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六角堂 頂法寺

2009年05月31日
六角堂で親しまれている頂法寺(京都府京都市中京区六角通東洞院西入堂之前町248)です。
六角堂1

六角堂5  六角堂6

聖徳太子は、蘇我氏と物部氏との戦いで、「勝たせていただければ、四天王寺を建立いたします」と如意輪観音に祈りました。
崇仏派の蘇我氏が勝利した後、報恩のため四天王寺を建立しますが、そのための用材を求めてこの地を訪れました。
その際、太子は池で水浴をするためい、傍らの木に衣服とともに持仏の如意輪観音像を収めた箱を掛けておいたところ、如意輪観音像は重くなり動かなくなってしまいました。
夢告によりその観音がこの地にとどまり衆生を済度することを希望したので、その観音像を現在地に安置し祀る事にしました。

老翁がやってきたので、「この辺りに観音のお堂を建てるにふさわしい木はないか」と尋ねました。
老翁は「この近くに杉の巨木があります。毎朝紫の雲がたなびく霊木です。あの木を使うとよいでしょう」と言って去りました。
その杉の巨木を伐採して六角形の堂を建立したのが始まりといいます。

観音像は、太子の幼少時、淡路島の岩屋で水浴している時に隋から流れついたもので、像高一寸八分、太子の前世の守り本尊であったものと伝承されています。


六角堂3聖徳太子沐浴  六角堂4聖徳太子沐浴
聖徳太子沐浴の池跡
六角堂の北に、太子が沐浴したと伝わる池跡があります。
この池のほとりに小野妹子を始祖と伝える僧侶の住坊があったので「池坊」と呼ばれるようになりました。
池坊の祖先は、朝夕宝前に花を供えてきました。
これがいけばな発祥の地となって行きました。


六角堂2へそ石
へそ石
本堂東側の柵で囲われた中に平面六角形の平らな石があり、「へそ石」または「要石」と呼ばれています。
旧本堂の礎石と伝えられ、頂法寺が平安京造営以前から存在し、位置も移動していないことから、この石が京都の中心であるといわれています。
もとは門前の六角通にあったものを、明治初期にこの場所に移したのです。
石の中央に孔があり、元来は燈籠等の台石であった推測されます。
Wikipediaなどより


阪急電鉄京都線烏丸駅や京都市営地下鉄烏丸線烏丸駅から、烏丸通を北へ400m。
または、京都市営地下鉄烏丸線か京都市営地下鉄東西線烏丸御池駅から、烏丸通を南へ100mです。

華道で有名な池坊のゆかりのお寺です。
六角堂ですから、六角形です。
六角形には、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)によって生ずる六欲、つまり煩悩を脱して角を無くし、円満になる…、「六根清浄を願う」という祈りを込めて六つの角を造ったといわれているそうです。
しかし法隆寺夢殿、広隆寺桂宮院と八角形だったので、聖徳太子は“八”と結びついているものだと思っていました。

お寺は回りからキュッと挟まれているように建っていました。
太子沐浴の池はあまりに綺麗に整備されていて、聖徳太子を思い浮かべるのは無理でした。
綺麗すぎて、本当に?と思ってしまいうほどでした。
へそ石も残念な事に、六角通から数mとはいえ動かされていました。

聖徳太子の護持仏は秘仏で見ることが出来ないのが残念です。
よくあることですが、秘仏としてお寺の方も見たことがない仏様は大丈夫なのでしょうか?
何が…、木造なら虫食いですとか、保存状態の確認という事です。
千数百年とかの時間、どうなっておられるかもわからないのです。
大丈夫なのでしょうか?
仏様も外の空気を吸ったり、お日様の光を浴びたいとお思いにならないのでしょうか?
そういうものを超越したのが仏様ですか。


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平野神社

2009年05月31日
桜の名所、平野神社(京都府京都市北区平野宮本町1)です。
平野大社205
太秦・広隆寺は創建当時平野神社近くにあったとされます。

祭神は、
今木神(第一殿) -- 源気新生、活力生成の神  (染織・手芸・衣の神)
久度神(第二殿) -- 竈の神、衣食住の生活安泰の神  (竈・台所・食事の神)
古開神(第三殿) -- 邪気を振り開(晴)く平安の神  (斉火の神)
比売神(第四殿) -- 生産力の神。光仁天皇の妃高野新笠とする説もありました。
今木神の今木は今来のことで、渡来人を意味します。

794年、桓武天皇による平安京遷都にともない、平城京で祀られていた今木神・久度神・古開神を遷座・勧請したのに始まります。
元々今木神は平城京の田村後宮に、久度神・古開神は大和国平群郡の式内・久度神社に祀られていました。
比売神は承和年間より祀られるようになったものです。

応仁の乱をはじめ、たびたび社殿が焼失し、そのたびに再建を繰り返し、天文法華の乱によって、社殿および社領は完全に荒廃したといわれます。

2005年まで鳥居の扁額には「平野大社」と銘記されていました。
Wikipedia&平野神社HPより


京福電鉄北野線北野白梅町駅から、西大路通を北へ500mです。

ここが直接、聖徳太子とゆかりがあるのではなく、太秦にある広隆寺が創建された当時はこの神社の近くにあったとされているという、目印のような意味で訪れてみました。
太秦の広隆寺からおよそ5.5㎞離れています。
5.5㎞が近いのか遠いのかは微妙な距離ですね。
移転とするれば、近くでより良い地に移転したということなのでしょう。

この付近に広隆寺があったのですが、今はそれを示すものは何もありません。
このまま南へ行くと、壬生寺の辺りに出ます。
聖徳太子よりも新選組が歩いたかもしれないという思いの方がします。
もしかしたら歩いているかもしれませんよね。
桜の名所ですから、市中見回りや仕事で近くを通ったときは、桜の花を横目にみて歩いたかもしれません。


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蛇塚古墳

2009年05月30日
秦河勝の墓かもしれない、蛇塚古墳(京都府京都市右京区太秦面影町)です。
蛇塚古墳1203  蛇塚古墳2204
京都府下でも最大の横穴式石室をもつ前方後円墳です。
墳丘の長さは約75mあったと推測されていますが、封土は失われて後円部の石室のみが露出しています。
石室の全長は17.8m、玄室の長さ6.8m、玄室の高さ5.2mで明日香村の石舞台古墳に匹敵する大きさです。
床の部分の面積で比較すると日本で第4位の規模になります。

古墳時代後期の6世紀末から7世紀頃の築造とされ、現存する京都府の前方後円墳としては最後期に属します。
被葬者は不明ですが、秦氏一族の首長クラスの人物ではないかと考えられています。
被葬者を秦河勝とみる説もあります。

“蛇塚”の名の由来については、石室内に蛇が棲んでいたから名付けられたともいわれています。
また周囲が住宅地になる前は、空き地に石室がそびえている状態であり、石室に近づくことができました。
かつて「岩屋」と呼ばれていた時期があります。
石室の規模から蛇塚古墳はしばしば石舞台古墳と対比されます。
石舞台古墳の石室は花崗岩ですが、蛇塚古墳の石室は堆積岩です。
蛇塚古墳の石室の天井石は失われています。
Wikipediaより


京福電鉄帷子ノ辻駅を南側に出ます。
スーパーにっさん太秦店の南側にある、南に伸びる道を南の住宅街に入って行きます。
突き当たったら、西へ曲がりすぐにまた南へ曲がります。
真っ直ぐ南へ、道を渡って南へ行くと、住宅地の真ん中にポンッと蛇塚古墳が現れます。
約400mでしょうか。

こんな住宅地に古墳があるの?
半信半疑で歩きました。
するとどうでしょう、思わぬところに古墳がありました。
この古墳を取り囲むように、家が建っていました。
古墳が特別な物ではなくて、空気のような存在になっているのでしょうね。

秦河勝のお墓だったのかもしれません。
石舞台古墳に匹敵する大きさだとすると、それもありえるかもしれないです。
石舞台が蘇我馬子の墓で、蛇塚古墳が秦河勝の墓だとすると、聖徳太子ゆかりの二人は後世に残る大きな古墳(墓)に埋葬されたということです。
それだけの実力者だったのです。
さらにそれを上回るのが聖徳太子。
ん~、どんなに凄い人だったのでしょう。
さすが何度もお札になるだけの人ですね(笑)

蛇塚古墳という名前も少し不気味さを感じさせませんか?
蛇は神として崇められもしますし、忌み嫌われることもあります。
そういうところからも、なにか祟り的なもの、怪奇的なものなどを感じてしまうのは私だけでしょうか?
心霊番組好きですから、なおさらそちらにイメージを持っていってしまうのでしょうね。
といっても、この場所は全然そういう雰囲気はありませんでした。


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古墳 一覧

蚕の社・木島坐天照御魂神社

2009年05月30日
木島坐天照御魂神社は通称・蚕の社(京都府京都市右京区太秦森ヶ東町50)と呼ばれています。
蚕の社1198

蚕の社2199
       三柱鳥居

木島神社は、奈良時代以前に創建されたと言われる古社です。
境内に日本に養蚕、機織、染色技術を伝えた秦氏ゆかりの養蚕神社、通称「蚕の社」があることから、こちらの呼び名の方が有名になりました。

境内の元糺の池に明神鳥居を3本組み合わせた珍しい石鳥居(三柱鳥居)があります。
京福電鉄HPなどより


京福電鉄嵐山本線蚕ノ社駅の東側の道を、まっすぐ北へ歩きます。
250mの突き当たりに蚕の社があります。
広隆寺から、広隆寺の前の道を東へ600m歩いても行けます。

三柱鳥居を見るのは初めてでした。
こんな鳥居があるなんて。
うっそうと繁る木で薄暗く、柵で囲まれた池の中にある鳥居。
霊感があるわけではないので、嫌な気配を感じるとかはなかったのです、写真を撮っても大丈夫かな?と一瞬不安になりました。
三柱というのは、なにか呪術的なものに関係しているの?
なんて勝手に想像してしまいました。

