ニシン蔵(水戸烈士記念館)

2009年04月30日
【また聞き ⑥】

松原神社内(福井県敦賀市松原町)には、武田耕雲斎ら823人が監禁されたニシン蔵が保存されています。
水戸烈士記念館1341  水戸烈士記念館2342

水戸烈士記念館3343  水戸烈士記念館4344
元治元年、武田耕雲斎が率いる水戸天狗党は、尊王攘夷を唱えて挙兵しました。
朝廷に志を訴えようと京都へ上る途中、敦賀で捕らえられました。
幕府は厳しい処罰を下し、翌年、来迎寺(松原)で353人が斬首されました。
道路をはさむ松原神社境内には、一行が監禁されたニシン蔵が記念館として残っています。

武田耕雲斎たち823名が監禁された、舟町のニシン蔵16棟のうち1棟が、昭和29年の秋、90年祭を記念して松原神社境内に移築しました。
現在は水戸烈士記念館として使用されています。
敦賀観光協会より


JR北陸本線敦賀駅より 福鉄バス利用約10分「松原公園口」停留所下車が近いそうです。
敦賀駅から2.5㎞弱あるようです。

823名が16棟に監禁ということは、1棟に50人ちょっとの人が入れられたいたという事になります。
写真をみるとそれほど大きく思いません。
立っていれば余裕で入れそうですが、ここで座ったり横になったりはギリギリ出来るか出来ないか?という感じでしょうか。

武田耕雲斎が容れられたにしん蔵なのかはわかりませんが、50数人の汗と涙と血も染み込んでいるかもしれません。
ますます行ってみたくなってきました。


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武田耕雲斎墓-松原公園

2009年04月29日
【また聞き ⑤】

松原公園(福井県敦賀市松島町2丁目)に武田耕雲斎墓があります。
松原神社武田耕雲斎墓3335  松原神社武田耕雲斎墓4336

松原神社武田耕雲斎墓2334  松原神社武田耕雲斎墓1333

松原神社武田耕雲斎墓8340

松原神社武田耕雲斎墓6338  松原神社武田耕雲斎墓5337
元治2年、水戸藩士武田耕雲斎・藤田小四郎以下353名が処刑された来迎寺(松原)跡に建てられました。
茨城県水戸市見川2丁目103の妙雲寺にも墓があります。


武田耕雲斎は、水戸藩士。
名は正生、字は伯道、通称は彦五郎、伊賀のちに修理と称しました。
跡部正続の長子、宗家跡部正房のあとを継ぎましたが、甲斐武田氏の後裔として武田姓を名乗りました。

文政12年藩主斉脩の継嗣問題に斉昭を推戴、戸田忠大夫らと出府して運動し、このため使番から小普請組に落とされましたが、間もなく目付けとなり、改革派に重きをなしました。
天保11年、学校造営掛として、弘道館建設にあたりました。
この年、門閥派の巨頭結城寅寿とならんで参政に就任しました。
天保13年、結城が執政となると、退けられて大番頭となりました。

弘化元年藩政改革が急進的であるとして、斉昭に慎隠居の幕命が下ったさい、吉成信貞とともに老中水野越前守、牧野備前守に冤を訴え回復をはかりました。
このため禁固され、翌年致仕、隠居を命ぜられました。
耕雲斎と称したのはこのときからです。

嘉永2年、斉昭が藩政関与を赦されるにともなって赦免、大番頭、参政を経て安政3年正月執政となりました。
この年、結城は死罪、門閥派の多くは罪を被って退けられました。
攘夷論者として幕府の開港政策に反対、斉昭に建議したこともありました。
同5年8月、斉昭の不時登城、藩内動揺の責任によって、岡田兵部、大場一真斎とともに執政をやめさせられました。
以後この2人とともに三隠大夫、三老とよばれ、激派の尊敬を受けました。
同6年末、水戸藩下付の攘夷の密勅返上を幕府が命じましたが、これに反対論をとなえ、会沢正志斎らと対立しました。
万延元年の桜田門外の変などによって激派の力がつよまり、藩庁の統制がおよばなくなった事態のなかで岡田、大場と執政に復帰しました。
もっとも強く攘夷を主張する大津彦五郎ら過激派玉造勢の鎮圧にあたりました。

文久元年、東禅寺英国公使館襲撃事件によって失脚、翌年復職しました。
文久3年2月、一橋慶喜上京のさい慶喜の懇願により随行、京都では水戸藩尊攘派総帥として公卿、志士との交流を深めました。
その名声を利用して、京都に横行する志士を率いて兵庫港防衛にあたらせ、激発を防ごうという意見も強まりました。
耕雲斎自身必ずしも攘夷論者ではなくなりますが、4月慶喜の東帰に先立って江戸に戻り、横浜鎖港の意見を幕閣につたえました。
水戸藩にもどり、領内沿岸を査察するとともに、9月調練総司を兼務して那珂湊、小川、潮来の郷校に拠る激派の鎮圧にあたりました。

元治元年2月、従五位下伊賀守に叙任。
田丸稲之衛門、藤田小四郎らの筑波挙兵に山国兵部らを派遣して鎮撫につとめました。
5月幕命により慎隠居を命ぜられ帰国、市川三左衛門ら門閥派が藩権力を握りました。
7月門閥派の亡状を憤り兵を率いて南上、松戸に至りました。
翌8月、藩主代理松平頼徳が水戸に赴くのに随行を求めて拒否されますが、これに従って館山に布陣しました。
幕府、諸生党の軍勢と各所に戦い、頼徳随行の榊原新左衛門と共同戦線をかたちづくりました。
10月、榊原は投降にあたって耕雲斎の首級持参を約束、兵火を交えました。
西上を決意し、1千人の兵の総大将となり、山国、田丸、藤田らとともに出発、越前新保駅にて金沢藩に降伏しました。
敦賀におくられ、翌2年2月4日、同志とともに斬罪に処せられました。

敦賀において処刑されたもの斬罪353人、遠島137人、水戸渡し130人、永厳寺預け(15歳以下の少年)11人というものでした。
構いなく追放に処せられたもの187人。
耕雲斎および山国、田丸、藤田の首級は江戸におくられたのち水戸の城下で引き回され、七軒町札場、上町、吉田境橋、那珂湊で梟されたのち野捨てにされました。
水戸に残された妻子も梟首、孫も斬罪に処せられました。
幕末維新人名事典などより


JR北陸本線敦賀駅より 福鉄バス利用約10分「松原公園口」停留所下車が近いそうです。
敦賀駅から2.5㎞弱あるようです。

武田耕雲斎は名前程度にしか知りませんでした。
水戸天狗党や藤田小四郎の名前も耳にはしていましたが、詳しくは知りません。
新選組の初代局長芹沢鴨が水戸天狗党のいたというので、水戸天狗党の名前はよく耳にはしていたのですが、これほど強烈なものだとは思っていませんでした。

新選組も“局中法度”や“粛清”と、血を流すことが多くありました。
その為、現在でもあまり良く思わない人もいると思います。
しかしこの水戸藩に比べたら…。

武田金吾という武田耕雲斎の第7子はまだ2歳なのに処刑されています。
2歳の子まで処刑しないといけないのでしょうか?
武士の掟ですか?
元服していて、自分の意思(まったくの自分の意思とは云い難いでしょうが)で行動していたならばまだしも、2歳の子が政治的な事を考えて、行動するわけがないではないですか。
2歳や8歳、9歳の子供達が斬首などになっているのを知って、今、すごく暗い気分になっています。

新選組は本人は殺される事があっても、政治的に関係のない家族には手を下していないはずです。
近藤勇の奥さんだって、命はとられる事はなかったではないですか。

なんだか、水戸藩が怖くなってきました。
水戸黄門はいい人なのに…。時代劇の中ですが。


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橋本左内像-左内公園内

2009年04月28日
【また聞き ④】

橋本左内像が左内公園内(福井県福井市左内町7)に建っています。
左内公園左内像2322
福井電鉄福武線公園口駅下車。
毛矢交差点を右折、福井毛矢郵便局から一本東の道を、北方向へ250mほど行った場所です。

肖像画の左内と、銅像の左内の顔は違いますか?
また聞き状態なので、銅像の顔がはっきりとわかりません。
どちらが実物に近いのでしょう。

銅像の顔を見たいです。
靖国神社の大村益次郎ほどに高い台座には乗っていないようですね。
現地に行けば、顔ははっきりと見ることが出来そうです。


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啓発録碑-左内公園内

2009年04月27日
【また聞き ③】

左内公園内(福井県福井市左内町7)に啓発録碑があります。
左内公園左内墓4326  左内公園左内墓5327
<啓発録>
1.稚心を去る … 子供じみた心を取り去り
1.気を振う … 気力を養い
1.志を立てる … 向上心を持ち
1.学に勉める … 勉学を怠らず
1.交友を択ぶ … 自分を戎めてくれる友人を持つ


福井電鉄福武線公園口駅下車。
毛矢交差点を右折、福井毛矢郵便局から一本東の道を、北方向へ250mほど行った場所です。

橋本左内が15歳の時に書いたものだそうです。
15歳。
中学3年か高校1年の頃ですよね。
私はこんな事を考えて生活していませんでした。はい。
今の世の中でも、15歳でこれだけの事を考えて、なおかつ実行している人はいるのでしょうか?
会ってみたいような、遠慮したいような…。

云うだけなら簡単なのですが。


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橋本左内墓-左内公園内

2009年04月26日
【また聞き ②】

福井市の左内公園内(福井県福井市左内町7)にある橋本左内墓です。
左内公園左内墓2324  左内公園左内墓3325

左内公園左内墓1323 
生誕祭
春山2丁目常盤町の左内生誕地で、毎年4月11日に「生誕祭」が行われます。

墓前祭
お墓のある左内公園(墓前地)で、毎年10月7日に「墓前祭」が行われます。

福井電鉄福武線公園口駅下車。
毛矢交差点を右折、福井毛矢郵便局から一本東の道を、北方向へ250mほど行った場所です。

橋本左内の墓は、東京都荒川区南千住の回向院にありました。
小塚原で処刑されて、回向院に葬られたのでこのお墓には遺骨は納められていない?
招魂碑のようなものなのか、分骨されているのか。
一度行って、自分の目で見てお参りしたいです。

橋本左内としては、故郷である福井でゆっくりと眠りたいと思っているのでしょうか?


