悟真寺

2009年02月28日
悟真寺(京都府京都市伏見区榎町)は、天正3年、月公上人の開基による浄土宗の寺です。
悟真寺1

悟真寺2  悟真寺3
       戊辰之役東軍戦死者之碑

門前左に“東軍戦死者埋骨所”の標石があります。
本堂前には、“戊辰之役東軍戦死者之碑”が建っています。
榎本武揚書、十七日会建立のもので、当寺内の埋骨地が二ヶ所あることを示しています。
本堂裏手墓地内東中央辺に1基、西北端近くに1基、ともに戦死者埋骨の場所です。
将兵64名が葬られいます。
西北の碑の傍らには、会津稲生新助47歳、柴宮八三郎43歳の墓が建てられています。
写真でみる維新の京都より


京阪電鉄および近畿日本鉄道丹波橋駅からだと、京阪丹波橋駅の北側の丹波橋通りから歩きます。
丹波橋通りを西へ歩いていると、丹波橋が架かっているので渡ります。
橋を渡り3本目の道を北へ曲がります。
(京都中央信金があるのが4本目です)
北へ300m行くと、東側角にあります。

周りにあまりお寺がないので、わかりやすいと思います。
こんなところに埋骨されているのか。と思いました。
当時はこの辺り一帯が鳥羽伏見の戦の地だったのでしょう、しかし現在はこの辺りは住宅地で、城南宮付近や御香宮付近とも離れているので、今ひとつピンッと来ませんでした。
地図を見ると、城南宮と御香宮のちょうど中間あたりです。

埋骨地が2ヶ所もあるそうです。
64名もの人がこの地で眠っているのですが、64名の氏名は記録されているのでしょうか?
名も無き戦死ということなのでしょうか。
会津の稲生、柴宮という2名のお墓が別にあるというのは、この2名だけ氏名が判っていたので、別にお墓が建てられたという事を意味するのでしょうか?

墓地の埋骨地までお参りさせて下さいと、尋ねるのも躊躇われたので、門から見える戊辰之役東軍戦死者之碑のみ見て帰りました。

新選組永倉新八のひ孫がつくった本 (柏艪舎ネプチューンノンフィクションシリーズ)新選組永倉新八のひ孫がつくった本 (柏艪舎ネプチューンノンフィクションシリーズ)
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杉村 悦郎杉村 和紀

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伏見奉行所跡

2009年02月28日
新選組が屯所とした、伏見奉行所跡(京都府京都市伏見区東奉行町 市営桃陵団地)です。
伏見奉行所跡2  伏見奉行所跡
慶長5年に創設の伏見奉行所も、実際は寛文6年に水野石見守忠貞が初めて伏見支配に専念する奉行となりました。
伏見奉行所には、与力10騎・同心50人が属して、伏見市街と周辺9ヶ所の支配をしました。
安政6年に奉行に就任した林肥後守忠交(上総請西藩主)が慶応3年5月病没した後、幕府は後任者を任命せず、慶応3年11月20日伏見奉行所は廃止し、京都町奉行に業務を兼帯させました。

慶応3年12月9日の政変後、永井尚志に従って大坂に下っていた近藤勇と新選組は、下坂二日後に伏見警備を命じられ、元奉行所屋敷へ入り屯所にしました。
翌年正月3日夜、鳥羽伏見開戦の日、伏見口で新選組は繰り返し薩軍陣地へ斬り込みをかけましたが、装備に勝る敵の防御線を突破できず、薩軍の砲撃により奉行所は戦火で灰燼に帰しました。
新選組も会津もその他の友軍とともに伏見を放棄して後退しました。
写真でみる維新の京都&新選組大事典より


御香宮の前を通る、国道24号を400m南に進むと、桃陵団地前のバス停があります。
バス停の東側に団地が並んでいます。
団地のどこに写真の碑があったかの詳細を覚えていません。
団地の入口付近を歩いていると、すぐに見つけることが出来たのです。

ここはまさに新選組が足を踏み入れた場所です。
近藤勇や沖田総司は怪我や病気でしたが、土方歳三は指揮をとりながら奉行所を宿所にして戦っています。
この地に土方歳三がいたんだ~。
同じ地に立って、同じ空気を吸っています。
しかし、見る風景も吸う空気の汚れ具合も違います。
奉行所の一部でも残っていたのなら、もう少し想像しやすいのですが、灰になってしまったらどうしようもありませんね。


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城南宮-補遺

2009年02月27日
城南宮(京都府京都市伏見区中島宮の後町)の写真です。
城南宮

2008年10月20日の“城南宮”を見てください。
そちらにも写真を追加しておきます。

御香宮

2009年02月27日
慶長10年家康の再建に成り、伏見城の遺構を多く残す御香宮(京都府京都市伏見区御香宮門前町)です。
御香宮
慶応4年正月、伏見方面守備の主力薩摩藩は、司令島津式部麾下の将兵800名が、御香宮を中心に東方龍雲寺方面を固めていました。
長州兵125名は、その他の寺院に駐屯していました。

これに対して、正月2日から3日にかけて、伏見方面に詰めかけた幕府の先鋒は3,000名に及びました。
竹中丹後守を長とする会津藩の主力は、新選組150名と浜田の兵を加えて約1,500名が、伏見奉行所や寺々に入って、西軍に対峙しました。

伏見では西軍は御香宮を、東軍は奉行所を拠点として戦いが始まりました。
新選組の土方以下の活躍もむなしく、刀槍に頼り、火力において劣る東軍は、竜雲寺高地からの砲撃に圧倒され、奉行所は火を発しました。
敗色濃い東軍は、火災の延焼とともに日没ごろに退却し始めました。

御香宮には『戊辰戦之役東軍伏見鳥羽淀八幡ニ於テ戦死及殉難者人名簿』があり、新選組の戦死者24名の名も載っています。
写真でみる維新の京都&新選組大事典より


京阪電鉄伏見桃山駅、近畿日本鉄道京都線桃山御陵前駅の東側に位置します。
京阪桃山駅からだと、100m東に近鉄桃山御陵前駅があるので、近鉄を越えます。
近鉄桃山御陵前駅の隣が御香宮の西側にあたります。
JR奈良線桃山駅を利用した場合は、西側になります。
桃山駅の北側の通りを西に200mで御香宮です。

私はなぜか、御香宮に明るいイメージがありません。
訪れるのが曇りの日が多いからか、新選組敗走のイメージがあるからでしょうか。
去年訪れた時は、お宮参りの家族が数組来られていました。
慶事で賑やかでした。
境内には“伏見名水”として名高い、“御香水”が涌いています。
なのに、明るいイメージがないのですよね…。
別にだからどうこうという訳ではないのです。
薩摩ファンの人なら、なんて清々しい場所だ!と思うかもしれません。

伏見戦跡の碑がありましたが、大抵碑の前には車が止められています。
この写真を撮る時もそうでした。
それがとても残念です。

土方歳三はこの地を、憎々しく思いながら戦ったのだと思います。
探索方は御香宮を偵察に来たかもしれません。
薩摩藩士で殺気立っていたのでしょう。
新選組も伏見奉行所跡で、同じように士気が高まっていたとは思います。


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(1998/09)
早乙女 貢

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伏見名水

仁和寺

2009年02月27日
『徒然草』の「仁和寺にある法師」仁和寺(京都府京都市右京区御室大内町)です。
仁和寺2307  仁和寺1306
慶応3年12月9日、第30代門跡純仁法親王は還俗され、翌年正月3日軍務総裁を命じられ、4日征討大将軍を拝命し、錦旗・節刀を賜って、鳥羽伏見の戦いに臨まれました。
明治3年東伏見宮を称されて、同15年12月、小松宮彰仁親王と改められました。

仁和寺は、仁和2年光孝天皇の発願、同4年宇多天皇の時竣工。
真言宗御室派の大本山で、宇多天皇が譲位の後、法務の御所として使われたので御室という名がつきました。
写真でみる維新の京都より


京福電鉄北野線御室駅を降りたところから、仁和寺までは北へ真っ直ぐ150mです。
春の桜の頃に訪れると、御室桜が咲いています。

仁王門から中門までが150m、中門から金堂までがさらに150mという、広い境内です。
広い境内と門の大きさから、どっしりした空気感かと思っていました。
東福寺や大徳寺などのような雰囲気。
しかし、意外とすっきり爽やか、のんびりした空気感でした。

