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全然違うのに…

2016年05月31日
私の中で、
「明智光秀」と「石田三成」の区別が咄嗟につかない(笑)
“みつひで”と“みつなり”、“みつ”しか一緒じゃないのに…。

それに活躍したのも、織田信長時代と徳川家康時代とちがうのに…。
何かいつも「あっ、違う違う、こっちの人や」と考えてしまいます。
最初に歴史を習った時に、似てるな~とか思ってしまったのがインプットされちゃったのかしら?





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小休止

2016年05月30日
有岡城を中心に戦国を少し回って、今日は少し小休止です。
私の勝手なひとりごとを書こうと思います。

ダメだ~、戦国時代そのものにははまらなかったけれど(興味は沸きましたよ!)、ドラマにハマってしまいました。
たぶん戦国時代ファンからしたらありえないドラマになるのかもしれませんが、入り口としては最高です。
新選組(幕末)ファンに、“竜馬におまかせ”が人気がなかったように、戦国ファンには不評だったのかな?
でも、私は新選組オタクですが、“竜馬におまかせ”は好きなドラマです。
特に、西村雅彦氏の清河八郎と北原雅樹氏の饅頭屋・近藤長次郎は最高でした。

今回の“信長協奏曲”もそれに似た感覚かな?と考えてみましたが、ちょっとちがうかな…。
話は歴史に忠実ではないかもしれませんが、ストーリーも楽しいし、俳優さんがみんな男前。
男前前提で、和服に弱いんです。
小栗旬さんの恰好良さにやられました。
小栗信長のような息子がいたら…、毎日眺めてるわ(笑)

かといって、お正月にアイドルとかが着物を着ていてもときめかないんです。
いかに、さりげなく、かっこよく着物をきているか。
着物に着られているのではなく、着物を着ているか…これが大事ですね。
後、殺陣とか乗馬とか、もちろんこれも必須です。

大河ドラマの真田丸は面白いとは思いますが、はまるってこともなく、淡々とみてしまいましす。
同じ戦国時代なのに…。
ちなみに私の印象に残っている大河ドラマは、“峠の群像”“毛利元就”“龍馬伝”です。

思いつくままに、私感を書きました。
さあ、また史跡めぐりに行こう!




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二十一人討死之碑

2016年05月29日
二十一人討死之碑(大阪府大阪市福島区玉川4丁目5-17)です。

大坂野田

天文2年、福島・野田を訪れた本願寺第十世証如上人は、近江の佐々木六角定頼の手勢に不意をつかれました。
野田・福島の門徒の百姓衆が鋤・鍬・鎌を持って敵兵に立ち向かい、証如上人を護るために命をかけて戦い紀州に逃しました。
しかし信徒21人が犠牲になりました。
後に、このことを知った証如上人は、お礼を御書にしたため、犠牲者の菩提を弔ったそうです。

証如上人
戦国時代の浄土真宗の僧。
諱は光教。院号は信受院。
本願寺第10世。本願寺第8世宗主・蓮如の曾孫。

永正13年11月20日、誕生。父は遍増院円如。母は慶寿院鎮永尼。

大永5年、父方の祖父である本願寺第9世宗主・実如の死去により、10歳で継承し、本願寺第10世宗主となりました。
実如の弟で証如の母方の祖父である蓮淳の後見を受ける。
大永7年、当時の本願寺教団と中央権力との親睦を深め安泰を図るため、摂家に接近して関白・九条尚経の猶子となっています。

享禄4年、本願寺教団内部で対立(後の山科本願寺の戦いまで含めて享禄・天文の乱と呼ぶ)が起こるが、証如はこれを抑えて法主の指導力強化に努めました。

天文元年には、管領・細川晴元の要請を受けて門徒を動員し、三好元長を敗死に追いやったが、晴元はこれによってかえって本願寺の実力を恐れ、京都の日蓮宗教団や六角定頼と手を結んで、当時の本願寺の本拠地であった山科本願寺を攻撃し、これを焼き討ちにしました(天文法華の乱)。
山科本願寺を追われた証如は、居所を大坂の石山御坊に移し、石山本願寺を新たな教団の本拠地としました。
その後は晴元の養女(左大臣三条公頼の三女・如春尼。長姉は晴元に、次姉は武田信玄に嫁ぐ)を長男・顕如と婚約させて晴元と和睦し、室町幕府とも親密な関係を築いて中央との関係修復に努め、本願寺の体制強化を進めました。

