加納町由来碑

2009年03月31日
加納町由来碑 (兵庫県神戸市中央区加納町6丁目)があります。
加納町由来碑
同郷の陸奥宗光と親交があり、モニュメントに刻まれている加納宗七字も宗七宛の陸奥の手紙が原典です。
戦前までは、今の新神戸駅の生田川畔に銅像が建てられていました。
戦時中の金属回収でいったん姿を消し、今は東遊園地のフラワーロード側に像があります。

加納宗七は、実業家。
宮本助七の次男。
紀伊国和歌山城下分銅町の出身。
紀州藩の御用商人として酒造業や廻船業を営む家業を手伝い、安政4年岸善兵衛の次女・梅乃との結婚にあたって独立し有本屋を興します。
紀州藩においては、伊達五郎(宗興)らの引き手を受けました。

慶応3年11月末京都に上り、伊達の弟・陸奥源二郎(陸奥宗光
※1)を訪ねたことがきっかけで、龍馬殺害を示唆したという噂のある、紀州藩の三浦休太郎襲撃計画に参画する事になりました。
実行役のひとりに選ばれ、数回にわたり協議を重ねました。
この企てにあたっての支度金各4両ずつの出処は、加納が国元から持参した100余両のなかからでした。

12月6日夜、三浦を一力亭の帰途に襲撃しましたが人違いで失敗しました。
続いて、翌7日三浦の宿舎である油小路花屋町下ル天満屋に斬り込みました。
この時加納は、西洞院御前通の角なる河亀に集結し、配布された白手拭を鉢巻にして目印として、天満屋の側面を持ち場として固めました。
正面からの斬り込み隊が突入し、三浦を警護中の新選組と乱闘が繰り広げられ、双方とも死傷者を出しました。

事件後、同志・竹中与三郎を神戸に頼り西之町に居住しました。
材木屋を営み繁盛し、廻船業、船宿の経営と事業を拡大。
明治4年に生田川流路変更の改修工事を請負い、続いて娘婿と共同で旧生田川の川底を埋め立て整備を行いました。
開発された土地には今も加納町の町名が残っています。

また同年5月の台風での船舶被害が大きかったことにより、翌年から約2年かけて港を建設し、入港料金を徴収して運営したといいます。
紀ノ川の改修工事、札幌での牧場経営、大阪上水道建設など数多くの事業を手がけました。
神戸の海岸通4丁目において病没。享年60歳。


※1 陸奥宗光(伊達小次郎、陸奥源二郎、陽之助)は、紀伊国和歌山城下の出身。
海援隊士。
文久3年10月に勝海舟の門下生となり、神戸海軍操練所で修行しました。
慶応元年5月、龍馬の亀山社中に加盟し、3年4月に改編された海援隊にも参加しました。
同年7月、「商方の愚案」と称する意見書を龍馬に提出しました。
9月には、丹後田辺藩や蘭商ハットマンとの商取引に尽力するなど、龍馬の片腕として働きました。

11月に龍馬が暗殺されると、その復讐を同志とともに企て、12月7日、黒幕とみなされた紀州藩の三浦休太郎を天満屋に襲撃しました。
翌4年1月には隊から離れ、新政府に出仕しました。
その後は明治10年の立志社事件に連座して獄中生活を経て、駐米公使、農商務大臣、外務大臣などを歴任しました。
外交問題に手腕をふるいました。
伯爵。享年54歳。
墓は神奈川県鎌倉市扇ヶ谷1丁目の寿福寺。
坂本龍馬大事典&神戸市中央区チラシより


JR東海道本線三ノ宮駅、阪急電鉄・阪神電鉄、ポートライナー、神戸市営地下鉄各三宮駅から、フラワー通を海の方向に歩いていきます。
神戸市役所の南側(海側)に東遊園地という公園があります。
駅前の交差点から約500m。
その一画に加納町由来碑が建っています。
この公園は今では、阪神大震災の追悼式典やルミナリエのメイン会場となっています。

加納宗七が天満屋事件の一人だとは…。
覚えていませんでした。
というより正直、覚えようとしていませんでした。
新選組、三浦休太郎、陸奥陽之助までは覚えていたのですが…。
新選組と死闘を繰り広げた人が、神戸の基礎の基礎を作ったのかと思うと、歴史の意外性を感じます。
新選組ファンとすればさらに複雑です。
が、今の私達の生活を考えると、維新後の加納宗七に感謝するしかないですね。

しかし神戸市中央区加納町の加納が、この人から来ているとは…。
神戸市民ではありませんが、近くに住む者としても知りませんでした。


陸奥宗光とその時代 (PHP文庫)陸奥宗光とその時代 (PHP文庫)
(2003/03)
岡崎 久彦

商品詳細を見る


ビオレ 弱酸UVカット 60mlビオレ 弱酸UVカット 60ml
()
不明

商品詳細を見る

西国街道・髭の渡し

2009年03月30日
西国街道の武庫川を渡るための渡し場、武庫川の渡し、通称・髭の渡し(兵庫県尼崎市常松2丁目468番地先)付近です。
髭の渡し1355  髭の渡し2356
江戸時代に西国街道の武庫川を渡る際、堰堤(ダム)の付近には武庫川の渡しがあり、明治42年に甲武橋がかかるまで渡しは続けられました。
西昆陽村の髭の安兵衛さんの茶屋が近くにあったことから髭の渡しと呼ばれたれたようです。
西行きは西昆陽村と常松村が隔月で、東行きは段上・上大市・下大市村が月番でそれぞれ渡しを担当しました。
川水が少ないときは歩行渡りや仮橋がかけられたりしましたが、増水時は人足・船渡し・連台による渡しが行われ、船頭6人でも船渡しができないと川留めになりました。
現在、行者堂が建てられている東岸河川敷付近に東の渡し場があったと思われます。
尼崎市HPより


阪急電鉄武庫之荘駅から尼崎市バス宮ノ北団地前行きで、「髭茶屋」停留所まで行きます。
バス停から西へ歩くと、武庫川の河原に出ます。
下流方向を見ると、橋が架かっているのが見えます。
その橋の方に少し歩いた付近に、髭の私の説明看板たっています。

写真は秋のコスモス畑です。
髭の渡し付近の河川敷が一面、コスモス畑になります。

この髭の渡しを新選組の誰かが渡ったのどうかはわかりません。
しかし参勤交代の大名も渡ったようなので、西国に出張した隊士や、西の方から新選組に入隊しようと京に向かった人は渡ったかもしれません。
長州や薩摩はこの川より向こう、西にあるので、長州藩士や薩摩藩士で渡った人がいた可能性は大きいかもしれませんね。
私の知っている人でここを渡った人はいるのでしょうか?

余談ですが、川の向こうは西宮市です。
髭の渡しの真向かい、西宮市側に見えるのは甲子園で有名な高校です。
春の選抜、現在(2009年3月30日)勝ち進んで、ベスト4に進出しています。
頑張れ!
甲子園も近いので、是非新しくなった甲子園にも寄ってみてください。


髭の渡し―西国街道髭の渡し―西国街道
(2006/12)
渡辺 芳一

商品詳細を見る


尼崎市 髭の渡し

西宮砲台

2009年03月29日
勝海舟の計画による西宮砲台(兵庫県西宮市西波止町西波止5374の1)です。
西宮砲台
国防不安を感じた江戸幕府は、勝海舟の建策をいれて大阪湾沿岸に砲台を築きました。
西宮砲台はそのひとつです。
文久3年に着工し、完成は慶応2年下半期でした。
石造三層の円堡で、内径約17m、高さ約12m、壁厚1.21m(1階底部1.53m)。外部は厚さ9㎝で油石灰5遍塗、上塗薄墨色塗。上塗りの色調は迷彩でしょうか。
1階床叩土、中央に井戸を掘り、一部を弾薬庫(床板敷)に当て、2階木造、側面に砲眼11個と窓1個を開き、大砲2門をすえて、筒口を四方に向ける装備でした。
空砲を試射したところ、砲煙が堡内に立ちこめ、実用に向かなかったといいます。
幸い使用に至らずして明治維新を迎えました。

その後、明治17年火災のため内部の木造構架を焼失しましたが、石槨部分はなおよく築造当時の面影をとどめ幕末の世相を偲ぶことができます
しかし内部に入ることはできません。
昭和9年の室戸台風による被害のあと屋根の復元工事を行い、また昭和49年から50年にかけて鉄骨による石槨の補強工事を施工、かねて外装を整えました。
Wikipediaより


阪神電鉄香櫨園駅の下を流れる夙川に沿って、海まで下って行きます。
海に面して香櫨園浜が広がっていますが、その浜の東端に旧西宮砲台が建っています。

砲台は西宮と今津に造られたそうです。
今津の方は神社に記念碑が建てられているそうです。
今度行って見ないと。

私がここを訪れたのは、妹が車の免許を取って、ようやく少し慣れてきた頃でした。
ドライブしたいというので、私が「西宮砲台に連れて行って」と言った記憶があります。
私は免許がないので、横に乗っていてもそれが、危うい運転なのか上手な運転なのかわかりませんでした。
だから横に乗っていられたんだと、後になって友人にいわれました(笑)
そんな感じで西宮砲台に行ったので、周りの様子などはあまり覚えていません。

砲台跡のすぐ後ろが防波堤で、砲台跡の周りに草が生えていたのは覚えています。
また、もう少し東にはヨットハーバーがあり、ヨットが多く係留されていた風景はありました。

今、西宮砲台の前海には、昭和50年頃から埋立て造成された西宮浜があります。
なので今、この砲台から攻撃してもほとんど意味がなくなっています。
それにしても、試し撃ちをしたら内部が煙だらけになって、何も見えなくなっては明らかに設計ミスというのか、技術が伴っていませんね。
東京の第三台場を「無意味」と言い切った勝海舟が建策した砲台なのですから、大いに期待があったはずなのですが…。

台風の後に復元工事をされたのなら、中に入れるように補強工事などもしてもらえると嬉しかったのに…。
外からだけしか見られないのは、とても残念です。
新選組が直接関係していなくても、幕末のからある建物です。
それにしても、江戸時代に形だけは近代的な、こんな建物をよく思いついたと感心します。


輝け甲子園の星 2009早春号 (2009) (NIKKAN SPORTS GRAPH) (NIKKAN SPORTS GRAPH)輝け甲子園の星 2009早春号 (2009) (NIKKAN SPORTS GRAPH) (NIKKAN SPORTS GRAPH)
(2009/01/31)
不明

商品詳細を見る


幕末 砲台

東京タワー

2009年03月28日
東京タワー(東京都港区芝公園四丁目2-8)です。
東京タワー137
正式名称は建築主に因み「日本電波塔」です。

放送事業の将来性に着目した前田久吉と鹿内信隆によって計画されました。
当時、相次いで開局する各放送局の電波塔を一本化しようという構想でした。
塔はフランス・パリのエッフェル塔の324mより8.6m高く、当時の自立式鉄塔としては世界最高でした。エッフェル塔をこすためにこの高さになりました。
前田は「建設するからには世界一高い塔でなければ意味がない。科学技術が進展した今なら必ずできる」と高さの意義を強く主張しました。
本来東京全域に電波を送るには380mの高さを必要とされていたが、風の影響でアンテナが揺れ画像が乱れる可能性があったため、影響を受けないぎりぎりの寸法として全高333mと「3」が続く語呂合わせのような高さになりました。

「東京タワー」の名称は完成直前に開かれた審査会で決定しました。
事前に名称を公募し、最終的には86,260通の応募が寄せられました。
一番多かった名称は「昭和塔」で、続いて「日本塔」「平和塔」でした。他には当時アメリカとソ連が人工衛星の打ち上げ競争をしていたことから「宇宙塔」、皇太子明仁親王(今上天皇)の成婚が近いということで「プリンス塔」という応募名称もありました。
しかし名称の査会に参加した徳川夢声が「ピタリと表しているのは「東京タワー」を置いて他にありませんな」と推挙し、その結果「東京タワー」に決定しました。
「東京タワー」での応募は223通(全体の0.26%)だった。

昭和32年6月29日に増上寺の墓地を一部取り壊して建設が開始されました。
Wikipediaより


都営地下鉄大江戸線赤羽橋駅を出て、北へ歩きます。
東京タワーですから遠くからでも見えますよね。
迷う事はないと思うのですが。

東京近郊の人は東京タワーにわざわざ登らないんですよね?
関西の私が通天閣に登らないように。
(大人になってから、1度だけ登ってみました。)

東京タワーはやはり高いですね。
東京全体の雰囲気を見るにはやはり高い所はいいですね。
高いところ好きですし。
通天閣も負けじと、700mぐらいの塔に建て替えてみてはどうでしょう?
でもあの形であの広告だからこそ通天閣なんでしょうね。
って負け惜しみ?!

