近藤勇 池田屋での第一声は…

2016年06月28日
先週か先々週の日本経済新聞に新選組の記事がありました。
あの池田屋事件における近藤勇の第一声が分かったというものです。

幕末の「池田屋事件」の際、2階に踏み込んだ新選組局長近藤勇が発した第一声は、「御上意」だった可能性があることがわかりました。

ドラマなどでは「手向かいすれば容赦なく斬る」と警告すような場面が多いですが、今回の資料ではこの言葉はありませんでした。
資料は「維新階梯」で、会津藩主松平容保が京都守護職になった1862年以降の出来事を明治時代に編纂。
31冊が宮内庁宮内公文書館にそろっているのを歴史研究家が確認しました。

64年の池田屋の場面では、近藤が亭主とやりとりした後、2階に上がると6、7人が車座になっていたと記述。
「座中を割って奥へ赴けば、一同(刀を)抜いて斬り掛かってきた」「此の方御上意と大音声で(叫んで)踏み込んだ」と続く。
後に近藤が「(相手は)御上意に恐れをなした様子。いまだ徳川のご威光は尽きず」と述懐したとも書かれています。

これまでは、1階にいた永倉新八の回顧録から、近藤は「手向かい致すにおいては容赦なく斬り捨てる」と警告したとされてきました。
「上意」という言葉は、予想外に相手がひるんだようです。


もうすぐ7月。
祇園祭の季節です。
池田屋事件といえば祇園祭。
ちょうどそれに合わせての発表だったのでしょうか。
近頃、全く話題のなかった新選組。
久々の新選組の話題です。

「御用改めである! 手向かい致せば容赦なく斬る」みたいな場面ですよね。
それが「御上意」だったのですね。
御用改めよりも御上意の方が、もっと威厳がありますね。
御用改めだと、会津藩松平容保からの命令、御上意だと将軍からの命令の印象を受けます。
それだけの決意で突入したのかもしれません。








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伊佐具神社

2016年06月18日
伊佐具神社(兵庫県尼崎市上坂部3丁目25-18)に、有名な武将のものといわれるお墓があるなんて知りませんでした。

伊佐具神社5  伊佐具神社4

伊佐具神社1
    伝赤松円心墓

伊佐具神社2  伊佐具神社3
     船形の大石

『摂津名所図会』には「上坂部村にあり。『延喜式』に出づ。今、稲荷明神と称す。森村とともに産土神とす」とあります。

川辺郡式内社7社の中で唯一、皇室から鍬や靫が奉献されていた由緒ある神社。
さらに「延喜式玄蕃寮 巻21」に新羅かの客に賜う神酒を造るための稲を、大和・摂津・河内・和泉より選ばれた12社中の1社として、住吉社に送るとあります。
元弘3年6月、当社の近くに赤松円心が陣地を設けた際に、戦勝祈願をしたと伝えられる
Wikipediaより

元弘3年の元弘の乱では、播磨国の赤松円心が六波羅探題の軍勢と合戦を繰り広げました。
「播磨国太山寺衆徒等注進状」には、赤松方の播磨国太山寺(現 神戸市西区)の僧兵は、
2月21日 護良親王の命令を受ける
閏2月15日 兵庫島で合戦
閏2月23日 尼崎で合戦
閏2月24日 坂部村で合戦
3月1日 摩耶山で合戦
3月12日 京都で合戦
とあり、この地(現 上坂部)が戦場になったことがわかります。
『太平記』には、、六波羅探題に加勢する阿波国小笠原氏の軍勢が尼崎に上陸し、「久々智・酒部(坂部)」の赤松勢を攻めた事も記されています。

この坂部合戦の時、赤松円心がこの神社で戦勝祈願をしたと伝えられています。
その際、甲冑・太刀を奉納したが、掘り出されることを恐れて船形の大石で覆ったといいます。
この石は社殿の右側にあります。

また、赤松円心の墓といわれる石造五輪塔があります。
尼崎百物語より


赤松円心
鎌倉時代から南北朝時代にかけての武将、守護大名。
本姓は源氏。家系は村上源氏の流れを汲む赤松氏第4代当主。
播磨国守護。
法名の円心でも知られています。

若い頃の動向については不明です。
京都に向かう途中に禅僧の雪村友梅と出会ったという話が伝わり、長男の範資と次男の貞範が摂津長洲荘(現在の兵庫県尼崎市)の悪党の取り締まりに派遣されたことと、赤松氏の本拠地である播磨佐用庄(現在の兵庫県佐用町)の一部の領主が六波羅探題の家臣であったことから六波羅に勤務していたと推定されています。

後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を掲げて挙兵した元弘の乱において、元弘3年1月21日、後醍醐天皇の皇子護良親王の令旨を受けて反幕府勢力として挙兵します。
初め一族の高田氏が内通しようとしたため、兵を動かし西条山城にて交戦。
その菩提寺である了宅庵にて自害に追い込みます。
続いて六波羅探題の命を受けた備前の守護加持氏が兵を出してきたが、先発隊である伊東氏と備前三石城で戦って盟主である伊東惟群を服従させ、これを西国幕府軍の備えとして三石城に残して東上を開始しました。