さすがに新選組はここまで来ていないのではないでしょうか。
朝廷縁のお寺ですし…。
小松宮親王は、このお寺で法務を取られているのと、鳥羽伏見の戦いに参戦するのと、どちらがよかったのでしょう。
写真を見ると、“お坊ちゃま”な風貌で、利発そうですが、人も良さそうな感じですよね。
勝っているときは、すごく力を発揮するようなタイプかな。

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(2002/01)
角川書店

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仁和寺 御室桜

明石藩邸跡

2009年02月26日
明石藩邸跡(京都府京都市中京区御幸町通丸太町下ル毘沙門)だそうです。
明石藩邸跡?
明石藩は、親藩のため、親幕傾向が強く、慶応2年6月、第二次征長のとき出兵し、長州軍を敗退させています。

鳥羽伏見の戦いには、海陸両面から大坂に出兵しましたが、途中で引き返しました。
このため、山陽道鎮撫軍の進駐をうけ、同族の松平慶永の取り成しにより、恭順が認められた。
別冊歴史読本幕末維新三百藩諸隊始末より

京阪電鉄神宮丸太町駅を西側に出ます。
丸太町橋を渡り、御所の南東角付近を通る御幸町通を、南に入ったあたりです。

この写真を何故撮ったのか、思い出せませんでした。
それ以前に、撮った場所も忘れてしまって、10年近く謎のままでした。
写真を撮ったからには、幕末に関係があるはずなのです。
“岡田以蔵が誰かを暗殺した地”?とも思いました。

これまでも何度も、少し調べては後回しにしていました。
しかし、今回紹介するにあたり、1時間半かけて必死に調べました。
向かって右手前にある看板の地名と、左側にある会社の看板から場所を探し出しました。
場所は“御幸町通丸太町下ル”辺りだとわかりました。

ではこの場所は何があったのでしょう。
当時持ち歩いて、ボロボロになった地図を引っ張り出してくると、色々な書き込みをした中に“明石藩邸跡”と書いてありました。
念のため、あちこちと本を見てみると、2行だけ“明石藩邸跡”の記述を発見しました。
明石藩邸跡で間違いがないようです。

この本は私が明石藩邸跡を訪れてから購入したような…。
では私は何をみて、明石藩邸跡を調べたのかな?思い出せない(涙)


明石海峡大橋物語明石海峡大橋物語
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岩井 正和

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いかなごくぎ煮
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明石 蛸

五条大橋

2009年02月26日
♪京の五条の橋の上 大のおとこの弁慶は 長い薙刀ふりあげて 牛若めがけて切りかかる
の童謡で有名な、五条大橋(京都府京都市下京区および東山区)です。
五条大橋
五条大橋は弁慶と牛若丸が出会った場所とされています。
橋の西側、河原町通との交差点近くのグリーンベルト内には、その状景を模した京人形(御所人形)風の2体の石像があります。
ただし義経記によれば2人の出会いは清水観音の境内となっています。

平安時代の五条通は、現在の松原通で、「五条の橋」は、現在の松原橋辺りでした。
あるいは鴨川には橋がなく、2人の出会いの地は西洞院であったとも推定されています。

豊臣秀吉が天正17年に、現在の五条通に架け替えさせました。
Wikipediaより


京阪電鉄清水五条駅の真上です。

荒神橋、三条大橋、四条大橋、松原橋など、多くの橋が幕末維新の舞台となっています。
この五条大橋だけが何も無い事はありえません。
それなのに、幕末維新関係でこの橋に関するエピソードをまだ見つける事が出来ません。
どうしてでしょう?

弁慶と牛若丸がこの橋の上で出合ったとすれば、よく映画やアニメで見るように、牛若丸が橋の欄干に飛び移ったりしたのでしょうか?
さすがにあれは人間離れしていますね。

五条大橋では、幕末よりやはり弁慶と牛若丸の想像をしていました。


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(2005/01)
志村 有弘

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慈照寺(銀閣寺)

2009年02月25日
銀閣寺慈照寺(京都府京都市左京区銀閣寺町2)といいます。
銀閣寺122
足利義政が造営した楼閣建築である観音殿を「銀閣」と通称し、観音殿を含めた寺院全体を「銀閣寺」と通称しています。

鹿苑寺金閣が文字どおり金箔を貼った建物であるのに対し、銀閣には銀箔を貼った痕跡はありません。
(2007年1月5日には科学的調査によって銀箔が全く検出されなかったことが発表されています。)
慈照寺の庭園には多くの名石、名木が配され、建材にも贅を尽くしていること、当時の東山文化が茶道趣味と禅宗文化を基調にしたものであったことを考えると、当初から銀箔を貼る計画はなかった可能性が高いと思われます。
「当初は名前のとおり銀を貼る予定だったが、幕府の財政事情のためにできなかった」という説や、
「銀箔を貼る予定であったが、その前に義政が他界してしまった」という説や、
「当初は銀で覆われていたが、剥がれ落ちてしまった」という説があります。
義政の妻日野富子はびた一文たりとも出さなかったという話もあります。

金閣、飛雲閣(西本願寺境内)と併せて『京の三閣』と呼ばれています。
Wikipediaより


京都市営地下鉄東西線蹴上駅から、北の南禅寺を通り、永観堂を通りすぎると、哲学の道にでます。
この辺りまでは、案内標識が多く出ているので、そちらを参考にされた方が確実だと思います。
哲学の道の北端辺りに銀閣寺があります。

金閣寺に行ったのなら、ぜひとも銀閣寺にも行ってみてください。
金閣寺が京都中心図の西端なら、銀閣寺は東端にあたります。
京都の東西両端にあります。

金閣寺が金箔が貼られた華やかななお寺なので、銀閣寺も金閣寺と同じ庭と建物に銀箔が貼ってあるものかなと思っていました。
ところが行ってみると、銀色ではありませんでした。
黒い建物でした。
そして建物自体が小さかったのです!
金閣寺と比べると、随分と小振りで、池も無くて大変地味な感じでした。

日本のわび・さびとはこういうものをいうのでしょう。
私には銀閣寺の方が落ち着く場所でした。
ぜひとも、金閣寺と銀閣寺を訪れて、全くちがうお寺を比べて堪能してみてください。


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足利義政

鹿苑寺(金閣寺)

2009年02月25日
金閣寺は通称で、鹿苑寺(京都府京都市北区金閣寺町1)といいます。
金閣寺113

金閣寺雪景色188
      雪の金閣寺

八王子千人同心の岡本安右衛門が、京都見物の中で強く印象を受けたのが、金閣寺でした。

八王子やその周辺の天領地域に生育した郷士達を中心に組織されたのが、八王子千人同心です。
文久3年、将軍徳川家茂が朝廷の督促を受けて、攘夷実行のため上洛することになりました。
千人同心は上洛の警衛のため、約400人体制で将軍に随行する事になりました。

その時の一人が相州小山村の岡本安右衛門でした。

岡本安右衛門は、文化11年生まれで、この時50歳でした。
26歳の時には
天然理心流の免許状も取得していました。
安右衛門はこの上洛時には、萩原安右衛門と名乗り、千人同心炮術方四番隊士として出立しています。

安右衛門の京都での宿舎は二条通上ル御幸町の大河泰庵宅でした。
城から約1㎞ほどの距離です。

安右衛門の主要任務は、約1日おきに二条城に出仕して警衛にあたりました。
王城の地を訪れた感激からか、安右衛門は到着翌日から、諸寺社への参拝を開始しています。

八坂神社・清水寺・大仏・三十三間堂・方広寺大鐘・東寺・五条大橋。
1日おいて、北野天満宮・平野神社・今宮神社・大徳寺・金閣寺・上賀茂神社・下鴨神社。
特に金閣寺の印象は強かったようです。
翌日は、夜勤前に本能寺の織田信長廟に参詣しています。

安右衛門は4月21日まで、滞京したあと、次いで将軍を警護して大坂に移動しています。

大坂では、4月22日、やはり到着翌日、大坂見物に繰り出しています。
その中に、新町の茶屋・吉田屋の外観を見物した記載があります。
この吉田屋に、この日の昼間、
土方歳三沖田総司が登楼しています。