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横井小楠寄留宅跡

2009年04月25日
【また聞き ①】

横井小楠寄留宅跡(福井県福井市中央3丁目11-31)
横井小楠奇留邸跡1319  横井小楠奇留邸跡2320
坂本龍馬が福井を訪れた文久3年当時の横井小楠の寄留宅は、現在の福井市足羽川にかかる幸橋北詰から西へ約50mほど下ったところで、石碑が建っています。

当時の小楠の居宅は、四畳半・三畳の二間の平屋(書院づくり風)で、太平洋戦争で福井市が戦火に遭うまで使われていたそうです。
前の足羽川を距てた対岸の舟場町には、由利公正(三岡八郎)の居宅がありました。
小楠と由利とは心の底を打ち明けあう間柄でした。

龍馬が文久3年5月16日の福井訪問の際、まず前藩主松平春嶽と面談後、小楠宅に赴き、ついで小楠の案内で、夜半小舟で由利の居宅を訪ね、3人が炉を抱えて酒を飲みながら歓談しています。

足羽川では当時、鱒・鯉・鮎・ウグイなどがよく釣れたそうです。
小楠は川釣りを好んだため、格好の奇留宅といえたようです。
小楠のすぐ前の大岩川戸から、足羽川を利用して三国湊に下ることができました。
また藩の重臣や改革派の面々が、密かに会談した場所として、足羽川を少し下った左岸に丹厳洞(福井市加茂河原1丁目5)がありますが、龍馬も小楠や由利の案内で訪ねたかもしれません。
坂本龍馬大事典より


福井鉄道福武線市役所前駅から足羽川方向へ。
橋を渡る手前を右折し、100mほどの場所のようです。


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福井-参考

2009年04月25日
福井の史跡巡りはまだ行っていません。
行きたいです!

友人が史跡巡りに行った時に、お土産に写真等を貰いました。

実際の写真があれば雰囲気がなんとなくわかって、現地で探す手がかりになりやすいかもしれませんので、参考として記しておきたいと思います。

【また聞き】 ←の表記をつけておきます。

池田屋 復活?!

2009年04月24日
池田屋跡(京都府京都市中京区)に、居酒屋「池田屋」がオープンするそうです。
開店はもう少し先で、7月だそうです。

新選組が襲撃した、“池田屋”は営業停止となり、その後、縁者らによって近くの三条木屋町付近で同じ屋号で営業していましたが廃業しました。
三条通の池田屋跡地は戦後、別の経営者が旅館を経営後、テナントビルやパチンコ店など変わり、昨年初めからは空きビルでした。

居酒屋チェーン「チムニー」(東京都)が「はなの舞 池田屋店」を開店するそうです。
内装は江戸時代をイメージし、“階段落ち”の高さ約7mの階段も造る予定だそうです。


居酒屋チェーン チムニー

蒸気機関車(SL)

2009年04月24日
博物館明治村(愛知県犬山市内山1番地)の明治村「名古屋駅」と「東京駅」の間、約800メートルを走っている蒸気機関車(SL)です。
SL304
写真は機関車が方向転換しているところです。
回転台(?)で止った機関車は、人力で回転させていました。

京都市電も走っています。
  日本で最初に開通した路面電車「京都市電」は「チンチン電車」という愛称で親しまれています。


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聖ヨハネ教会堂

2009年04月24日
京都にあった、聖ヨハネ教会堂も博物館明治村(愛知県犬山市内山1番地)に移築されています。
聖ヨハネ教会堂302
旧所在地 京都市下京区河原町通五條

明治6年、キリスト教の禁止令が解かれ、各地に教会堂が建てられるようになりました。

聖ヨハネ教会堂は、明治40年京都の河原町通りに建てられたプロテスタントの一派日本聖公会の京都五條教会で、2階が会堂に、1階は日曜学校や幼稚園に使われていました。
中世ヨーロッパのロマネスク様式を基調に、細部にゴシックのデザインを交えた外観で、正面左右に高い尖塔が建てられ、奥に十字形大屋根がかかる会堂が配された教会です。
正面の妻と交差廊の両妻には大きな尖塔アーチの窓が開けられ、室内が大変明くなっています。
構造は、1階がレンガ造、2階が木造で造られ、屋根には軽い金属板が葺かれています。
博物館明治村HPより


聖ザビエル天主堂と、違った雰囲気の教会です。
ヨーロッパの田舎の教会?のイメージでしょうか。

この教会は下京区河原町五条ですから、五条大橋の近くにあったはずです。
現在の三条と五条の町のイメージからすと、この教会は五条の方が似合いそうです。
聖ザビエル天主堂は三条の方が似合いそうです。
五条はどちらかといえば、落ち着いた雰囲気のイメージなので、聖ヨハネ教会堂の方がマッチしそうだと思いませんか?

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霊山歴史館 2009年 春季特別展「よみがえる幕末維新」

2009年04月23日
今年は箱館戦争終結・土方歳三没後140年です。

会期もあと少しですが、ゴールデンウィーク中は開催されています。

チラシ1369

チラシ3

京都市 霊山歴史館

聖ザビエル天主堂

2009年04月22日
京都にあった聖ザビエル天主堂も、博物館明治村(愛知県犬山市内山1番地)に移築されています。
聖ザビエル天主堂303
旧所在地 京都市中京区河原町三條

白亜の教会堂は、聖フランシスコ・ザビエルを記念して、明治23年かつてザビエルがいたことのある京都の地に献堂されたカトリックの教会堂です。

基本構造はレンガ造と木造との併用で、外周の壁をレンガ造で築き、丸い高窓の並ぶクリアストーリーの壁を木骨竹小舞の大壁構造にし、内部の柱や小屋組等を木造で組み上げてあり、内外の壁は漆喰を塗って仕上げています。
正面入口の上には直径3.6mを超える大きな薔薇窓が付けられ、切妻の頂点には十字架が掲げられています。

当初は壁や窓のモールディング等はゴシック様式の異形レンガの積み込みにより作られていましたが、移築に際し、建物強化のために躯体を鉄筋コンクリートに変更するのに合わせて、モールディングの部分もプレキャストコンクリートに置き換えています。

外光を通して美しい陰影を見せるステンドグラスは、色ガラスに模様を描いたもので、外に透明ガラスを重ねて保護されている。
博物館明治村HPより


中に入ると、映像で見る外国の教会のようでした。
私は教会に入った事が数回しかないので、どのような様式が一般的なのか判らないのですが、イメージする教会でした。
結婚式場のチャペルとは違いますよね。
そこなら友人の結婚式で何度かみていますが…。

この教会が京都に建っていたところはなかなか想像し難いです。
京都といえば、お寺に神社と、日本古来の建物を思い浮かべます。
明治になっていたといっても、今でさえお寺に神社がメインですから教会というものが思い浮かびません。
建てられた時は、一際目を引いたのではないでしょうか。

京都では、中京区河原町三条に建てられていたそうです。
河原町三条といえば……

ピンポン!

池田屋があった辺りです。
池田屋の変で、新選組が徳川幕府の為に戦った、およそ30年後にはキリスト教の教会が建っていたのです。
開国か攘夷かと戦ったほんの数十年後には、こんな教会が建つのですから、諸行無常…盛者必衰…を感じてしまいました。
幕末当時、京都などで戦った人たちは、佐幕・尊王・開国・攘夷関係なく近代化していく日本をどう思いながら過ごしたのでしょう。


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皇居正門石橋飾電燈

2009年04月21日
愛知県の博物館明治村(愛知県犬山市内山1番地)にある、皇居正門石橋飾電燈です。
皇居正門石橋飾電燈305
旧所在地 東京都千代田区千代田

皇居前広場から皇居に通じる橋です。
江戸時代からこの場所には“西の丸大手橋”と呼ばれる木橋が架けられていました。
明治宮殿造営に際して二重橋の鉄橋も木橋から架け替えられましたが、この“石橋”も木橋に替わり架けられました。

橋は、明治19年3月に起工され明治20年12月に竣工しました。
岡山産大島花崗岩造りで、橋の渡り35.3m、幅12.8mで、橋脚は円弧のアーチを二つ並べた眼鏡橋の形に設計されています。
この橋は、昭和23年から行われている一般参賀に開放されますが、それまでは、天皇、皇后、皇族、あるいは外国の貴賓と大公使に限って通行できました。

橋の両側に高さ114㎝の石の手すりがありその間に高さ174㎝の男柱が片側3本ずつ計6本あります。
それぞれの男柱石の上に青銅鋳造飾電燈計6基が設置されました。
皇居造営に伴い皇居内外に、この飾電燈を含めて900を超える電燈が設置されました。
電燈ははじめガス燈にする予定でしたが、電燈の照明度と安全性が上申され、電燈を採用することとなり東京電燈会社によって建設されました。

長年使われてきた6基の飾電燈は、昭和61年9月、鋳型を取って新しく鋳造されたものと交換され、取り外されたもののうち1基が明治村に払い下げられました。
明治村では男柱石を新材で製作し、これを台座としてその上に飾電燈を展示しています。
博物館明治村HPより


明治村では内閣文庫の隣にありますが、建物が建ち並ぶ中では、電燈は小さくて見落としてしまいそうです。
幕末とは直接関係ありませんが、幕末維新の戦いは徳川家vs.天皇家のようなものですから、皇居は少なからず関わりがあるといってもいいと思います。
江戸城だと大喜びだったのですが、もう皇居なんですよね。
その皇居の石橋の飾電燈です。

