霊山歴史館 2009年夏季企画展 「新選組 その光と影を追う」

2009年06月30日
夏の旅行で京都方面にこられるなら、こんな企画展はいかがでしょう。

平成21年8月4日(火)~8月30日(日)まで、霊山歴史館で開催されています。
「新選組 その光と影を追う」

霊山歴史館夏1398

霊山歴史館夏3

今回は特別展ではなく、企画展ですが「新選組」が登場です。


霊山歴史館
JR

朗読活劇 “燃えよ剣” 新聞記事(インタビュー)

2009年06月29日
壬生寺での朗読活劇 “燃えよ剣”の新聞記事を見つけました。

2009年6月29日付 朝日新聞(大阪)夕刊
朗読活劇397

要潤氏の土方歳三…どうかな?
男前ですから、イメージに合うかな?
こればっかりは、演じているのを観てみないとわ
写真が残る、洋装で演じるそうですが、私は和装の方が好きです。








京の漬物詰合せ 夏セット

中尊寺

2009年06月29日
源義経を庇護した奥州藤原氏四代のミイラ等が安置されている、中尊寺(岩手県西磐井郡平泉町平泉衣関202)です。

中尊寺は天台宗東北大本山の寺院。
奥州観音札所番外。
山号は関山(かんざん)、本尊は阿弥陀如来、開山は慈覚大師円仁とされます。

藤原清衡が平泉に中尊寺の中興に着手したのは長治2年、50歳の時でした。
金色堂の建立は天治元年で、諸堂の整備も終わり、落慶供養が行われたのは着手から21年後の大治元年で、清衡は71歳(死の2年前)でした。
中尊寺は前九年・後三年の役の戦没者を含め、数多の霊を浄土へ導き、奥州全体を仏国土にしたいとの願いから建立されたものでした。

安元の頃に鞍馬山を逃亡した源氏の御曹司・源義経を匿って養育します。
治承4年、義経の兄・源頼朝が平氏打倒の兵を挙げると、義経は兄の元へ向かおうとします。
秀衡は義経を強く引き止めましたが、義経は密かに館を抜け出しました。
秀衡は惜しみながらも留める事をあきらめ、佐藤継信・忠信兄弟を義経に付けて奥州から送り出したのです。

文治5年、奥州藤原氏は滅亡しましたが、中尊寺は源頼朝の庇護を得て存続しました。
近世の中尊寺は衰退し、「奥の細道」の旅をしていた松尾芭蕉が中尊寺の荒廃ぶりを見て嘆いたのは有名です。
現在は、泰衡の首級桶から発見され、1998年に開花した蓮の花が「中尊寺ハス」として境内に植えられています。

中尊寺 金色堂
金色堂
金色堂は、鉄筋コンクリート造の覆堂の中に東を正面として建ちます。
堂は内外ともに総金箔貼りで、扉、壁、軒から縁や床面に至るまで漆塗りの上に布を着せ、金箔を貼って仕上げられています。
ただし、木瓦部分のみは当初から金箔を押していません。
堂内に立つ4本の柱は「巻柱」と称し、ヒバ材の八角柱の周囲にかまぼこ状の形をした杉材を貼り付けて円柱に仕立てています。
これは、柱の表面を漆工芸で装飾するため、柱材の干割れを避けるための措置である。
巻柱には蒔絵と螺鈿で宝相華文と仏像が表わされています。
仏堂内部に壁画ではなく漆工芸で仏像を表現しているのは日本でも珍しいです。

堂は建立当初は屋外に建っていました。
建立の数十年後には建物を風雨から守るための「霧よけ」のような施設が造られ、正応元年鎌倉将軍惟康親王の命令で金色堂を外側からすっぽり包む形で覆堂が建設されました。
現在の金色堂覆堂は1965年に建設された鉄筋コンクリート造のもので、金色堂はこの覆堂内のガラスケースに収められて、ガラス越しに見なければいけません。

秀衡の遺骸はミイラとなって現在も、中尊寺金色堂須弥壇の金棺内に納められています。
中央壇に清衡、右壇(向かって左)に基衡、左壇(向かって右)に秀衡の遺体と泰衡の首級が納置されていました。

秀衡は血液型A型。
身長は三代中もっとも高く167cm。太く短い首、福々しい顔。よく発達した胴、胸幅は厚く広い、いかり肩で腰から下は比較的小さい。
肥満体質で歯にカリエス、歯槽膿漏。
右側上下肢に軽度の骨萎縮が見られ、右半身不随あり、脳溢血、脳栓塞などで急死したとみられます。


中尊寺
白山神社能楽堂
江戸時代には平泉は伊達藩領となりました。
伊達公は能楽を愛好し、古来中尊寺の僧侶により山内の白山神社に奉納されてきた御神事能を推奨し、能舞台を建立して能装束を奉納しました。

夏草や 兵どもが 夢の跡
五月雨の 降残してや 光堂      松尾芭蕉

Wikipediaより


JR東北本線平泉駅から国道4号(奥州街道・陸羽街道)に出ます。
国道4号から北へ歩きます。
途中川の手前、東方向に“高舘義経堂”があります。
それを横に見ながらさらに北へ、中尊寺案内所の所を曲がれば、いよいよ中尊寺に到着です。
平泉駅から中尊寺月見坂入口まで1.6㎞(徒歩25分)だそうです。

中尊寺といえばやはり金色堂です。
覆堂に入るとガラスの向こうに金色に輝く堂がありました。
建物の中に建物がある…なんとも不思議なものですが、金色堂内陣そのものはそれほど大きくない、と思いました。
同じ金一色の建築物としては、秀吉の金の茶室がありますが、(復元された)金の茶室を見たときはあまりいい印象ではありませんでした。
なんというか、成金趣味っぽくてお上品には思えませんでした。
でも金色堂を見たときは、荘厳な感じを受けました。
この差は何なのでしょう…ね。

ガラス越しというのが、とても残念ですが、当時の人でさえ覆堂を造って大切にしようと思うほどのものですから、その遺志を継いで大切に後世に残していくためにはこれぐらいしないとダメでしょう。
そのガラスの向こうには、藤原氏四代のミイラが安置されているのも神秘的だと感じました。
ミイラとご対面してみたいです。
四代目、奥州藤原氏を滅亡に追い込んだ泰衡は首しかないのです。
どの時代も、先代が偉大すぎるとなかなか次世代はパッとしないようですね。
次の世代が優秀でも、前がその上を行くと優秀に見えない事も多いのでしょう。

中尊寺は観光客で賑わっていました。
今回は個人旅行でなかったので、平泉は中尊寺だけしかいけませんでした。
この近くには、
高舘義経堂-義経が住んだといわれている場所で、ここで自害したともいわれています。衣河館で自害の説や、生き延びて北へ逃げ延びた説もあります。
弁慶立往生跡-平泉レストハウス裏手、高舘の北方にあります。
弁慶の墓-国道沿いの中尊寺入口にあります。
衣川古戦場跡-泰衡が義経を攻めた古戦場跡です。
などもあり、時間があれば訪れてみたかったです。

戊辰戦争は、北越や奥羽などあちらこちらで戦いを繰り返しながら、北上しています。
この平泉には影響はなかったのでしょうか?
平泉と戊辰戦争の関連はみつからなかったのですが、今、中尊寺などが残っていることを考えると、土方歳三も各諸隊もここは通らなかったと思っていいのでしょうね。
金色堂が残っていることは嬉しいですが、道が一本違えば、戊辰戦争の結果も変わっていたかもしれません。


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貴船神社 相生の杉

2009年06月28日
相生の大杉(京都府京都市左京区鞍馬貴船町)です。
相生の杉136
同じ根から生えた2本の杉の大木です。
樹齢1000年といわれ、寄り添う姿が、仲睦まじい老夫婦の姿にたとえられ、相生(相老)の杉と親しまれています。


鞍馬寺から山を越えて、鞍馬寺西門に出てきます。
そこから北へ100mの所に、貴船神社があります。
さらに川に沿って北へ向かいます。
川に沿って料理旅館が建ち並んでいます。
夏はこの川に床を作り、涼を楽しみながらのお食事が出来ます。
貴船神社より400mで結社があり、そこからさらに350mで貴船神社奥宮があります。
その結社と奥宮の中間付近に相生の杉があります。

結社を過ぎるあたりから、料理旅館は少なくなり、だんだんと奥宮という神秘的な空間になってきます。
その中に、相生の大杉があります。
特に大きな杉の木です。
同じ根から、これだけ大きな木に育つのだろうかと思うほどに圧倒されます。
一種の神秘です。


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貴船神社

2009年 総司忌

2009年06月27日
今年も参加できなかった、総司忌。
歳三忌も長い間参加できずにいます。

今年の総司忌はどんな模様でしたか?

