新選組&幕末 ばんざい!!

新選組を中心に歴史の舞台を巡ります

アーカイブモード [2009年02月 ] 記事一覧

悟真寺

悟真寺(京都府京都市伏見区榎町)は、天正3年、月公上人の開基による浄土宗の寺です。           戊辰之役東軍戦死者之碑門前左に“東軍戦死者埋骨所”の標石があります。 本堂前には、“戊辰之役東軍戦死者之碑”が建っています。 榎本武揚書、十七日会建立のもので、当寺内の埋骨地が二ヶ所あることを示しています。 本堂裏手墓地内東中央辺に1基、西北端近くに1基、ともに戦死者埋骨の場所で...

伏見奉行所跡

新選組が屯所とした、伏見奉行所跡(京都府京都市伏見区東奉行町 市営桃陵団地)です。    慶長5年に創設の伏見奉行所も、実際は寛文6年に水野石見守忠貞が初めて伏見支配に専念する奉行となりました。 伏見奉行所には、与力10騎・同心50人が属して、伏見市街と周辺9ヶ所の支配をしました。 安政6年に奉行に就任した林肥後守忠交(上総請西藩主)が慶応3年5月病没した後、幕府は後任者を任命せず、慶応3年11月20日伏見奉...

城南宮-補遺

城南宮(京都府京都市伏見区中島宮の後町)の写真です。 2008年10月20日の“城南宮”を見てください。そちらにも写真を追加しておきます。...

御香宮

慶長10年家康の再建に成り、伏見城の遺構を多く残す御香宮(京都府京都市伏見区御香宮門前町)です。 慶応4年正月、伏見方面守備の主力薩摩藩は、司令島津式部麾下の将兵800名が、御香宮を中心に東方龍雲寺方面を固めていました。長州兵125名は、その他の寺院に駐屯していました。 これに対して、正月2日から3日にかけて、伏見方面に詰めかけた幕府の先鋒は3,000名に及びました。竹中丹後守を長とする会津藩の主力は、新選組15...

仁和寺

『徒然草』の「仁和寺にある法師」の仁和寺(京都府京都市右京区御室大内町)です。    慶応3年12月9日、第30代門跡純仁法親王は還俗され、翌年正月3日軍務総裁を命じられ、4日征討大将軍を拝命し、錦旗・節刀を賜って、鳥羽伏見の戦いに臨まれました。 明治3年東伏見宮を称されて、同15年12月、小松宮彰仁親王と改められました。 仁和寺は、仁和2年光孝天皇の発願、同4年宇多天皇の時竣工。 真言宗御室派の大本山で、宇...

明石藩邸跡

明石藩邸跡(京都府京都市中京区御幸町通丸太町下ル毘沙門)だそうです。 明石藩は、親藩のため、親幕傾向が強く、慶応2年6月、第二次征長のとき出兵し、長州軍を敗退させています。 鳥羽伏見の戦いには、海陸両面から大坂に出兵しましたが、途中で引き返しました。 このため、山陽道鎮撫軍の進駐をうけ、同族の松平慶永の取り成しにより、恭順が認められた。 別冊歴史読本幕末維新三百藩諸隊始末より 京阪電鉄神宮丸太町駅を西...

五条大橋

♪京の五条の橋の上 大のおとこの弁慶は 長い薙刀ふりあげて 牛若めがけて切りかかる の童謡で有名な、五条大橋(京都府京都市下京区および東山区)です。 五条大橋は弁慶と牛若丸が出会った場所とされています。 橋の西側、河原町通との交差点近くのグリーンベルト内には、その状景を模した京人形(御所人形)風の2体の石像があります。 ただし義経記によれば2人の出会いは清水観音の境内となっています。 平安時代の五条通は...

慈照寺(銀閣寺)

銀閣寺は慈照寺(京都府京都市左京区銀閣寺町2)といいます。 足利義政が造営した楼閣建築である観音殿を「銀閣」と通称し、観音殿を含めた寺院全体を「銀閣寺」と通称しています。 鹿苑寺金閣が文字どおり金箔を貼った建物であるのに対し、銀閣には銀箔を貼った痕跡はありません。 (2007年1月5日には科学的調査によって銀箔が全く検出されなかったことが発表されています。) 慈照寺の庭園には多くの名石、名木が配され、建材に...

