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ころび橋(古呂美橋) 小浜城

2013年03月30日
小浜城にあった“ころび橋”(古呂美橋 福井県小浜市城内1丁目7-55)です。

小浜城 ころび橋 

小浜市鹿島区と浅間区との境にあったもので、京極氏が築城のとき、本丸のこの処に移しました。
現地説明板より


ころび橋…、どんな物を想像しますか?
「橋、橋、橋」と、一般的に思い浮かべる橋とか、池にかかる欄干のない橋とかを想像して探しました。
写真の向かって右にある柵を欄干かしら?と思ってみたり…。

帰宅後知ったのですが、屋根付きの小屋(?)の前の大きな石がころび橋だそうです。
屋根の下は井戸がありました。
井戸ところび橋の関係はわかりません。
でもこの大きな石が橋だとはなかなか気付かないでしょう。

何故、京極氏はころび橋を此処に持ってきたのでしょうね。






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小浜城

2013年03月29日
小浜城(福井県小浜市城内1丁目7-55 小浜神社横)です。

小浜城石垣2  小浜城天守址
      天守閣跡              天守跡

小浜城小天守1  
      小天守

小浜城石垣1  小浜城石垣3
     小浜城石垣

小浜城 


雲浜城(うんぴんじょう)といわれています。

江戸時代初期に、京極氏によって後瀬山城にかえて、海と河川を取り込んで築かれた海城です。

1601年、京極高次の代に着工され、京極氏2代にわたって普請工事が行われましたが、完成を見ずして京極氏は出雲国松江に加増転封されました。

替わって入封した酒井氏が二条城の様式を取り入れるなど、大幅に城の縄張を変更し、本丸天守を造営。
その8年後の1642年に小浜城は竣工しました。
以降、若狭酒井氏の居城として明治を迎えました。

明治時代に大阪鎮台の第一分営が置かれましたが、失火によって大部分の建物を焼失し残存していた天守も撤去されています。
北川の河川拡張などにより現在は本丸以外は河川や住宅街となり、城の遺構としては本丸部分の外周石垣を残すのみです。
建築遺構としては、藩校の「順造館」正門が福井県立若狭高等学校の正門「順造門」として移築され現存しています。


慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで功績があった京極高次が若狭国を拝領、後瀬山城を居城としました。
詰城であった後瀬山城本丸は標高が高すぎ、麓の旧守護館は近世大名として政務を執るには狭すぎたため、慶長6年、北川と南川と小浜湾の三角州に新たな居城(小浜城)の築城に着手し始めました。

近世の城として戦時の防御性よりも行政処理の利便性に重きがおかれ平坦な平野の中央部に築かれました。
京極氏2代京極忠高は越前敦賀郡を寛永元年(1624年)に加増され、小浜藩の藩領が確定しました。

その後、寛永11年(1634年)に京極家が出雲松江藩へ転封されると、徳川家譜代の重鎮である酒井氏の酒井忠勝が12万3,000石で小浜藩に封じられ入城、城の整備拡張が続きました。
寛永12年(1635年)には、3重3階の天守が完成、寛永19年(1641年)に城が完成し藩主が移っています。

その後、酒井氏のもと明治維新を迎えましたが、明治4年(1871年)に城内に大阪鎮台第一分営を設置する工事中に出火し天守を除く城の大部分を焼失。
残存した天守は1874年に売却撤去されました。

明治8年(1875年)に本丸跡に藩祖である酒井忠勝を祀る小浜神社が建立されました。
Wikipedeiaより


幕末の小浜藩
藩主酒井忠義は安政5年に京都所司代に再任され、井伊大老の腹心として活躍。
9月、勤王志士の逮捕となり、小浜脱藩の志士梅田雲浜を召し捕る羽目にないりました。
それが、安政の大獄の端緒です。
公武合体をはかる皇女和宮の降嫁には、朝廷と幕府との周旋に努力しました。
しかし、文久2年、所司代不適任としてしりぞけられ、さらに隠居を命ぜられました。
のち、水戸天狗党の浪士の拘禁、斬罪の任を加賀藩とともにつとめました。

