スポンサーサイト

--年--月--日
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

なかなか…

2011年11月25日
ん~、なかなかまとまった時間が取れず、更新がままなりません(涙)

目標にはまったく到達せず…(涙・涙)

頑張ります。
スポンサーサイト

苦肉の策 忍たま乱太郎-若王子

2011年11月11日
忍たま乱太郎に出て来ていたと、間違えて写真を撮ったのが、“若王子”です。
若王子さんはいてなかったのですね。

若王子2  若王子1


“若王子”

さて、なんて読むでしょう。
ブッブー“わかおうじ”ではありません。




“なこうじ”と読みます。
発音としては“なこーじ”ですね。


園田地区の大字。
市域北東部に位置します。
弥生後期~古墳時代の若王寺遺跡があり、旧小字の西寺開・東寺開付近からは奈良~鎌倉時代の瓦が出土しています。
「菩提場所説一字頂輪王経」巻三応永19年奥書(北野一切経/大日本史料)に見える寺院・若王寺が古代からここに存在し、地名となったものと考えられます。
地名と判断できる史料上の初見は「広島別院旧蔵蓮如上人遺文」(『宝塚市史』第4巻)の文明15年の内容を記す個所です。

近世初期には村の大部が幕府領、寛永3年、大坂城代の武蔵国岩槻藩阿部氏(忠吉系)の領地、慶安元年、上総国飯野藩保科氏の領地、小部は慶長44年、旗本船越氏(維貞系)の知行所となり明治に至りました。
村高は「慶長十年摂津国絵図」「元禄郷帳」「天保郷帳」のいずれのも557.64石とある。
大井組に属しました。
氏神は熊野大神社、寺院は浄土真宗本願寺派浄円寺。
Web版尼崎地域史事典『apedia』より


尼崎の住宅街です。
阪急電鉄神戸線の南側にあります。
小学校、高校があり、若王子と隣接する所には、私立の小中高校、大学があり、住宅街であり教育施設の多い場所でもあります。









忍たま乱太郎の尼崎市は、兵庫県の瀬戸内海(?)に面していますが、同じ兵庫県でも松葉ガニが獲れるのは日本海。
尼崎より南には淡路島があり、ここも兵庫県。
兵庫県ってよくよく考えると広いですよね。
日本海から淡路島まで…。
東西も意外と長くて、JRの新快速でも2時間以上かかります。

冬に蟹を食べに2時間以上かけて日本海側に行って、「どこから来られました?」と聞かれても、「兵庫県です。」と答えると、なんだか変な気分です。
気候も全然ちがいますからね。

十七烈士 墓の設計絵図

2011年11月02日
育児にあたふたしている間に期限が切れていました。
あ~、ショック(涙)
データとしてアップしておきます。


十七烈士 墓の設計絵図 東山・霊山歴史館で初公開”というのがあったのです。

 禁門の変(1864年)で長州藩の別動隊として幕府軍と戦った真木和泉守ら勤王志士「十七烈士」の墓の設計絵図が見つかり、京都市東山区の霊山歴史館で初公開されている。
現在墓のある大山崎町の天王山中腹でなく、近くの宝積寺(同町)三重塔の下に建立され、一列に墓石を配したことが分かる。
同館は「一人一人を顕彰する意味があったのでは。墓を建立した長州側が、禁門の変の恩義から志士を手厚く弔った証ではないか」としている。

十七烈士は、久留米や熊本など長州藩以外の出身で尊皇攘夷を掲げた17人の志士。
禁門の変で敗走する際、長州勢を先に逃がして天王山に立てこもり、自刃したと伝えられる。

初公開されているのは「天王山招魂場絵図」(縦24.5cm、横33cm)で、宝積寺の三重塔の下に「十七名」と記した縦長の墓の図面が描かれている。
同館によると、墓の長さは「8間」(約15m)で、墓の両端に2基の石灯籠がある。
墓地の幅は「11間」(約20m)で、敷地内に松の木があったこともうかがえる。

昨年11月に、霊山歴史館が上京区の郷土史家から寄贈を受けた。
長州藩主だった毛利敬親が明治元年に墓を建てたといい、同館の木村幸比古学芸課長は「絵図は、長州藩から依頼を受けた石材屋が描いた下書きと考えられる」と話す。

大山崎町歴史資料館によると、墓は明治20~30年に現在の場所に移された。
同館は「宝積寺に墓があったことは分かっていたが、詳細を示す資料は初めての発見だ。三重塔の下に区画を作り、丁寧に墓を整備した様子が伝わる」としている。
京都新聞社より

展示は霊山歴史館で10月3日まででした。


宝積寺2
  宝積寺の三重塔

宝積寺2








【送料無料】北摂歴史散歩

【送料無料】北摂歴史散歩
価格:1,575円(税込、送料別)

 | HOME | 

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。