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玉松操邸跡

2009年01月31日
玉松操邸跡(京都府京都市上京区中立売新町角)は、御所の近くにあります。
玉松操邸跡
慶応3年12月9日朝、語学問所で下された、王政復古の大号令の詔勅の草案は玉松操の作で、その文章の素晴しさは、居並ぶ諸侯の感心するところでした。

玉松操は公卿出身の国学者で、幼時、醍醐無量寿院に入り、大僧都法印となりましたが、僧律改革の意見が入れられず還俗しました。
以後、山本毅軒、玉松操と名乗り、泉州・江州に私塾を開きました。
慶応3年岩倉具視と会い、意気投合してその腹心となりました。
写真でみる維新の京都より


京都御苑中立売御門から続く、中立売通を西へ約250mいった辺りです。
新町小学校、京都ブライトンホテルなどがある付近です。

岩倉具視の腹心ですね。
御所の近くで、いつでも岩倉の元へ駆けつけられるようにという配慮でしょうか。
策士岩倉具視の腹心という言葉から、玉松操も一筋縄ではいかない、狡猾な人物という印象があります。

“錦の御旗”“王政復古の大号令”と、歴史上重要な出来事を考えた人ですが、それほど名前が出てきていません。
歴史の授業でも習った記憶がありません。
“錦の御旗”はそれを使って、時勢を変えた人が、
“王政復古の大号令”は署名した人が、歴史の表に出て来ますが、それを最初に考えた人にはスポットが当らない…。
「歴史とはそういうもの」といってしまえばそれまでですが、深く知っていくと歴史の授業で習う以外のエピソードの方が面白いです。


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藤堂藩邸跡

2009年01月31日
新選組からみると、鳥羽伏見の戦いで裏切られた、藤堂藩邸跡(京都府京都市中京区堀川通蛸薬師下ル)です。
藤堂藩邸跡
伊勢の津藩、藤堂家の京都藩邸跡は現在の堀川高校の場所にありました。

支藩伊賀上野の城主、藤堂新七郎は藩兵3,000を率いて、天誅組掃討に当りました。
禁門の変には、伊賀隊が蛤御門南方を警備しました。
この時の火災で藤堂藩邸は焼失しました。

慶応4年鳥羽伏見の戦いの時、藤堂藩は幕軍として、山崎の関門を固めていましたが、勅使の差遣を受け、帰順を迫られた家老藤堂采女はこれに従い、正月6日早暁から対岸の幕府軍に砲撃を開始しました。
写真でみる維新の京都より


阪急電鉄大宮駅か京福電鉄嵐山線四条大宮駅を降りて、四条通を東へ300m、四条堀川交差点を北に歩くと200mで堀川高校があります。
その北隅辺りに、碑が建てられています。
現在は高校なので、当時の建物などはありません。

やはり藩邸跡は土地が広いためか、学校などに使われていますね。
碑が小振りなので、気付かないことがあるかもしれません。

藤堂藩といえば、新選組の藤堂平助が藩主藤堂和泉守の御落胤という話があります。
どこまでが本当かは分かりません。
可能性はゼロではないのでしょうね。
今ならDNA検査で調べることができますが、血液型も分からないような時代ではどうやって調べればいのでしょう。

父と母と思われる人の話の矛盾点の少なさとか、顔立ちとか、それぐらいしか思いつきませ。
生まれた時に、なにか証拠となるような証文書くとか…。

みんなが大らかで、そんなの気にしない?
でもお家騒動などの話は残っていますしね。
夜這いの風習などもあったとか、なかったとか…。
藤堂平助に関していえば、はっきりと分からないところが想像を掻き立てていいのかもしれませんね。


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松林院墓地-寺田屋登勢墓

2009年01月30日
松林院墓地(京都府京都市伏見区鷹匠町)に、寺田屋の女将とせ(登勢)の墓があります。
寺田屋墓地

寺田屋墓1  寺田屋墓3
墓地の入口近く中央北側に東面して立つ五輪石塔で、4人の戒名の中、
「喜道院妙持信女」がとせの戒名です。

とせは寺田屋六代目伊助の妻で、放蕩者の夫に仕え35歳で後家となりましたが、寺田屋の女将として家業に励みました。
義侠心に富み、人の世話をするのが好きで、坂本龍馬など勤王の志士を献身的に助けました。

大津出身。
明治10年9月7日歿。
写真でみる維新の京都より


大黒寺の真向かいにあります。
墓地には確か、寺田屋登勢の墓をしめす物があったように思います。
違ったかな?
五輪石塔とう目立つ墓石に、隣の墓石の“寺田屋”という文字で探しやすいと思います。

お登勢さん=寺田屋 ですね。
旅籠の女将さんのお墓参りというのは、あまり聞いた事がないです。
それだけ有名だという証明ですね。

龍馬に会った人。
羨ましいです。
勤王の志士の面倒を見ていたら、自分も狙われる可能性が大ですが、それでも龍馬には会ってみたいですね。
どんな人なのか気になります。
もしかしたら、新選組が探索に来て、近藤勇や土方歳三、沖田総司に斉藤一、永倉新八、藤堂平助、原田左之助さらには山南敬助に会えるチャンスがあるかもしれません。
命がけですが…。


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浅見絅斎邸跡

2009年01月30日
浅見絅斎邸跡(京都府京都市中京区錦小路通高倉西入ル南側)です。
浅見絅斉寓居跡
浅見絅斎は、近江高島郡太田村出身です。
京で医学を学び医者となりますが、知行合一を説く山崎闇斎に心服し弟子入りしました。
佐藤直方・三宅尚斎とともに崎門の三傑と称されました。

絅斎は師の歿後、錦小路高倉に錦陌講堂を開き門弟に教えました。
絅斎は朱子学にいう正統も真の姿は我が国にのみ見出せる、と大義名分論を説きました。
著書『靖献遺言』は暗に報国の精神を鼓吹し、広く志士に読まれました。
写真でみる維新の京都より


阪急電鉄烏丸駅の上にある、大丸百貨店の位置が浅見絅斎邸跡です。
大丸の錦小路側(だったと思うのです)入口付近に、この碑が建てられていました。
デパートの入口付近にあるので、人の出入りが激しくて、立ち止まってじっくりと見るのが少し躊躇われました。