皇居を訪れた時、桜田門を見に行く途中に、二重橋はあの辺り?と見たのですが、その手前が石橋だったようです。
その時は、全然石橋なんて気にしていませんでした。
残念です。
こういう事はよくありますね。
幕末に直接関係ないのでよかったぁ~。でも残念。

この飾電燈は、確かに細かな細工があって手が込んでいる感じでした。
でも私がこれを見た時の第一印象は、「ん~、あまりピンッと来ないな。」に近かったです。
いまひとつ印象に残る物でありませんでした。
何だろう、“おまけ”って感じ?少し違うかな…。
おもちゃに見えたというのも、正直なところです。


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皇居

西郷從道邸

2009年04月20日
博物館明治村(愛知県犬山市内山1番地)に移築されている、西郷從道邸です。
西郷從道邸301
旧所在地 東京都目黒区上目黒

木造総二階建銅板葺の洋館は、明治10年代のはじめ西郷隆盛の弟西郷從道が東京上目黒の自邸内に建てたものです。

西郷從道は、明治初年から度々海外に視察に出掛け、国内では陸・海軍、農商務、内務等の大臣を歴任、維新政府の中枢に居た人物で、在日外交官との接触も多くありました。
そのため「西郷山」と呼ばれる程の広い敷地内に、和風の本館と本格的な洋館を接客の場として設けました。

屋根に重い瓦を使わず、軽い銅板を葺いたり、壁の下の方にレンガをおもり代わりに埋め込み、建物の浮き上がりを防いでいること等に、耐震性を高めるための工夫がみられます。

西郷從道は、薩摩藩士。海軍大将、海軍大臣。侯爵。隆盛の弟
隆盛は4人兄弟(妹は3人)でしたが、次弟吉次郎は戊辰戦争、隆盛と末弟小兵衛は西南戦争で戦死しました。この從道だけが生き残りました。
幼名は信吾。
尊攘派として精忠組に参加。
文久2年の京都義挙に加わり寺田屋に集合していましたが、島津久光が鎮撫の上意を発したのを聞くと刀を捨てて降伏しました。

元治元年2月、流罪を解かれた兄隆盛を迎えに沖永良部島に行きました。
鳥羽・伏見の戦いで耳から首にかけて弾を受けましたが、軽傷で済みました。
戊辰戦争には、越後口に出陣しました。

明治2年3月、長州の山県有朋とヨーロッパの軍制を調査のため渡欧、アメリカ経由で帰国、兵部権大丞になりました。
明治4年7月、隆盛、大山巌との3人で薩摩を代表、長州側と廃藩置県の密約に参加し、決定しました。
明治7年陸軍中将となって陸軍薩摩閥を代表する位置に立ち、前年参議を辞して鹿児島に帰った隆盛と反対の立場に立ちました。
台湾征討では台湾蛮地事務都督として最高指揮者となりました。
事前に鹿児島に赴き、征韓に替えて台湾を討つ事を理由に隆盛の政府復帰を誘いましたが、拒否されたといいます。
しかし隆盛は300の兵を出してやりました。
明治10年の西南戦争にさいしては動きませんでした。

その後、文部卿、陸軍卿、農商務卿を歴任、第一次伊藤内閣の海軍大臣となって以降、歴代内閣の海軍大臣や内務大臣をつとめました。
明治25年6月創立の国民協会の会長となりましたが(副会長品川弥二郎)、翌年春に退会しました。
明治31年。元帥府に列しました。
博物館明治村&幕末維新人名事典より


北口から入ったため、西郷從道邸は一番遠い場所にありました。
雨は降ってくるし、閉館時間は迫るは…で、ちょと焦りました。
しかしそのお陰で、最終ガイドツアーに参加する事ができました。
自由見学できる1階だけでなく、2階にも上って見学しました。

明治村に建っているからか、こじんまりとした建物に見えました。
きっと町の住宅街にあると、広大なお屋敷なのでしょうね。
2階のベランダでは、大理石かと思っていたら、鉄板を白く塗ったものだったりと驚きました。
軽くする工夫だったりするようですが、その加工・装飾は全部手作り(機械での技術はまだなかった)だそうです。
職人さんも仕事とはいえ、嫌になってくる数だったでしょうね。

この建物内にある椅子にも座れます。
ソファーにも座りました。
2階にはピアノもあります。
鍵盤には象牙が貼ってありましたが、そのピアノも触ってOKでした。
弾いてもOKです。
日本楽器製造株式会社製だそうです。現:ヤマハ株式会社製ということです。
実際に触れられるというのは、とっても嬉しいですね。
何もかもが“歴史的遺産”という事で、ガラス張りのケースの中だと、ただ単に見るだけの事ですから。
ガラスケースに入れて保存する物、実際に触れて伝える物をちゃんと選別して、後世に残して行くというのが一番いいのではないでしょうか?

西郷隆盛は西南戦争で亡くなっているので、明治10年代に建てられたこの建物は目にする事はありませんね。
隆盛と從道は兄弟でも、後半生は全く違う生き方をしています。
性格も正反対だったのかな?
しかし、政治の中心で国を動かそうとした事に関しては同じだったようです。
求める結果が違ったので、道が分かれ、生き方が変わってしまったのですね。


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丹波篠山城より

2009年04月19日
丹波篠山城(兵庫県篠山市北新町2-1)から高城山(八上城)をが見えます。
丹波篠山城より
石見の人ともされる波多野稙通が戦功をあげて永正年間に多紀郡郡代に就任した際、多紀郡多冶山に築城して居城としたことから八上城の歴史が始まります。
弘治3年に一度松永久秀によって城を奪われましたが、永禄9年に波多野晴通、秀治が奪還しました。

天正3年に
織田信長の命を受けた明智光秀による攻略が開始され、毛利氏や赤井氏の支援があったものの天正7年に落城し、波多野氏は滅亡しました。
この合戦で、明智光秀の母(伯母とも)が磔になった城としても知られています(後世の創作という説もあります)。
井上靖の『戦国無頼』の後半はこの落城時が舞台となっています。

慶長7年、前田茂勝(五奉行の前田玄以の子)が八上五万石を領して入城しました。
慶長13年に茂勝が改易され、入封した松平康重が篠山城を築城したため八上城は廃城となりました。

八上城は慶長14年に廃城になりましたが、古風な中世式の遺構が残る典型的な山城です。
2005年3月2日、兵庫県下では41件目の国の史跡に指定されました。
その指定理由として、中世の山城であるにも関わらず、数多くの遺構が往時のままに残っている点が評価さたのです。
戦国時代の典型的山城である八上城と、近世城郭で典型的な平城である篠山城(ともに国の史跡)とが、ともに篠山市内の近い場所にあるという点も見るべき点です。

山全体が要塞化していて、東西に長く、北西はもっとも険しく、南は細い尾根が続いており、攻めにくく守りやすくなっています。

高城山は高く美しい姿をしており、富士山に形が似ているところから地元では「丹波富士」とも呼ばれています。
Wikipediaより


天守台付近から、高城山を見ました。
町も一望できます。
高層ビルが無いので、眺めも抜群でした。
ずっと眺めていたいような、心がホッと和むような景色でした。

この高城山(八上城)に織田信長や明智光秀の名前が出て来た時は驚きました。
戦国時代(でいいのですよね?)は得意でないので初めて知りました。
大阪や京都などからすると、山奥のお城ですよ。
織田信長や明智光秀が関係しているとは…。
天下取りに参戦するような有力な戦国武将は、全国津々浦々に目を光らせて、確実に抑えていこうとしていたのでしょうか。

篠山城から見る八上城は、幕末の頃と見え方は変わっていないのではないでしょうか?
きっと同じだけの八上城(高城山)が見えていたのではないでしょうか?
家の屋根の数は圧倒的に増えているとは思いますが…。


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加来 耕三

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日本 城

丹波篠山城-二ノ丸跡と大書院

2009年04月18日
丹波篠山城(兵庫県篠山市北新町2-1)の二ノ丸跡からみた復元された大書院です。
丹波篠山城3
二ノ丸跡とその北西隅にある井戸(手前)と、復元された大書院(奥)です。

丹波篠山城1
何処だったかな? 二ノ丸付近だと思うのですが…。

篠山城の大書院は二の丸跡に所在した城主居館の中で、とくに歴代城主による公式行事に使用された場所で、正規の書院造の建物となっていました。
この建物は慶長14年の徳川幕府の天下普請による篠山城築城時に、京都二条城の御殿を参考にして建てられたと伝えられています。
東西28m、南北26mの篠山城最大の規模となっていました。
内部には上段の間、孔雀の間などの多くの部屋があり、障壁画で飾られていたと考えられています。

昭和19年の失火により失われ平成12年3月大書院跡地に蘇りました。
篠山城跡案内板などより


大書院入口の横を通りすぎると、目の前が開けます。
二ノ丸跡です。
見取図の看板があるのではなく、それぞれ部屋などがあった場所の地面上にそれが記されていました。
実物大を実感するにはいい方法だと思います。
あまりこのような方法を取っているところはないですよね?

二ノ丸の周辺の桜は満開でした。
桜が多く植えられていて、お花見にはいい場所です。
今年は散ってしまいましたが、来年いかがですか?


