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土方歳三人形&ありがとうございます

2008年12月31日
2008年 ありがとうございました。

本日の史跡巡りは小休止です。
土方歳三人形です。
似ているような、似ていないような…。
洋装の土方歳三は、ポスターやテレカ以外では珍しくありませんか?

五稜郭土方人形
五稜郭で買ったのだったかな?
箱の中に大事になおして(しまって)ありました。
先日、探し物をしていて、久しぶりに戸袋を開けて発見しました!
何年ぶりかに再会した、土方歳三さんです。


今年の2月にブログを初めて、もうすぐ1年になろうとしています。
稚拙な文章で、よく意味不明な文章になったりと、なかなか思うように書けません。
それでも、多くの方が訪れて下さり、本当に心より感謝しております。

来年も書きますので、時々覗いていただけるだけで嬉しいですので、是非また覗きに来て下さい。
よろしくお願い致します。
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冷然院跡

2008年12月30日
冷然院跡(京都府京都市中京区竹屋町通堀川西入ル)の前を通りました。
冷然院跡193
平安前期~中期、冷然院があったところである。
弘仁年中(810~824年)嵯峨天皇の離宮として造営されたのがはじめで、林泉を前に数十の建物が建ち、天皇は、しばしば行幸になって、華麗な詩歌の宴を行い、譲位後は、後院(上皇の御所)として使用されました。

嵯峨天皇の後、冷然院は皇室の重要な財産として伝えられ、代々天皇の離宮・後院として使用されました。

元は、「冷然院」という名前でしたが、火災が相次いだので“然”の字は“燃”につながるということから、「冷然院」から「冷泉院」へと改められました。

この「冷泉院」は、『源氏物語』とも関係があります。
冷泉帝-光源氏と藤壺の中宮との不義の子-が譲位したのちに過ごした御所が「冷泉院」です。
京都市などより参照


二条城のお堀の北側にあります。
堀川通を西に曲がった処です。

冷然院跡が何かよくわからずに、とりあえずパチリ!
平安時代でしたよ!!
幕末とかけ離れ過ぎました。

しかし源氏物語と思うと、興味が出てきました。
碑と説明板が木々に隠れるように建っているので、気付かない人も多いかもしれません。
でも、平安時代の建物跡の場所が分かるというのも、凄いですよね。
それなのに、幕末関係の位置が分からなかったりするのですが。

さすが京都!
千年の都!!


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冷然院
嵯峨天皇

勧進橋

2008年12月30日
鴨川に架かる勧進橋(京都府京都市伏見区深草西河原町/京都府京都市南区東九条柳下町)です。
銭取橋2  銭取橋1
東洞院通は南進して竹田街道となり、鴨川を渡って竹田を経て伏見に至ります。
鴨川に架かる橋を
勧進橋(銭取橋)といい、昔は通行料を取りました。

池田屋事件後、長州軍は京へ向けて進発を開始しました。
押し寄せくる長州勢の入京を阻止するため、元治元年6月24日、新選組にも会津藩より竹田街道の警備要請がなされ、新選組は九条河原へと向かいました。
そして新選組が宿陣したのが、銭取橋の東になる堤下の場所でした。

銭取橋は、竹田街道鴨川上に架かる橋で、正式名を会姓寺橋といいました。
新選組はこの銭取橋近くで、禁門の変が起こる同年7月19日までの二十日間以上布陣していました。

松江出身の武田観柳斎は、新選組五番隊組長や文学師範として幅を利かせていました。
しかし、長沼流兵法もフランス式の調練に押されました。
肩身の狭くなった武田は、既に新選組を離れていた伊東甲子太郎に接近しましたが、拒絶されました。
さらに密かに伏見の薩摩藩邸に出入りすることが知れ、新選組を離隊する酒宴を開いた近藤は、
慶応2年9月28日夜、篠原泰之進と斎藤一に送られて伏見へ行く途中、勧進橋を渡ったところで斎藤一に斬殺されました。
写真でみる維新の京都&新選組史跡事典より


京阪電鉄鳥羽街道駅か伏見稲荷駅が一番近いです。
それぞれの駅から西へ歩きます。
鳥羽街道駅からなら、陶化橋に着きますので、1本南の橋まで南下してください。
300m程です。
伏見稲荷駅なら国道24号の稲荷新道交差点に出ます。
そこから国道24号を北に約200mで勧進橋に出ます。

確かにこの場所に行った記憶はあります。
しかし、どんな場所だったのか、写真を見ても詳細が思い出せません。
国道なので、車の往来が激しかったことぐらいしか覚えていません。
新選組の史跡として訪れているのですが、どうもあまりワクワクしなかったようです。

武田観柳斎関係だから?
武田観柳斎をあまり好いていなくても、新選組隊士です。
それに密命を受けていたのは、斎藤一ですから、興味がわかないはずがないのですが…。
もしかして、歩き回った後で少し疲れていたのかも…(笑)

元気な時に改めて、通ってみたいと思います。

豊後橋(現:観月橋)

2008年12月29日
豊後橋(京都府京都市伏見区豊後橋町)も鳥羽伏見の戦いに登場します。
観月橋1  観月橋2
豊後橋は宇治川に架かる橋です。
明治6年に再建され、観月橋と呼ばれるようになりました。

秀吉が、奈良へ行くのに宇治を経由していたのを、豊後橋を架けて、小倉堤を築き、堤上の道を行く大和街道を新設しました。
宇治川も北へ迂回させ、左岸に槙島堤を築きました。

鳥羽伏見の戦いの時、正月5日に長州藩兵と薩摩藩兵の一部は、淀方面の幕軍の背後から攻めようと、豊後橋を渡り小倉に回りました。
写真でみる維新の京都より


京阪電鉄宇治線観月橋駅を降りてすぐ横です。
観月橋の北詰に駅があります。
京阪電鉄宇治線は、大阪や京都出町柳方面から行くとすれば、中書島で宇治線に乗り換えて、次の駅です。

電車を降りて橋を眺めて…。
ん~、この豊後橋に関しては、今ひとつトキメキませんでした。
どうして? 何故?

おそらく長州藩兵と薩摩藩兵が橋を渡っただけだから?
休憩をしたとか、戦いがあったとか、陣を構えたならトキメキはあったかもしれません。
長州や薩摩でも、私も知っているような人が通ったでしょうか。
きっと意気揚々と渡ったのだと思います。
整然と整列して渡ったのかな。

今は車が通っているだけの橋です。
左上に見える高架は、国道24号を直進する車輌のために昭和50年に造られたそうです。

戦国ファン、秀吉ファンの方が喜ぶ場所かもしれません。

浅見絅斎墓-西大谷墓地

2008年12月29日
西大谷墓地には、浅見絅斎墓(京都府京都市東山区五条橋東6丁目)もあります。
浅見絅斉墓
清水へ至る道から東へ分かれて行くと、東北端に近く、清水の塔の望まれる辺りに南面して、浅見絅斎の墓があります。

浅見絅斎は、江戸中期の朱子学者です。
浅見は山崎闇斎の門人三傑の一人で、大義名分を説きその学説は望楠軒に引き継がれ、その著『靖献遺言』は、幕末の志士に深い影響を与えました。


屋根が付いているので、こちらは島田左近墓よりもっと見つけやすいかもしれません。

浅見絅斎は幕末の人ではなく、江戸中期の人物だそうです。
それでも幕末に影響を与えた人でもあるそうです。

お墓に屋根が付いているのは、それだけ重要なお墓という意味でしょうか?

東大谷祖廟の島田魁のお墓は、無縁さんとして墓石は整理されてしまいました。
島田魁といえば、まだまだ縁者さんもいてそうなのに…。
反対に、島田左近の方は、出自も不明なのにちゃんとお墓があります。
そして浅見絅斎は、江戸中期の人であるにもかかわらず、屋根付きのお墓がちゃんとあります。

歴史的に有名無名は関係ないのですね。
いかにお墓を守ってくれる、縁者さんを探すかということにつきるのですね。


浅見絅斎

島田左近墓-西大谷墓地

2008年12月28日

西大谷墓地島田左近墓(京都府京都市東山区五条橋東6丁目)があります。
島田左近墓1  島田左近墓2
西本願寺の祖廟・大谷本廟です。
本堂に東に親鸞廟と、歴代法主の廟があります。

南谷の中央あたり、木立の中でも目立ちます。
写真でみる維新の京都より


京阪電鉄清水五条駅から五条通を東へ600mで東山五条交差点です。
分岐が複雑な交差点ですが、まっすぐ進む方向に西大谷があります。

多くのお墓がありますが、島田左近のお墓は本当に目立ちます。
正面に「嶋田龍章之墓」と刻まれています。
また「文久二年壬戌七月二十日 歿年三十六」とくっきり刻まれています。

古めのお墓、周りより黒い墓石をさがせば大丈夫です。
ド~ッン!という感じに建っていました。
こんなに目立ったら、暗殺されてしまいますよ?!
もしかして、生前もこんな風に目立つ人だったのかもしれませんね。