しかし全国にはいくつか三柱鳥居があるようです。
その中でも、
岐阜県大和町にある三柱鳥居は、標高1000mぐらいの場所にあります。
車が通れる道からは2㎞ぐらいですが、 登山道は不明瞭なので、到達するのは非常に困難です。
鳥居があるだけで神社はありません。
というのには、興味が湧いて来ました。
流石に行けないですが、謎がたくさんありそうではないですか。
蚕の社は山を登ることもなく、電車ですぐに行けます。

本当に珍しい鳥居でした。


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広隆寺

2009年05月29日
京都最古の寺院で、有名な弥勒菩薩半跏像がある、広隆寺(京都府京都市右京区太秦蜂岡町)です。
広隆寺1200
京都最古の寺院で、聖徳太子建立七ヵ寺の一つです。
また秦氏の氏寺とされ、寺号は創建者である秦河勝の実名「広隆」にちなむといいます。
古くは蜂岡寺と称しました。
秦氏は5世紀後半に朝鮮半島より渡来した有力氏族で、治水・潅漑や養蚕・機織などの進んだ技術を背景に経済力を蓄えました。
山背(山城)国葛野郡が本拠地で、広隆寺はその氏寺でした。
創建期の伽藍は、現在の平野神社(京都市北区)のあたりにあったといいます。

『日本書記』の603年には、秦河勝が聖徳太子より仏像を賜り、蜂岡寺を造って祀ったとあります。
この仏像が国宝指定第一号として有名な“木像弥勒菩薩半跏像”といわれています。
616年に新羅の使者が奉った仏像と伝えられる“宝髻弥勒半跏像(別名 泣き弥勒)”もあります。

「九条河原里荒見社里」から「五条荒蒔里」(現在地)に移転したとされますが、旧寺所と移転の時期については諸説あります。

10月12日の夜、牛に乗った摩多羅神が槍を携えた四天王を従えて境内を巡り、金堂前の壇上で祭文を読み上げる奇祭「牛祭」が境内の大酒神社で行われます。
聖徳太子の本&日本の国宝015より


蜂岡寺礎石201
右京区役所から出た蜂岡寺の礎石

桂宮院202
桂宮院本堂
建長3年、中観上人により再建されました。
八角円堂の建物で、桧皮葺の緩やかな屋根をもち、しかも軒の反りが強いです。
推古天皇11年に聖徳太子が殿舎を建てられ楓野別宮と名づけられました。
後にこれを寺として桂宮院と号しました。


京福電鉄嵐山本線太秦駅の北側です。
駅を降りると目の前に仁王門が見えます。

太秦という地名の由来は、
秦氏が大和政権に税を納める際、用いた絹が「うずたかくつもられた」ことから、朝廷から「うずまさ」の姓を与えられ、これに「太秦」の漢字表記を当てたという説。
秦氏の拠点であったことから、拠点という語義を「太い」という字で表し、「まさ」は秦氏の「秦」をもって表記し、「うずまさ」と呼ぶようになったという説。
Wikipediaより
などがあります。
歴史か地理かで習った記憶があります。

広隆寺に出かけたのは、いくつか見たいものがあったからです。
まずは仁王門…の前にある、蜂岡寺の塔心礎です。
蜂岡寺のものですから、当時の古いものです。
秦河勝が見た蜂岡寺のものかもしれません。
何年前のものなのでしょう…。

2つ目は、これが本命といってもいいのかもしれません。
“弥勒菩薩半跏像”
霊宝殿に入ると、薄暗い室内に弥勒菩薩半跏像が微笑んでおられました。
元は金箔に覆われていたそうですが、金箔は全部剥がれ落ちていましたが、私は今の方がいいような気がします。
煌びやかよりも落ち着きます。
穏やかな雰囲気の仏像で、ずっと見ていたい…、何度でも見てみたいと思いました。
私もついつい霊宝殿から離れがたく、長居をしてしまいました。
中宮寺の菩薩半跏像とともに、とても惹きつけられる仏様でした。

3つ目は、桂宮院です。
聖徳太子の史跡巡りとして訪れたのならば、聖徳太子をまつる桂宮院は見ないといけません。
が、この桂宮院は4、5、10、11月の日曜・祝日しか拝見できません。
法隆寺夢殿と同じ八角円堂というところが、聖徳太子を思い起こさせますね。
ただし、これは1251年以降に造られたもののようですので、聖徳太子が直接造ったり、関わったものではないのです。
夢殿は瓦の屋根ですが、こちらは桧皮葺なので柔かい印象を受けます。
夢殿の方が、どっしりとしていますね。

そして最後は、上宮王院の聖徳太子立像です。
この立像は、歴代天皇の即位式に用いられた黄櫨染の御袍と同じ物を、その一代を通じて着用しています。
現天皇の即位の後も、古式に則って御袍下賜がありました。
すごく特別な感じがしますよね。
日本では聖徳太子は特異な位置にあるように感じました。
この御袍の下は、彫刻された下着姿だそうです。
そんな事を念頭に置きながらこの立像をみると、御袍を脱がれた姿も見てみたくなりました。
罰当たりですか?

広隆寺は京都にありながらも、JR京都駅や阪急・京阪四条駅周辺とは雰囲気は全く違います。
中心部より人々の生活感がある感じがします。
この広隆寺の裏、北側に東映太秦映画村があります。
時間があれば時代劇に浸ってみてはどうでしょうか?


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太子道と業平道

2009年05月29日
太子道と業平道(奈良県生駒郡斑鳩町)についての説明板です。
案内太子道174

コピー ~ 太子道384
こんな感じで道があったようです。(太子道一部)

この道は推古天皇の頃、聖徳太子が斑鳩宮から飛鳥京へと通われたという道です。
奈良盆地の中央部を通り、ほぼ直線の斜行道路で道が斜めになっているところから、「筋違道」と呼ばれてきました。

太子は片道約20㎞の道のりを調子丸という舎人(従者)を従え、愛馬黒駒に乗り通ったといいます。
今もこの道筋には多くの太子伝説を残し、「太子道」として親しまれています。

また、この付近には「業平道」と呼ばれている道があります。
この道は平安時代の歌人で、「伊勢物語」の主人公で百人一首などで知られる在原業平が、河内の高安の恋人である河内姫のもとへ通ったとされている道です。
この道のりは、天理市(櫟本)-大和郡山市-安堵町-斑鳩町-平群町を通り河内の高安(大阪市八尾市)までとされています。
この付近にかかる橋も「業平橋」呼ばれています。
斑鳩町教育委員会説明板より


さすがに空撮や地図で見ないとよくわかりませんね。
文章で説明するだけの、文章力もありません。

今も道はあるようです。
春や秋なら、歩いてみるのもいいかもしれませんね。
但し、片道20㎞です。
体調を整えて歩かないと、踏破できても翌日が辛いかもしれません。

しかし聖徳太子はこの道を往復して、通ったのですか?!
現在のサラリーマン並みです。
冬は日が暮れるのも早いですが、電気なんてないので、真っ暗な中を帰ったのでしょうか?
それともそうなったら泊まって、翌朝帰ったりしたのでしょうか?
太子も大変ですが、供をした調子丸も大変だったでしょう。
黒駒も往復40㎞を、聖徳太子を乗せて歩いた?走った?のでしょうか。


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龍田神社

2009年05月28日
法隆寺と関係の深い、龍田神社(奈良県生駒郡斑鳩町龍田1丁目5-6)です。
龍田神社197
十代崇神天皇の御代に年穀の凶作が続いた時、帝自ら卜占をもって占い、天神地祗を龍田山の聖地に祀られました。

聖徳太子が16才のとき、法隆寺建立のため橘から、平群川(現在の竜田川)の辺りに伽藍建設地を捜して来ました。
その時、太子は、椎坂山で白髪の老人に顕化した竜田大明神に会い、示してもらった地(斑鳩)を法隆寺建設地としました。
「ここから東にほど近い処に斑鳩の里がある。そここそ仏法興隆の地である。吾また守護神となろう。」といわれました。
太子は法隆寺建立と同時に御廟山(錦ヶ丘)南麓の地に鬼門除神として竜田大明神を移し祀りました。
古来より竜田は神代の竜田、楓の竜田として紅葉の景勝地です。

中世は法隆寺より別当坊三十口を給わりました。
龍田神社説明板などより


法隆寺前の国道25号を、法隆寺前交差点から約1㎞ほど西へ行った所です。

拝殿はコンクリート製ということですので、当時の建物は残っていないのかもしれません。
法隆寺が奇跡的なことであり、残っていなくても仕方がないほどの長い年月が建っているのですよね。

嵐吹く三室の山のもみぢ葉は 龍田の川の錦なりけり 能因法師
千早ぶる神代もきかず龍田川 からくれなゐに水くくるとは 在原業平朝臣
龍田というのは、百人一首などで出て来る、竜田川の流れる場所の事のようですが…。
龍田神社よりもう少し西に、竜田川が流れています。

私が訪れたのは紅葉の季節ではなかったので、紅葉の名所としての龍田神社は眼にする事ができませんでした。
あまり印象に残っていないというのが、正直なところです。
聖徳太子の史跡というより、やはり百人一首など和歌で出て来る場所としての記憶の方が強いです。


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夢幻戦記

2009年05月28日
栗本薫氏が亡くなられたニュースを見ました。

『夢幻戦記』を夢中になって読んだ思い出があります。
これは“新選組の沖田総司は夢幻公子の転生した姿であった”という内容で、
新選組が舞台ですが、時代小説ではなく、ファンタジーです。
新選組のメンバーは総出演して、話も新選組の歴史に沿って進むファンタジーだったような…。
読んだのが10年近く前だったので、詳細は忘れてしまっています。

当時発売されていた、7巻か8巻までは一気に読みました。
現在は15巻まで出ていて、未完になってしまったようです。
手元に11巻までありますが、あと発刊されている4巻も手に入れたくなりました。

キッチリとした歴史小説しかイヤという方には向いていないですが、ファンタジーっぽいものも大丈夫という方にはいいかもしれません。
また、新選組を知らないファンタジー好きの方は、この本から新選組を好きになってもらえたら嬉しいですね。