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渡辺 多恵子

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丹波篠山 アクセス

丹波篠山城-天守台

2009年04月17日
丹波篠山城(兵庫県篠山市北新町2-1)の天守台跡です。
丹波篠山城2
慶長14年、徳川家康は、松平康重(家康の実子説あり)を常陸国笠間城から丹波国八上城に移し、新城の築城を命じました。
山陰道の要衝である篠山盆地に城を築き、大坂の豊臣氏をはじめとする西国諸大名のおさえとするのが目的であったとされます。

篠山盆地中心部の丘陵である笹山を築城地と定め、
藤堂高虎が縄張を担当しました。
普請総奉行を池田輝政が務め、15ヶ国20の大名の助役による天下普請により6ヶ月で完成しました。

築城当初より天守台はありましたが、天守は建設されませんでした。
石垣や堀をはじめとする城の造りがあまりにも堅固すぎ、幕府が懸念したためと言われています。
以後、松平三家八代、青山家六代の居城として明治を迎えました。

明治維新後、城郭の遺構は大書院を残してほとんどが取り壊されました。
残っていた大書院も昭和19年1月6日に失火により焼失してしまいました。

天守台は本丸の東南隅に位置します。
広さは、東西約18m、南北約20m、本丸からの高さ約4mです。
天守台南東隅に2間四方・単層の隅櫓を配置し、残りの南東面には土塀を巡らせてありました。
本丸には御殿は築かれていませんでした。
Wikipediaなどより


写真の左奥に見える一段高い場所が天守台跡です。
そして右奥に見える山が八上城です。
天守台跡の広さはそれほどありませんでした。

もともと天守がなかったので、この場所に関してはあまり変化はないのかもしれません。
これほど何もない場所ではなかったでしょうが、立派な建物は無かったのではないでしょうか。
明治維新後は、多くの城が取り壊しとなってしまい本当に残念です。
幕末維新を生き残った城が取り壊される事なく、今日まですべて残っていたのならば、とっても嬉しい事なのですが。
どこに行ってもお城だらけだったかもしれません。

篠山城に関しても、残っていた大書院が失火で焼失ですか。
凄く残念です。
失火というのがなんともいえません。
それも昭和になってから…。
落雷など、自然相手なら諦めもつきやすいのですが、失火というと人間の不注意ですものね。


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丹波篠山城

2009年04月16日
丹波篠山城(兵庫県篠山市北新町2-3)です。
丹波篠山城堀2  丹波篠山城堀1
元治元年の禁門の変には、蛤御門、堺御門を警衛しました。
慶応2年、長州再征には将軍家茂に従って大坂へ出動しました。
翌年正月、孝明天皇大葬の際、泉涌寺勤番、火の番を命ぜられました。

鳥羽・伏見の戦いでは、藩士864人が京都へ向かいましたが、新政府軍の勝利を知って亀岡の近くから兵を返しました。
山陰道鎮撫総督西園寺公望が兵を率いて篠山へ進駐した時、藩主は江戸にいて留守、藩論は揺れ動いた末に勤王へ傾いていました。
しかし、篠山藩は亀岡までの出兵を詰問され、黄金100枚を寄贈しました。
福原鉉吉郎以下50名の藩士は、篠山城を検分した参謀小笠原峯之助に従って宮津へ赴き、恭順の実を示しました。
幕末維新史事典より


JR福知山線篠山口駅からバスで15分です。
篠山口駅を降りて、郵便局の前の道(県道299)を東吹交差点まで歩きます。
そこから県道306を東へ2.5㎞、消防署を過ぎた交差点を北へ曲がり市役所を目指すと、手前に篠山城跡があります。
駅から約4㎞でしょうか。

地図上では、丹波大山駅でも同じ様な距離に思えますが、大阪からJR福知山線で行く場合、篠山口行き(篠山口止まり)が多いので、篠山口から歩く方が楽だと思います。
福知山行きに連絡している電車もありますが。

2008年の桜の季節に行ったのですが、桜が綺麗でした。
篠山藩は禁門の変の時、蛤御門に堺御門を警衛していたのですね。
蛤御門といえば、会津藩に新選組も関係していたではないですか。
仲間だったのですか?
人数的には数少ない兵力だったのではないのでしょうか?
禁門の変で上げられるのは、薩摩藩・会津藩・桑名藩・大垣藩・新選組・遊撃隊あたりです。
篠山藩の名前をみた事が私はありませんでした。

今、篠山といえば、“田舎”という言葉が思い浮かんでしまいます。
特にJR福知山線は本数も少なく、私が子供の頃はディーゼル機関車でした。
車輌の入口も自分で開閉して、当時は2時間に3本ぐらいしか電車がなく、無人駅がほとんどだったので、そのイメージが焼きついています。
今でも、やはり大阪の梅田や難波などとは全く違いますよね。

都会の喧騒からは離れているといってもいいかと思うのです。
そんな場所にある藩でも、幕末には京都で戦いに参加したという事が不思議です。
情報伝達の発達していない時代なのに、全国津々浦々の藩に出兵の報が届いたのですね。
やはりどんなに小藩でも、藩主は江戸と地元で交互に暮らしたのでしょうか。
参勤交代ですね。

黄金100枚を寄贈したといいますが、これってお金で解決というやつですか?
江戸幕府も終わってますよね。
こんな幕府の為に、新選組は戦ったのでしょうか?


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伊賀上野城

2009年04月15日
伊賀忍者で有名な伊賀市にある、伊賀上野城(三重県伊賀市上野丸之内106)です。
伊賀上野城262
上野城は、三重県伊賀市上野丸之内(上野公園)にあった平山城です。
白鳳城、伊賀上野城とも呼ばれます。

天正13年、大和郡山から移ってきて伊賀を拝領した筒井定次により、天正伊賀の乱で焼け落ちた平楽寺の跡に築城されました。
天守は3層であったといわれますが、史料は残っていません。
城代屋敷の北東隅に筒井時代の天守があったと考えられています。

しかし定次は、かねてから不行状で島左近などの重臣に多く出奔されており、慶長13年、徳川家康の命により改易されられました。
その後伊予・宇和島から築城の名手とされる藤堂高虎の持ち城(本拠地は伊勢国・津城)となり、城の大改修が行われました。

改修は豊臣討伐に備えて堀を深く、石垣も高くし、南に二ノ丸を構築しました。
天守の位置を西側に移動し、今治城天守を移築しようとしましたが、天下普請となった丹波亀山城に献上したため新規に5層天守を建設しました。
竣工をひかえた慶長17年に嵐のため天守は倒壊しその後、豊臣氏の滅亡で堅固な城が必要なくなったのに加え、武家諸法度による新規築城や改修の規制により江戸時代を通じて、本丸・二ノ丸などの主要部分は城代屋敷を除いて再建されることはありませんでした。

文政8年、藤堂高猷が最後の城主となりました。

城の近隣には、松尾芭蕉を祀る俳聖殿や芭蕉翁記念館があるほか、伊賀流忍者博物館があります。
長年日本一といわれてきた、藤堂高虎の高さ約30mの石垣や三重県立上野高等学校敷地内に武庫が現存し、米倉は博物館の一部として上野公園敷地内に移築現存しています。
現在、天守台にある3層3階の天守は昭和初期築の模擬天守で、正式には伊賀文化産業城といいます。
Wikipediaより


伊賀鉄道上野市駅の真北すぐの所にあります。
遠方からだと、JR関西本線伊賀上野駅から国道163号を南に2㎞歩くのもいいかもしれません。
伊賀上野駅からは、伊賀鉄道にも乗れるので、伊賀鉄道に乗り換えて上野市駅にいくという方法もありえます。

大坂城や姫路城と比べると小さいお城、というのが第1印象でした。
近くを車で通った時に、遠くから見える姿は綺麗です。

伊賀上野というと、お城よりも“忍者”を思い出します。
服部半蔵は時代劇にも出てきて、おなじみの忍者です。
実は山を一つ越えれば、甲賀の里で甲賀忍者の拠点なのですよね。
日本を代表するような、伊賀と甲賀が隣同士だなんて…。
敵対しているのに隣同士だと、どれだけ争いが起こったのか…と、しかし、実は仲良しだったようです。
仲良しは言葉が変ですね。
でもお隣さんとして協力関係もあり、良い関係だったようです。

どんな山の中にあるのかと思っていたら、今はすっかり都会です。
ごく普通の現在の城下町でした。
最後の藩主が文政時代ですから、幕末当時は伊賀上野城は独立していませでした。
当時は津藩の領地だったようです。
津藩は橋本での裏切り行為で私の中に残っています。
藩主や幹部の人たちは随分と苦悩したようです。
時代の流れが速く、ゆっくりと熟考する時間もなく、即断を迫られるというのは辛い事だったでしょう。

津藩
外様。
幕命によって天誅組の乱、禁門の変、第1次征長に出兵し、幕府への忠勤を励みました。
第2次征長には、藤堂帰雲を総督として河内、摂津へ2,600余名の藩兵を出陣させました。
鳥羽・伏見の開戦には、山崎の関門を守っていた津藩は幕府側から援軍を要請されましたが、その進退に迷っていました。
5日、勅使四条隆平から勅書を下されて帰順を迫られた山崎関門のの総帥藤堂采女は、藩主の指命を受ける余裕のないまま意を決しました。
翌日、淀川を挟む対岸の橋本八幡の幕軍へ砲撃を開始、徳山藩、岩国藩兵とともに川岸へ出て交戦しました。
味方と信じていた津藩の離反によって衝撃を受けた旧幕軍の士気は奮いませんでした。

さらに、大村、佐土原、鳥取、岡山、熊本の諸藩とともに桑名藩討伐を拝命、梶原左近率いる433人の藩兵が正月28日、桑名へ入りました。
その後、藤堂仁右衛門を総帥とする藩1,148人が東征軍に加わり。江戸から総州の旧幕軍の追討、上野戦争へと活躍し、さらに磐城平城攻撃、浪江、椎木、今泉村の各地で奮戦しました。

10月6日、藤堂仁右衛門軍と仙台で交替した藤堂豊前の828人は11月、石巻方面を掃討しながら秋田へ入り、江戸から後続の高市第3隊が明治2年、蝦夷地五稜郭で戦いました。
幕府への恩義を重んじて公武合体を眼目にしてきた藩主藤堂高猷は、鳥羽・伏見から五稜郭まで戦わざる得なかった時流の中で苦悩し続けたといいます。
幕末維新史事典より

伊賀上野を訪れたのであれば、松尾芭蕉や忍者屋敷など訪れてみてください。
松尾芭蕉の生家がお城の近くにあります。
国道25号沿いの農人町交差点の少し手前(お城側)にあります。
松尾芭蕉は伊賀生まれで、忍者だったのでは?という話もあるようです。
奥の細道のあの工程を、あの日数で歩くのは驚異的だとか…?