しかしもうすぐ、新東京タワー(東京スカイツリー)が出来てしまうのですね。


東京タワー オカンとボクと、時々、オトン [DVD]東京タワー オカンとボクと、時々、オトン [DVD]
(2007/04/20)
田中裕子大泉洋

商品詳細を見る


通天閣
東京スカイツリー

浅川-石田散薬(牛革草)

2009年03月28日
浅川(東京都日野市)です。
多摩川
浅川だと思います。多摩川ではないはず…。

多摩川は、山梨県・東京都・神奈川県を流れる多摩川水系の本流で一級河川。
全長138km、流域面積1,240km²。


浅川は、東京都八王子市および日野市を流れる一級河川。多摩川の支流のひとつです。
東京都八王子市・神奈川県相模原市の境目にある陣馬山(857m)や堂所山(731m)に源を発し東へ流れ、日野市石田付近で多摩川に合流します。
小仏峠を源流とする南浅川の合流地点(八王子市役所付近)より上流を通称として北浅川と呼びます。。
八王子市楢原町付近(中央自動車道の架橋下付近)の流域では、メタセコイヤの化石や象の一部の化石が発見されています。

流路の長さに比べて川床が高く傾斜が急なため、度々氾濫し流路を変えてきました。
たとえば日野市の新井橋を挟んで両岸に新井という地名がありますが、これは浅川の流路変更によって分断されたためです。
かつての浅川は今よりももっと南を流れており、多摩川との合流地点も、もっと下流の関戸橋付近にあったことが知られています。


<石田散薬>
土方歳三生家が代々、宝永年間から伝える骨接ぎ、打ち身の妙薬です。
原料は多摩川、浅川などに野生する牛革草(みそそば)を土用の丑の日採取、陰干しにして、のち、黒焼きにして粉にする。
服用の際には必ず酒で飲む。

これと同じ原料と製法の「虚労散」は、佐藤彦五郎家家伝のものですが、これは白湯で服用します。
両薬とも新選組の常備薬でした。

「虚労散」は肺病の薬です。
石田散薬原料の牛革草は、当時、村総出で採集されました。
その時は、まるで戦争のような騒ぎで、その大勢の人々を指揮したのが土方歳三で、采配は見事だったといいます。
その薬を売り歩いたのも土方歳三でしたが、成績はあまり芳しくありませんでした。
販売先は、武州・相州20里四方に及び、甲州にまで渡るといわれています。

土方家に現在、当時の卸先台帳が保存され、また薬を売り歩いた薬箱、薬つぼ(木製。京都から歳三が送ってきたもの)などがあります。
第二次世界大戦過ぎまで石田散薬は売られていました。

本当に薬効があったかは疑わしく、昭和23年、薬事法改正に伴う製造販売許可申請において、厚生省は「成分本質効能に関する客観性のある科学的調査研究がなされていない」として石田散薬に限らず、黒焼き全ての薬効を認めないという方針を示しました。
しかし、「石田散薬しか飲まない」と言って聞かなかった老人もいました。
今でも土方歳三資料館には製造中止した頃の石田散薬が僅かに残っていますが、土方家の人は「古く怖くて飲めない」と言っています。

また、牛革草自体はリューマチ、止血、鎮痛に効果のあるれっきとした薬草ですが、石田散薬は黒焼きにしたため薬効が台無しになってしまったと考えられます。
新選組大事典&Wikipediaより


写真は京王線高幡不動駅から、日野市石田の“石田寺”へ向かう途中に撮りました。
なので多摩川ではなく、浅川だと思います。

牛革草は多摩川、浅川に生えているようですね。
こんな河原で土方歳三が指揮を執って、採集をしたのかと想像すると、戦場のようだといいながらも平和で長閑な風景が浮かびます。
私も土方歳三の指揮下で、採集作業に参加してみたいです。
土方歳三に見惚れて、作業がはかどらないかもしれません。
一刀両断されるかも…。

ここで石田散薬作りを手伝い、行商していた頃に戻りたいと思ったことは無かったのでしょうか。
箱館で命を落とすことになっても、駆け抜けた人生の方が望んだ生き方だったのでしょうか。
き歴史の中に身を置いた人生の方を選んだ事に満足してそうですよね。


懐かしの家庭薬大全懐かしの家庭薬大全
(2003/05/30)
町田 忍

商品詳細を見る


軍手とタオルの圧縮セット軍手とタオルの圧縮セット
()
不明

商品詳細を見る


東京都日野市

江戸川

2009年03月27日
千葉県流山市流山6の光明院の近くからみた江戸川です。
江戸川2  江戸川3
関東地方を流れる一級河川。
利根川水系の分流で、流路延長59.5km(旧江戸川河口より)、流域面積約200km²です。
茨城県、千葉県、埼玉県、東京都の1都3県に及びます。
Wikipediaより


土方歳三や近藤勇もこの江戸川を渡りました。
この日は雨の為、水量が増していたようですが、普段の水量はどれぐらいなのでしょうか?
簡単に渡れる川ですか。

“箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川”といいます。
これは江戸防衛のために大井川には橋を架けなかったのですが、今見渡しても江戸川に橋がみあたりません。
やはり江戸川も渡りにくい川だったのでしょうか?
浅い川だと濡れながらも、川の中を歩いて渡れますが…。

防衛の為には川は大いに役立ちますが、いざ自分が攻めたり、敗走するとなると大変な難所になってしまいますね。

しかし私がこの江戸川を見て思ったのは、「江戸川って大きい川なんだ。」でした。
次の瞬間思い浮かんだのは、“江戸川乱歩”や“江戸川コナン”という名前でした。
人の名前では耳にしていた“江戸川”ですが、本物の川を見て、「江戸川って本当にあるんだ~。」と変な感心をしてしまいました。


パノラマ島綺譚―江戸川乱歩全集〈第2巻〉 (光文社文庫)パノラマ島綺譚―江戸川乱歩全集〈第2巻〉 (光文社文庫)
(2004/08)
江戸川 乱歩

商品詳細を見る


名探偵コナン 64 (少年サンデーコミックス)名探偵コナン 64 (少年サンデーコミックス)
(2009/04/02)
青山 剛昌

商品詳細を見る


江戸川

多磨霊園-参考

2009年03月27日
多磨霊園(東京都府中市多摩町4)の幕末関係のお墓です。

阿部正外の墓(6区1種5側1番) 白河藩7代目藩主。生麦事件の解決にあたりました。明治20年4月24日病没。享年60歳。昭和2年に台東区西福寺より改葬されました。

安藤直裕の墓(4区1種14側) 和歌山藩付家老・田辺藩主。明治18年4月4日死去。享年65歳。千代田区麹町栖岸寺より改葬されました。

池田慶徳の墓(1区1種1側3番) 鳥取藩12代目藩主。京都で急性肺炎のため明治10年8月3日死去。享年41歳。墨田区興福寺に埋葬されましたが、関東大震災後、敷地の一部が隅田公園となるため強制疎開を命じられ、大正13年8月に改葬されました。

大石団蔵の墓(22区1種5側11番) 土佐郷士。土佐勤王党。吉田東洋暗殺。のち薩摩藩邸に移り、奈良原家の養子となり、薩摩藩士高見弥市と改名。明治29年2月28日病没。享年66歳。最初、鹿児島市草牟田に葬られましたが、昭和2年に改葬されました。

大久保一翁の墓(11区1種2側3番) 幕臣。若年寄。自分が没する15年前に墓を建立し、明示21年7月31日死去。享年72歳。青山霊園に葬られましたが、道路拡張のため昭和12年に改葬されました。

小笠原忠忱の墓(2区1種4側11・12番) 小倉藩主。父親の死を秘匿し、喪を公表して家督を相続した時は5歳で香春藩主となりました。東京府市谷の自邸において明治30年2月5日死去。享年36歳。第二次世界大戦後、浅草海禅寺より改葬され、巨大な合葬碑となっています。

狩野良知の墓(8区1種13側21番) 秋田藩士。明治39年12月14日病没。享年78歳。

河田左久馬の墓(11区1種12側) 鳥取藩士。赤坂で明治30年10月12日死去。享年70歳。青山の梅窓院より改葬されました。

川村純義の墓(11区1種2側6番) 薩摩藩士。薩英戦争で英軍捕虜となりました。坂本龍馬が裏書した薩長盟約の条文を村田新八と長州に届けました。会津の白河口の戦いで猪苗代湖口の十六橋を占領。明治37年8月12日死去。享年69歳。青山霊園より改葬されました。

黒木為の墓(8区1種2側1番の2) 薩摩藩士。旧姓帖佐。肺炎のため東京市青山の自宅において大正12年2月3日午後10時死去。享年80歳。墓碑には4日と刻まれています。

小泉信吉の墓(3区1種17側3番) 和歌山藩士。維新後官立開成学校教授。大蔵省や慶応義塾の塾頭を務めました。明治27年12月8日死去。享年46歳。

児玉源太郎の墓(8区1種17側1番) 徳山藩士。献功隊半隊司令。維新後は陸軍大将。明治39年7月24日病没。享年55歳。

西園寺公望の墓(8区1種1側16番) 公家。権中納言。昭和15年11月24日死去。享年92歳。世田谷区の西園寺家墓地より改葬されました。

西郷従道の墓(10区1種1側1番) 薩摩藩士。隆盛の実弟。寺田屋事件に参加して謹慎。胃癌のため明治35年7月18日死去。享年60歳。西郷家は代々、名前を従(じゅう)と読ませています。

酒井忠美の墓(4区1種21側) 勝山(加知山)藩主。大正12年3月13日死去。享年66歳。昭和2年11月、貝塚青松寺より改葬されました。

柴山愛次郎の墓(10区1種13側37番) 薩摩藩士。道隆。兄は良助、弟は矢八。寺田屋事件で鎮撫使の山口金之進に斬られました。文久2年4月23日死去。享年27歳。

柴山良助の墓(10区1種13側37番) 薩摩藩士。弟愛次郎が寺田屋事件に連座したため謹慎帰藩。慶応3年の薩摩藩邸焼き討ちの弁明に努めましたが伝馬町の牢に投獄されました。慶応4年1月9日、短銃で自殺。享年35歳。墓は戊辰戦争に従軍した三男の矢八の墓域にあり、右側が矢八、左側が良助・愛次郎です。

進藤俊三郎の墓(7区1種5側9・10番) 但馬国佐嚢村佐中農民。原六郎。但馬農兵を組織。生野挙兵に参加。長州遊撃隊に入り小倉戦争に参加。戊辰戦争では山国隊司令士。熱海の別邸で昭和8年11月14日死去。享年92歳。墓は原家之墓と刻まれていて、20年ほど前に品川邸から移した銅像が建てられています。

長三洲の墓(12区1種17側22番) 儒学者・奇兵隊士。長谷主馬・炗。東京において明治28年3月13日死去。享年63歳。

長梅外の墓(12区1種17側22番) 医者・儒学者。南梁。東京において明治18年10月28日病没。享年76歳。長家の墓は青山霊園より改葬されました。

土井利恒の墓(1区1種2側8・9番) 大野藩主。明治26年3月29日死去。享年46歳。
最初、浅草誓願寺に葬られましたが、昭和3年9月30日付で大野市善導寺と併せて11名が改葬されました。同区4側1・2番の敷地は分家の墓です。

東郷平八郎の墓(7区特種1側1番) 薩摩藩士。戊辰戦争、宮古湾の海戦などに参加。日露戦争で名を馳せ元帥となりました。昭和9年5月30日死去。享年88歳。

徳大寺実則の墓(8区1種1側1番) 堂上公家。明治天皇が崩御されるまで侍従長。大正8年6月4日死去。享年81歳。谷中墓地より改葬されました。

本多忠民の墓(3区1種25側) 岡崎藩主。老中。東京の森川邸にて明治16年1月29日死去。享年67歳。菩提寺は浅草の誓願寺でしたが、関東大震災により焼失。府中市紅葉丘へ移転したさい、檀家の墓は多磨霊園に移されました。

本多康穣の墓(12区1種3側1・2番) 膳所藩主。脳溢血で明治45年2月28日病没。享年78歳。昭和10年3月3日に豊島区染井霊園より改葬されました。

松平直哉の墓(10区2種16側8番の2) 母里(もり)藩主。明治33年1月3日死去。享年53歳。港区天徳寺より改葬され、合葬墓が建てられました。

間部詮勝の墓(4区1種29側) 鯖江藩主。大坂城代。京都所司代。老中。明治17年11月28日死去。享年81歳。最初、花川戸九品寺に葬られましたが、関東大震災後の都市計画により、同寺の墓域はすべて多磨霊園に移されました。

渡辺国武の墓(14区1種1側10番) 高島(諏訪)藩士。第二次伊藤博文内閣の大蔵大臣と逓信大臣。子爵。大正8年5月12日死去。享年74歳。
幕末維新江戸東京史跡事典より


西武多摩川線多磨墓地前駅の西側すぐです。

多磨霊園は大正12年に開園されたようなので、こちらに改葬されたお墓が多いようです。
東郷平八郎が埋葬されたことで、多磨霊園が有名になったそうです。
東郷平八郎は日清・日露戦争の頃の人で名前は聞いていましたが、薩摩藩士だったのは知りませんでした。
さらに戊辰戦争や宮古湾攻撃にも参加していた事は驚きでした。
幕末維新関係者でもあったのですね。
歴史を見ていると、アッと驚くことばかりです。

この場所はどこですか?

2009年03月26日
(流山付近4)
   Where is this place?

この写真の場所が全く判りません。
この後、大林院跡かと思われる雨の暗闇の道路の写真を撮ったのです。
なのでその近くの場所で撮ったと思うのです。

なぜ撮ったのか。
場所はどこなのか。

大林院跡のひとつの候補だったのでしょうか?
新選組関係でしか写真を撮らなかったので、なんだかの史跡か説がある場所のはずなのですが。

この不鮮明な写真をみてどこだか判りませんか?
千葉県市川周辺にはほぼ間違いないはずです。

池上本門寺墓地-参考

2009年03月25日
池上本門寺墓地(東京都大田区池上本門寺池上1丁目1-1)の幕末関係のお墓です。

阿部正蔵の墓(朗子会館裏手側) 江戸北町奉行。白河藩五代目藩主阿部正定と、七代目藩主阿部正外の実父。北町奉行遠山左衛門尉景元の後任。
嘉永元年8月7日死去。墓碑には生年もなく、過去帳も焼失しているため年齢は不明。
現在、五重塔のそばに阿部一族の墓がまとめられています。

大村藩士の合葬碑(西条藩松平家墓地隣接) 以前は西条藩松平家墓地と隣接して、大村藩関係者の墓が一画を占めていましたが、戦後、青山霊園などに改葬され、昭和39年秋には菩提寺の長崎県大村本経寺にほとんどの墓碑が移されました。
そのため、土台の部分に大村藩士の名前を刻んだ「大村家旧藩士之墓」という合葬碑が建てられました。
その中には、
針尾志馬山口茂助(明治元年9月15日東京で歿)の名前があります。
墓域内には、藩主大村純凞の嗣子の
純雄の墓も残されています。

岡本柳之助の墓(五重塔より松平家墓地に続く参道沿い) 和歌山藩士。明治45年5月14日、上海の豊陽館において客死しました。享年61歳。

河上彦斎の墓(細川家墓地) 熊本藩士。佐久間象山を暗殺。維新後も攘夷思想を持ち続けた為、明治4年12月3日東京市谷監獄において処刑。享年38歳。
最初、妙解院の白雲奄(品川区東海寺少林院)に葬られましたが、のちこの場所に改葬され、昭和2年に慰霊碑が建てられました。

竹本正雅の墓(善国寺墓地) 幕臣。明治元年10月7日死去。享年43歳。最初、新宿区の善国寺に葬られましたが、明治9年頃この場所に改葬されました。

十九貞衛の墓(承教寺墓地) 大村藩士。無声隊参謀。東京において明治25年12月2日死去。享年63歳。

野口之布の墓(法養寺墓地付近) 加賀藩家老。高杉晋作らと交わりました。加賀藩勤王党の先駆け。明治31年3月22日死去。享年69歳。

花房義質の墓(五重塔より松平家墓地に続く参道沿い) 岡山藩士。適塾に入門。東京市芝区白金台町2-9の自宅で、心臓麻痺のため大正6年7月9日死去。享年76歳。

松平頼学の墓(西条藩松平家墓地) 西条藩9代目藩主。慶応元年8月14日死去。享年58歳。

松平頼英の墓(西条藩松平家墓地) 西条藩10代目藩主。東京市麻布区飯倉片町の自宅で、明治38年12月3日死去。享年63歳。
幕末維新江戸東京史跡事典より


都営浅草線西馬込駅から国道1号を南へ500m行くと、本門寺入口交差点です。
そこから本門寺へと入ります。

私はまだお参りした事がないのですが、河上彦斎のお墓にお参りしたいです。


新剣豪伝 巻の4 (4)~三代の秘剣・伊庭八郎/人斬り彦斎・河上彦斎~新剣豪伝 巻の4 (4)~三代の秘剣・伊庭八郎/人斬り彦斎・河上彦斎~
(2009/02/13)
早乙女 貢

商品詳細を見る


江戸を斬る II [DVD]江戸を斬る II [DVD]
(2008/11/21)
西郷輝彦松坂慶子

商品詳細を見る


池上本門寺

大林院跡?