この後、室山に陣を築いて諸豪族の参集を待った。
しばらくの後、白川郷・山田村小部郷・石南花山を経て、布引谷沿いに南に向かい、あらかじめ範資に築かせておいた摂津摩耶山城へ入った。
2月11日には早くも六波羅軍2万が攻め寄せてくるが、赤松軍得意の野伏り戦を展開し、これを撃退しました。

勢いを駆った円心は尼崎の久々知に陣取り、24日には酒部に進出。
3月10日に六波羅軍1万が瀬川(現在の大阪府箕面市)に布陣。
その日の夜、尼崎から上陸した四国の小笠原勢が奇襲をかけてきたが、円心は僅か50騎で敵を突破し、久々知に帰陣しました。

そこで三男則祐の進言を聞き入れ、集合した兵3,000騎を率いて敵陣に夜襲をかけ、敵を敗走させた(瀬川合戦)。
ここでまた則祐の追撃案に基づいて、12日には摂津と山城の国境山崎に侵攻。京都淀・赤井・西岡付近に放火を敢行しました。

これに対して六波羅軍は、高橋・隅田両検断に2万を預けて出陣させた。円心は、軍を二つに分けて一方を久我縄手へ差し向け、自らは桂へ進軍して桂川を挟んで六波羅軍と対峙しました。
桂川は増水してとても渡れそうになかったが、則祐が先陣を切って押し渡り、敵を蹴散らした。そのまま大宮・猪熊・堀川・油小路に放火しつつ六波羅を目指し東山に攻め込んだ。

六波羅側は危機感を覚えたのか、時の天皇光厳天皇を六波羅に迎えて六波羅を仮御所とします。
また、新手の河野・陶山をはじめ、兵を大量に投入したため、これまで破竹の進撃をしていた円心軍は総崩れとなった。
円心と則祐は急ぎ男山まで逃れ、ここで円心は自刃すると従者に告げたと言われています。
しかし思い直した円心は自分の旗印である左三つ巴の旗の上に大龍を描き、八幡菩薩のお告げとして再度京都へ攻め込むと告げます。

再起した円心は山崎と八幡に陣取り淀川と西国街道を押さえ兵糧攻めに切り替え、3月28日と4月3日に京都を攻めたが、六波羅を落とせず八幡で待機、27日に鎌倉から派遣された追討軍の大将軍名越高家・足利高氏(尊氏)の出陣を知ると迎撃に出陣、久我畷の合戦において一族で家臣の佐用城主の佐用範家が名越高家を討ち取って戦は終わりました。
この戦の後、高氏は畿内の領地である丹波篠村へ向かい、兵を集めて2万3,000騎で反幕府として挙兵した。円心も5月8日に千種忠顕や結城親光、高氏らに合流して京都を包囲、六波羅を陥落させました。
六波羅探題北条仲時・北条時益は落ち延びる途中で捕捉され自殺、関東では新田義貞・足利義詮が鎌倉を落とし、元弘の乱は終結しました。
円心は六波羅陥落後、帰洛の途についた後醍醐天皇に30日に兵庫で拝謁しています。

鎌倉幕府滅亡後の建武の新政では、恩賞に播磨守護職を与えられながら、政争に巻き込まれ没収されるなど不遇であった事が知られています。
これは朝廷内の権力争いの結果、護良親王派が三位局(阿野廉子)派に敗れた結果といわれます。
同じく護良派といわれる楠木正成も戦功に比べ不遇であり、逆に三位局派の名和長年、千種忠顕等は新政の恩賞で厚遇されたといいます。
また、共に倒幕戦争を戦った護良親王が建武元年に失脚すると円心の新政における立場は失われました。
怒った円心は佐用庄へ帰っている。

これらの不満から建武政権と決別、建武2年、足利尊氏が中先代の乱を平定する軍に範資と貞範を従軍させました。
平定後、尊氏が鎌倉で建武政権から離反して京都に進攻、翌建武3年に北畠顕家、新田義貞、楠木正成らの宮方に敗れて九州へ逃れた時も足利方に留まり、尊氏から改めて播磨守護職を授けられました。

以後は足利方として戦い、京都方面から進撃してきた義貞を総大将とする尊氏討伐軍6万騎を、播磨赤松の白旗城で迎え撃った。
円心は、則祐を配した城山城などの城郭を播磨各地に築き、市川沿いに書写山を中心とする第一防衛線、揖保川沿いにを城山城を中心とする第二防衛線、そして千種川沿いに白旗城を中心とする第三防衛線をもうけて徹底抗戦を行いました。
さらに白旗城は、地理的に北方の美作、但馬方面、西方の備前からいくらでも支援が可能という強みを持ち合わせていました。
そのため義貞率いる討伐軍は、円心以下2,000の兵が立て籠る白旗城を圧倒的な兵力を持ちながら攻めあぐね、3月から5月まで50日以上釘付けにされました。

その間、尊氏は多々良浜の戦いで菊池武敏を破り、九州を制圧。西国の武士を軒並み味方に加えながら、軍勢を海と陸の二手に分けて東上を開始した。
足利軍東上の知らせに新田軍は撤退を開始するが、士気は極端に低下し、寝返りや足利軍への投降者が続出しました。
さらに、白旗城を出てきた赤松軍の追撃も受け、総崩れとなって兵庫まで逃げ延びた。
尊氏は白旗城から撤退した新田軍に5月25日の湊川の戦いで勝利、翌年に範資が摂津守護に任命され、赤松氏は2ヶ国の守護となりました。
但し、播磨には義貞の同族に当たる金谷経氏が残って播磨丹生山で挙兵したため、円心は延元3年/暦応元年から興国3年/康永元年まで範資・則祐と共に反乱鎮圧に費やすことになりました。

