いつつ、映画だし…と思ってみていました。

では戦国時代にいる帰蝶は?
ビデオレターで「秀吉の後に家康が治めている」と言っていたので、江戸幕府が開かれたころだと思われます。
江戸幕府は1603年に開かれています。

恒ちゃん(池田恒興)と森長可(恒ちゃんの娘が嫁)は小牧・長久手の戦いで1584年5月18日に。
柴勝さん(柴田勝家)はお市ちゃんとともに、賤ヶ岳の戦いで1583年6月14日に。
丹羽長秀は1585年5月15日に、前田利家は1599年4月27日に病死。
佐々成政は1588年7月7日に尼崎で秀吉に切腹させられています。
ちなみに秀吉は1598年9月18日に死去しています。

帰蝶もビデオレターを撮った頃は、あの楽しかった(?)頃の知り合いは皆亡くしているのです。
寂しいとかいう感情はその当時はないのかもしれませんが、(戦国時代のものの考え方は今と違うですからね。)今の私の思いからすると、寂しいだろうなと思ってしまいました。

もしかしたら、このビデオレターを撮ってから随分と経っていて帰蝶も天国に行っているのかもしれないですよね。

お互い、戦国と現代で生きて亡くなったらあの世で会えるのかな?なんて、映画でフィクションだとはわかっていても少し期待を持ってしまいました。
ドラえもんがいたら、タイムマシンーンで行ったり来たりできるのに。





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ちょっと気になる…

2016年07月19日
本当にどうでもいい事なんですが、ちょっと気になる事があります。

それは“実写版 銀魂”
内容や実写で撮った時にどれだけ漫画と似るかとかではなく“着物と刀”

銀魂は甥っ子が一時、漫画にアニメと見ていたので内容はわからなくても主人公のスタイルや顔は知っています。
あの着物と刀のスタイルが、“信長協奏曲”のドラマ第3話の小栗旬氏のスタイルと似ているな~と、一度思ってしまったら銀魂の主人公も小栗旬氏ではないですか。
着物と刀に弱い私は、信長協奏曲のあの着崩した着物のサブローさんにやられてしまったので、銀魂の着物姿が気になるのです。

たぶん銀魂ファンの方は、実写化にいろいろ思うところがあるんでしょうね。
私も幕末・新選組ファンとしては“るろうに剣心”がアニメになるときも、実写化されるときも、悶々としました。
アニメも剣心の声はこんなんじゃない!と思いましたが、アニメは見てしまいましたね。
ただ実写映画は、まだみる勇気がないままです。
なので、銀魂ファンでないからこそ気になれるのだと思います。

また映像などが公開されたら、見てどうだかった感想を書きたいと思います。

あ~でも、着物姿と刀…恰好良い!!







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斉藤一の写真

2016年07月17日
2016年7月15日の日本経済新聞夕刊に、斉藤一の写真が発見された記事がありました。

写真が載っている記事は手元にあるのですが…。

妻トキヲさんと息子2人との家族写真です。

あまり鮮明ではない集合写真は有名で見たことはありました。
でも、あの写真だと顔もよくわからないんですよね。

今回の写真は家族写真という事で、ちゃんと顔が見えます。
パッと見たところ、小説やドラマ・映画で描かれる斉藤一のイメージは感じられませんでした。
明治維新後、だいぶんと時間が経過しているので、当時のような張り詰めた緊張感も薄くなっているのかもしれません。
もしくは、実は幕末当時から見た目や雰囲気は柔らかくて、剣をとった時に180度変わるような人だったのかもしれませんよね。

斉藤一は維新後も存命だったので、こうして写真が出てくる確率は高い一人でしょう。
沖田総司とか藤堂平助など、新選組中心人物で、若くして亡くなった人の写真が出てきたとしたらもう叫びまくりです!





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ドラマにそれを求める?

2016年07月15日
先ごろ、“戦国時代の大誤解”という本を読みました。
以下は、あくまでも私の感想です。


一般的に思われているものは、事実とは全然違うという内容です。
半分ぐらいは、戦国が特に好きではなくても歴史全般が好きなら知っているだろう…ということでした。
まあ、それはOKなんです。

ただ、読み進めるうちに私は読む気が急降下しました。
時代劇、大河ドラマが間違っている。
それの繰り返しなのです。
馬の大きさが違うとか、あれも違う、これも違うのオンパレードで、作った人が知らなすぎるとダメ出しばかり。
ドラマにそこまで求めている人はいてないですよね。
ドラマはあくまでもドラマであり、視聴者がワクワク、ドキドキして楽しめるように作られているのですから。
歴史モノだと「もしも」という設定もあるでしょうし、大きな歴史の流れはそのままに、創作をいれて楽しいものにするのがドラマです。