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三井

2009年05月27日
日本では最古に属する井戸、三井(奈良県生駒郡斑鳩町三井)です。
三井1181  三井2182
もとは法輪寺の境内でした。
古代朝鮮の井戸の形式と同じとされます。
日本では最古に属する井戸で“赤染の井”といわれています。

寺の別号三井寺や地名の三井はこの井戸に由来しているといわれています。
厩戸王子が開いた三つの井戸のひとつです。

井戸は深さ4.24m、口径0.9mで、中ぶくれの筒状になっています。
構造は、底の方に4個の石を組み合わせ、内外の隙間から水が湧き出すようにしています。
側壁は、底部から約1.15mの高さまでの間を乱石積み、その上方約3mの部分は扇形の塼を積んでいます。
斑鳩町教育委員会&文化庁説明板より


法輪寺を出てすぐの所に、三井があります。
法輪寺を出て、西に歩いてすぐに交差する道を北へ行きます。
さらに西へ曲がれる最初の道を曲がり西方向へ…、突き当たり付近に三井があります。
家の間を抜ける感じなので、間違っていないか心配になりますが、少し開けた場所に三井があります。
意外と迷わなかったので、大丈夫だと思います。

聖徳太子が開いたという井戸です。
見た目、どこにでもあるような井戸にしか見えませんでした。
しいていえば、縁が低いので時代劇で見るような、江戸時代?の井戸と違うかな?
いやぁ~、それは後々の人が修理しただけで、高かったのかもしれませんね。

古代朝鮮の井戸の形式というのは、石積みの方法などのことでしょうね。
古代の人はこの井戸を使えたのでしょうか?
それとも貴重な井戸で、高貴な人しか使えなかったのでしょうか?
でも聖徳太子が開いた井戸ですから、庶民の人も使うことが出来たと思いたいです。


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西福寺

2009年05月27日
西福寺(奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺西1丁目1-18)に、調子麻呂の墓があるともいわれています。
西福寺196

法隆寺中院横の門から出て、西に100mいくと西福寺があります。
調子麻呂の墓があるともいわれている西福寺というのは、このお寺の事でしょうか?
西福寺という名前しかわからないので、法隆寺周辺で西福寺を探したのですが、このお寺しかわかりませんでした。

この付近に調子麻呂のお墓があったのかもしれません。
雰囲気を感じるつもりで歩いてみました。
この先に藤ノ木古墳があるので、法隆寺から藤ノ木古墳に行くときは、前を通ってみて下さい。


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成福寺跡

2009年05月26日
厩戸王子臨終の地でもある、成福寺跡(奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺3)です。
成福寺178
厩戸王子の臨終の地といわれる葦垣宮跡に家臣によって建立されたと伝えられます。
舒明天皇が病に倒れた聖徳太子を見舞ったのは、この葦垣宮とされ、山背王子をはじめとする太子一族が滅ぼされたとき、蘇我入鹿によって焼かれました。
葦垣宮は斑鳩宮の異称という説もあります。
聖徳太子の本より


上宮遺跡公園の斜め前、西側にありました。
今は、フェンスで取り囲まれていて、建物は何もありません。

90年代までは、今にも崩れ落ちそうな朽ち果てた建物が建っていたようです。
それも取り壊され、更地状態です。
さすがにフェンスに囲まれている風景は寂しかったです。

聖徳太子の終焉の場所なら、もっと整備されて、有名な場所になっているのかと思いました。
朽ち果てそうな建物でもあればよかったのに…。
後に建てられたものでも、雰囲気は感じられたと思うのです。
この場所が一番残念に思いました。


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平城遷都1300年祭
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DVD 土方歳三と箱館-函館タクシー

2009年05月25日
函館タクシーさんが、土方歳三の生き様をテーマにオリジナルDVDを作られたそうです。

「映像で一生涯を通したものを世に出したい」と企画されたそうです。
【内容】
第1部 土方歳三の生き様をまとめたもの(20分)
第2部 インタビュー形式で造詣の深い方々20名程のコメント紹介

函館タクシーやバスの車内で放送されます。
函館タクシーやジャンボタクシーの車内ではポータブルDVDを搭載して、車内で見ることができるそうです。(事前予約制)
タクシー乗務員はシティガイド検定「はこだて検定」合格者を選任されるそうです。


私は記事を見ただけで、詳しいことは函館タクシーさんに問い合わせてみて下さい。

2008年12月22日に完成したそうです。
なので、それ以前にしか函館に行った事がない私はまだ観たことがありません。
いつのなるかはわかりませんが、絶対に函館に行って見るぞ!と思っています。
もう一度史跡巡りもしたいですし。
どんなDVDなのでしょう。気になります。


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上宮遺跡公園

2009年05月24日
上宮遺跡公園(奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺南3丁目16番)
上ノ宮遺跡公園177
平成3年のふるさと創世事業の一環として公園建設された際に確認された遺跡です。

奈良時代の宮殿クラスの掘立柱建物跡、平城宮と同文様瓦のほか井戸跡も確認されました。
瓦は、平城宮でつかわれた瓦と同じ版傷(版は木なので乾燥したりつぶれたりして傷が出来ますが、同じ傷ということは、同じ窯で焼いているということになります)をもつものが出土しました。
そのようなことから、『続日本紀』の称徳天皇が行幸した際に利用されたとされる行宮の飽波宮と考えられるのではないかといわれています。
斑鳩町観光協会などより


駒塚古墳の横を東へ行き、富雄川まで出るとその川の手前、少し南西に公園があります。

私が訪れた時は、まだ公園としては整備途中でした。
こちらも遠くから眺めただけで次へ行きました。

聖徳太子に直接関係がなさそうと判断しての事でした。
斑鳩・飛鳥などは、古代ロマンがふんだんにあって、聖徳太子以外も見て回ると何年かかるかわかりません。
どうしも行きたい場所をピックアップしたら、古墳や遺跡が目に入っても、心の中で泣きながら歩きました。
もちろん寄り道OKですが、その場所で長く留まらないとか、遠くから見るだけにするなどは必要になってきます。

駒塚古墳・調子麻呂古墳

2009年05月23日
駒塚古墳と調子麻呂古墳(奈良県生駒郡斑鳩町大字東福寺1丁目4)です。
駒塚と調子麻呂古墳176  案内駒塚と調子麻呂175
左奥が調子麻呂古墳、手前が駒塚古墳です。
調子麻呂の墓は、西里の西福寺にあるとも。

聖徳太子の愛馬であった黒駒(烏駒とも)を埋めた塚だと伝えられています。
太子は諸国に命じて、良馬を求められたところ甲斐の国から献上されたのが黒駒です。
多くの“太子伝”にこの馬の伝説がでています。

「太子を乗せ、3日3夜で国中を巡った」
「太子が亡くなられたとき、柩のそばに寄り添って、河内の磯長陵(太子墓)までお送りし、柩が墓に葬られたとき、自ら赤い涙を流し、悲鳴とともに倒れ、息が絶えた」
などと伝えられています。

そして調子丸塚は太子の舎人(従者)で、いつも太子に仕え、84歳で亡くなりこの地へ葬られたと伝えられています。

なお、両墳は考古学の視点から古墳時代中期頃の造営と考えられています。
この二つの塚の近くに、太子が上宮(葦垣宮)から岡本宮(法起寺)へ学問のため通ったという伝説が残されています。
斑鳩町教育委員会説明板より


駒塚古墳は国道25号線沿いにあります。
中宮寺東交差点より200m少し東(法隆寺と反対方向)へ歩いたところです。
調子丸古墳は、駒塚古墳より東南へ約100mほどの場所にありますが、田圃の中にポツンとあり、畦道を通ってしか行けないようです。
黒駒を葬ったという駒塚古墳の方が、舎人の調子麻呂古墳より立派です。

なかなか見つける事が出来ませんでした。
地図にも載っていないのです。
聖徳太子関係の本の文章から判断して、この辺りかな?という場所を歩いてようやく発見しました。
でも近くまで行く時間がなくなってしまいました。
なぜか説明板が離れた場所にあった?写真に撮ってますものね。

愛馬の古墳と伝説の域であってもあるなんて、聖徳太子にとって黒駒はそれほど大切な相棒だったのでしょう。
舎人の調子麻呂といわれる古墳の方が小さいですし…。
調子麻呂は西福寺にお墓があるともいわれているので、小さくてもいいのでしょうか?
聖徳太子、黒駒、調子麻呂は三位一体だったのかもしれません。

こういう伝説か史実かわからない所も、古代歴史の楽しいところだと思います。


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法輪寺

2009年05月22日
法輪寺(奈良県生駒郡斑鳩町三井)です。
法輪寺180
法林寺、法琳寺とも書かれ、地名から三井寺、御井寺ともいいます。
三井は太子が掘った3つの井戸の謂いで、境内裏の集落にその一つが現存し、地名もこれに由来しています。

太子の病気平癒を祈願して626年に太子の子の山背大兄王と孫の弓削王が創建したとも、670年の法隆寺罹災以降に、百済の開法師、円明法師、下氷新物が造寺したとも伝えられます。

三重塔は法隆寺の五重塔、法起寺の三重塔とともに斑鳩三名塔の一つでした。
創建当時のものは昭和19年までありましたが、落雷などですべて再建されたものです。
三重塔は飛鳥時代そのままに昭和50年再建されました。
1972年に行われた塔基壇の発掘調査では、塔に先行する建物の存在が確認されています。

本尊の薬師如来坐像は止利仏師作と伝えられ、法隆寺釈迦三尊の中尊に似ています。

法輪寺は、法隆寺を造るためのミニチュアではないかとの推理もあるそうです。
聖徳太子の本などより


法起寺から少し戻ります。
池がある交差点から西へ真っ直ぐの道を500mほど行くと法輪寺です。

こちらは太子が創建したものではありませんが、太子に縁はあります。
そして残念なことに落雷で焼失しています。
それも昭和19年。
つい最近ですよ!
私の親なら生まれています。
雷対策とかしなかったのでしょうか?
せめて落ちてしまった時の、消火設備を万全にするとか…。
もうあとン十年残っていたならば、私もこの目で見ることができたのに。
形あるものはいつかは壊れるという事ですね。