2009年03月25日
大林院跡(千葉県市川市)については、諸説あるようです。
(流山付近5)
私が千葉の史跡巡りに連れて行って貰った時に、このあたりに大林院があったようだと教えてもらって撮った一枚…だと思います。
雨が降り、日は落ちて真っ暗、とりあえず片手でカメラのシャッターを押したのがこの写真です。
市川市市川1丁目付近だったかな?

水戸佐倉道分間延絵図から、だいたいの位置を推測するそうです。
絵図では「大林房」。現在は普通の住宅地になっているそうです。
歴史博物館では、この普通の住宅地の説のようです。
すぐ南側には手児奈霊神があります。
すぐ北には弘法寺があります。

大林院跡(千葉県市川市市川1丁目24-2)
新政府軍に抗戦するため市川に集結した旧幕臣たちが、慶応4年4月12日に軍議を開いた寺です。
前日から国府台(鴻ノ台)に総寧寺に屯集していた1,400人の兵に加え、この日、旧幕府歩兵奉行の大鳥圭介が1日遅れて、市川宿に到着しました。
大鳥の率いる伝習隊(小川町大隊)は約600の軍勢で、旧幕府脱走軍は合計2,000人余の兵力にふくれ上がりました。

当日の軍議では、全軍を指揮する総督として大鳥圭介が選出され、土方歳三も参謀に就任しています。
新選組隊士は7名しか参加していないのですが、こうして抜擢されたのは、新選組副長として活躍した京都時代の実績が評価されたようです。
また、軍議の結果、全軍は前、中、後の三軍に分けられ、前軍は会津藩士秋月登之助および土方が率い、中、後軍は大鳥直接指揮を執ることになりました。
12日のうちに全軍は市川を出発し、宇都宮、日光方面へ進軍を開始しました。

大林院は、現在廃寺となって建物は残っていません。
市川市真間4丁目の弘法寺の塔頭であったといいますが、弘法寺にも当時の記録や伝承が残されていません。
大林院跡地は、市川市西消防署が建てられています。

土方歳三写真集では、市川市西消防署脇の自然幼稚園前の公園付近を、新選組史跡事典では、市川市西消防署が写真で紹介されています。
新選組史跡事典&土方歳三写真集などより


市川市西消防署と自然幼稚園前の公園を大林院跡として訪れるならば、
JR総武本線市川駅北口を出ます。国道14号を右に曲がると、左斜め前方に西消防署の高い建物があります。
その横の道を入ると、幼稚園前の公園があります。

弘法寺(千葉県市川市真間4丁目4)の辺りに行くならば、JR総武本線市川駅西端から伸びる道をまっすぐ北に直進します。約1㎞、本当に直進のみで弘法寺です。

軍議が開かれ、土方歳三も参加。
参謀に就任しているというと、新選組の史跡としては第一級の史跡ではないですか。
それなのに私の記憶は曖昧すぎです。
反省。それ以前に口惜しいです。
ちゃんとメモを取るなりしておかなかった自分がイヤになります。

写真の場所も不明ですが、お寺に行った帰り道で、駅に向かう途中だった記憶があります。

範囲としてはそれほど広い範囲ではなく、ある程度の範囲で大林院があった場所は推測されているようです。
流山周辺については、確定されている事柄が少ないですね。
近藤勇の陣屋さえも確かなものではありませんでした。
新選組が一番混乱していた時だったのでしょう。
一つ一つを記録に留める間もなく、次から次へと状況が変化していったのでしょう。
その土地に人たちも、いろいろと起こり過ぎて知りえた時には、もうそれは過去のものになっていたのかもしれませんね。

少しずつでも新しい事実がわかればいいのですが。


「花と木の名前」1200がよくわかる図鑑「花と木の名前」1200がよくわかる図鑑
(2005/09)
阿武 恒夫

商品詳細を見る

雑司が谷霊園-補遺

2009年03月24日
雑司が谷霊園(東京都豊島区南池袋4丁目25)のその他の幕末関係のお墓です。

岩瀬忠震の墓(1種1号8側) 幕臣。日露和親条約に調印。日米修好通商条約調印。文久元年7月11日死去。享年44歳。

佐々木一の墓(1種5号27側38・39番) 新選組隊士。並河一。宇都宮市の次男宅で大正15年5月24日死去。享年76歳。

沢為量の墓(1種1号3側) 公家。七卿落ちの沢宜嘉は養子。明治22年8月9日死去。正二位。

中島錫胤の墓(1種4A号2側) 徳島藩士。京都足利三代木像の梟首に関与しました。明治38年10月4日死去。享年77歳。男爵。
幕末維新江戸東京史跡事典より



新選組大人名事典 (上)新選組大人名事典 (上)
(2001/02)
新人物往来社

商品詳細を見る


雑司ヶ谷霊園

布施弁天東海寺

2009年03月24日
布施弁天東海寺(千葉県柏市布施1738)です。
紅龍山1?

紅龍山2?  紅龍山3?
水海道方面へ向かった土方歳三らは、七里ヶ渡しから利根川を越えたのでしょうか?
『谷口四郎兵衛日記』によると、「13日、布施弁天駅泊陣/14日、滞陣」とあります。

JR常盤線北柏駅を降りて、国道6号を東へ約600m、根戸交差点から国道を離れ北へ曲がります。
柏市総合運動場横の分岐を一番右(東)の道路へ。
さらに約1.8㎞、あけぼの山公園の北側にあります。

あるいは、我孫子駅北口より「あけぼの山公園」行にて終点徒歩10分位。
柏駅北口より4番バス停「布施」行にて終点 。

片道は歩いた記憶があります。
烏の大群が電線に止っていて、不気味でした。
幸い3人で歩いていたので、負ける気はしませんでしたが。

さて布施弁天東海寺になぜ行ったのか…。
柏市に住んでいた、新選組仲間に連れて行ってもらったので、ちゃんと判って行っていなかった事がまるわかりですね。すみません。
「土方歳三が泊まった。」というような事は聞いていました。
利根川がすぐそこなので、通り過ぎた可能性はあると思います。

その後、新選組研究家の先生にお会いした時に、聞いてみたのですが、「聞いた事あったかな?すぐに思い出せない。」というような事でした。
なので、新選組研究の中でもまだはっきりと判明していないようでした。
その後の研究でわかったのかもしれませんが、私はそこまでまだ勉強できていません。
すみません。


新選組に関係がある可能性が高いという史跡ですので、紹介しておきます。
詳しいことをご存知の方、ぜひ教えて下さい。


刻謎宮(1) (講談社文庫)刻謎宮(1) (講談社文庫)
(2006/10/14)
高橋 克彦

商品詳細を見る


千葉県柏市

染井霊園-参考

2009年03月23日
染井霊園(東京都豊島区駒込5-5・7-2~4)の幕末関係のお墓です。
染井霊園は明治5年11月に開かれました。
もと播州林田藩建部家と津藩藤堂家の屋敷跡です。

私はまだお参りする機会がないのですが、参考に書き出しておきます。

井上正直の墓(1種イ8号6側) 遠江浜松藩藩主。文久・慶応年間に老中を務めました。明治37年死去。享年68歳。正三位。子爵。

井上正順の墓(1種イ7号6側) 下総高岡藩藩主。明治37年1月6日死去。享年51歳。

小河一敏の墓(1種ロ1号4側) 豊後岡藩士。東京深川の自宅で明治19年1月30日病死。享年74歳。正五位。勲五等。

酒井忠績の墓(1種イ4号16側) 姫路藩藩主。文久3年に老中上座、慶応元年に大老。明治28年11月30日死去。享年69歳。墓の左側に顕彰碑が建っています。

酒井忠惇の墓(1種イ4号8側) 姫路藩藩主。慶応3年老中上座。姫路城は無血開城。明治40年11月10日死去。享年69歳。

宍戸璣の墓(1種イ3号1側) 長州藩士。吉田松陰の兵学門下生。明治34年10月1日死去。享年73歳。子爵。

下岡蓮杖の墓(1種ロ6号5側) 写真師。慶応3年横浜弁天町に写真館を開業。大正3年3月3日死去。享年92歳。

坪井信良の墓(1種イ8号6側) 医師。福井藩主松平慶永に招かれ、藩侍医および教授。安政4年、将軍の奥医師となり、家定、慶喜に侍しました。明治37年11月9日死去。享年82歳。

藤堂高猷の墓(1種ロ4号8~12側) 津藩藩主。明治28年2月9日死去。享年83歳。
津藩下屋敷は現在の駒込4、5丁目、巣鴨2丁目と文京区駒込6丁目の一部にありました。染井霊園もその中に含まれています。

徳川昭武の墓(1種イ5号14側) 水戸藩藩主。徳川斉昭の18男。徳川慶喜が実兄。本所の屋敷で明治43年7月3日死去。享年58歳。
茨城県常陸太田市の瑞龍山に埋葬されました。


戸田光則の墓(1種イ2号9側) 信濃松本藩藩主。明治25年死去。享年65歳。

土方久元の墓(1種ロ6号12側) 土佐藩士。楠左衛門。土佐勤王党。七卿と長州に落ちました。大正7年11月4日死去。享年86歳。伯爵。従一位。勲一等。墓所は正面に「奏山堂」と彫られた石室です。

福岡孝弟の墓(1種イ8号3側) 土佐藩士。吉田東洋門下生。新おこぜ組を結成。大正8年3月5日死去。享年85歳。子爵。従一位。勲一等。

松平定敬の墓(1種イ4号2側) 桑名藩藩主。京都所司代。京都守護職松平容保は実兄。明治41年7月21日死去。享年63歳。
染井霊園開設には、定敬の高祖、松平定信が始めた積立金も使われました。

松浦詮の墓(1種ロ4号) 肥前平戸藩藩主。明治41年4月13日病没。享年69歳。広い墓域中央の土饅頭型の墓です。

山脇十左衛門・隼太郎の墓(1種イ4号19側15番) 桑名藩士。十左衛門の長男が隼太郎。
十左衛門は明治11年8月26日死去。享年59歳。墓碑には山脅臥雲とあります。
隼太郎は明治38年5月6日死去。享年57歳。
幕末維新江戸東京史跡事典より


都営三田線巣鴨駅を降りると、国道17号を板橋(北、とげぬき地蔵)方面へ歩きます。
約250mで東側に染井霊園が見えてきます。

染井霊園の幕末関係のお墓には、藩主が多いですね。
藩邸跡に造られたということも関係しているのでしょうか。


ビジュアル版 最後の藩主 四七都道府県別の幕末維新ビジュアル版 最後の藩主 四七都道府県別の幕末維新
(2004/11/19)
監修・八幡和郎

商品詳細を見る


染井霊園

総寧寺

2009年03月23日
総寧寺(千葉県市川市国府台3丁目10-1)です。
安国山総寧寺

安国山総寧寺2  安国山総寧寺3
慶応4年4月11日、江戸城が開城されたとき、新政府軍への抗戦を主張する旧幕臣らが下総市川の国府台(鴻ノ台)に集結しました。
そのさいに兵士たちの宿舎になったといわれています。
兵士の内訳は、伝習隊(大手前大隊)700、七聯隊350、桑名藩隊200、土工兵200の計1,400人余で、新選組からも土方歳三以下7人が参集しました。

新選組本隊は流山から会津方面へ向かっていたため、近藤勇を救出する工作のために江戸に潜入していた土方と、護衛役の島田魁、中島登、沢忠介、漢一郎、畠山芳次郎、松沢乙造ら6人だけが国府台へ向かいました。

国府台に当時、総寧寺は広大な敷地を占めていました。
当時は市立里見公園も含めた一帯がすべて寺の敷地でした。

総寧寺で一泊した旧幕府軍の幹部たちは、翌4月12日に市川宿中心の大林院で軍議を開き、即日、会津、宇都宮、日光方面へ出発しました。
土方らが総寧寺に滞在したのは1日でした。
そのためか、総寧寺には、戊辰戦争時に兵士たちの宿舎となったことは伝わっていません。

維新後、寺域の大半は明治政府に買い取られ、陸軍の兵舎が建てられました。
それらは第二次世界大戦後に取り壊され、昭和34年、一帯は市川市によって里見公園として整備されています。
現存する総寧寺の建物は維新後に建て替えられたものです。
新選組史跡事典より


京成本線国府台駅を北側に出ます。
北に向かって歩きます。和洋女子大学の横を通り、国立国府台病院も通り過ぎると、公民館が左手(西)に見えます。
ここまで駅から約1.5㎞です。
公民館の横手を西に曲がると、約350mで総寧寺の前に着きます。

少し前から雨が降り出しました。
私は雨女ですから…。
土方歳三が1泊した場所です。
このお寺の敷地のどこに滞在したのでしょう。
広大な敷地のお寺だったので、ピンポイントで知ることは無理でしょう。
それに建物も、幕末当時のものではないですからね。
昭和になって整備されているので、もしかしたら風景自体が全く変わっているのかもしれません。
仕方がないですが、やっぱり残念です。

私はこの頃の新選組をあまり勉強していないので、あまり詳しくわからないのです。
浪士隊参加頃までは、やんちゃな青春時代-明るいイメージ。
京都での新選組-輝く絶頂期。
鳥羽伏見の戦い-少し翳りが出てきますが、まだ明るいグレーのイメージ。
箱館・五稜郭-敗者の美学。 なのですが、
帰東から会津までは、-新選組解体、悪足掻きというような、黒の時代というイメージが私の中にあります。
もちろん私の勝手なイメージです。
なので、どうもこの暗くどんよりした思い時期が好きになれなくて、駆け足で見てしまっています。

そんな勉強不足な状態ですから、あちらこちらと廻って、その時は嬉しくて覚えていても年数が過ぎると忘れてしまっているのですよね。

総寧寺のこの風景は覚えていますが、詳しく書けるほど覚えていません。
今度はちゃんと勉強して行きたいです。
是非チャンスがありますように。


幕末維新三百藩諸隊始末 (別冊歴史読本 (36号))幕末維新三百藩諸隊始末 (別冊歴史読本 (36号))
(1999/12)
不明

商品詳細を見る


遊歩計 母をたずねて三千里~お母さんに会うまで僕は絶対にあきらめない!!~遊歩計 母をたずねて三千里~お母さんに会うまで僕は絶対にあきらめない!!~
(2008/12/06)
不明

商品詳細を見る



千葉県市川市
関東 鉄道 路線図

青山霊園-補遺

2009年03月22日
青山霊園(東京都港区南青山2丁目32-2)の幕末関係のお墓です。
これで全部かはわかりませんが、お参りの参考にして下さい。
氏名のみです。