浅見絅斎は1652年生まれですので、新選組が活躍した時代より少し前の人になります。
幕末の志士に影響を与えた人というで、近くを通ったときに立ち寄ってみました。

2008年12月29日に「浅見絅斎の墓」を紹介していますので、覘いて見て下さい。


京都市 大丸百貨店

大黒寺-中村主計墓

2009年01月29日
大黒寺(京都府京都市伏見区鷹匠町西側)の中村主計墓です。
中村主計282

中村主計は、尊攘派の志士。
肥前島原の有馬村に生まれました。
名は重義。

安政年間、兄太郎が江戸に出て尊攘運動に走り、捕えられて獄中に殺されたのを聞き、慨然として京都に上り、田中河内介(*1)に頼りました。
その後、諸藩の志士と交わり、文久2年伏見の寺田屋事件で逮捕され、身を寄せるところがなく、鹿児島に護送される途中、船中で殺されました。


(*1)
田中河内介
は、中山家諸大夫。
但馬国出石郡神美村香住の医者小森正造の第二子として生まれました。
通称賢二郎、恭堂または臥龍と号しました。

中山家においては、忠能の子忠愛や忠光の教育を担当、また庶務をこなしました。
嘉永5年のちの明治天皇が中山家で生まれたので、御用掛として仕えました。
文久元年2月瑳磨介を連れて西遊、薩摩まで足をのばしその途中で、久坂玄瑞、轟武兵衛、宮部鼎蔵、真木和泉、平野国臣、西郷隆盛らと会って、その尊攘論に共鳴し、帰京後『安国論』を著し、幕府から絶版を命じられたうえ、厳重な監視をうける身となりました。
このため中山家を辞去して尊攘運動に専念。

文久2年大坂の薩摩邸に潜居して、島津久光の率兵上京に呼応して挙兵をはかりましたが、逆に上京した久光は尊攘派志士を弾圧、鎮撫の役を買って出ました。
激昂した志士たちは自分達だけで討幕の挙兵を敢行しようと密議中、その会合場所伏見の寺田屋に久光の命をうけた薩摩藩士が鎮撫に現れました。
乱闘となり、有馬新七らは斬られ、河内介ら他藩の志士の多くが捕えられました。
寺田屋事件です。

河内介父子は鹿児島に護送される途中、薩摩藩士によって虐殺され海中に投げ込まれました。
父子の死体は5月2日小豆島福田村の海辺にうちあげられました。
享年48歳。瑳麿介は17歳でした。
幕末維新人名事典より



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大黒寺-山本四郎墓

2009年01月29日
大黒寺(京都府京都市伏見区鷹匠町西側)の山本四郎墓です。
山本四郎281

山本四郎は、薩摩藩尊攘志士で、寺田屋事件に連座、切腹しました。
名は義徳。
もとは神田直助といいました。

文久2年3月の島津久光上京の随行徒士に選ばれなかったので、森山新五左衛門、指宿三次、美玉三平などと一緒に脱藩、大坂の藩邸で待機していました。
そこで病気になり、4月23日の寺田屋結集には参加できませんでした。
同罪として帰国謹慎を命じられましたが、この命に従わず切腹しました。
幕末維新人名事典より



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大黒寺-田中謙介墓

2009年01月29日
大黒寺(京都府京都市伏見区鷹匠町西側)の田中謙介墓です。
田中謙介274

田中謙介は、薩摩藩尊攘志士で、寺田屋の変で斬られました。
直之進といい、盛明と称します。

有村雄助、次左衛門、高崎五六らとともに江戸に出て、水戸尊攘浪士と井伊直弼暗殺計画に加わり、決行後薩摩勢の京都決起をはかるため、万延元年2月21日に鹿児島に帰りました。
薩摩では態勢が整わず、京都決起に至りませんでした。

翌文久2年4月、挙兵上京の島津久光を擁して京都決起を行おうとしましたが、久光の真意が抑制にあるのを知り、志士のみの決起を主張して大坂藩邸を脱して、京都伏見の寺田屋に同志と集合を謀りました。
途中淀川で鎮撫使の海江田、奈良原に会いましたが拒絶しました。
23日、鎮撫使の道島五郎兵衛と口論になり、道島に眉間を割られました。
翌日、藩命で切腹させられました。
幕末維新人名事典より



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大黒寺-弟子丸竜助

2009年01月29日
大黒寺(京都府京都市伏見区鷹匠町西側)の弟子丸竜助墓です。
弟子丸竜助277

弟子丸竜助は、薩摩藩尊攘志士で、寺田屋で斬られました。
名は方行。
高城新助の二男で、弟子丸家の養子となりました。

有馬新七、真木和泉らの京都義挙に参加するため、文久2年大坂中之島の魚屋太平の宿に泊まり、4月23日、淀川をのぼって京都伏見の寺田屋に集合しました。
島津久光の命で鎮撫にやって来た大山綱良に斬られ、即死でした。
幕末維新人名事典より



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大黒寺-西田直五郎墓

2009年01月29日
大黒寺(京都府京都市伏見区鷹匠町西側)の西田直五郎墓です。
西田直五郎278

西田直五郎は、薩摩藩尊攘志士で、寺田屋で斬られました。
名は正基。

安政末年から江戸詰になっていましたが、橋口壮介、柴山愛次郎の説得に応じ、義挙に参加するために大坂中之島の魚屋太平で待機しました。
文久2年4月23日、伏見寺田屋に集まり、鎮撫使の上床源助の手槍に突かれて絶命しました。
幕末維新人名事典より



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大黒寺-森山新五左衛門墓

2009年01月29日
大黒寺(京都府京都市伏見区鷹匠町西側)の森山新五左衛門墓です。
森山新五左衛門280

森山新五左衛門は、薩摩尊攘志士で、寺田屋で負傷し切腹しました。
森山新蔵(棠園)の息子で、名は永治。
精忠組に参加。

文久2年4月、西郷隆盛と上京した父のあとを追い、脱藩して大坂の藩邸に待機していました。
ついで伏見の寺田屋に集まりました。
4月23日、有馬新七を助けようとして、道島五郎兵衛と切り結びましたが負傷し、翌日藩邸で切腹させられました。
幕末維新人名事典より



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大黒寺-柴山愛次郎墓

2009年01月29日
大黒寺(京都府京都市伏見区鷹匠町西側)の柴山愛次郎墓です。
柴山愛次郎276

柴山愛次郎は、薩摩藩尊攘志士で、寺田屋で斬られました。
柴山良庵の二男で、名は道隆。
若くして藩校造士館の訓導に任命された秀才でした。

ほとんど橋口壮介と行動を共にしており、平野国臣との会見、江戸詰任命、江戸で義挙計画の仕上げを行って大坂に乗り込み、九州からの同志の到着を待って伏見寺田屋に集まるまで、柴山と橋口は一緒でした。
寺田屋では鎮撫使山口鉄之助に斬られ、即死でした。
幕末維新人名事典より