専称寺1  専称寺2
13年前の総司忌にて


鞍馬寺 奥の院魔王殿

2009年06月27日
鞍馬寺(京都府京都市左京区鞍馬本町1074)の山門から貴船に抜けるコースを行くと、一番最後にあるのが奥の院魔王殿です。
鞍馬寺11奥の院魔王殿135
本殿から西の貴船神社へ抜ける山道の途中、奇岩の上にある小堂です。
拝殿奥の柵で囲まれた一角には、2億6000万年前に海底が隆起してできた石灰岩の磐座がむき出しになっています。
650万年前に金星から地球に降り立ったという魔王尊を祀っています。
現在の建物は昭和20年に焼失後の再建です。
説明板&歩く地図京都より


義経堂から300mほど進みます。
途中“木の根道”が一箇所あります。
奥の院魔王殿という少し恐ろしげな名前の建物が現れます。
が、建物や建物のある場所の雰囲気は、今まで通って来た場所と変わりありません。

650万年前に近世から地球に来たという魔王様は、来た事を後悔されてはいないのでしょうか?
650万年間地球にいて、いつの時代が一番良かったと思われているのでしょうか?
もうお手上げ状態ですか?
聞いてみたいような、聞かない方がいいような…。

ここには水飲み場やお手洗いがあり、最後の休憩をする事が出来ます。
貴船側の鞍馬寺西門から入られた人は、ここが最初の建物になります。
あと約300mほどで、貴船川沿いのバスも通る道に出るので、鞍馬山の雰囲気をしっかり感じておきました。
空気が綺麗で、涼しいので、坂道を歩いているにも関わらずそれほどしんどいとは思いませんでした。
これも鞍馬山の持つ何かが作用していますか?と思うような感じでした。

源義経はこういう山奥の淋しかったであろう場所で、幼少時代をすごし、人恋しかったでしょう。
武将としては、良い方向に作用したのか、あまり良くなかったのか、どうだったのでしょう。

私としては鞍馬は、時々(夏の貴船の床料理や秋の紅葉など)行くので満足です。
住むには夜が怖そうです。


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壬生寺 “朗読活劇 燃えよ剣”

2009年06月26日
壬生寺で “朗読活劇 レチタ・カルダ 燃えよ剣” というのがあるようです。

日時 7月18日(土) 18:00開演 (17:30開場) 120分
朗読 要潤 氏
問い合わせ キョードー大阪

レチタ・カルダとは、イタリア語で「熱い朗読」という意味だそうです。
朗読、芝居、音楽が織り交ぜられ進行する朗読活劇です。

私は、朗読活劇というものを観たことはないのですが、壬生寺で新選組の土方歳三が主役の“燃えよ剣”が上演されるのは、妄想全開に浸れるのではないでしょうか?


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鞍馬寺 義経堂

2009年06月26日
鞍馬寺(京都府京都市左京区鞍馬本町1074)、僧正ガ谷不動堂の斜め前に義経堂があります。
鞍馬寺9義経堂133
1189年4月、奥州衣川の合戦にて自害したと伝えますが、義経公の御魂はこの山におわし、遮那王尊として護法魔王尊の破邪顕正のお働きを助けているといいます。
この義経堂には遮那王尊をお祀りしています。
説明板より


僧正ガ谷不動堂のほぼ斜め前辺りになります。

ここにも遮那王こと義経が祀られています。
鞍馬山には義経が今もいてるのです。

義経は衣川の合戦に敗れたけれど、脱出して大陸に渡りジンギスカンになったという伝説もありました。
あくまでも伝説ですが、歴史研究家ではない者には、夢膨らむ話だと思います。
そういえば、新選組の原田左之助も上野戦争に負けたあと、大陸で馬賊の頭になったという話もありました。
やはり義経と新選組は似ていますよ!
改めて実感しました。
日本人的な何かがあるのでしょうか?


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鞍馬寺 僧正ガ谷不動堂

2009年06月25日
鞍馬寺(京都府京都市左京区鞍馬本町1074)の山の中にある、僧正ガ谷不動堂です。
鞍馬寺10僧正ガ谷134
堂内の不動明王は、比叡山開祖伝教大師がここに参篭なされたとき、刻まれたと伝えられます。
また牛若丸が鞍馬天狗より兵法を学んだ舞台は、このあたりであるといいます。

謡曲『鞍馬天狗』では源義経はこのあたりで鞍馬天狗と出会い兵法を学び、そして毎晩その天狗を相手に剣術修行を行ったといいます。
また「義経記」によれば、義経は毎晩貴船神社において平家打倒を祈願した後、このあたりの草木を平家に見立てて太刀を振り回していました。
玉を清盛の首に見立てて木の枝に晒していたともあります。
説明板などより


木の根道より200mほど歩くと、僧正ガ谷不動堂があります。
ここで少し休憩です。
建物があるので、休憩するにも安心感があります。
ますます山の中に入って行っているような風景になります。

牛若丸の修行というのは、どんなものだったのでしょう。
身軽に、あちらからこちらへと飛び回っていたのでしょうか?
そんな事が出来る人がいたら、是非見てみたいです。
漫画・アニメだと、身軽に飛び回りますが、実際の人間が飛ぶと体重や重力で、重たそうで格好良くないのが現実ですね(笑)

義経が鞍馬天狗にあって、剣術などの修行をした場所といわれていますが、「小説 鞍馬天狗」は幕末が舞台で、新選組は敵方として登場します。(1作のみだそうです)
謡曲と小説で時代も、もちろん内容も全然違いますが、同じ“鞍馬天狗”という名前ですから、どうしても幕末の鞍馬天狗への妄想へも入って行ってしまいます。

新選組と義経…、どちらも散っていく美学を感じさせますね。
私は、潔く散っていくものに弱いのかもしれません。
沖田総司と源義経も美男子といわれつつ、実は………という事らしいですし。
ここらあたりも、同じ匂いを感じます。


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鞍馬寺 木の根道

2009年06月24日
鞍馬寺(京都府京都市左京区鞍馬本町1074)寺域に見られる、木の根道です。
鞍馬寺6木の根道130
岩盤が固いため地下に根を張れず杉の根が顕わになっています。
牛若丸が兵法の稽古をした所といわれています。


遮那王堂・義経背比石からさらに進むと分岐しています。
どちらを行っても、また合流しますが、木の根道は南側にあります。
(もう少し先にもう一箇所、木の根道を見ることが出来る場所があります。)
南側を行くと、途中でさらに南へ下れる道もありそうです。
行った事がないので、どこまでいけるのか私にはわかりません。

木の根が地面に現れ、気を抜くと躓いて転びそうです。
足腰は強くなりそうです。
夜な夜な天狗と修行したのであれば、真っ暗闇でこの足元だと、1日の修行の後は大変な事になっていそうです。
地面に出てきているとはいえ、気の根っこですから、踏んで傷んで木が枯れてしまうと大変ですから、気をつけて歩くことにしました。