幕末に直接関係するものは少ないですが、忍者や松尾芭蕉など、歴史好きには多少なりとも興味があるのではないでしょうか。


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伊賀忍者
甲賀忍者

名古屋城-青松葉事件遺跡

2009年04月14日
名古屋城(愛知県名古屋市中区本丸1-1)の中にある、青松葉事件遺跡の碑です。
青松葉事件遺蹟1

青松葉事件遺蹟2  青松葉事件遺蹟3-1
慶応4年正月20日、二之丸御殿向屋敷の前庭で、尾張徳川家の三重臣が斬首され、いわゆる青松葉事件が始まりました。
昭和の初めに「青松葉事件之遺跡」碑が、ここから南へ約100mの処刑地跡に建立されましたが、その後所在不明となったので、ここに復元しました。

青松葉事件とは、、慶応4年1月20日から25日にかけて発生した尾張藩内での佐幕派弾圧事件です。
弾圧の対象者は重臣から一般藩士まで及び、斬首14名、処罰20名。
それまで京都で大政奉還後の政治的処理を行っていた14代藩主徳川慶勝が帰国し、その日のうちに弾圧の命令が出ていることから、何らかの密命を朝廷より下されたと思われますが、真相はいまだにはっきりしていません。

事件名は、処刑された重臣のうちの筆頭格である渡辺在綱の家が「青松葉」といわれていたことからです。
渡辺家はもともと徳川家康の家来で「槍の半蔵」の異名を取った渡辺半蔵守綱の末裔ですが、鉄砲にも興味を持ち、その鋳造に用いる火を起こすのに青松葉を使ったとか、知行地から年貢を受け取るとき、青松葉を俵に挿して数えた、などという逸話が多いことから「青松葉の渡辺」といわれていたようです。
Wikipediaより


慶応4年、まさに幕末維新時の事件です。
京都でも江戸でもなく、各藩でもこうして事件が起こっていたと、改めて思いました。
どうしても幕末の舞台は、“京都”や“江戸”を思い浮かべてしまいます。
それでも各々が、日本全国で佐幕、勤王、攘夷、開国が複雑に絡みあって、いろいろな意見がぶつかりあっていたのですね。

佐幕、勤王、攘夷、開国が本当に色々な組み合わせで、歴史を作ろうとするので、複雑すぎて実はちゃんと理解していないかもしれません。
個人、個人をきっちり見ると、対極にいるようでも重なる部分があったりしそうです。
それぐらい幕末の思想は複雑に入り組んでいると思います。

実際に事件に関係した処刑地は、ここから南へ100mほど行った場所のようですので、そちらも写真に撮った方がよかったのかもしれません。
せっかく復元されるのであれば、処刑地跡にもう一度復元してくれるとよかったのに。

この時ではないのですが、名古屋付近を通り抜けた時、高速道路の幅の広さにビックリしました。(高速道路ではなく、一般道の高架だったのかもしれません。)
太い支柱の幅の広い道路が、縦横無尽に走っている…、そんな感じでした。
愛知県の景気がいいと聞いていた頃だったので、愛知県の経済力に呆気に取られていました。


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名古屋城-藩訓秘伝の碑

2009年04月13日
名古屋城(愛知県名古屋市中区本丸1-1)内にある、藩訓秘伝の碑です。
藩訓秘伝の碑2  藩訓秘伝の碑1-1
初代藩主・徳川義直の直撰「軍書合鑑」の中にある一項の題目で、勤王の精神について述べています。
歴代の藩主はこれを藩訓として相伝し、明治維新にあたっては、親藩であったのに、勤王帰一を表明したといわれています。

尾張藩は三家。
尾張藩祖徳川義直の正統は9代宗睦で絶え、以後、将軍家から押しつけられた移入藩主が続きます。
藩校明倫堂の教授、学生、下級藩士を主体とする金鉄党はこれを嫌い、支藩高須藩主の次男義恕(慶勝)を盛り立てました。義恕が尾張藩14代藩主になるのは嘉永2年6月です。
これと対抗するのは、「ふいご党」で付家老の竹腰正と結びました。
藩主慶勝は条約勅許問題で井伊大老を責めたことで隠居、謹慎を命じられ、安政5年7月、江戸戸山の別邸に幽せられました。
そのあとを高須から入って実弟の茂徳が継ぎ、佐幕派の頭目である家老の竹腰を重用し、慶勝の腹心田宮如雲らを蟄居、減禄に処しました。

文久2年4月、慶勝は謹慎を解かれ、攘夷派の金鉄党が復活。藩主茂徳は翌年、引退しました。
このあと、慶勝の三男義宜が6歳で継ぎました。
同年、朝命によって将軍家家茂補佐に任ぜられた慶勝は、元治元年8月、第一次征長に征討軍総督を拝命、35藩に出兵を命じ、家老成瀬正肥、田宮如雲らの腹心を従えて広島へ赴任しました。
長州藩三家老を斬首することで事態を収拾しました。

慶応3年12月、越前の松平慶永とともに将軍慶喜の辞官納地問題に尽力、鳥羽・伏見戦後、大坂城を託された慶勝は帰藩して、佐幕派の一掃に務めました。
新政府から議定職に補されていた慶勝は、尾張近隣諸藩への勤王勧誘役をまかされました。

4月、甲斐・信濃の賊徒討伐を命じられた慶勝は自ら出陣して2州を鎮定しました。
さらに奥羽・北越へ派兵しました。
東征大総督有栖川宮熾仁親王の身辺警護を許されたのは尾張藩で編成された草莽磅礴隊です。
他に集義隊、正気隊、東正気隊、精鋭隊などの草莽隊が結成されました。
幕末維新史事典より


初代藩主から、勤王派だったのですね。
徳川御三家という肩書きがあるだけに不思議な感じです。
初代藩主・徳川義直は今と同じような“象徴天皇”と同じような感覚だったのでしょうか?
実際の政治は“徳川将軍”が行うことには異議はなかったと。
徳川の江戸幕府が始まった頃の事は詳しくないので、あくまでも私の勝手な想像です。

脈々と勤王の精神が受け継がれてきたのであれば、幕末に勤王派となったのも頷けます。
表面的には“徳川家一番”としていても、心の奥底、根底にはしっかりと勤王という思想が根を張っていますね。
御三家だから佐幕派と思う人の方が多いのではないでしょうか?
単純すぎたのは私だけ?

庭は綺麗に手入れされていて、のんびりと歩くにはいい場所でした。
本当に人がいない…。
桜の季節には多くの人が訪れたのでしょうね。
島田魁たちも名古屋城の桜を見たかもしれません。
桜を見ながら、自分達に訪れる春を願うことがあったかもしれません。


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名古屋城-新選組隊士謹慎の地

2009年04月12日
名古屋城(愛知県名古屋市中区本丸1-1)に、新選組隊士謹慎の地があります。
名古屋城1
明治2年5月の箱館五稜郭の降伏後、謹慎・収容となった新選組は青森、弘前の諸寺院を転々としましたが、再度、箱館の弁天台場に送られて謹慎生活を送りました。
11月に入って海路、東京に移送され、芝増上寺に収容されると、降伏人に対して改めて処置の決定があり、諸藩へ預け替えとなりました。
島田魁、田村義利、田村義忠、大橋山三郎、山崎義範、中山国久、江川助之、上田安達之助、本多岩吉の9名の隊士は、同月20日、名古屋藩預けと決められ、名古屋城内に禁錮、謹慎となりました。
翌3年1月には禁錮は解かれましたが、お預けの身分に変わりなく、兵部省通達の「以後その藩において使役さすべき事」により、5年6月まで不自由な生活は続きました。

禁錮が解かれた翌4年秋、島田魁と妻さとの間に次男柳太郎が生まれていて、謹慎生活も緩められていったことがうかがわれます。

謹慎した9名が名古屋城内のどこに収容され、起居していたかは不明です。
新選組史跡事典より


JR名古屋駅、名古屋鉄道名鉄名古屋駅から、桜通をテレビ塔まで歩き、交差点を曲がって名古屋城に歩いたので、名古屋城周辺の地下鉄の状況がわかりません。
いくつか駅があるので、来られる方向によって変わってくるのでしょう。
JR・名鉄の名古屋駅からは少し歩きましたが、テレビ塔はテレビで見ていたので興味深く目指しました。

「伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ、尾張名古屋は城で持つ」
名古屋城はさすがに大きなお城でした。
しかしこの天守閣も昭和になって復元されています。
大坂城と同じですね。
名古屋城に行ってみて、人が少なくて驚きました。
平日だったかな?
でも愛・地球博が開催されていたので、愛知県は注目を浴びていたのですが…。
感覚的には大阪と神戸ほど離れているようなので、名古屋市に人は流れてこなかったのでしょうか?
でも名古屋駅は入口だと思うのですが…。

ゆっくりと散策して、見学できるという点では、人が少ないほうが嬉しいです。
金の鯱のレプリカがありました。
大きいけれど、こんな小さいもの?と思ったような記憶があります。
天守閣の上にあって、下からも見えるので、もっともっと大きなものだと思っていました。

このどこかに新選組隊士が謹慎していのです。
当時はまだ、再建前の天守閣だったので、彼らが見たのはこのお城ではないのです。
それでも確かに、ここで暮らしていたのです。
お城を見ながら何を思っていたのでしょう。

