堀川改修工事碑

2013年04月29日
堀川改修記念碑(福井県小浜市日吉)というのがありました。

堀川改修記念碑 

小浜市日吉のマーメイドテラスから国道27号線へ向かう広い通りは、30年ほど前まで川が流れており、河口近くには小舟が係留されたりしていました。
そこは江戸末期に造られた人工の河川で、「新川」または「堀川」と呼ばれました。
現在も道路の下に水路があります。

新川が開削されたのは、安政6年。
小浜では、幕末の7年間に3度もの大火があり、嘉永4年正月に382軒、嘉永6年3月に2400軒余、さらに5年後の安政5年8月には1805軒を焼き尽くしました。
新川は、連続大火の後、延焼を防ぐための火除け地として、また消火用水確保のために設けられたものです。
工事は、町奉行・武久権十郎の支配のもと、安政6年2月に始まり、当時数々の土木作業に功績のあった重田卯右衛門がこれを取り仕切りました。

後瀬山から発心寺脇を流れ下る杓川を水源として、川上から掘り始め、上流は素掘りで幅約1.8m、町なかでは幅約4.5m、のり面を2段にした石垣の護岸を設け、その年の冬に完成しました。
これを通すために、幾棟もの蔵を移動し、民家を取り壊しています。
川床には数カ所、消火用の水をためる深い部分と、川面に下りる階段が設けられました。
工事の進展に伴い、新川を渡る3本の橋<上流から神田橋、住吉橋、日吉橋>が有力町人の寄付で架けられました。橋は最初、土橋や板橋だったのが、その後架け替えられ、鉄製やコンクリート製に変わりました。
住吉橋のたもとには火の見の半鐘がありましたが、昭和初期にバスを通すため、護岸を2段から1段にして道幅を広げた時に撤去されました。そのころ、川べりには柳が植えられて風情があったそうです。
その後、年月を経て護岸の石垣が崩壊するおそれがあったことなどから、小浜市が昭和46年から5年かけて「堀川都市下水路整備事業」を実施。
水路を暗渠にして、上を道路にしました。以来30年近くが過ぎ、今ではこの大通りがかつて川だったことを知らない人も多くなりました。

マーメイドテラスの下をのぞくと、地下に水路があるのが分かります。
人魚像の近くにある「堀川改修記念碑」の土台石は、歴史を伝えるために、護岸の石を移したものです。
神田橋のたもとにあった欄干の石柱は場所を移動して、今も歩道脇に立っています。
関西電力HPより


ホテルから海を見に散歩に出た時に、偶然見つけました。
よく判らなかったのですが、“嘉永”という幕末の年号があったので、いつもの週間で写真をパチリ。
幕末の事業の話でした。
あ~良かった(笑)






聖ルカ教会

2013年04月27日
聖ルカ教会(福井県小浜市千種二丁目)の遠景です。

ルカ教会2  ルカ教会1


小浜市街地の北東部で小浜湾に注ぐ南川の河口近くの左岸に、小浜聖ルカ教会堂が建ちます。
港町として、また、城下町として栄えた小浜の町は文化的にも先進地でしたが、小浜聖ルカ教会については、ペ-ジ、マキム両アメリカ人宣教師の伝導により、ようやく明治20年3月10日に恵教会として創立されました。
明治30年4月に煉瓦造瓦葺平屋建の教会堂が完成し、聖路加教会と改称されました。
その後、昭和6年3月には改築され、教会堂の屋根を撤去し、煉瓦造上部に木造で増築されて現教会に至っています。。
小浜市教育委員会HPより



若狭高校で順造門を見た後、小浜城址まで川沿いを歩いていて、対岸に見つけました。
かわいらしい教会で、地図に“聖ルカ協会”とあったので、歴史的なものだろうと写真を撮ってみました。

ルカ=路加だそうですね。
あの有名な聖路加病院はこのルカの精神で造られた病院だとか…。
初めて知りました。
変わった名前の病院だな…とは、思っていたのですが。

歴史を知ると驚く事がたくさんありますね。







世阿弥船出之地

2013年04月16日
川崎台場跡の公園内には、世阿弥船出之地(福井県小浜市小浜津島)の碑がありました。

世阿弥船出之地 

世阿弥が佐渡へ流されるときに小浜に寄航したことを記念し建てられました。
世阿弥(1363~1443年)は室町時代の能の大成者。
佐渡へ流された後つくった小謡「金島書」の中の「若州」で『次の日若州小浜という泊に着きぬ。ここは先年も見たりし処なれども………』と小浜のことを謡っています。
世阿弥は佐渡へ流されるとき、風光明媚な小浜に、本土最後の地としてぜひ立ち寄りたいと申し出たと伝えられています。
小浜市HPより