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大黒寺-橋口伝蔵墓

2009年01月29日
大黒寺(京都府京都市伏見区鷹匠町西側)の橋口伝蔵墓です。
橋口伝蔵275

橋口伝蔵は、薩摩藩尊攘志士で、寺田屋で斬られました。
橋口与三次の次男で、名は兼備。
江戸で安井息軒に学んだことがあり、薩摩藩の旧記に詳しかったです。

文久2年4月、江戸から大坂中之島の魚屋太平に行って待機していました。
23日、伏見寺田屋に集まったところを島津久光の鎮撫使大山綱良、鈴木勇右衛門、同昌之助の3人に斬られました。
幕末維新人名事典より



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大黒寺-橋口壮介墓

2009年01月29日
大黒寺(京都府京都市伏見区鷹匠町西側)の橋口壮介墓です。
橋口壮介279

橋口壮介は、薩摩藩尊攘志士で、寺田屋で斬られました。
橋口彦次の子で、名は隷三。

長州の長井雅楽から公武合体策推進の理由を説明されましたが、これには同調せずに、清河八郎を九州に案内して来た平野国臣と義挙の企てを約束しました。

文久2年はじめ、柴山愛次郎とともに江戸詰を命じられ、出府の途中、熊本の河上彦斎、高瀬の松村大成、真木和泉らを訪問し、京都義挙の打ち合わせを行いました。
江戸で先着の堀次郎とも相談しましたが、堀は長井に同調しているようであったので対立しました。
そのまま大坂に戻り、中之島の魚屋太平で鹿児島からの同志を待ちました。
4月23日京都伏見の寺田屋に集結したところを、島津久光の鎮撫使に斬られました。
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大黒寺-有馬新七墓

2009年01月29日
大黒寺(京都府京都市伏見区鷹匠町西側)の有馬新七墓です。
有馬新七273

有馬新七は、薩摩藩尊攘志士で、寺田屋の変で斬られました。
伊集院の郷士坂本正直が有馬家の養子になって藩士となりました。
新七は正直の子で、諱は正義、信輝、号は埴鈴子。

江戸に遊学して山口管山に学び、早くから尊王論を説き、仲間から「今高山彦九郎」の名で呼ばれていました。
安政3年江戸藩邸内の学問所教授となりましたが、諸藩の志士と交わり尊攘運動に奔走することが多くありました。
上京し、山口門で同門の梅田雲浜と会い、斬奸計画を立てました。
新七の叔父が近衛家の付人にいた関係から、激烈な攘夷建言書を朝廷に呈し、一方では京都所司代酒井忠義を斬奸の目標とし狙いましたが、果たすことは出来ませんでした。
この間の行動は『都日記』として残っています。

安政5年ごろは、越前の松平慶永が井伊大老に抗して挙兵するという情勢判断をしており、出府途中の藩主島津忠義を伏見に止め、その圧力で京都に義挙を起こそうとしましたが、逆に譴責を受け、帰国させられてしまいました。
しかし藩主を引きずりだして、京都義挙をおこす構想は捨てませんでした。
寺田屋事件はこの構想に端を発しています。

文久2年、島津久光挙兵上京の随員に加えられた新七は先に京坂に出て、久留米の真木和泉ら尊攘志士を集めて久光の上京を待ちました。
久光は新七らに応える気は無く、逆に朝廷から浪士鎮撫の命を受けると勇み立ち、
「やむをえなければ斬ってよし」と鎮撫使を伏見の寺田屋に向けました。

激闘に刀を折られた新七は道島五郎兵衛を壁に押し付け、橋口吉之丞に
「おいごと刺せ!」と叫び、橋口の刀が新七と道島の胸を刺したといいます。
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大黒寺

2009年01月29日
大黒寺(京都府京都市伏見区鷹匠町西側)には、九烈士の墓があります。
大黒寺1401  大黒寺2402

大黒寺3403
  伏見寺田屋騒動九烈士墓

大黒寺は円通山と号し、真言宗の寺で初めは長福寺といいました。

元和元年、伏見奉行山口駿河守が、薩摩藩主島津侯の懇望で、同藩の武運長久の祈願所となし、本尊の大黒天にちなんで大黒寺と改めました。
一般には薩摩寺と呼ばれました。

境内・墓地には、寺田屋騒動で死んだ有馬新七ら九烈士の墓、宝暦年間、幕命で薩摩藩が行った木曾川改修工事の多大な出費の責任を負って自刃した家老平田靱負の墓、天明の伏見義民の遺髪塔などがあります。
写真でみる維新の京都より


京阪電鉄か近畿日本鉄道丹波橋駅から西へ約400m、伏見中学校の手前を南に曲がると、すぐの所に大黒寺があります。
門を入ると本堂が見えます、その脇を奥に入ると墓地があり、お墓が横に並んでいます。

旧写真でみた墓石は、長い月日を感じさせるものでしたが、墓碑銘の石は綺麗になっていました。
台座と墓碑銘石の色が余りにも違い、違和感を感じてしまいました。
墓碑銘(復元)は西郷隆盛の筆だそうです。
傷んだ墓石をそのままにして、朽ち果ててしまっても困るので、こればかりは仕方がない事なのでしょう。
古い墓石はどこかに保存されていると嬉しいです。

私が訪れた時は、お参りに来られる人はいませんでしたが、去年NHK大河ドラマ「篤姫」で薩摩がスポットを浴びました。
有馬新七を的場浩司氏、橋口壮介を石川賢三氏が演じられたことによって、お参りに訪れる人も増えているのでしょうか?
今まで静かに眠っていたのに、急に訪れる人が多くなて驚いているのではないでしょうか?
彼らにすれば、静かに眠っているのが嬉しいのか、多くの人に自分達のやったことを知ってもらえるのが嬉しいのか…。一度聞いてみたいものです。

これはあくまでも噂ですが、寺田屋に泊まると聞こえるという武士の声は、彼らが戦っていた時の声ってことですよね?