徳川御三家でありながら、勤王に汲みした尾張の象徴・名古屋城を見上げながらの生活は精神的に辛かったのではないでしょうか?
新選組からすれば、尾張は裏切ったのですからね。
ただ、時とともに謹慎生活は緩くなったようなので、気持ちの整理がついてくると精神的に安定してきたかもしれませんね。
藩主に恨みがあっても、その家臣達とは日常接していると、心を許せる事もあったかもしれません。

田村義利(一郎)は、陸奥国磐城平の出身。
父は田村半右衛門。
録四郎、銀之助の長兄。
清水家家臣・板橋徳蔵のもとに身を置いていましたが、慶応元年4月の土方歳三による江戸での隊士募集に応じ、七番隊に属して上洛し、同3年6月の幕臣取立てでは平士として、見廻組並御雇の格を受けました。

翌年1月の鳥羽・伏見の戦いでは、6日に永倉新八・斉藤一らと八幡山中腹に戦ううち、味方に取り残され、田村は土方のもとに走り、全軍の退去を知って、永倉らと橋本の陣屋に引き揚げています。
大坂敗走後は江戸に帰還、3月1日には甲陽鎮撫隊として出陣、6日の勝沼の戦いで負傷し、江戸に敗走しました。
その後、久米部正親を隊長格とした20数名の負傷者と、五兵衛新田に集結する新選組本隊と別れて会津に向かっています。

会津戦争では什長となり、5月に作成された「会津三代在陣者名簿」では歩兵差図役をつとめています。
8月21日の母成峠の戦いに敗れて仙台へ赴きますが、榎本武揚の旧幕海軍に合流して蝦夷地へ渡航する事をためらい、弟の録四郎とともに一度は新選組を離脱しました。

新選組復帰後は、第三分隊に所属していましたが、明治2年5月15日に籠城していた弁天台場で降伏、台場で謹慎しました。
五稜郭降伏後、5月22日から青森の明誓寺、弘前の薬王院、青森の蓮華寺と謹慎し、再び弁天台場に収容され、11月4日に東京に送られ、名古屋藩に身柄を移されました。
明治3年1月に兵部省の命により禁錮が解かれました。

5年6月には愛知県より、録四郎、島田魁らの新選組隊士とともに赦免状が下されましたが、その後の消息は不明です。

田村義忠は(録四郎)は、陸奥磐城平の出身で、田村半右衛門の子として江戸に生まれました。
田村一郎(義利)の弟で、銀之助の兄。

清水家家臣・板橋徳蔵のもとに身を置いていましたが、慶応3年6月以降、10月ごろに入隊し、「京都ヨリ会津迄人数」で局長附人数の一員とされています。

翌年1月の鳥羽・伏見の戦いを経て江戸に帰還し、五兵衛新田集結時には、金子家の文書に同家在宿隊士として記録されています。
流山転陣後の4月3日、近藤勇が新政府軍に投降すると、武装解除後に会津へ向かい、「会津三代在陣者名簿」では隊長附をつとめています。
8月21日の母成峠の戦いに敗走し、、榎本武揚の旧幕海軍に合流して蝦夷地へ渡航する事をためらいました。

新選組復帰後は、第三分隊に所属していましたが、明治2年5月15日に籠城していた弁天台場で降伏、台場で謹慎しました。
青森の明誓寺、弘前の薬王院、青森の蓮華寺と謹慎し、再び弁天台場に収容され、11月4日に東京に送られ、名古屋藩に身柄を移されました。

明治5年6月には愛知県より、録四郎、島田魁らの新選組隊士とともに赦免状が下されましたが、その後の消息は不明です。

大橋山三郎は、箱館編成新選組、第一分隊所属隊士です。
元徳川家陸軍兵士で、御目見以下の身分。
浪人中に新遊撃隊に召し出されました。
徳川家家臣松平民部家来の用役・中山幸右衛門惣領で、江戸の生まれです。
中島登は常陸の生まれとしています。
宿所は本郷菊坂台町。

戊辰戦争にさいして新選組に入隊しましたが、その間の経緯は不明です。
弟あるいは息子といわれる上田安達之助も入隊しているので、同時に加入したと思われます。
隊士となって箱館市中の取締りや、数度の戦闘に従軍しました。

明治2年5月15日、弁天台場で降伏して、津軽藩御預けとなり謹慎しました。
のちに東京に送られ、名古屋藩に御預け替えとなりました。
翌3年1月に兵部省より禁錮を解かれ、その後同藩で使役のうえ、明治5年6月に自由の身となりました。


山崎義範(林五郎)は、箱館編成新選組、第四分隊所属隊士です。
元山城国葛野郡壬生村に住む浪人。
父は、元摂津国大坂に住み、のち壬生に転居した林五郎左衛門。
数代前までは安房館山藩に仕えたといいます。
横倉甚五郎は「永井玄蕃臣」としています。
おそらくは山崎烝の推挙によって、永井に京都で召し抱えられたものでしょう。

林五郎左衛門といえば、子母沢寛の「八木為三郎老人壬生ばなし」に出てくる、副長助勤・山崎烝の父と同名です。
兄弟の可能性もありえます。

新選組への加入時期は不明ですが、仙台あたりではないかと思われます。
明治2年1月に作成されたと推定できる、新政府軍側の「蝦夷箱館探索日誌」によれば、箱館市中取締の任務に就いていたとあります。
同年5月15日、弁天台場で降伏しました。
津軽藩御預けとなって謹慎、東京送りとなり名古屋藩へ御預け替えとなりました。
翌3年1月に禁錮を解かれて使役を命じられ、5年6月になって赦免されています。

中山国久(重蔵)は、京都の出身で、有栖川宮に仕える中村喜二郎衛門の次男として生まれました。

慶応元年4月の土方歳三による江戸での隊士募集に応じ、五番組に属して上洛し、同3年6月の幕臣取立てでは平士として、見廻組並御雇の格を受けました。

翌年1月の鳥羽・伏見の戦いを経て江戸に帰還し、会津戦争では従軍の記録が見当たりませんが、蝦夷に渡航しています。
明治元年11月ごろの「箱館編成表」では、新選組第四分隊に所属し、それ以前には東組二番の一員として市中警備の任についていた記録があります。
5月15日に籠城中の弁天台場で降伏し、「弁天台場降伏人名簿」には名前がありますが、青森から弘前に送られた降伏人の収容者名簿には名前がありません。
が、単なるミスだと思われます。

その後は東京に送られ、明治2年の「降伏人名」に「名古屋藩御預」のひとりとして「重郎」の名で記されています。
同3年1月に兵部省より禁錮が免じられました。
また、5年6月に島田魁らが愛知県より赦免状が下された際に、同時に「山中国久」の名で許されています。

江川助之(七郎)は、箱館編成新選組、第二分隊所属隊士です。
元徳川家家臣・本堂内膳の家臣で、江戸の生まれです。
本堂家は、芝愛宕下の神保小路にあって8,000石の家格。

戊辰戦争にさいして、旧幕脱走軍に加わり江戸を出奔し、いずれかで新選組に入隊しました。
以後箱館市中の取締り、数度の戦闘に従軍しました。
明治2年5月11日の新政府軍による箱館総攻撃にさいして、弁天台場を受け持ち防戦しますが、15日になって降伏しました。
津軽藩御預けとなって謹慎、10月24日夕刻に青森港から大坂艦に乗り込み、途中、弁天台場送りとなる新選組同志が下船するのを見送り、東京送りとなりました。
名古屋藩に御預け替えとなり、翌3年1月兵部省より禁錮を解かれ、その後同藩で使役のうえ、明治5年6月許され、自由の身となりました。

上田安達之助は、箱館編成新選組、第一分隊所属隊士です。
元徳川家陸軍兵士、あるいは上総飯野藩とも。
新選組の大橋山三郎の弟、もしくは息子ともいわれています。
江戸の生まれ。
本郷菊坂台町の大橋の宿所に同居。
新選組に入隊するまでの経緯は不明です。

加入後は箱館市中の取締り、数度の戦闘に従軍しました。
明治2年5月15日、守備を受け持つ弁天台場で降伏して、津軽藩御預けとなって謹慎しました。
のちに東京送りとなり、名古屋藩に御預け替えとなりました。
翌3年1月に兵部省より禁錮を解かれ、その後同藩で使役のうえ、明治5年6月許されて自由の身となりました。

本多岩吉は、京都の出身で、姓は本田、名は若吉ともされます。
元御所大工頭・本多庄蔵の二男。

慶応3年6月以降、10月ごろに入隊し、「京都ヨリ会津迄人数」で局長附人数と記録されています。
翌年1月の鳥羽・伏見の戦いを経て江戸へ帰還し、会津を転戦しますが、8月21日の母成峠の戦いに敗走し、仙台で榎本武揚の旧幕海軍に合流して蝦夷に渡航しました。

箱館では新選組第二分隊に所属し、それ以前には西組二番の一員として市中警備の任にあったことが記録されています。
5月15日に弁天台場で降伏しました。
「弁天台場降伏人名簿」に「元嶋田魁家来」と記されていて、入隊には島田の口添えがあったのかもしれません。

弁天台場での謹慎後、青森の明誓寺、弘前の薬王院、青森の蓮華寺、ふたたび弁天台場に収容されたのち、東京へ送られて名古屋藩お預けとなりました。
明治3年1月に禁錮が解かれ、兵部省より名古屋藩に通達されました。
その後、謹慎を続け、同5年6月に元隊士たちとともに放免されています。
新選組大人名事典(上・下)より


金の鯱2 名古屋城1階に展示されていた金の鯱

金の鯱1 愛・地球博に展示されていた金の鯱





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名古屋城

長光寺-維新史跡贈正四位僧月性龍護遺跡

2009年04月11日
坂本龍馬や吉田松陰にも関係がありそうな長光寺(大阪府大阪市中央区島町2丁目2-19)です。
長光寺1357  長光寺2358
龍護は月性の叔父で、長光寺の住職です。
月性が京都や大坂に遊学する折は、この叔父に頼ることが多かったようです。