うっそうと木も繁り、ますます天狗がいてもおかしくないような雰囲気になってきました。
これは夜、一人で歩くのは無理そうです。


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函館港のシンボル

2009年06月23日
函館港といえば、五稜郭や亀田八幡宮に近い場所です。
箱館史跡巡りで歩いた近くの港です。
その函館港のシンボルである巨大クレーンが、老朽化のために撤去されるそうです。

えぇ~、函館の景色が変わってしまうの?!
と思ったのですが、よくよく考えてみると、土方歳三や榎本武揚、大鳥圭介らが箱館にいた頃は、クレーンなどは無かったのですよね。
昭和の風景を惜しむという事になるのですね。

“函館港”のシンボルは巨大クレーンだとして、
“函館”のシンボルは何なのでしょうか?
五稜郭か、烏賊か立待岬…?
まさか、碧血碑という事はないですね。

次に函館を訪れる機会があれば、クレーンのない、幕末に近い風景を見てみようと思います。



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鞍馬寺 遮那王堂

2009年06月23日
鞍馬寺(京都府京都市左京区鞍馬本町1074)の遮那王堂です。
鞍馬寺8遮那王堂132
源義経が31才で亡くなりました。
その魂は遮那王尊として祀られています。

源義経公背比石の横にあります。


義経が祀られているそうです。
小さなお社です。
義経は、この鞍馬山での生活をどう思っていたのでしょう。

人生の最後に振り返ってみて、鞍馬山での生活が一番平和だったと思えたのでしょうか?
神戸一の谷や鵯越で戦っている時が、武将としては嬉しかったのでしょうか?
それとも、奥州藤原氏の元で過ごした最期の時が、ホッとしたような瞬間だったのでしょうか?
夜の鞍馬山で天狗と修行の続きをしていたりして…。









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鞍馬寺 源義経公背比石

2009年06月22日
鞍馬寺(京都府京都市左京区鞍馬本町1074)、遮那王堂の横にある源義経公背比石です。
鞍馬寺7義経背比べ石131
遮那王と名乗って、十年あまり鞍馬山で修行していた牛若丸が山を後に、奥州平泉の藤原秀衡のもとへ下るとき、なごりをおしんで背を比べた石といわれています。
波乱に富んだ義経公の生涯は、この石に始まるといえましょう。

鞍馬寺奥の院参道の頂上に位置する高さ1,2mほどの石です。
遮那王堂の隣りにあります。
説明板などより


遮那王堂の隣に並んで建っています。
石は塀に囲まれていて、並んで背を比べる事はできません。

約1.2mの石と背比べをした義経という事は、義経の身長が1.2m前後だったという事でしょうか?
背比べというのが頭の先から踵までとは限らない?
この石のてっぺんが、自分のどこに当るのか比べてみたとか?
今ほど平均身長が高くないとしても、15~16歳の男性が1m20㎝って事はないでしょう。
小柄すぎますよね?

義経も美男子に書かれることが多いと思うので、武蔵坊弁慶のような義経は想像できません。
“でかすぎる~。”
というより、小柄で可愛い美少年イメージの、こちらの方がいいかもしれません。
もちろん武蔵坊弁慶は、対照的なイメージでお願いします。









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鞍馬寺 源義経公息次ぎの水

2009年06月21日
鞍馬寺(京都府京都市左京区鞍馬本町1074)の本殿横から、門を潜り山へ入って行くとすぐに、義経公息次ぎの水があります。
鞍馬寺5息継ぎの水129
牛若丸が毎夜奥の院僧正が谷へ剣術の修行に通ったとき、この清水を汲んで喉をうるおしたといわれています。
八百余年後の今も涌き続けています。
説明板より


今も涌き続けています。えっ?
涌いているようには見えませんでした。
せいぜい、チョロチョロ出ている程度でしょうか。

周辺の開発などによって、水脈が変わったのか、地下水が枯れてしまったのか。
はたまた、温暖化により降水量が減ってしまったためか…。
牛若丸が今もこの水を頼りにしていたら、大変困ったことになっていたでしょうね。
それに牛若丸がペットボトルを持って修行に通っていたら…、似合わないですね。

牛若丸が飲んだという、水を飲むことは出来ませんでした。







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鞍馬寺 本殿前より

2009年06月20日
鞍馬寺(京都府京都市左京区鞍馬本町1074)の本殿前から、鞍馬の山々を眺めました。
鞍馬寺4128
東光坊跡から、九十九折の坂を上って行きます。

九十九折…、地図に書くとしたら、“行ったり来たり”ということですから、直線距離ならすぐなのですが、実際に歩くと何倍も距離が多くなります。

本殿に着くと、そこから見える風景から、どれだけ坂道を上ってきたのかが実感できます。
私は叡山電鉄鞍馬駅からしか歩いていませんが、昔の人は山の麓から歩いているのですよね。
実際には自分の住む土地から、鞍馬山の麓まで旅してきて、そこから山を登りお参りしたということですよね。
どれだけ大変だったのでしょう。

これだけの大変さと、これだけ山深さが、天狗が住むという伝説に繋がったのかもしれません。

義経も、遮那王と呼ばれた幼少時代をここで過ごしたのですから、淋しく怖いと思ったことも多くあったのでしょう。


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鞍馬寺 東光坊跡

2009年06月20日
鞍馬寺(京都府京都市左京区鞍馬本町1074)の境内にある源義経供養塔(東光坊跡)です。
鞍馬寺3東光坊跡127
かつて義経が鞍馬寺に預けられ生活していた東光坊があった場所といわれています。

義経は父源義朝が平治の乱で平氏に敗れた為に、義朝の祈祷の師であった鞍馬寺別当東光坊阿闍梨蓮忍に預けられる事となりました。

江戸時代には、かえりみられなくなり廃墟のようになっていたそうですが、昭和15年に整備されこの供養塔が建てられたようです。
参考文献不詳


由岐神社の本堂から20~30mのところにあります。

参道を歩いていて、階段が目に入ったので見てみると東光坊跡と書かれていました。
義経が生活していた東光坊があった場所といわれていますが、今ではこの場所に建物があった事自体が信じられません。
うっそうと草が生え、忘れ去られた感じさえします。
鞍馬寺の本殿や木の根道には一番遠い場所にあります。
木の根道まで歩くのも修行だったのでしょうか?

供養塔の傍に行ってみようと、草の生えた階段を登っていると、ちょうど真ん中辺りで蛇の尻尾を踏んづけそうになりました。
もしかしたら踏んづけていたかもしれないです。
微妙なところでした。
どうも“まむし”と呼ばれる毒蛇だったようで…。(体表の模様とか)

もし東光坊跡の傍に行ってみようと思われた場合は、蛇に注意して下さい。
その蛇がずっとそこに棲みついている可能性の方が低いですが、蛇も棲みやすいような環境になっています。


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由岐神社 鞍馬寺境内

2009年06月19日
由岐神社(京都府京都市左京区鞍馬本町1073)は、鞍馬寺境内にあります。
由岐神社1124  由岐神社2125
 割拝殿(中央が吹き抜けになっていて、左右に床間があります。)

鞍馬寺2126
 由岐神社の大杉

鞍馬寺の鎮守社です。
祭神は元は宮中に祀られていましたが、都で大地震・天慶の乱が起き、朱雀天皇の勅により、940年、鞍馬の地に遷宮し、北方鎮護を仰せつかいました。
鞍馬の火祭で有名ですが、鞍馬の火祭は、そのときに里人がかがり火を持って神霊を迎えたことによるものです。