鹿苑寺(金閣寺)

金閣寺は通称で、鹿苑寺(京都府京都市北区金閣寺町1)といいます。       雪の金閣寺 八王子千人同心の岡本安右衛門が、京都見物の中で強く印象を受けたのが、金閣寺でした。 八王子やその周辺の天領地域に生育した郷士達を中心に組織されたのが、八王子千人同心です。 文久3年、将軍徳川家茂が朝廷の督促を受けて、攘夷実行のため上洛することになりました。 千人同心は上洛の警衛のため、約400人体制で将軍に随行する...

蹴上奴茶屋

蹴上奴茶屋跡(京都府京都市東山区粟田口華頂町)は推測でしかわかりません。       蹴上浄水場    蹴上琵琶湖疏水の桜 慶応元年8月8日、武田観柳斎が隊士を率いて出動し、金策強談中の薩摩藩士2名を捕殺した茶屋です。 特定できる場所は伝わっていないそうですが、蹴上浄水場付近と推定されています。 薩摩藩士橋口四郎、隈本壮助に金策強談に押し入られ、困惑した店主は新選組に通報、これを受けて武田が6名の隊...

佐賀鍋島藩邸跡

佐賀鍋島藩邸跡(京都府京都市下京区四条通 立売中之町?)の碑です。 佐賀藩は、肥前国佐賀郡にあった外様藩で、肥前藩ともいい、鍋島氏が藩主であったことから鍋島藩という俗称もあります。 明治維新を推進した薩長土肥のひとつです。 藩主は鍋島氏。石高は35万7千石。支藩として蓮池藩、小城藩、鹿島藩がありました。 鍋島直正は精錬方という科学技術の研究機関を創設し、鉄鋼、加工技術、大砲、蒸気機関などの研究開発を行い...

渡月橋

嵐山の観光スポットの一つ、桂川に架かる渡月橋(京都府京都市右京区および西京区)です。 承和年間に僧、道昌が架橋したのが始まりとされていて、現在の位置には、後年に角倉了以が架けたとされています。 現在、橋脚は鉄筋コンクリート製ですが、欄干部分は景勝地である嵐山の風景にとけ込むよう木造となっています。 亀山上皇が、橋の上空を移動していく月を眺めて 「くまなき月の渡るに似る」と感想を述べたことから渡月橋と...

天龍寺

臨済宗天龍寺派の大本山、霊亀山天龍資聖禅寺(京都府京都市右京区嵯峨芒ノ馬場町)は、足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うために創建しました。 五山の第1位に列せられるほど栄えましたが、たびたび焼失し、江戸期に復興しましたが、禁門の変の戦火にかかりました。 元治元年6月28日、長州藩家老・国司信濃に率いられた兵団は、天龍寺に入り宿営しました。 7月19日早暁、市中へ向かって進軍し、蛤御門で敗れました。 翌日、薩...

等持院

等持院(京都府京都市北区等持院北町)は、足利尊氏開山の臨済宗天龍寺派の寺で、歴代足利将軍の廟所です。 一時衰えましたが、豊臣秀頼により復興されました。 霊光殿には尊氏の念持仏利運地蔵・足利累代の木像・徳川家康像などが安置されています。 文久3年2月22日夜、等持院へ押し入った17、18人の浪士は、足利三代の木像の首を抜き取り、翌朝、三条河原に梟しました。 高山彦九郎が鞭うってののしったという、足利尊氏塔は...

教王護国寺(東寺)-新選組喧嘩仲裁の地&鳥羽・伏見の戦 薩摩藩陣

延暦13年、平安京の造営とともに創建された東寺は、教王護国寺(京都府京都市南区九条町)といいます。    真言宗の根本道場です。 西にあった西寺とともに二大官寺です。 慶応3年7月2日夜、二条城と東寺に駐屯していた幕府歩兵のそれぞれ数名同士の喧嘩が、島原遊郭で発生しました。 二条城側に死傷者が出たことから、翌3日に二条城側の歩兵数百名が相手側の東寺に押し寄せ発砲する事件に発展しました。 そこへ新選組が総...

正運寺-森孫六墓

東町奉行所与力 森孫六墓のある正運寺(京都府京都市中京区蛸薬師通大宮西入ル北側)です。 東町奉行所与力森孫六は、同僚大河原重蔵と西町与力の渡辺金三郎・上田助之丞と協力して、勤王の志士の捕縛に手柄を立てましたが、逆に薩長の志士に狙われるようになりました。 幕府は4人に江戸引き上げを命じましたが、文久2年9月23日夜、石部で4人とも暗殺団に殺されました。 森・渡辺・大河原の首は、粟田口に梟されました。 正...