島田左近の墓の一段崖の上、やや東方中程に松井中務の墓があります。
上面・表面の剥落が著しく、中務の文字も右半分を欠いています。

松井中務は西本願寺用人で、外国船の来航に備え、僧侶の武備を建議し、門末に勤王を説き、蝦夷地における末院の屯田兵設置を献言するなどしましたが、文久3年守護職に命じられた越前の松平春嶽が、翌春上京の際、本願寺境内を旅宿に使用することに賛成したため、中務は開港論者とみなされ、文久3年8月12日、自宅で暗殺されました。
写真でみる維新の京都より


松井中務のお墓はまだ訪れていません。
島田左近のお墓にお参りされた方は、近くにあるようなので、ぜひ探してお参りしてください。
私も、一度はお参りしたいと思います。

島田左近殺害之地

2008年12月28日
二条大橋の近くが、島田左近殺害之地(京都府京都市中京区木屋町通二条 善導寺前)です。
島田左近殺害場付近
ビルとビルの間に見えるのが善導寺です。
善導寺前というので、この道路の付近ということでしょうか。

善導寺1  善導寺2
善導寺です

勤王の志士から恨まれていた(清水寺の項を参照してください)島田左近は、清河八郎、村上俊五郎、小河弥右衛門ら寺田屋騒動の残党からも狙われていました。
また久坂玄瑞、入江九一、寺島忠三郎らが、堺町丸太町下ルの左近邸を急襲しましたが、すでに逃げられていたこともありました。

島田の方も、志士に狙われているため、丹波に逃れ、中国辺にかくれ、また彦根にひそむなどして姿をくらましていました。

その後、島田は丹波から帰り、九条邸に潜伏していましたが、文久2年6月20日、九条家の領地伏見に姿を現しました。
豊後岡藩の小河弥右衛門がこれをみつけ、薩摩藩の藤井良節に告げました。

藤井はこの事を同藩の田中新兵衛に告げると、早速同藩士服部政次郎、井上弥八郎、鵜木孫兵衛、志々目献吉、岡藩の広瀬友之允、福原武三郎らとともに追跡しましたが、島田は早くも行方をくらませていました。

1ヶ月後、7月20日夜、木屋町二条下ル茶寮山本ゆう方で、島田は元祗園町三升屋の抱え芸者君香というなじみと夕食の膳に向かって酒を飲んでいました。
真夏の暑さに、島田は丸裸で川辺の板の間で、小女2人に後ろからうちわで扇がせているところへ、田中新兵衛、鵜木孫兵衛、志々目献吉の3人が飛び込んできて、島田に斬りつけました。

島田は傍らの煙草盆を投げつけ、目の前の鴨川原に飛び降り、北へ向けて一目散に逃げ出しました。
追いかけた田中らは、木屋町二条突き当りの善導寺前で追いつき、その首を長州藩邸へ持ち帰りました。
7月21日朝、高瀬川筋樋の口に首の無い死体が浮いていました。
翌々23日、鴨川原四条上ル100mほどの先斗町川岸に、青竹に貫かれた首が東南を向いて晒されました。
享年37歳。

島田の胴体は綾小路大宮西入ル南側2軒目の某寺に埋められました。
墓は西大谷にあります。
幕末維新京都史跡事典より


二条大橋の西側100mに善導寺があります。
門の形が変わっているので、ビルの間にあっても判りやすいのではないでしょうか。

清河八郎に狙われていたそうです。
清河八郎も狙われる側だと思うのですが、その人に狙われるのですから、狙われ具合が半端ではないですね。
さらに久坂玄瑞、入江九一と有名どころに総狙われです。
よほどの人物だったのでしょう。

首が晒され、その時の瓦版(?)、その首の様子を描いた絵を見ましたが、一般庶民も晒された首をこぞって見に行ったとか…。
私は絵だけで十分です。

そういえば近藤勇も首が晒されたのですよね。
もし今、幕末の京都に行けるとしたら(ドラえもんでもいないと無理ですが 笑)、
近藤さんの首なら、もしかしたら見に行ってしまうかもしれません。
どんな姿であれ、近藤さんをひと目見てみたいです。


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島田左近邸跡

2008年12月28日
島田左近邸跡(京都府京都市中京区堺町通丸太町下ル半町西側)です。
島田左近邸跡
清水寺に石灯籠を献納した、島田左近の邸宅跡です。

※清水寺の項目で、島田左近の略歴を書きました。

写真でみる維新の京都より

京都御苑堺町御門から南北に伸びる道が堺町通です。
堺町御門を出て、目の前の丸太町通を渡ります。
そこから半町(約55m)南へ行った西側です。

この辺りは、地元の方の家が密集しています。
御所に近いですが、大通りではないので、観光客もあまり歩いていません。

そうですよね、九条家の諸大夫なのですから、御所から遠い場所には住んでいませんね。
九条家は堺町御門を入ったところに、広大な屋敷があったようですから、云うならば職場の横に家があるのと同じという感覚でしょう。

旧写真を見ると、長い土塀(?)続いている、広いお屋敷が写っています。
今は、近代的なお宅になっているようです。

新選組も歩いていたでしょうか?
恐らく、京都市中で歩いていない場所は無いと思いますが、あまり新選組が歩いていたと感じられる場所ではありませんでした。
単に事件が無かったからですが…。

清水寺

2008年12月27日
有名な清水寺(京都府京都市東山区清水)です。
清水寺2  清水寺1
             島田左近献納の石灯篭

十一面千手観音を本尊とする、音羽山清水寺は、北法相宗総本山で、本堂の懸崖舞台は有名です。
延暦17年創建です。

山門に並び立った石灯籠は、九条家家士で、井伊直弼の家臣長野主膳と謀って、主人九条関白を親幕派に転じた、島田左近の献納したものといわれています。

島田左近は、九条家諸大夫です。
出自も生い立ちも明らかでありません。
一説によれば石見の農家に生まれて、京都に出て商家の手代として働くうちに手づるを得て、宮家の青侍になり、やがて九条家に仕えて諸大夫まで立身したといいます。

また一説には、美濃の山伏あるいは神主の子で、九条家の家臣島田氏の入り婿となって、彼の妻の母千賀浦が老女であったので、九条家で勢力を得るようになり、諸大夫に出世したなどといいます。
が、どれも確証がありません。

左近が九条家の地位を利用して活躍するのは、安政5年の大獄からです。
井伊直弼の腹心長野主膳と謀り、目明しましらの文吉を使って尊攘派志士の検挙に暗躍、幕府から1万両の賄賂をとったと噂されました。

和宮の降嫁にも尽力、文久元年和宮の供として、江戸まで随行しました。
京都ではその権力は今太閤といわれるほどで、尊攘派に最も憎まれ、妾宅にいる時に田中新兵衛ら薩摩藩士3名に襲われて殺されました。
その首は加茂河原に斬奸状とともに晒されました。
島田左近は30代半ばだったといいます。
写真でみる維新の京都&幕末維新人名事典より


清水寺が幕末の小説などで出て来ることは少ないですね。
八坂神社などは時々目にします。
それは私が新選組ファンで、新選組中心の小説を読むからでしょうか?

この灯籠は島田左近が献納したといわれています。
あまり気付かないような所に、幕末が残っているのですね。

それにしてもこの島田左近という人は、本当に謎の多い人ですね。
出自がわからない。
気が付いたら、九条家の諸大夫になって、その場所に居た!という感じでしょうか?
亡くなった時の年齢も、30代半ばというあやふやさ、親密にしていた女性も何も聞かなかったのでしょうか?
詳しい生まれとかは別にしても、どの辺りの生まれで、年ぐらい聞きそうな気がするのですが。

この石灯籠も“いわれています”であり、“しました”ではないのです。
何もかもが、確定できないという…。
生身の人間ですよね、まさか幽霊ではないですよね。


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清水寺 今年の漢字

成就院

2008年12月27日
清水寺一山九院の本坊・成就院(京都府京都市東山区清水、清水寺山内)は、本堂の手前、北方にあります。
成就院
先師蔵海の後を嗣いで、成就院の住職となった忍向(月照)は、勤王の志厚く、近衛家に出入りし、尊攘の志士と交わったため、幕府に睨まれ薩摩に下りました。
忍向の弟も蔵海の弟子となり、僧信海となり、兄の去った後寺務を預かった近藤正慎の亡き後、成就院の住職を嗣ぎました。

清水寺へ向かう途中、左の道を行くと、月照・信海の碑があり、坂を下ると成就院です。

忍向(月照)は、京都清水寺成就院住職で、正式僧名は忍向です。
大坂の町医玉井宗江の長男で、俗名宗之のち久丸です。
文政10年4月14歳で、縁戚にあたる成就院蔵海の弟子となり、翌年得度して中将坊忍鎧また忍介と称し、天保6年5月、23歳で同院住職を継ぎました。

和歌の道を通じて、近衛忠熙に認められ、有馬新七、西郷吉之助、鵜飼吉左衛門ら諸藩の志士と交際し、尊攘運動に没頭しました。
安政元年2月、同じく清水寺で修行した実弟信海に寺務を任せて国事に奔走し、同月近藤忠熙と謀って、高野山で外夷退散の祈願を行ったあと、とくに水戸藩への勅諚降下につき、鵜飼吉左衛門父子や頼三樹三郎、梅田雲浜らと公卿入説に努めました。