また庫裡の3階には坂本龍馬や吉田松陰も宿泊したことがあるそうです。
密議を行ったりもしたとか。

月性は西郷隆盛と心中した月照とは別人です。
月性は長州の僧。
字は知園、清狂と号しました。
周防遠崎妙園住職。15歳のとき郷里を出て、江戸、京大坂、上野、北越を遊歴しました。
その時に名士と交わり、詩人としての名は広く知られるようになりました。
「男児立志出郷関」は今でも愛吟されています。

海防の急務を説いて激しく尊皇攘夷を主張しました。
安政3年春、本願寺法主に時務について数千言を作って呈出し、招かれて上京し東山別院に寓居することになりました。
この頃京都は政争の渦中にあり、梁川星巌、頼三樹三郎、梅田雲浜ら過激な尊攘論者が活動しており、月性も彼らと交わり、さらに戦闘的尊攘論者となっていきました。
単身紀伊和歌山に出かけ、その持論である海防急務策を講演して、人々を奮起させ、海防僧などと称されて名を喧伝されるようになりました。
しかし海防の急務を説くことは、それを怠る幕府の批判につながり、幕府から忌諱されるようになりました。

安政4年秋に帰国し、翌5年本願寺から再び招かれましたが、5月に急死しました。享年42歳。

月性は吉田松陰とも親しく、安政2年頃から時事を論じて、詩文の批評を交換しあっています。
長州藩の多くの志士はこの月性の影響を少なからずうけて尊攘運動をするようになりました。
また松陰の希望で金子重輔のために弔詩を全国各地の知友に求めてあげたり、安政5年松下村塾生と藩政府の対立を調停するなど、松陰のために大いに尽力しました。
松陰も深く謝して刑死する前に、『仏法護国論』『清狂吟稿』などの出版を門人に遺言しています。
幕末維新人名事典より


京阪電鉄天満橋駅、大阪市営地下鉄天満橋駅を降ります。
天満橋交差点から、京阪シティモールの前を西へ250m行くと、尼崎信用金庫があります。
その西側の道を渡り南へ(北側は川なので行き止まりです)。
坂を上りながら150mの場所に長光寺があります。

ここに碑があるのは本当に偶然でした。
大坂城や大川沿いの桜を見にいった後、ブラブラと歩いていたら“維新史跡”の文字が…。
月照と月性を混同しつつも、聞いた事があるなと、写真を撮りました。
新選組関係の本ばかりの私の手元には、長光寺の事がかかれた史料がありませんでしたが、どうにか碑に書かれている“龍護”は月性の叔父で、この場所に龍馬や松陰が宿泊した記述をみつけました。
その瞬間、「えっ?! 龍馬と松陰が泊まっていた?」
「うっそぉ~!!」(死語ですね 笑)
と固まってしまいました。

龍馬の事は多少なりとも、調べていたつもりですが、全くしりませんでした。
ここに龍馬が来た?
松陰も来た?
ちょっと信じがたい事でした。
確かにこの坂を下りた辺りが、八軒家浜船着場ですから、京と大坂の行き来に船を使うとここが発着場になるので、この付近に泊まった事は大いにありえます。
龍馬は考えられても、松陰はなかなかイメージと結びつきません。

龍馬もこの坂を上り下りしたのでしょうね。
ん~、当時は大坂城の天守閣は無かったので、今と同じ景色ではありません。
でもこの同じ地を歩いたと思ったら、新選組ファンで幕末ファンとしては嬉しいです。

一本道を入っただけで、人通りも少なくて静かでした。
日曜日だった事もあるのかもしれません。
すぐ東側は大阪府庁や大阪府警、官庁街ですから平日は賑やかなはずです。
長光寺周辺はマンションが多いような場所でした。


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彦根城-井伊直弼像

2009年04月10日
彦根城(滋賀県彦根市金亀町1-1)に建つ井伊直弼像です。
井伊直弼像1  井伊直弼説明文
この銅像は、井伊直弼が最後の官職であった正四位左近衛中将の正装をうつしたのもです。
彦根市教育委員会HPより


井伊直弼です!
肖像画と似てます?!
でっぷりとしたところは似ていますよね。

幕末を語るには忘れてはいけない人ですね。

実際の井伊直弼はどんな人だったのでしょう。
中央の政治家としては敵が多くても、地元の領主としては好かれていたのでしょうか。

先日、甲子園に選抜高校野球を見に行きました。
私は1塁側の外野にいたのですが、彦根東高校の応援は凄かったです。
全員が真っ赤なジャンパーに帽子で、アルプス席5,000が埋まっていました。
彦根東高校は、彦根城内にあるそうです。
やはり地元では、“井伊”は誇りなのですね。
残念ながら、9回サヨナラで負けてしまいました。
でも、あの真っ赤なアルプス席は忘れられません。
ひこにゃんの応援があれば、嬉しかったのに(笑)

井伊直弼も、“井伊の赤揃え”“赤鬼”が現在まで受け継がれていて、嬉しく思っているかもしれまえんね。


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彦根城-遠城謙道之碑

2009年04月09日
彦根城(滋賀県彦根市金亀町1-1)内の遠城謙道之碑です。
遠城謙道1  遠城謙道2
遠城謙道は、旧彦根藩士で通称遠城平右衛門といい、文政6年(1823年)に彦根で生まれました。
15歳で鉄砲隊に入りましたが、藩医「堀田道策」に医術を学んだのを始め、儒学や画も学ぶなどし、特に禅の修業を積んだことで武士の魂を磨きました。

桜田門外の変で、大老井伊直弼公の横死の後、悲憤の余り主君の旧恩に報じようと同志と謀り老中に抗弁するも、果たすことができませませんでした。
追い腹は犬死と判断し、僧となり墓守を勤める決心をし、井伊家菩提寺の清涼寺「俊竜和尚」の元で仏門に入り、名を「謙道」と改めました。

慶応元年、妻と6人の子供を残した謙道は、江戸における井伊家の菩提寺、豪徳寺(東京都世田谷区)に移り、直弼公の墓側に庵を建て終生掃墓、読経をし、37年間霊を慰めました。
説明看板より


井伊直弼にこんなに忠誠を誓った人がいたとは、全然知りませんでした。
井伊直弼の菩提を弔うために、妻子を捨てて仏門に入るのですか。
武士の妻として、妻も我慢したのでしょう。
子供達も“武家”として我慢したのでしょう。
奥方や側室など女性が、夫の菩提を弔う…は、よく耳にします。
夫が妻の菩提を弔うために…も、聞かないという話ではありません。
でもこれは、夫婦という生活をともにする人間関係です。
主君のために…、ない事は無いでしょう。
でも、現代人の私には、納得はいかないですね。

何も家庭を捨ててまでも、仏門に入らなくてもいいのでは?
赤穂浪士のように仇討をするなら、是非はともかく「そうかぁ~。」と思うのですが。
今なら家庭を捨てなくても、菩提を弔う手立てはあると思うのです。
当時はその手立ては無かったのでしょうか?

この碑は偶然見つけました。
遠城謙道という人は、初耳だったのですが、彦根城に関係しているという事は確か。
それに慶応という文字を見つけたので、これは幕末の彦根城に関係しているなと、写真を撮っておきました。
撮っておいて良かったです。


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彦根城

彦根城-槻御殿

2009年04月08日
彦根城(滋賀県彦根市金亀町1-1)の槻御殿井伊直弼誕生の地です。
井伊直弼生誕地

槻御殿1  槻御殿2
彦根城の北に位置する玄宮園は、隣接する楽々園とともに、江戸時代には“槻御殿”と呼ばれた彦根藩の下屋敷です。
槻御殿は、延宝5年に4代藩主井伊直興により造営が始まり、同7年に完成したと伝えられています。
現在は、槻御殿の庭園部分を玄宮園、建物部分を楽々園と称しています。


井伊直弼は、文化11年10月29日、槻御殿で生まれました。
父は11代藩主井伊直中、母は直中の側室富の方。
直中の第14男にあたります。
直弼が生まれたときは、すでに2男直亮が12代藩主につき、直中は槻御殿で隠居生活を送っていました。
直弼は直中が高齢になってからの子であるため、広々とした槻御殿で両親の愛をあつめて育ちました。

直弼が17歳になったとき、父直中が没したため、槻御殿をでて、部屋住の身とならねばなりませんでした。
当時、彦根城下にはいくつかの庶子の部屋住屋敷があり、直弼は弟直恭とともに“北の御屋敷”とも呼ばれた尾末屋敷に入ることになりました。
“埋木舎”はこの屋敷を、直弼みずから名付けたものです。
彦根市教育委員会HP&彦根城博物館HPより


井伊直弼誕生の地です。
ここで生まれ、育ったのですね。
藩主になれなくても、ここで暮らしている方が幸せだったのでしょうか?
それとも、暗殺されても政治の中心で活躍して満足だったのでしょうか?
今と、考え方も違っていると思うので、私にはわかりませんが、途中で暗殺された事は口惜しくても、後悔はしていないのかもしれませんね。

でも14男で藩主になるめぐり合わせも、強運というのか悪運というのか…。
紀州藩主だった徳川吉宗でも4男です。

槻御殿は遠くからしか見ることが出来ませんでした。
天守閣からすると質素(?)なのですが、落ち着いた雰囲気の建物でした。
この黒茶色-渋い茶色の方があってるのかな-がいいですね。
11代藩主が隠居生活していただけあります。
住み心地は良さそうです。

埋木舎は時間の都合で行く事はできませんでした。
天守閣から眺めるだけはできました。


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野口 武彦

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ありがとうございます-新選組流山本陣跡

2009年04月07日
本来ならば、コメント欄にて御礼を申し上げるべきところですが、皆さんにお知らせするにはこちらの方が有効ではないかと思い、この記事にて御礼申し上げます。