天文15年には金沢に尾山御坊を築いて同地方における門徒の統制を強化したが、これは朝倉氏との対立もあって、証如の時代には必ずしも十分に達成されなかった。
また、加賀一向一揆の調停という形で北陸地方の門徒集団への介入を深めました。

天文23年8月13日、39歳にて示寂。
本願寺は12歳の顕如が継承する。
Wikipediaより


駅に向かって歩いている時に偶然見つけました。
何だろう?と見ても、柵の中にあって、碑に刻まれた文字も読めなくその場所ではわかりませんでした。
ただ、案内看板に二十一人討死之碑 ○○mというのがあったので、おそらく二十一人討死之碑だろうとは思っていました。
じゃあ二十一人討死之碑とはどういう出来事なんだ?という事に…。
帰宅後調べてみると、戦国時代の出来事の碑でした。

私の印象では、戦国時代の寺院には僧兵がいて、戦うお坊さんというのが浮かびます。
根来寺や延暦寺とか。
石山本願寺もよく聞きますよね。

証如上人の少し後の石山本願寺と織田信長はずっと戦っていたんですよね?
戦国時代はあまりよくわかっていませんが。

柵に囲まれ、木が生い茂っているので、あまり目立たないのですが、柵に囲まれているという事は大事にされているという事ともいえるのかな?










大坂船手会所跡

2016年05月28日
しばらく歩いていると、大坂船手会所跡(大阪府大阪市西区川口1-3)というのがありました。

大坂船手会所跡2  大坂船手会所跡1

江戸時代には川口には瀬戸内海をはじめ西日本の海を治める幕府の拠点がありました。
長官に当たる「船手(船奉行)」は幕府の軍船管理や水兵指揮、参勤交代のため航行する西国大名の監視、琉球使節や外国使節の航行警護など国事にかかわる多彩な職務に携わりました。
資格や待遇は江戸の船手より上です。
会所なので事務所のようですが、大坂船奉行所がわかりやすいでしょう。


交差点の横にありました。
何だろう?
「大坂船手会所」とあるので、船に関係のある場所には間違いありません。
大坂の「さか」が「坂」になっているので、現在ではないのは確かです。
いわゆる「船奉行所」なんですね。
元治元年まであったという事は、新選組の池田屋事件のころまであったということで、ばっちり幕末です。

元治元年まで…、おそらく新選組は訪れてない?
大阪出身の隊士とかならわかりませんが、いわゆる幹部は来てないんでしょうね。
ただ、これから幕末で有名になる人物ではいてるかもしれません。

今は誰も立ち止まる人がいませんでした。
たまたま私が通った時がそうだったのかもしれませんが、気にしてないと見ようとは思わないですよね。
私は見ますよ!



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川口居留地跡

2016年05月27日
川口居留地跡は大阪市立本田小学校(大阪府大阪市西区川口1丁目5番19号)の横にあります。

川口居留地3  川口居留地2

旧川口居留地は、1868年大阪開港と同時に、大阪市西区川口付近に設けられた外国人居留地があったエリア。

江戸時代末期の安政五カ国条約(1858年)によって大坂は、函館・新潟・東京・横浜・神戸・長崎と共に開港または開市(外国人に商取引を認めること)されることが決定されていました。
時の政府はその時期を引き伸ばし続けてきたがついに1868年、東京・神戸・新潟とともに大阪が開市・開港されました。
開市は慶応3年12月、開港は慶応4年7月のことでした。
開港と同時に外国人居留地と定められた川口町26区画の諸外国への競売が行われ完売し、直ちに街路樹や街灯、洋館が並ぶ西洋の街へと整備されました。
居留地に接する本田、富島、古川、梅本町も外国人雑居地となりました、