秋月悌次郎の墓(1種ロ12号22側) 会津藩士。明治33年1月5日死去。享年77歳。

有地品之允の墓(1種イ6号6側) 長州藩士。精銃隊を組織。大正8年1月17日死去。享年77歳。「有地家之墓」に合葬。

有村次左衛門の墓(1種ロ12号7/10側) 薩摩藩士。桜田門外で大老井伊直弼の首級をあげました。井伊の首を前に自決。安政7年3月3日自決。享年23歳。有村家墓域内に墓碑があります。
※2008年5月23日を参照してください。

有村雄助の墓(1種ロ12号7/10側) 薩摩藩士。海江田信義の弟、有村次左衛門の兄。桜田門外の変には参加していませんが、藩重役は後難を恐れて捕縛。国元へ送られた当日の安政7年3月23日に、大久保利通や精忠組の助命歎願がありましたが、即日切腹させられました。享年28歳。
「有村家之墓」に合葬。


安藤太郎の墓(1種イ20号3側) 旧幕艦回天乗務員。大正13年10月27日死去。享年79歳。

伊地知正治の墓(1種イ9号22/23側) 薩摩藩士。若松城を降伏させました。明治19年5月23日死去。享年59歳。

稲葉正邦の墓(1種イ13号28側) 淀藩主。京都所司代から老中に。明治31年7月15日死去。享年65歳。稲葉家の墓に合葬され、墓誌に名前があります。

馬屋原彰の墓(1種ロ20号14側) 長州藩士。選鋒隊士。大正8年1月8日死去。享年76歳。

大江卓の墓(1種イ13号24側) 土佐藩士。坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された後、京都で陸援隊に加入。紀州藩士三浦休太郎を天満屋で襲い、新選組と戦いました。
大正10年9月12日死去。享年75歳。「大江家累代之墓」に合葬され、墓誌に名前があります。


大久保忠尚の墓(1種イ1号22側) 遠江国の淡海国玉神社神官。報国隊を組織。明治13年6月18日死去。享年56歳。合葬墓ですが、墓誌に名前があります。

大久保利通の墓(1種イ2号15/17側) 薩摩藩士。明治11年5月14日、東京紀尾井坂で暗殺されました。享年49歳。
※2008年5月22日を参照して下さい。

大鳥圭介の墓(1種イ1号2/3側) 幕臣。明治44年6月15日死去。享年79歳。

大村純煕の墓(1種イ4号27側) 大村藩主。明治15年1月12日死去。享年53歳。

沖剛介の墓(1種イ10号1側) 鳥取藩士。元治元年9月5日、長州征伐に出兵を説く藩大目付堀庄次郎を増井熊太とともに暗殺。11日に切腹。享年22歳。

尾崎三良の墓(1種イ4号22/24側) 三条家家士。戸田雅楽。七卿落ちで長州へ。大正7年10月13日死去。享年77歳。

落合直亮の墓(1種イ13号3側) 国学者。益満休之助に応じて三田の薩摩藩邸に入り、浪士たち数百名と一隊を組織し、相楽総三を総裁として、みずからは副総裁となりました。
明治27年12月11日死去。享年68歳。


小野権之丞の墓(2種イ13号9/15側) 会津藩士。公用人として新選組とも交流がありました。会津戦争では次席家老として戦いました。明治22年4月2日死去。享年72歳。

小柳津要人の墓(1種イ18号4側) 岡崎藩士。沼津で伊庭八郎らの旧幕遊撃隊に投じました。
大正11年6月21日死去。享年79歳。小柳津・富沢両家の墓に合葬され、側面に名前が刻まれています。


海江田信義の墓(1種ロ12号7/10側) 薩摩藩士。桜田門外の変の有村雄助・次左衛門兄弟の長兄。生麦事件では、リチャードソンにとどめを刺しました。明治39年10月27日死去。享年75歳。「海江田之墓」に合葬。

香川敬三の墓(1種イ4号25側) 常陸国出身。流山で近藤勇を投降させています。大正4年3月18日死去。享年77歳。

加納鷲雄の墓(1種イ21号15側) 新選組隊士。御陵衛士。赤報隊や薩摩軍にも属しました。大久保大和として流山で投降した近藤勇の正体を見破っています。明治35年10月27日死去。享年64歳。

川路利良の墓(1種イ4号1/4側) 薩摩藩士。明治12年10月13日、欧州から帰国の船中で発病し死去。享年46歳。

木村喜毅の墓(1種イ20号4側) 幕臣。咸臨丸の遣米使節の責任者。明治34年12月9日死去。享年72歳。

黒田清隆の墓(1種イ1号1/10側) 薩摩藩士。榎本武揚の助命に尽力。明治33年8月23日死去。享年61歳。

黒田長知の墓(1種イ4号13/17側) 福岡藩主。明治35年1月7日死去。享年65歳。

黒田長溥の墓(1種イ4号13/17側) 福岡藩主。明治20年3月7日死去。享年77歳。

河野敏鎌の墓(1種イ11号10/11側) 土佐藩士。万寿弥。土佐勤王党。明治28年4月24日死去。享年52歳。

神山郡廉の墓(1種イ11号4側) 土佐藩士。左多衛。明治42年8月20日死去。享年81歳。

後藤象二郎の墓(1種イ13号24側) 土佐藩士。土佐勤王党を弾圧。明治30年8月4日死去。享年60歳。墓碑裏面に俗名が刻まれています。
※2008年5月25日を参照してください。

斎藤利行の墓(1種イ1号34側) 土佐藩士。渡辺弥久馬。明治14年5月26日死去。享年60歳。

酒井孫八郎の墓(1種イ16号3側) 桑名藩士。鳥羽伏見の戦いの時、国元で家老として開城に尽力しました。明治12年4月15日死去。享年35歳。「酒井家之墓」に合葬。

相楽総三の墓(1種ロ3号34側 立山墓地) 赤報隊隊長。慶応3年3月3日、下諏訪において同志7名と斬首。享年29歳。墓碑正面に戒名「天忠院教誉道順居士」、側面に「小嶋将満墓」と刻まれています。
※2008年5月27日を参照してください。

佐々木高行の墓(1種イ21号8側) 土佐藩士。明治43年3月2日死去。享年81歳。
※2008年5月26日を参照してください。

佐藤政養の墓(1種イ1号8側) 幕臣。勝海舟門人。明治10年8月2日死去。享年57歳。

沢太郎左衛門の墓(1種イ1号25側) 幕臣。鳥羽・伏見の戦いの時、開陽丸副艦長として、将軍慶喜を東帰させました。明治31年5月9日死去。享年65歳。

四条隆平の墓(1種ロ17号7側) 公家。四条隆謌の弟で高謌の養子。明治44年7月18日死去。享年71歳。

篠原泰之進の墓(2種イ12号3側) 新選組隊士。秦林親。御陵衛士。近藤勇を狙撃して重傷を負わせました。赤報隊に加わりました。明治44年6月13日死去。享年84歳。
※2008年5月24日を参照してください。

島本審次郎の墓(1種ロ3号5側 立山墓地) 土佐藩士。土佐勤王党。明治25年12月死去。享年60歳。死亡日未詳。

白峰駿馬の墓(1種ロ5号8側) 海援隊士。明治42年4月1日死去。享年74歳。墓碑は戒名ですが、俗名を刻んだ石碑が傍らに建てられています。
※2008年5月21日を参照してください。

杉孫七郎の墓(1種ロ3号5側 立山墓地) 長州藩士。大正9年5月3日死去。享年86歳。

周布政之助の墓(1種イ1号38側) 長州藩士。元治元年9月26日自刃。享年42歳。「周布家之墓」に合葬され、墓誌に名前が刻まれています。

尺振八の墓(1種イ4号1側 立山墓地) 幕臣。旧幕遊撃隊の伊庭八郎を一面識もなく自宅に匿いました。明治19年11月28日死去。享年48歳。

関義臣の墓(1種ロ17号10側) 海援隊士。大正7年3月30日死去。享年80歳。

副島種臣の墓(1種イ21号1側) 佐賀藩士。明治38年1月31日死去。享年78歳。

高崎正風の墓(2種イ17号1/6側) 薩摩藩士。明治45年2月28日死去。享年77歳。

立花種恭の墓(1種イ1号1側 立山墓地) 下手渡藩主。明治38年1月30日死去。享年70歳。

立見尚文の墓(1種イ1号5側 立山墓地) 桑名藩士。鑑三郎。倉田巴。土方歳三のもとで軍監となり、下妻陣屋、下館城を降伏させ、宇都宮城を攻略しました。明治40年3月7日死去。享年63歳。

田辺太一の墓(1種ロ8号16/17側) 幕臣。パリ万博に公使館書記官として渡仏。大正4年9月16日死去。享年85歳。「田辺家之墓」に合葬。

デュ・ブスケの墓(1種イ1号1/4側) フランス軍歩兵中尉。江戸で幕軍に歩兵訓練を行いました。明治14年5月18日死去。享年45歳。墓碑には「治部輔」と漢字をあてた名前が刻まれています。

外島機兵衛の墓(2種イ3号1/9側) 会津藩士。鳥羽・伏見の戦に敗戦後、紀州に落ちた藩士を海路で送還させるために尽力し、自身は陸路を戻りました。しかし心労のため慶応4年3月7日死去。享年43歳。
遺体は港区の青松寺に埋葬され、墓碑も建立されましたが現存しません。同寺より移転されたものと思われます。「外島家之墓」とある墓碑の側面に名前が刻まれています。

中牟田倉之助の墓(1種イ7号17/18側) 佐賀藩士。戊辰戦争では孟春丸艦長、箱館戦争では朝陽丸の艦長。大正5年3月30日死去。享年80歳。墓碑には「徳雄院殿一応道貫大居士」と戒名が刻まれています。
南部展衛の墓(1種イ21号6側) 土佐藩士。土佐勤王党。七卿と長州に落ちました。大正11年9月2日死去。享年79歳。

西川理三郎の墓(2種イ13号1/8側) 芸州藩士。応変隊隊長格。東京在住中の明治4年、火災にあって負傷し、11月10日病死。享年50歳。

西山志澄の墓(1種ロ14号9側) 土佐藩士。土佐勤王党。坂本龍馬のかつての恋人、平尾加尾を妻としています。土佐迅衝隊。明治44年5月27日死去。享年70歳。墓誌には加尾の名前も刻まれています。

二本松藩戦死者の慰霊碑(1種ロ7号14/15側) 戊辰戦争における二本松藩士の戦死者の慰霊。
「二本松藩士戦死者慰霊塔」と「武将戦死者慰霊塔」が、藩主丹羽長国の墓域内にあります。
二本松藩の戦死者は337名の名前があげられています。


丹羽長国の墓(1種ロ7号14/15側) 二本松藩主。水戸天狗党の鎮圧に出兵。明治37年1月15日死去。享年71歳。「丹羽家之墓」に合葬。

丹羽正庸の墓(1種ロ2号3側) 三条家諸大夫。三条実万・実美父子につかえました。明治15年8月4日死去。享年61歳。

野津鎮雄の墓(1種イ1号9側) 薩摩藩士。明治13年7月22日病死。享年46歳。「野津家之墓」に合葬され、墓誌に名前が刻まれています。

野津道貫の墓(1種イ1号26/27側) 薩摩藩士。野津鎮雄の弟。明治41年10月19日死去。享年68歳。「野津家之墓」に合葬され、墓誌に名前があります。

野村辰太郎の墓(1種イ7号1/9側) 海援隊士。大極丸の船長。海援隊解散後、振遠隊の幹部。明治36年5月7日死去。享年60歳。

橋本実梁の墓(1種イ5号20側) 公家。江戸城開城には勅使として徳川家処分の朝旨を伝えました。明治18年9月16日死去。享年52歳。「橋本家之墓」に合葬され、墓誌に名前があります。

林謙三の墓(1種イ4号25側) 備後国出身。維新後は安保清康。明治42年10月27日死去。享年68歳。

林菫の墓(1種ロ8号1/14側 警視庁墓地) 幕臣。菫三郎。榎本武揚が義兄。大正2年7月10日死去。享年64歳。「林家之墓」に合葬され、墓誌に名前があります。

林友幸の墓(1種ロ17号7側) 長州藩士。半七。奇兵隊参謀。槍隊隊長。鳥羽・伏見の戦いでは第二奇兵隊を率いました。明治40年11月8日死去。享年85歳。

藤井希璞の墓(1種イ12号1側) 有栖川宮家家士。明治26年6月27日死去。享年70歳。

船越衛の墓(1種イ5号6側) 芸州藩士。洋之助。大正2年12月23日死去。享年74歳。

牧野忠泰の墓(1種イ2号6側) 三根山藩主。明治15年8月1日死去。享年48歳。

三浦悟楼の墓(1種イ5号15/16側) 長州藩士。奇兵隊参謀になりましたが、刃傷事件を起こして謹慎。大正15年1月28日死去。享年81歳。墓碑裏面に名前が刻まれています。

三島通庸の墓(1種イ9号12/16側) 薩摩藩士。弥兵衛。有馬新七らの寺田屋事件にかかわり、謹慎。明治21年10月21日死去。享年54歳。

山川浩の墓(1種ロ18号5側) 会津藩士。会津城籠城戦では、家老として防衛総督をつとめました。明治31年3月6日死去。享年54歳。

吉井友美の墓(1種イ6号4側) 薩摩藩士。幸輔。精忠組に参加。明治24年4月22日死去。享年64歳。「吉井家先祖墓」に合葬され、墓碑側面に名前があります。

渡辺昇の墓(1種イ12号4側) 大村藩士。近藤勇とも面識があり、誠衛館道場に出入りしていたといいます。坂本龍馬と下関に商社設立計画を談じ、京都で討幕運動を展開して新選組に狙われました。大正2年11月10日死去。享年76歳。「渡辺家之墓」に合葬され、墓碑側面に名前が刻まれています。
幕末維新江戸東京史跡事典より

光明院-新選組駐屯地跡

2009年03月22日
新選組が駐留した光明院(千葉県流山市流山6-651)です。
光妙院1  光妙院2
慶応4年4月2日、五兵衛新田から流山に入った新選組の隊士が駐留した場所です。

4月3日、春日部から流山に向かった新政府軍大軍監香川敬三の東征軍部隊は彦根藩二小隊・須坂藩一小隊・岩村田藩一小隊、旗本岡田家(5,000石)の一小隊で編成されていました。
美濃国揖斐の地頭である岡田将監家の一小隊が東征軍の一員として、流山に入り、その隊士だった富田重太郎の日記『官軍記』によって、新選組の駐留が明らかにされた場所です。

富田は新選組の本陣を「味噌屋舗」として、ほかに「称名院」にも屯集していたと書いています。
『復古記』で伝えられている分隊の武器を押収した場所が「称名院」となります。
流山市内で「称名院」という寺院は、
①流山村の赤城山信楽寺光明院
②鰭ヶ崎村の守龍山証明院東福寺 の2つが考えられます。
光明院は、江戸川の流山河岸に近く新選組本陣「長岡屋」とは南方500mの位置で、山門には「光明院」とあります。
東福寺の方は、新選組本陣より東南3㎞の小高い位置にあり「守龍山」と揮毫の額が掲げられています。
五兵衛新田当時の新選組の布陣と、田中陣屋の占拠という目的からみて、「光明院」を指していると思われます。