新選組流山隊の隊長様より、新選組流山本陣跡について、最新の研究報告についてご教授頂きました。
ありがとうございます。大変勉強になりました。
研究は日々進んでおり、新しい史料をこまめにチェックしなければと、改めて思いました。

私は2002年度の「新選組史跡事典」を参考にしておりましたが、その後の研究で多くの事が判っておりました。
詳細は2009年3月21日の“流山本陣・長岡屋跡”のコメント欄の新選組流山隊隊長様の記述をご覧下さい。

いつになるかはわかりませんが、また関東方面の史跡巡りをしたいと思っていますので、その折は色々とお教えいただければ幸いと存じます。

ありがとうございました。
またよろしくお願い申し上げます。


新選組流山顛末記新選組流山顛末記
(2009/02)
松下 英治

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彦根城-天秤櫓

2009年04月07日
彦根城(滋賀県彦根市金亀町1-1)の天秤櫓です。
天秤櫓1  天秤櫓2
石垣は右側が築城当時の“牛蒡積”、左側が改修による整った“切石積”となっています。
鐘の丸から空壕の天秤櫓の門へかかっている幅2間、長さ8間の橋で、以前はこの橋の上に屋根がついていたので廊下橋と呼ばれていました。
今はその屋根はありません。
この屋根も防備の点から考えられたものと思われる。

牛蒡積
粗雑に見えますが、実は強固な石垣。
天守閣のほか、天秤櫓の石垣も東半分がこの積み方となっています。

切石積
規則正しく切った石を、一定の規則に従って積み上げた石垣。

鐘の丸と本丸の間の小郭にあり、天秤櫓は空濠に面して建てられ、鐘の丸とは廊下橋で結ばれています。
この空濠は表の備えで大手門や表門から鐘の丸に至る道になっており、橋と櫓門によって本丸が独立して防御できるようになっています。
この建物は、井伊年譜によれば慶長8年から11年にかけて営まれたものと考えられます。

天秤櫓は、空濠の底から高い石垣を積んで櫓土台として、この石垣の中央部よりやや東側を一段低くして門を構えています。
櫓の両側にはその名前が示す様に二重の隅櫓を設け、正面から見ればあたかも天秤を模している様に見えます。
二重の隅櫓の背面にはそれぞれに続櫓が作られており、全体を上から見れば「コ」の字型の建物です。
この様に全体は左右対称の構成になりますが、隅櫓の屋根は対称を破る造形になっています。
井伊年譜には、長浜城の大手門を移したことを伝えています。
昭和35年に完成した解体修理の際の調査で、瓦に長浜城主であった内藤家の定紋である上り藤の紋瓦が発見されたため、長浜城大手門を移築したものと見て間違いないでしょう。
彦根市教育委員会HPより


屋根付きの橋というのはあまり聞きませんね。
石垣の積み方にも色々とあるのだと、このころに知りました。
そして牛蒡積の方が強いとも。
適当に積んだようにみえるのに。

ここを通るといよいよ本丸に近づきます。
ワクワクしながら渡りました。
当時の人は、藩主にお目通りや上位層の人達に近くなり、緊張の度合いも高くなったのでしょうね。
そうそう渡れないものなのでしょね。

天秤櫓はとても綺麗でした。。
日本人だからでしょうか、シンメトリーは落ち着きます。
井伊直弼もこの橋を渡ったのかもしれません。
埋木舎の頃は、多少の自由もあったでしょうから、城内を歩く事はあったのかもしれません。
私達が知る頃の井伊直弼ならば歩いて? 駕籠で?
お殿様の生活がよく判らないのですが、外を歩く事は滅多にないのでしょうか?
藩主になってからは、ほぼ江戸暮らしだったでしょうしね。


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日本の城

彦根城-鐘の丸跡

2009年04月06日
彦根城内(滋賀県彦根市金亀町1-1)にある、鐘の丸跡です。
鐘の丸1  鐘の丸説明文
築城当初、城下町に時間を知らせる時報鐘をここに置いていたため、このような名称となっています。
しかし鐘の音が城下北隅に達しないので鐘を現存地の牙城楼門外に移しました。

鐘郭(木原槲)に御守殿と呼ぶ葵章の建築物がありました。
(陸軍省所轄中、明治の初めに大津の営所に移築されました。)
これは元和6年東福門院后西上の時、初め東山道を順路とされるとのことで御泊城の為に新築したものですが、東海道に変更になったために御泊城はなく、以後そのまま保存し平常は封閉していたものです。
毎年夏の土用18カ月間は此処に直孝が使用された大阪陣の際の武器一式(血痕のある蚊帳もある)、及びその他の宝器の虫干はここで行われていました。
井伊氏代々の甲冑の虫干は天守楼で行われていました。
御守殿虫干の守衛は藩士8人に命じて昼夜2人ずつ詰切りでした。
(天守閣には平常藩士がいて虫干の守衛は別に要しなかった。)

御守殿前に井水があり、これは築城の時掘ったもので最も深い平常は封閉して使用を許可しませんでした。
虫干の時に限りこれを使用して飲料としました。
清浄にしてはなはだ良い水であったと伝えられている。
彦根市教育委員会HPより


鐘の丸跡といっても今は“広場”です。
木が多いので、夏は木陰ができて涼しそうです。
人も多くなかったので、ちょっと休憩という時などにいいのではないでしょうか。

それにしても、鐘を置いていたにもかかわらず音が城下に届かないとは…。
設計した人も焦ったでしょうね。
切腹もの?
関係者が無事だといいのですが。
造ってみないと判らないことも多いですよね。


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(2004/10/27)
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彦根城

2009年04月05日
彦根城(滋賀県彦根市金亀町1-1)といえば、大老井伊直弼より“ひこにゃん”でしょうか。
彦根城1  彦根城

彦根城3  彦根城6
譜代大名。25万石。
安政5年4月、藩主井伊直弼が大老に就任、将軍継嗣、条約締結を強引にすすめ、安政の大獄を断行して幕府独裁制の強化をはかりました。
桜田門外の変で横死し、次男直憲が14歳であとを継ぎました。
しかし、幕府の科を受けて直憲差控え、10万石減知に処せられました。

文久3年以降、彦根藩は江戸湾、大坂、禁裏の警衛、天誅組の乱、第二次征長へと苦闘を続けますが、慶応3年暮れに佐幕の姿勢を転じて、鳥羽・伏見の戦いには政府軍として大津を警備しました。
譜代筆頭の当藩の恭順は進退に迷う諸藩の動向を決定付ける効果となりました。
さらに桑名征討、東山道軍進撃の先鋒をつとめ、下総流山で新選組隊長近藤勇を捕え、小山、宇都宮、日光に転戦、5月下旬から甲府城守備、6月には北越新発田へ兵を進ませました。
9月には会津若松城を攻撃、戊辰戦争における活躍は大きいものでした。

彦根城は、関ヶ原の合戦後、彦根藩初代藩主 井伊直政の嫡子・直継と二代藩主・直孝によって約20年の歳月をかけ築城されました。
滋賀県彦根市金亀町にある彦根山に、鎮西を担う井伊氏の拠点として置かれた平山城です。
山は「金亀山」との異名を持つため、城は金亀城(こんきじょう)とも称さています。
多くの大老を輩出した譜代大名である井伊氏14代の居城であった。
白亜三層の天守は、姫路城、松本城、犬山城とならび国宝四城のひとつに数えられています。
幕末維新史事典&彦根市観光協会&Wikipediaより


JR東海道本線(琵琶湖線)彦根駅、近江鉄道彦根駅の西側にそびえたっています。

彦根城といえば、幕末ファンの私は“井伊直弼”を連想します。
戦国ファンは“(井伊の)赤揃え”を連想するようです。
そして特別歴史は…という人は、“ひこにゃん”でしょうか。

彦根城の印象は、“大きい”でした。
大坂城を見慣れているので、各地のお城をみると以外とこじんまりしていると思うのですが、彦根城は大坂城、姫路城と同じような大きいお城だと思いました。
大坂城は鉄筋のエレベーター付きのお城ですが。
お城も大きいですが、城内(今は公園になっている範囲)が広いのですね。
さすが大老井伊家。

これだけ大きなお城だと、家臣も移動が大変でしょうね。
中には方向音痴な人もいたと思うのですが、迷子になる人はいなかったのでしょか?

ちょうど彦根城築城400年祭の期間中だったので、ひこにゃんに会えるかも…と期待していました。
しかしひこにゃんの登場時間が1日2回か3回で、1回30分で、1ヶ所のみだったと思います。
すごく少なくて、短かったのは覚えています。
時間を合わせることが出来なくて、見ることが出来ませんでした。
残念です。
もう少し、城内をウロウロしてくれるのならば、会える可能性もあったのですが。

いくら調べて正確な事がわからなかったのですが、井伊のお殿様、コーヒーか何かのCMに出られていましたよね?
当時で16か17代目あたりの当主の方ではなかったでしょうか?
随分前のことですが、そのCMを見ながら、「へぇ~、井伊直弼の子孫の方がおられるんだ。」
桜田門外の変で殺害されているので、子供はいたのだろうか?と思っていました。
その方が直系の方かはわかりません。
「この方と知り合いの人が羨ましい。」と、つくづく思った記憶があります。

そうですよね、歴史に名を残した人たちの子孫もおられますよね。
総司忌や歳三忌に参加したおり、沖田総司の子孫の方や、土方歳三の子孫の方、榎本武揚の子孫の方などとお会いしていました。
先日はテレビで、今井信郎の孫という方が出ておられ、坂本龍馬暗殺について祖父から聞いた話として、お話をされていました。
子孫の方は、子孫であるが故のご苦労もあるのでしょうね。


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彦根 歴代藩主
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