尊氏及び執事の高師直と弟の足利直義が対立した観応の擾乱においては尊氏に従い、尊氏の庶子で直義の養子である、直義方の直冬を追討するために軍を編成している最中、正平5年/観応元年1月11日、京都七条にある邸宅で急死しました。
享年74。
家督と播磨守護は範資が相続したが、翌正平6年/観応2年に範資も急死したため、摂津守護は孫の光範に、家督と播磨守護は則祐に受け継がれました。

法名は法雲寺月潭円心。
墓所は京都市東区の東山建仁寺の塔頭寺院久昌院。
供養塔が兵庫県赤穂郡上郡町の金華山法雲寺(法雲昌国禅寺)にあります。
また、木像が兵庫県赤穂郡上郡町の宝林寺にあります。
Wikipediaより


赤松円心ってどなた?
どうやら鎌倉時代の人のようです。
赤松円心以外の人物名って、聞いたことのある人がたくさん出てきます。
という事は、政治の中心にいた人達と近い場所にいた人なんですね。

伝赤松円心の墓があるというので、見に行くことにしました。
鳥居をくぐって見渡しても、どこにあるのかわかりませんでした。
決して広い境内ではないのですが…。
鳥居をくぐって右を見ると、手水鉢の向うに何かある?
近寄ってみると五輪塔でした。
これですね。
写真で見てわかるように、狭い場所に忘れれられてように建っています。

これはお墓と伝わりつつも、供養碑的な意味合いが強いのかな…。

そして本殿の横に、柵があったので覗いてみると、船形の大石といわれるものでした。
ここに甲冑や太刀を埋めたんですね。
埋まっているのかな?
赤松円心の気持ちを尊重して、掘り返すなどの調査はされていないそうです。

鎌倉時代から700年以上経っているので、調査してほしいという興味もありますが、はっきりとわからないという歴史のロマンでもいいかもしれませんね。
本当に思わぬ場所にいろいろな歴史がありますね。

しかし鎌倉時代は本当にわからないわ~。
幕末は好きで話もよく聞くし、世間的には戦国が人気№1で見聞きするのである程度はわかっても、鎌倉時代はあまり聞かないです。
南北朝時代は歴史の教科書で見たぐらいしかわかりません。
でも、この歴史があってこその今の日本なんですよね。












七松八幡神社 - 荒木一族処刑の地

2016年06月16日
有岡城から始まった、荒木村重関係の史跡の一つ、七松八幡神社(兵庫県尼崎市七松町3丁目10-7)です。

七松八幡神社3  七松八幡神社4

七松八幡神社7

七松八幡神社2  七松八幡神社6

七松八幡神社8


荒木村重
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。利休十哲の1人である。幼名を十二郎、後に弥介(または弥助)。

天文4年、摂津池田城主である摂津池田家の家臣・荒木信濃守義村(よしむら)の嫡男として池田(現:大阪府池田市)に生まれました。

最初は池田勝正の家臣として仕え、池田長正の娘を娶り一族衆となりました。
しかし、三好三人衆の調略に乗り池田知正と共に三好家に寝返り、知正に勝正を追放させると混乱に乗じ池田家を掌握しました。

その後、元亀2年8月28日の白井河原の戦いで勝利し、池田氏が仕えていた織田信長からその性格を気に入られて三好家から織田家に移ることを許され、天正元年には茨木城主となり、同年、信長が足利義昭を攻めた時にも信長を迎え入れ、若江城の戦いで功を挙げました。
一方義昭方に属していた池田知正はやがて信長に降って村重の家臣となり、村重が完全に主君の池田家を乗っ取る形となった(下克上)。
天正2年11月5日に摂津国人である伊丹氏の支配する伊丹城を落とし、伊丹城主となり、摂津一国を任されました。
以後も信長に従い、越前一向一揆討伐・石山合戦(高屋城の戦い、天王寺の戦い)や紀州征伐など各地を転戦し、武功を挙げました。
この間、従五位下摂津守に任ぜられます。

天正6年10月、三木合戦で羽柴秀吉軍に加わっていた村重は有岡城(伊丹城)にて突如、信長に対して反旗を翻しました。
一度は糾問の使者(明智光秀、松井友閑、万見重元)に説得され翻意し、釈明のため安土城に向かったが、途中で寄った茨木城で家臣の中川清秀から「信長は部下に一度疑いを持てばいつか必ず滅ぼそうとする」との進言を受け伊丹に戻りました。
秀吉は村重と旧知の仲でもある小寺孝隆(官兵衛、のちの黒田孝高)を使者として有岡城に派遣し翻意を促したが、村重は孝高を拘束し土牢に監禁。