光明院は、小林一茶ゆかりの秋元双樹の連句碑があり、東福寺には左甚五郎作といわれる「目つぶしの鴨」があります。

分隊は、近藤勇の捕縛後も居残りました。
しかし、土方の近藤勇釈放の工作が失敗し、6日に利根川あたりの布佐(千葉県印西市)へ向かって出発しました。
新選組史跡事典より


総武流山線流山駅からだと少し遠いようですが、近藤勇陣屋跡を通って行きたいと思います。
総武流山電鉄流山駅を出ます。流山駅前交差点を越えてもう一本西の交差点を南に曲がります。
ひとつめの交差点を西に入ったところに、“近藤勇陣屋跡”とかかれた石碑があります。
そのまま西方向に通り抜け、次の交差点を南に折れて歩いていきます。
キッコーマンの工場を通り過ぎ、流山5交差点も通り過ぎ、川沿いの道を800mほど行くと、光明院があります。

曇り空の今にも降りそうなお天気でした。
お寺はすぐにわかりました。
前は住宅街で、静かな場所でした。向こうは江戸川ですので、建物が目に入らないので広く思いました。実際、隣の墓地を見ると広いお寺のようです。
しかし私達が訪れた時は、お葬式が執り行われるようで、お葬式の準備の真っ最中でした。
さすがにお葬式をお邪魔してはいけませんので、この山門のあたりで失礼してきました。

写真だけは…と、お葬式の様子が写りこまないように撮ったため、斜めの写真や、遠距離の写真になっています。

この場所も確定されているというのではないようです。
それも訪れた時点では知りませんでした。
近藤勇陣屋と同じように、光明院も新選組が駐屯したとのみかかれています。

この門の前に立った時は、正直お葬式があって残念に思いました。
新選組に直接関係する史跡なので、本堂の前ぐらいまでは行ってみたかったです。
当時、これだけの墓石がまだ建っていなければ、広かったでしょう。
敗走している新選組ですから、隊士の気も荒くなっていなかったのでしょうか?
それともシュンとしていたのでしょうか?

土方さん頑張れ!


夢幻戦記 (1) (ハルキ・ノベルス)夢幻戦記 (1) (ハルキ・ノベルス)
(1997/12)
栗本 薫

商品詳細を見る


【DOUBLE STANDARD CLOTHING】レインシューズ<SOV>【DOUBLE STANDARD CLOTHING】レインシューズ<SOV>
()
不明

商品詳細を見る

谷中霊園-補遺

2009年03月21日
谷中霊園(東京都台東区谷中7丁目5-24)の幕末関係のお墓を判る範囲で書いておきます。
これ以外にもあると思います。
名前だけですが、お参りの参考になればいいのですが。

秋元礼朝の墓(乙14号1側) 館林藩主。明治16年6月13日死去。享年36歳。「秋元氏之墓」に合葬。

秋元志朝の墓(乙14号1側) 館林藩主。明治9年7月26日死去。享年57歳。上野護国院に葬られましたが、大正2年に多磨霊園に改葬。昭和30年代に谷中霊園の秋元氏之墓に合葬。

阿部正桓の墓(乙9号9側) 福山藩主。大正3年9月23日死去。享年64歳。

阿部正弘の墓(寛永寺墓地) 福山藩主。老中首席。安政4年6月17日死去。享年39歳。墓碑側面に俗名が刻まれています。

新井忠雄の墓(乙3号7側) 新選組隊士。御陵衛士。赤報隊。明治24年2月15日死去。享年57歳。

池田種徳の墓(甲1号5側) 芸州藩士。浪士隊上洛時、近藤勇と先番宿割りをつとめました。。
明治7年9月12日死去。享年44歳。

石川桜所の墓(乙5号3側) 医師。一橋慶喜の侍医。明治15年2月20日死去。享年58歳。
「石川家之墓」に合葬され、墓碑側面に名前が刻まれています。


大野右仲の墓(天王寺墓地) 唐津藩士。蝦夷地へ渡航の際、新選組に入隊。明治44年6月11日死去。享年76歳。「大野氏累代之墓」に合葬され、墓碑側面に名前が刻まれています。

大橋訥庵の墓(天王寺墓地 谷中7-16) 儒者。坂下門事件の立案と斬奸状を草起草したとされ、襲撃の3日前に投獄。文久2年7月7日、病気の為出獄、12日に死亡。享年47歳。毒殺とも。

大原重徳の墓(乙6号5側) 公家。明治12年4月1日死去。享年79歳。

岡内俊太郎の墓(乙9号7側) 土佐藩士。大正4年9月20日死去。享年74歳。
合葬墓ですが、墓域には俊太郎の事跡を記した「岡内男爵家之墓誌」が建立されています。

岡本健三郎の墓(乙11号13側) 土佐藩士。坂本龍馬・中岡慎太郎が殺害される直前まで彼らと雑談をしていました。明治18年12月26日死去。享年44歳。

織田完之の墓(天王寺墓地) 三河国出身。武田耕雲斎らの筑波山挙兵では、現地に赴いています。慶応3年長州に入国しようとして捕縛、明治2年2月まで岩国藩に幽閉。
大正12年1月18日死去。享年82歳。

小山鼎吉の墓(天王寺墓地) 水戸出身。坂下門事件に関係者として捕縛。筑波山挙兵で敗れました。明治24年1月1日死去。享年65歳。

雲井龍雄の墓(甲2号4側) 米沢藩士。慶応元年に江戸警備に任につきました。会津に逃れましたが、若松城が籠城戦に突入していて、本郷村で靖共隊の永倉新八や芳賀宜道と出会い、同行して米沢藩に向かいますが、米沢藩は降伏していました。永倉らと決別して帰国、謹慎。
明治2年に放免されますが、明治3年12月28日、政府転覆を企てた嫌疑で斬罪、梟首となりました。享年27歳。
墓地には明治14年5月に建立された、人見寧の撰文による「雲井龍雄君之墓表」がありますが、墓碑はないです。

佐々木男也の墓(甲1号1側) 長州藩士。明治26年11月25日死去。享年58歳。

三条西季知の墓(乙12号1側) 公家。三条実美らと長州に落ちました。明治13年8月24日死去。享年70歳。「三条西家」の墓碑に合葬。

渋沢栄一の墓(乙11号1側) 幕臣。昭和6年11月11日死去。享年92歳。

関藤藤陰の墓(天王寺墓地) 福山藩士。藩主阿部正弘の仕えました。明治9年12月29日死去。享年70歳。

高松実村の墓(甲10号1側) 公家。明治40年10月12日死去。享年66歳。

高松凌雲の墓(乙5号2側) 幕臣。一橋家表医師となり、一橋慶喜の将軍就任にともない、幕府奥医師となりました。榎本武揚らと蝦夷へ渡り、箱館病院頭取となり、敵味方関係なく負傷兵の治療を行いました。大正5年10月12日死去。享年81歳。

伊達宗城の墓(乙8号11側) 宇和島藩主。明治25年12月20日死去。享年75歳。

玉乃世履の墓(甲区9号17側) 岩国藩士。農兵隊を組織。明治19年8月8日死去。享年62歳。

徳川慶喜の墓(徳川家墓地) 第15代将軍。大正2年11月22日死去。享年77歳。

戸田忠至の墓(乙区13号1側) 高徳藩主。宇都宮藩家老をつとめました。元治元年に山陵奉行となりました。明治16年3月30日死去。享年75歳。
新選組から分離した
伊東甲子太郎らの御陵衛士は、天皇陵警備を名目としていたので、忠至に属したことになります。

新田俊純の墓(天王寺墓地) 新田勤王党首領。明治27年3月15日死去。享年66歳。

春木義彰の墓(乙5号1側) 大和国出身。明治37年12月17日死去。享年59歳。

平山敬忠の墓(乙9号1側) 幕臣。ペリー再来航では応接を行い、日露追加条約の協議にあたりました。明治23年5月22日死去。享年76歳。

福地源一郎の墓(甲1号12側) 幕臣。号は桜痴。文久元年5月はイギリス公使館に詰めていて、東禅寺事件に遭遇しました。
明治39年1月4日死去。享年66歳。
近藤勇と面識があり、道場を訪れたこともあります。

福原芳山の墓(乙12号4側) 長州藩士。福原越後の養子。明治15年8月17日死去。享年36歳。

藤沢次謙の墓(甲13号2側) 幕臣。講武所頭取。勝海舟のもとで陸軍副総裁。
明治14年5月2日死去。享年47歳。「藤沢家之墓」に号葬され、墓碑裏面に名前があります。

古屋佐久左衛門の墓(乙2号10側) 幕臣。旧姓高松。高松凌雲の実兄です。旗本古屋家の養子になりました。
箱館戦争時の明治2年5月12日、五稜郭で被弾し、14日に37歳で死去。「古屋家之墓」に合葬され、墓誌に名前があります。

松平斉民の墓(寛永寺墓地) 津山藩主。将軍家斉の第16子。明治24年3月24日死去。享年78歳。
墓碑には「文定院殿成誉寂然確堂大居士」と刻まれています。


松平頼聡の墓(乙4号1側 非公開) 高松藩主。明治36年10月17日死去。享年70歳。

真辺戒作の墓(乙8号5側) 土佐藩士。胡蝶隊第四隊司令として、伊予松山の追討に出陣。明治12年5月20日自殺。享年32歳。

村垣範正の墓(天王寺墓地) 幕臣。咸臨丸で渡米。明治13年3月15日死去。享年68歳。

横尾東作の墓(乙4号4側) 仙台藩士。明治36年7月22日死去。享年65歳。
幕末維新江戸東京史跡事典より



谷中霊園

流山陣屋・長岡屋跡

2009年03月21日
慶応4年4月2日、五兵衛新田(現:東京都足立区綾瀬)から流山に移動した新選組の首脳部が駐留した、流山陣屋・長岡屋跡(千葉県流山市流山2-108)です。
流山陣屋跡7

流山陣屋跡1  流山陣屋跡2

流山陣屋跡4

流山陣屋跡5  流山陣屋跡6
昭和38年の司馬遼太郎の『燃えよ剣』によって公にされた「長岡の酒屋」に由来しています。
近藤勇の近習 田村銀之助によれば、「此所(現:流山市立博物館所在地一帯)には田中の陣屋というのがありまして-(略)-」と大正9年に語っていますが、長岡屋は登場しません。
同じ大正9年の『流山町誌』では、近藤勇陣営は「今の町役場の西にあたる空地」となっています。

今日、陣屋跡として建てられている土蔵は、のちに移築してきた三河屋のものといわれています。
現在、この建物の前に「近藤勇陣屋跡」として流山観光協会の手で由来の石碑が建てられています。

流山の近藤勇陣営を「長岡屋」とした歴史は以下のとおりです。
流山では、昭和39年『ふるさと流山』(岩田耕作)、昭和41年『新撰組と流山』(伊藤晃)と相次いで出版されました。
この中で「根郷長岡家」「酒造家長岡屋」と明記され、今日の流山本陣跡として定着しています。
『流山の史跡をたずねて』(流山市教育委員会)では、「近藤勇が本陣としていた長岡屋は、当時流山の豪商でしたが、維新後倒産し、そのあとの志摩屋を経て現在の株式会社秋元となっています」と紹介しています。
しかし、流山市内の史料『穀物仲間再議定』によれば、長岡屋は、永岡三郎兵衛が元治元年から慶応4年2月まで醸造経営を行い、そのあとに嶋屋(志摩屋)治郎右衛門の手に渡り、明治17年に秋元の前身である秋藤(秋元藤太郎)の所有になったと考えられます。

新選組が入ってきた時期の経営は嶋屋にかわっていましたが、土地は旧来の永岡(長岡)で呼称されたものと考えられます。
流山を攻めてきた香川隊に属する岡田家の隊員富田重太郎の日記『官軍記』には、「味噌屋舗」と屋号は記されていません。また、芝崎村(流山市内)名主の『吉野家日記』にも「流山大家」とあり、新選組の駐屯地を特定できませんでした。

最近、下総国猿島郡境宿の小松原家文書により、新選組本陣を「鴻池儀兵衛」と伝聞する内容が発表されています。
鴻池は流山では屈指の醸造家で、天明・文化・天保から明治に至る穀物問屋でもありました。
長岡屋や志摩屋よりも上位にあり、「請人」(保証人)としても登場しています。
今日の近藤勇陣屋跡の西北70mに位置していました。
しかし、儀兵衛と特定できる人物はなく、喜兵衛であれば、味噌醤油醸造「紙屋喜兵衛」(陣屋跡西南70m)を指しています。

新選組首脳部30名が駐屯した家屋が「長岡屋」なのか、「鴻池」か「喜兵衛」か定かでありません。
五兵衛新田の金子家同様に、相応の規模をもった家屋を構えていたのは、どの家だったのか。
「秋元」の現駐車場(醸造蔵跡)が、その場所と推定できますが、『流山町誌』のいう「町役場の西にあたる空地」となれば、現在の土蔵の位置と認めてもよいだろう。

また『流山町誌』のいう町役場は、発刊の大正9年に根郷109から根郷131に移転しています。
ここは警察分署を改築したところで、常与寺の西方、鴻池の北隣となり、鴻池本陣説も浮上します。

4月2日の午後に味噌屋(長岡屋)に本陣を設け、分隊を光明院へ置いた新選組(当時は、幕府歩兵隊と称す)は、疲れを休める間もなく、3日朝方より野外訓練に出払っていました。
本陣には、近藤・土方ら数名でした。
新政府軍に包囲されてしまい、切腹を決意した近藤勇に、土方歳三は「ここで切腹するは犬死になり」と言い、あくまでも流山鎮撫が目的だと主張すべきだと説得しました。
近藤勇もそれに従って出頭しました。
新選組史跡事典&土方歳三写真集より


流山駅354
総武流山電鉄流山駅を出ます。流山駅前交差点を越えてもう一本西の交差点を南に曲がります。
ひとつめの交差点を西に入ったところに、“近藤勇陣屋跡”とかかれた石碑があります。

駅からすぐ近くです。
住宅街の中にあって、道幅が狭かったです。
車のすれ違いは無理だと思います。一台がやっと通れる程度でした。
もしかしたら一方通行の道でしょうか。
車に乗らないので、とっさにそういうところまでは思いつかなくて、チェックしていません。

私が訪れた頃は、上記の話は知りませんでした。
土蔵があとで移築された観光用だったとか…。
「うっそぉ~。」(死語ですね)ですよ。
幾つかの本を見ても、そのような記述はなく、近藤勇の陣屋跡として紹介されています。
なので陣屋跡に立ったときは嬉しかったです。
近藤勇や土方歳三が足を踏み入れた建物で、彼らが実際に踏んで触れたモノだと。
のち移築…、そういわれれば土蔵は、修理されたようですが、トタンが貼られていたような…。
古いのですが、どこか新しさを感じてしまう感も無きにしも非ずでした。