大黒寺に眠る志士達を紹介したいと思います。


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薩摩藩邸跡(錦小路)

2009年01月28日
旧の薩摩藩邸跡(京都府京都市中京区錦小路東洞院東入ル南側)。
薩摩藩邸跡
文久3年に相国寺門前の二本松薩摩藩邸が造られましたが、それまでは錦小路の藩邸が主なものでした。

したがって、文久2年4月、島津久光が公武周旋のため兵1,000名を引き連れて上洛した時は、この屋敷に入ったそうです。
写真でみる維新の京都より


阪急電鉄烏丸駅の大丸百貨店周辺にありました。

書籍に載っていた“薩摩藩邸跡”の写真は、駐車場を主としたものでした。
しかし、大丸百貨店の西新館・東洞院通沿いに“薩摩屋敷之址”の碑が建っているようです。
駐車場の斜め前辺りです。
錦小路通沿いには、浅見絅斎の碑がありますし、大丸百貨店は史跡の倉庫です。
駐車場には、碑などはありません。

この写真は錦小路通側(駐車場入口)からか、東洞院通側(駐車場出口)からなのかが、思い出せないのです。
錦小路通だと、錦市場に続く通りなので、道幅も広くありません。
東洞院通の方が車の通りは多いのではないでしょうか。

旧薩摩藩邸跡はきっと、広大な屋敷だったと思うので、この写真と碑の位置関係はそれほど気にしなくてもいいのかもしれません。
この辺りにあった。という事で、雰囲気を楽しめばいいですよね。
島津のお殿様が来たのは、この辺りです。
西郷隆盛や大久保利通、私の知っている(もちろん会えないので名前です)人では誰が出入りしたのでしょうね。


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西郷隆盛寓居跡

2009年01月28日
鍵直旅館跡と西郷隆盛寓居跡(京都府京都市中京区柳馬場通錦小路上ル東側)は同じ場所になります。
西郷隆盛寓居跡
西郷隆盛は安政5年7月16日に京へ着き、吉井友実とともに定宿鍵屋直助方へ入りました。
主君斉彬は大坂で病床にあり、この朝逝去しました。
鍵直には、江戸から帰った伊地知正治・有村俊斎・有馬新七なども泊まり、西郷とともに斉彬の入京をまっていました。
24日に斉彬の死を知った西郷は、悲歎のあまり殉死しようとしましたが思い止まり、主君の遺志にを奉じて国家に尽す決心をしました。

薩摩藩主は久光の子忠義となり、祖父斉興が後見するに及んで、一転保守的な政策をとり、西郷等は苦境に立たされました。
写真でみる維新の京都より


阪急電鉄烏丸駅の北側に有名な錦市場があります。
錦市場の北側が西郷隆盛寓居跡です。
錦市場の中を東西方向に歩いていて、南北に通る柳馬場通と交わったら、北に曲がって下さい。
その付近になります。

この史跡について書きながら、人名が出て来ると、1ヶ月程前まで、大河ドラマ「篤姫」で、西郷隆盛や島津斉彬、斉興らを(役者さんでですが)見ていたので、何となく大河の役者さんで映像が出てきます。
西郷隆盛の肖像画は、本人を忠実に書いたものではありません。
ここを歩いた西郷隆盛とはどんな容姿だったのでしょう。


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新選組テレフォンカード 弐

2009年01月27日
前回に引き続き、新選組のテレフォンカードです。

テレフォンカード2

そして土方歳三3連発!!

私は右端の、土方歳三史料館のデザインがお気に入りです。
2枚買って、1枚は宝箱に入れて、もう1枚はカバンに入れて持ち歩いています。
マニアだぁ~(笑) でも、これって基本中の基本ですよね?


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宇郷玄蕃天誅の跡

2009年01月27日
島田左近と親しかった、宇郷玄蕃天誅の跡(京都府京都市下京区鴨川原松原半丁上ル)がこの辺りです。
宇郷玄蕃天誅現場2  宇郷玄蕃天誅現場1
文久2年閏8月23日、松原通あたりの鴨川上流左岸の川原に、槍につき刺された首が晒され、札紙には、
「宇郷玄蕃 此者儀、島田と同腹、主家をして不義に陥らしめ、其罪彼より重し、之に依りて天誅を加ふる者也 閏八月廿三日」
とありました。

宇郷玄蕃は、九条家諸大夫、名は重国。
同僚の島田左近に協力して、主の関白九条の親幕府政策を支持し、とくに万延元年夏、幕閣の意を受けた所司代酒井忠義らの和宮降嫁促進運動が露骨化したとき、島田と謀ってひそかに和宮の乳母絵島を説き伏せ、さらに絵島に和宮の生母観行院とその兄橋本実麗を説得させ、和宮を承諾させることに成功しました。

これが尊攘派志士の怒りを買い、島田暗殺2ヶ月後の文久2年閏8月22日夜、丸太町橋西詰北側、九条家下屋敷の長屋で刺客数人に襲われて、翌朝首級を松原河原に晒されました。

加害者は、この前日に木屋町で本間精一郎を斬った土佐の岡田以蔵と肥後の堤松左衛門だとされています。
写真でみる維新の京都&幕末維新人名事典より


五条大橋のひとつ北側の橋です。
京阪電鉄清水五条駅から河原を北に歩くのもいいかも。
この辺りは、斬り合いや首級がよくあった場所だと思うので、そんな光景を想像しながら歩くのもいいかもしれません。
想像するにはあまり楽しい内容ではないですね(笑)

松原橋は五条大橋や四条大橋よりも狭い橋でした。
なのに車の往来は引けをとらないほどありました。
信号が赤になって車が少なくなった瞬間を見計らって、写真を撮りました。

宇郷玄蕃を暗殺したのは、岡田以蔵といわれています。
前日にも暗殺を実行していたとするならば、2日連続で行ったことになります。
いくら“人斬り”の異名を持つとしても、命がけの仕事(と言っていいのかな?)を連続で出来るものなのでしょうか?
これが本当なら、強靭な精神の持ち主なのか、精神的に病んでいたのかなのかもしれないですよね。
それともこういう世の中では、特に不思議なことでは無かったのでしょうか?