以後、村重は有岡城に篭城し、織田軍に対して1年の間徹底抗戦したが、側近の中川清秀と高山右近が信長方に寝返ったために戦況は圧倒的に不利となりました。
その後も万見重元らの軍を打ち破るなど、一旦は織田軍を退けることに成功するが、兵糧も尽き始め、期待の毛利氏の援軍も現れず窮地に陥ることとなる。
それでも村重は「兵を出して合戦をして、その間に退却しよう。これがうまくいかなければ尼崎城と花隈城とを明け渡して助命を請おう」と言っていたが、天正7年9月2日、単身で有岡城を脱出し、嫡男・村次の居城である尼崎城(大物城)へ移ってしまいました。

11月19日、信長は「尼崎城と花隈城を明け渡せば、おのおのの妻子を助ける」という約束を、村重に代わって有岡城の城守をしていた荒木久左衛門(池田知正)ら荒木の家臣たちと取り交わした。
久左衛門らは織田方への人質として妻子を有岡城に残し、尼崎城の村重を説得に行ったが、村重は受け入れず、窮した久左衛門らは妻子を見捨てて出奔してしまいます。
信長は村重や久左衛門らへの見せしめの為、人質の処刑を命じた。

12月13日、有岡城の女房衆122人が尼崎近くの七松において鉄砲や長刀で殺された。
12月16日には京都に護送された村重一族と重臣の家族の36人が、大八車に縛り付けられ京都市中を引き回された後、六条河原で斬首された。

その後も信長は、避難していた荒木一族を発見次第皆殺しにしていくなど、徹底的に村重を追及していきました。
天正9年8月17日には、高野山金剛峯寺が村重の家臣をかくまい、探索にきた信長の家臣を殺害したため、全国にいた高野山の僧数百人を捕らえ、殺害しています。

しかし肝心の村重本人は息子・村次とともに荒木元清のいる花隈城に移り(花隈城の戦い)、最後は毛利氏に亡命し、尾道に隠遁したとされます、

天正10年6月、信長が本能寺の変で横死すると堺に戻りそこに居住しました。
豊臣秀吉が覇権を握ってからは、大坂で茶人として復帰し、千利休らと親交をもった。
しかし有岡城の戦いでキリシタンに恨みを持っていた村重は、小西行長や高山右近を讒訴して失敗し、秀吉の勘気を受けて長く引見を許されませんでした。
さらに、秀吉が出陣中、村重が秀吉の悪口を言っていたことが北政所に露見したため、処刑を恐れて出家し、荒木道薫(どうくん)となった(はじめは過去の過ちを恥じて「道糞」(どうふん)と名乗っていたが、秀吉は村重の過去の過ちを許し、「道薫」に改めさせたと言われています)。

銘器「荒木高麗」を所有していた(現在は徳川美術館所蔵)。

天正14年5月4日、堺で死去。享年52。

村重の織田信長に対する謀反の理由は、諸説があって今でも定かではありません。
ただ、信長は村重を重用していたため、その反逆に驚愕し、翻意を促したと言われています(信長公記、フロイス日本史など)。
Wikipediaより


天正6年11月9日、再三の説得にも応じなかった村重に対して、信長は自ら追討軍を率いて出陣しました。
高山重友、中川清秀といった武将を次々と降伏、帰順させていきました。
さらに12月4日には塚口に陣し、8日には自ら有岡城を攻めました。
村重は翌7年まで有岡城に籠りました。
しかし、同月には妻子と一族の荒木久左衛門を城中にとどめ、尼崎に移りました。
信長側は、織田信忠の軍が出陣、七松に砦を二ヵ所築き、村重と対陣しました。
村重は華熊城とともにこれに抗し、その後村重自身も華熊城に入り、雑賀衆とともに戦いましたが、毛利方に逃亡しました。

村重が反旗を翻したころyり信長は再三村重に降伏を進めていました。
有岡城を落としたのち、村重の家臣、妻子を人質にとり、尼崎・華熊の引き渡しを迫りました。

有岡城で信長軍に捕らえられた村重の一族は、
七松に連行され、処刑されました。
天正7年12月13日の事でした。
処刑の場所が七松だったのは、尼崎城包囲のおり、信長勢が布陣していたからでしょう。
下級武士の妻子388人が殺され、若党124人は、4戸の農家に押し込まれ、火をかけて焼き殺されました。
(磔ののち、鉄砲で撃たれる者、鑓や長刀で刺し殺される者と処刑の方法は様々)
村重の妻子は、京都に送られ12月16日、六条河原で斬首されました。
尼崎百物語より


JR西日本 神戸線立花駅からすぐです。
南側に降りて、線路沿いに東に向かいます。
踏切のある交差点まで来ると南に曲がります。
真っ直ぐ歩いていると七松八幡神社に到着です。
550mで約7分です。

この七松で荒木村重関係者が処刑されたんですね。
荒木村重の親族は京都まで連れていかれ処刑されたようですが、その他の下級武士の関係者は有岡城の近くでだったのですね。
この尼崎でそんな陰惨な事があったのはしりませんでした。

考えてみると、長い歴史の中で何もない土地なんてないのかもしれません。
でも、女・子供まで…考えると怖いです。
藩主の妻子なら…まだあり得るかなと思うこともできるのですが、下級の武士の妻子まで…。
藩主にあったこともないような人達までもが、連帯責任ですか?
戦国時代までの話でしょうか?
幕末ではあまり聞いたことがないですよね。