5月11日、将軍が再度上京、安右衛門も京都に戻っています。
12日、法観寺(八坂の塔)、南座の芝居見物をしています。
16日には祗園の一力に登楼し、秘蔵の大石内蔵助の書簡を拝観し文面を筆写しています。
19日には、京都の浅野長矩の菩提寺、旧今出川の瑞光院を訪ねています。

5月22日、二条と三条河原間に梟首された儒者の家里慎太郎の首を見て、斬奸状を筆写しています。

将軍家茂は6月9日に京都を立ち、大坂を経て帰っています。
6月19日に安右衛門は郷里に帰着しました。
歴史読本クロニクル④幕末京都歴史探検読本より


京福電鉄北野線北野白梅町駅から西大路通を1.3㎞歩きます。
歩くのがちょっと…という方は、バスに乗るのが早いかもしれません。

金閣寺は放火にあって、再建された建物というのは有名です。
何度か金閣寺に行きましたが、金箔を張り替えた直後はあまりにピカピカすぎて、私は好みではありませんでした。

1年に1度か2度ほどは、雪が積もって雪景色の金閣寺を見ることができます。
2枚目の写真は、テレビで「今日は京都も雪が積もっています。」といって金閣寺の映像が写ったので、すぐに行った時の写真です。

岡本安右衛門が見たのは、放火前の金閣寺ですね。
でも雪化粧した金閣寺はみることが出来なかったのです。
雪化粧の金閣寺をみたら、もっと感動してくれたかもしれないですね。
私は昔の金閣寺が見たかったです。

天然理心流つながりで、近藤勇、土方歳三、沖田総司、井上源三郎らも、名前は知っていたかもしれません。
もしかしたら知り合いかも知れなかったですね。
新選組隊士をガイドにすれば、京都をくまなく、穴場に案内してもらえたかもしれません。
そんなガイドなら、私がお願いしたいです。
土方歳三か沖田総司さんでお願いします。


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蹴上奴茶屋

2009年02月25日
蹴上奴茶屋跡(京都府京都市東山区粟田口華頂町)は推測でしかわかりません。
奴茶屋1
      蹴上浄水場

蹴上疎水308
   蹴上琵琶湖疏水の桜

慶応元年8月8日、武田観柳斎が隊士を率いて出動し、金策強談中の薩摩藩士2名を捕殺した茶屋です。
特定できる場所は伝わっていないそうですが、蹴上浄水場付近と推定されています。

薩摩藩士橋口四郎、隈本壮助に金策強談に押し入られ、困惑した店主は新選組に通報、これを受けて武田が6名の隊士を率いて捕縛のために出動しました。
混乱した橋口らは抜刀して反抗したため、武田らはこれに応戦し、橋口を斬殺、さらに隈本を捕縛して屯所へ連行しました。
隈本は尋問後、二本松薩摩藩邸へ送還されました。

この戦いで武田は愛刀を打ち折られたといいます。
橋口の墓所も伝わっておらず、隈本の履歴も不明です。
新選組大事典より


京都市営地下鉄東西線蹴上駅の西側、目の前が蹴上浄水場です。
浄水場はツツジが綺麗で、毎年GW頃には一般公開もされています。
近くの琵琶湖疎水付近は桜が綺麗です。

私の余り好きではない、武田観柳斎が活躍しています?!
あくまでも私の個人的嗜好です。
相手が武士だったといはいえ、2人に対し6人で出動し、1人を斬殺というのは成功ですか?
2人とも捕縛しないとね~。
やっぱり武田観柳斎。

どうしても武田観柳斎については、厳しくなってしまいます。
ゴメンナサイ、武田さん。

橋口四郎の墓所、、隈本壮助に関しては履歴もわからないそうです。
亡くなったあと、誰も自分の事を判らなくなる…寂しいですよね。
現在はわからなくても、当時、せめて孫の代ぐらいまでは、お墓に訪れてくれる人がいてくれていたらいいのですが。


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佐賀鍋島藩邸跡

2009年02月24日
佐賀鍋島藩邸跡(京都府京都市下京区四条通 立売中之町?)の碑です。
佐賀鍋島藩邸跡
佐賀藩は、肥前国佐賀郡にあった外様藩で、肥前藩ともいい、鍋島氏が藩主であったことから鍋島藩という俗称もあります。
明治維新を推進した薩長土肥のひとつです。

藩主は鍋島氏。石高は35万7千石。支藩として蓮池藩、小城藩、鹿島藩がありました。

鍋島直正は精錬方という科学技術の研究機関を創設し、鉄鋼、加工技術、大砲、蒸気機関などの研究開発を行い、幕末期における最も近代化された藩の一つとなりました。
長崎警備を共にしていた福岡藩と共にいち早く牛痘ワクチンを輸入し、当時、不治の病であった天然痘根絶を成し遂げる先駆けになりました。

嘉永2年に日本最初の製鉄所を完成させました。
黒船来航の前年にあたる1852年には反射炉を稼動させています。
黒船来航の半年前、プチャーチン率いるロシアの使節団が長崎に寄港し、模型蒸気機関車を披露。
この公開から得た情報を元に精錬方の石黒寛次、中村奇輔、田中久重らが蒸気機関車と蒸気船の製造を試みました。
(蒸気機関車模型は現在鉄道記念物に制定)
1853年に幕府が大船建造の禁を緩和するとオランダに軍艦を発注し、領内の三重津で海軍所をもち、安政年間には造船産業を興して日本最初の蒸気船「凌風丸」を進水させました。
1855年に長崎海軍伝習所が作られると、学生を派遣。
慶応2年には当時の最新兵器であるアームストロング砲をほぼ自力で完成させ、藩の洋式軍に配備しています。
その他、四斤砲の製造と実用化に成功し、後に品川台場に施された砲台にも利用されました。

中央政局に対しては姿勢を明確にすることなく、大政奉還、王政復古まで静観を続けました。
しかし1867年には藩主直大が新政府から北陸道先鋒に任命されて、佐賀藩兵も戊辰戦争に参加するために東上、江戸における上野戦争などで戦い、その結果、明治政府に多数の人物が登用されています。
副島種臣、江藤新平、大隈重信、大木喬任、佐野常民らが活躍、また田中久重等、多藩の有能な人材を積極的に重用し、日本の近代化に貢献しました。
江藤新平は明治7年に佐賀の乱を起こし処刑されている。

明治4年、廃藩置県により佐賀県となりました。
Wikipediaより

阪急電鉄烏丸駅から東(八坂神社方面)へ、四条通を歩いていると、銀行の角にこの石碑がありました。
はっきりと場所を思い出せないのですが、四条通の南側の通りでした。
高倉通か堺町通か、柳馬場通のいずれかの角です。

四条通というメインストリート沿いにあったので、最初は余りの人通りで写真を撮るのを断念。
2度目か3度目に、少し人通りが少なかったので、思い切って写真を撮りました。
こういう場所にある石碑を写真に撮ろうとすると、朝早く、観光客の人がまだ動き出す前に来ないといけませんね。
建てられたばかりのような、綺麗な碑でした。

そういえば鍋島藩、(またまた出ました!)“竜馬におまかせ”で出ていました。
アームストロング砲を造った藩として。
そうそう思い出しました。
科学の力に長けた藩だったのです。
京都の中心では名前をあまり聞きませんでしたが、実は凄い藩だったのです。
流行に乗らず、我が道を行けるだけ行って、ギリギリまで気配を隠していたのでしょう。

そして無くてはならない藩として、頭角を現し、いつしか“薩長土肥”と呼ばれる藩に成長!
ってことであってます?
一企業の社長としては、素晴しいといえるのではないでしょうか。

薩長土肥の“肥”が佐賀鍋島藩こと肥前藩。
肥後藩では無かったのですね。そうか、肥後藩は熊本藩ですよね。


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司馬 遼太郎

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渡月橋

2009年02月24日
嵐山の観光スポットの一つ、桂川に架かる渡月橋(京都府京都市右京区および西京区)です。
渡月橋
承和年間に僧、道昌が架橋したのが始まりとされていて、現在の位置には、後年に角倉了以が架けたとされています。