新選組テレフォンカード 壱

2009年01月26日
新選組の話題を暫く書いていないので寂しくなってきました。

テレフォンカード1

鮮明な写真でないのですが、
近藤勇、沖田総司、土方歳三の3枚です。

この近藤勇はあまり…。
写真の方が好きです。

沖田総司は写真がないので仕方がないですね。
あのソラマメ君(沖田総司の肖像画)よりは、筆跡のデザインの方がいいです。

土方歳三テレフォンカードの残りは、後日また紹介させて頂きます。

しかし今、テレフォンカードの使い道は減っています。
公衆電話を見ないですものね。
テレフォンカードって何?っていう時代も遠からずって感じですよね。
昔は何かあれば、“テレフォンカード”でしたが、今だと何カードになっているのでしょう。
図書カード?
クオカード?
このテレフォンカードも、100年ぐらい経つと「お宝」になって価値が出ているのかも知れませんよね。


新選組ねつけ/三番組長・斉藤一新選組ねつけ/三番組長・斉藤一
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不明

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智積院

2009年01月26日
土佐藩が屯営したのが、智積院(京都府京都市東山区瓦町)です。
智積院1  智積院2
真言宗智山派総本山、五百仏頂山智積院で、豊国社の地に家康の援助で建立されました。

幕末には、当寺の学寮などに土佐藩兵が屯営しました。
藩主山内容堂も文久以来入京し、公武合体に尽力しました。

現在の智積院の本堂は、昭和22年の火災の後、四条の大雲院の本堂が移築されたものです。
写真でみる維新の京都より


京阪電鉄七条駅から七条通を東へ突き当たりまで歩きます。
突き当たりにあるのが、智積院です。

阿弥陀ヶ峰山麓一帯の地を占めるお寺だそうですが、私は名前を知らないお寺でした。
歴史的絵画などが多くあるそうですが、私がそういうものにあまり興味を向けていないからでしょう。
広い道の突き当たり、境内も広いので分かりやすいと思います。
拝観料を節約していまったので、門のところから中を覗かせていただきました。

敷地が広いので、土佐藩兵が屯営しても大丈夫そうです。
お寺側は迷惑したかもしれませんが、広さ的には考えられますね。
土佐弁が飛び交っていたのかな?と、ふと思ってしまいました。
土佐や長州、薩摩藩士は、自分の故郷にすごくプライドを持っているので、言葉をその土地にあわせる事はないと思うのですよ。
将軍や天皇に対しては別。

では新選組は、あちこち出身地が違うと思うのですが、どんな言葉が標準的だったのでしょう?


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方広寺-国家安泰の鐘

2009年01月25日
方広寺(京都府京都市東山区大和大路通七条上ル茶屋町527-2)は豊臣家滅亡のきっかけとなった、国家安泰」の鐘があります。
国家安泰の鐘120
鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の銘文(京都南禅寺の禅僧文英清韓の作)が徳川家康の“家”と“康”を分断し豊臣を君主とし、家康及び徳川家を冒瀆するものとされ、大阪の役による豊臣家滅亡を招いたとされています。
この鐘は重要文化財に指定されています。
Wikipediaより


鐘の内側にある白いシミは、淀君の幽霊といわれているとか…。

「国家安泰の鐘」の話は歴史の授業で聞きませんか。
私はどこで聞いたのかな?
知っていました。

方広寺の南隣が、「豊国神社」です。
豊臣秀吉を祭神に、秀吉が眠る太閤廟の麓に創建されましたが、徳川氏により破壊され、明治になって方広寺大仏殿跡に再建されました。
宝物館の裏には、徳川の世に秀吉を慕う人々が太閤廟の拝所にしたという
馬塚もありました。

門前の耳塚は文禄・慶長の役で豊臣軍が首級のかわりに持ち帰った耳や鼻を供養したところといわれています。
歩く地図より


この周辺には、秀吉関係の史跡が多くありました。
幕末の息抜きに、せっかくなので寄ってみてはどうでしょうか?
国家安泰の鐘などは、勉強にもなるのではないですか。
実際に目にしていたら、受験などでもはっきりと覚えているのではないでしょうか。

お知らせ-携帯電話のフィルタリングが始まるそうです

2009年01月25日
携帯でサービスを利用されている方へ、
フィルタリング(アクセス制限)についてお知らせします。


フィルタリング(アクセス制限)について

2009年1月下旬から、携帯電話の各社 (au、Docomo、SoftBank)
18歳未満 の利用者の方たちに、
フィルタリング(アクセス制限)が、自動的に適用されます。


■ フィルタリングって何?
携帯電話のインターネット使用に制限がかけられ、
特定のサイトにしかアクセスできなくなります。

FC2ブログをはじめ、当社サービスもアクセスできなくなります。
管理画面のログインはもちろん、ブログの閲覧もできません。

■ フィルタリングされたら、もう使えない?
各ショップ窓口で手続きすれば、制限は外せます。
フィルタリング解除の手続き・方法は、
利用している各社 (au、Docomo、SoftBank) に問い合せてください。
最寄りのショップ店頭でも、手続きができます。

FC2のお知らせブログより


ということだそうです。
私はよく分かっていないのですが、よろしくお願いします。

大仏殿・方広寺 天誅組出発の地

2009年01月25日

大仏殿・方広寺(京都府京都市東山区大和大路通七条上ル茶屋町527-2)は、天誅組としてよりも豊臣家滅亡のきっかけとして歴史の時間に習った記憶があります。
方広寺2

方広寺石垣1
     今も残る石垣

文久3年8月14日、前侍従中山忠光を大将に、松本謙三郎、吉村寅太郎、藤本鉄石ら幹部を含め38名の同志は、大仏殿に集まり天誅組を結成し、大和に赴き天皇の大和行幸の先駆けとして、討幕の先鋒となるべく出発しました。

天誅組の計画は京都の政情変化で失敗し、多くは吉野で散りました。

方広寺は、天正14年豊臣秀吉が奈良の大仏より大きい高さ19mの大仏をまつる大仏殿を建てたのが始まりです。
その後何度も地震や火災に遭い、今は石垣と本堂、大黒天堂、鐘楼(別記記載)が残るだけになっています。
幕末の頃には、天保14年にできた、半身木像仏とお堂がありました。

現在は、大黒天堂で秀吉の念持仏の開運大黒天と、本堂で豊臣秀頼が造った2代目大仏の眉間に嵌められていたこもり仏や台座の一部を拝観できます。(有料)
写真でみる維新の京都&歩く地図より


京阪電鉄七条駅から七条通を東へ約300m、三十三間堂前交差点を北へ曲がりさらに300mの所に方広寺があります。

道路に面して石垣が残っています。
この石垣の前にも「大仏殿石垣」という石碑が建ち、石垣はフェンスに囲まれていました。
石垣も重要ということでね。
この石垣は天誅組の集結を知っているのです。
ということは、天誅組のメンバーはこの石垣を見たのです。
新選組も見たのでしょうか?
幕末の時を知っている、少ない遺物の一つなのですね。

境内は広かったのですが、寂しい雰囲気でした。
火災や地震で焼失して、その後に再建されなかったという雰囲気をかもし出しているのでしょうか。
それともただ私が訪れた時に、たまたま拝観者が少なかっただけなのかもしれません。