この移築説以外にも、陣屋跡の場所さえも確定していないようです。
本当ですか?って感じです。
ただ色々な説があるようですが、この場所から半径70mの範囲のようなので、風景的にはあまり変わらないでしょう。
またこの近辺に陣屋があったのならば、近藤勇や土方歳三は歩いているかも。
あっ、でも新政府軍に囲まれるような状況ならば、外を出歩くことはしなかったですよね。
こうなったら、同じ空気を吸っている!というところで喜ばないと…。

何だかガッカリというよりも、虚しくなってきました。
近藤勇が流山に滞在した事だけは間違いないですよね。
そこだけは今更嘘でしたなんていわないで欲しいです。
もう一度この場所を訪れて、陣屋跡の周辺を歩き回ってみたいです。


新選組流山顛末記新選組流山顛末記
(2009/02)
松下 英治

商品詳細を見る


dakota ダコタ [リードクラシック] 小銭入れ/コインケース 32004dakota ダコタ [リードクラシック] 小銭入れ/コインケース 32004
()
不明

商品詳細を見る


流山市

イギリス公使館跡-東禅寺

2009年03月20日
イギリス公使館跡東禅寺(東京都港区高輪3-16-16)です。
東禅寺1  東禅寺2

東禅寺4  東禅寺5

東禅寺6  東禅寺3
安政5年7月に締結された日米通商条約により、翌6年6月6日、イギリス初代公使オールコックらがここに駐在して、最初のイギリス公使宿館となりました。
文久元年5月28日、イギリスの仮公使館だった東禅寺に水戸浪士ら十数人が斬り込み、警護の武士らが20人以上の死傷者を出しながら、公使のオルコックを守り抜いた事件がありました。
(第一次東禅寺事件)
公使のオールコックらは、前日、国内旅行から帰着したばかりで、外国人の横行に尊王攘夷派が憤慨したものと推測されています。

襲撃前夜、浪士ら14名は大井村から上陸し、南品川の虎屋と北品川の新竹島に分宿しました。
特に虎屋の前主人は水戸領湊村の出身で、水戸浪士らが安心して泊まれる宿だったようです。
前主人は養子に旅籠を任せていったん郷里へ帰り、決行前に養子に浪士らの便宜を図るように命じたと事件後に供述しています。

28日昼に虎屋に集合した一行は、夜8時頃同所を出立しました。
両国の川開きに紛れて小舟で泉岳寺に参詣した後、近くの東禅寺に向かいました。
10時ごろ、三手に分かれて討ち入り、警備の藩士を含めて20名以上を死傷させました。
浪士側は有賀半弥ら3名が死亡。
逃走した者のうち、岡見留次郎・石井金四郎・中村貞介・山崎信之介は翌日午前1時ごろ、虎屋へ戻りました。
4時ごろ、旅籠は多数の捕吏に取り囲まれ、中村と山崎は同所で自刃。
石井は死にきれずに捕えられ、12月25日に2名の同志とともに斬に処せられました。
残りの者も、多くは捕えられたり自決しています。
血路を開いた逃れた黒沢五郎と高畠房次郎は、翌年1月15日に坂下門外の変に参加して闘死しています。
岡見は文久3年の大和挙兵に参加して死罪となっています。

翌年5月29日には、東禅寺を警備中の松本藩士伊藤軍兵衛のイギリス人殺傷事件がありました。
(第二次東禅寺事件)

2度にわたる東禅寺事件は、御殿山にイギリス公使館を建設する契機にもなりました。
当時、公使館に使用されたのは大玄関および書院等でした。
現在その一部である奥書院と玄関が旧時のまま保存されていて、その他は昭和元年に改築されました。

この東禅寺は多くの大名の菩提寺となっていてます。
戊辰戦争の責任をとって処刑された仙台藩家老但木土佐や仙台藩士大槻磐渓等の墓もありますが、墓域は拝観不可です。(一説には但木や坂の墓は仙台へ改葬されたともいわれています。)
また、会津藩士相馬一族の墓などもある。
幕末維新江戸東京史跡事典&Wikipediaなどより


JR品川駅を西側に出ます。
国道15号を北へ歩きます。400m近く歩き、品川駅前郵便局を過ぎ、歩道橋を通り過ぎた角を西へ曲がります。
そのまま真っ直ぐに行くと250mで東禅寺です。

実は………、目的地はここでは無かったのです………。
本当は、御殿山にあった焼き討ちされたイギリス公使館に行きたかったのです。
高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、井上聞多らが実行犯なのです。
その史跡を訪ねてみたかったのです。
“イギリス公使館跡”という名称で間違えたのです。

しかしここで無いと判っても、品川御殿山の方に行くのは無理だったかもしれません。
この日は、午後の新幹線で帰阪でした。
平日の為、東京の新選組関係の知り合いは仕事に戻っていました。
私は会社は休み。
朝食後、早々にチェックアウトした私は、午後の新幹線まで東京駅に近い場所でひとりで史跡の予定でした。
それで東京駅にも近く、降車駅からも近い東禅寺をピックアップしました。
焼き討ちされたイギリス公使館だと思って…。

品川駅に着いた時は驚きました。
広くて綺麗。
改装されたばかりだったと思います。
東禅寺は迷わずに行けたのですが、思っていた以上に遠かったです。
早ければ「赤穂浪士」関係の泉岳寺に寄ってみようかと思っていたのですが、それだけの時間はありませんでした。

東禅寺は静かなお寺でした。
だれも来られていなかったので、ゆっくりと境内を眺める事ができました。
イギリス公使館として使われていた時は、外国人が宿泊しているので、ピリピリとした空気が漂っていたのでしょうね。
さらに2度も襲撃があったのですから、その時は地獄のような風景だったのかもしれません。

高杉晋作らが決行した、イギリス公使館焼き討ち事件では、
隊長:高杉晋作
副将:久坂玄端
火付け役:井上聞多、伊藤俊輔、寺島忠三郎
護衛役:品川弥二郎、堀真五郎、松島剛蔵
斬捨役:赤根武人、白井小助ら
だったそうです。

やはり“竜馬におまかせ”でのシーンですが(史実的にはありえない設定でした)、その中で、高杉晋作がイギリス公使館焼き討ちに対して、「すべてを壊して、新しいものをつくるしかないんだ!」というような意味の事を言っていました。
私はある意味「そうだ、そうだ!」と納得したものです。
ちょうど地球温暖化やエコという言葉を、耳にし始める頃だったでしょうか。
戦争も含めて、人間が地球を壊していっていると思う事が多々あり、ノストラダムスの大予言が当って、人類が滅亡してもう一度地球が原始に戻った方がいいのでは?と思っていました。
今でも極論ですが、人類が全員いなくなるのなら、それもありかな…なんて思う事があります。
それが地球に一番優しい、ecoではないでしょうか。

史実の高杉晋作がどう考えていたかは判らないのですが、このドラマのこの台詞に大いに納得したので覚えていました。
今度は、行きたかった方の、品川御殿山のイギリス公使館に行ってみたいです。

ちゃんと東京駅まで戻って、駅前近くで覗きたい店などに寄って、新幹線で帰りました。
のぞみだと、2時間半ほどの時間です。
昼食を食べて新幹線に乗ったら、夕飯はもう家で食べているのです。
数時間前は東京だったのに…。
幕末当時、何日もかけて東京~京都間を移動したのに、今では半日もかからず移動できます。
自宅最寄り駅を出て、家に向かう途中、すごくそれを実感しました。
嬉しいような、複雑な感覚でした。


高杉晋作の手紙 (日本手紙叢書)高杉晋作の手紙 (日本手紙叢書)
(1992/03)
一坂 太郎

商品詳細を見る


奇兵隊 [DVD]奇兵隊 [DVD]
(2000/12/06)
松平健中村雅俊

商品詳細を見る


イギリス公使館焼き討ち事件

カカオの実

2009年03月19日
季節はずれの暖かさで、史跡巡りの途中ですが、ちょっと水分補給の休憩をとらないと。
その間に季節の話題をひとつ。

春、桜の季節になると、近くのお菓子工場が2日間だけ、お花見の為に構内開放されます。
構内に温室があり、そこを覗いてみると毎年“カカオの実”がなっています。
カカオ1  カカオ2

カカオは、中央アメリカから南アメリカの熱帯地域を原産とするアオギリ科の常緑樹です。
カカオノキ、ココアノキとも呼ばれる。
樹高は 4.5 ~ 10m。
この木の生育には、規則的な降雨と排水のよい土壌、湿潤な気候が必要。
高度約 300mの高地で自生します。
Wikipediaより

毎年お花見に行った時に、カカオの実も必ず見ています。
お花見の話題が出始めると、カカオの実も思い出します。
今年は桜の開花が例年になく早いようなので、そろそろお花見の話題も出てきそうです。


ランチケース 使い捨て ビーベア 3パックランチケース 使い捨て ビーベア 3パック
()
不明

商品詳細を見る


カカオ
森永製菓 カカオ

福沢諭吉墓&アメリカ公使館跡-善福寺

2009年03月19日
福沢諭吉墓があり、最初のアメリカ公使館跡になる善福寺(東京都港区元麻布1丁目6-21)です。
ぜん福寺2  ぜん福寺3
福沢諭吉は中津藩士。
長崎で蘭学に接し、安政2年より大坂の緒方洪庵の適塾に入門、5年よりは藩江戸中屋敷で蘭学を教えました。
万延元年、軍艦奉行木村喜毅の従僕として遣米使節に加わり咸臨丸で渡米しました、帰国後は幕府の翻訳方をつとめ、文久2年には幕府使節として渡欧し、元治元年に幕臣となり、慶応2年に『西洋事情』を著しました。

明治31年9月26日に脳出血で倒れ、いったん回復しました。
明治33年8月8日に再び倒れ意識不明になりましたが、約1時間後に意識を回復しました。
明治34年1月25日に再び脳出血で倒れ、2月3日に再出血し死去。享年68歳。
葬儀の際、遺族は福澤の遺志を尊重し献花を丁寧に断りましが、盟友である大隈重信のものだけは黙って受け取ったといいます。

福澤は、大学の敷地内に居を構えていたため、慶應義塾大学三田キャンパスに彼の終焉の地を示した石碑が設置されています(旧居の基壇の一部が今も残る)。
戒名は「大観院独立自尊居士」で、麻布山善福寺に墓があります。
命日の2月3日は雪池忌と呼ばれ、塾長以下学生など多くの慶應義塾関係者が墓参しています。

昭和52年、最初の埋葬地(東京府下大崎村本願寺内 現:品川区上大崎1丁目常光寺内)から麻布善福寺へ改葬の際、遺体がミイラ(死蝋)化して残っているのが発見されました。
外気と遮断され比較的低温の地下水に浸され続けたために腐敗が進まず保存されたものと推定。
学術解剖や遺体保存の声もありましたが、遺族の強い希望でそのまま荼毘にふされました。

最初のアメリカ公使館跡
安政5年6月に締結された日米修好通商条約により、それまで下田にいた総領事ハリスを公使に昇格させ、翌年6年善福寺をアメリカ最初の公使宿館と決定、同年8月に初代公使ハリスが到着しました。
当時の宿館として、奥書院と客殿の一部が使用されていましたが、文久3年水戸浪士の放火で奥書院などを焼失したため、本堂、開山堂などを使用していました。

当時の本堂は戦災で焼失、現在のものは大阪府八尾市の東本願寺別院を移築した江戸初期の建築です。
幕末維新江戸東京史跡事典&Wikipediaなどより


営団地下鉄麻布十番駅から西へまっすぐに200m弱です。

大きなお寺でした。
商店街の中を歩いて行った記憶があります。
関西人の私としては、港区元麻布と商店街のイメージが一致しませんでした。
もっとガラス張りの服屋さんや雑貨屋さんが並んでいて、有閑マダムが何十万円もする服を着て歩いている場所かと思っていました。
こんな感じの場所なら、大阪周辺にもある!と安心しました。
小心者です(笑)

福沢諭吉のお墓にはお参りをしませんでした。
その時は気付いてなかったのかな…。
アメリカ公使館として訪れたのです。

福沢諭吉は大坂の藩邸で生まれ、江戸に出たり、中津に帰ったりと、あちらこちらで生活しています。
私は史跡巡りで東京に行っただけで、ここはどんな場所? 安全? 場違いではない?
とか心配になる事もあるのですが、あちらこちらで生活する福沢諭吉や当時の人はすぐに適応できたのでしょうか?
今は、テレビなどで各地の情報を知ることができるので、全くの未知の世界ではありません。
幕末や明治初期ってまだ通信も発達していないので、行ってみないとわからない場所ばかりですよね。

そういう意味では、ハリスは言葉も通じない日本に来て大変だったでしょう。
船で何日? 何ヶ月?もかけて来ることは命がけです。
海の上だけでなく、来てからもどうなるか判ったものではありません。
よほどの自信があったのでしょう。

最初のアメリカ公使館より、福沢諭吉墓所としての方が知れ渡っていそうです。
福沢諭吉もアメリカ公使館のここに通ったそうです。
という事は、福沢諭吉が歩いた場所です。
“逆さ銀杏”は福沢諭吉も見上げたかもしれません。
そう思いながら“逆さ銀杏”を見上げたら、福沢諭吉と多少なりともシンクロできるかもしれません。


学問のすすめ (まんがで読破)学問のすすめ (まんがで読破)
(2008/03)
福沢 諭吉

商品詳細を見る


慶応義塾大学

大村益次郎像-靖国神社

2009年03月18日
靖国神社参道に大村益次郎像(東京都千代田区九段北2 靖国神社参道内)が建っています。
靖国神社1  靖国神社2大村益次郎像
明治15年11月15日、芝の紅葉館で開かれた大村益次郎の祭典の折、靖国神社宮司だった加茂水穂が大村の銅像の建立を提唱したそうです。
大村は蘭学や医学から兵学まで会得した維新期の鬼才で、兵部大輔として新政府に出仕中、明治2年に大坂で死去しました。

大村像の造立委員には長州閥の元勲らが名を連ね、有栖川宮や三条実美らの賛助を得て、計画は進行しました。
像は戊辰戦争で大村が活躍した上野山内への設置も予定されましたが、明治21年5月、内務、陸・海軍三大臣の特別許可を得て、幕末の討幕方殉難者や、戊辰戦争での新政府軍戦死者を祀る、靖国神社への設置が決定しました。

像の製作者は、新進の彫刻家大熊氏広に決まりました。
大村には写真も肖像画もなかったため、大熊は、大村と懇意だった高橋惟熙と画家のキヨソネが描いた肖像画を参考に大村の塑像を作成しました。
さらに大熊は欧州に渡り、造像の研修を続けました。