現在、橋脚は鉄筋コンクリート製ですが、欄干部分は景勝地である嵐山の風景にとけ込むよう木造となっています。

亀山上皇が、橋の上空を移動していく月を眺めて
「くまなき月の渡るに似る」と感想を述べたことから渡月橋と名付けられました。
Wikipediaより


阪急電鉄嵐山線嵐山駅から真っ直ぐ北へ歩くと、桂川に出ます。
そこに架かる橋が渡月橋です。
あるいは、京福電鉄嵐山線嵐山駅からだと、駅を出て南にまっすぐ進むと、渡月橋に至ります。

嵐山をバックに渡月橋が写った写真はよく目にすると思います。
嵐山というは、この付近一帯の場所の名前かと思っていましたが、嵐山という山があります。
381.5mの山ですが、意外と登ったことがある人は少なくないですか?
モンキーパークなどもありますが、私は猿が怖いのであまり登りたいと思えません。
大阪府箕面市の有名な猿に追いかけられ掛けた事があって、それ以来野生の猿は苦手です。

春は桜、秋は紅葉が有名です。
その時期は綺麗ですが、人も多いので、史跡巡りがメインなら時期を外すのがいいかもしれません。
せっかく遠くから来られるのなら、綺麗な景色も必要ですね。


嵐山 観光

天龍寺

2009年02月24日
臨済宗天龍寺派の大本山、霊亀山天龍資聖禅寺(京都府京都市右京区嵯峨芒ノ馬場町)は、足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うために創建しました。
天龍寺
五山の第1位に列せられるほど栄えましたが、たびたび焼失し、江戸期に復興しましたが、禁門の変の戦火にかかりました。

元治元年6月28日、長州藩家老・国司信濃に率いられた兵団は、天龍寺に入り宿営しました。
7月19日早暁、市中へ向かって進軍し、蛤御門で敗れました。
翌日、薩州兵は長州の残党を掃討にやってきて、寺に火をかけました。
写真でみる維新の京都より


阪急電鉄嵐山線嵐山駅から桂川に向かって歩きます。
渡月橋を渡り、まっすぐまっすぐ進むと、京福電鉄嵐山線嵐山駅があります。
京福電鉄の嵐山駅を通り過ぎたところに、天龍寺への入口があります。

渡月橋を渡ったあたりから、「人力車に乗りませんか?」と呼び込みが続きます。
一人で歩いていても声を掛けられます。
一人で人力車に乗る人は少ないと思うのですが…。

天龍寺はなんども火災にあっているようです。
薩摩藩兵が、火を放ったというのには怒り心頭です。
文化財は大切に!
“形あるものはいつかは無くなる”それはわかっていますが、人為的に壊されるのには我慢が出来ません。
地震や落雷、大雨などの自然災害や、年月を経て朽ちてくるなど、人間の力ではどうしようもない事が原因なら、諦めもつくというものです。

ということは、今見ている天龍寺の建物は、国司信濃達が見たものとは別のものという事になりますね。
残念です。

この写真の手前30mほどの所に、坂本龍馬像(2008年11月14日 坂本龍馬銅像を参照)があります。


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等持院

2009年02月23日
等持院(京都府京都市北区等持院北町)は、足利尊氏開山の臨済宗天龍寺派の寺で、歴代足利将軍の廟所です。
等持院
一時衰えましたが、豊臣秀頼により復興されました。
霊光殿には尊氏の念持仏利運地蔵・足利累代の木像・徳川家康像などが安置されています。

文久3年2月22日夜、等持院へ押し入った17、18人の浪士は、足利三代の木像の首を抜き取り、翌朝、三条河原に梟しました。
高山彦九郎が鞭うってののしったという、足利尊氏塔は霊光殿の北にあります。
写真でみる維新の京都より


京福電鉄北野線に等持院駅がありますが、竜安寺道駅の方が分かり易いように思います。
竜安寺道駅の50m東にある道を北に向かいます。
200mほど行くと、数軒のお店がある角に来ます。そこを東に曲がります。
六請神社の角を北に曲がると突き当りが等持院です。
地図上では、道々に等持院への案内があるようです。
立命館大学の南側です。

足利累代木像を実は見たことがありません。
さすがに胴体まで持っていけなかったのでしょうか。
いや、首だけを晒す方がインパクトがあっていいと判断したのでしょうね。

足利累代木像と足利尊氏のお墓を拝見してみたいです。
お墓はお参りできるのかな?


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(2003/10/11)
平岩 弓枝

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等持院

教王護国寺(東寺)-新選組喧嘩仲裁の地&鳥羽・伏見の戦 薩摩藩陣

2009年02月23日
延暦13年、平安京の造営とともに創建された東寺は、教王護国寺(京都府京都市南区九条町)といいます。
東寺1

東寺2  東寺3
真言宗の根本道場です。
西にあった西寺とともに二大官寺です。

慶応3年7月2日夜、二条城と東寺に駐屯していた幕府歩兵のそれぞれ数名同士の喧嘩が、島原遊郭で発生しました。
二条城側に死傷者が出たことから、翌3日に二条城側の歩兵数百名が相手側の東寺に押し寄せ発砲する事件に発展しました。
そこへ新選組が総出で仲裁に入り、二条城側の兵士を引き取らせ、その争いは近藤勇預かりとなりました。

これより前に、新選組は6月15日に西本願寺より不動堂村に屯所を移して、23日には総員の幕臣取立てが通知されています。
不動堂村屯所より東寺までは、最短で1㎞ほどです。

慶応3年12月大晦日、伊地知正治を隊長に椎原小弥太・山口仲吾を参謀とした薩軍500名は、東寺を本営にして前衛を四つ塚
(2008年10月18日 四つ塚関門参照)に置きました。
境内南東隅にそびえる高さ54.8mの五重塔からは、西郷隆盛が鳥羽・伏見の状況を展望し、旧幕府兵との開戦を待ちわびていたといいます。

翌年正月3日、京を目指す幕軍と開戦。
小枝
(2008年10月20日 小枝橋参照)を焦点に一進一退のうちに4日午後となりましたが、仁和寺宮が錦旗を先頭に東寺に進駐され、西軍は官軍として士気が大いに揚がりました。
写真でみる維新の京都&新選組史跡事典より


JR京都駅を南へ出て、線路沿いに西へ700mほど歩いた後、大宮通を南へ400mさらに進みます。
一番近いのは、近畿日本鉄道東寺駅を降りて、西へ350m行く方法です。
京都駅周辺までくると、五重塔がどこからでも見えます。
五重塔を目指して歩いて下さい。

この辺りは、私もあまり訪れた事がありません。
JR線の北側とはまた雰囲気が違います。
表現は悪いですが、“暗い”“京都の外れ”というイメージを持っています。
けっしてそこが悪い場所というのではありません。
華やかさが無い、地味な感じというのでしょうか。
歴史の町京都というより、ごく普通の下町というのが近いでね。

東寺も広い境内を持つお寺なので、本営にはピッタリだったでしょう。
四つ塚に前衛を置いたといいますが、四つ塚は東寺から500mほど西に行っただけです。
足の速い人だと1分ほどで、緊急事態を伝えることが出来ます。

ちなみに“西寺”は羅城門跡を挟んで西側にありました。
東寺は羅城門跡の東500m、西寺は羅城門跡から西500mの、一直線上にありました。
西寺跡は、唐橋西寺公園・唐橋小学校になっています。

東寺では毎月21日、弘法市が開かれています。


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正運寺-森孫六墓

2009年02月23日
東町奉行所与力 森孫六墓のある正運寺(京都府京都市中京区蛸薬師通大宮西入ル北側)です。
正運寺
東町奉行所与力森孫六は、同僚大河原重蔵と西町与力の渡辺金三郎・上田助之丞と協力して、勤王の志士の捕縛に手柄を立てましたが、逆に薩長の志士に狙われるようになりました。
幕府は4人に江戸引き上げを命じましたが、文久2年9月23日夜、石部で4人とも暗殺団に殺されました。
森・渡辺・大河原の首は、粟田口に梟されました。