本殿と拝殿は、豊臣秀頼により再建されました。
特に拝殿は、割拝殿形式の桃山建築です。
Wikipediaより


鞍馬寺山門から約240m、大きな杉の木が見えてきます。
その横の階段を登ると、割拝殿の由岐神社があります。

10月22日の鞍馬の火祭りがこの神社のお祭だとは、知りませんでした。
“鞍馬”というところから、鞍馬寺のお祭だと思っていました。
由岐神社が鞍馬寺の鎮守社なので、無関係とはいえないのかもしれません。

1度見てみたいと思うのですが、この日は平安神宮周辺では“時代祭”が行われています。
平安時代から明治維新までの装束を着た行列が町を歩きます。
明治維新といっても、“勝てば官軍、負ければ賊軍”ですから、官軍側の人物しか登場しません。
でも、当時の衣装などを知ることができます。
どうしても、“幕末・明治維新”という言葉に負けてしまいます。
また、“火祭り”は夜なので、お祭後、帰宅するすべがあるのか…という事からもまだ見たことがないのです。

由岐神社の規模から、あれほど有名な“鞍馬の火祭り”の神社だとは思えません。
神社の大きさと、お祭の規模・有名度は違うのですね。
伝統と信仰によるものだとわかりました。
階段横に立っていた大杉は、長い年月の歴史を見てきたのでしょう。
幹周り6.42m、高さ49m、樹齢約600年という事ですから、江戸初期の頃からの歴史を知っている木という事です。
ん~、牛若丸の事は、見ていないのですね。
でも、幕末はしっかりと見つめていた木です。

源義経関係で鞍馬に行っていても、結果、幕末に結び付けて考えてしまいます。


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鞍馬の火祭

鞍馬寺

2009年06月18日
牛若丸が天狗と修行したという鞍馬寺(京都府京都市左京区鞍馬本町1074)です。
鞍馬寺1123
京都盆地の北に位置する鞍馬山の南斜面に鞍馬寺はあります。
鞍馬は牛若丸(源義経)が修行をした地として有名で、大佛次郎の『鞍馬天狗』でも知られます。

寺に伝わる『鞍馬蓋寺縁起』では、鑑真の高弟鑑禎が770年に草庵を結び、毘沙門天を安置したのが始まりです。

鞍馬寺本殿金堂の本尊は「尊天」です。
堂内には中央に毘沙門天、向かって右に千手観世音、左には護法魔王尊が安置され、これらを合わせて「尊天」と称します。

「魔王尊」とは、650万年前、金星から地球に降り立ったもので、その体は通常の人間とは異なる元素から成り、その年齢は16歳のまま、年をとることのない永遠の存在であるといいます。
また、毘沙門天・千手観世音・魔王尊はそれぞれが「太陽・月・地球」および「光・愛・力」を象徴します。
本殿金堂の毘沙門天・千手観世音・魔王尊はいずれも秘仏で、秘仏厨子の前に「お前立ち」の像が安置されています。
お前立ちの魔王尊像は、背中に羽根をもち、長いひげをたくわえた仙人のような姿で、光背は木の葉でできています。
多宝塔の魔王尊像も同じような姿をしています。

鞍馬寺は1126年の火災をはじめとして、たびたび焼失しています。
江戸時代の文化9年には一山炎上する大火災があり、昭和20年にも本殿などが焼失しています。
このため、堂宇はいずれも新しいものですが、仏像などの文化財は伝えられています。
Wikipediaより


叡山電鉄鞍馬線鞍馬駅から歩きます。
ひと山越えて、一駅手前の貴船口駅に出る為、歩き易い服装・靴が大切になります。
浴衣に下駄で歩いている女の子もいましたが、それは大変すぎると思います。
鞍馬駅を降りて、川沿いに50m行くと、左方向へ曲がって行きます。
カーブの先に鞍馬寺の山門があります。

山門を入ると、鞍馬山ケーブルもあります。
私はケーブルに乗らずに歩きます。
この辺りは、坂道ですが歩き易い道だと思います。

側道には、吉鞍社や魔王の滝などがあります。

牛若丸が天狗と修行したという雰囲気ではありません。
まだ他の山寺とあまり変わらない気がしています。


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一の谷 敦盛塚

2009年06月17日
敦盛の胴が埋められているという盛塚(兵庫県神戸市須磨区西須磨)です。
一の谷敦盛塚114
須磨浦公園の三の谷の西、国道2号線沿いにある大きな五輪塔の石塔で、地上部の高さが約3.5mです。

一の谷の戦いで、16歳の若さで熊谷次郎直実に討ち取られた、平敦盛の供養塔だといわれてきましたが、北条貞時が平家一門を供養するために、1286年に建立し、「あつめ塚」といわれていたのが「あつもり塚」と呼ばれるようになったという説もあります。

この石塔の前が古来の山陽道、近世の西国街道です。
大正時代には、敦盛さんは子供の病気の神様で、お礼参りには青葉の笛になぞらえて、穴をあけた竹に白紙を巻き、水引きをかけたものを奉納したと伝わっています。
須磨区HPなどより


山陽電鉄須磨浦公園駅で降り、国道2号線を西へ200m行きます。
須磨浦公園立体駐車場と敦盛そばのお店の間を、山陽電鉄の線路方向(山の方)へ入ると、敦盛塚があります。

敦盛塚の後ろには山陽電鉄が、前にはJRが走り、その向こうには海が見えます。
電車はうるさい(塚が造られた当時は電車などなかったので、こんな状況は想像もできませんでした)ですが、目の前が海という点は、すごく景色的には綺麗です。
塚はひっそりと建っていました。

この胴を埋めたという塚と、須磨寺の首塚とは、直線でも約1.8㎞もあります。
やはり首と胴が離れすぎてます…。

神戸市北区に鵯越があり、須磨区の敦盛塚後方には一の谷があります。
合戦があったり、歴史の舞台となった詳しい場所はわかりませんが、まわってみても雰囲気を楽しむことができるのではないでしょうか?


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梅村 伸雄

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一の谷 鵯越

須磨寺

2009年06月16日
源平の名所、須磨寺(兵庫県神戸市須磨区須磨寺町4-6-8)です。
須磨寺2117
正式な寺名は上野山福祥寺といいますが、古くから「須磨寺」の通称で全国に知られています。

開創は、平安初期の886年、聞鏡上人が勅命によって、上野の地(現在地)に七堂伽藍を建立し、兵庫の和田岬の海中から出た、聖観世音菩薩を本尊として奉祀したことに始ります。

その後、源頼政や豊臣秀頼による中興も行われましたが、数度、天災人災を受けて、かつては七堂十二坊あった伽藍も、幕末には、本堂・大師堂・仁王門のみを残して荒廃しました。
明治中期以後、唐門・護摩堂・鎮守社・奥ノ院・書院・奥書院・納骨堂・宝物殿・三重塔・塔頭三院等を再建、新築しています。

平敦盛遺愛の“青葉の笛”などが伝えられています。


本堂
886年開創当時の本堂には、松風村雨物語で有名な在原行平が参籠して、勅勘をゆるされたといいます。
その後、火災、洪水、地震などの災害で度々建て直されました。
現在の本堂は慶長7年、豊臣秀頼が再建しました。
建築奉行は片桐且元でした。
但し内陣の宮殿は応安元年の建造です。


須磨寺115
敦盛首塚
この首塚(五輪塔)は、1184年2月7日の一の谷の戦いで、熊谷直実に討たれ戦死した平敦盛の菩堤を弔う為に建立されたものです。
ちなみに、須磨浦公園にある“敦盛塚”には胴体が祀られています。
近時までこの塚に笛を納めて、子供の健康を祈る風習がありました。


義経腰掛松116
義経腰掛松
一の谷戦勝後、義経はこの松に坐って敦盛の首及び笛を実検しました。
目の前にある池は、その時敦盛の首を洗った池です。


その他、
“若木之桜”
光源氏の手植したものといいます。
弁慶制札を立てて曰く、「一枝を伐らば、一指を剪るべし」と、浄瑠璃に書かれた有名な桜です。制札は宝物館にあります。