大獄により、鵜飼父子、頼、梅田も逮捕され、身に危険が迫ってきたので、近衛の勧告に従って9月11日、僕大槻重助を伴い京を脱出し、西郷吉之助、有村俊斎の両薩摩藩士に守られて、海路大坂から下関へ逃れ、豪商白石正一郎宅に身を寄せました。

ついで福岡で薩摩脱藩士北条右門の隠れ家に潜み、西郷、有村が先に帰国したあと、山伏に姿を変えた平野国臣に連れられて、南部一条院門跡使僧静渓院鑁水の変名で苦しい旅を続け、11月10日やっと鹿児島に入りました。

同月15日夜、西郷が宿を訪れて忍向と平野、重助を連れ出し、酒肴を設けた舟を船頭3人に操らせて月明の薩摩湾へ漕ぎ出しました。
酒宴が開かれたあと、未明近く、突然西郷と忍向が海へ飛び込み、間もなく引き揚げられましたが、忍向はすでに水死していました。享年46歳。
西郷は蘇生しました。

せっかく薩摩入りしたものの、藩首脳の空気は冷たく、忍向の日向への追放を宣せられた西郷が前途を悲観して、これを忍向に伝え、ともに死を決したらしいです。
忍向の遺体は鹿児島の禅宗南林寺に葬られ、別に清水寺子安塔付近に、大獄に座して江戸で獄死した弟信海と並んで墓があり、また清水寺境内北側には明治8年、月照十七回忌に西郷の詠んだ詩の碑と忍向兄弟の辞世碑が建てられました。
贈正四位。
写真でみる維新の京都&幕末維新人名事典より


清水寺の仁王門を潜り、本堂には向かわずに、観光客のいない左(北)にそれていきます。
池の横を通り抜けると、成就院(本坊)があります。
清水寺本堂とは違い、人の気配は在りませんでした。

おそらく幕末当時も静かな穏やかな場所だったのではないでしょうか?
住職の忍向の心の中は穏やかではなかったでしょうが。

忍向というより、月照という通称の方が有名ではないでしょうか?
月照が西郷吉之助と入水自殺したという話は、私も心の隅に残っていました。
西郷吉之助は助かったからこそ、維新の大業を成し得ましたね。
もし月照と一緒に亡くなっていたら、幕末維新は違った方に変わっていたかもしれません。
勝海舟との無血江戸開城もなかったかも…
歴史に「If」は禁物ですが、やはり考えてしまいますよね。

信海は、青蓮院宮の為に修法した攘夷祈願の護摩の件で、幕府側に捕えられ、江戸伝馬町の獄中で死にました。
安政6年3月18日、享年39歳。
両上人の墓は、清水寺山内、子安塔の西方墓地にあります。

また、忠僕大槻重助は、忍向の遺体を葬り、役人に連れられて京へ帰り、放免の後、茶屋を開いて主人の墓を守り暮らしていました。
「忠僕茶屋」と呼ばれ、「舌切茶屋」の西側にあります。
(三重塔修復工事により仮営業などで場所移動ありの可能性大)
忠僕大槻重助の墓は、忍向・信海の墓を守るように、両師の墓の東方、自然石の墓の下に眠っています。
写真でみる維新の京都より



西郷吉之助 月照

高台寺表門

2008年12月27日
高台寺表門(京都府京都市東山区下河原町)が残っています。
高台寺門
高台寺表門で、この門から参道が続いていたそうです。
その坂道を登った所に中門があり、そこから北方向へ方丈へ繋がる石畳がありました。
今、駐車場となっているあたりには、塔頭や天満宮があったそうです。


青龍寺の向かいに、門だけが柵に囲まれて建っています。
仮に門を潜れたとしても、建物は何もありません。
最初に見た時、いったい何の門なのだろう?と不思議に思いました。

現在、この門から200mは離れた場所に、高台寺があります。
幕末の頃の高台寺も、広大な寺地があったようです。
大まかにですが、大雲院の南あたりから、東は高台寺そのまま、霊山観音に表門を結んだ内側が寺地な感じのようです。
この表門も、幕末の頃には、ポツンッと建っている感じは無かったのかもしれません。


新選組・高台寺党新選組・高台寺党
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翠紅館跡-料亭大和

2008年12月26日
青龍寺の並び、東へ200mの場所に、翠紅館跡(京都府京都市東山区高台寺桝屋町)の料亭大和があります。
翠紅館跡
文久3年正月27日、翠紅館内、送陽亭に長州はじめ尊攘派の志士たちが集まり、将軍家茂に対して、攘夷期限を決定せよとの要望書を呈出しよううと、会議を開きました。

さらに洛中において、攘夷倒幕派のリーダーとなった長州藩の志士たちは、加茂・石清水への行幸の後、いよいよ討幕御親征の機は近づいたと、大和・伊勢への行幸とともに大号令を発して頂こうと、同年6月17日、長州・土佐・肥後などの志士たちは再び翠紅館に集まり、夜を徹して会議を開きました。
写真でみる維新の京都より


青龍寺と200mしか離れていません。
霊山墓地(坂本龍馬・中岡慎太郎・木戸孝允らの墓や、440余りの墓・碑があります)へ向かう、急な坂道の入口にあります。

ここで長州の人たちが集まって会議をしました。
今は高級料亭のようで、気軽に会議は出来なさそうです。
当時の翠紅館はどのような格だったのでしょう?

今の政治かも、高級料亭で会合や密談(?)をしてますし、某御曹司はホテルの会員制バーが安いと言っていますし、当時の志士も高級料亭で会合でしょうか?

でもそれは嫌ですね~。
幕末の頃の志士は、下から這い上がって来た人も多いですから、贅沢三昧というのはイメージが崩れます。
庶民程度まで質を落とせとはいいませんが、それなりに質素倹約(当時ですから、そういう場所で遊ぶのは横に置いておきましょう。)でいて欲しいです。
料亭で会合とか言って、高級料理ばかりを食べてブクブクは嫌です。
いくら新選組からみたら敵でも、美しくあって欲しいです。

この付近は、勤王派がよく利用したいようですね。
噲々堂、青龍寺、翠紅館、月真院と勤王派が中心です。
新選組は市中見廻で来ていたのでしょう。
勤王派が多い場所に行くときは、やはり緊張したのでしょうか?
一発即発の可能性もあるわけですから。

青龍寺

2008年12月26日
見性山青龍寺(京都府京都市東山区八坂南町)になります。
青龍寺
近藤正慎の墓と記念碑があります。
浄土宗鎮西派のお寺で、本尊は伝教大師作といわれる伽羅観音です。
本堂前の念仏石は、鐘代わり石とも呼ばれ、隕石であるともいわれています。

近藤正慎は、清水寺の寺侍です。
丹波南桑田郡山本村の郷士栗山瀬平の二男です。
11歳で入寺、山内金蔵院の住職までしていましたが、天保13年還俗して近藤某の養子となり、成就院忍向(月照)に従って、その寺務を扱っていました。

安政5年9月、幕吏の追求を避けて忍向が九州へ脱出した時、伏見で別れ、捕えられたあと苛酷な拷問を受けました。
何も語らず、10月24日自ら舌を噛み、頭を壁に打ち付けて自殺しました。

清水寺が遺族に開かせた「舌切茶屋」は今も境内で盛業しています。
写真でみる維新の京都&幕末維新人名事典より


高台寺の前の道を南へ下ると、突き当たりが青龍寺があります。

観光地の中にある、近くの清水寺や高台寺に比べると、小さなお寺です。
お寺の歴史としては、引けをとらないと思いますが、観光寺院ではないと思います。
門も閉まっていましたので、門前から中を見て帰ってきました。

安政の大獄の頃に活躍されていた人なので、幕末維新前期の人です。
当時は興味の具合が低くて、幕末維新関係は行きたいけれど、“いつの日か”という感じでした。
今は、当時より興味が出てきていますね。
やはりNHK大河の「篤姫」で、安政の大獄以前も少し見たからでしょうか。

このお寺が拝見拒絶・拝観遠慮でなければ、お墓参りもしてみたいです。

噲々堂

2008年12月26日
料亭、噲々堂(京都府京都市東山区八坂下河原)がありました。
#22130;々堂1  #22130;々堂2
               噲々堂があった付近

秀吉夫人高台院を慰めたという、通称山猫と呼ばれた円山芸者は、その旧風と品格を愛されて、幕末維新の志士たちは八坂辺りもの料亭に来ては、山猫を招き興じました。

噲々堂は池大雅の門人謙(貞吉)の開いた酒店に由来しています。
当時円山公園から八坂下河原にかけて軒を並べた料亭の一つでした。
一帯の遊興地は、明治19年以降は祗園新地に合併され、廃れていきました。
写真でみる維新の京都より


円山公園から高台寺の辺りまで、料亭が並んでいたようです。
場所的には、八坂神社の南門(料亭中村楼がある所)を出て、その前の道をまっすぐ南へ進んだ所のようです。
中村楼前の鳥居から100mちょっと、浜作さんというお店の辺りにあったようです。

多くの志士が来たといいます。
この時代“志士”といえば、勤王派をさしていますよね?
新選組は志士とは呼ばれていないと思います。

志士とは「高い志を持った人。国家・社会のために献身しようとする人。」の事とあるのですから、新選組隊士も、志士にはかわりないと思うのです。
幕府の政治がいいと考え、国家・社会の為に高い志を持って、献身的に働いたのですから。
しかし、この場合の志士は勤王派ですね。

この噲々堂には志士が訪れたというのは、勤王派が訪れたといことであり、新選組は来ていないのでしょう。
探索で訪れたり、前を通ったりは頻繁にあったでしょう。

島原では佐幕&勤王、入り乱れていましたが、この辺りではあまりそういう事もなかったのでしょうか?
新選組は来なかったのでしょうか?