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法起寺

2009年05月21日
三重塔は創建当時のままという、法起寺(奈良県生駒郡斑鳩町岡本)です。
法起寺179
聖徳太子ゆかりの岡本宮跡に建ちます。
岡本宮は606年、太子が『法華経』を講じた場所としても知られます。
聖徳太子建立七ヵ寺と伝えられますが、『聖徳太子伝私記』所収の「法起寺塔露盤銘文」によれば、683年に太子の遺命によって山背大兄王が寺としたといいます。
かつての地名から、池後寺、池後尼寺とも称します。

1960年に発掘調査が行われ、創建当時の伽藍配置は金堂と塔の位置が法隆寺と逆になっている事が明らかになりました。

三重塔は、白鳳時代の創建当時のままに建っています。
684年着工、706年3月完成。塔高約24m。
飛鳥様式の三重塔としては現存唯一で、三重塔としても日本最古最大です。

柱のエンタシスや雲形斗栱など、建築様式は法隆寺の五重塔に似ています。
1970~75年にかけて解体修理が行われ、建立当初の形に復元されました。
聖徳太子の本より


旧中宮寺跡、もしくは国道25号中宮寺東交差点から北へ歩きます。
池をひとつ越えると法起寺です。
三重塔が右斜め前方に見えていると思います。

岡本宮があった場所ですから、聖徳太子がこの地に居たことになります。
同じ大地を踏みしめているのです。

法隆寺と違って、観光客が少なくてさらに静かです。
実際はそんな事はないのでしょうが(文化財ですから)、無防備というのは少しニュアンスが違いますね…、人を信じているというのでしょうか、こう監視されている感じがなくて、すごく気持ちのいい場所でした。
本当に京都のお寺とは空気が全然違います。

私が母と訪れた時は、もう一組のご夫婦だけでした。
お寺の方が、「今から聖天堂の中を掃除するのから、中を見せてあげますよ。」と声を掛けてくださり、4人で中を覗かせて頂きました。
さらに普通は見ることが出来ない秘仏まで御開帳してくださりました。
お寺の方には間違いないのですが、“そんな簡単に開帳していいの?”と私の方が不安になりました。
でもありがたく拝ませて頂きましたが…。
もしかして、この仏様を拝見したのは数少ないのではないでしょうか。

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旧中宮寺跡

2009年05月20日
旧中宮寺跡(奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺東1)です。
旧中宮寺跡1172  旧中宮寺跡2173
中宮寺は、法隆寺東院の東隣りにありますが、その地へは室町時代の移転と伝わり、創建当初は約500m東方の土壇の残る(旧)法隆寺小字旧殿を中心としたこの周辺に造営されていました。

昭和38年に初めて発掘調査が行われ、塔と金堂について多くの知見を得ました。
その後の発掘調査で、寺院伽藍や寺域等が徐々に明らかになっています。

塔跡にはついては、基壇上面の側柱礎石が抜き取られるなど保存状態は良くありませんでしたが、基壇の規模は一辺約13.5mで、塔自体は一辺約6.8mと推定されています。
基壇中央には約2.5m地下に、花崗岩の塔心礎が遺存し、そうの上面からは金環、金糸、金延板小片、玉類等の埋納物が発見されました。

金堂跡については、部分的な調査でしたが、基壇を二度造りなおしたことが明らかになりました。
創建当初は、凝灰岩製切石による壇正積基壇と推定され、これを平安時代に縮小し瓦積基壇とし、鎌倉時代に花崗岩の割石による乱石積基壇に修造しています。
鎌倉時代の基壇規模は、東西約17.3m・南北約14.1mで創建時もほぼ同規模であったと思われます、現存礎石や礎石抜き取り穴から桁間5間・梁行4間の建物が推定されています。

講堂、中門、回廊などの存在は明確になっていませんが、講堂は創建当初は計画されたものの、造営されなかった可能性が高く、中門は、溜池開削によって破壊されたと考えられます。

寺域については、西面と北面の築地塀跡(基底幅約2.1m)を検出していて、築地塀外観には幅約2.4mの外濠がめぐり、築地塀内側にも内濠がめぐります。
このことから、寺域は東西128m、南北165mと推定されます。
北門や南門の一部や西面築地に並行する南北の古道を検出しています。

出土遺物としては、創建瓦の単弁蓮華文軒丸瓦をはじめ、飛鳥時代から室町時代の瓦があります。
このことは、伝えられている寺院の消長と一致します。
中宮寺は聖徳太子が、母穴穂部間人皇后の宮室を寺院にしたと伝わり、聖徳太子創建七ヶ寺のひとつ「中宮尼寺」に比定されていますが、諸説があり定かでありません。

飛鳥時代創建の法隆寺若草伽藍とはほぼ同時期に建立されたことは確かで、上宮王家との深い結びつきがある寺院です。
斑鳩町教育委員会説明板より


中宮寺を出て駐車場の間を通り、東に抜けると中宮寺東口バス停があります。
そのバス停の道の東側の少し開けた場所の中でも、竹の生い茂る付近に旧中宮寺跡の説明板がありました。
しかし当時の説明板は、表面が剥がれ落ちていて、端の部分は読めなくなっていました。
今は直してあるのでしょうか?
国道25号の中宮寺東交差点から北へ向かい、300mほど行った東側というほうが判りやすいでしょうか。

少し奥まった場所にあるので、気にして歩いていないと通り過ぎてしまうと思います。
私が旧中宮寺跡に行ったのは、近くにあるという事を書籍で知り、探していたためで、知らなかったらきっと通り過ぎていたと思います。

金堂も塔もあったという、創建当時の中宮寺はいったいどんなものだったのでしょう。
法隆寺と周りの雰囲気もあってか、無常観はあまり涌いてきませんでした。
長い歴史を感じた方が強かったですね。


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中宮寺

2009年05月20日
中宮寺(奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺北1-1-2)です。
中宮寺1170  中宮寺2171
戦国時代末期まで、東へ500mの地にありました。
また中宮の寺号は厩戸王子の母穴穂部間人皇女の御所を寺とした説などがあります。
太子建立七ヵ寺の一つで、斑鳩尼寺ともいいます。
創立年代は不明ですが、旧寺地の発掘などから、法隆寺若草伽藍とほぼ同時期に、四天王寺式の伽藍が建立されとみられます。

本尊の木造菩薩半跏像は飛鳥後期の寄木造で、如意輪観音と伝えられますが、本来は弥勒菩薩像として作られたものといいます。

天寿国繍帳残闕は、妃の橘大郎女が太子を悼み、太子の浄土に往生するさまを見ることを願って622年に采女に作らせた、刺繍浄土図の断片で、もと法隆寺にあったものを1274年に当寺中興の信如尼が譲り受けたとします。
聖徳太子の本より


法隆寺東院の東隣にあります。
拝観入口は東院の北方向になります。

本堂の形が少し変わっているなと思ったのですが、藤原時代の寝殿伽藍の形式だそうです。
ただこれは昭和43年に、再建されたものなので、火災などを考慮してコンクリート造りだそうです。
コンクリートの外観ですが、中には“如意輪観世音菩薩半跏像”、“天寿国曼茶羅繍帳”の国宝を間近で見ることが出来ました。

現存している天寿国曼茶羅繍帳は、最初のもの(妃橘大郎女が作らせたもの)と、その後鎌倉時代に作られたものが(鎌倉時代に修復した時に、もう一幅作ったそうです)、まざり合って残欠一帳に纒めて修復されたのが現在の曼荼羅だそうです。
天寿国曼茶羅繍帳は思わず見入ってしまいました。
1000数百年近く前のものが、建築物ではなく、布という状態で残っているのです。
それも色彩があるのですから、奇跡に近いのではと思いました。
聖徳太子の力でしょうか?


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中岡慎太郎像

2009年05月19日
室戸岬に建つ、中岡慎太郎像(高知県室戸市室戸岬町)です。
中岡慎太郎像1  中岡慎太郎像4
山の頂上に室戸岬灯台がみえます

中岡慎太郎像7
     正面から

中岡慎太郎像10  中岡慎太郎像11
   刀を握る左手と後方から背中をみました。

中岡慎太郎像8  中岡慎太郎像12
         銅像の横に建つ石碑と台座裏

中岡慎太郎像13  中岡慎太郎像14
       銅像の後ろ側に年表とともに刻まれています

中岡慎太郎像より
銅像の足元からの太平洋の眺望

乱礁遊歩道の入口に立つ像。
昭和10年に、故郷である安芸郡の青年団によって全国に募金集めがなされ、この像が建てられました。


中岡慎太郎は、土佐国安芸郡北川村柏木の出身の土佐藩士です。
光次。道正。迂山。石川誠之助、大山彦太郎、横山勘蔵。

北川郷大庄屋の出でしたが、間崎滄浪や武市瑞山に学問、剣術を学びました。
文久元年8月、土佐勤王党結成時には17番目に血盟しています。
龍馬は9番目に名を連ねています。

翌2年、山内容堂を護衛する五十人組に伍長として参加。
翌3年10月、脱藩して長州の三田尻に至り、五卿の護衛を務めました。
元治元年7月には忠勇隊に属して禁門の変に参加し敗走しました。

元治元年2月ごろから薩長和解の実現に向けて尽力し、龍馬の協力もあって翌2年1月に薩長同盟が締結されました。
3年4月には藩から龍馬とともに、脱藩罪を許され、土佐藩遊軍の陸援隊を組織統率する事になりました。
その後も、薩土盟約の周旋などに活躍しましたが、慶応3年11月15日、京都近江屋で龍馬と会談中を襲われ負傷し、17日に死亡しました。享年30歳。
墓は京都府京都市東山区清閑寺霊山町の霊山墓地。
坂本龍馬大事典より


土佐くろしお鉄道「奈半利駅」から高知東部交通バス「甲浦行き」で55分、「室戸岬」下車すぐ。
↑という事です。
私は鳴門方面に行く予定があり、鳴門から海岸沿いの国道55号を走って、走って、走って室戸岬まで行きました。
2時間半ぐらいかかったでしょうか…。
途中多くのお遍路さんを見かけました。

走っていくほどに海の色が違ってきました。
瀬戸内海の海と太平洋は、海の色も波の様子も違っていました。
室戸岬の端に中岡慎太郎は建っていました。
もっと海、ギリギリのところに建っているのかと思っていました。
山をバックに建っているとは想像もしていませんでした。

桂浜の坂本龍馬は、高い台座の上に海風を受けながら建っています。
須崎の武市半平太像も海と武市像という感じに建っていました。
この中岡慎太郎像は前は海ですが、背に山があるので海よりも山と結びつくような感じで建っていました。
思ったより小さいと思いました。
龍馬と中岡慎太郎をペアで考えていたので、同じような大きさの物が建っていると、どこか勝手に思い込んでいたのかもしれません。
顔も笑顔の写真が印象深かったので、ちょっと違う?って感じでした。

平日のお昼だったので、中岡慎太郎像の周りには5~6人の観光客していませんでした。
写真を撮っていたのは、私を含めて2人だけでした。
ん~、遠すぎてなかなか来られない?