“弁慶の鐘”
一の谷の合戦の際、弁慶が山田庄安養寺からこの鐘を長刀の先に掛けて担いできて、陣鐘の代用にしたといいます。
銘に「摂津矢田部郡丹生山田庄原野村安養寺之鐘」とあります。
今は宝物館にあります。
外にあるのは複製です。


“釣竿竹”
本堂の西約半丁の小藪をいいます。
神功皇后が海外遠征の際、肥前松浦川で鮎を釣った釣竿をここに埋めると、やがて藪になったといいます。
幹が雌で、葉は雄なので皇后の姿に似た珍しい竹です。


“須磨琴(一絃琴)”
松風村雨で有名な在原行平が須磨で創始した珍しい一絃琴です。
須磨寺パンフレットより


山陽電鉄須磨寺駅で降りて、東側の道をまっすぐ、まっすぐ400m山の方に歩くと須磨寺です。

この頃の武将そのものより、“静御前”“巴御前”などの悲話に心打たれて、短大で「吾妻鏡」を選択していたので、源平の史跡巡りに行ってみました。
義経の話も好きでしたね。
鵯越や一の谷の逆落としなど、伝説に近い話も興味がありました。

須磨寺には平敦盛の“青葉の笛”があると聞いていました。
敦盛の話も涙なくして語れません。
そういう敦盛の遺品ともいえる“青葉の笛”が見られるかもと、須磨寺を訪れました。
宝物殿で笛を見ることが出来ました。

これが歴史に登場した笛なのかと、ガラス越しにじっくりと眺めてきました。
誰も建物内にいてなかったので、好きなだけ、じっくりと見ることができました。
なんだか寂しい気もしました。
忘れられているような気になってしまいました。

源平は以外と人気がない?
戦国武将……、織田信長、明智光秀、武田信玄、石田三成、豊臣秀吉、上杉謙信…(戦国時代は得意でないので、思いつくまま書きました)の方が人気がありそうですね。
源平ファンの方は、にわかファンに荒らされる事もなくて喜んでいながら、少し淋しい思いもしているのではないでしょうか?
私も、ドラマやテレビで新選組や幕末が舞台になって、にわかファンで溢れると嫌だなぁ~と思ってしまうものですから…。心が狭くて…。

境内にある“敦盛首塚”には首が、須磨浦公園にある“敦盛塚”には胴体が埋められているという事でしょうか?
首塚は菩提を弔うための塚で、首は埋まっていないと考えていいのでしょうか?
もし首と胴が別々に埋葬されているならば、敦盛はあの世でどうしているのでしょう。
首が胴を捜しているとか?
その頃の死生観は今と違うので、こうなることは仕方がないと思っていたのでしょうか?

義経が腰を掛けた松や弁慶に関するものなど、須磨寺は源平好きの人にはたまらない場所だと思います。


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芦ノ湖

2009年06月15日
箱根関所と隣接しているのが芦ノ湖(神奈川県足柄下郡箱根町)です。
芦ノ湖
箱根山のカルデラ湖です。

神山が約3000年前に水蒸気爆発と火砕流を起こした際、山の一部が大崩壊を起こす山体崩壊が発生し、その結果誕生したカルデラ湖です。
神奈川県南西部にある県内最大の湖。

最大水深 43.5m
平均水深 15.0m
Wikipediaより

近藤勇や土方歳三が見たであろう芦ノ湖です!

箱根関所からはこの芦ノ湖を渡る人間がいないかもみていました。
これだけ広い湖の中、人一人を見つけることはできたのでしょうか?
昔の人は視力が良かったのか、何か“コツ”のようなものがあったのでしょうか?

この日は雨だったので、見通しが悪かったです。
湖をゆっくりと探索する余裕もありませんでした。

箱根といえば関所よりも、箱根駅伝の方が今の人にはピンッとくる言葉でしょうか。
箱根駅伝ミュージアムや箱根駅伝に関する場所(ゴール?スタート地点?)も近くにあるようです。
私は持久力が全くないので、長距離を走る、しかも山道を登るなんて考えられません。
すごいですね~。
今は大学生が走っていますが、江戸時代は飛脚も走って山越えをしていたのでしょうか?
長距離を走れる人を尊敬します。
いやぁ~400mでも尊敬です。
及び、芦ノ湖を泳いで渡ろうとする人。
私は息継ぎが出来ないので、息継ぎ無しで泳げる距離(私は25m~30m)しか泳げないので、ずっと泳ぎ続けられる人(スピードはもっと関係なし)も尊敬です。


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箱根関所 弐

2009年06月15日
箱根関所(神奈川県足柄下郡箱根町箱根1番地)です。
箱根関所4
江戸口御門
高麗門形式。高さは6.1m。
屋根や外観は「栩葺」、「渋墨塗り」。
江戸方面から来た場合には、この門から中が箱根関所の構内でした。
京口御門の対面側にあります。


箱根関所5
大番所・上番休息所
関所の一番主要な建物です。
二棟が継がれています。
街道側が大番所、湖側が上番休息所と呼ばれています。
共に栩葺と言われるうすく割いた杉板を重ねた屋根です。
外観は、渋墨で塗られた黒い建物です。


箱根関所3
遠見番所より
遠見番所は、箱根関所で唯一の二階建ての建物です。
四方に開かれた大きな窓から二名の足軽が24時間交代で、芦ノ湖や街道沿いを見張っていました。


箱根関所6
芦ノ湖畔より大番所・上番休息所方面をみる

箱根関所という場所は、それほど大きな敷地とは思いませんでした。
確かに、通行する人をチェックするだけの場所があればいいのですから、それほど広大な土地が必要ではないわけです。
ここで働いていた人たちも、ここで寝起きする必要は無いわけですよね。
夜勤の人の仮眠設備程度でいいはずです。

門や建物が黒く塗られているのは、威圧感を出すためでしょうか?
こんな小さな役所が、旅をする上での脅威になるとは…。
空港の金属探知機のようなものでしょうか?
何もないのにピーピーと何度も鳴ってくれるあの小さな門と同じです。

遠見番所から芦ノ湖方面を見ましたが、肉眼でしか見ることが出来なかった時代に、芦ノ湖を泳いだりして見つかる人はいたのでしょうか?
夜とかだと、見えないような気がするのですが。
それに山中の抜け道を通って、所謂関所破りをして、処刑された話などがありましたが、こんなに広い
山の中を歩いていて、見つかる事が本当にあるのでしょうか?
と、2つの疑問が…。
意外と見つかるものなのでしょうね。

新選組の探索方にも挑戦してもらいたいものですね。
新選組の探索方より、坂本龍馬の方が上手いかな?
あの梼原などの“龍馬脱藩の道”を通った人ですから。
もしくは、“逃げの小五郎”と異名をとった、桂小五郎もいい勝負が出来そうです。


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石井 啓文

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箱根 温泉

箱根関所 壱

2009年06月14日
近藤勇や土方歳三をはじめとし、新選組隊士も通った箱根関所(神奈川県足柄下郡箱根町箱根1)です。
箱根関所1  箱根関所2
関所の歴史は、646年の「大化改新の詔」に「鈴鹿(伊勢)・不破(美濃)・愛発(越前)」に「関塞(せきそこ)」を置くことに始まったといいます。
鎌倉時代以降の関所は、「関銭」というお金を払わなければ通ることができない所となり、集めたお金でお寺や神社を建設するといった、経済的な施設となりました。

江戸幕府は江戸を守るため、全国に関所を設置しました。
江戸時代初期は、軍事的な拠点として機能していましたが、平和な時代になり、治安維持のための警察的機能へと変わっていきました。
明治2年にその役目を終え、廃止されました。