そのドラマで興味を持って、自分でいろいろと調べて、「へぇ~、実はそうだったのか!」と歴史を知るというのもOKだと思うのです。
歴史をそのままにしか映像化、活字化してはいけないなんてなったら、ドラマも小説もみな同じものばかりで何も楽しくないです。

ドラマや小説では○○だけれども実際は△△だったのですよ。
というような感じなら「そうなんだ」で済んだのですが、作り手を非難するような感じの言葉が多くてなんだか嫌な気分で読んでしまいました。









久々知須佐男神社 - 矢文石

2016年07月13日
久々知須佐男神社(兵庫県尼崎市久々知2丁目3-28)には多田満仲に由来する矢文石があります。

久々知須佐男神社1

久々知須佐男神社4  久々知須佐男神社3

拝殿前の大石は、「矢文石」と呼ばれます。
『小田村勢』では多田(源)満仲がふんばって多田城へ矢文を射たあとを残した石とされます。
しかし、神社に伝わる伝承では、満仲が矢を射て、九頭の大蛇を退治したあとだと伝わります。

社伝によると、満仲が摂津の国守として赴任したとき、住吉神の神託によりこの石の上から矢を放ちました。
矢ははるかに飛びあがり、池田の方角へ光を放ちながら落ちていきました。
満仲が矢の行方をたずね歩いたところ、頭が九つもある大蛇に突き刺さっていました。
大蛇から流れた血水のあとが多くの田のようにみえたことから、そこを「多田」と名付け、移住しました。
また、矢を問いながら来たところから「矢頭(やとう)」という地名をつけました。
尼崎百物語より


多田(源)満仲
平安時代中期の武将。
清和源氏、六孫王経基の嫡男。
多田源氏の祖で、多田満仲とも呼ばれる。
諱は満中とも記される。
神号は多田大権現。

当初は都で活動する武官貴族であった。
天徳4年(960年)平将門の子が入京したとの噂があり、検非違使や大蔵春実らと共にこの捜索を命じられた武士の一人として現れたのが史料上の初見。
武蔵権守の任期を終えていた応和元年(961年)に満仲の邸宅が強盗に襲撃される事件が起こり、自ら強盗の一味であった倉橋弘重を捕らえました。
弘重の供述によれば醍醐天皇の皇孫親繁王と清和天皇の皇孫源蕃基がそれぞれ主犯と共犯であったという。

左馬助在任時の康保2年(965年)に、多公高・播磨貞理らと共に村上天皇の鷹飼に任ぜられる。
同4年(967年)に村上天皇が崩御すると、藤原千晴と共に伊勢に派遣される固関使に命ぜられるが、離京することを嫌った双方が辞退を申し出たが、満仲のみ病による辞退を許されました。

安和2年(969年)の安和の変では、源連らによる皇太子・守平親王(のち円融天皇)廃太子の謀反があると密告して事件の端緒をつくった。
この事件で左大臣・源高明が失脚したが、満仲は高明の一派であり、これを裏切り密告したとの噂があります。
また、この事件で満仲の三弟・満季が対立する有力武士・藤原千晴の一族を追捕しています。
満仲は密告の恩賞により正五位下に昇進しまた。

藤原摂関家に仕えて、武蔵国・摂津国・越後国・越前国・伊予国・陸奥国などの受領を歴任し、左馬権頭・治部大輔を経て鎮守府将軍に至る。
こうした官職に就くことによって莫大な富を得た満仲は他の武士からの嫉妬を受けたらしく、天延元年(973年)には武装した集団に左京一条にあった自邸を襲撃、放火されるという事件が起きています。
この事件による火災は周辺の建物300軒から500軒にまで延焼したという。
また、この事件でも同日中に三弟満季が嫌疑人を捕らえているが、実行犯については明らかでありません。

二度国司を務めた摂津国に土着。
摂津国住吉郡(現在の大阪市住吉区)の住吉大社に参籠した時の神託により、多田盆地(後の多田荘。現在の兵庫県川西市多田)に入部、所領として開拓するとともに、多くの郎党を養い武士団を形成しました。

また寛和元年(986年)に起きた花山天皇退位事件に際し、花山天皇を宮中から連れ出した藤原道兼を警護した「なにがしといふいみじき源氏の武者たち」とは、満仲の一族であったと考えられています。
この政変後、満仲と主従関係にあったとみられる藤原兼家は一条天皇の摂政に就任した。