中岡慎太郎はここに建って何を思い、何を見ているのでしょうか?
中岡慎太郎も海の向こうに夢を持っていたのでしょうか?
それでも故郷(正確には室戸は中岡の故郷ではありませんが、土佐・高知という場所として)の海はきっと中岡慎太郎に安らぎを与えているのでしょうね。

室戸岬の中岡慎太郎像は桂浜の坂本龍馬像の方を向いているといわれていましたが、方向的にはずれているという話も聞いた事があるのですが…。
須崎の武市半平太像も見たので、あとは足摺岬のジョン万次郎像ですか?!

夏を過ぎる頃から、台風の発生が多くなります。
「室戸岬沖○○㎞」や「室戸岬に上陸」などと、台風の直撃も多い場所ですが、中岡慎太郎さん頑張って建っていてくださいね。

帰宅するとインフルエンザで大変な事になっていました。


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余談-法隆寺の七不思議

2009年05月19日
法隆寺の七不思議については、いろいろな七不思議があるようですが、
法隆寺執事長(現:法隆寺長老)の高田良信氏が以前、本に書かれていた七不思議を紹介しておきます。

1.伽藍の建物に蜘蛛の巣がはらない
 蜘蛛の巣ははっているそうです。
 高田氏は、蜘蛛でさえ巣をはるのを控えているのだから、人間はなおさらのこと、堂塔を大切にしていこうという、信仰から出た不思議ではないかとされています。

2.地面に雨だれの穴があかない
 雨が降れば、雨だれの穴はいくつもあるそうです。
 これも“伽藍の建物に蜘蛛の巣がはらない”と同じように、信仰から出た不思議だと思われます。

3.五重塔の九輪に四本の鎌がある
 この鎌が自然に上に登ったり、下がったりするという伝承があります。
 登っていらその年は米が豊作、下がっていれば凶作。
 
 鎌を置いた真相は不明ですが、落雷除けではないかと思われます。
 当時は雷を魔物と考えて、刃物を置くことで魔物が近寄らないと考えたとおもわれますが、どうして鎌にする必要があったか、また謎がふえてしまいます。

4.法隆寺の境内に三つの伏蔵がある
 伏蔵とは地下にある秘密の蔵ということのようです。
 昔から堂塔を建てる場合、その建物が無事後世に伝えられることを祈って、鎮壇具というものを地下に納める習わしがあります。

 1つは、金堂内の北東の隅にある丸い土壇。その他は、西院の経蔵の内と、大湯屋の表門の前あたりに巨石があります。(大湯屋前の石は土中に埋まっています)
 法隆寺には一大危機が訪れた時にはその伏蔵を開き、その財宝をもって再興を行えばいいという伝承があるそうです。
 しかし未だかつてそれを開いたという記録はありません。

 法隆寺を立派に護持せよとの戒めではないかと、高田氏は推測されています。
 しかしなぜ、伏蔵が3つもあるのかは謎です。

5.因可池に片目の蛙がいる
 東大門から夢殿に至る大路の右奥にあります。
 この一帯は昔、太子が住まわれていた斑鳩宮のあったところで、太子が学問をされていた時に因可池の蛙が鳴いたので、太子が筆の先で静かにせよと、蛙の片目をつかれたところ、この池に棲む蛙はすべて片目がつぶれ、その子孫までが片目となったといいます。

 これは太子の威厳を示す伝説で、太子の学問の妨げをしたことに対して蛙の子孫までが懺悔したという話です。
 太子信仰にまつわる伝説の一つ。

6.南大門の前に鯛石という石がある
 南大門の階段の下の魚の形をした踏石。
 伝承によれば、大和一円が水害にあった場合、水が南大門までおしよせても決して寺内に入らなかったといいます。
 そこで南大門の下に魚の形をした石を据え、魚もここまで泳いできたということを示したものといいます。
 これは法隆寺が最高の立地条件のもとに建っていることを意味するものであり、この地を選ばれた太子の遺徳を讃える、太子信仰の伝説に基づいています。

7.夢殿でお水取りという行事がある
 夢殿の本尊救世観音像の前に礼盤という僧侶が座る座あります。
 その畳座の下に正方形の木板があり、その裏を年に一度日光に当てると汗のように水分がでるといいます。
 毎年旧暦の1月12日に、早朝から礼盤を堂外に出して日光に当てると自然と水気を帯びます。
 水気の多い少ないによって、豊作か凶作かを占ったといいます。
 「夢殿のお水取り」とよんでいます。

 なぜ水を帯びるのか?
 礼盤の下に井戸があり、その湿気が礼盤に含むためであろうと伝承があります。
 礼盤の下には凝灰岩の基壇があり、その下がどうなっているのかわかりません。
 昭和12年の夢殿修理の時も、信仰上の理由から未調査です。

8.雀も伽藍の堂塔に糞をかけない
 雀や鳩が巣をつくり、欄干や瓦が白くなっています。
 “蜘蛛の巣”と同じように、太子信仰上の伝承です。

9.舎利から太子が見える
 東院の舎利殿には、太子が2歳の春まで手中に持っておられた舎利が納められています。
 毎年正月三が日の間公開しています。
 舎利は水晶の五輪塔の中に入っており、その舎利を正面から見ると水晶の舎利塔を通じて、その向こうに太子の姿が見えるといいます。

 お堂の中央にある厨子に、太子の二歳像が安置されているので、その姿が水晶の塔を通じて参詣者の眼に写ったのではないでしょうか。

10.不明門と不閉門がある
 不明門は夢殿の正門の事で南門と呼んでいます。
 かつてこの門に推古天皇の勅額が上っており、一般の通行を許さなかったといいます。
 (その額は、現在東京国立博物館に保管)

 不閉門は不明門の西にある門で、昔は村人たちが往来するときに使っていたといいます。
 古くは門の役人がいて、朝夕時間になると開閉していたと思われますが、便宜上次第に開けっ放しになったようです。


その他の不思議はまだあります。

1.中門の入口が二口あること
 入口は大抵一口か三口の奇数ですが、ここだけは偶数の入口となっています。
 これについて昔の寺僧たちも、
 ・太子の子孫が継がないために真ん中に柱を作った。
 ・真言宗の胎蔵界・金剛界にちなんで入口を二口にした。
 などと説明していますが、人々を納得させる解答はありません。
 ・太子の怨霊が伽藍から出ないようにするため、という法隆寺怨霊封じ説も出てきました。(梅原猛氏)

 西院の建立にあたって伽藍全体のバランスを重視し、右に重量感のある金堂、左に高い五重塔があり、それらを囲む回廊の高さや長さが配慮されています。
 中門を中心として東西にのびる回廊が左右対称のように見えますが、実は東の回廊の方が一間分長く作られて、伽藍全体のバランスを保っています。
 それに関連して中門も四間として、二つの入口とせざえるを得なかったのではないかと思われます。

2.なぜ若草伽藍と呼ぶのか
 若草伽藍と呼ばれる場所は、普門院と実相院の裏地にあります。
 草が生い茂り、南には重文に指定された大垣が東西にのびています。
 その大垣寄りの所に若草の塔の心礎と伝える大石があります。
 平安時代はこの場所を花園と呼んでいたことが知られています。
 おそらく西院伽藍の南にあって、仏前に供する花や野菜を栽培していたところから花園と名づけられたらしい。
 花園が徐々に荒廃して、やがて雑草が繁る荒野と化したことから、若草という名称が生じたのではないかと思われます。
 記録上では花園というのが最も古い名称であるので、若草という名称は古い時代のものではないのは確かです。

3.若草伽藍と西院伽藍の関係
 昭和53年度よりはじまった防災工事に先立つ事前発掘によって、若草および現伽藍に関する遺構の発見が相次ぎました。

 若草と西院が両立しないことが判明しました。
 すなわち若草伽藍焼失後、寺地を現伽藍地に移して法隆寺を再建したこととなります。

4.『日本書紀』に法隆寺再建の記事がないこと
 『日本書紀』には天智8年と9年に法隆寺が焼失したとする記事があるのですが、その後再建したという記事はありません。
 なぜ再建のことを記さなかったのかという疑問があります。

5.五重塔にだけ雷よけの御符があること
 五重塔の各層の四方の通肘木のところに木札が四枚ずつ打ち付けられています。
 これは「避雷符」という雷除けのお札です。
 落雷の難は九輪の鎌だけでは充分ではなかったようです。

 鎌倉時代に塔の三層目に雷が落ち、寺大工達たちが消しとめたと伝承があります。
 三層目の心柱の継手の所に焼け跡が残っています。
 そのため、高徳の僧・叡尊に依頼して札を書いてもらったといいます。
 それ以降は落雷の記録はありません。

6.金堂と塔に裳階があること
 法隆寺の金堂や五重塔には下層部だけ裳階があります。
 あとから付け加えたとする意見がありましたが、最近では建立当初から付いていたとする説が有力です。
 内陣にある壁画を風雨から保護するために必要だったのかもしれません。
 金堂も塔も、昔は堂内で法要をせず、建物の前で行われることを恒例としていたため、雨天の日などは法要が出来ないこともあって、雨の場合はこの裳階の中で略式の法要を行ったのかもしれません。