鳥羽・伏見の戦いには旧幕軍として450余人の藩兵が参加、淀川の左岸橋本に布陣して敗れ、小浜へ戻る途中、藩主酒井忠氏は山陰道鎮撫総督に降伏帰順しました。
北陸道鎮撫の先鋒を命ぜられた小浜藩は400人の藩兵が越後、信濃、武蔵へと転戦し、5月に帰藩。
6月、300余の藩兵と旋条野砲二門をもって奥羽征討に参加しました。
幕末維新史事典より


小浜市の一番の繁華街はどこなのでしょうか?
城跡付近かと思っていましたが、すごく静かな場所でした。
市役所の近くとか、市の中心に近い場所とかに城址がある事が多いとおもうのですが、今回は違った気がします。

お城があった当時と今とでは違いますから、今は静かでもおかしくはないのですが、あまりに静かで驚きました。
今、残っている石垣から考えるとそれほど大きな感じではないですね。
ん~、大坂城や姫路城を見慣れているので小さく感じるのですが、大坂城や姫路城のような規模のお城の方が珍しかったのかもしれないのですね。
戦国時代やお城には詳しくないので、率直な私の感想です。

今、幕末の小浜藩について本をみてみると、淀川の左岸橋本砲台に布陣しているではないですか!
橋本砲台、行きましたよ!
そうかあそこで戦っていたのが小浜藩だったのか…。
小浜からの帰路、天王山を通りました。
天王山の川の向こうが橋本付近です。
でも、小浜から京都と大阪の境まで…遠いですよね。
今、車でも数時間かかるのに、当時はもちろん徒歩ですから、どれだけかかったのか。
それも、幕府の為とは言いながら、見たこともない徳川家の為に家族と離れての出陣ですから、下級武士の人たちは内心「なんでやねん」と思っていたかもですね。








藩校順造館門

2013年03月27日
梅田雲浜も学んだ、藩校順造館の門(福井県小浜市千種1丁目6-13 若狭高校正門)です。

順造館門1  順造館門2  順造館門3
     藩校順造館門

もとは小浜城の大手橋付近に建てられていました。
明治5年10月から小学校に、明治14年から大正15年まで郡役所として使われていました。
現在は若狭高校の正門です。


※若狭高校の正門(順造館門)を入って右側には、伴信友誕生地碑があるそうです。
伴信友
江戸時代の国学者です。
幼名は惟徳。通称は州五郎。号は事負。

博覧強記で、古典の考証に優れていました。
平田篤胤、橘守部、小山田与清とともに、「天保の国学の四大人」と呼ばれる。

若狭国小浜藩士・山岸惟智の四男として生まれましたが、1786年(天明2年)、同藩の伴信当の養子となりました。
1801年(享和元年)村田春門を介して本居宣長没後の門人となり、宣長の養子の本居大平に国学を学びました。
1821年(文政4年)、息子の信近に家督を譲り、以後、学問に専念。

平田篤胤、黒川春村、本居内遠などと交流があり、篤胤からは君兄と慕われていましたが、後に齟齬を来して決別しました。
師弟関係を好まず、弟子をとることはありませんでした。

1846年(弘化3年)、京都の堀川で死去。
Wikpediaより


若狭高校という大きな目標があるので、こちらはすぐにわかりました。
梅田雲浜生誕地からすぐの所です。
5分ぐらいでいけるのでは?