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大雲院

2008年12月25日
大雲院(京都府京都市東山区祗園円山町)に佐土原藩士招魂碑があります。
大雲院
天正18年以来、寺町通四条下ルにありました。
昭和47年に祗園閣(山鉾に似た建物で、大倉喜八郎が別荘内に昭和3年に建てた)のある現在地に移ってきました。

境内には佐土原藩士の招魂碑が再建されました。
墓地内には信長・信忠を祀る碑や、石川五右衛門の墓もあります。

寺町四条の旧地に残っていた四塔頭も、それぞれ諸方に移転を終え、隣接墓地内の有名人の墓も、ちりぢりに各寺院とともに移転しています。
写真でみる維新の京都より


京都野外音楽堂の向かい、円山公園のしだれ桜横のから真っ直ぐ南下、もしくは高台寺より北上した場所にあります。

佐土原藩は、薩摩藩の支藩とされることもあるようです。
島津家が藩主でした。
支藩かどうかは、いろいろと説があるようですが、島津ということからもその辺りは微妙なようです。
佐土原は宮崎市の北にあるそうです。

昭和47年に移転したそうですので、それ以前なら有名人お墓も、旧招魂碑も見られたということなのでしょうか?
招魂碑が長い間風雨に晒されて、朽ち果てかけていたのは歴史なので仕方がないですが、お墓がちりぢりになってしまったのは残念です。
それこそ“そこに”歴史があったのですから。

移転しなければならないことも、これもまた歴史なのかもしれませんね。


佐土原藩
織田信長 信忠
石川五右衛門

四条隆謌卿夫妻墓-妙傳寺

2008年12月25日
七卿落ちのひとり、四条隆謌夫妻の墓妙傳寺(京都府京都市左京区東山通二条下ル東側)にあります。
妙傳寺
四条隆謌は、尊攘派の公卿で、維新後は陸軍将官となりました。
父は代々庖丁道を司る四条隆生です。

文久2年12月国事御用書記になり、翌年には国事寄人に任命され、攘夷監察使として播磨国明石に出張するなど、攘夷決行に力を尽くしました。

八月十八日の政変で三条実実らとともに長州に下りました。
官位を剥奪され、謌と改名し、三田尻、山口湯田に滞留しましたが、第一次征長の後大宰府に移されました。
王政復古により、復位入京が許され、鳥羽・伏見の戦いには錦旗奉行となり、仁和寺総督宮の参謀を勤めました。
ほどなく中国四国追討総督、のち参与、左近衛権少将に任官しました。
関東へ出向して甲府・駿府表鎮撫使、仙台・奥羽追討平潟口総督を歴任して、明治2年6月、陸軍少将に任命されました。
その後、北九州地方の巡察使の任務を課すと、大阪・名古屋・仙台各鎮台司令官を経て陸軍中将に昇進しました。
幕末維新人名事典より


京都市営地下鉄東西線東山駅を出て、東大路通を北へ向かいます。
500m程で妙傳寺です。

七卿落ちで長州に下った、四条隆謌夫妻の墓があります。
七卿落ちは知っていても、四条隆謌をよくしらないので、あまり興味が湧きませんでした。
偶然、妙傳寺の近くを通っていたので、本堂だけ写真に収めました。

お墓の参考資料も持っていませんでした。
お墓の正面に「陸軍中将」から始まる文字と、隣に奥さんの名前?戒名?資料でははっきり読み取れませんが、刻まれているようです。

四条隆謌を好きな方、中途半端ですみません。

墨染

2008年12月24日
墨染(京都府京都市伏見区墨染町)周辺です。
墨染2  墨染1
前述の近藤勇狙撃地を丹波橋筋付近と記述した書籍を見る前は、この墨染交差点付近を狙撃地とした書籍を見ていました。

どちらがより正確なのかは、私自身で研究していないのでわかりません。
先生方の研究を参考に歩いています。

墨染交差点は、京阪電鉄墨染駅の前にあります。
その道を約1㎞南へ行くと、丹波橋筋の狙撃地になります。
1㎞の誤差(?)が大きいのか小さいのかわかりませんが、同じ道筋で狙撃されたという事は確実のようです。

現在の風景でいえば、丹波橋の方が、国道24号で道幅も広く狙撃後逃げやすいように思います。
墨染の方は、細い生活道路のようですが、隠れるという点では利点がありそうです。
その後の逃走や、斬り合いになった時は不利になりそうです。

資料などから丹波橋の方が有力そうですが、墨染辺りも決して無縁ではなかったのではないでしょうか。

近藤勇狙撃の地

2008年12月23日
近藤勇狙撃の地(京都府京都市伏見区丹波橋筋付近 伏見街道)はこの辺りです。
丹波橋
慶応3年12月18日、近藤勇が布陣していた旧伏見奉行所から二条城へ、馬で出向いた帰途に、御陵衛士の残党の待ち伏せに遭い、馬上右肩を狙撃され、負傷しました。
これは、新選組から分離した御陵衛士伊東甲子太郎、藤堂平助、毛内有之助、服部武雄の4名が、同年11月18日の夜、新選組によって殺害されたことへの復讐でした。
伊東を失った同志達は、薩摩藩に保護され、近藤を討つ機会を窺っていました。

この狙撃の現場は、西村兼文の『新撰組始末記』によると、近藤が、京からの帰り道を伏見街道にとったことを知った元御陵衛士は、伏見・藤森神社の南北二手に分かれて、近藤が通るのを待ち、藤森神社の北になる墨染の民家に潜んでいた阿部十郎が、近藤を狙撃したとしています。

またこの時、近藤の護衛として従っていた島田魁は、狙撃された場所は、墨染辺と日記に記しています。

狙撃された近藤は、落馬の難を逃れ、馬を奉行所へと駆けさせて命が助かりました。

奉行所にいた永倉新八は、『浪士文久報国記事』のなかで、この事件の場所を墨染としています。
しかし、永倉は、護衛のうち討死した者を、石井清之進と下僕の文吉と記しています。

また、近藤を狙撃した阿部十郎(のち、隆明)は、伏見尾張藩邸(現:伏見区下板橋町)の横になる街道が曲がる場所に来て、近藤を待ち伏せたと語っています。
ここは、墨染よりさらに南の丹波橋筋付近と思われます。
阿部十郎は、近藤を狙撃したのは、富山弥兵衛としています。
狙撃地については、墨染の南方に位置する丹波橋辺と地名をあげています。
また「本街道墨染ヨリ三四町手前」としています。
一町を約109mとすると、墨染より400mほど南下した、国道24号線丹波橋通付近と思われます。

近藤は、伏見奉行所に帰り着きましたが、右肩は銃弾が貫通する重傷で、この時、大坂にいた松本良順の治療を受けるために。同月20日、労咳の沖田総司とともに、大坂へと下りました。
新選組史跡事典より


京阪電鉄&近鉄(近畿日本鉄道)電車丹波橋駅を降りて、駅の北にある丹波橋通を東へ向かいます。
教育大学附属桃山中学校の東側に国道24号が走っています。
写真はそこにかかる、歩道橋から撮りました。

新選組及び幕末研究家の先生に教えて頂いた場所なので、ほぼこの位置ではないかと思います。
昔と土地が微妙に変わっていたら、ピンポイントでは正確ではないかもしれません。

この付近で近藤勇が狙撃されたのです。
刀での襲撃ではなく、銃で狙われたのなら防ぎようがないですね。
当時、防弾チョッキがあったとも思えません。

この辺りに血が滴り落ちたのでしょうか。
今はもちろんアスファルトが敷かれ、血痕はありません。
土のまま残っていても、血痕は残っているはずはありませんが、その土に触れたくなるかもしれません。
近藤勇も必死に馬にしがみついていたのだと思います。
いくら近藤勇でも、右肩貫通の銃創を負っていたら、精神力だけではどうすることもできなかったのではないでしょうか?
ある意味、奉行所まで帰りつけて、幸運だったのではないでしょうか。