中山忠光は、天誅組の盟主で公卿です。
大納言中山忠能の第七子で、忠光の姉中山慶子と孝明天皇の間に生まれた祐宮が後の明治天皇なので、天皇の実の叔父にあたります。
中山家で生育された明治天皇が宮中に戻ると、安政5年忠光も侍従として出仕するようになりました。

公卿中もっとも過激な尊攘派で、文久2年9月、自ら京都三条にいた土佐勤王党の武市瑞山のもとに直接訪れ刺客の貸与を申入れるなどしました。
また和宮の降嫁問題に憤激し尊攘派志士とそれを推進した3卿両嬪を弾劾して、辞官落飾を強制しました。
翌文久3年3月、忠光は土佐の吉村寅太郎の誘いを受けて、加茂行幸の供奉のあと無断で京都を脱出、摂津沿岸を巡視しそのまま長州に走って名も森秀斎と名乗り、5月10日、長州藩の馬関攘夷に参加して自ら軍艦庚申丸で外艦を砲撃しました。

6月には吉村らと帰京、真木和泉、桂小五郎、久坂玄瑞ら尊攘激派の中心人物とさかんに会合をかさね、彼らの画策が効を奏してこの年8月13日ついに大和行幸、攘夷親征の詔勅が出ました。
その先駆けたらんとして、忠光を盟主として天誅組が結成され、吉村寅太郎、藤本鉄石、松本奎堂(謙三郎)らが中心になって大和五条の代官所を襲い代官鈴木源内を斬って討幕の第一声をあげました。

京都では八月一八日の政変によって、長州系尊攘激派は敗退し、大和行幸は取り消されたため、天誅組は孤立してしまいました。
頼みとする十津川郷士も離反し、作戦上の意見の違いから忠光ら本隊と河内勢も別行動を取ることになり、本隊は各所を転戦、敗走を重ねながら鷲家口の戦いで大きな犠牲を払うことで、忠光を長州へ脱出させることに成功しました。
この頃しばらく下関の白石正一郎邸に潜んでいましたが、長州藩は幕府を恐れてさらに辺鄙な豊浦郡田耕村の山中に送り込みました。
そして元治元年11月15日、この山中で長州藩から差し向けられた数人の暗殺者に絞殺されました。
享年20歳。

松本奎堂は、天誅組総裁の一人です。
名は衡、字は士権、通称謙三郎。
三河の刈谷藩士印南維成の二男で、のち松本家に養子に入りました。
18歳の時槍の稽古中に左目を傷つけ隻眼の人となりましたが、藩主土井侯は才能を惜しんで、江戸に遊学を許しました。
大槻磐渓に学びつぎに羽倉簡堂につき、さらに嘉永5年昌平黌に入り舎長となりました。
友人に松林飯山、原中寧、岡千仭らがいました。

帰国後、教授兼侍読を勤めましたが、藩老の専横を面詰したために禁錮1年に処せられました。
安政6年、名古屋で塾を開き、この頃結婚しましたが、折々博徒侠客を集めて酒を飲むなど、奔放な生活をしていました。

文久2年妻子を捨てて上京、大坂に移って松林、岡らと双松岡塾を開きましたが、有名になるにつれて幕府から弾圧を受けて、閉鎖せざるえなくなりました。
以来再び放浪の生活をしました。
ローソク売りに身をやつして十津川や河内をたびたび訪れ、地方の土豪の信頼を得るように努めました。
この間藤本鉄石や吉村寅太郎とも親しく往来しています。
文久3年8月、攘夷親征、大和行幸のことが朝議で決定されたのを待望の好機として、中山忠光を盟主にして、藤本、吉村らと挙兵を決意し、総勢38名が京都を発して河内の水郡善之祐の家に立ち寄り、軍旅を整えました。
天誅組の結成。
天誅組の声明文のほとんどはこの松本奎堂が書きました。

挙兵後の五条代官所襲撃は成功しましたが、すぐそのあと京都の政変で大和行幸が中止され、天誅組は逆賊として近隣諸藩の攻撃をうけるようになりました。
高取城攻撃の失敗の後、いくどか戦いながら敗れ、十津川を逃れて上野地の本陣で解散しました。

奎堂は忠光に随従していましたが、左眼のみならず右眼もほとんど失明状態になったので、駕籠で運ばれていたところ、銃声に驚いた人夫に萩原の上御殿峠の地蔵堂の側にうち捨てられ、ここで乱射を浴びて戦死しました。
幕末維新人名事典より




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戯言-刀・白足袋・黒袴

2009年01月24日
少し休憩を兼ねて、戯言を書きたいと思います。

やばい! 嵌りそうです。
私はやはり、刀を差した和装が好きなのだと思いました。
それも幕末-江戸時代後期頃-をイメージ出来るもの。(←↑これらが大事!!)

甥っ子達が来て、アニメを見ていました。
何気なく一緒に見ていたら、ある一瞬の画面で“萌え”てしまいました。
片足のアップ(これだけ書くと変ですが)。
黒い袴から白い足袋に草鞋(?)を履いていて、袴の裾と白足袋の間に素足がチラッと見えている、本当に1~2秒の画面でした。
たったこれだけに、“ドキッ”とした私はマニア過ぎますかね?
手には大刀を持っていて、戦いの途中で踏ん張った事を表す映像でした。

そのアニメは「BLEACH」で、見ていたのは映画版「BLEACH」でした。
なので、内容的には幕末とは全然関係なく、ファンタジーの世界の話です。
でも、でも、刀・白足袋・黒袴は琴線に触れてしまいました。

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次に気になったキャラクターも、白足袋に黒袴で、大刀を背にしていました。
どうも私の中では、“沖田総司”的イメージで結ばれたようです。
設定的には共通するところはないのですが…。
“るろうに剣心”の瀬田宗次郎は沖田総司をモデルにしているがハッキリとしていますよね。

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これから時間があれば、アニメをチェックしてしまいそうです。

あの袴の裾から見える素足…、チラ見えにメロメロです(笑)
なんだか男性が女性を見て喜ぶ要素ににています?
あくまでもアニメの中、美しく見せる事を心がけて作られた世界での話しですからね。
普段、道行く男性をこんな目で見ていませんから、引かないでまた史跡巡りにお付き合い下さいね。

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旧二条駅舎

2009年01月24日
JR西日本 山陰本線二条駅(京都府京都市中京区西ノ京栂尾町)は、1996年に新しくなりました。

二条駅270
   新しくなる前の二条駅

旧駅舎は、荘厳な社寺を彷彿とさせる造りで、貴賓室も設置された立派な駅舎で全国的に知られていました。
当初はレンガ造りの駅が計画されていましたが、二条城の近くでもあることから景観へ配慮して和風建築に改めたとも、東北本線宇都宮駅の駅舎が優美であったため模倣したとも言われています。