そして改めて、尼崎に織田信長が来ていたと知りました。
それはちょっとワクワク(過去の有名人が来ていたという事であり、残虐性は遠慮したいですね)です。

ここは有岡城と尼崎城の中間地点。
荒木村重本人は尼崎城まで逃げているので、最後は尼崎城を訪れないといけませんね。
でも、尼崎城はどこを尼崎城として訪れるといいのか難しいです。
ちょっと考えます。


ちなみに、この七松八幡神社は、「忍たま乱太郎」に出てくる七松小平太の絵馬があり、乱太郎ファンにも人気があるそうです。









有馬道道標

2016年06月12日
常願寺跡の横の道に有馬道道標(兵庫県尼崎市下坂部2丁目)があります。

有馬道2  有馬道3

有馬道は2013年5月25日と9月16日にも書いています。

大阪方面から有馬温泉へ行く道筋を「有馬街道」と呼び親しんできました。
神崎から北上し、藻川沿いに猪名寺・伊丹に至る本道と、次屋・下坂部・久々知・上坂部・塚口を通って昆陽(伊丹市)に至り宝塚市内で本道と合流する間道の2コースあったことが知られています。
尼崎市HPより

今回は間道のコース上の道標です。

「有馬街道」「有馬道」と呼ばれた道は歴史的に以下の四つのルートがありました。
1.神崎(尼崎市) - 伊丹(伊丹市) - 小浜(宝塚市) - 生瀬(西宮市) - 有馬温泉。
 別名「湯山(湯乃山)街道(ゆのやまかいどう)」。

このルートは最も歴史が古く、有馬温泉へ行く天皇や貴族、武家が往来したとされる道。
大阪の難波宮が起点だとする説もあります。
兵庫県道41号大阪伊丹線のごく一部(園田支所前交差点から猪名寺交差点まで)は旧街道がほぼそのまま舗装された区間です。
京都からの道筋である西国街道から池田で分岐し小浜でこのルートに合流する道も有馬街道(有馬道)と呼ばれていたようです。
また、羽柴秀吉が三木城を攻める(三木合戦)折に、この街道を有馬温泉から三木まで延長整備したことにより、姫路から京都への最短ルートとして利用されるようになり、姫路 - 有馬温泉間も「有馬街道」もしくは「湯山街道」と呼ばれていました。
なお、「湯山(ゆのやま)」とは有馬温泉の別名で、有馬温泉の場所が摂津国有馬郡湯山村であったことに由来します。

2.深江(神戸市東灘区) - 雨ヶ峠(六甲山) - 本庄橋(六甲山・廃橋) - 有馬温泉。
 別名「魚屋道(ととやみち)」。

魚問屋が有馬温泉の宿に魚を卸す際に1.の湯山街道を経由して運搬すると、時間がかかるのと継立による運搬費用がかさむため、六甲山を越えるルートで魚を運ぶようになり、道が出来たとされます。
阪神電車深江駅の南側にある大日神社から西国浜街道と分岐しています。

3.住吉(神戸市東灘区) - 住吉道(六甲山) - 本庄橋(六甲山・廃橋) - 魚屋道(六甲山) - 有馬温泉。
 現在の神戸市道有馬住吉線で、別名「住吉道・魚屋道(ととやみち)」。

本住吉神社境内東隣の南北に走る道の東南に「有馬道」の石碑があり、本住吉神社境内南東の交差点で本住吉神社境内の南に接し東西に走る西国街道本街道(現国道2号)と交差し、すぐ南方で本住吉神社参道と合流、南方の西国街道浜街道(現国道43号)に突き当たります。
北側は住吉谷沿いの住吉道を六甲山頂方向に遡り、本庄橋(廃橋)付近で魚屋道に合流。

4.平野(神戸市兵庫区) - 天王谷 - 山田(神戸市北区) - 唐櫃(有馬口) - 道場(神戸市北区) - 三田(三田市)。
 現在の兵庫県道15号神戸三田線。(神戸市兵庫区~神戸市北区皆森交差点間は国道428号と重複)

明治7年に、「天王谷越え」と呼ばれていた山道を、有馬郡役所があった三田まで整備した道。
Wikipediaより

この有馬道は、羽柴秀吉が関係している道だったのですね。
羽柴秀吉といえば、大阪では超有名なお方(笑)
全国的に有名ですが、大阪では馴染みの深い人です。
秀吉軍が通った道かぁ~。
すごいな!そんな道があったんだ!!
と、単純に喜んでしまいました。

今はもう住宅街の中の細い道でしかないですね。
本当に静かな所で、有馬道なんていう街道には思えません。

この道標は最近建てられたものなので、道標自体には歴史は感じませんが、有馬道は有馬道ですから歩いて歴史を感じてください。








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常願寺跡・厳島神社跡

2016年06月10日
常願寺跡(兵庫県尼崎市下坂部2丁目)を覗いてきました。

常願寺跡2  常願寺跡1

常願寺跡4

真雅僧正が諸国行脚の途中で下坂部に立ち寄り、一夜林間の石上に眠った時、夢に吉祥天女が現れて告げるとともに村民も霊夢によって帰依するもの多く、また百済伝来の吉祥天女の木像を贈るものもあった。
そこで僧正は下坂部の地に安生山常願寺を建立したといいます。
真雅僧正が大伽藍を建立し、後に西明寺時頼(北条時頼)がこの寺に一泊した時に大修理を加えたとも伝わります。
が、天正年間に兵火にかかり、小庵を残すのみになりました。