正運寺は、加藤清正の重臣飯田覚兵衛ゆかりの寺です。
寺宝として森孫六の研ぎあげた槍の穂先があります。
写真でみる維新の京都より

阪急電鉄や京福電鉄嵐山本線の大宮駅から、斜めに通る後院通に入ります。
四条大宮の交差点の交番の横を斜めに通っているのが後院通で、二条駅方面に続いています。
壬生交通局があります。
その前の蛸薬師通を東に入って行きます。
洛中小学校の斜め前が正運寺です。

暗殺団といわれる中に、薩摩の田中新兵衛や土佐の岡田以蔵がいたようです。
岡田以蔵はほぼ間違いないだろう…ということのようです。
もしかしたら、武市半平太も立ち会っていた可能性があるとか。
まさに暗殺のスペシャリストが勢ぞろいです。

猿の文吉は自分の娘を出世の道具として使っていたようですが、この4人に関しては特にそこまでの悪評は聞いていません、私は…ですが。
勤王の志士の捕縛に手柄というのも、幕府側の人間としては真っ当な職務です。
新選組もそうですもの。
そこを敵方から狙われる、ある意味仕方がないですね。
“人殺しは悪い”と今なら、堂々とその理由は通りますが、幕末時ではそれは通用しません。
やるか、やられるかです。

襲われた4人のうち、森孫六だけお墓が確認されているそうです。
墓石には「散忠義之居士」と刻まれています。
他の3人の人達は、どうされたのでしょう?
ゴミのように捨てられたことはないですよね?
どこかでひっそりと供養されているか、せめて無縁仏としてでも供養されているといいのですが。


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菊地 明

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異説 小川亭跡

2009年02月22日
京阪電鉄三条駅ビルの南東隅に“小川亭跡”の碑(京都市東山区縄手通三条下ル西側)が建てられ、多くの書籍ではこの付近に小川亭があったと記されています。
※2008年7月18日 小川亭跡を参照してください。

しかし、書籍名を忘れてしまったのですが、新選組を知った頃ですからン十年前の見た書籍では、
新選組が三条制札事件で身を隠した酒屋(京都市中京区三条通木屋町東入ル辺り)や、
古東領左衛門寓居跡のあった辺りを、小川亭跡付近としていました。
それが、
小川亭4  小川亭3
付近になります。

碑も建てられていて、多くの研究家の先生方も、三条駅ビルの方を小川亭跡とされているので、そちらにあったとは思います。
そいういう風に書かれていた書籍もあったという事で、紹介しておきたいと思います。

新選組が待ち伏せに使った場所付近なので、小川亭はなくても、新選組隊士はここでじ~っとしていたのです。

紀州藩邸跡

2009年02月22日
紀州藩邸跡(京都府京都市中京区西洞院通三条下ル東側)です。
紀州藩邸跡1  紀州藩邸跡2
貞享年間以降明治初年まで、紀伊和歌山藩の京屋敷がありました。

幕末の頃当藩は天誅組の追討に出陣しました。
第二次征長には、藩主茂承は総督として広島に赴き指揮をとりましたが、麾下の兵や紀州藩の軍艦の活躍も空しく、幕軍側は敗退しました。
紀州藩内の幕末の藩論は、諸派の主張で統一がありませんでしたが、鳥羽伏見の戦の時は官軍につきました。
しかし敗走する幕軍が紀州に入り込んだのを庇護したと詰問され、恭順を示すために官軍に協力し、関東から奥羽へ出兵しました。
写真でみる維新の京都より


阪急電鉄大宮駅や京福電鉄嵐山本線大宮駅から四条通を東へ約550m歩きます。
四条西洞院交差点で北に曲がります。
500m直進すると、大西清右衛門美術館の裏、ガレージの手前の個人のお宅の隅に碑が建っています。
碑には「茶人珠光織田信雄 加藤清正紀州藩邸 古墳」と刻まれています。

紀州といえば、徳川御三家です。
それでも最後は、官軍について奥羽に出兵しています。
これだけ歴史が大きく転換すると、御三家という看板も関係なくなるのですね。

紀州は、幕末というより、“暴れん坊将軍”が思い浮かびます。
実際は吉宗はあんな奔放な人であるわけがないのですが、もし幕末に暴れん坊将軍のような人がいたらどうなっていたでしょう。
坂本龍馬が近い存在かもしれませんが、どこかの藩のお殿様で坂本龍馬のような人がいたら、維新の結果が違っていたかも知れませんよね。

そんなことを想像、妄想?すると楽しくないですか?


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梅田雲浜邸跡

2009年02月22日
梅田雲浜邸跡(京都府京都市中京区烏丸通御池上ル東側)の碑です。
梅田雲浜寓居跡
梅田雲浜は、天保4年18歳の時、京へ上り医学を学び、後大津の上原立斎に師事、その娘信子を娶り、再び京へ上り望楠軒に教え、その住居は高尾・一乗寺・大雲院内・烏丸御池と転々としました。

嘉永7年、幕府に攘夷を促すために江戸へ出立の際、「妻は病床に臥し、児は飢えに叫く」と詠んでいます。
安政2年信子死去。

攘夷一辺倒に、志士の中心となって活動した雲浜は、安政5年9月7日夜、自宅で捕えられました。
安政の大獄のかっかけとなりました。


※2008年12月18日 梅田雲浜墓を参照してください
写真でみる維新の京都より

京都市営地下鉄東西線烏丸御池駅から地上に出たすぐのところです。
駅を烏丸通の北側に出られる階段を上ります。
烏丸御池交差点から30mほど北に、碑が建っています。

車道側ギリギリに、車道側を正面に建っているので写真を撮るのは大変です。
烏丸通ですから、車の量は半端ではありません。
車が途切れたときに、車道に出て…は無理です。(交通違反ですね。)
歩道から数歩車道に出て…(交通違反ですが)と思ったのですが、路上駐車で碑の前にも車が止まっています。
苦肉の策が、車道に降りて(またまた交通違反、すみません)斜め撮りでした。
今は、駐車違反の取締りも厳しくなっているので、もうすこし写真は撮りやすいと思います。

ビルが建ち並ぶ大通りに、電柱とならんで建っていました。
当時を偲ぶ建物などはありません。
古い建物の一部でも残っていると嬉しいのにな…。

安政5年に亡くなった梅田雲浜なので、新選組と顔を合わせたことはありません。
その後、新選組が結成された後には、新選組はこの前を通っていることでしょう。


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竹内式部寓居跡

2009年02月21日
竹内式部寓居跡(京都府京都市中京区麩屋町通丸太町下ル西南角)です。
竹内式部寓居跡
竹内式部は垂加流神道に基づく大義名分論を説き、その将軍あって天子の在すのを知らぬと歎く学問に感化された、若手公卿達の動きを心配した保守派の摂家一統は、所司代に申し入れました。
式部は幾度か奉行所で尋問された後、武蔵・山城・東海道・越後など主な諸国からの重追放に、息子の主計も京都御構に処されました。
宝暦9年5月6日でした。
弟子の公卿達も処断されました。
式部はその後明和事件にも関わって、八丈に流される途中、三宅島で死にました。
明和4年、56歳でした。
写真でみる維新の京都より


京阪電鉄神宮丸太町駅を降り、丸太町通りを東に向かいます。
京都御苑富小路入口の手前の通りが、麩屋町通です。
この写真に写っている碑は、丸太町通か麩屋町通か?というような境界上にありました。
丸太町通を歩いているとすぐにわかります。

急に何の碑?
というように、突然目に入ってきました。
歩道の真ん中に、丸太町通に向いて建っているのですごく違和感がありました。
こういう場合、麩屋町通に向いて建っていませんか?