異説 小川亭跡

京阪電鉄三条駅ビルの南東隅に“小川亭跡”の碑(京都市東山区縄手通三条下ル西側)が建てられ、多くの書籍ではこの付近に小川亭があったと記されています。 ※2008年7月18日 小川亭跡を参照してください。 しかし、書籍名を忘れてしまったのですが、新選組を知った頃ですからン十年前の見た書籍では、 新選組が三条制札事件で身を隠した酒屋(京都市中京区三条通木屋町東入ル辺り)や、 古東領左衛門寓居跡のあった辺...

紀州藩邸跡

紀州藩邸跡(京都府京都市中京区西洞院通三条下ル東側)です。    貞享年間以降明治初年まで、紀伊和歌山藩の京屋敷がありました。 幕末の頃当藩は天誅組の追討に出陣しました。 第二次征長には、藩主茂承は総督として広島に赴き指揮をとりましたが、麾下の兵や紀州藩の軍艦の活躍も空しく、幕軍側は敗退しました。 紀州藩内の幕末の藩論は、諸派の主張で統一がありませんでしたが、鳥羽伏見の戦の時は官軍につきました。 しかし...

梅田雲浜邸跡

梅田雲浜邸跡(京都府京都市中京区烏丸通御池上ル東側)の碑です。 梅田雲浜は、天保4年18歳の時、京へ上り医学を学び、後大津の上原立斎に師事、その娘信子を娶り、再び京へ上り望楠軒に教え、その住居は高尾・一乗寺・大雲院内・烏丸御池と転々としました。 嘉永7年、幕府に攘夷を促すために江戸へ出立の際、「妻は病床に臥し、児は飢えに叫く」と詠んでいます。 安政2年信子死去。 攘夷一辺倒に、志士の中心となって活動し...

竹内式部寓居跡

竹内式部寓居跡(京都府京都市中京区麩屋町通丸太町下ル西南角)です。 竹内式部は垂加流神道に基づく大義名分論を説き、その将軍あって天子の在すのを知らぬと歎く学問に感化された、若手公卿達の動きを心配した保守派の摂家一統は、所司代に申し入れました。 式部は幾度か奉行所で尋問された後、武蔵・山城・東海道・越後など主な諸国からの重追放に、息子の主計も京都御構に処されました。 宝暦9年5月6日でした。 弟子の公...

対州藩邸跡&対州藩離れ屋敷跡

対州藩離れ屋敷跡(京都府京都市中京区木屋町通姉小路上ル)と対州藩邸跡(京都府京都市中京区河原町通姉小路上ル東側)です。 橋の袂の低い建物付近が“対州藩離れ屋敷跡”、後ろに見えるロイヤルホテルが“対州藩邸跡”です。 対州藩宗氏十万石の京邸は、江戸初期からこの地にあり、控屋敷は道を隔てて南側にありました。 万延の頃、対馬は英国やロシアの接触を受けた結果、藩士たちには攘夷の思想が芽生え...

知恩院

浄土宗の総本山知恩院(京都府京都市東山区林下町)は、観光スポットとしても有名です。 法然上人が浄土宗の布教を始めた地であり、入寂の地でもあります。 我国最大の山門や左甚五郎の忘れ傘で有名な本堂、千畳敷の大集会堂をつなぐ鶯張りで有名な廊下があります。 幕末には薩摩藩主島津忠義や、尾張藩主徳川慶勝の旅宿となりました。 また慶応4年2月30日、御所に赴く途中、縄手通で行列を襲撃され、助かった英国公使パークス...

良正院

知恩院の塔頭良正院(京都府京都市東山区林下町 知恩院塔頭)は、鳥取藩士奥田万次郎が自刃した場所です。    知恩院の西側、桜井忠温の「こゝはお国を何百里」の碑が門前に立ちます。 文久3年5月、京詰となり上京した奥田万次郎は、攘夷派の河田佐久馬ら22人と、8月17日、本圀寺旅宿内で、藩重役黒部権之介ら3人を斬殺しました。 黒部が藩主池田慶徳が尊攘佐幕の争いに巻き込まれないように補佐したためです。 奥田らは自...

本能寺

新選組が本能寺(京都府京都市中京区寺町通御池下ル)の僧を捕えていました。         本堂           信長廟 幕末に本能寺の執事をつとめた菊池竹庵は、日同上人といい種ヶ島の出身で、有馬新七の薫陶を受け、本能寺にあって日夜勤王の志士と往来した為、新選組に捕縛されました。 しかし僧衣のまま捕えたことを逆にねじ込まれて、役人も止むなく釈放しました。 以後は東大谷横の東漸寺で練兵に励みました。 慶...