川口が貿易港として継続的発展をなしえなかったのは、安治川河口から約6km上流に位置する河川港であるため水深が浅く、大型船舶が入港出来なかったことによる。
そのため、外国人貿易商は良港を有する神戸外国人居留地へと移住していきました。
彼らに代わってキリスト教各派の宣教師が定住して教会堂を建てて布教を行い、その一環として病院、学校を設立し経営を行いました。
平安女学院、プール学院、大阪女学院、桃山学院、立教学院、大阪信愛女学院といったミッションスクールや聖バルナバ病院等はこの地で創設されました。
それら施設も高度な社会基盤が整備されるに従い、大阪の上町エリア(天王寺区・阿倍野区など)へ次々と移転して川口は衰退への道をたどることになりました。
対照的に大型外国船が集まるようになった神戸港は、1890年代には東洋最大の港へと拡大していきます。

日本聖公会大阪主教座聖堂川口基督教会は1995年の阪神淡路大震災により塔などが崩壊し、その後に多くの寄付を受けて復旧されました。
Wikipediaより


用事で近くに行ったときに、偶然見つけました。
何やら碑があるぞっ!と、近づいてみると川口居留地跡の文字があり、説明の出だしが慶応4年です。
慶応4年はギリギリ幕末?!

学校の横に碑はありましたが、周りは倉庫や会社が多く、学校があるのが不思議なくらいに思いました。
しかし多くの有名学校がここから始まっているのですね。
当時は多くの外国人の方もいて、賑やかだったのが想像できます。

居留地としては大型船が入ってこれず衰退したようですが、江戸期は各藩の蔵屋敷が多くあった場所ですから、国内程度の船なら十分だったということなんでしょう。











墨染寺

2016年05月26日
今回の最後は墨染寺(兵庫県伊丹市中央6丁目3-3)です。

墨染寺1  墨染寺3

源義仲が創建した七堂伽藍を構える巨刹であったが、天正7年荒木村重の有岡城の戦いで焼失しました。
その後、道元禅師旧跡の墨染寺(京都市伏見区)が荒廃したため、伊丹の住人加楽井氏がここに遷して再興。 後には荒木村重の菩提所となりました。
現在の堂宇は平成7年の新築。

女郎塚
天正7年の有岡城落城後、織田信長は城中の婦女を1ヶ所に集めて焚殺させました。
その供養塔で、表に草書体で「女郎塚」、右側に天正7年巳卯12月13日落城と刻む。

正和2年銘層塔 
荒木村重の墓と伝えられてきた九層の石塔。

上島鬼貫の故郷墓と谷口与鹿の墓
鬼貫句碑 「秋ハ物の 月夜烏は いつも鳴」 があります。
Wikipediaより


JR伊丹駅から東に向かい、県道13号まで出ます。
県道13号を南に歩くと、右手にライオンズマンションがあります。
そこから東を見ると大きく“墨染寺”の文字が見えます。

地図を持たずに来てしまったので、お寺の場所があやふやになってしまいました。
荒村寺はあきらめ、帰路につきなが「お寺、お寺」と怪しい人状態でした。
本当に墨染寺もあきらめようとしたときに、偶然見るけることができました。
信号が変わるのももどかしく、青になった瞬間に走っていました。
大通りから一本入っているのですが、それなりに交通量があるみちでした。

門から中をのぞきましたが、静かすぎて、入っていいのか迷い、今回は門の外からのみで済ませました。
女郎塚はどこにあるのでしょうか。
奥にあると思われる墓地にあるのかな?