翌永延元年(987年)多田の邸宅において郎党16人及び女房30余人と共に出家して満慶と称し、多田新発意(しんぼち)とよばれた。
この出家について、藤原実資は日記『小右記』に「殺生放逸の者が菩薩心を起こして出家した」と記しています。
また『今昔物語集』には満仲の末子で延暦寺の僧となっていた源賢が父の殺生を悲しみ、天台座主院源と仏法を満仲に説き出家させたという説話があります。
なお同書ではこのときの年齢を六十余歳と伝えており、これによれば生年は延喜19年(919年)から延長6年(928年)の間になります。

長徳3年(997年)8月27日に卒去。
遺骸は多田院(現在の多田神社)に葬られた。
Wikipediaより


近松門左衛門の墓のある広済寺の横にある神社です。
近松公園からも行くことができます。

大きな石がありますが、ここから矢を放っても川西市までは…。
多田神社まで15kmも矢は飛ばないですよね。
と、言ってしまったら歴史の面白味は台無しになります。
1,000年以上前の歴史なのですから、一般人はそういう伝承を楽しむのもありですよね。
研究されている先生方はそれだけではいてけないでしょうが。

1,000年以上前って考えると、すっご~い前ですよね。
それを考えると、幕末なんてほんの少し前?
最近少し読んでいる戦国時代でも500年経つか経たないか。
近くに感じてしまいます。

1,000年前のこの辺りはいったいどういう風景だったのか、想像もつきません。
みんな一生懸命生きていたことはわかるのですが…。










塚口城跡 現代地図

2016年07月11日
塚口城跡1
   (クリックして拡大)

塚口城跡として回った場所を、地図に記してみました。

ほぉ~、なんとなく塚口城の大きさが想像できます。
清水町門跡と東町門跡のそばには水路もあります。
南町門跡の近くには、阪急電車が走っていますが、その線路脇には用水路?溝?…水の流れがあります。
塚口城のお堀だったのかもしれません。

ついつい間違えてしまいそうになるのですが、“塚口城”であって“尼崎城”ではありません。
“尼崎城”はもっと広いはずなのですが、塚口城であるので大きさとしては十分なのでしょうね。
この小さな(?)塚口城が、有岡城の荒木村重討伐の重要拠点、超有名武将 織田信長の陣が置かれたと思うと、やっぱり歴史って面白いと思います。

そういえば、織田信長の家臣 佐々成政のお墓が尼崎にあるのです。
いずれは行ってみたいですね。









塚口城跡 北町門跡

2016年07月10日
塚口城跡の最後は、北町門跡の祠(兵庫県尼崎市塚口本町2-7)です。

北町門跡の祠2  北町門跡の祠3

北町福祉会館の近くに、北町門跡の祠はあります。
正弦寺の後、こちらに来た方が早かった!
南町門跡からは真っ直ぐ西に歩くだけです。
南町門跡から続く道、北側でも南側からでもこの祠の前で合流します。
マンションの横に、小さな小屋(?)があって、その中に祠があります。

その祠の横を覗くと、写真の風景があります。
私が参考にさせていただいたHPには、草が生えていなくて土塁の名残が見えていました。
残念。
夏はどうしても草が生えるので、地形をみたければ冬が最適ですね。

マンションも多く、住宅街にありますが、きれいに掃除もされて朽ちてしまう心配は感じられませんでした。
でももちろん戦国時代は感じられませんでしたけれどね。

※もう1回、塚口城跡について書きたいと思っています。








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塚口城跡 清水町門跡

2016年07月09日
正玄寺から次は、清水町門跡(兵庫県尼崎市塚口本町2-23)を探すことにします。

清水町門跡の祠2

清水町門跡の祠7  清水町門跡の祠6
  近くにあった堀あと?     尼崎領をしるした石碑

正玄寺から北に向かいます。
保育園のあるT字路を東(右折)側に曲がり病院の前を通ります。
歯科医院の手前の交差点を北(右折)に曲がると、清水町福祉会館があります。
その横に清水町門跡の祠がありました。
正玄寺からおよそ250m、徒歩3~4分です。

清水町福祉会館前に、尼崎領をしるした石碑があります。

この祠のある場所を地図で見ると、祠を囲むように道路があります。
塚口城が廃城になってからも、地元の人は大切に残してきたのでしょうか。

この祠の真後ろに写真の水路があります。
城門の場所に水路…堀ですよね。
お堀の名残?
当時の堀の大きさなどはわからないですが、この場所にあったという想像は十分にできました。