碑は見つけやすい場所にありますが、この人の説明文を読んでわかりますか?
すみません、正直書いている私が、さっぱりわかりません。
何度も読んでみました、2009年2月5日の竹内式部墓の記事も再度読んでみました。
さっぱりわやや…。
わかる方、小学生に教えるレベルで教えてください。
私がわかったのは、三宅島で亡くなったという事だけでした。

対州藩邸跡&対州藩離れ屋敷跡

2009年02月21日
対州藩離れ屋敷跡(京都府京都市中京区木屋町通姉小路上ル)と対州藩邸跡(京都府京都市中京区河原町通姉小路上ル東側)です。
対馬藩邸跡
橋の袂の低い建物付近が“対州藩離れ屋敷跡”、後ろに見えるロイヤルホテルが“対州藩邸跡”です。

対州藩宗氏十万石の京邸は、江戸初期からこの地にあり、控屋敷は道を隔てて南側にありました。
万延の頃、対馬は英国やロシアの接触を受けた結果、藩士たちには攘夷の思想が芽生えました。

文久2年脱藩した尊攘派の志士たちは、河内移封論の江戸家老佐須伊織を斬殺しました。
また元治元年側用人勝井員周は、尊攘派を処刑して藩政を握りました。
しかし、京都藩邸の重役尊攘派の理解者、大島鞆之丞で、長州藩が京を追われた後も潜伏して活躍した桂小五郎などは、大島の世話になり対州藩邸を隠れ家としました。

維新後跡地は天主公教会となり、今はロイヤルホテルが主要地を占めています。

対州藩離れ屋敷は、池田屋事件の当日夕方、桂小五郎は一度池田屋に行きましたが、人が十分に集まっていなかったので、出直そうと知人を訪ねた場所です。
知人と話をしている途中に、池田屋事件が起こりました。

高瀬川沿いの一帯は、江戸時代は川魚を生洲で飼育して、料理する料理屋が多かったそうです。
写真でみる維新の京都より


京都市営地下鉄東西線市役所前駅から河原町通を南へ100mの場所に、ロイヤルホテルがあります。
対州藩邸跡です。
その脇の姉小路通を入って行くと、高瀬川に架かる姉小路橋に出ますが、橋を渡る手前付近が対州藩離れ屋敷跡になります。
対州藩邸跡の真裏になります。

高瀬川を渡るとそこが、武市瑞山寓居跡、吉村寅太郎寓居跡、さらに佐久間象山寓居跡になります。

池田屋事件当日、桂小五郎が難を逃れた場所です。
新選組ももしかしたら、対州藩に目をつけていたかもしれません。
ただ藩邸という事で、御用改めが出来なかっただけかも。
新選組もいろいろと調べていたはずですから、桂小五郎の交友関係や行動範囲も調べつくしていたと思います。
ただし、当日対州藩離れ屋敷に行くことまでは想定できなかったのでしょうね。

新選組もこの場所を歩いたはずです。
丹虎に向かった土方歳三は歩いているはずです。
土方歳三が見たのと同じ高瀬川を見ながら、対州藩邸方面を眺めてみました。
同じ場所から見ても、風景は全然違いました。
残念です。


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知恩院

2009年02月20日
浄土宗の総本山知恩院(京都府京都市東山区林下町)は、観光スポットとしても有名です。
知恩院
法然上人が浄土宗の布教を始めた地であり、入寂の地でもあります。
我国最大の山門や左甚五郎の忘れ傘で有名な本堂、千畳敷の大集会堂をつなぐ鶯張りで有名な廊下があります。

幕末には薩摩藩主島津忠義や、尾張藩主徳川慶勝の旅宿となりました。
また慶応4年2月30日、御所に赴く途中、縄手通で行列を襲撃され、助かった英国公使パークスも知恩院に宿泊していました。
写真でみる維新の京都より


京阪電鉄四条駅が一番近いでしょうか?
四条通を八坂神社に向かって歩きます。八坂神社の前を北に曲がり、東大路通を200m行くと新門が建っています。
新門を潜ると突き当りが三門です。
八坂神社から円山公園の北側から出ると、目の前に三門があります。

随分と前、まだ新選組を知る以前だったと思います。
家族で知恩院を訪れて、左甚五郎の忘れ傘を下から見上げた記憶があります。
また鶯張りの廊下に驚き、感心し、興味津々で歩いた気がします。
忘れ傘も、どうやってあんなところに忘れたのやら…。
左甚五郎なのか他の人なのか、忘れた人の状況が気になります(笑)
大工さん…なんてありえないですよね。

鶯張りも最初に考えた人は凄い!
さらにそれを造った人はもっと凄い!
考え付いても、それを形にするのは並大抵の知識や技術では出来ないです。

そんな知恩院に、薩摩藩主や尾張藩主が留まったのです。
家臣も多かったでしょうが、これだけ広い境内なら多くを同じ場所に留め置けたでしょう。
英国公使パークスもここに宿泊したそうですが、知恩院の大きさに驚いてくれたでしょうか?
よもや日本にこんな大きなお寺があると思っていなかった、と驚いてくれると私は嬉しいです。
きっと外国人からみると、ちょんまげを結って、背の低い日本人を下に見ていたと思うのです。
対等とは思ってなかったと思います。

幕末に興味がなくても1度、忘れ傘を見上げてみてください。


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知恩院 左甚五郎 忘れ傘
知恩院 鶯張り廊下

良正院

2009年02月20日
知恩院の塔頭良正院(京都府京都市東山区林下町 知恩院塔頭)は、鳥取藩士奥田万次郎が自刃した場所です。
良成院1  良成院3
知恩院の西側、桜井忠温の「こゝはお国を何百里」の碑が門前に立ちます。

文久3年5月、京詰となり上京した奥田万次郎は、攘夷派の河田佐久馬ら22人と、8月17日、本圀寺旅宿内で、藩重役黒部権之介ら3人を斬殺しました。
黒部が藩主池田慶徳が尊攘佐幕の争いに巻き込まれないように補佐したためです。
奥田らは自訴し、万次郎は目的を達したと、良正院竹の間で自刃しました。
享年34歳。
良正院後山に葬り、遺髪を鳥取真教寺におさめました。
写真でみる維新の京都より


知恩院黒門および北門の前にあります。
華頂学園短期大学、中学校・高等学校と並んでいます。

奥田万次郎は自刃しましたが、河田佐久馬は明治30年まで存命でした。
当時も考え方は人それぞれで、身の振り方もそれぞれだったのですね。
どちらが良いも悪いも言えませんが。

目印となる「ここはお国を何百里」碑は、“戦友”という歌の一節のようですが、これは少しあやふやです。
作詞は真下飛泉という方で、桜井忠温は陸軍軍人・作家ですが、この碑文とどう関係があるのかも判りませんでした。
日露戦争というより、まあ明治になって以降はあまり興味が湧かないので、この碑は幕末維新に関係ないという事で、今回は済ませておきます。

本能寺

2009年02月20日
新選組が本能寺(京都府京都市中京区寺町通御池下ル)の僧を捕えていました。
本能寺1190
        本堂

本能寺3192  本能寺2191
       信長廟

幕末に本能寺の執事をつとめた菊池竹庵は、日同上人といい種ヶ島の出身で、有馬新七の薫陶を受け、本能寺にあって日夜勤王の志士と往来した為、新選組に捕縛されました。
しかし僧衣のまま捕えたことを逆にねじ込まれて、役人も止むなく釈放しました。
以後は東大谷横の東漸寺で練兵に励みました。

慶応4年東征の軍が起こると薩軍に属し、篠原国幹の麾下となり上総方面に従軍、僧形で五井駅付近の敵陣を偵察中、怪しまれて捕えられ、拷問にも答えず、惨殺されました。
4月6日のことでした。
写真でみる維新の京都より


京都市営地下鉄東西線市役所前駅を出て、すぐのところです。
京都市役所の御池通を挟んで向かいです。

本能寺の変当時お寺は、この場所ではなく、油小路通と蛸薬師通が交差する辺りにありました。
その後、今の場所に移っています。
今はビルに埋もれるように佇んでいます。

織田信長、石田三成、豊臣秀吉、徳川家康。
近藤勇や土方歳三はどの人物を好みとしていたのでしょう。
信長の「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」が、一見、土方歳三に近いように思いますが、
秀吉の「鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス」が土方の性格に合っているように思います。
家康の「鳴かぬなら 鳴くまでまとう ホトトギス」ではないですね。

新選組も本能寺周辺を通る時に、ふと歴史に思いを巡らせることはあったのでしょうか。

それにしても菊池竹庵は、僧でありながら練兵に励んだり、従軍したりと過激です。
平安時代から戦国時代にかけての僧兵ってこんな感じだったのでしょう。
僧になるより、どこかの組織に属して最前線に出た方があっていたのではないですか?
僧を隠れ蓑にしていた感じでもないですしね。