女郎塚の話は、絵に描いたような織田信長像ですね。
女までもが殺害される…。
でも先日、大河ドラマ「真田丸」で秀吉が同じように、罪のない者やその家族までも皆殺しにしていました。
信長だけでなく、秀吉も、おそらく戦国武将と呼ばれるような人達は同じような事をしているのでしょう。
それが戦国時代なんでしょうね。
今の時代で良かったと思いますが、戦国時代に生まれていたら、それはそれで納得していたのだと思います。









古城庵跡

2016年05月26日
荒木村重関係のお寺を探すために、有岡城を後にしました。
その途中に碑があったのですが、よくわからないのでやはり写真をパチリ。
上田南嶺 古城庵跡(兵庫県伊丹市伊丹2丁目)とありました。
安政の文字が見えたので、「幕末や!」と期待して帰りました。

上田南嶺

上田南嶺
安政5年に生まれ、昭和18年に亡くなりました。
日本画家。
大正7年に古城下に「古城庵」を築き、終生の住みかとして作品を作りました。

JR伊丹駅前の有岡城跡から南、タクシーロータリーの方向へ歩き、県道55号まで出ます。
JR伊丹駅南という交差点から線路方向に曲がるとそこは荒村寺
-実は今回見つけられず、行けなかったのです。拝観はできませんが、荒木村重のお位牌があります。
座禅会などされているようですので、お寺のHPをご覧ください。-
今日は反対に曲がってしまいました。
次の交差点の角に、上田南嶺の碑がありました。
どうやら碑の奥にお庭があるみたいです。
私はその碑しか見ずでした。

上田南嶺は日本画家でした。
絵画なんて一番縁遠いので、私は知らない方でした。
たぶん、私みたいに「碑がないかな~」なんて思いながら歩いていないと、きっと見過ごしてしまうだろうというくらい、ひっそりとありました。
お手入れされてるのかな?という感じでした。



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塚口城跡

2016年05月25日
有岡城に行った日は、他に2ヵ所回りました。
しかし先に塚口城跡(兵庫県尼崎市塚口本町1丁目)に行きたいと思います。

塚口城3  塚口城2

【尼崎】
自治都市であった尼崎は、戦乱の時代にも、大名の武力に屈せず抵抗することがありました。
このため、応仁元年には周防など4か国の守護であった大内政弘に、また永禄12年には天下統一を進める織田信長によって焼き討ちにあっています。
また尼崎地域は、信長に対抗した一向一揆の拠点でもありました。
尼崎市立地域研究史料館

土塁の面影を残す小高い東町門跡や水路として残された濠の跡などが残っています。
尼崎市HP

有岡城の戦い(謀反を起こした荒木村重との戦い)
信長も有岡城と猪名川を挟んだ古池田(池田城)に本陣を移して有岡城を攻囲した。
池田城は村重の元居城で、この当時は廃城になっていたと思われている。
織田軍は、まず別動隊として動いていた滝川一益、丹羽長秀隊が同年12月4日兵庫の一ノ谷を焼き払い塚口付近に布陣した。
Wikipediaより


塚口城4
塚口城跡の後ろを流れている水路


戦国時代に詳しくない私は、塚口付近というのがどのあたりかわかりません。
でも、塚口城があったのなら城を拠点としたのでは?と思い、塚口城を訪れてみました。
今は、本当に住宅街で、ポツンっと場違いのようにお社がありました。

この場所は、阪急神戸線塚口駅からだと、阪急電車北側を線路に沿って東に歩きます。
信号のある交差点で、北(左折)に曲がります。
交番の交差点で左折すると数mで塚口城跡があります。

もしJR福知山線塚口駅から行くのなら、西側に出てしばらく西に歩きます。
東塚口町1丁目交差点を北(右折)し、阪急の高架を超え、コンビニの信号をの向かいにある交番横を入っていくとあります。

有岡城跡に行ったあと、信長軍が塚口に布陣したと知り、行ってみないとと思いました。
尼崎城も有岡城の戦いでは重要拠点ですが、尼崎城は機会があれば行きます。
ここ塚口に信長は来なかった?
丹羽長秀は塚口に来たんですね。
すごい!有名人が…、戦国時代に舞台になっているんだ!!
幕末は意外と尼崎が出てこないんですよね。