長徳寺-小林良典墓

長徳寺(京都府京都市左京区川端通今出川上ル下柳町)に小林良典墓があります。 長徳寺墓地に、小林良典の遺髪を埋めた墓があります。 小林良典は安政の大獄の犠牲者。 鷹司家の諸大夫。官位は、民部権大輔兼筑前守従五位下。 嘉永6年米艦来航以来攘夷を主張し、その主前関白鷹司政通、その子輔熙を説いて朝議を動かそうとしました。 また中川宮や左大臣近衛忠熙、内大臣三条実万らや薩摩の日下部伊三次、越前の橋本左内らと親し...

由利公正(三岡八郎)寓居跡

越前藩の財政建て直しと、殖産貿易で名を挙げた由利公正の寓居跡(京都府京都市中京区室町通丸太町下ル東側)です。    由利公正寓居跡を南北から見てみました。 由利公正(三岡八郎)は、越前国足羽郡毛矢町出身の福井藩士です。 19歳の時、越前に来た横井小楠に傾倒、師事しました。 藩財政を研究し、その建て直しを藩より一任されました。 また、富国強兵策を推進し、兵器の製造や藩の特産物改良に専心しました。 龍馬は、文...

金福寺

一乗寺下り松の南東方の山腹に金福寺(京都府京都市左京区一乗寺才形町)があります。    金福寺は、臨済宗南禅寺派のお寺です。 中興の師鉄舟和尚と親しかった松尾芭蕉は、しばしばここに杖を止めました。 後年与謝蕪村が再興した芭蕉庵は、本堂裏手にあり、蕪村の墓も山腹にあります。 井伊大老の懐刀として、反幕派の勢力の駆逐に活躍した長野主膳の妾、村山たかは生晒しにされたのを救われた後、尼となって当寺で亡くなるま...

詩仙堂-久坂玄瑞位牌

石川丈山隠栖の地、詩仙堂(京都府京都市左京区一乗寺門口町)には、久坂玄瑞の位牌が祀られています。 詩仙堂の名の由来は、詩仙の間にある漢・晋・唐・宋の三十六詩人の肖像によります。 仏間の本尊脇の位牌棚の中には 「義寂院長州人久坂義助・忠光院長州人寺島忠三郎各位」 という位牌も祀られています。 石川丈山は徳川の家臣ですが、夏の陣での抜け駆けを譴責され、辞職剃髪して当地に30余年隠栖し、寛文12年5月23日没しま...

伏見稲荷大社

全国稲荷の総本社の伏見稲荷大社(京都府京都市伏見区深草藪ノ内町)は、毎年初詣の人出が全国トップ5に入ります。     千本鳥居 伏見稲荷大社は和銅4年創始といわれ、1200年の歴史を持ちます。 文久3年8月の政変で京を去った七卿の中、錦小路(病没)、沢(生野銀山挙兵)両卿を除く、三条実美以下、三条西、東久世、壬生、四条の五卿は、慶応4年12月14日夜、配所太宰府において復官入京の沙汰を受けました。 19日出立...

間部詮勝宿所跡

間部詮勝宿所跡(京都府京都市中京区寺町通二条下ル東側)の碑です。 安政5年9月17日、老中間部下総守詮勝(越前鯖江藩主)は、所司代の経験を買われて入洛し、寺町二条の妙満寺を宿所にしました。 上洛の目的は、6月に幕府が調印した日米通商条約に激怒された孝明天皇が、譲位すると言い出したので、困り果てた九条関白から事情説明に上京を求められたためでした。 一方では、反幕活動がますます激しくなるので、廷臣を含め攘...

左サイドメニュー

My bookshelf

kamaboko

Author:kamaboko
新選組と幕末だらけの本棚
実は二重になっているので、
後ろにも本棚が…。

Basic Calendar

<01 | 2009/02 | 03>
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28

最近の記事

ブログ内検索

月別アーカイブ

FC2カウンター

右サイドメニュー

Useful information

Let's go for a trip

国内最大級の旅行予約サイト【楽天トラベル】                               旅行の大バーゲン!格安旅行満載の阪急交通社                          オンライン予約・決済可能な日本旅行「赤い風船」国内宿泊                             スーツケースレンタル・トラベルグッズなら【アイレンタル】

Google Search

カスタム検索

Comrade

にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ ブログランキング・にほんブログ村へ

ブロとも申請フォーム