帰国後、明治23年3月大熊は大村の郷里に未亡人を訪ね、容貌についての取材を行いました。
また、大村の妹の富重が兄に似ていると教えてもらい、周防国吉敷郡秋穂村字二島に妹を訪ね、顔を写生しました。
像の体型については、同村字天田に住む大村の甥の藤村幹二郎の姿を参考にしました。
苦心の末に完成した、大熊による大村の全身の肖像は、造立委員はもとより、未亡人からも、真に迫り大いに満足との評価を得ました。
これにより大熊は8月より、石膏による像の原型作成に取り掛かりました。

明治24年5月、石膏像が完成しました。
次いで6月から小石川砲兵工廠で銅像の製作が開始されました。
大熊氏広は総監督を務め、技手の金子増燿が鋳造責任者を務めました。
10月に像は完成しました。
靖国神社への設置工事は本郷駒込肴町の石工商、酒井八右衛門が担当、石台として讃岐まさき島産の花崗岩を用いました。
地中を一丈ほど掘り込み、設置後はコンクリートで固め、基礎を堅牢にしました。
さらに像と石台の間には円柱形の鋳鉄台を据え、台には三条実美による賛を刻字しました。

像高10尺、鋳鉄台14尺、石台18尺。
総高12m余の大村益次郎の除幕式は、明治26年1月29日に予定されましたが、大雪で順延され、2月5日に盛大に行われました。
午後1時から式典が開催され、翌日の新聞『時事新報』には「靖国神社創立以来の盛況」と報道され、見物客も詰めかけました。

片手に双眼鏡を持つ大村像は、東北方角を眺める位置に設置されました。
また近年まで石台の周囲に、品川砲台にあった砲八門が据えられ、矢屏風型の鉄柵が周囲を囲んでいました。
像の正式名称は「兵部卿大村益次郎像」といいます。
靖国神社は、幕末に大村が開いた私塾鳩居堂の至近にあります。
幕末維新江戸東京史跡事典より


営団地下鉄半蔵門線、都営地下鉄新宿線九段下駅を北側に出て、西へ向かうと250mで行けます。

鳥居の向こうに小さく銅像が見えています。
しかし、近づいて行くと驚きます。
大きい!
石台もあまりに高いので、大村益次郎の顔は、はっきりと見えないほど上空にあります。
写真を撮るにしても、簡単なカメラではズームでも思うように撮れません。
どうしてこんなに高く作ったのでしょう?
不思議です。
手に持つ双眼鏡を使うためですか?
でも下から見てもらえない銅像って…。

そういえば大阪府大阪市法円坂(国立大阪病院横)にある、大村益次郎殉難之碑も驚くほど大きなものでした。
大村益次郎は大きいもの好きだったのですかね。
それとも大村を好きな人、敬愛している人達が大きいもの好きだったのですか。
西郷隆盛に負けたくなかったとか。
ん~どうなのでしょうね。

大村益次郎像を見に行く人にとっては、遠くからでも見えるので、見つけるのに苦労はしません。
それだけは有難いです。
靖国神社はそれなりの人がお参りに来られています。
幕末の史跡巡りの人はどれぐらいいてるのでしょうか。


麻100%シンプル折りたたみ日傘(1060) ブラック麻100%シンプル折りたたみ日傘(1060) ブラック
()
不明

商品詳細を見る


靖国神社

彰義隊戦死者墓

2009年03月17日
上野公園内には、彰義隊戦死者の墓(東京都台東区上野公園1 上野恩賜公園内)があります。
上野彰義隊墓
慶応4年5月15日の上野戦争で戦死した彰義隊士の遺体は、新政府軍をはばかって、上野山内に放置されたままでした。
円通寺の僧侶仏麿は侠客三河屋幸三郎とはかり、火葬を新政府軍に願い出、許可されました。
18日に266名の遺体を集めました。
このうちの一部を当時、山内の山王台にあった長さ55m、幅20mほどのごみ溜め用の穴の周囲で火葬し、その骨は円通寺に運ばれ、残りは穴の中に埋められました。

その後、彼らの慰霊が建議され、明治7年9月19日に寛永寺が時の東京府知事大久保一翁に墓碑建立を出願し、10月12日に許可されました。
しかし、資金調達が難航したため、同14年11月7日に再建願書を提出、12月5日に再び許可を得て、山岡鉄舟の筆による高さ6.7mの「戦死之墓」が上野公園内に建立されました。

また墓碑の台座の上に60㎝程の小碑が建てられていますが、これは「戦死之墓」建立時の工事中に土中より発見されたもので、正面には、
 慶応戊辰五月十五日
彰義隊戦死之墓
 発願回向主沙門松国
と刻まれています。
発願者の「松国」は、上野山内の護国院と寒松院の寺名から一文字ずつとったもので、両院の清水谷慶順と多田孝泉によって、明治2年に建立されたといいます。

裏面には「昔時布金地 今日草茫々誰笑千年後 却憐古戦場」の漢詩と、
「あはれとて尋ぬる人もなきたまのあとをし忍ぶ岡の辺の塚」という和歌が刻まれています。

<上野戦争>
上野戦争とは、慶応4年5月15日の戊辰戦争の戦闘の1つです。
江戸上野(東京都台東区)において彰義隊ら旧幕府軍と薩摩藩、長州藩を中心とする新政府軍の間で行われた戦いです。

抗戦派の幕臣や一橋家家臣の渋沢成一郎、天野八郎らは彰義隊を結成しました。
彰義隊は当初本営を本願寺に置きましたが、後に上野に移しました。
旧幕府の恭順派は彰義隊を公認して、江戸市内の警護を命ずるなどして懐柔をはかりましたが、徳川慶喜が水戸へ向かい、渋沢らが隊から離れると彰義隊では天野らの強硬派が台頭し、旧新選組の残党(原田左之助が参加していたといわれる)などを加えて、徳川家菩提寺である上野の寛永寺(現在の上野公園内東京国立博物館)に集結して、輪王寺公現入道親王(後の北白川宮能久親王)を擁立しました。

新政府軍は長州藩の大村益次郎が指揮しました。
大村は武力殲滅を主張し、上野を封鎖するため各所に兵を配備してさらに彰義隊の退路を限定する為に神田川や隅田川、中山道や日光街道などの交通を分断しました。
大村は三方に兵を配備し、根岸方面に敵の退路を残して逃走予定路としました。

5月15日、新政府軍側から宣戦布告がされ、午前7時頃に正門の黒門口(広小路周辺)や即門の団子坂、背面の谷中門で両軍は衝突。
戦闘は雨天の中行われ、北西の谷中方面では藍染川が増水していました。
新政府軍は新式のスナイドル銃の操作に困惑するなどの不手際もあったのですが、加賀藩上屋敷(現在の東京大学構内)から不忍池を越えて佐賀藩のアームストロング砲や四斤半砲による砲撃を行いました。
彰義隊は東照宮付近に本営を設置し、山王台(西郷隆盛銅像付近)から応射していました。
西郷が指揮していた黒門口からの攻撃が防備を破ると彰義隊は瓦解します。
午後5時には戦闘は終結、彰義隊はほぼ全滅しました。

結果、新政府軍は江戸以西を掌握。
敗戦した彰義隊は有志により輪王寺宮とともに隠棲し、榎本武揚の艦隊に乗船し、平潟港(現茨城県北茨城市)に着船。
春日左衛門率いる陸軍隊等、一部の隊士はいわき方面で、残る隊士は会津へと落ち延びました。
戊辰戦争の前線は北陸、東北へ移りました。


※ 2008年7月21日 円通寺の記事を参照してください。
幕末維新江戸東京史跡事典&Wikipediaより

JR上野駅の目の前です。
営団地下鉄銀座線上野駅でも目の前です。
西郷隆盛像の背後あたりにあります。

上野公園の有名人西郷隆盛像よりも行きたかったのが、彰義隊戦死者の墓でした。
西郷隆盛像も実物を見たかったですよ。
西郷隆盛像が40%、彰義隊戦死者墓60%といったところでしょうか。

彰義隊戦死者の墓は、柵があり遠くからしかお参りできませんでした。
今はこのような状態ではないのでしょうか?
インターネットでチェックしていると、もっとスッキリした状態の写真をみました。
まわりの屋根や建物が無い写真です。
もししれならもう一度訪れて、明治2年の小さな石碑をちゃんと見てみたいです。

彰義隊には新選組の原田左之助が参加したといわれているので、激戦地となった上野には行きたかったのです。
時間的関係か、彰義隊のこの場所に訪れる人に会いませんでした。
原田左之助は上野戦争で負傷して死亡したとの説もあります。
ただ神保邸で死亡したとの説なので、ここで火葬され、埋められた可能性は低いようです。
それでもこの上野で戦った可能性は高いようです。
大陸に渡って馬賊になったとの説もあって、真相は不明なままなのがいいのかもしれませんね。

そういえば原田左之助は美男子だったといわれています。
性格は高慢だったそうですが…。
沖田総司とともに、写真も肖像画も残っていないのが残念です。
あまり悪い話も読んだ事がありませんし、高慢なイメージはないですね。

彰義隊のドラマって見ませんね?
大河ドラマにでも取り上げられたら、一気に彰義隊ブームが来そうで、それはそれでちょっと嫌かもしれません。
赤報隊は当時“偽官軍”の汚名を着せられ、昭和になってやっと名誉が回復したのに、赤報隊を名乗る凶悪犯罪が20年前から起こり腹立たしく思います。
彰義隊までもが同じようにならない事を願います。

怪奇心霊語り 上野彰義隊の怪編 (ほんとにあった怖い話コミックス)怪奇心霊語り 上野彰義隊の怪編 (ほんとにあった怖い話コミックス)
(2007/02/15)
不明

商品詳細を見る


上野公園

西郷隆盛像

2009年03月17日
上野公園にある西郷隆盛像(東京都台東区上野公園・池之端三丁目 上野恩賜公園内)です。
上野西郷隆盛像
薩摩藩士。通称を吉之助。
大久保利通とともに討幕を画策して、慶応2年には薩長同盟を締結、同3年12月に王政復古がなると、江戸の藩邸に浪士を結集させて旧幕府を挑発しました。
その結果、庄内藩兵らによる薩摩藩邸焼き討ち事件が勃発し、これが鳥羽・伏見の戦いの引き金となりました。
戊辰戦争では東征大総督府参謀をつとめ、勝海舟との会談で江戸総攻撃を中止しました。

明治10年の西南戦争において自刃。享年51歳。
上野公園内にある銅像は高村光雲の作で、明治31年に建立されました。

身長:370.1㎝
胸囲:256.7㎝
足 : 55.1㎝
連れている犬は「ツン」という名前です。
幕末維新江戸東京史跡事典などより


JR上野駅の目の前です。
営団地下鉄銀座線上野駅でも目の前です。

この西郷隆盛の銅像が有名な銅像ですよね。
「これかぁ~」と見てしまいました。
西郷隆盛の顔が本人とは似ていないというのは、今となっては周知の事実です。
本当の西郷隆盛の顔は?
朝のワイドショーでもシリーズ化して放送しています。
でももうイメージが出来ているので、あまり男前な西郷隆盛が出てきても困ります。

(今はわかりませんが)私が訪れた時は、駅前がゴミゴミしていて、ホームレスの人も多く見かけました。
綺麗な印象ではありませんでした。
公園の中は特にゴミが溢れているのではありませんが、寝ている人も多くて少し怖く思いました。

篤姫 有田焼 焼杉台付焼酎サーバー n_ama-668251篤姫 有田焼 焼杉台付焼酎サーバー n_ama-668251
()
不明

商品詳細を見る


NHK大河ドラマ 篤姫-総集編-DVD-BOXNHK大河ドラマ 篤姫-総集編-DVD-BOX
(2009/03/13)
宮崎あおい瑛太

商品詳細を見る


テレビ朝日 スーパーモーニング 西郷隆盛

本傳寺

2009年03月16日
本傳寺(東京都文京区大塚4丁目42-23)です。
本傳寺?

営団地下鉄丸ノ内線新大塚駅を南側の出口(大塚5交差点)から出ます。
南へ400m、消防署(大塚出張所)の交差点を東へ曲がります。
曲がるとすぐに本傳寺があります。

これを書くにあたり、「はて、どうして本傳寺へ行ったのだろう?」となりました。
新選組&幕末関係の本を開いてみても、大塚3丁目の智香寺や5丁目の護国寺などしか載っていません。
もしかして、「――といわれている。」とかの類の話だったのかな?
などとも考えてみました。
当時の日記を奥から引っ張り出してみたりもしました。

しかしわかりません。
困ったぁ~。
インターネットでヒントになる言葉をようやく見つけました。

鬼平犯科帳”です。
そうそう、“鬼平犯科帳”ですよ!
新選組研究をされている先生が、“鬼平犯科帳”長谷川平蔵の舞台の史跡も研究されていて(私はそう解釈したのですが、微妙に違っていたらすみません。新選組研究は間違いありません。)、友人がその先生の勉強会(新選組)で、このお寺の話を聞いたという事だったはずです。

新選組研究の先生関係の史跡でした。

このお寺は“鬼平犯科帳”ではなく、“剣客商売”の舞台だそうです。
どちらも池波正太郎氏の有名な作品です。

新選組&幕末史跡巡りの途中、近くを通ったので、本傳寺の前まで行ってみたのです。
やはり、新選組&幕末関係でないと、すぅ~っと記憶から抜けてしまっていたようです。
思い出してよかったです。
どの時代にもかかわらず、史跡巡りは好きなのですが…。
これからはちゃんとメモを残しておかないとダメですね。
フッと忘れる事がありますからね。


鬼平犯科帳 スペシャル 兇賊 [DVD]鬼平犯科帳 スペシャル 兇賊 [DVD]
(2007/04/26)
中村吉右衛門多岐川裕美

商品詳細を見る


剣客商売 第1シリーズ《第1・2話収録》 [DVD]剣客商売 第1シリーズ《第1・2話収録》 [DVD]
(2004/02/25)
藤田まこと渡部篤郎

商品詳細を見る


池波正太郎 鬼平犯科帳

慶養寺

2009年03月16日
慶養寺(東京都台東区今戸1丁目6-22)は新選組に関係があったかもしれません。
慶養寺1  慶養寺2
4月10日、江戸城明け渡しの前日、歳三らは酒井邸(東京都千代田区丸ノ内)より今戸八幡別当寺に移りました。
慶養寺がそれだといいます。
土方歳三写真集より


営団地下鉄銀座線、都営地下鉄浅草線、東武伊勢崎線の各浅草駅が近いですか?
駅を降りると国道6号を言問橋西まで北に歩きます。
言問橋を渡らずに、国道から川に近いほうの道を100mさらに北へすすむと慶養禅寺があります。

慶養寺が今戸八幡別当寺だといわれています。という事なので、確実とはいえません。
ただ“今戸”とつく寺に移ったようなので、この付近だったことには間違いないでしょう。
江戸城明け渡しの前日…。
土方はどんな気持ちだったのでしょう。
最後の砦の江戸城が落ちると悲嘆したのでしょうね。
ただ土方歳三が江戸城明け渡しを知ったのは、明け渡し後でした?