江戸時代の元禄5年に下坂部村の庄屋・年寄が幕府に提出した書類には、「桁行二間半、梁行二間半」の曹洞宗常願寺と号する吉祥天女の堂があり、また末社として弁財天の小社が祭祀されていたと記録があります。

真雅僧正とは、平安時代前期の真言宗の僧で、空海の弟にあたる僧のことを指していると考えられます。
真雅は空海の十大弟子のひとりでもあり、清和天皇の誕生以来の護持僧で、天皇とその外祖父である藤原良房から厚い信任を得て清和天皇の御願寺である貞観寺の開基となっています。
そして貞観寺僧正とも称されたところから下坂部常願寺の開基に擬せられたものとみられます。

弁財天社は境内社として社殿・鳥居・周濠を備えていて、後に厳島神社に改められ、明治42年に下坂部村の鎮守社である伊居太神社に合祀されました。
常願寺は大正6年に廃寺となりました。
尼崎市百物語より


ここの行き方は難しいです。
地元の人なら、「あ~、あそこね」となるのでしょうが、初めての人に教えるのは難しい…。
JR神戸線尼崎駅から阪神バス(旧尼崎市バス)に乗って、城ノ堀というバス停でおります。
バス停を2mほど戻って、横の路地を入ります。
まっすぐに進むと幼稚園にぶつかります。
幼稚園の正門の方向に進むと、門を通り過ぎた角に駐車場があります。
そこは三叉路で、その角が常願寺跡になります。
今は、奥に福祉会館が建っています。

碑も説明板の後ろにあり、隠れてしまっていて何だろう?と見ないとわかりません。
なんだか物悲しいな…。
説明を読む限り、立派なお寺があったようです。
北条時頼が宿泊したりしていますものね。

天正年間の兵火って、織田信長の尼崎焼き討ちとか…。
幕末関係で探していたときは、ほとんど尼崎の地名は出てきませんでした。
ところが戦国関係だと意外と尼崎が多いので驚いています。

荒木村重の居城が近くにあったからかな?
織田信長、池田恒興、豊臣秀吉、佐々成政、明智光秀、柴田勝家、丹羽秀長 等々有名な武将が尼崎に来てるんですよね。
では、幕末関係者で尼崎に来たのは…有名人では誰だ?
パッと出てきません。
残念です。

とりあえず、戦国武将と同じ空気を吸っているという事で!









天満宮跡

2016年06月06日
天満宮跡(兵庫県尼崎市食満7丁目6)まで足を延ばしました。

天満宮跡4  天満宮跡3

『尼崎市史』に、中食満の南に、稲荷神社のお旅所にもなっている石で囲まれ、石塔のある場所があったとあります。
  むかしは一畝(約100㎡)あまりが小高い丘のようになって、ひとかかえほどの梅の木がり、天神さんの屋敷があっとところといわれてきた。
梅の木が目印となる場所を「天神さんの屋敷」と呼んでいる。
そして「此の梅の木は天まで届いているから、悪いことをしたらあかんといわれた。」と伝わっています。
中食満の天神さんの屋敷跡、梅の木は、新幹線高架のため、現存していません。
「天満宮址」の石柱ガだけが移設され残っています。
尼崎百物語より


天狗塚より新幹線高架沿いに西に1.3km歩きます。
薬局を通り過ぎて、大きな道路を渡った2つ目の交差点に石碑があります。

住所の食満って読めますか?
「けま」と読みます。
なかなか難読ではないですか?

上食満、中食満、下食満 - かみけま、なかけま、しもけまと呼ばれる地域に分かれます。
たぶん今、住所には上・中・下はつかないと思いますが。
食満○丁目になっていると思います。








天狗塚古墳 - 大塚山古墳・中ノ田遺跡

2016年06月05日
天狗塚(兵庫県尼崎市南清水8丁目)があります。
大塚山古墳・中ノ田遺跡もあります。

天狗塚1  天狗塚8
                  天狗塚

天狗塚3  天狗塚4

天狗塚5  天狗塚6

天狗塚には、この塚の土が持ち帰られる決まって大粒の雨あ降るといいます。
そのため、大粒の雨が降ると、「土を持っていかれて、天狗さんが泣いてはる」と、祟りをおそれて家に急いで帰ったそうです。
近隣住民が持ち帰った時は、その家の築いたばかりの塀が倒れる、家主が病気になる等、よくないことが相次いだといわれています。

現在は祭祀は行われていませんが、最近まで宝塚の「拝みや」が来ていたそうです。
尼崎百物語より

大塚山古墳は、全長約45m、後円部径約24mの周囲に濠を巡らした6世紀代の前方後円墳です。
昭和初期土取り作業によって破壊されましたが、木棺を埋葬した粘土槨と木炭層をもった竪穴式土壙から五鈴鏡・鉄刀・鉄鏃・馬具・工具・玉類・土器などが出土しました。
現在約二分の一に縮小して公園内に復元しています。