考えただけでも痛いです。
銃で撃たれるという痛みは想像も出来ませんが、貫通したのなら穴が開いている状態?
今、再放送している“龍の珠”でもよく、腹に穴が開きますが、そんな感じですか?
痛い………。
右肩でよかったです。
胸とか頭だったら、新選組の歴史も変わってしまっていたでしょう。

沖田総司も大坂に送られるほどに体調が悪くなって、新選組もいよいよ終焉に向かって走りだしています。
このころ以降の話を聞くと、私は寂しくなってしまいます。
やはり壬生狼と呼ばれる頃の新選組の話が一番安心できます。


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津本 陽三好 徹

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防長殉難者の墓・崇忠之碑

2008年12月23日
防長殉難者の墓・崇忠之碑(京都府京都市東山区本町東福寺恵日山南岳)です。
防長殉難者6268  防長殉難3
墓石が並んでいます。
1枚目の写真の右より後ろに、天皇陵が見えます。

防長殉難1  防長殉難者7269
    崇忠之碑            大石灯籠

東福寺南端、六波羅門を出て、左方坂道を辿ると、月輪南陵と仲恭天皇九条陵へ参る為の分岐に着きます。
この道は、戊辰の役で宇治川右岸千両松辺りで戦死した、石川厚狭介ほか48名の長州藩士の墓石の並ぶ処に通じています。
道は月輪南陵を経て九条陵に至りますが、九条陵の真ん前の開豁地内に、墓石が整然と並んでいます。
墓石群の前面には、1基の大石灯籠と、和文草書体で長州兵戦没者の功を讃えた文を刻んだ、崇忠之碑が建っています。
写真でみる維新の京都より


六波羅門を出て、東へ歩きます。
150mほどの場所で、「→車阪町 ↓南明町 ↑本寺山町」という道標に出会います。
そこをまだ東へ真っ直ぐ50mです。
右に向かう坂道が出てきます。角には「九條陵月輪南陵参道」という道標があります。
その坂道(階段だったかな)を登っていくと、九条陵の手前、右側に開けた場所があります。
九条陵と同じ方向を向いて(陵を背にするように)墓石が並んでいます。

広い場所に綺麗に並んでいますが、草が生えていました。
それが忘れられた墓石群という感じに見えてしまいました。
訪れたのが、真夏だったので、刈っても刈っても生えてくるのかもしれません。

防長殉難者の墓ですが、歴史の表舞台に立った人は少なかったのではないでしょうか。
特に説明されたものもありませんでした。
有名な志士と呼ばれる人たちの下で、必死に戦った人たちだったのかもしれません。
千両松付近で戦死した人の墓もあるというのは、ここに埋葬されたのでしょうか。
多くは遺体の身元もわからずに、穴を掘って一緒に埋葬したりしているので、同じようにどこかに埋められた後、墓石だけを建て祀ったものなのでしょうか?
お寺の墓地でもないこの場所にお墓が建てられるというのは、もしかしたらこのまま忘れられて、荒れ果ててしまう可能性もあります。
それが心配です。
故郷にも帰れなかったのは、悲しかったでしょうね。

この辺りは、新選組はそれほど来なかったのではないでしょうか。
巡回や仕事で来たとしても、滅多になかったのでしょう。
壬生からは随分と離れています。
土方歳三や沖田総司もこの風景は見ていないでしょう。

この防長殉難者の墓のある場所ですが、女性一人では注意深く来た方がいいかもしれません。
あくまでも私が来たときの感想です。
この場所が危ない場所と聞いたわけではありませんが、少し山中になりますし、訪れる人も滅多にないようです。
木が生い茂り、何かあって大声を出しても聞こえる範囲で家は無かったと思います。
(坂の下まで行かないといけません)
大丈夫だと思いますが、用心に越した事はありません。
友人を連れて行って、ついでに幕末ファンにしてしまって下さい。

善慧院-東福寺塔頭 参

2008年12月22日
東福寺塔頭の一つ、善慧院(京都府京都市東山区本町15丁目)です。
善慧院
退耕庵の南にあるのが、尺八道場で有名な明暗寺です。
明治4年、虚無僧寺と呼ばれた東山池田町の明暗寺を合併して以来、晋化尺八流の中心となりました。

境内墓地には、但馬矢名瀬町出身の吉井義之の墓があります。

吉井義之は、但馬の志士です。通称貞七あるいは定七といいます。
維新のさい、三宅弥右衛門と改名しました。
但馬朝木郡梁瀬村(兵庫県)の荒物商の出身です。

幼少から柔術で鍛え、兵書を読み、また砲術を多田立徳に学ぶなどし、機会があるごとに村民を集めて時の急務を説いていましたが、嘉永年間、郷里にじっとしていられず京都に出て、梅田雲浜ら過激な尊攘志士と交わるようになりました。

文久2年学習院に蝦夷開拓意見を建言し、翌3年には大和行幸の供奉をするつもりが、八月十八日の政変で取りやめになり帰国しました。
その年の10月、平野国臣、美玉三平らが天誅組の大和挙兵に呼応して生野に挙兵をたくらみ、その準備に来訪した彼らを家に泊めて彼も農兵を募るなど協力しましたが、挙兵は失敗し、長州藩奇兵隊に入隊しました。

元治元年6月、池田屋の変で新選組の襲撃をうけた時は、幸いに長州藩邸に逃れることが出来ました。
ついで禁門の変で長州藩兵とともに入京したさい負傷して郷里に帰りました。
戊辰戦争のさいは山陰鎮撫使に従って北越に出征しました。
明治25年歿。享年67歳。
写真でみる維新の京都&幕末維新人名事典より


退耕院の前を通りすぎ、本堂に向かいます。
数回角を曲がり、200mほどの距離で善慧院(明暗寺)があります。

尺八で有名だそうです。
そういえば、時代劇でみる虚無僧の前垂れ(?)には、“明暗”と書かれていますよね。
お寺の名前から来ていたのですね。
へぇ~。
こんど時代劇を見るときは、このことを思い出してテレビを見ようと思います。
いまでも虚無僧と呼ばれる方はおられるのでしょうか?

退耕庵-東福寺塔頭 弐

2008年12月22日
東福寺塔頭、退耕庵(京都府京都市東山区本町15丁目)です。
退耕庵1  退耕庵2
東福寺塔頭で、海蔵院の末です。
東福寺四十三世性海雲見の開山です。
本尊は千手観音菩薩です。

東福寺中の北端に位置し、本町街道の近くにあります。
鳥羽伏見の戦いの時には、長州藩の本陣となりました。
防長殉難者の菩提所となっています。
毎年11月には長州藩戦死者の供養が行われています。
写真でみる維新の京都より


JR奈良線・京阪電鉄東福寺駅から、北大門を潜り東福寺本堂に向かう場合、北大門を潜ってすぐの左(南)側にあります。

今は静かな場所なので、長州藩の本陣となったのが信じられないほどです。
本陣となった時は、こんなに静かではなかったでしょうね。

東福寺の本堂からは少し離れていて、街道にも近いので、お寺側としても長州藩側からも一番いい位置にある塔頭だったのかもしれません。

即宗院-東福寺塔頭 壱

2008年12月21日
見たくても見られない田中新兵衛のお墓のある、即宗院(京都府京都市東山区本町15丁目)です。
即就院1

即就院3  即就院2
「西郷隆盛密議の地」
清水寺成就院の僧月照は勤王として活躍し、和歌のつながりで近衛家に出入りして、尊王志士と交わり西郷と志を一とした。
安政5年、井伊直弼は尊王攘夷運動に対して大弾圧を行った。
この頃水戸藩への朝廷密使事件があり、西郷は京都で井伊打倒の秘策を進めていた。
この時、僧月照と西郷は、当即宗院山中採薪亭にて密議を重ねた、当時東山三十六峰慧日山山麓は山深く狐狸が遊ぶ地でありました。
その後、月照と西郷は京を離れ西進、薩摩へ逃れ、だが月照は失意の中錦江湾に身を投じた。
西郷は大島へ流された。
右側の説明板より

即就院4
     鹿児島藩招魂碑

即就院5
  東征戦亡之碑

東福寺山内東北の地にある即宗院は、嘉慶元年島津氏の建立になります。
境内東端山上には、鹿児島藩招魂碑(東征戦亡之碑)があり、並び立つ5基の碑には、戊辰戦で亡くなった薩藩士524名の所属・肩書・氏名が刻まれています。

墓地には、中井弘(桜洲)、田中雄平(新兵衛)、奈良原喜左衛門な墓など、薩藩士の墓が林立しています。
即宗院は拝観謝絶で、墓石等の公開は許可されていません。

田中新兵衛は、薩摩藩士です。
開明佐幕派の天誅暗殺に活躍しましたが、姉小路公知暗殺の嫌疑を受け自殺しました。
名を雄平といいます。
商人あるいは船頭の息子の二説があり、出自は確認できません。
しかし大商人森山新蔵の庇護を受け、藩士の家来になりました。
示現流の達人として恐怖かつ尊敬されていました。