人質として江戸に住まわせていた大名の奥方が国元に逃げ帰ることによって、幕府に対する謀反が起こらないようにすること。
大量の武器が無断で江戸へ持ち込まれないようにすることに、厳しい監視の目を光らせていたようです。
「入鉄砲と出女」といいます。
“出女”の取り調べは、大名の奥方だけでなく、庶民の女性に対しても行われていました。
全国53か所の関所がすべて「入鉄砲と出女」の取り締まりを行っていたわけではなく、それぞれの関所で、独自の取り締まりの方法がありました。

箱根関所は、江戸時代第一の主要道路である東海道を監視するために、設置された重要な関所です。
箱根関所の役割は、関所構内に掲げられた御制札に記載されており、旅人が関所を通るには、様ざまな検査が行われました。
箱根関所では、江戸から関西方面へ向かう「出女」の場合は、幕府の御留守居役が発行した証文(女通行手形)を必ず所持し、手形に記載された内容と持参した女性の特徴が一致しなければ、関所を通ることはできないという、厳しい取り調べが行われていました。

「御制札場」に掲げられていたのは、次の五項目でした。
一、関所を通る旅人は、笠・頭巾を取り、顔かたちを確認する。
ニ、乗物に乗った旅人は、乗物の扉を開き、中を確認する。
三、関より外へ出る女(江戸方面から関西方面へ向かう女性:出女)は詳細に証文と照合する検査を行う。
四、傷ついた人、死人、不審者は、証文を持っていなければ通さない。
五、公家の通行や、大名行列に際しては、事前に関所に通達があった場合は、通関の検査は行わない。ただし、一行の中に不審な者がまぎれていた場合は、検査を行う。

「出女」「手負」「死人」「不審者」以外の者は、無手形でも、関所を通ることができたようです。

このような箱根の関所を近藤勇たちが通った記録があります。

①元治元年10月15日
近藤勇・永倉新八・尾形俊太郎・武田観斎・新人隊士をともない京都へ出立。
近藤は道中、引戸駕籠で箱根関所抔も乗り通行致し、盛んなことでありました。
(加納通広『史談会速記録』一〇四輯)

②慶応元年4月27日
土方歳三、新選組入隊士をともない、江戸を出立する。
慶応紀元乙丑首夏、新撰組副長土方歳三義豊、目付役斎藤一、伊東甲子太郎、東下徴募、同月廿七日召連帰京いたし候新人局列名。
(異聞録)
とあり、陸路東海道を出立しています。
箱根関所HP&新選組日誌などより


小田原駅より箱根町行バス55分、関所跡入口下車2分
箱根湯本駅より箱根町行バス40分、関所跡入口下車2分
という事ですが、私は車で連れて行ってもらったので、詳しい行き方がわかりません。
山と湖に挟まれた、ごく一画開けた場所でした。

相変わらず、私の旅行は雨です。
今回も雨でした。
山の中を走り、開けたと思ったら関所への案内が出てきました。

この箱根関所は、平成19年に復元されたそうです。
『相州箱根御関所御修復出来形帳(慶応元年)』という報告書が、静岡県の韮山町(現・伊豆の国市)で発見された事がきっかけだったそうです。

箱根関所と新選組が関係あるとは、考えていませんでした。
たまたま箱根の関所を通る機会があり、調べてみると通った記録が残っているではないですか。
この山を近藤勇と土方歳三は通っているのです。
建物は復元なので、当時、近藤や土方が見て触った(?)ものとは違いますが、同じような風景を見たのかもしれません。
というか、近藤勇は駕籠から出ていないので風景を見ていない…かも。

清河八郎が募集した浪士隊として、京都へ向かった時は、中山道を通っているので、この箱根は通過していないはずです。
また、鳥羽・伏見の戦い後江戸へ戻る時は、天保山から船で海路戻っているので、この時も箱根は通らずです。
清河八郎は全国を歩いているようなので、それ以外の時に通っている可能性はありますね。
沖田総司は、上洛時は中山道、帰東は病気で船で海路ですから、この箱根の関所を通ったことはなかったと思います。

当時のまま建物が残っていてくれたら一番嬉しいのですが、なかなかそうはいきませんね。
それでも文献から研究されて、同じように復元されているので、近藤勇や土方歳三が歩いている姿をよりリアルに想像できそうです。


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山口 由美

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箱根関所

兼六園 弐 根上松

2009年06月13日
兼六園(石川県金沢市兼六町1-4)の根上松です。
兼六園6  兼六園8
大小40数本もの根が地上2mまでせり上がった奇観です。
この松は、13代藩主・斉泰が土を盛り上げて若松を植え、根を深く土で覆い、成長後に土を除いて根をあらわにしたものだと伝えられています。
樹高10m、幹周3.86mの黒松です。
兼六園などより


JR北陸本線金沢駅や北陸鉄道浅野川線北鉄金沢駅、あるいは北陸鉄道石川線野町駅です。
金沢駅・北鉄金沢駅からは、駅真正面の道を南東(真っ直ぐ)に歩いて行きます。
むさし交差点からどちらに曲がっても大丈夫です。
どちらもそれに続く国道を歩き、金沢城址を回り込み、国道157号方面なら香林坊交差点で国道を離れます。
国道159号方面なら、兼六園下交差点で国道を離れて下さい。
入口がいくつかあったと思います。

野町駅から行く場合は、駅を出て工場と反対に曲がります。
野町3丁目交差点で国道157号に出ます。
国道157号を進んで、犀川を渡りさらに国道157号を進むと、香林坊交差点に至ります。
そこで国道を離れて東に曲がると兼六園に着きます。

この松を見たとき、人工的に根を出したとは思いませんでした。
時間が経って、雨や風で土が流れてしまい、根が露出したのだと思いました。
でも違ったのですね。
わざわざ土を除いて根を出したとは…。
こういうものが美しいというのは、昔からあったのでしょうか?
それとも斉泰が独自に考えたものですか?
最初に考えた人はすごい感性の持ち主です。
なかなか思いつきませんし、それを“美”と感じるのも日本人ならではですか。

さて、幕末の金沢藩です。
文久3年9月、藩主前田斉泰は朝廷から京都警備を命ぜられましたが、応じようとはしませんでした。
藩主夫人は11代将軍家斉の娘で、藩主の周辺は佐幕派で固められていました。
これに対して、世子慶寧は松平大弐をはじめとする勤王派に支えられていました。

藩主の代わりに上洛した慶寧は、八月十八日の政変で都を追われた長州のために斡旋しましたが、徒労に終わりました。

翌元治元年、禁門の変では、病気と称した慶寧は加賀藩領である近江の海津へ勝手に立ち去ってしまいました。
藩主斉泰は朝廷と幕府ともどもに釈明し、世子慶寧を幽閉し、側近の松平大弐に切腹を命じ、勤王派40数人を処刑しました。
これを「元治の獄」といいます。

元治元年12月、越前入りした水戸天狗党は、鎮圧に出動した加賀藩に降りました。

慶応2年、慶寧が家督を相続、加賀藩は鳥羽・伏見の戦いに佐幕派としてのぞみましたが、旧幕軍の敗戦をしり、途中から兵を返しました。
戊辰の役には素早い転身を見せ、政府軍に属して越後長岡城攻めに参加しました。
幕末維新史事典より


藩の中、それも藩主と世子で対立していては、家臣もどちらに付けばいいのかこまりますよね。
鳥羽・伏見の戦いで佐幕派としてのぞんだのなら、最後まで貫いてくれればよかったのに。
戦っている途中で、旧幕軍の敗戦を知ったのか、戦う前に知ったのかで私の加賀藩に対する印象が変わりそうです(笑)
戦う前から寝返ったとなると…ねぇ…。