中ノ田遺跡は、山陽新幹線建設に伴う分布調査によって発見された弥生時代と奈良時代の集落跡です。
この遺跡では弥生時代後期に人々の生活が始まり、その後 400~500年間の空白期間を置いて6世紀中頃に大塚山古墳が築かれ、さらに200年ほどの空白期間の後の奈良時代になって建物群が立ち並ぶ場所になりました。
猪名寺廃寺に類似する瓦や二彩土器・硯・石帯の出土などから猪名寺廃寺とも関連する遺跡であろうと考えられています。
尼崎市教育委員会より

天狗塚古墳2
   大塚山古墳(復元)

JR福知山線猪名寺駅の東側にある、尼崎市立園田北小学校の裏(東側)の新幹線の高架沿いにある公園にあります。
公園の真ん中に古墳があるのですぐにわかります。
天狗塚は新幹線沿いの道から公園に沿ってあるけば、ちょうど裏側の住宅街の方にあります。

天狗塚という塚からして、少し不気味さを感じませんか?
天狗塚を見つけたときには、想像していたような場所になくて驚きました。
名前の響きから、うっそうとした木々の中にあるとか、住宅街から外れた少し寂しげな場所にあるのかな?と思っていました。
いえいえ、住宅街の真ん中に堂々とありました。
くらい印象もなく、ごく普通に建っていました。
公園の入り口横で、子供たちがいたずらしそうとさえ思いました。

公園の中央には復元された、大塚山古墳があります。
いやぁ~、こんな場所に古墳を復元したら、子供の遊び場が狭くなるぞ!って思いました。
古墳のまわりには、柵があるので入ったらいけないのですよね?
まぁ、簡単に入れそうなものですが…。

この辺りには、古くから人が多く住んでいたのですね。
そういう歴史の積み重ねが現在に至っているでしょう。









船詰神社

2016年06月04日
武田勝親墓のほぼ隣に船詰神社(兵庫県尼崎市東園田町1丁目359)があります。

船詰神社1

船詰神社2  船詰神社3

船詰神社は、富田の氏神です
旧社地は小字神上にあったといいます。
現在、東園田町2丁目に船詰公園にある礎石がその旧跡です。
周壕があり、土器が出土したこともあったといい、前方後円墳であったといわれています。
昭和50年に土地区画整理事業により、現在地に移っています。

祭神は鳥之磐楠船命です。
伊邪那岐、伊邪那美の生んだ15番目の神で、国譲りの際に使いとして登場します。

古事記にもあるように元来、海路交通の神であるところから、このお宮で交通安全の祈祷をうける人が多い。
尼崎百物語より



武田勝親墓の西側にあります。
大きな神社で、木が生い茂っているのですぐにわかります。

歴史的にどこにどうかかわっているのかはわかりませんが、とりあえずパシャリ。
船詰神社自体は古いようですね。
神社の境内を除いてみたら、隣にこんもりとした土手がありました。
これは何かの遺跡?
公園なのかな?

午前中の早い時間に訪れたからか、お参りしている人はいませんでした。
静かな空間でした。













司馬遼太郎 「国盗り物語」

2016年06月03日
司馬遼太郎著「国盗り物語」をようやく読み終わりました。
長かったぁ~。
1巻500ページ前後×4巻です。
でも、途中でやめたくなることもなく、淡々と読み終えた感じです。

1・2巻は斉藤道三編
3・4巻は織田信長編 ということでした。

まあ、読み始めたのは例のドラマの影響なんです(笑)
私としては斉藤道三編の方が面白かったです。
織田信長編は明智光秀が主人公といってもいいと思います。
明智光秀からみた織田信長ですね。

斉藤道三は初めて知った人でしたが、本当に数奇な人生です。
国盗り物語では私が思っていたほどに「蝮」ではなかったです。
確かに怖いのですが、戦国時代ならありそう…という印象でした。
織田信長は怖い。
それも理不尽な怖さでした。
戦国時代でもそれはあかんやろ!という事をしばしばやってますね。

でも私のなかではどうしても、あの織田信長とその家臣たちの映像が本の中のセリフを話すので怖さ半減です。
読み終えてまた違う方向から見た話も読んでみたいと思いました。

新選組オタクの私ですが、冷徹といわれる土方歳三の話でも、敵方からみた土方歳三を書けば、冷徹・冷酷・鬼な土方歳三像になりますが、沖田総司からみた土方歳三を書けば、優しさも十分にある土方歳三になると思うのです。
織田信長も、明智光秀側から書くか、森蘭丸から書くかでも違うとおもうのですよね。

戦国だけではなく、幕末に戻らなくっちゃ。




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武田勝親墓

2016年06月02日
武田勝親墓(兵庫県尼崎市東園田町1丁目105-2)が善念寺にあるそうです。

武田勝親墓1  武田勝親墓3

武田勝親墓6  武田勝親墓5


武田 勝親(かつちか)
天正8年 - 天和2年6月19日は戦国時代の武将・僧。
甲斐武田氏の家臣。武田氏当主・武田勝頼の三男。
『甲斐国志』では勝頼の三男であったことから初名が「勝三」であったとし、幼名であるとも考えられています。
勝千代。実名は「勝近」とする説もあります。
『系図纂要』によれば、通称は左衛門。 号は「善悦」。