土曜日という事もあってか、学生さんがいなくて(クラブなどはされているようでしたが)ゆっくりと出来ました。
正門ということは普段は使われているのでしょうか?
それとも数メートル先に門があるようだったので、そちらが使われていてこちらは閉じられているのでしょうか?
でも歴史的な門を潜って毎日勉強…羨ましいような…でも、勉強はできればしたくないかも…(苦笑)
もちろん勉強嫌いは私の事です(笑)

たぶん普段から身近にあるものだから、ここの学生さんたちは特に感慨深くもないのでしょうね。
私の家の近くにも世界的(?)日本では誰もが名前を知っている有名な歴史的人物のお墓がありますが、普段は忘れていますからね。

この門ですが、立派です。
京都の岡崎公園にある“京都守護職屋敷の門”は武家屋敷の門ということでしょうか重厚感がありましたが、それにくらべると威圧感はありませんが、歴史を感じさせてくれる立派な門でした。






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梅田雲浜-補足

2013年03月26日
福井県小浜市にある梅田雲浜関係

梅田雲浜顕彰碑 小浜公園(福井県小浜市香取)
 碑面の「梅田雲浜先生之碑」は吉田松陰を通じて親交のあった山県有朋の筆。
 右側の歌碑には「君が世を思ふ心の一すじにわが身ありとも思はざりけり」と辞世の句があるそうです。
 雲浜銅像があったが、戦前の金属回収のため失われたそうです。

梅田雲浜石像 小浜小学校(福井県小浜市小浜男山5)
          遠敷小学校(福井県小浜市遠敷72-17)
 2体の石像は、小学校の正門脇にあるそうです。
 小浜市では雲浜は英雄として顕彰しているそうです。

梅田雲浜銅像 中央公園(福井県小浜市 小浜病院前)
 かつては小浜公園にありましたが、太平洋戦争の金属回収で失われ、現在は2代目です。
 最初の像は座像でしたが、昭和40年の2代目は、像高3.2m、台座4mです。

梅田雲浜墓 松源寺(福井県小浜市北塩屋14-6)
 安政の大獄で病死した雲浜は東京の海禅寺に埋葬されました。
 小浜市民の強い要請により、昭和45年9月14、雲浜の命日に父母の眠る矢部家菩提寺、松源寺に分骨されました。

今回は時間もなく、上記の史跡には行くことができませんでした。
もう一度訪れて、回ってみたいですね。
その時は、もう少し色々と調べて、新選組関係が本当にないかチェックしてみたいとも思います。

小浜城からの風景
 小浜城天守閣からの風景




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梅田雲浜生誕地

2013年03月25日
何年振りかに史跡に行きました。
“史跡巡り”とまではいきませんでしたが、他の用事で行った先で2、3ヶ所ですが史跡巡りに行きました。

新選組マニアとしては、新選組に少しでも掠る史跡が嬉しかったのですが、調べる時間が足りずに幕末史跡をどうにか1ヶ所入れる事ができたにとどまりました。

それが、

梅田雲浜生誕地(福井県小浜市千種2丁目 広峰神社北)です。

梅田雲浜生誕地1  梅田雲浜生誕地3

梅田雲浜生誕地2  梅田雲浜生誕地4

※梅田雲浜については、2008年12月18日 安祥院(遺髪を埋めた寺)と、2009年2月22日 梅田雲浜邸跡も参照してください。

安政の大獄で病死した雲浜は東京の海禅寺(東京都台東区松が谷) に埋葬されましたが、小浜市民の強い要請により、昭和45年9月14日、雲浜の命日に父母の眠る矢部家菩提寺・松厳寺(福井県小浜市北塩屋14-6)に分骨されました。

梅田雲浜は小浜市では英雄・偉人でよく知られているようです。
“雲浜”という地名もあるようですね。
一般的には坂本龍馬ほどには知られていないと思います。(違ったらごめんなさい)

場所の詳しい説明は今回は無理かも…。
私が地図をみて歩いていたらいいのですが、今回は私は子供の世話をしつつの史跡行きだったので、連れて行ってもらったという感じでした。

誕生地の場所は、民家の間を歩いた静かな一角にありました。
綺麗に整備された場所でした。
なんだか京都で感じた梅田雲浜の印象と違って、すごくスッキリとした印象を此処では受けました。
やっぱり生まれ故郷は気持ち的に綺麗な場所なのかもしれません。






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