7.金堂の仏像が堂の中心より前に安置されている
 法隆寺の金堂の薬師・釈迦・阿弥陀の三尊は、すべて中央より前に安置されており、三尊の上にある各々の天蓋も三尊に従って前方にあります。
 天蓋は当初から今のところにあり、前方に移動した痕跡はありません。

 金堂が建立した時にはまだ他の収納施設が建っていなかったこともあって、寺に施入される多くの仏器や太子の遺品などを金堂内に納める必要から、このような安置方法をとったのかもしれません。
 平安時代に橘寺から仏像などが移入されたときでも、他のお堂に安置せずに金堂内に納めていることは、金堂の後方を宝物類を納める施設の一つと考えていたことを示すものではないでしょうか。


この他に、故石田茂作氏は、
1.中門中央の柱
2.金堂五重塔の裳階
3.中門講堂中軸線の喰い違い
4.五重塔の四天柱礎石の火葬骨
5.三伏蔵
6.五重塔心礎舎利器に舎利無し
7.若草塔の心礎

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2009年 総司忌 最新情報

2009年05月18日
総司忌の日にち変更を教えていただきました。

6月27日(土)です。
その他には変更はないようです。




あさぎ様
この場を借りて御礼申し上げます。
ありがとうございました。
またご教授いただけますよう、お願い致します。

新選組&幕末の大ファンですが…

2009年05月17日
新選組が大好きです。
幕末も大好きです。
古代~明治初期までの歴史も好きです。

新選組と幕末関係で実際に訪れた場所に関してここに書いていますが、
少しまとめる時間がかかりそうなので、
その間の1週間か2週間、少し新選組&幕末から離れて、「聖徳太子」の史跡巡りをしたいと思います。

その間に何かあればもちろん随時、新選組&幕末にもどります。
“昆陽宿跡”と“総司忌”についてが、アップしてあります。

この記事は当分トップにおいておきますので、
新しい記事はこの下にアップしていきます。

法隆寺

2009年05月17日
世界最古の木造建築法隆寺(奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1-1)です。

境内は金堂をはじめとする主要な伽藍がある西院と、夢殿を中心とする東院に分かれます。
その周辺には平安後期創立の子院を数多く擁します。

法隆寺の草創の事情は、正史『日本書紀』には伝えられていません。
『日本書紀』に法隆寺の名が見られるのは、606年7月に、太子が岡本宮で『法華経』を講じた賞恩として、推古天皇より下賜された播磨国の水田100町を斑鳩寺(法隆寺)に納めた、とあるのがはじめです。

創建を伝える史料として知られているのが、金堂東の間に安置された薬師如来坐像の宝珠形光背の裏面の銘文があります。
これによると、用明天皇が自らの病気平癒を祈り伽藍建立と仏像造立を発願しましたが、これを果たさぬまま崩御したため、607年に聖徳太子と推古天皇がその遺志を継いで伽藍を創建し、薬師如来坐像を造立したといいます。
推古朝の建立であることは確実といわれています。

堂宇の造立年代についても不明な点がありました。
『日本書紀』670年4月30日の、「夜半之後に、法隆寺に災けり。一屋も余ること無し。大雨ふり雷震る(大雨が降り、落雷により法隆寺は全焼した)」という記事の真偽をめぐって、1905年に再建・非再建論争が起きました。

これは、法隆寺は645年の大化の改新以前に使用されていた高麗尺を用いているから焼失・再建論
は事実に反するという様式論者と『日本書紀』に信を置く歴史学者の論争でした。
この論争は、1939年に行われた境内の若草伽藍跡発掘調査によって、一応の終止符が打たれました。
この発掘の結果、塔と金堂の基壇が検出され、西院伽藍の建立以前に四天王寺式の寺院が存在したことが判明したためです。
これにより法隆寺罹災は事実であることが、ほぼ確認されており、現在の西院伽藍は天武・持統朝に着工、和銅年間に竣工したとみられます。

東院は、643年に蘇我入鹿によって焼かれた斑鳩宮の跡地に、行信が739年に創立した上宮王院にはじまります。
上宮王院は法隆寺とはもともと別の寺でしたが、平安末期に法隆寺の管理下に入ったとされます。
東院の中心となるのが八角円堂の建物で、太子の夢に金人が現れて『法華経』の難解な箇所を教示したという伝説から、夢殿と呼ばれています。

金堂の本尊は釈迦三尊像です。
中尊の光背銘には、聖徳太子追善のため、王后、王子らが釈迦像の造立を発願し、623年に止利仏師に造らせたとあります。
北魏様式の影響を受けた飛鳥仏特有の面長な顔、杏仁形の目、仰月形のアルカイック・スマイルを浮かべた唇を備え、正面から拝観されることを前提にした偏平な様式によって造られています。
夢殿の本尊・救世観音像は聖徳太子の等身像と伝えられ、樟の一木造、漆箔の飛鳥仏です。
1884年に岡倉天心とフェノロサによって明らかにされるまで、秘仏として白布に包まれていたため、保存状態がよく、唇の朱なども残っています。
聖徳太子の本より


法隆寺
中門(白鳳時代)
西院伽藍の正門です。
中門の中央に建てられた柱は、法隆寺七不思議のひとつです。


法隆寺1五重塔165  法隆寺2五重塔166
五重塔(白鳳時代)
二重基壇上に方三間、初層のも裳階をもちます。
高さ約32m。
塔内塑像も国宝です。
塔相輪に大鎌が置かれているのも、
法隆寺七不思議のひとつです。

法隆寺3金堂167
金堂(白鳳時代)
白鳳時代の特徴をよく示して、飛鳥様式を色濃く残す日本最古の建築です。
本尊釈迦三尊坐像は、飛鳥仏の代表作です。
光背銘に厩戸王子の冥福を祈って、王后・王子らが止利仏師に造らせたとあります。
王子と等身と伝わります。


法隆寺黒駒調子麻呂377
愛馬黒駒と調子麻呂像

鏡池付近に、創建法隆寺・若草伽藍が建てられていました。
若草伽藍の心礎は公開されていません。

法隆寺版築土塀378
東大門の南へ続く版築土塀

東院は、もともと厩戸王子が住んでいた斑鳩宮があったところです。
宮は王子の死後、蘇我入鹿に焼かれましたが、ここを訪ねた僧行信が王子を供養するために、上宮王院を建てたのが現在の伽藍です。
夢殿は創建当時から残っています。
上宮王家一家滅亡の地。


法隆寺4夢殿168
東院 夢殿(奈良時代・鎌倉時代大修理)
八角円堂。
現存する八角円堂では最も古いものです。
本尊は救世観音で、宝珠を持ち、手・腕をねじった変わった姿をしています。
楠の一本彫りで約2m。
古来、絶対秘仏とされていましたが、明治17年権力で開扉させられました。


法隆寺5舎利殿169
舎利殿・絵殿(鎌倉時代)
王子2歳の春に、掌中から出現したという舎利を安置する建物です。

JR関西本線(大和路線)法隆寺駅からバスか徒歩です。
道は細いわりに車が多いです。
法隆寺駅は南側にしか出られなかったかも…。
法隆寺は北にあるので、東側の踏切を渡り北へ向かいます。
踏切りの道をまっすぐ国道25号まで出ます。中宮寺前交差点です。
国道25号を西へ500m位(法隆寺東交差点も通り過ぎます)で法隆寺前交差点です。
そこからはもう参道ですので、北へまっすぐ歩くと法隆寺の南大門に着きます。

五重塔が遠くからも見えるはずです。
拝観料は1,000円と少しお高いです。
何度も行こうと思うと高いですが、初めての方は是非拝観料を払ってみてください。
私は1,000円でも“いいや!”と思いました。

新選組や幕末で京都のお寺には数えられない程いきましたが、全然ちがう雰囲気です。
落ち着きます。
1300年の歴史の重みより、1300年の間に培われた、人を包み込むような穏やかな空気に覆われている感じがしました。

聖徳太子が建てたのは、この法隆寺ではないのですね。
創建法隆寺といわれる、若草伽藍が聖徳太子建立のお寺のようです。
それは鏡池の近くにあったといわれて、塔心礎が残されています。
いったいどんな塔が建てられていたのでしょうか?
今の法隆寺と同じようなものだったのでしょうか?

1300年以上も前の建築物ですから、謎があって当たり前ですね。
考え方も、生き方も、生活も今と全然違うはずですから、私達から想像も出来ない思想で造ったものも多くあるのでしょうね。

五重塔と夢殿はどうしても見てみたかったのです。
五重塔に置かれた、大鎌は下から見上げました。
なるほど、鎌があります。
宮大工さんが置いたのでしょうが(身も蓋もない言い方ですね 笑)、置いた意図が本当にわかりませんね。
でもあの鎌があそこにあることが重要な気がします。
そういう雰囲気をかもし出しています。

夢殿の御開帳に合わせて行き、本尊を拝見してきました。
聖徳太子と等身といわれていますが、聖徳太子って背が高かったの?と思ったような気がします。
明治17年に、権力にものをいわせ、強引に開扉させられなかったら今も見ることは出来なかったのでしょうね。
今は拝見できて良かったと思いますが、強引な開扉はちょっと許せないものも残ります。
聖徳太子やこの法隆寺に関わってきた人達は、あの世でどう思ってみていたのでしょうか?