世阿弥
世阿弥(世阿彌陀佛、正平18年/貞治2年? - 嘉吉3年8月8日?)は日本の室町時代初期の大和猿楽結崎座の猿楽師。
父の観阿弥(觀阿彌陀佛)とともに猿楽(申楽とも。現在の能)を大成し、多くの書を残しました。
観阿弥、世阿弥の能は観世流として現代に受け継がれています。

幼名は鬼夜叉、そして二条良基から藤若の名を賜る。
通称は三郎。実名は元清。
父の死後、観世大夫を継ぐ。
40代以降に時宗の法名(時宗の男の法名(戒名)は阿弥陀仏(阿彌陀佛)号。ちなみに世は観世に由来)である世阿弥陀仏が略されて世阿弥と称されるようになりました。
世の字の発音が濁るのは、足利義満の指示によるもの。
正しくは、「世阿彌」。
Wikipediaより


台場跡の説明板をみていると、奥に何やらまだ碑があるようす。
台場跡の碑かな?と、行ってみるとこの世阿弥船出之地の碑でした。

世阿弥…、教科書で習ったな~。
能の人!それしか知らないです。
でも、私でも名前(だけですが)を知っている人物ですから、有名な人には違いありません。

室町時代に佐渡へ流されるというのは、本当に命懸けというより、生きて佐渡に着いたら奇跡的なぐらいだったのでしょうか?
その最後の地として、小浜に立ち寄りたいと言ったということは、小浜は素晴らしい土地だったのでしょうね。





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川崎台場跡

2013年04月14日
川崎台場跡(福井県小浜市小浜津島)です。

川﨑台場跡 

幕末になると日本海沿岸にロシア船が出没し、小浜藩の湾岸警備が始まりました。
ここ川崎台場は安政元年小浜藩が川崎町の重田卯右衛門に命じてつくらせたものです。
台場はこの他の五ヶ所つくられ大砲は全部で55門ありました。
大砲の玉は百匁から十六貫目まであって、川崎台場には七門が据付けられていました。
台場は重田卯右衛門や黒鍬八兵衛らの奉仕でつくられ、大砲の鋳造費は町方商人に課せられました。
川崎台場はこのように日本海側の沿岸警備のためつくられましたが、明治に廃止され、跡地は現在この公園となっています。
現地説明板より



ここが台場あとなのでしょうが、どれがそれを示す遺構なのかさっぱりわかりませんでした。
とりあえず説明板の写真を撮りましたが、どうなのかな~と帰宅後調べてみると、この説明板が建っていた石積みの塀(?)が台場の形を知ることが出来るものだったようです。

現在の海はもう少し先で、歩くとわりとありましたよ。
どこも大体埋め立てられて、昔の海岸線を知るのは難しいですね。









“桜田門外の変”の遺恨

2013年04月11日
平成25年4月10日の朝日新聞夕刊に目を引く記事がありました。
桜田門外の変の遺恨とでもいうのでしょうか。

平成 桜田門外の変069
平成25年4月10日付 朝日新聞夕刊

彦根の市長選に、桜田門外の加害者の子孫が立候補を表明したら、被害者井伊のお殿様の城下町は大騒ぎになりそうだというのです。
市民がどれだけ話題にしているかは書かれていないようです。

会津と長州の中の悪さは有名?ですが、それはたぶん現在の政治には絡んでいなくて、お互いに苦手意識があるってことだとおもうのですが、政治に絡んでくるとどうなのかな…。

彦根と言えば“井伊のお殿様”は彦根市民ではなくても、枕詞のように付いてきますね。
って、これは私が関西人で、まだ彦根が近いからでしょうかね?
歴史的に誰もが知っているような大事件の舞台であったり、それに関わった人物(加害者&被害者)には何十年、何百年経っても遺恨が残るものなのですね。

歴史って、その当事者では思いもよらないものを、後々残す事があるのですね。

忠臣蔵の赤穂と吉良家の間は、今はどうなっているのでしょう?