文久2年の島津久光上洛には、軽輩であるため随行できず、自費で上京しました。
寺田屋事件は終わっており失望しましたが、以後京都に滞在しました。

安政大獄の志士の逮捕の手先となった、島田左近、宇郷玄蕃頭、本間精一郎などの暗殺に関与しました。
「暗殺の隊長」の異名がありました。

文久3年5月20日、姉小路暗殺犯人として捕縛、京都西町奉行所での取調べでは、嫌疑を否定しましたが、証拠の刀を示されると、奪い取って切腹しました。
姉小路は即死でなかったことから、人斬り新兵衛とよばれる田中が暗殺に失敗し、まして刀を落とすのは考えにくく、無実説が強いそうです。

奈良原喜左衛門は、薩摩藩士です。
喜八郎の兄。
島津斉彬の命を受けて江戸に出ました。同藩の堀仲左衛門(伊地知貞馨)、有村俊斎(海江田信義)、越前の橋本左内らと組んで、一橋慶喜を将軍継嗣とする運動に奔走していました。
しかし井伊直弼のため運動が挫折して帰国しました。

安政6年11月、弟喜八郎とともに精忠組48人に加わり尊攘運動の新しい方向を進めていきました。
文久2年島津久光に従って上京しました。
久光より先に大坂に出た西郷隆盛に大久保利通、有村俊斎らとともに会見、伏見義挙に関する意見の相違について調整をはかりました。
この間、有馬新七をはじめとする伏見義挙派は大坂から伏見に続々と集まっていました。
これを知った久光は、奈良原と有村に鎮撫を命じ、2人は京都藩邸から淀川堤を下って大坂へ向かいましたが、大坂藩邸には誰もいず、伏見寺田屋に引き返した時には惨劇は終わっていました。

久光一行が勅使護衛の役を果たして江戸からの帰途、8月21日、生麦村で行列の前を横切った乗馬のイギリス人4人があり、奈良原兄弟と有村が斬りつけ、リチャードソンを殺しました。
薩摩藩は幕府と打ち合わせ、犯人は岡野新助という足軽だが、逃亡して行方不明と形式上の始末をつけました。
しかしイギリスは納得せず、謝罪と償金を要求して、文久3年7月に艦隊を鹿児島に送ってきました。
薩摩は要求を拒否して抗戦しましたが、奈良原兄弟はイギリス軍艦乗っ取り計画をたて、果物売りに化けて乗艦は出来ましたが、将官には近づけず、計画は失敗しました。

翌元治元年には京都に出、禁門の変で戦って長州を敗退させました。

※中井弘(桜洲)は、2008年6月12日 中井弘寓居跡を参照して下さい。
写真でみる維新の京都&幕末維新人名事典より

1度目の即宗院は中に入れませんでした。
例年11月に特別公開があるというので、11月に再び訪れました。
墓地へは行けませんが、鹿児島藩招魂碑は見ることができました。
それが、上記の4枚目の写真です。

この招魂碑に行く途中に、西郷隆盛密議の地という場所がありました。
当時は、建物があったのでしょうが、今は竹林でした。
地面に筵でも敷いて密議したのかと思ってしまいました。
周囲も今ほど開けていなかったので、密議するには良かったのでしょう。
しかし月照は清水寺成就院の僧です、宗派など大丈夫だったのでしょうか?
特にこだわりはないのか?
密議した記録があるのですから、大丈夫だったのでしょう。

鹿児島藩招魂碑は、長く風雨に晒された為でしょうか、鉄枠で補強されていました。
こいう碑が5基並んでいます。(写真は3基しか写っていません。)
アップで撮ったものには、名前が半分程度読めます。
表面に4~5段、名前などが刻まれています。
上部ほど痛みが激しいようで、読み難くなっています。

私の一番見たかったものは、墓地だったのですが、こちらは特別公開でも公開はしていませんでした。残念。
田中新兵衛のお墓を拝見したいです。
写真で見たことはあります。それでも出来れば実際に見てみたいです。
写真では、墓石には「田中雄平墓」と刻まれています。
“新兵衛”ではなく“雄平”なのですね。
新兵衛の方が、幕末を強く感じます。

もちろんお寺で大事に供養されているのはわかります。
それでもお参りにく来る人がいないのは、寂しいことではないのでしょうか?
その家の方はもちろん来られるでしょうが、そうひっきりなしに来られることはないでしょう。
薩摩藩というのは、鹿児島ですからね。
普段はし~んと、静寂がただよっているのは、このお墓の下で眠る人々にとっては、静かでいいのか、寂しいと思うのか、どちらの思いが強いのでしょう。

確認した話ではありませんが、昔、沖田総司の墓が見たい(年に1度しかお参りできません)と行って、テレビに投書してヘリコプターを飛ばして上から見たという話を聞きました。
もし、そんな事が可能なら、私もヘリコプターを飛ばしてもらって、田中新兵衛のお墓を上空からでもいいので見てみたいものです。
“探偵ナ○イトス○ー○”にでも依頼したら、採用してくれるかな?(笑)

東福寺

2008年12月20日
紅葉で有名な東福寺(京都府京都市東山区本町15丁目)です。
東福寺1
     日本最古の三門

京都五山の一つとして、750年の歴史があります。
禅宗(臨済宗)の大本山、慧日山東福寺は伏見街道東方の山麓に広大な境域を占め、25の塔頭があります。
本堂の南、境内南端の三門は、日本最古の三門で国宝です。

三門の右手山寄りに建つ石碑は、防長忠魂碑です。
大正6年11月、長藩殉難の士の五十回忌に建てられました。
表に戊辰戦争の概略と長州軍の活躍を讃えた文面を、裏に鳥羽伏見で戦死した48士の名が刻まれています。
写真でみる維新の京都より

東福寺石碑
   防長忠魂碑

東福寺2
鹿児島藩招魂碑の即宗院東山上にあることを示す碑
東福寺庫裡南側に建っています。

通天橋267
       紅葉の頃
紅葉の合間に見えるのが通天橋です。

JR奈良線&京阪電鉄東福寺駅を降りると、案内があちらこちらにあります。
いろいろ書くより、その案内に従って行くのが一番早くて、安全(迷子にならない)でしょう。

塔頭も含めると広大な土地になりますので、駅前から東福寺なのかもしれまえん。
ただ三門は役から一番遠い南側にあります。
三門は、京阪電鉄鳥羽街道駅の方が近くなります。

三門を見ての最初の感想は、「大きいな~」でした。
「この三門だけでも、十分住めそう。」なんて、思ってしまいました。
東福寺、知恩院、南禅寺等々、こういう大きな門や建物が京都には多いのでは?
都だったからでしょうか?

私の目的は国宝の三門ではなく、防長忠魂碑です。
探すこともなく、三門の横に碑だけが建っていました。
おそらくこれが「防長忠魂碑」と気付く人はいないのではないでしょうか?
幕末ファンなら別ですが…。

木々に隠れているわけでもなく、物陰に隠れているわけではありません。
広い境内の、遮るものがない場所に建っています。
東福寺が戊辰戦争と関係あると知っている人は少ないと思うので、説明板がないとみんな素通りしてしまうでしょう。

三門をみて、防長忠魂碑を見て、本堂でお参りして、庫裡方向に進むと鹿児島藩招魂碑と刻まれた碑があります。
その奥(北側)に即宗院があります。

行ってみましょう!


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(2006/10)
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城東練兵場跡

2008年12月20日
会津藩の調練場、城東練兵場跡(京都府京都市左京区川端通荒神口上ル)です。
城東練兵場1  城東練兵場2
荒神橋の東詰に立つ京都織物会社の建物は、昭和43年に閉鎖された会社の名残りで、今は京都大学の東南アジア研究センターです。
この辺りと、南の京都大学病院の一帯は、文久4年2月に会津藩の調練場なり、会津藩兵の洋式調練が行われました。

戊辰戦争後は軍務官の調練場となり、慶応4年4月以降、官軍の東征に従うため、洋式調練した在京の諸藩兵は40藩に及びました。

明治5年、牧畜場となり、同13年には民間に払い下げられました。
写真でみる維新の京都より


京阪電鉄神宮丸太町駅から1本北の橋が荒神橋です。
丸太町橋の北が、京都大学医学部附属病院です。
その北隣が、東南アジア研究センターで、前が荒神橋ですから、駅ひとつ分程が、城東練兵場跡となるのではないでしょうか?
大雑把に、この辺!って感じですか?!