家臣の事を考えると負け戦はしたくないのでしょう。
この幕末の時代は、藩として思想を変えても仕方がないほど、時代の流れが大きかったと思います。
今まで日本で起こった戦いは、武将×武将でした。
“殿”とする人物を掲げて戦っていたと思います。
そうするとなかなか寝返るって事はありえません。
尊敬という心がありますから。
しかしこの戦いは、“外国をどうすか?”“天皇、将軍どちらを日本のトップにするか?”という全く違う次元の戦いです。
その時の流れによって、状況が全く違うので、どちらに付いて戦うかはその時によって変わってくるのだと思うのです。
それで普通かもしれません。

それでも初心を貫いたのが新選組かもしれないです。


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金沢観光

兼六園 壱

2009年06月12日
加賀100万石に造られた兼六園(石川県金沢市兼六町1-4)です。
兼六園4
徽軫灯籠
霞ヶ池の北岸にある徽軫灯籠は足が二股になっていて、琴の糸を支える琴柱に似ているのでその名が付いたと言われています。
高さは2.67mです。
傍らにはモミジの古木があり、曲水には虹橋が架かります。


兼六園2  兼六園1

江戸時代に加賀藩の庭園として造られたのが始まりです。
延宝4年に五代藩主前田綱紀が「蓮池亭」を造り、その庭を「蓮池庭」と呼びました。
これは、蓮池門を入った辺りで、現在7つある門の中で正門とされています。
当時は、金沢城の外郭として城に属していました。

文政5年に奥州白河藩主・松平定信によって「兼六園」の名が付けられました。
“兼六園”の名は宋代の詩人・李格非の『洛陽名園記』に由来します。
「宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望の六つを兼ね備える名園」との意味です。
13代藩主前田斉泰は天保8年霞ヶ池を掘り広げて増庭。
現在のものにほぼ近い形にしたとされます。

雪に備えて行われる雪吊は冬の風物詩です。
霞ヶ池を渡る石橋を琴に見立てて徽軫をなぞらえた徽軫灯籠は有名です。
園内の噴水は、日本に現存する最も古い噴水であるといわれています。
これより高い位置にある園内の水源、霞ヶ池から石管で水を引き、水位の高低差だけを利用して、水を噴き上げさせています。
そのため、水が噴き上がる最高点は、ちょうど霞が池の水面の高さになります。

兼六園の東南側には、13代藩主前田斉泰が母親である眞龍院の隠居所として建てた成巽閣が現存しています。
なお、金沢の地名は園内にある湧き水「金城霊沢」(きんじょうれいたく)が由来です。

長く殿様の私庭として非公開でしたが、1871年から日時を限っての公開が始まり、1874年5月7日から正式に一般公開されました。

1880年には西南戦争の戦没者を祀る明治紀念之標が建てられました。

文政5年(1822)、奥州白河藩主・松平定信によってその名を与えられました。
Wikipediaなどより


JR北陸本線金沢駅や北陸鉄道浅野川線北鉄金沢駅、あるいは北陸鉄道石川線野町駅です。
金沢駅・北鉄金沢駅からは、駅真正面の道を南東(真っ直ぐ)に歩いて行きます。
むさし交差点からどちらに曲がっても大丈夫です。
どちらもそれに続く国道を歩き、金沢城址を回り込み、国道157号方面なら香林坊交差点で国道を離れます。
国道159号方面なら、兼六園下交差点で国道を離れて下さい。
入口がいくつかあったと思います。

野町駅から行く場合は、駅を出て工場と反対に曲がります。
野町3丁目交差点で国道157号に出ます。
国道157号を進んで、犀川を渡りさらに国道157号を進むと、香林坊交差点に至ります。
そこで国道を離れて東に曲がると兼六園に着きます。

兼六園の名前はもちろん知っていました。
岡山の後楽園、水戸の偕楽園と合わせて三名園です。
しかし私はどこにも行った事がありませんでした。
この兼六園が初めてです。

この日はやっぱり雨でした。
私が旅行に出かけると、1日は絶対雨になります。
1泊2日なら、2日とも雨ということもあるぐらいです。
雨の兼六園も風情があっていいのでしょうが、見て歩くにはやはり晴れている方がいいですよね。
2度目、3度目なら雨でもいいかもしれません。
いろいろな風情を楽しめますから。

テレビなどでよく見る風景、徽軫灯籠がある風景を見たときは、“あっ、この景色しっている”と思いました。
やはりテレビや写真で使われるだけありますね。
印象的な景色でした。

広い庭園でした。
噴水が日本最古だと気付いていませんでした。
なので写真を撮っていません。失敗です。

観光客が多く来ていました。
観光バスで来ている人が多いようです。
兼六園は庭園で、金沢城址はまた別にあります。
今回は時間がなく、兼六園のみ見てきました。

よく城内にある庭と違うかな?
ん~、あまり詳しくないのですが、この庭全体でバランスがとられているのかな?
私はただただ、“広い”“変わってる”と思いながら見ていました。
やはり徽軫灯籠と虹橋が印象に残っています。

さて幕末の加賀藩については、「兼六園 弐」の記事に記します。


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戸部 新十郎

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兼六園

晴明神社

2009年06月11日
晴明神社(京都府京都市上京区堀川通一条上ル晴明町)。
晴明神社1  晴明神社2

晴明神社3
晴明没後、これまでの偉業に対してなど、生前の官位は低すぎたと感じた一条天皇の命で晴明を祀った神社として、寛弘4年に建てられました。
当初は、晴明神社は晴明が住んでいた屋敷のある場所に建てられました。

東は堀川、西は黒門、北は元請願寺、南は中立売の広大な地域でした。
しかし応仁の乱や秀吉の都市計画などで縮小されてしまいました。
応仁の乱で主要な寺社はすべて焼けてしまっています。

それを嘉永6年に当時の氏子達が中心となって、社地社殿を改修して、その後明治11年、明治36年に改修、昭和3年には現在の本殿と社務所が新築され、昭和25年には現在の形になりました。
そのため、当初は晴明の屋敷跡に建てられていた晴明神社ですが、現在はかつての晴明邸とは違う場所に建っています。
(以前は、京都ブライトンホテル付近 別記事参照して下さい)

本殿の北側にある晴明水と呼ばれる堀井からは、霊水が湧き出ていて、この水を飲めば、悪病難疾を平癒させるといわれているそうです。
陰陽師「安倍晴明」超ガイドブック、安倍晴明&陰陽師大全より


一条戻り橋から堀川通を北へ100m歩くと、晴明神社があります。

ビルに挟まれて鳥居が見えてきます。
鳥居を潜ったあたりに、昔の一条戻り橋の欄干が置いてありました。
それでもいつの時代のものかはわかりません。
晴明の時代のものではないですよね?