天正10年3月、織田・徳川連合軍の武田領侵攻により、父の勝頼や異母兄の信勝は天目山で自害しました。
『甲斐国志』『系図纂要』によれば、勝親は家臣の栗原氏に救出され、大菩薩峠を越え鎌倉へ落ち延びたといいます。
『系図纂要』には「又還住」と記されていることから、武田氏滅亡・天正壬午の乱を経て甲斐へ帰国していた可能性も考えられています。
『摂津名所図会』では勝親を救出したのは栗原左衛門尉で、醍醐寺密経院の配慮で富田村へ移り、大坂城へ入城して織田信長と戦ったとされているが、これは誤伝であることが指摘されている。

その後、『甲斐国志』『系図纂要』によれば摂津国尼崎藤田村(兵庫県尼崎市)へ移り、「善悦」と号して浄土真宗本願寺派の僧となったという。
『系図纂要』では天和2年(1682年)に享年103で死去したとしています。

『摂津名所図会』によれば勝親は富田村に善念寺を創建し、善念寺には江戸時代の供養塔があります。
Wikipediaより


阪急電鉄神戸線園田駅から武田勝親の墓に歩いていきます。
駅の北側に出ます。
駅前の信号を渡り細い商店街を北に向かってず~っと歩きます。約700m。
広い道路に出ます(内環状線)。
道を渡らずに東側(右側)に曲がります。
また700mひたすらまっすぐ歩きます。
利倉西町交差点を越えて、次の細い曲がり角が墓地の一角になります。
この付近は大阪府との府県境でもあり、尼崎市と豊中市との市境でもあるので、途中豊中市になっても大丈夫です。

私が行ったときは、草や木の葉が生い茂っていました。
数基お墓があります。
武田勝親墓は道路の方を向いているので見えました。
お寺の墓地なので、門があり入れないので塀越しに見てきました。

正直、初めて名前を聞く武将でした。
103歳まで生きたというのなら、現代でも長寿です。
戦国時代で103歳って今以上にいてなかったでしょうね。

この辺りは静かであまり人も歩いていませんでした。
なので余計に塀越しにお墓を見ている私は不審者っぽかったかもしれません。
幸い塀は低めで、門の格子の隙間から中が見えたので良かったです。
戦国ブームではないのですか?
戦国ブームならせっかく武田勝頼の子供の墓があるのですから、もっと大々的に世間に広めて、みんなにお参りしてもらうのは勝親さんがいやがるかな。
せっかく静かに眠っているのにね。





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馬橋

2016年06月01日
馬橋(兵庫県尼崎市次屋2丁目13)という場所があります。

馬橋1  馬橋2

馬橋3

昔此ノ邊ニ合戦アリ。一駒ノ遁レ来ルヲ三騎追躡スルコト急ニシテ、終ニ及ビテ鎬ヲ削ル。一騎ノ将ラシキヒト、遥ニ之ヲ望ミスル百姓ニ救ヲ請ヒシガ、何思ヒケン、三騎ノ方ニ加勢シテ、ソノ大将を討取レリ。サレバ下坂部ノ者、他ニ行キテ帰リ来ルニ、忽チ此所ニテ行ク手暗クナリ、歩ム能ハズ、村民許多ク出テ、名ヲ呼ブヲ知ル邊ニ、辛クモ帰ルヲ得シト言フ

川は埋め立てられています。


荒木村重を討とうとした若者が逃げる途中村人に見つかり、密告され、白馬とともに殺されました。
亡骸は橋の袂に埋められました。
それ以後、村人がこの橋のところに来ると白馬と若武者が現れ、人々を驚かせました。
村人が白馬と若武者を丁重に葬ると以後亡霊は出なくなったといいます。


村人が夜にこの橋を通ると、火の玉があらわれて「お~い、お~い」と呼び止めます。
これは、織田信長の軍による伊丹城(有岡城)落城の際、馬橋のあたりで惨殺された上臈「ともえ」と同行していた御殿女中の霊魂のしわざともいわれていました。


荒木村重がいた頃、友御前という姫君が小寺家の門前に隠れていることが密告され、姫君は馬橋のあたりで殺されました。
その後、密告した地域の村人がそこを通ろうとすると白い馬が現れて、邪魔をするため、村人が大声で呼ぶと馬が消えて通れたとされているようです。
尼崎百物語より


JR神戸線の尼崎駅から北へ歩いて約15分。
バスなら阪神バス(旧尼崎市バス)次屋2丁目バス停から、3分の所に石碑があります。
次屋2丁目バス停から次屋2丁目交差点まで数m戻ります。
昔の道標が路上にあるのでその細い道に入るとすぐ左側の民家の横に碑があります。
バス停の裏側という感じでしょうか。
3枚目の道が映っている写真は、バス通りに向かって撮りました。
右手前のマンションの向う、塀のある民家の脇に碑があります。

探していて、あまりに家の前にあってびっくりしました。
こんな所に碑があるなんて。
川の気配なんて感じられない。
ただ地図をみてみると、バス通りの東側には川があり、西側に曲がって消えています。
そのまま川が延びていたらちょうどこの辺りに川があったことになります。

この場所の話としては、荒木村重がらみのようです。
荒木村重が尼崎城に逃げたことから考えると、有岡城と尼崎城の中間地点に近いこの辺りに話が残っていても不思議ではないのでしょう。
荒木村重関係ということは、まわりまわって織田信長にも通じるってことですね。
ちょっと感慨深いな~。

大通りから一本入っているので、静かな住宅街です。









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