戦国時代のヒーローといえば、織田信長ですか?
幕末だと坂本龍馬。これはほぼ間違いなし!
織田信長といえば、一般的なイメージは冷酷・残虐?
でも、今の私は織田信長といえば、あの“信長協奏曲”の信長…小栗旬氏ヴァージョンが出てきます。
信長協奏曲にはまった私。
あの信長の魅力にやられました。
歴史上の織田信長の性格もこんなだったら、歴史はどうなっていただろう。
本当の本当はどんな人だったのでしょう。
幕末の新選組土方歳三だって、冷酷・冷徹な性格だと一般的なイメージがあるのですが、それ以外の魅力的な逸話もあります。
本当の性格なんて、同じ時代に接した人しかわからないんですよね。

でもきっと、小栗さんが演じていたから、あの信長が魅力的だったのだと思います。
他のどの俳優さんが演じてもダメだったはずです。
ちょっぴり軽いけれど、真剣に悩み、そして前向きに進む信長は、彼だけのものだと思いました。
もちろん他のキャストの方も配役がGoodで、他は考えれれないです。

あのキャストで、まじめな大河ドラマを作ったらどうなるのかな?
軽妙なセリフはありだけれど、タイムスリップとかではない、歴史ものです。
見てみたい気もするのですが、年末のスペシャル時代劇とかどうですか?

今まで正直小栗さんを見ても、特別ときめくことはなかったのですが、今回はもうドンピシャハマってしまいました。
NHK大河ドラマの“天地人”も“八重の桜”も見ていたのに、出ていたことすら覚えてないくらいです。
ちょっと残念。
大河の演技を見てみたかったです。
と私はまだ信長協奏曲の映画編を観ていないので、夏を楽しみにしています。







有岡城 捌

2016年05月24日
有岡城(兵庫県伊丹市)に黒田官兵衛ゆかりの藤があると聞いていました。

有岡城20  有岡城21

フランドルの鐘の横に藤の花が咲いていました。
黒田官兵衛ゆかりの藤と聞いていたので、黒田官兵衛が植えた藤があるのかと思っていました。
それにしては、貧弱な藤なんだけれど…。
と、説明を見ると、NHK大河ドラマ“軍師官兵衛”を記念して、官兵衛ゆかりの姫路城の藤から育てた子孫樹を植えそうです。

考えてみれば、戦国時代からの藤がそう残っているはずはないのですが、期待していただけに残念でした。
直接官兵衛が見た藤の子孫株でもないんですものね。

これからもっと多くく成長していけば、立派な藤の木になるでしょう。
これからのお楽しみです。






有岡城 漆

2016年05月23日
有岡城(兵庫県伊丹市)の復元井戸や礎石がある場所から、道を挟んだ向かい側(南側)に移動します。

有岡城17

有岡城18  有岡城19

ここも有岡城跡ですが、真ん中にフランドルの鐘(カリヨン)が建っています。
鐘といっても、教会の鐘のように鳴るのではありません。
上部に演奏室があって、大小43個の鐘を手動バトン(鍵盤)により4オクターブの音で演奏するのです。

今は、年に5回演奏されているようです。
伊丹市のHPに日程が載っています。

さてさて、私はフランドルの鐘を見に来たのではないです。有岡城を見に来たのですよ。
フランドルの鐘の横に、有岡城の説明板があります。
図をみると、有岡城って広かったのですね。
思っているよりウンっと広大です。

この場所は説明板以外、城跡らしきものは感じられないかな。
遠くから見ると、小高くなっているここの周囲は石垣になっているのですが、この場所に立ってしまうと何もみえません。