私が訪れた時は、夕方に近い時間だったからか、訪れている人は少なかったです。
映画や漫画でブームになったので、多くの人がお参りにこられているかもしれません。
霊感のない私がいうのもなんですが、特に何か霊的に感じるものはありませんでした。
安倍晴明ゆかりの神社というので、もっとこう重~い空気とか、異様な雰囲気があるのかと思っていましたが、普通にお参りして来ました。
霊感のある人はどうかはわかりませんよ。

五芒星があちらこちにあり、安倍晴明縁の神社だと実感しました。


安倍晴明公安倍晴明公
(2002/09)
千 宗守荒俣 宏

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不明

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晴明神社 お札 お守り

一条戻り橋

2009年06月10日
一条戻り橋(京都府京都市上京区堀川下之町)です。
一条戻り橋1

一条戻り橋3  一条戻り橋2
安倍晴明が式神を隠していた場所です。
冥界にも通じているといわれていました。

ここに立って願い事を思うと、橋の下にいる式神が通った人の口を借りてお告げを下すといわれています。

戻り橋はかつては土御門門と呼ばれていましたが、三善清行の葬列がこの橋を通ったとき、比叡山の行者だった、子の浄蔵がこの橋の上で必死で加持をして甦らせたことで、戻り橋となったと伝えられています。

今の一条戻り橋は新築されていますが、昔の欄干は晴明神社に保存されています。
陰陽師「安倍晴明」超ガイドブックより


晴明邸跡(京都ブライトンホテル)から、西へ歩いて堀川通まで出ます。
堀川中立売交差点から北へ150m、一本北の橋に向かいます。
一条戻り橋です。

一条戻り橋の下には、晴明が式神を隠していたというので、覗き込んでみました。
もちろん式神を見ることはありません。
そんな気配もありません。
当たり前ですね。

橋なので、下は川で水が流れているかと思っていましたが、水はありませんでした。
コンクリートで綺麗になっているので、式神は居心地が悪いでしょう。
きっと晴明の命令があっても、ここは遠慮したいと訴えているかもしれないですね。
当時の一条戻り橋の下はもっと住み心地が良かったのでしょう。

式神がいると思うぐらいには、そういう雰囲気のある場所だったのでしょう。


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(2009/04/13)
火坂 雅志

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源頼光 四天王 渡辺綱 一条戻り橋

梼原町-龍馬脱藩の道・那須親子・維新の門など

2009年06月09日
今朝、テレビで高知県梼原町の道路整備の問題についてみました。
梼原町といえば、高知県高岡郡梼原町の梼原町ですよね。
テレビの内容の道路整備については、(全部をはっきりと見られなかったのですが)9割がた出来ているトンネルが建設中止になっていました。
トンネルが出来ると、10分ちょっとで行けるところが、今は約1時間ほどかけて、危険な道を通って行っているというような内容だったと思います。
確かに、救急車などの搬送は、救急車要請から搬送で何時間も掛かっていて、これはトンネルが必要だと私も思いました。

私が気になったのは、そこではありません。
そこはOK。

梼原町の東区の町が整備され、国道沿いの家は立ち退いて、綺麗に整列した家が建ち並び(新興住宅地のようでした)、アスファルトが綺麗に敷かれて、まるで都会の住宅地のようでした。

以下は、そこに住んでいる方の不便さを無視した勝手な意見ですが、
あまりに風景が変わりすぎていてショックでした。
前に訪れた時は、都会とは違うすごく素朴で、歴史を感じる町だったのです。
歴史を感じる家も多くて、自然の中で共存しているなと思いました。
私の好きな町best3に入るような場所だったのです。
それが…。
どこででも見られるような町並みになっていました。
その一画だけかもしれませんが…。

本当に住んでいる方は、不便で近代化は願いでもあると思います。
仕方が無い事だとは、わかってはいるのです。
ただ、歴史ファンとしては、少しショックでした。
訪れた時に感じた、住んでいる方の人としての朗らかさ、優しさ、良さは近代化しないで下さい。

梼原村  土佐の山々

安倍晴明邸跡

2009年06月09日
晴明神社は安倍晴明邸跡(京都府京都市上京区上長者通西洞院東入ル北側の土御門町付近)に建てられているといいますが、現在の場所でいえば少し場所が違っているようです。
晴明屋敷跡2  晴明屋敷跡3

晴明屋敷跡1
当時の晴明邸は、東は堀川、西は黒門、北は元請願寺、南は中立売という広大な規模でした。
しかし、応仁の乱や豊臣秀吉の都市計画などで、かなり縮小されてしまいました。

以前の晴明邸は、今の上京区中立売通新町に位置しています。
京都ブライトンホテルのあたりです。
986年の夜、花山天皇は京都ブライトンホテルの辺りで、晴明が式神に命令する声を聞いた事になります。
陰陽師「安倍晴明」超ガイドブックより


京都市営地下鉄烏丸線今出川駅から今出川通に上がります。
烏丸今出川交差点から烏丸通を約500m南へ歩きます。
烏丸中立売交差点から中立売通を西へ300m行くと、京都ブライトンホテルがあります。

この付近が安倍晴明邸があった場所で、最初に晴明神社が建てられた場所です。
京都御苑から300mほどしか離れていません。
花山天皇が晴明が式神に命令する声を聞いたのも、あながち無かったともいえないかもしれません。
天皇はどこかお寺に向かう途中だったようですが、たしかに御所を出たすぐの場所なので、通った可能性はすごく高いです。
それにしても広大な敷地のお屋敷だったのですね。
それだけ力があったという実証でしょうか。

もしそのまま安倍晴明の子孫がその屋敷をずっと、幕末頃まで受け継いでいたら、各諸大名の屋敷なんて比べ物にならない程の広さでした。
幕末・明治維新の力関係も変わっていたかもしれませんね。

安倍晴明の大ファンの方なら、京都を訪れた場合、やはりこのホテルに泊まるのでしょうか?


安倍晴明―アンソロジー (白虎編) (ピチコミックス)安倍晴明―アンソロジー (白虎編) (ピチコミックス)
(2001/03)
かんべ あきら

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京都ブライトンホテル

遍照寺

2009年06月08日
安倍晴明が広沢僧正を訪ねた遍照寺(京都府京都市右京区嵯峨広沢西裏町14)です。
遍照寺1

遍照寺2  遍照寺4
『今昔物語』の話が事実だとすれば、晴明が式神を使って蛙を殺して見せたお寺になります。

広沢僧正の名前は寛朝といいます。
宇多上皇の孫で、敦実親王と藤原時平の娘を母とします。

遍照寺は989年に広沢池の近くに建てられ、そこに住んだことから、広沢大僧正と呼ばれていました。
真言宗の僧でした。


遍照寺3
   遍照寺に現在あった池

陰陽師「安倍晴明」超ガイドブックより

JR西日本山陰本線嵯峨嵐山駅、嵯峨野観光鉄道(トロッコ列車)トロッコ嵯峨駅から、駅の北側に向かいます。
京福電鉄嵐山線なら鹿王院駅か車折駅が近いと思います。

JR嵐山駅から北へ歩いて、まずは新丸太町通まで出ます。
新丸太町通に出たら、東へ歩きます。約900mです。
広沢南野町交差点から、北へ曲がります。(広沢池方向です)
150mほど北へ歩くと遍照寺があります。

京福電鉄を使うと、鹿王院駅だと駅の東側の道を北へ歩き、新丸太町通まで出ます。
途中JRを越えます。
新丸太町通の嵯峨中前バス停付近に出ると思いますので、そこから東へ400mほどで、広沢南野町交差点です。
そこからは北へ曲がり、150mです。

車折駅も同じく、北へ向かいますが、道が入り組んでいるようですので、とりあえず北へ北へと進んで新丸太町通まで出てください。
広沢南野町交差点付近の丸太町通に出ると思います。
広沢南野町交差点から北へ向かって、150mで遍照寺に着きます。

嵐山から北へ向かって歩きました。
遠かったです。
途中にスーパーなどもあり、観光地から離れ、生活感溢れる場所も通りました。
新丸太町通を東へ歩くのが遠かったです。
本当にあっているのか不安になりながらも、新丸太町通から北へ向かう道へ入ると、また雰囲気が違ってきました。

お寺の山門はこじんまりとしていましたが、中に入ると広い境内でした。
山門を入ったあたりに池がありました。
この池にいた蛙を式神で殺したのではないでしょうが、思わず池を覗き込んで蛙を探してしまいました。
蛙は居ませんでしたが、このお寺に安倍晴明が来たという話しがあるのですね。

どこまでが本当かわかりません。
式神で蛙を殺したことは、ほぼ創作でしょう…。
もしかしたら、昔の人はいろいろな力や能力を持っていたかもしれません。
今の人間が退化しているとか…。

安倍晴明の話は、ある種のファンタジーとして楽しんでもいいのではないでしょうか?
私はもしかしたら本当かも…と思わないでもないですけれど。


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