たかが江戸城一つぐらい。
徳川家さえ命があれば、また政権を奪取してやる!
ぐらいの気持ちの切り替えをしたのかもしれません。
そうであれば、アクティブさを見習わなければ!


子孫が語る土方歳三子孫が語る土方歳三
(2005/05)
土方 愛

商品詳細を見る


東京都台東区

松陰神社駅前看板-東京松陰神社補遺

2009年03月16日
松陰神社(東京都世田谷区若林4-35-1)に向かう途中、東急世田谷線の松陰神社駅前で見た看板です。
松陰神社駅前353
写真入りです。
隣に微かに写っている地図も撮っておけばよかったです。
後悔です。

松陰神社はこの辺りの、ランドマークなのですね。
東京松陰神社の補遺として追加しておきます。

桜田門

2009年03月15日
桜田門外の変がおこった、江戸城桜田門(東京都千代田区 皇居)です。
桜田門
桜田門は、江戸城の内堀に造られた門の一つで、桜田堀と凱旋堀の間にあります。
江戸城には内桜田門と外桜田門の2つが存在しますが、前者は桔梗門とも呼ばれ、単に「桜田門」という場合には後者を指すことが多いです。

安政7年にこの門の近くで水戸藩浪士による、大老井伊直弼の暗殺事件(桜田門外の変)が起きました。
井伊邸は現在憲政記念館の建っている辺り、桜田門から西に500メートルほどの所にありました。
桜田門の正面(豊後杵築藩松平家屋敷跡)には現在、警視庁の庁舎があります。

<桜田門外の変>
当日朝、襲撃者一行は決行前の宴を催し、一晩過ごした東海道品川宿の旅籠を出発し、東海道(現:国道15号)に沿って進み、大木戸を経て札ノ辻を曲がり、網坂(東京都港区、慶應義塾大学付近)、神明坂、中之橋(現在の首都高速道路都心環状線を過ぎる)を過ぎて桜田通りへ抜け、愛宕神社(港区)で待ち合わせたうえで、外桜田門へ向かいました。
そして、藩邸上屋敷(現在憲政記念館の地)から内堀通り沿いに登城途中の直弼を江戸城外桜田門外(現在の桜田門交差点)で襲撃しました。
井伊家には警告が届いていたが、直弼はあえて護衛を強化しなかった。

当日は季節外れの雪で視界は悪く、護衛の供侍たちは雨合羽を羽織り、刀の柄に袋をかけていたので、襲撃側には有利な状況でした。
江戸幕府が開かれて以来、江戸の市中で大名駕籠を襲うという発想そのものが想定外で、彦根藩側の油断を誘いました。
襲撃者たちは『武鑑』を手にして大名駕籠見物を装い、直弼の駕籠を待っていたのです。

駕籠が近づくと、まず前衛を任された森五六郎が駕籠訴を装って行列の供頭に近づき、取り押さえにきた日下部三郎右衛門をやにわに斬り捨てました。
こうして護衛の注意を前方に引きつけておいたうえで、黒沢忠三郎(関鉄之介の説あり)が合図のピストルを駕籠にめがけて発射し、本隊による駕籠への襲撃が開始されたのです。

発射された弾丸によって直弼は腰部から太腿にかけて銃創を負い、動けなくなりました。
襲撃に驚いた駕籠かきは遁走し、数名の供侍たちが駕籠を動かそうと試みたものの斬り付けられ、駕籠は雪の上に放置されました。
彦根藩士たちは柄袋が邪魔して咄嗟に抜刀できなかったため、鞘で抵抗したり、素手で刀を掴んで指を切り落とされるなど不利な形勢でしたが、二刀流の使い手として藩外にも知られていた河西忠左衛門だけは冷静に合羽を脱ぎ捨てて柄袋を外し、襷をかけて刀を抜き、駕籠脇を守って稲田重蔵を倒すなど襲撃者たちをてこずらせました。
しかし、一人では抵抗しきれず、遂に斬り伏せられました。
(河西の刃こぼれした刀は彦根城博物館に保存されています)

護衛のいなくなった駕籠に、次々に刀が突き立てられました。
さらに有村次左衛門が扉を開け放ち、虫の息となっていた直弼の髷を掴んで駕籠から引きずり出しました。
直弼は地面を這おうとしたが、有村が発した薬丸自顕流の「猿叫」とともに、首は鞠のように飛びました。
襲撃開始から直弼殺害まで、わずか数分の出来事だったといいます。

有村らは勝鬨をあげ、刀の切先に直弼の首級を突きたてて引き上げにかかったが、昏倒していた小河原秀之丞が鬨の声を聞いて蘇生し、主君の首を奪い返そうと有村に追いすがって後頭部に切りつけました。
小河原は広岡小之次郎らによって斬り倒されたが、有村も重傷を負って歩行困難となり、若年寄遠藤胤統邸の門前で自決しました。

襲撃を聞いた彦根藩邸からは直ちに人数が送られたが後の祭りで、やむなく死傷者や駕籠、さらには鮮血にまみれ多くの指や耳たぶが落ちた雪まで回収しました。
直弼の首は遠藤邸に置かれていましたが、所在をつきとめた彦根藩側が、闘死した藩士のうち年齢と体格が直弼に似た加田九郎太の首と偽ってもらい受け、藩邸で典医により胴体と縫い合わされました。

襲撃側のうち、最初に駕籠目掛けて斬り込んだ稲田重蔵は河西に斬り倒され即死。
有村次左衛門のほか広岡小之次郎、山口辰之介、鯉渕要人は彦根藩士たちの必死の反撃で重傷を負い、他の藩邸に自首したのち自刃しました。
他の者も多くは自首したり捕縛された後に殺害されたり、獄死しています。
増子金八と海後磋磯之介は潜伏して明治期まで生き延びました。

井伊家の側は直弼以外に8人が死亡(即死者4人、後に死亡した者4人)し、13人が負傷しました。
死亡者の家には跡目相続が認められましたが、直弼の護衛に失敗した生存者に対しては、2年後の文久2年に処分が下されました。
草刈鍬五郎など重傷者は減知のうえ、藩領だった下野の佐野に流され揚屋に幽閉。
軽傷者は全員切腹が命じられ、無疵の者は士分から駕篭かきにいたるまで全員が斬首、家名断絶。処分は本人のみならず親族に及び、江戸定府の家臣を国許が抑制することとなったのです。
Wikipediaより


営団地下鉄有楽町線桜田門駅を東側に出た目の前です。

私が桜田門を訪れたのは、午前7時頃でした。
写真もほぼ同時刻のものです。
冬の朝の澄み切った空気の中、人もほとんどおらず静かな皇居外苑を楽しみました。

この時は、東京に用事がありました。
今は廃止となってしまった、寝台急行銀河に乗って東京に午前6時42分に東京駅に着きました。
朝食を取るにも早すぎるので、友人と皇居探索に出かけたのです。
東京駅から、和田倉門に入り桜田門へ歩いたと思います。

さすがに桜田門は幕末好きでなくても知っていますからね。
桜田門外の変は歴史の教科書に出てきます。
この付近で井伊直弼が襲われたのですが、今は静かでそんな事があった気配もありません。
江戸幕府の一大転機がここで始まったわけです。
当時も天守閣は再建されていなかったというので、風景的には劇的な違いは少ないのではないでしょうか。

この場所に、即死者の遺体や、切り落とされた耳や指が落ちていたのです。
血の海だったのでしょう。
想像するとゾッとします。
きっと私の想像程度では、現実は追いついていないのでしょう。

井伊直弼が襲われたのは、本人の政策によるものです。
それぐらいの覚悟はしていたでしょう。
しかし、駕籠かきまでが無傷だったから斬首、というのは行き過ぎではないでしょうか。
家名断絶という親族にまで及んでいます。
当時の処罰などを現在聞いて、眉をひそめることは多々あります。
でもそれは時代時代の思想の違いだと思っていますが、この処分に関してだけは納得がいきません。
どうにか江戸時代だからと納得させるとしても、井伊直弼を護衛する武士が斬首の刑と言い渡されるまでです。
駕籠かきという、士分でないような人にまでというのは、どうしても納得できません。


JR特急列車年鑑2009 (イカロス・ムック)JR特急列車年鑑2009 (イカロス・ムック)
(2008/10/21)
不明

商品詳細を見る


夜行列車に乗る!―いまのうちに味わっておきたい寝台列車BLUE TRAIN ALL GUIDE (別冊ベストカー)夜行列車に乗る!―いまのうちに味わっておきたい寝台列車BLUE TRAIN ALL GUIDE (別冊ベストカー)
(2008/04)
不明

商品詳細を見る


JR 寝台車

田村銀之助墓-智香寺

2009年03月15日
伊庭八郎の死を看取った田村銀之助の墓が、智香寺(東京都文京区大塚3丁目28-7)にあります。
田村銀之助墓
田村銀之助は、陸奥磐城平出身。
田村半右衛門の五男で、兄一郎、録四郎もともに新選組隊士です。

慶応3年秋、江戸で入隊した銀之助は13歳でした。
隊士とはいっても年少のため、実践参加は箱館に渡ってからでした。
『史談会速記録』には、新選組が流山へ転陣する前後のこと、会津から仙台へ落ちる逃避行、さらに箱館五稜郭開城前後の証言があります。

銀之助は、経緯はわかりませんが、彰義隊頭取の春日左衛門の養子であったため、五稜郭内で負傷して寝ている春日の世話をしており、開城となる直前、春日と傍で寝ていた伊庭八郎らの最期の光景を語り残しています。
総裁榎本付きであった彼は、謹慎が解けた後、一時、黒田清隆のもとにいました。
榎本から黒田に託されていたようで、のちに黒田の北海道開拓にも同行しています。
沢簡徳のもとで書生をしていて、殺人事件に巻き込まれて飛び出し、陸軍教導団に入りました。

西南戦争にも参加しましたが、長州閥の壁の厚さから陸軍に嫌気がさして、竹橋騒動の時、合流しようとしましたが果たせずに断念、陸軍を辞めました。
再び黒田に従って北海道開拓に同行したり、警察署に奉職して日比谷焼討ち事件に遭遇したり、波乱に富んだ後半生を送りました。
向こうっ気が強く、ケンカっ早いが、情に厚い人だったそうです。

娘のはる女は幼いうちから英語を銀之助から学びました。
女学校に入ってみると、学校で習う英語と父の英語が違いました。
父の英語は、箱館でフランス人・ブリュネーから教えてもらった、仏語のアルファベットだったようです。

大正13年8月20日、69歳で死去(65歳とするものもありました)
「田村家之墓」に合葬され、墓側面に名前があります。
幕末維新江戸東京史跡事典&新選組大事典より


営団地下鉄丸の内線新大塚駅を大塚5丁目交差点の方に出ます。
そのまま南へ歩くと、400mほど行くと消防署大塚出張所があります。
そこで東に曲がります。
約300mで大塚窪町公園が見えて来ますが、公園の東隣にお寺があります。

今回、お寺まではちゃんと行く事はできました。
智香寺と刻まれた石は道路に面して建っていますが、門は階段を登った上にあります。
しかしながら、お墓を見つける事が出来なかったのです。
時間があればゆっくりと探すことが出来たのですが、より多くの史跡を回ろうと、時間を短くしか取っていなかったのがミスでした。
もっと簡単に見つかるはずだったのですが…。

新選組初期からの隊士だったら、もう少し時間をどうにかしたのですが、慶応3年からの新選組隊士だったので(今考えても、すごい理由ですね)、お寺の場所が判ったからいいやとしました。
でも考えてみれば、伊庭八郎の最期を知っている人だったのですよね。
あ~これもミスった?!

田村銀之助は写真が残っていますが、少年の頃の写真ですよね?
童顔で、実は30代の頃の写真です。エッ。なんて云わないですよね。
整った顔立ちをしていると思うのです。
可愛いって感じでしょうかね。
気が強そうな雰囲気は特にないのですが、新選組に入ろうと思うくらいですから、気が弱いはずはないですね。


伊庭八郎のすべて伊庭八郎のすべて
(1998/06)
新人物往来社

商品詳細を見る


伊庭八郎

帝国ホテル中央玄関

2009年03月14日

博物館明治村(愛知県犬山市内山1番地)に移築されている、帝国ホテル中央玄関です。
帝国ホテル玄関298
この建物は、アメリカの建築家フランク・ロイド・ライトによって設計され、大正12年4年間の大工事の後に完成した帝国ホテルの中央玄関部です。

中央玄関は、軒や手摺の白い大谷石の帯が水平線を強調していて、またその帯が奥へ幾段にも重なっています。
大谷石には幾何学模様の彫刻を施し、レンガには櫛目を入れて、柔らかで華麗な外観を出しています。
移築に当たり、風化の著しい大谷石に代えてプレキャストコンクリートなどの新建材も使いました。

メインロビー中央には三階までの吹き抜きがあります。
中央玄関内の全ての空間は、この吹き抜きの廻りに展開しています。
その個々の空間は、床の高さ、天井の高さがそれぞれに異なっていて、大階段、左右の廻り階段を昇る毎に視界が開かれます。
建物内外は、彫刻された大谷石、透しテラコッタによって様々に装飾されています。
左右ラウンジ前の大谷石の壁泉、吹き抜きの「光の籠柱」と大谷石の柱、食堂前の「孔雀の羽」と呼ばれる大谷石の大きなブラケットは圧巻です。
博物館明治村HPより


桂太郎の墓所を紹介した後に、突然この博物館明治村の帝国ホテル中央玄関を紹介したのは、この帝国ホテル中央玄関内部に、ポーツマス条約」に使われた机が展示されているからです。
ポーツマス条約は日本全権小村寿太郎が調印の席についていますが、その時の首相が桂太郎だったのです。

机は特別ガラスケースに入れられているのでもなく、ロープ一本で隔たれているだけでした。
子供でも手を伸ばせば届くほど近くでした。
大人の男性が5人横に並んで座れる程の大きさですから、大変大きなものでした。
卓球をするには相手まで遠すぎ、ビリヤードには幅が足りない。
おもちゃのボーリングをするのにちょうどいい大きさかも…。
歴史的展示物を前に、そんな事を考えました。

今から100年少し前の話です。
100歳をこえる長寿の方は、この机が使われた時にはもう生まれていたってことですね。
そう考えると、つい最近の話のようにも思えてきます。

幕末時には特に名前を聞かなかった桂太郎は、明治になって活躍する人でした。


食のバランス型紙によるしあわせダイエット食のバランス型紙によるしあわせダイエット
(2007/12/25)
小西すず

商品詳細を見る



武庫川女子大学 甲子園会館
博物館明治村
帝国ホテル
ポーツマス条約
 | HOME | Next »