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塚口城跡 正弦寺

2016年07月08日
正弦寺(兵庫県尼崎市塚口本町1-12)は南町門跡からすぐの所にありました。

正玄寺4  正玄寺2

正玄寺3


尼崎地方の一向一揆は、塚口御坊が中心であったとしるされています。
この御坊は、応永16年(1409)に性曇上人が建てたと伝えています。
性曇上人が尼崎に来たとき病気になり、1ヵ月余り滞在しました。
このとき入信した祐信が発起人となって、上人の許しをえて堂舎を建てたのが塚口御坊となりました。
そののち、細川勝元と山名持豊とが応仁2年(1468)に争ったとき、広根(川西市)の最徳寺、多田(川西市)の光遍寺、箕輪(豊中市)の超光寺の3ヵ寺が塚口御坊を警護したともいわれています。
塚口御坊が河辺郡、豊島郡、能勢郡の末寺や道場などで組織した一揆の中心になっていたことを物語っています。
塚口御坊が方2町(約200m四方)余りの境内のまわりに土居(土塁)を巡らし、さらに堀を巡らして戦国時代の城の構えを備えていました。
そのために塚口城ともいわれています。
ここが城として用いられたのは織田信長と荒木村重との戦いのときです。
塚口御坊の壊滅後は正玄寺がその跡を引き継いでいます。
尼崎市教育委員会 現地説明板より


南町門跡から北に歩きます。
とりあえず、どこからでもいいので北側にある、広い道にでます。
その通りに、お寺の塀が見えます。
そこです!

現地にある説明板を見て思ったのは、塚口城って中心(天守閣的なもの)はここ?
正玄寺はのちに建立されたとしても、塚口御坊はここにあったということですね。
荒木村重との戦い(有岡城の戦い)での総大将は織田信長というのを読みました。
もしかして織田信長もここに来たのでしょうか?
各部隊長も来ているのですよね。
それは誰だろう?

なんだか大物歴史的人物が来ていて驚いています。
もしかして近畿(京都は除く 笑)で史跡巡りをしようとしたら、幕末より戦国で巡ると大物に出会えるの?
ある程度幕末は巡ったので、戦国を考えてみてもいいのかも…。
もちろん新選組はこれからも探していきますよ。





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塚口城跡 南町門跡

2016年07月07日
塚口城 南町門跡(兵庫県尼崎市塚口本町1-18)です。

塚口城跡(兵庫県尼崎市塚口本町1丁目)に行ったあとに、

塚口城は「塚口寺内」ともいわれるように、最初、寺内町として発展しました。
応仁の乱の時、塚口御坊を中心に一揆衆が立て籠もり、寺内の周囲に土塁と環濠をめぐらせ、一つの防衛施設を形成させました。

天正年間(1573~92年)に、この施設を武将が軍事目的にのみ利用した期間があったため、現在ではこの遺構を一般的に「塚口城」とよんでいます。

塚口御坊が約200m四方の土塁および水堀をめぐらしたのは、いつ頃であるか明らかではありません。
天正6年10月21日、荒木村重が織田信長に背き、有岡城に籠もった時、塚口寺内を有岡城の出城に使ったと「尼崎市史」記されています。
しかし、村重軍はすぐに塚口城を引き揚げ、代わって信長側の有岡攻城軍がここに駐屯しました。
天正7年12月13日に有岡城が落城し、塚口城は軍事目的からは廃されました。

塚口城の総構えは「尼崎市史」によると、南北216m・東西261mで、城門は4ヶ所。
北町門・東町門・清水町門・南町門とよばれていました。
城門付近の土塁は脚99m、高さ4.5mであり、他より一段と大きく、櫓台が設けられていたものと思われる。
明和3年頃から、村総囲いの土塁が崩壊して屋敷に流れ込むようになり、土塁の撤去が開始。
現在、ほとんど遺構がみられなくなっている、ただ、城跡北部と東部の水堀の一部と3ヶ所の門跡(北町門・東町門・清水門)付近の土塁だけが、往時の名残をとどめています 。

と、「塚口城」について「日本城郭大系/第12巻/大阪・兵庫編・新人物往来社・昭和56(1981)年発行」で紹介されているというのをしりました。

じゃぁ行かないと!!
ということで、城門跡に行ってきました。

南町門跡の祠1

南町門跡の祠2  南町門跡の祠3

地図を見てもよくわからなかったので、とりあえず行ってみました。
阪急電車沿いの道を行き、公園の横の細い斜めの道を入ってみました。
一か八か。
大勝負。
って感じです。
細い道を入って、少し開けた十字路まで来たときに、ありました!
祠が見えました。

住宅街の一角にポツンと建っていました。
ここに塚口城の城門があったのか~。
いまひとつピンっときません。
言ってみれば祠があるだけですから、何も知らなければ、昔から祠があって神聖なものであるから宅地開発されても動かさずにある、というふうにしかみえません。

祠の横には、石塔の一部のような石が数個ありました。
この石は塚口城に関係にあるものなのか、祠の横にある石仏に関係のあるものなのか…。
置かれている場所的には、祠の中なんです。

ここにあったという城門を誰がくぐったのか気になります。

次は正弦寺が見つかりました。









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