確かに、病院や研究センターなどで、広大な土地です。
調練、それも洋式調練をしようとすると、これぐらいの土地はいるでしょうね。

ここで会津藩が洋式調練をしたそうですが、どれほど最新の武器を使っての調練だったのでしょうか?
新選組も参加するなり、見学するなりすればよかったのかも。
でも、新選組はやはり“刀”ですよね。
土方歳三や沖田総司が小銃を持っている姿は想像できません。
すらりと刀を閃かせ………。あぁ~やっぱりかっこいい。

会津藩の練兵場跡から、方向違いな妄想をしてしまいました(笑)


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六角獄舎跡

2008年12月19日
六角獄舎跡(京都府京都市中京区六角通大宮西入ル 因幡町)に行きました。
六角獄舎跡1  六角獄舎跡2

六角獄舎跡3  六角獄舎跡2
向かって左の碑に刻まれているのは、右の写真です。

六角牢は東西69m、南北53m、面積3,660㎡で、現在の六角通の南側、神泉苑通から財団法人盟親のあたりにありました。
中は揚り屋、本牢、切支丹牢などに分かれていましたが、文久以来の国事犯の収容で牢内は一杯になっていたといいます。

元治元年7月19日、長州勢が京都に攻め込んできたことにより火災が発生し、市街から西へと広がりました。
20日には火の勢いは六角獄に迫り、西町奉行所滝川播磨守の判断により、収監の囚人の破獄を恐れ、急遽、平野国臣、古高俊太郎らの処刑命令が下されました。
まず生野挙兵の関係者から引き出され、切支丹牢の東側で3時間にわたり斬刑が続きました。

平野の太刀取りは東町奉行組同心、太田直次郎であったといいます。
この時新選組も六角獄内で処刑に加担したとの説もあります。

この時に処刑された33名の遺骸は藁筵に巻いて、西二条刑場の椋の木の下に埋められましたが、明治10年に刑場跡が塵芥場となるとき発掘され、のち竹林寺(2008年10月7日 竹林寺 参照して下さい)へ合葬されました。

六角獄舎は被災することなく、滝川播磨守はのちに、守護職松平容保の叱責をうけたといいます。

六角獄舎は正式名称は、三条新地牢屋敷といいます。
境域には、宝暦4年、男の刑死人を解剖し医学の研究をし、同年9月に「臓志」を刊行した、山脇東洋の観臓記念碑も建っています。
新選組史跡事典&写真でみる維新の京都より


阪急電鉄大宮駅を降り、斜めに走る後院通を進みます。
600mほどの所にある、朱雀第一小学校の手前の六角通に入ります。
200mほど歩くと、碑が建ち並ぶ場所が見えて来ます。

六角牢跡として訪れたので、この場所に着いた時驚きました。
なぜなら、私が訪れた当時、マンションに囲まれるようにこの碑があったのです。
牢獄の跡地にマンションです!
刑死した人や、牢中で病死した人、獄門死した人も多いでしょう。
そこに現在人が生活している…。不思議な光景でした。

もちろん、丁寧に供養しているでしょうが、それでも私はなかなか勇気がでないかも…。
壬生寺内の老人ホームや、壬生周辺などには、住みたいと思っていました(います)が、さすがにここは…。
古高俊太郎や平野国臣など、多くの人に会えるかもしれませんね。

この場所に住まれている方すみません。
訪れた時、決して嫌な雰囲気はありませんでした。
もしかしたら、日本の未来を考えて散っていった彼らは、怨みだけでなく慈悲の心を持っていて、そんな彼らに守られて住みやすいかもしれませんね。


安政の大獄―井伊直弼と長野主膳 (中公新書)安政の大獄―井伊直弼と長野主膳 (中公新書)
(2001/03)
松岡 英夫

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安政の大獄

梁川星巌邸跡

2008年12月19日
詩人 梁川星巌邸跡(京都府京都市左京区川端通丸太町上ル)があります。
梁川星巌邸跡
鴨川の東岸、丸太町上ル三軒目は、梁川星巌の寓居-鴨沂小隠-があった所です。
西岸の頼山陽の山紫水明処と相対していました。

梁川星巌は、詩人で尊攘派の志士です。
美濃国安八郡曽根村の豪農稲津丈太郎長高の長子です。
幼名善之丞、長澄、長じて名を卯、字を伯兎、詩禅と号し、のち改めて名を孟緯、字を公図または無象、通称新十郎、星巌と号しました。
別に三野逸民、夏軒老人、天谷道人、百峰、老龍庵、涵三書院等の号もあります。
梁川は、郷里曽根村を流れる揖斐川上流房島が美濃美景の一つで、漁簗の奇観が知られているので、それに因んだのではないかといわれています。
家は代々農を本業としますが、曾祖父の時代から大垣藩主より苗字帯刀を許された家柄でした。

幼少の頃父母を失いましたが、農事を好まず、文化4年19歳のとき、家を弟長興に譲って江戸に遊学、古賀精里の門に入り、ついで昌平黌進学を希望しましたが、身分差別の為に果たせませんでした。
そのため山本北山の奚疑塾に入り、学問だけでなく、詩作の才能を開花させましたが、同時に酒色に惑溺して豪放な遊興生活を送り、無一文になって文化6年故郷に帰りました。

翌年、再び江戸に出て、山本北山の塾に入り、大田錦城らとともに北山門下十哲の一人となりました。
文政3年、同郷の再従妹稲津長好の娘紅蘭と結婚しました。
その半年後に妻をおいて再び放浪に旅に出ますが、5年後には夫妻ともども西遊の途につき、それから十年以上も旅宿のくらしを続け、天保5年ようやく神田柳原のお玉ヶ池畔に土地を借りて「玉池吟社」を営みました。
その隣家に佐久間象山が住んでいて、星巌と紅蘭の夫婦喧嘩の仲裁に入った話は有名です。

この頃、鯖江の藩主間部詮勝や彦根の家老岡本黄石らが詩の添削を依頼していました。

この天保年間の大塩平八郎の乱と蛮社の獄は、星巌の関心を現実の政治や思想に向け始めました。
そしてこの頃から、星巌は史書に親しむようになりました。

弘化3年、58歳のとき、突然京都に移り住みました。
「鴨沂小隠」には、佐久間象山、吉田松陰、横井小楠、宮部鼎蔵、梅田雲浜らが訪れ、幕吏には「悪謀の問屋」と映っていました。
特に池内大学や春日潜庵が訪れるようになると、星巌の名は宮廷内部にも知られることとなり、京都朝廷入説の役割も果たしました。

やがて居を鴨川の東から西に移し、頼山陽の近くに住みましたが、ここでは将軍継嗣問題と条約勅許問題がもっとも熱心に論じられました。
これらの問題は、一橋慶喜を将軍継嗣として幕政の大改革を行おうとするものでした。
政局の焦点に直接かかわっていたため、安政5年井伊直弼が大老になって、大獄の弾圧を始めたとき、星巌は真っ先に狙われましたが、逮捕直前にコレラにかかり死去しました。

その死後2日目に梅田雲浜が捕われたので、「星巌は死(詩)に上手」と評したそうです。
幕末維新人名事典より


京阪電鉄神宮丸太町駅から地上に出ます。
北東の出口を出てすぐのところです。
個人のお宅の前に碑があります。
(川の向こう、本当に真正面に頼山陽の山紫水明処があります。

梁川星巌は新選組との関係は遠いので、知らないというのが正直なところです。
しかし、この人はなんとも言えない人ですね。

佐久間象山が喧嘩の仲裁、それも夫婦喧嘩の仲裁をしている画は想像し難いです。
佐久間象山といえば、あの絵の人ですよね…。
どうやって仲裁していたのでしょう?
オロオロとしながら宥めたのか、堂々と一喝したのか、理路整然と説教したのか…見てみたいですね。

それよりも、梁川星巌は新婚早々放浪の旅に出て、さらに奥さんまで連れて放浪したようですが、私には考えられないです。
私なら即離婚ですね!
当時の風潮でも、これだけの事をされれば、離婚できますよね?
紅蘭という人も、星巌と同じような感覚の人だったのでしょうか?
そうでないと、ついて行けませんよね。

死因がコレラですが、紅蘭は大丈夫だったのでしょうか?
他の幕末の有名人で、コレラで亡くなったという人は聞いた事がありません。
いろんな意味で奇人です
肖像画(?)を見るとやっぱり奇人? 学者風には見えますね。


梁川星巌・紅蘭「京への道」―桑名・ひとときの休息梁川星巌・紅蘭「京への道」―桑名・ひとときの休息
(2007/11)
伊藤 宗隆

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幕末 コレラ

吉田松陰歌碑

2008年12月18日
京都府立図書館の前に吉田松陰歌碑(京都府京都市左京区岡崎成勝寺町)が建っています。
吉田松陰歌碑
吉田松陰の「奉拝鳳闕詩」の石碑です。
吉田松陰が、嘉永四年藩主に従って東遊した際、神戸湊川神社へ参詣したときの感激を詩作したものです。
松下村塾門下生野村靖ら長州藩出身者により建立されたそうです。


平安神宮の応天門を出て真っ直ぐす進むと、岡崎公園に入ります。
そこに府立図書館があり、その前に碑が建っています。

平安神宮(岡崎公園)に何故、吉田松陰の歌碑?
吉田松陰は延べ何日、京の地を踏んでいたのでしょうか?
あまり京では名前を聞きません。

私の勝手な推測では、京都の三大祭のひとつ「時代祭」が平安神宮のお祭で、時代行列の中に維新志士行列があり、吉田松陰がいます。
旧幕軍は敵ですから、もちろん誰ひとりとしていませんが…。
その関係で、ここに歌碑を建てたのかな?と推理しました。
どうなのでしょう?