昭和50年まではこの辺りに、荒村寺があったそうです。
荒村寺は荒木村重の位牌が、祀られています。
今は50mほど南に移転しています。

この説明板の図を参考に、伊丹城内の境を歩いてみるのも楽しいかもしれません。












有岡城 陸

2016年05月22日
有岡城(兵庫県伊丹市)にあった碑です。
懐古園と書かれています。

有岡城8  有岡城9

荒木村重に直接関係のある人のものではないようですね。
その後のこの土地の所有者の方が、荒木村重を懐かしんで(?)とのことのようです。

ここはよくわからないので、とりあえず写真をパチリと撮っておきました。
万が一すごくゆかりのあるものだったら大変。
また写真を撮りに来なくてはいけませんものね。











有岡城 伍

2016年05月21日
有岡城(兵庫県伊丹市)の礎石建物跡もありました。

有岡城13

もともとこの場所にあったの?
いや~、石と石の間隔ってこんなもの?
と思いました。

礎石というこは、この上に柱が乗っていたのではないのでしょうか?
それだとすごく小さな空間にならないのかな?
もしこの礎石が当時のままならもう感動かもしれません。
この石は歴史の証人ですからね。

荒木村重や明智光秀をその上に乗せた石かもしれません。
そして多くの歴史を見ていたのですよ。
楽しい!







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有岡城 肆

2016年05月20日
まだ有岡城(兵庫県伊丹市)です。

「有岡城 参」の井戸跡は、階段を上って左斜め前辺りにありました。
さらに奥に進むと、階段から一番遠い角付近に“有岡城石垣”の表示がありました。
有岡城7

石垣に向かって左側に“土塁”と書かれていました。
有岡城11  有岡城12


確かに石垣があります。
これもやはり復元ですよね?
使われていた石?
などと思いながら、左側(西側)をみると土塁と書かれています。
ん~こちらも確かに土塁ですね。
でも今一つ、ピンっとこない感じです。
土塁といわれれば土塁があるな、と思いますが、いわれなければどこにでもあるちょっと木の生えたやぶでしょうか。

でも石垣があると、お城って感じはします。
ところで黒田官兵衛はどのあたりで監禁されていたのでしょうか。
免許更新センターやアイホールのあたりではないかというのを読んだ記憶がありあすが、確定はされていないようです。
それにしてもこの辺りを歩いたのは事実なんですよ。
すごいですね~。
歴史を感じるわ~。












有岡城 参

2016年05月19日
有岡城(兵庫県伊丹市)の井戸跡です。

有岡城6

最初に目が行き、気になったので近づいてみました。
“井戸跡”と書かれています。
深さは…数十cm。
落ちても大丈夫そうです。
擦り傷とか足をくじくということはありそうです(笑)

「こんなところに井戸?」と思いましたが、復元されているということは、本来はここにはなかったのではないでしょうか?
どうなんだろう?
ちょっと不明です。

でもフムフムと観察して写真をパチリ。








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有岡城 弐

2016年05月18日
引き続き有岡城(兵庫県伊丹市)です。

有岡城跡の石碑横の階段をのぼりました。
有岡城14

有岡城5  有岡城4

上は開けていて、小さな広場です。
階段を上った足元には有岡城の説明が書かれた石がありました。
石に書かれていて見た目は恰好良いのですが、ちょっと読みにくい(苦笑)
写真を撮っても、ご覧のとおり木の影がしっかりと映りこんで読みにくい(笑)

ここに荒木村重はもちろん、黒田官兵衛や明智光秀がそして織田信長という、誰もが知っている歴史上の人物が踏みしめた土地なんだと見渡してしまいました。
戦国時代は幕末とは違い、絶対に写真なんてありません。
幕末なら写真が出てきて、本当の姿を知ることができる可能性がゼロではありませんが、戦国時代ではありえない。
肖像画はあっても、それがどれだけそっくりに書かれているのかもわかりませんし、本当にそのひとの肖像画であるかもわからない…。
結局はテレビ時代劇でみた、一番印象的な俳優さんのイメージが多く混ざった顔を思い浮かべて妄想してしまうんですよね。
でもそれはそれで楽しいんですけれど。

さあ、ここを一周してみよう!