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斑鳩 法隆寺

磐余

2009年05月16日
磐余(奈良県桜井市谷)という地名を探してみました。
磐余164

磐余池辺雙槻宮の場所が特定されていません。
名前の由来としては、磐余池の畔に宮を造り、その宮の前に欅の大木が二本そびえていたからだそうです。
磐余池は磐余の里に造られた大池のことです。
磐余とは、現在の桜井市の池之内、橋本、阿部から橿原市の東池尻町を含む同市南東部にかけての古地名です。


という事で、磐余池辺雙槻宮の“磐余”という地名を探しました。
宮のあった場所を特定するためではなく、“この付近に宮があったはず”という感覚で、磐余という地名がわかるものを探してみました。
磐余と書いて、“いわれ”と読むのも難解漢字ですよね。
でも惹かれるなぁ~。

写真の橋は、JR桜井線&近畿日本鉄道大阪線桜井駅から南へ直進し、200mの桜井病院&南都銀行・大和信金がある交差点を東へ曲がります。
さらに200m行くと、交差点があります。
南へ曲がると栗原川があり、その川に架かっているのが“いわれ橋”です。

交通量の多い場所でみつけました。
上之宮遺跡から桜井駅に向かっていたので、この橋がちょうど良かったのです。
探せば、“磐余”の付くものはまだまだあると思います。

春日神社が磐余池辺雙槻宮のあった場所ではないかといわれているようです。
南側には、吉備池があります。
私は時間的に春日神社に足を伸ばせなかったのですが、それほど遠くはないようです。
上之宮遺跡から直線で800mぐらいでしょうか。

この辺りに磐余池辺雙槻宮があったという事は、聖徳太子がこの辺りを歩いていたという事です。
新選組より有名な聖徳太子の足跡を辿っています。

上之宮遺跡

2009年05月16日
聖徳太子が住んだという、上之宮遺跡(奈良県桜井市上之宮)かもしれない場所です。
上ノ宮遺蹟163  上之宮遺跡2376
5世紀後半から7世紀前半にかけて高い身分の豪族が住んでいたようです。

昭和61年から平成2年までの、発掘調査によって発見されました。
古墳時代後期から飛鳥時代にかけての集落遺跡です。

特に四期とよばれる時代の遺構は、四面庇建物を中心とする掘立柱建物群と、それを囲む溝や柵が、東・南側に作られています。
西側には、半円形の排水溝をともない、方形石組遺構を中心とした園池遺構が造られています。
1辺が約100mの方形区画の中に収まってしまうところから、古墳時代末期から飛鳥時代初期の豪族居館と考えることができます。

この場所では、木簡・琴柱・鼈甲・刀子形や鳥形木製品などとともに、桃・李・棗・柿・栗・梨・紅花などの果実の種子や花粉が出土していて、邸宅内での暮らしぶりが窺われます。

地名や建物の時期、貴重な出土品などから、聖徳太子の上宮(かみつみや)の可能性もあります。
桜井市教育委員会の説明板より


JR西日本桜井線と近畿日本鉄道大阪線の桜井駅を出て、南へまっすぐ1.3㎞の奈良情報商高校の東隣の住宅街の中にあります。
高校を目標に歩いていくと、住宅街の中に関わらず、すぐに見つける事ができました。

用明天皇の宮・磐余池辺雙槻宮の候補地の上方に、聖徳太子の上宮があったそうです。
もしかしたらここに聖徳太子が住んでいたかもしれません。
今、上之宮遺跡公園として残っているのは、その一部ということなのですよね。

聖徳太子という人がどんな人だったかは、絶対にわからないのですね。
幕末の人物なら、“写真”というものが発見される可能性がゼロではありません。
沖田総司や藤堂平助、芹沢鴨など新選組隊士の写真が、どこかで発見される事もありえます。
しかし、聖徳太子の時代に写真は絶対にありえません。
あるとしても肖像画…。その可能性も低いでしょう。

その分、色々な想像力を発揮できるので、近代とはちがう歴史のロマンがありますね。

磐余池辺雙槻宮(いわれいけのべのなみつきのみや)という名称にロマンをかきたてられるのは私だけでしょうか?
私が嵌まるツボは少し人と違うかな?
新選組に最初、興味を持ったのは“菊一文字”という刀の名前でした。
“菊一文字”という響きと、その刀のイラストに嵌まりました。
やはりチョッピリ人と違うかな?


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(2004/07)
前園 実知雄

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2009年 総司忌

2009年05月15日
2009年の総司忌 ※変更あり

日 時 平成21年6月27日 午前11時より焼香。 (日にちが変更されています。)
場 所 専称寺(港区元麻布・地下鉄六本木駅、旧テレビ朝日の裏)

    午後1時30分から、国学院大学院友会館にて講演。
講 師 伊東成郎氏(歴史作家)
     『幕末新選組こぼればなし』(仮)

≪申し込み≫会費 2,000円(含・記念品)
       総司忌に参加する事を明記して、定額小為替にて、新人物往来社に申し込んでください。

という記事がありました。

※絶対に専称寺には問い合わせないで下さい。
 問い合わせがあった場合、来年の総司忌がなくなってしまいます。

酒船石

2009年05月15日
明日香の謎の巨石、酒船石(奈良県高市郡明日香村岡)です。
酒船石375
約5.3mと2.3mの表面に円形のくぼみと細い溝が刻み込まれた巨石です。
酒絞りの槽とか油を作る用具とも、庭園の流水施設との説もあります。
一部を割り取ったノミ跡は、大和郡山市の郡山城の石垣用に持ち去られた跡です。
ブルーガイドブックス 奈良 大和路より


石舞台古墳から島之庄バス停の交差点まで行き、そこからバス通りを北へ戻って行きます。
約800m行き、天理教教会を過ぎたところ東側(右)に、酒船石があります。
階段だったか坂道だったか、酒船石は高い場所にあります。

木々に囲まれた小高い丘の上に酒船石がありました。
たしかに何に使ったのか判らない石です。

宇宙人がやってきて、何かの目印に刻んだような気がして来ました。
それでも古代といわれる時代に、石を削るという作業は大変な事だったはずです。
今と違って、全部手作業ですよね。
意外と今より文明が進んでいて、それゆえに一度人間が退化して、いままた進化中ってことはないですね(笑)

土方歳三を連れて来て、この飛鳥の謎の巨石で一句詠んでもらいたいです。
沖田総司は、おもちゃにして遊んでしまいそうです。
歴史には興味を持ってくれそうな気がします。


古代飛鳥・石の謎古代飛鳥・石の謎
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奥田 尚

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石舞台古墳

2009年05月14日
有名な、石舞台古墳(奈良県高市郡明日香村祝戸)です。
石舞台古墳2162  石舞台古墳1161

石舞台古墳3374
盛土の上に巨大な石塊が横たわっています。
一辺51mの盛土、1個約77tの重さの石塊が2個、これを30個以上の巨石が支え、石室と横穴を造っています。
内部は全長19m、玄室は高さ7.7m、幅3.9m、奥行き7.6mという最大級の古墳です。
上部の盛土がなく、円形か方形かは不明です。
この石室を造る際には七つの墓が壊されたともいわれています。

古墳の主は、このあたりに邸宅があった、蘇我馬子(嶋大臣)とする説もあります。
ブルーガイドブックス 奈良 大和路などより


橘寺を出て、南へ進みます。
道しるべのある門で、東に曲がり飛鳥川まで出ます。
飛鳥川沿いの一本道を、南へとひたすら歩きます。
橘寺を出てから、800mほど行くと、飛鳥川に架かる玉藻橋があるので渡ります。
橋を渡り、北に戻る感覚になりますが、200mほど歩くと石舞台古墳駐車場が見えてきます。
そこまでくるともう、拝観入口はすぐそこです。

石舞台古墳を目にした時、その風景に驚きました。
開けた広い場所に、石舞台古墳だけが鎮座しているようです。
周りに何も無いのにさらに驚きました。
他にも何かお寺や、史跡があるのかと思っていましたが、本当に何もありません。
当時はそれだけ広大な土地を墓域としていたのかもしれませんね。

石舞台古墳の石室に入れます。
余裕で入れる大きさです。
天井の石となっている巨石など、考えられない大きさです。
本当にどうやって積み上げたのでしょう?
石室に入った時に思ったのは、いま地震が来たらこの石はどうなるのかな?
落ちてくる?
でも今まで1400年近くの間、何度も地震はあったでしょうが大丈夫だったのですから、小さな地震なら大丈夫でしょうね。
阪神・淡路大震災を体験しているだけに、そんな不安も石室では感じてしまいました。

伝説では、この石舞台の上で女性に化けた狐が踊ったとか…。
そんな伝説も、納得できそうな雰囲気の、本当に古代ロマンがたくさんある飛鳥でした。
そしてこの古墳の被葬者は誰なのでしょう?
いずれ判るのでしょうか?
永遠の謎のままなのかもしれませんね。


馬子の墓―誰が石舞台古墳を暴いたのか馬子の墓―誰が石舞台古墳を暴いたのか
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林 順治

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明日香村

昆陽宿跡-新選組が長州藩荷物を押収

2009年05月13日
新選組が長州藩の荷物を押収した昆陽宿跡(兵庫県伊丹市昆陽3~6丁目付近)です。
昆陽は“こや”と読みます。
昆陽2  昆陽1
元治元年7月19日、禁門の変が勃発して、御所へ出動した新選組は21日になって山崎・天王山で真木和泉守らを追討し、その後、下坂して布陣、大坂市中に潜伏する長州兵らの探索を行いました。
7月23日、大坂・八軒家から三十石船に乗り、壬生村の屯所へ帰陣しました。

同日、新選組が探索中に得たと見られる押収品の記録が『官武通紀』にあります。
また、押収品の内容が少し異なりますが、同日の記録があり、同じくその場所を“昆陽宿”としています。

昆陽宿は、西国街道(山崎道)の通る、摂津国川辺郡昆陽村が宿駅として発展したところで、現在では、伊丹市昆陽1丁目から8丁目のうち、中心地にあたる3丁目から6丁目あたりとなります。

昆陽村は幕府領で、東西に10町48間、その道幅1~2間。
昆陽宿の町並みは7町余りで、ここより一つ東、京寄りになる瀬川宿へは二里、また、西宮宿へも二里ありました。
天保年間には、宿内の家数は約180軒。
本陣1軒で脇本陣はなく、旅籠屋は7軒のみでした。

新選組は、大坂に在隊しながら、この昆陽宿まで隊士を出張させて、禁門の変での残兵掃討を行ったものとみられます。
御所やその周辺、伏見・山崎で破れた長州兵は、京より陸路は山崎を通る西国街道を西へと撤退して行きました。
瀬川宿の記録では、具足を着用した約3,000人が、抜身のまま敗走し、西下していったといいます。