角屋 新選組の刀傷公開

2013年04月10日
京都島原の揚屋の角屋(京都府京都市下京区)で、新選組が付けた刀傷が残る燭台などが公開されました。

角屋刀傷
2013年4月10日 朝日新聞朝刊

18日には新選組を記念した石標も建てるそうですね。

新選組が付けた刀傷がある燭台は見てみたいです。
誰が付けたかわかっているとなおいいのですが、そこまでは分からないでしょうね。

本当に新選組?
相手側ってことはないのでしょうか?

って、疑心暗鬼になっているのには、私が角屋を見学したときにあまりいい思いをしなかったから…。
これはあくまでも私個人の感じ方で、一緒にいった人はよかったのかも知れません。
それに今は変わっているかもしれないですし…。

角屋に新選組の石標を建てるのはどうなのかな?
新選組も足繁く通っているのですが、どうも長州とかのイメージも強いんですよね。
“新選組”だけの記念碑は少し違和感もあるのです。
実際に見ていないので、あまり否定的な事ばかり書いても仕方がないのですが、率直な感想です。

そのうち見に行きたいです。













浅利又七郎邸跡

2013年04月07日
浅利又七郎邸跡(福井県小浜市一番町)です。

浅利又七郎2  浅利又七郎1

浅利又七郎
浅利義信(安永7年3月29日)-(嘉永6年2月20日)
日本の剣客。
中西派一刀流。
通称、又七郎。

下総国松戸の生まれで、江戸の一刀流中西道場第3代の中西子啓に学びました。
同門に寺田宗有、白井亨、高柳又四郎がいます。
突きを得意とし、若狭国小浜藩江戸屋敷の剣術指南を勤めました。

義信の姪で養女のかつと結婚した千葉周作が道場を継ぎましたが、組太刀の改変をめぐって義信と周作は衝突を起こしてついに物別れとなり、周作夫妻は義信から独立して北辰一刀流を興すこととなりました。
主を失った浅利道場を守るため、義信は新たに中西家から義明を養子に迎えました。

義信の弟子に遠藤五平太がいます。
Wikipediaより


雲城水の横に建っていました。
碑があったのかな?
この看板だけしか見ませんでした。
でも、看板の後ろに碑らしきものが写っていますね。

浅利又七郎を知らなかったのですが、千葉周作と関係があるのですね。
千葉周作の北辰一刀流は、坂本龍馬で有名(龍馬は千葉周作の直弟子ではないですが)。
新選組にも北辰一刀流の隊士もいてますし、遠からず縁があるって事ですね。
嬉しい!って事にしておきましょう。

千葉周作の話は詳しくなかったのですが、喧嘩別れで北辰一刀流を興したのですね。
ん~、ちょっとイメージが違った(笑)
でも、これだけ立身出世したのであれば、喧嘩別れも正解ですね。
ただ浅利又七郎はショックだったでしょうね。
この時代のこのような出来事はよくある事だったのかもしれないですが…。










雲城水 平成の名水百選

2013年04月06日
平成の名水百選の“雲城水”(福井県小浜市一番町)というのがありました。

雲城水1   雲城水3

雲城公園の自噴水です。
地下30mから湧き出る地下水は軟水です。
市民に愛され続けている水で、誰でも気軽に利用することができます。
雲浜の城下にちなんで雲城水と呼ばれてきました。


平成の名水百選とは…
平成の名水百選とは、平成20年6月に環境省が選定した全国各地の「名水」とされる100か所の湧水・河川(用水)・地下水です。
昭和60年3月に環境庁(当時)が選定した「名水百選」(昭和の名水百選)との重複はなく、合わせて200選となります。

選定にあたっては、各市町村から提出された名水を各都道府県が最大4件推薦し、集まった162件を「平成の名水百選調査検討委員会」が審査しました。
飲用の適否は考慮されていません。

すべての都道府県からそれぞれ最低1つは選出されている昭和の名水百選とは異なり、平成の名水百選では選出された名水が1つもない府県がある。
Wikipediaより


船溜まりの真横にありました。
海(海水)の横から真水が出ているのは珍しいのでは?と言われましたが、確かにそうかも…。
水脈とか地層とかいろいろ複雑な関係があるのでしょうね。

私は飲まなかったのですが、飲んだ人曰く「常温の水」と言っていました。

湧水は冷たいという勝手な思い込みがあったので、ちょっと拍子抜けでした。
でも私は飲んでないのですが…(笑)

“名水百選”の他に“平成の名水百選”があるのは初めて知りました。










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