写真がピンボケで、よくわかりませんね。
今度また前を通ったら、ちゃんと撮って来たいと思います。

安祥院-梅田雲浜墓

2008年12月18日
安祥院(京都府京都市東山区五条通東大路東入ル遊行前町)には、梅田雲浜の墓があります。
梅田雲浜墓1  梅田雲浜墓2
日限地蔵こと一名木食寺、安祥院は五条坂から清水新道の三叉路左手にあります。

安政の大獄の最初の犠牲者梅田雲浜の墓があります。
本堂裏手墓地の南側中程に南面する墓は、雲浜の遺髪を埋めたものです。
遺体を葬った墓は、海禅寺(東京都台東区松が谷)にあります。

梅田雲浜は、若狭小浜藩士でのち浪人。
矢部議比の二男として小浜に生まれ、祖父の生家梅田家を継ぎました。
号の雲浜は小浜海岸を雲の浜とよんだことに由来します。

崎門派山口管山の門に学び、はじめ江州大津の湖南塾、天保14年以後、京都にうつり小浜藩管理の望楠軒で講義しました。
嘉永5年には藩政批判の海防策建白などによって藩籍を削られました。

尊攘派志士と積極的にかかわり、安政元年には、ペリー再来の知らせに江戸に赴き、さらに水戸藩に入説、帰京後は福井藩にたるなど結集につとめました。
同年9月、プチャーチンの率いる露艦の回航をきき、盟約を結んでいた十津川藩士と大坂にはしり、攘夷の具体化をはかりました。
門人・知人に京川島村の山口薫次郎、大和高田の村島長兵衛、大和五条の下辻又七や三宅定太郎ら豪農・豪商が多く、安政3年、秋良敦之助を介して長州萩に坪井九右衛門を訪ねて、上方との物産取引をすすめ、長州物産御用掛となりました。
交易の拡大によって多大の利益をあげ、かつての貧乏志士は運動資金の潤沢させやっかまれるようになりました。

京都での尊攘派の中心でしたが、ことに中川宮の信頼があつく、同年昇殿を許され、大きな影響力を行使しました。
安政4年幕府の日米通商条約調印に反対し、勅許阻止に成功しました。
一橋慶喜の将軍就任を画策しました。
このため井伊直弼ら幕閣から、梁川星巌、頼三樹三郎、池内大学とともに「悪謀の四天王」のひとりとされました。
安政5年9月、安政大獄の最初の逮捕者として捕えられ、江戸に護送されました。

安政6年9月14日、幽閉先の小倉藩主小笠原忠嘉の邸内において脚気で病死しました。
享年45歳。

雲浜の墓の後方右手に、甲冑師として、兄又次郎とともに勤王に尽くした、大高忠兵衛の墓があります。

大高忠兵衛は、尊攘派同志に武具を供給した志士です。
播磨国揖保郡林田村の郷士常城広介の二男として生まれました。
14歳の時、皮具足で名声のあった大高又次郎の養子となりました。

姫路藩士と親しく、城下で甲冑職を営んでいましたが、嘉永元年正月、梅田雲浜の招きにより、京都の三条通東洞院に移りました。
ほどなく衣棚通二条下ル妙覚寺町に甲冑商を開いて諸藩邸に出入りし、志士の消息を通じ、情報を探り、同志に甲冑や小具足を供給しました。

安政2年頃から頼三樹三郎や平野国臣らとも親交をもちました。
安政の大獄で同志の多くが捕われましたが脱し、その後、父又次郎とともに奔走することになりました。
元治元年6月、古高俊太郎らとともに池田屋に集まる同志に武具の供給の準備中に新選組に襲われ、六角牢に投獄されました。
元治元年7月4日、六角牢内で病死しました。
享年42歳。

大高又次郎は赤穂浪士四十七士・大高源吾の後裔と伝えられています。
写真でみる維新の京都&幕末維新人名事典より


京阪電鉄清水五条駅から五条通を東に向かいます。
五叉路でいいのか、六叉路というべきか東山五条の交差点から、清水寺方向の坂に入ります。
交差点から200mほどの場所にあります。
赤い大きな提灯が目立っていました。

お墓には大きく、「雲濱先生」と刻まれています。
後方にあるという、大高忠兵衛を見るのを忘れていました(涙)

梅田雲浜は小浜藩出身だそうです。
小浜藩といえば、小浜市。
小浜市といえば、大統領選挙でオバマ氏を応援して、有名になったあの小浜市です。

梅田雲浜は、攘夷に燃えていましたが、その約150年ほど後の小浜では、アメリカのオバマ氏を応援していたのです!
攘夷どころか、「一度、小浜市にお越し下さい。」という状況です。
梅田雲浜からすれば、考えられない事が起こっているのでしょう。

墓の中から、「なんたること!」と嘆いているかもしれません。
生まれ変わって攘夷を決行したい、と思っているのかもしれませんね。


小浜市

福勝寺-古高俊太郎墓

2008年12月17日
古高俊太郎墓のある福勝寺(京都市上京区七番町千本出水西入ル)です。
福勝寺  古高俊太郎墓
古高俊太郎正順は、薪炭商桝屋喜右衛門になりすまし、その家は志士の連絡場所と隠れ家になりました。
しかし新選組の捕えられ、古高は壬生に引き立てられて、拷問を受けました。
池田屋に集い、古高奪還を議していた志士達は、新選組に踏み込まれ壊滅的な犠牲を出しました。

古高は六角牢内で7月20日に斬殺されました。享年36歳。
遺髪の墓は、寺内墓地中央辺りに東向きにあります。
写真でみる維新の京都より


JR山陰本線二条駅から、千本通を北へ1.2㎞。
善福寺と長遠寺の角を西へ曲がると100mです。

福勝寺は、“ひょうたん寺”として有名だそうです。
豊臣秀吉の千成瓢箪を奉って武運を祈り、その威徳を感謝した秀吉が寺領を寄進したので「ひょうたん寺」と呼ばれるようになったそうです。
寺門は九条家からの移築といわれ、1年に1度、節分の日に開門されます。

秀吉の千成瓢箪よりも、池田屋事件の古高俊太郎のお墓です(笑)
節分の日のみ、開門されるので、節分を待って行ってきました。

古高俊太郎のお墓は写真で見ていました。
「中央辺り、中央、中央」と、墓地の真ん中を探しました。
写真は正面だけなのですが、側面に「古高氏」と刻まれているので、探す手だてにしました。
意外とすぐに見つかりました。
正面の文字も、史料の写真と同じです!

遺髪が納められているお墓です。
このお墓の人が、池田屋事件の発端となったのです。
それも歴史に後々残るような、大事件となったのですね。

歴史を感じるようなお墓でした。
もしかしたら、近々ピカピカのお墓に変わってしまうのではないかと、心配していまいました。
多少墓石が欠けていようとも、歴史好きからすればその方が嬉しいです。

宗教上、墓石が欠けるのは縁起が悪いとか、仏様に失礼だとかあるかもしれません。
お墓で眠る方も、あの世で不都合があるかもしれません。
でも、やっぱりピカピカは嫌です。


沖田総司沖田総司
(1999/04)
大内 美予子

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秀吉 千成瓢箪
千成瓢箪 ひょうたん寺 福勝寺

本満寺

2008年12月16日
新選組の史跡、本満寺(京都府京都市上京区寺町通今出川上ル 鶴山町16)です。
本満寺1

本満寺2  本満寺3
慶応3年4月14日夜、田中寅三が新選組を脱走しました。
加賀出身で、隊の剣術師範を務める品行方正な隊士でしたが、日ごろより過激な攘夷論を唱えていました。

伊東甲子太郎らの新選組分離派に参加しようとしましたが、分離後の互いの隊士の受けれは認めないという約定により加入を許されませんでした。
寺町の本満寺に潜伏しているところを、翌日捕えられました。
隊規違反の罪により、その日の午後に切腹しました。

何方も吹ハ吹せよ志古の風
 高天の原ハ満さに吹まし
四方山の花咲ハ咲時なれハ
 萩もさけさけ武蔵野にまて

という辞世が伝わります。

本満寺は慶応4年2月、名古屋より引き上げてきた赤報隊二番隊、三番隊の宿になっています。
二番隊を統轄していたのは、元高台寺党の阿部十郎でした。
新選組史跡事典より


京阪電鉄出町柳駅を出て、高野川と加茂川を渡ります。
出町柳商店街を通り抜け、寺町通を北に向かうと200mほどの場所にあります。

本満寺の記憶がありません。
写真があるという事は、確かにその場所に行っているのですが…。
あれ???
写真で見ると、大きなお寺で、境内にもお邪魔しているのに。

田中寅三はこの寺のどこに潜伏していたのでしょう。
本堂の下とか、本堂の仏様の後ろとかというのは、時代劇の見すぎでしょうか。
お寺の方に「匿って下さい。」とお願いしたの?
新選組もどうやって、本満寺に潜伏していることを知りえたのか…。

さすが新選組の捜査力というべきでしょうか。


新選組密偵・山崎烝新選組密偵・山崎烝
(1997/03)
島津 隆子

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