新選組と本能寺が微かですが接点がありました。

<雑談>
本能寺の「能」の字は右側の2つの「ヒ」が「去」のような字に替えられています。
これは本能寺が度重なって焼き討ちに遭っているため、「『ヒ』(火)が『去』る」という意味で字形を変えているといわれています。



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長徳寺-小林良典墓

2009年02月19日
長徳寺(京都府京都市左京区川端通今出川上ル下柳町)に小林良典墓があります。
長徳寺
長徳寺墓地に、小林良典の遺髪を埋めた墓があります。

小林良典は安政の大獄の犠牲者。
鷹司家の諸大夫。官位は、民部権大輔兼筑前守従五位下。

嘉永6年米艦来航以来攘夷を主張し、その主前関白鷹司政通、その子輔熙を説いて朝議を動かそうとしました。
また中川宮や左大臣近衛忠熙、内大臣三条実万らや薩摩の日下部伊三次、越前の橋本左内らと親しく、とくに安政4年から一橋慶喜の将軍擁立と勅書の水戸降下を猛運動し、幕府側から宮廷の黒幕と目されていました。
安政5年、大獄が始まると、寺町丸太町の私宅を出て堺町門内の鷹司邸に潜入しましたが、9月22日ついに捕えられて、六角牢に拘禁されました。
牢内でも尊大な風格で獄吏を困らせたといいます。
12月江戸へ護送され、翌6年8月、八丈島遠島と決定しましたが、配所へ送られる前日の11月19日、52歳で獄死しました。
獄中で殺されたともいわれています。

贈正四位。
文久3年1月、高杉晋作らが遺体を回向院から世田谷若林松陰神社の地に改葬、別に京都の菩提寺、川端通今出川上ル 常徳寺に墓碑があります。
写真でみる維新の京都&幕末維新人名事典より


京阪電鉄および叡山電鉄出町柳駅を出たところすぐです。
出町柳バス停の前にあります。
「幕末維新人名事典」には菩提寺としてこの辺りにある、“常徳寺”と記載されています。
長徳寺はありますが、常楽寺というお寺が見当たりません。
そして長徳寺に遺髪墓があるので、常徳寺と長徳寺は同じお寺を指しているものと思います。

バス停の前にあるお寺ですが、そこにお寺がある事を主張していない感じです。
何度もこの前を通っていましたが、お寺があることが記憶にありませんでした。
地図で確認して、ここにお寺があったんだ!と思ったぐらいです。

回向院から東京の松陰神社に改葬された一人だったとは…。
遠島の前日に死亡というのも、おかしなものですね。
殺害説があってもおかしくない状況です。
もともと病弱だった?……ような感じではないですよね。
拷問を受けた……可能性はありますね。
遺髪だけでも京都に帰ることが出来てよかったのかもしれません。


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由利公正(三岡八郎)寓居跡

2009年02月19日
越前藩の財政建て直しと、殖産貿易で名を挙げた由利公正の寓居跡(京都府京都市中京区室町通丸太町下ル東側)です。
由利公正寓居跡1  由利公正寓居跡2
由利公正寓居跡を南北から見てみました。

由利公正(三岡八郎)は、越前国足羽郡毛矢町出身の福井藩士です。
19歳の時、越前に来た横井小楠に傾倒、師事しました。
藩財政を研究し、その建て直しを藩より一任されました。
また、富国強兵策を推進し、兵器の製造や藩の特産物改良に専心しました。

龍馬は、文久3年5月の福井来訪の折、横井小楠邸で由利と国事を談じて意気投合しました。
その時、酒宴となり、龍馬は由利に土佐の国歌を披露、後年、由利は「声調頗ル奇ナリ」と評しています。
さらに慶応3年10月3日、龍馬は福井で由利と再び面談しました、藩庁で嫌疑を受けて幽閉中だった由利は藩用人の松平正直らをともない、龍馬の旅宿煙草屋を訪れ、大政奉還後の経済問題などについて議論しました。
由利は龍馬に、朝廷の信用を損なわない通貨が定まれば、財政に不安を生じさせることはないとの持論を伝えました。

龍馬はかねて由利を「天下之人物」の一人に挙げ、福井出立の直前に認めた「新官制擬定書」に、由利を参議の一員として擬しています。
福井での会談後、龍馬は由利に自分の肖像写真を贈答しました。
由利はれを大切に保存していましたが、後日、川に落としてしまいました。
その日は龍馬暗殺の当日だったといいます。

維新後、新政府の徴士・参与として会計面の施策を提案し、五箇条の御誓文の原案を作りました。
明治4年東京府知事となり、銀座通りの道幅を拡張しました。
5年岩倉の外遊に随行しました。
元老院義官、衆議院議員などを歴任しました。
享年81歳。墓は東京都品川区南品川5丁目の海晏寺。
写真でみる維新の京都&坂本龍馬大事典より


京都市営地下鉄烏丸線丸太町駅すぐのところです。
通りを2本西へ行くと室町通ですので、丸太町通から室町通を南へ曲がった付近です。
お店・会社・住宅が混在している、生活感のある場所です。
高いビルがないので、空がよく見えるので明るくていいですね。

由利公正・横井小楠・松平春嶽といえば、坂本龍馬となります。
坂本龍馬の良き理解者達です。
龍馬は福井で由利公正と面談しているようなので、この京都の寓居跡には来た事はないようです。
京都御苑のすぐ脇でもあるので、新選組もこの辺りは歩いていると思います。

由利公正は福井藩士ですが、“武”よりも“智”の人だったのですね。
刀を抜くことなどあったのかと思います。
それでも殺されることなく明治を迎えているので、智恵が働いたのか、実は凄く強いのか…。
本当に幕末の人生は人それぞれです。

平均寿命もそれほど長くなかったであろう時代に、81歳まで存命だったのは大往生ですよね。
先にあちらの世界に行った龍馬と、あの世で再会するのに随分かかりましたが、また議論を楽しんでいるのでしょうか?


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金福寺

2009年02月18日
一乗寺下り松の南東方の山腹に金福寺(京都府京都市左京区一乗寺才形町)があります。
金福寺1  金福寺2
金福寺は、臨済宗南禅寺派のお寺です。
中興の師鉄舟和尚と親しかった松尾芭蕉は、しばしばここに杖を止めました。
後年与謝蕪村が再興した芭蕉庵は、本堂裏手にあり、蕪村の墓も山腹にあります。

井伊大老の懐刀として、反幕派の勢力の駆逐に活躍した長野主膳の妾、村山たかは生晒しにされたのを救われた後、尼となって当寺で亡くなるまで、大老や主膳の菩提を弔いました。

村山たかは、近江の多賀大社の般若院の所化慈尊と彦根の芸妓の間に生まれました。
慈尊は彦根藩の家老の家来村山家に預け養女として育ててもらい、住持に昇格するとたかを引き取り表向きは伯父姪ということにしました。

18歳の時、藩主井伊直亮の侍女となりお手が付きました。
20歳の正月、実母が亡くなったのを機会に暇をとり、京都東山・山猫廊の「みのよそ」の女将のきもいりで可寿江と名乗って芸妓に出ました。

やがて金閣寺住職北澗承学に落籍され隠し妻になったが、まもなく同寺の坊官多田源左衛門に下げ渡されたのに反発して彦根に帰り、埋木舎に出入りして井伊直弼の寵愛を受けました。
その後、長野主膳と和歌で結ばれ、主膳を助けて安政の大獄のかげで活躍、文久2年11月尊攘派の浪士に捕えられ、三条大橋の橋脚に3日3晩生き晒しにされ、のち洛北金福寺で妙寿と名乗って尼になりました。
墓は付近の円光寺。
写真でみる維新の京都&幕末維新人名事典より


叡山電鉄修学院駅で下車し、北山通を150m東へ行くと白川通北山交差点に出ます。
5叉路になっている交差点ですが、白川通を南へとります。
800mほど歩き、一乗下り松町バス停を過ぎた交差点を、東へ入ります。
東に約300mの場所に金福寺があります。

この時は、時間の関係上門前で失礼して来ました。
随分前に「花の生涯」を読んでいました。
村山たかの名前はその時に知りました。
面白くて、一気に読み進めた記憶があります。

