岡山城 剣豪奥村寅吉之碑

2015年01月28日
そういえば岡山城内を歩いていた時、剣豪奥村寅吉之碑なるものを見ました。

岡山城ー剣豪の碑

お手洗いの横に建っていて、お手洗いに行った人を待っていた時に見たのですが、正直にいうと何が書いてあるのかよめませんでした。
唯一読めて、意味がわかったのが“剣豪”とう言葉だけでした。
一緒にいた、甥・姪に聞いても「読めない」と言っていました。

でも“剣豪”ですよ、“剣豪”
沖田総司や斎藤一とか、あの人やあっちの人や、色々と思い出しました。
でも岡山で剣豪ってだれかな?
でも“剣豪”
写真を撮っておかないと後悔することになるかもしれません。

帰宅後さあ、調べようとしましたが、なかなか奥村寅吉に辿りつきませんでした。
そして奥村寅吉に辿りついたものの、奥村寅吉って誰?
幕末以前の人ではありませんでした。
私としては残念でした。


奥村寅吉
明治11年2月10日 - 昭和46年6月1日
日本の剣道家。
流派は直心影流剣術、奥村二刀流剣術。
称号は剣道範士。

奥村二刀流開祖奥村左近太の長男として生まれました。
父の幼名であった寅吉と名付けられます。
4歳から父より直心影流と奥村二刀流を学ぶ。
2年間は面打ちの稽古ばかりさせられたそうです。

明治33年、京都皇宮警察の警手に奉職。
京都皇宮警察の撃剣師範三橋鑑一郎(武蔵流)に師事し、後に武蔵流の免許皆伝を授かる。

明治36年、父より直心影流と奥村二刀流の免許皆伝を授けられ、皇宮警察の剣道師範と大日本武徳会本部の剣道教授を務めました。
大正6年5月27日、皇居吹上御苑での天覧武術大会に出場。
昭和3年2月、皇宮警察を退職し、岡山に帰郷。
大日本武徳会岡山支部並びに関西中学校の剣道教師を務めました。
昭和46年6月1日、死去。享年93。
Wikipediaより







山羽虎夫銅像

2015年01月24日
山羽虎夫とういう方の銅像が、岡山県立図書館の北側、岡山城の内堀脇にありました。

銅像1  銅像2

少し時間は戻りますが、岡山駅からのバスを降りて、お城に向かって歩いていると、お城の堀脇に銅像がありました。
岡山城に関係のある人?
と思い、ワクワクして近づいてみると、洋服を着てる!
流石に江戸時代の人ではないな~と、少しがっかり。
名前が“山羽虎夫”
誰?
聞いた事がない…。
一応、写真を撮って、帰宅後に調べてみよう!!
という事で撮った写真です。

山羽虎夫氏は、日本の国産自動車を初めて走らせた人だったんですね。
凄い!
車の免許を持っていないほどの、車音痴の私にはさっぱりわかりませんでしたが、車好きの人にはたまらない人なんではないでしょうか。
この方がいなければ、日本の自動車業界は今のように世界トップになっていなかったかも…ってことですよね。

こういうビックリする事を知るのも、旅の面白いところですね。

山羽虎夫
日本初の国産自動車を走らせた発明家
技術者であり、発明家。
中区門田屋敷に生まれ、横須賀海軍工廠の見習い工から明治期の先端企業を渡り歩いた後に、区内天瀬(現在の表町3丁目)で電気工場を経営していましたが、中区江並の資産家 森房造氏、楠健太郎氏の依頼を受け、イタリア人技師マンシンの協力なども得て、苦労の末に、明治37年蒸気式乗合自動車を完成させ、天瀬から江並までの約10kmを走らせることに成功しました。
ただ残念ながら、当時の日本のタイヤ技術の問題から、実用化には至りませんでした。
岡山市HP(参考資料 岡山博物図鑑)より 










後楽園 七 後楽園と岡山城

2015年01月04日
後楽園から望む岡山城

後楽園より望む岡山城  後楽園より望む岡山城2

歴代藩主もこの景色を眺めたのでしょう。
いいですよね。

この景色を眺める為に後楽園を作ったのかな?






後楽園 六 御舟入跡

2015年01月03日
後楽園でみた御舟入跡です。

後楽園御舟入2  後楽園御舟入1

藩主が城から舟で渡ってきた時の舟着場の跡で、舟溜まりと園内側の土手に御成御門まで続く雁木(階段)がありました。
ここから出入りできたのは、藩主と藩主の特別な許しを得た者だけでした。
平成23年、24年の発掘調査で、江戸時代に描かれた絵図と同じ場所から雁木が見つかり、現在はその遺構を展示しています。
後楽園HPより

御舟入跡といわれても、今は水路とは繋がっていなくて今一つピンっと来ませんでした。
階段があってその前が池になっている、だから?な感じで見てしまいました。

お殿様がお城からここに来るのには、船のほうが便利だったのでしょうか?
徒歩ってお殿様は歩かないでしょうが、駕籠に乗ったり、馬に乗ったりだと警備も大変だったのでしょうか?
船の方が警備も楽な感じはしますね。

藩主の特別な許しを得た者というのは、どんな人だったのか気になります。
家族とか、お客様でも他藩の藩主クラスの人とか?
将軍は来ないでしょうし、まさか帝もきませんよね。
でも、偉い人だという事は想像できます。

発掘調査が平成23、24年という事は、これからまだまだ新発見があるかも知れないと思うと、歴史ってやっぱりワクワクします。







後楽園 伍 延養亭

2015年01月02日
後楽園 延養亭です。

後楽園4

藩主の居間で、園内で最も重要な建物でしたが、戦災で焼失し、昭和35年に当時第一級の木材と技術で築庭当時の間取りに復元されました。
園内外の景勝が一望できるように作られており、歴代藩主もここから眺めました。
後楽園HPより


南門から入り、ぐる~っと庭を廻ってきて、延養亭がありました。
立派な建物です。
藩主の居間というのもわかります。
眺めもいいですよね。
やはり戦争で焼けてしまっています。
歴代藩主が触れたであろう壁や柱は残っていないのですね。

訪れた時は、雨戸(?)が閉まっていて、障子の趣は見られませんでした。
でも文化財保護からいえばそうそう太陽の陽に当てられないですね。

延養亭で茶畑のお茶を飲んだら藩主の気分になれるような気がします。
いや、藩主ではなく、藩主の正室かな?(笑)







後楽園 肆 沢の池

2015年01月01日
後楽園の真ん中にある沢の池

沢の池2  沢の池1

園内中央にある池で、左から島茶屋のある中の島、釣殿のある御野島、白砂青松が美しい砂利島があります。
中の島と御野島の間には、かつての上道郡と御野郡の郡境があり、今でも石標がそのなごりを伝えています。
後楽園HPより


芝生が目に鮮やかな後楽園の中で、アクセントになっていました。
でもこの池もシンプルで、またそれが芝生の後楽園にぴったりと合っている感じがします。
この沢の池の説明板のあたりには鯉の餌が売っていて、立派な鯉がたくさん泳いでいました。

夏は日陰がなくて暑いですが、それはそれでいい感じです。
遮るものがないというのは、すごく気持ちがいいですね。
圧迫感がないので、気持ちがほぐれます。(私は…)

できればそこで大声を出してみたかったです。
もちろん非常識なので、そこはグッとこらえました。









 | HOME |