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有岡城 壱

2016年05月17日
幕末から少し離れます。
なかなか幕末の史跡に行けないので、行ける史跡が戦国でした。

最初は有岡城跡(本丸:兵庫県伊丹市伊丹2丁目)に行きました。
有岡城は伊丹城ともいうようですが、有岡城跡の碑があります。

有岡城2  有岡城3

南北朝時代、摂津国人の伊丹氏によって建築され、文明4年には改築され、それまでの伊丹城が日本最古の天守台を持つ平城となりました。
しかし、天正2年11月5日、荒木村重によって攻め落とされ、のちに伊丹氏の伊丹城を大改修し、有岡城に改称しました。

荒木村重は後に謀反を起こし、有岡城は織田信長に攻められて落城した。

大坂城や江戸城などにもあった惣構えの最古(2005年現在)の遺構が発掘された。
城の東側を流れる伊丹川との間は崖になっており、さらにその東側には駄六川と猪名川が流れており、これらの河川が天然の要害となっていました。

南北朝時代:伊丹氏により築城。伊丹城と称する。
天正2年:荒木村重が城を落として大改修。ついで、有岡城と改称。
天正7年:村重謀反により織田軍に攻められ落城。
天正8年:池田之助が城主になる。
天正11年:之助が美濃に転封されることにより、廃城。
明治26年:鉄道敷設の為、当城東側破壊。
wikipekiaより



有岡城跡は,猪名川の西岸伊丹段丘東縁部の一角に位置します。
城だけでなく,侍町と町屋地区をも堀と土塁で囲んだ惣構の城です。

有岡城は城である「主郭部」と家臣団の住む「侍町」、そして一般町人の住む「町屋地区」に分かれています。
主郭部は伊丹段丘が東に突出した位置に築かれ、西側と南側に人工の堀を設けていました。
そして、侍町と町屋地区を含む東西0.8km、北1.7kmの範囲を堀と土塁で囲んだ「惣構」の城としました。
また、北・西・南の要所にはそれぞれ「岸の砦」「上ろう塚砦」「鵯塚砦」の3つの砦を築いていました。

天正6年秋、村重は織田信長に反旗をひるがえし、有岡城は包囲攻撃をうけました。
10ヵ月の篭城の末,村重は嫡子村次(むらつぐ)のいる尼崎城に逃れ、まもなく主を失った城は侍町を焼き払われて陥落しました。

天正8年、信長の家臣池田信輝(恒興)の嫡子之助(ゆきすけ)が入城しますが、天正11年には美濃へ移り、伊丹は秀吉の直轄領となりました。
その後大名は置かれず、いつしか城は放置され、江戸時代には地元の人々から「古城山」と呼ばれるまでになりました。
明治に入ると、川辺馬車鉄道や阪鶴鉄道(いずれも現在のJR宝塚線の前身)の建設工事により主郭部の東半分が失われました。

国鉄伊丹駅前の整備事業にともない昭和50年から主郭部の発掘調査が始まり、北部の金光教跡からは本丸跡の石垣や建物跡、駅西側の荒村寺跡からは庭園遺構が見つかりました。
遺跡のうち主郭部の一部(伊丹1丁目地内)と「きしの砦」が置かれていた猪名野神社境内,そして惣構の輪郭線である水路と道路敷きの一部が国の史跡に指定されました。

土塁の石垣や建物・井戸・堀跡などが復元されました。
有岡城跡・伊丹郷町遺跡からの出土品の一部は市立博物館の常設展示や市立伊丹郷町館で見ることができます。

岸の砦跡
伊丹市宮ノ前3丁目ほか(猪名野神社境内)

伊丹市HP参照しました。


JR福知山線 伊丹駅西側すぐです。
厳密には伊丹駅も城内になるのではないでしょうか?

数年前のNHK大河ドラマの“黒田官兵衛”の時に、有岡城に監禁されていたのを見て行かなければ!と思っていました。
その後、何度も伊丹駅に行く用事はあったのですが、「あっ、カメラを持って来ればよかった」状態でした。
そして最近、“信長協奏曲”で、少し気になる池田恒興がこの城と関係があると知り、これはもう行かなければと行ってきました。

歴史好きそうなおじさま2人がいるぐらいで、城跡にはひと気はありませんでした。

有岡城跡の階段を上りましょう!

















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