今、こうして略歴を見てみると、二人の男性の間で激動の時代を生きた女性だと改めて思いました。
今なら、“女性の人権をないがしろにしている”という事になるのでしょうが、村山たかは時々は“理不尽”と泣いたでしょうが、すべてを理不尽とは思わなかったのかもしれません。
歴史を動かす2人の男に、なくてはならない存在になって、ある意味ワクワクした人生を楽しんだのかもしれませんね。
一種の開き直りかもしれませんが…。

尼となって、2人の菩提を弔ったのは、恨み辛みよりも愛情が勝ったからだと思いたいです。


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長野主膳 村山たか
京都市 円光寺 村山たか墓

詩仙堂-久坂玄瑞位牌

2009年02月18日
石川丈山隠栖の地、詩仙堂(京都府京都市左京区一乗寺門口町)には、久坂玄瑞の位牌が祀られています。
詩仙堂
詩仙堂の名の由来は、詩仙の間にある漢・晋・唐・宋の三十六詩人の肖像によります。
仏間の本尊脇の位牌棚の中には
「義寂院長州人久坂義助・忠光院長州人寺島忠三郎各位」
という位牌も祀られています。

石川丈山は徳川の家臣ですが、夏の陣での抜け駆けを譴責され、辞職剃髪して当地に30余年隠栖し、寛文12年5月23日没しました。享年90歳。
写真でみる維新の京都より


叡山電鉄修学院駅で下車し、北山通を150m東へ行くと白川通北山交差点に出ます。
5叉路になっている交差点ですが、白川通を南へとります。
700mほど歩き、一乗寺郵便局の手前を東へ入ります。
“宮本武蔵が1人で数十名の吉岡一門と戦った場所”といわれる、一乗下り松を見てさらに東に進みます。
一乗下り松から200m東に詩仙堂があります。

36詩人の肖像が有名ですが、それより私は位牌の方が気になりました。
位牌棚は遠くから拝見できたように思うのですが、ひとつひとつの位牌は目にできなかったような気がします。
詩仙堂の拝観は出来ます。

それにしても何故ここに久坂玄瑞と寺島忠三郎の位牌が祀られているのでしょう。
移転後の三縁寺が近くにありますが、それとは関係ないでしょう。
誰か、長州関係者か久坂玄瑞や寺島忠三郎に関係した人が、個人的に供養するために位牌を作りお寺に納めたのかもしれませんね。


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伏見稲荷大社

2009年02月17日
全国稲荷の総本社の伏見稲荷大社(京都府京都市伏見区深草藪ノ内町)は、毎年初詣の人出が全国トップ5に入ります。
伏見稲荷千本稲荷
    千本鳥居

伏見稲荷大社は和銅4年創始といわれ、1200年の歴史を持ちます。

文久3年8月の政変で京を去った七卿の中、錦小路(病没)、沢(生野銀山挙兵)両卿を除く、三条実美以下、三条西、東久世、壬生、四条の五卿は、慶応4年12月14日夜、配所太宰府において復官入京の沙汰を受けました。
19日出立、海路大坂に入り、26日深夜伏見薩摩藩邸に入り、翌朝、諸藩の兵に護られて出発し、途中稲荷大社に参詣、小休し、衣冠を改めて御所に向かいました。
写真でみる維新の京都より


京阪電鉄伏見稲荷駅かJR奈良線稲荷駅を降りると、ずっと案内が続いています。
参道には焼き鳥が売られています。
まさしく焼き鳥、“すずめ”に“うずら”の姿そのままの焼き鳥です。
お稲荷様は農耕の神様なので、稲穂を食べるスズメは害鳥になるので食するそうです。

また稲荷山を巡ると、多くの鳥居や信仰する社があります。
が、これがまた急な坂があったりで苦しいです。
でも歩ける人間は、少しぐらいしんどい事をしないと、神様もお願いを聞いてくれなかもしれませんね。
ひと山越えて、東福寺や泉涌寺に降りれるので、元気な方は歩いてみてください。
神聖な山を歩くと、気持ちも清々しくなります。

ここに参詣した五卿は、山を越えることはなかったでしょう。
駕籠に乗ってお参りしたのでしょうね。
参詣、休憩、衣装改めですから、数時間も滞在していなかったと思います。

新選組隊士はこの千本鳥居を見たことがあるのでしょうか?
時代劇なら、こういう場所で斬り合いをしそうです。
これだけ鳥居があると、敵が隠れている場所だらけになって、戦いには不利になりそうです。


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間部詮勝宿所跡

2009年02月17日
間部詮勝宿所跡(京都府京都市中京区寺町通二条下ル東側)の碑です。
間部詮勝寓居跡
安政5年9月17日、老中間部下総守詮勝(越前鯖江藩主)は、所司代の経験を買われて入洛し、寺町二条の妙満寺を宿所にしました。

上洛の目的は、6月に幕府が調印した日米通商条約に激怒された孝明天皇が、譲位すると言い出したので、困り果てた九条関白から事情説明に上京を求められたためでした。
一方では、反幕活動がますます激しくなるので、廷臣を含め攘夷論者の処分を強行するためでした。

妙満寺は昭和42年に岩倉に移転しました。

間部詮勝(まなべあきかつ)は、越前鯖江藩主、老中。
名は詮良のち詮勝と改め、松堂と号します。
父は詮熙で、文化元年詮允の養子となり、文化11年襲封、鯖江藩5万石を領し下総守と称しました。
天保2年寺社奉行加役、天保7年大坂城代、天保9年京都所司代を歴任、天保11年老中となり幕政改革を進めましたが、同格水野忠邦と政策上の見解を異にし、天保14年辞任しました。
その後、詩文などを嗜むとともに「外圧」により緊迫化した内外情勢に対しては、自ら蘭学者に接して諸外国の事情を真剣に研究する熱の入れようでした。

安政4年から5年にかけ、国内の政治情勢として将軍継嗣問題と条約締結問題を中心に、雄藩連合による幕政の大改革を目指す一橋派と、旧来の幕閣専制を策する紀州派が鋭く対立するなかで、同5年間部詮勝は紀州派の巨頭井伊大老により再び老中に起用され、勝手掛兼外国掛となり、紛糾した政局の収拾に当りました。
この際彼は同年9月上京、朝廷に再三参内して、強引に条約の勅許を求めましたが、攘夷猶予の勅諚しか得られませんでした。
そこで井伊大老の強硬策に従い、一橋派や尊攘志士に与する近衛忠熙ら4公を摘発し、翌6年2月、青蓮院宮尊融法親王らの公卿を処罰して帰府しました。
しかし井伊大老の専断がますます激化し、徳川斉昭や一橋慶喜らが罰せられ、さらに幕府諸有司までが処分されるに及んで、詮勝は井伊と意見が対立し、老中の職を解任されました。

さらにその後の政治情勢の変転により、文久2年老中在職中の責任を問われ、1万石の領知召上げと隠居・謹慎を命ぜられましたが、慶応元年5月、慎を解かれました。
明治2年東京向島小梅村に転居し、晩年は自適生活を送りました。
墓は千葉県市川市の日蓮宗法華経寺。
写真でみる維新の京都&幕末維新人名事典より


京都市営地下鉄東西線京都市役所前駅で下車し、御池通を150mほど西に行くと寺町通とこ交差点に着きます。
寺町通を北へ、150mほど行くと柵の向こうに碑があります。

越前鯖江藩主で老中にまでなっている間部詮勝を知りませんでした。
過激そうな人物ですよね。
文久には隠居・謹慎させられているので、新選組が活躍する頃はちょうど歴史の表舞台から降りていたので、名前を聞くことがなかったようです。

そんな状態ですので、この碑を見つけて写真を撮る時も心中「???」の状態でした。
ただ単に“幕末の人”という事で写真を撮っておこう、そして後で調べようという事にしました。
しかしなかなか興味が湧かなくて…。
1度調べたきりで止まっています。

碑のある場所は、河原町通から一本西側になりますので、人通りは少なめです。
碑の前には柵があるので、少し注意深く見て歩いた方が安全かもしれません。


若者たちに維新を託して―吉田松陰、安政の大獄に散る (新・ものがたり日本 歴史の事件簿)若者たちに維新を託して―吉田松陰、安政の大獄に散る (新・ものがたり日本 歴史の事件簿)
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小西 聖一小泉 澄夫

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