1990年10月に二条~花園間の高架化工事に伴う仮線に支障するため、旧駅舎の建物を東側に15m移動させる曳屋工事が行われました。
この工事では約300トンの建物を2日間掛けて移動させました。
その後高架化工事中の仮駅舎として使用が続けられましたが、1996年に高架化工事と新駅舎の完成に伴って駅舎としての役割を終えました。

明治期の和風駅舎建築として唯一の残存例であり、京都の近代化を象徴する建物でもあることから、1996年4月1日京都市指定有形文化財に指定されました。
幅を縮小して梅小路蒸気機関車館に移築されています。
Wikipediaより


JR京都駅も二条駅も近代的な、鉄筋の駅に変わってしまいました。
特に京都駅はビルになり、突出して高い建物となってしまいました。
それに比べると、二条駅は高さを抑えてあります。
その点、私の中ではまだ良かったぁ~と思っています。

しかしどうして、こういうモダンな建物にしたがるのでしょうか。
京都は歴史をメインに観光地として展開しているのですから、その町にあった日本家屋風の建物にするとか、寺社風建物など、京都に来たな!!と実感できるような、京への入口にすればいいのにと、思うのは私だけでしょうか?

最初に二条駅の前を通った時はまだ、この旧駅舎だったので、歴史を感じました。
新選組は駅舎とは無縁ですが、それでも古い時代へのタイムスリップのきっかけになりました。
あとほんの少し長く生きていたら、新選組の面々もこんな建物や列車を目にする事ができたのです。
彼らは今の世の中を見たら、ビックリ仰天でしょうね。
江戸~京都・大坂間を何日もかけて往復したのに、いまだと新幹線だと3時間、飛行機だと1時間です。
長州や薩摩に住む人達も、その日のうちに江戸に着けるのです。
日帰りだって可能です。

だたし情報が早すぎて、幕末の頃のように、じっくりと日本や自分達の進むべき道を考える時間もなく、現在みたいなどうしようもない世の中になっていたかもしれません。
幕末は混乱して暗殺・天誅など殺し合いもありましたが、どちらが悪いというより、両方が真剣に行く末を考えて信念をもって行動していた人達がほとんどだったので、人を惹きつける魅力があるのだと思います。
今から100年200年たっても、この平成に魅力を感じて歴史を学んでくれる人は少ないと思います。
その頃でも、きっと幕末の方が魅力を感じる人の方が多い気がします。

東町奉行所跡

2009年01月23日
西町奉行所から少し東に行った場所に、東町奉行所跡(京都府京都市中京区押小路通神泉苑西入ル南側)があります。
東町奉行所跡1  東町奉行所跡2
壬生電話局から天理教会にかけての一帯は東町奉行所跡です。
奉行所は西町と東町があり、老中の支配を受けて市政を掌りました。
東町奉行所の付属地としては、御池屋敷があり、与力(20騎)・同心(50人)が住みました。

東町組与力・森孫六、大河原重蔵は、西町組与力・渡辺金三郎、上田助之丞とともに、安政の大獄に勤王の志士の捕縛に功を上げました。
しかし文久2年9月23日、江戸召還の途中、江州石部の宿で志士らの刺客に殺されました。
写真でみる維新の京都より


西町奉行所の碑を見て、御池通を東(二条城方向)へ歩きます。
二条城の南、御池通を挟んで向かい側に“神泉苑”がありますが、その手前にNTT西日本ビルがあり、そこの一角に“東町奉行所跡”の碑がありました。
柵の奥、敷地内にあったので、写真を撮るにはちょっと「柵が邪魔!」でした。

西町と東町の碑も約350mしか離れていません。
西町と東町というのは、京都を2区画に分けて担当しているように思いませんか?
今の警察署と同じシステムですね。
私はそんな感覚でした。

西町と東町が交互に担当していたというので、今度はしょっちゅう仕事の引継ぎばかりで大変。
それに1ヶ月は仕事は無し?
かと思っていましたが、新規受付が交互ということだったのですね。
窓口業務がローテーションしているって事ですか。

東と西では格差があったのでしょうかね。

森孫六と渡辺金三郎らの斬奸状を書籍で見たことがあります。
斬奸状なので、似顔絵ではないので、本人に似ているということではないでしょうが、何種類かの斬奸状に書かれた姿は似ていました。

新選組が奉行所を訪ねる事はどれぐらいあったのでしょうか。
おそらく幹部、近藤勇や土方歳三らは行く事はまずなかったでしょう。
平隊士がお使い程度の訪れたぐらいかな…と考えているのですが。

西町奉行所跡

2009年01月23日
京都の西町奉行所跡(京都府京都市中京区押小路通千本東)の碑があります。
西町奉行所跡1  西町奉行所跡2
中京中学校と押小路通一帯は、西町奉行所跡で、東部および南部の付属地を古屋敷、三条北を三条屋敷と呼び、与力同心の住居地でした。

西町も東町と同じ職務を行い、東町と隔月交代で任に当たりました。
隔月といっても、新規事件の受理についてで、処理中の作業は常時当りました。

東西奉行所ともに本来の司法・行政・警察などの職務のほか、禁裏の警護・皇室会計の検査・所司代参府の際の代役等も果たしました。
写真でみる維新の京都より


JR山陰本線二条駅や京都市営地下鉄東西線二条駅前から、北側を見ると、交差点の向こうに中京中学校が見えます。
その交差点の角に西町奉行所跡の碑が建っています。
駅前の賑やかな場所で、御池通の並びには二条城が見えます。

私が写真を撮った時は、駅と駅前が工事中で雑然としていましたが、今は綺麗になっていると思います。
何度か通ったのですが、その時は整備されていました。

京都の奉行所というのは、江戸や大坂の奉行所に比べるとあまり話題に出てきませんね。
江戸といえば、“遠山の金さん”“大岡越前”などで耳にします。
時代は違いますが。
大坂といえば、“大塩平八郎”がいますし、新選組でいえば“内山彦次郎”の名前が出てきます。
でも京都では、…………………“森孫六”“渡辺金三郎”ですか。
そういえばいてましたね。
って感じになってしまいます。