長州人らは、各宿駅で荷物を継ぎ立て、ここでも武器や荷物の移送を行おうとしていました。
長州への荷物に対して、監視命令が出ていたようです。
長州も瀬川宿からは、間道を使ってこの昆陽宿へ荷物を届けましたが、昆陽宿側では尼崎藩からの命令で、21日に届いた長州荷物を留め置きました。
この荷物は、また間道を通って運ぶように、長州側から指示されていたもので、昆陽宿役人は、これを24日になって奉行所へ届けました。

この訴えによって翌25日、昆陽宿にやって来たのが、新選組の河合耆三郎、山崎大三郎の二人でした。
彼らは、翌日この押収品を、大坂へ運ぶための人足の手配を指示しました。
しかし、この件はすんなりとはいかなかったようで、昆陽宿の役人は、これら押収品は大坂町奉行所の管轄であると主張しました。
役人が届け出た先も、奉行所でした。
それを河合耆三郎が26日の夜に、役所に出向いて引渡しを求め、なお山崎大三郎が27日にも交渉して、ようやく受領の文書を取り交わすことで合意し、新選組へ荷物を引き渡しました。
荷物の輸送には、100人ほどの人足が動因されたといいます。
昆陽宿の役人らは、翌8月6日付で、新選組に対して後難を避けるべく、この間の経緯を説明した丁重な一書を送っています。

先の分捕り品の届け書では、「高槻於昆陽宿」と記されています。
これは誤りのようです。
高槻は同じ摂津国であり、高槻城に近い宿駅に芥川宿がり、西国街道の宿場の一つです。
現在の高槻市中央を流れる芥川の左岸で、当時の高槻城周辺に、奈良から平安期に児屋郷(こやのごう)があったとされます。詳細は不明。
その時代の郷名が混同されるのは考えにくく、昆陽宿の場所を誤ることも考え難い。
西国街道の宿駅改めを行ったとすれば、山崎から芥川でもなされた可能性もありますが、一覧の内容については、昆陽宿での押収品で、地名の誤記であったと考えます。


河合耆三郎は、かわい“ぎさぶろう”と読むべきか。儀三郎とも。
播磨高砂出身。
河合儀平の長男。新選組隊士。勘定方。

文久3年6月ごろ入隊。
池田屋事変では土方歳三隊に属して屋外の守備につき、報奨金15両を受けました。
翌7月の禁門の変後、松本喜二郎とともに長州藩と摂津高濱村とのかかわりを調査し、無縁であるとの誓約書を提出させています。

12月の編成では原田左之助の小荷駄雑具方に属しました。
勘定方として、隊費の不算の責めを負って切腹しました。斬首ともいわれています。
不算の50両が郷里から届くことを最後まで待っていたといいますが、真偽は不明です。

享年29歳。
墓は京都府京都市中京区梛ノ宮町の壬生寺と、同賀陽御所町の光縁寺。
光縁寺の墓碑は新選組が建立したものですが、同寺の過去帳『往詣記』には埋葬の記録はありません。
遺体は新選組によって壬生村墓地に埋葬され、その後、姉弟によって「河合耆三郎源義輝之墓」という墓碑が建てられました。
現在墓碑は、壬生寺境内にあり、東京都北区滝野川7丁目の寿徳寺境外墓地にある、新選組慰霊碑にも名前が刻まれています。
戒名は国元で授与され、“遊林軒千空吉一良義居士”といいます。
新選組史跡事典&新選組大事典&新選組大人名事典より


JR福知山線伊丹駅か阪急電鉄伊丹線伊丹駅から歩いた場合。
JR伊丹駅を出て、西側に向かいます。(イオンと反対方向)
まっすぐ、まっすぐ歩くと阪急伊丹駅に着きます。
阪急伊丹駅から北に向かうと、SAKE市場グランマルシェ伊丹店の角に出ます。
その道路を西に、一ツ橋交差点、千僧6交差点と通り過ぎると、次の大きな交差点が昆陽6交差点(写真)になります。約1.2㎞です。
交差点から北側に、昆陽3丁目、4丁目、5丁目があります。

この写真は、撮れたてです。
今日の午前中に撮ってきました。

私は、新幹線の高架したを自転車で走り、美鈴町交差点から北に上がりました。
暑かったです。
もう少し北へ行けば国道171号との交差点が“昆陽”です。
今国道となっている場所の方が、街道筋だったのかもしれませんが、国道171号で写真を撮るのは今般なかなか難しいので、昆陽6丁目にしました。

こんな身近な場所まで新選組が出張していたとは…。
でも近藤勇、土方歳三、沖田総司ではないのですよね。
残念ですが、河合耆三郎はそれなりに(失礼)有名な方ですからね。

昆陽6丁目交差点付近は、東西には交通量が多かったのですが、南北は以外と少ない感じでした。
今の南北の道路(写真左)をみると、交通量のわりに道幅が広いです。
昆陽宿があったのもこんな感じの場所だったのかもしれません。
新選組隊士がこの辺りを歩いて、仕事をしたのです。

大刀を差して、河合耆三郎が歩いたのですね。
河合耆三郎の肖像画でもあれば見てみたいですね。
どんな容姿の人が歩いていたのでしょう。
でも切腹(斬首か?)させられた所をみると、あまり要領のよい人ではなかったのかな?
お坊ちゃまタイプかも…。
小説では大体このエピソードは出て来るので、多くの人は名前は知っているのではないでしょうか?

余談ですが、
北にある昆陽池は奈良時代の僧、行基が造りました。
(伊丹市には行基町という町名があります。)
その昆陽池に日本列島があるのはご存知でしょうか?
伊丹空港から飛行機に乗り離陸直後、下をみると昆陽池の上を飛んでいます。
着陸は逆方向から進入するので見られないはずです。
池の真ん中にある島が日本列島の形をしています。
伊丹空港から飛行機に乗る方はぜひご覧下さい。
私も見ました。


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昆陽池 写真

橘寺

2009年05月12日
聖徳太子生誕地ともいわれている橘寺(奈良県高市郡明日香村大字橘)です。
橘寺1159  橘寺2160
聖徳太子生誕地として知られ、太子建立七カ寺の一つです。
寺地はもと用明天皇の別宮の上宮があった地で、聖徳太子の別称・上宮太子は、上宮で生まれ育ったことに由来します。

600年7月、太子は天皇に請われて『勝鬘経』を講じ、3日で終えましたが、その夜、天から蓮華が降り、翌朝には千の仏頭が南の山上に現れたので、これを瑞祥として、この地に一宇を建立したとされます。
橘寺の正式名は仏頭山上宮皇院菩提寺で、仏頭山はこの瑞祥にちなみます。
このときの蓮華は、本堂の東にある土壇に降ったとされます。
この蓮華塚と呼ばれる土壇は、大化の改新のときに一畝の基準を示したものと伝えられ、別名・畝割塚ともいいます。

756年に光明天皇が丈六釈迦三尊像を安置し、平安時代には東向きの四天王寺式伽藍が完備、堂宇60余を数える大寺となりました。
1146年の雷で五重塔を焼失し、鎌倉期に三重塔を再建しましたが、1506年に多武峯の僧兵と争って焼き討ちに遭い、諸堂宇を失いました。

現在の本堂(太子堂)・如意輪堂(観音堂)などは1864年9月に再建されたものです。
草創当時のものとしては、柱穴が橘の形をした五重塔の心礎が残っています。

他に、本堂南側に奇怪な2つの人面を刻んだ花崗岩があり、二面石と呼ばれています。
善と悪の2つの顔を表したものとされ、謎の石造物の一つとして有名です。
庫裏の中庭に立つ石燈籠は橘寺形と呼ばれています。

橘の地名は、田道間守が垂仁天皇の命で不老長寿をもたらす非時香果(橘)を求めて常世国に赴き、10年後にこれを持ち帰りましたが、すでに天皇は崩御していたため、果実をこの地に植えたという伝説に基づくものです。
本堂には田道間守の像も安置されています。
聖徳太子の本より


伝・板蓋宮跡から南へ向かいます。
明日香郵便局の角で、東に曲がると岡寺ですが、西に曲がります。
200m行くと、飛鳥川が流れています。
橋を渡ってすぐに左(南側)へ曲がると100m少しで橘寺です。

聖徳太子生誕の地といいます。
厩戸皇子といわれるように、厩戸で生まれたといわれています。
宮中の厩戸というのは、この別宮・上宮の事なのでしょうか?
厩戸で生まれたという真偽は置いといて…、この場所で育った事はほぼ史実なのでしょうね。

聖徳太子はどこまでが史実で、どこからが伝説かよくわかりません。
なので余計に古代ロマンをかき立てられます。

自然の中に佇む橘寺は心が和む風景でした。
このままずっと同じ風景を、見続けられる事を願います。
心の休息になります。

さて、本堂や観音堂が再建された1864年というのは、元治元年です。
まさに幕末! 池田屋事件!!
禁門の変もありました!
京都では血で血を洗う事件が起きていた時に、この本堂などが再建されていました。
ならのこの周辺は、幕末の政治とは遠い位置にあったのでしょうか?

大抵の藩は、京都などでそれぞれの方向性で戦い、藩の財政も逼迫していたと思うのですが、お寺の再建をするほどですから、幕末京都とは無縁という事でしょうか?

橘寺では、聖徳太子が育った場所なので、聖徳太子がこの地を歩いていたんだぁ~と、思いを馳せながら、本堂と観音堂を見ながら、池田屋事件と同じ時に建てられた建物、新選組と同時代に誕生した物なんだと、幕末にも思いを馳せることができます。


聖徳太子の寺を歩く―太子ゆかりの三十三カ寺めぐり (楽学ブックス―古寺巡礼―古寺巡礼)聖徳太子の寺を歩く―太子ゆかりの三十三カ寺めぐり (楽学ブックス―古寺巡礼―古寺巡礼)
(2007/09/30)
林 豊

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