京都所司代、京都守護職、新選組、見廻組と同じ任務の組織が多かったからでしょうか。
新選組などは目の敵にされていたのかもしれません。
あるいは流血沙汰は新選組に押し付けていたのかもしれませんよね。
奉行所関係者でも暗殺される時代です。
そう考えると、本当に物騒な世の中です。
でも、今の方がもっと物騒かも…。
幕末は思想の違いなど、狙われる理由が本人にも分かっていたと思います。
気をつけるという事も気持ちの中に持てる状況だったと思います。
しかし現在は、「誰でもよかった」という理由で、無関係の人間が狙われるのですから…。
幕末の暗殺者の方が、いい人に思えてしまいます。


冬のつばめ―新選組外伝・京都町奉行所同心日記 (徳間文庫)冬のつばめ―新選組外伝・京都町奉行所同心日記 (徳間文庫)
(2001/05)
澤田 ふじ子

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京都所司代下屋敷跡

2009年01月22日
京都所司代下屋敷跡(京都府京都市上京区堀川通丸太町下ル西側)付近です。
所司代屋敷跡
下屋敷(千本屋敷)は、奥平信昌の元私邸でした。
東は日暮通から西は千本通まで、北は椹木町通辺りから南は竹屋町通までの敷地、40,000坪の地域でした。
敷地内には縦横に道路がつけられ多くの長屋、小屋等が建ち、馬場、鉄砲場、厩などが設けられたほか、西北隅には火の見櫓がありました。
この千本屋敷には、京都地組と称する所司代附抱え足軽100名とその家族が居住していました。
屋敷の中心部には足軽支配の役目をもつ所司代の直臣4名が住んでいました。

幼稚園、社会福祉会館、ホテルなどが建つあたりです。
幕末維新京都史跡事典より


※ “京都所司代屋敷跡”を参照して下さい。

下屋敷付近の写真が“写真でみる維新の京都”にありましたので、所司代屋敷跡を訪れた時に、写真を撮っていました。
社会福祉会館です。
下屋敷としての碑はありませんでした。

京都所司代上屋敷跡

2009年01月22日
二条城の北に、京都所司代上屋敷跡(京都府京都市上京区丸太町通大宮東入ル南側)があります。
所司代屋敷跡2  所司代屋敷跡3
右端の柵の奥に、右の写真の碑があるのがみえますか?

所司代屋敷跡1
   猪熊通にある碑です。

幕末の慶応3年12月9日に、最後の所司代松平越中守定敬が廃されました。
慶長5年9月に就任した奥平美作守信昌以来、58名がその職に就き、近畿や西国に睨みをきかせていました。
所司代という名は、鎌倉幕府で武士を取締る機関を「侍所」といい、その長官を「所司」と称したことに由来します。
足利三代将軍義満の頃、侍所の司佐々木道誉が、家来の吉田源蔵にひそかに自分の仕事を代行させたことから、所司の代官という意味で所司代の名が始まりました。

徳川幕府の所司代の役目は、町奉行の上に立ち、二条城を監督し、禁裏御所の事務、監督、警備にあたるなどで、朝廷にとっては煙たい存在でした。
所司代は老中につぐ要職で、譜代大名から選任され、奏者番、寺社奉行、大坂城代等を経て就任しました。
役料は1万石、官位は侍従、配下には家臣のほかに、与力50騎(80石)、同心100人(10石3人扶持)、抱え足軽100人を従えました。

当時、所司代屋敷は、東は東堀川通、西は七本松通、北は椹木町通、南は竹屋町通の範囲7万坪でした。
慶長6年の設立で、元禄16年に拡張されました。

上屋敷は二条城に面して中央に表門、西寄りに公事門を持ちました。
東西猪熊通から日暮通と、南北丸太町通から竹屋町通に至る、8,800坪の敷地に、建坪1,600坪余の中央南北の馬場を挟んで建つ建物があり、東半分は執務部屋で、奥の方が所司代自身の居住区であり、西半分は家臣団居住区でした。

中屋敷(堀川屋敷)は、板倉勝重の元私邸でした。
東堀川通と猪熊通、丸太町通と竹屋町通に囲まれた、敷地2,478坪の地に長屋数棟が建ち、勤番者やその家族の住居となっていました。

下屋敷(千本屋敷)は、奥平信昌の元私邸でした。
東は日暮通から西は千本通まで、北は椹木町通辺りから南は竹屋町通までの敷地、40,000坪の地域でした。
敷地内には縦横に道路がつけられ多くの長屋、小屋等が建ち、馬場、鉄砲場、厩などが設けられたほか、西北隅には火の見櫓がありました。
この千本屋敷には、京都地組と称する所司代附抱え足軽100名とその家族が居住していました。
屋敷の中心部には足軽支配の役目をもつ所司代の直臣4名が住んでいました。

与力同心組屋敷(新屋敷)は東は千本通から西は七本松通、北は椹木町通から南は旧二条通あたりまでの敷地、約21,000坪で中央に与力50人の住居がありました。

坂本龍馬の暗殺に加わったとされる桂早之助は所司代同心から京都見廻組に入りました。
その住居は屋敷内北方、中央寄りの西側にありました。
同心組屋敷内には、いくつかの稲荷の社があり、同心稲荷と呼ばれていました。
この組屋敷の地域は囲いはなかったようです。

現在、堀川屋敷跡にホテルニュー京都等が建っています。
上屋敷跡は北部に待賢小学校があります。
千本屋敷跡は北部に出水小学校があり、南部にNHK会館や児童公園などを含む広い地域です。
新屋敷跡は、北東部に大極殿遺址を含み、南は山陰本線が西へカーブして通っている広い地域です。
幕末維新京都史跡事典より


JR山陰本線二条駅か京都市営地下鉄東西線二条前駅から、二条城を目指して行きます。
堀川通と丸太町通の交差点から西へ100mほどの場所です。

現在は碑が2ヶ所あるだけですが、地図で見てみると、二条城北側一帯の二条城より広い範囲に京都所司代屋敷があったようです。
さすがに京都御苑よりは狭いようです。
この屋敷の広さからして、本当に凄い権力があったようです。

今は観光地とも違って、京都の人の生活に密着した場所って感じでしょうか。
観光客で賑やかではないですが、人の往来はあって、私のようにマニアックな史跡巡りが好きな人間には、一番歩きやすい感じの場所です。

最後の所司代松平定敬は桑名藩主で、会津藩主で京都守護職松平容保の弟です。
京都守護職といえば、新選組の親分(?)です。
定敬にすれば、京都守護職に着任したのが兄であるので、心強かったのではないでしょうか?
この兄弟は仲がいい(悪くない)方ではないですか?
それぞれに藩主として地位を確立していたからなのか、会津の精神が根付いていたのか、その両方が作用したのか…。
どちらもあまり戦を好む人では無かったのではないでしょうか。


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