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草津本陣

2008年11月30日
草津本陣(滋賀県草津市草津1丁目2-8)には、土方歳三の他、浅野内匠頭、吉良上野介、シーボルト、そして皇女和宮も利用しています。
草津本陣3

草津本陣1  草津本陣2

草津本陣4
土方歳三、斉藤一、伊東甲子太郎、藤堂平助の名前があります。

草津本陣6
       畳廊下
草津本陣5
       広間

草津本陣7
    厩 だったかな?

草津は東海道五十三次の一つで、中山道の分岐点でもあり、本陣、脇本陣が各二軒設けられていました。
現在は田中家本陣のみ現存しています。

総敷地1,305坪、建坪468坪です。

本陣宿帳には、慶応元年5月9日の条に、
「同土山立 一、新選組 土方歳三様 斉藤一様 伊東甲子太郎様 藤堂平助様 右上下三十二人、二百五十文宛御払 外二十四文蝋燭二十丁扣」の記載があります。
土方歳三や伊東甲子太郎らが江戸で新入隊士を募集し、53名の入隊者を引き連れて京へ帰る途中に一泊したことがわかります。
新選組大事典より


JR琵琶湖線草津駅から旧中山道に出ます、南へ歩きます。旧草津川も越えて(川の下を潜る)行くと、草津本陣があります。
旧中山道に出ると、まっすぐ一本道です。

草津本陣は綺麗でした!
もちろん国の史跡に指定されるほど、歴史はありますが、あまりに綺麗だったので驚きました。
ここに土方歳三や斉藤一、藤堂平助の初期メンバーから、伊東甲子太郎の新規メンバーも泊まっているのです。
ここで寝っ転がって、寝立ていたのです。
でも今、私が踏みしめている畳は、当時のものでは到底ありませんね。
しかし、ここの柱は触ったかもしれません。

宿帳も見ることができました。
ただし、名前の下に“様”があるという事は、本人の字ではなく、宿の人が書いたものでしょうか。
本当に泊まっていたのですね。
あの宿帳が欲しいな…なんて、思いながら、穴が開くほど見つめてしまいました。

私が訪れたのは、平日だったので、他に来られている人もなくて、ゆっくりと見ることができました。
JR大阪駅からだと、新快速に乗ってしまうと思った以上に早く着きました。


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河上彦斎墓-霊山墓地

2008年11月29日
霊山墓地にある、河上彦斎の墓(京都府京都市東山区清閑寺霊山町)です。
河上彦斉墓
河上彦斎は肥後藩士です。
熊本城下新馬借町に生まれ、父は小森貞助です。
肥後藩の軽輩河上源兵衛の養子となり、掃除坊主や国老付坊主を勤めました。

国学者林桜園に師事して尊王思想の影響を受けました。
轟武兵衛、堤松左衛門らと肥後勤王党を結成しました。

文久2年は、蓄髪を許されて上京、翌年には肥後藩から朝廷に醵出された親兵の一員となりました。
同年8月の政変では、七卿を追って長州に身を寄せ、元治元年の禁門の変では長州藩兵とともに上京しました。

7月11日、京都木屋町で佐久間象山が暗殺され、犯人は彦斎であることはほぼ確実です。
薩摩の田中新兵衛、土佐の岡田以蔵とともに、人斬りの異名がありました。

禁門の変敗走後は、再び長州潜み、慶応2年第二次征長のとき小倉に出陣し、肥後藩兵を説得に出かけて捕えられました。
明治元年、禁獄をとかれましたが、新政府が攘夷をやめていることに憤激、東北諸藩と結んで新政府軍を倒そうとたくらみましたが、叶いませんでした。
明治2年、鶴崎駐留兵の隊長となり、反抗を続けました。
長州から大楽源太郎が脱走してきたのを匿って罪に問われ、明治4年東京へ送られて12月4日に首を斬られ刑死しました。

死刑に相当する罪はありませんでしたが、同じ年の10月8日に岩倉具視らと欧米視察に行った木戸孝允が、「生かしておくと陰謀をくわだてる。今のうちに死刑にしておいた方がいい。」と主張したといわれています。
これは彦斎に判決を言い渡した、島本仲道(土佐)の証言です。

墓は東京都大田区の池上本門寺にあり、応観法性信士と号してあります。
享年38歳。
幕末維新人名事典&幕末維新人物100話&別冊歴史読本幕末明治剣客剣豪総覧より


坂本龍馬・中岡慎太郎墓からみると、右斜め上方にあります。
長州の高杉晋作たちの墓所からまっすぐ、南の方向に歩いていくと、熊本招魂場があります。
その奥に河上彦斎の墓碑があります。

墓は東京にあるので、ここは墓碑だけでしょう。

幕末の“人斬り”といえば、岡田以蔵、田中新兵衛は、“三本の指に入る人斬り”でも“人斬り四人衆”でも必ず名前が入ります…よね?
では、三本の指の三本目は、中村半次郎と河上彦斎どちらなのでしょうか。

私としては、半次郎かな…とも思うのですが、佐久間象山暗殺の実績(?)からしたら、彦斎かな?
そういえば、この2人は明治まで生きているのですね。
そいういう事も、選びきれない原因かもしれません。
“華々しく散って”はいないですが、岡田以蔵も田中新兵衛も、邪魔者にされたり、真実を明かされないまま使い捨てられたように、最期を迎えたのが、“人斬り”の異名を揺ぎ無いものにしたように思います。
(あくまでも、幕末という過去の歴史の中ではの話です。)


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元治甲子及池田屋の変墓-霊山墓地

2008年11月28日
霊山墓地(京都府京都市東山区清閑寺霊山町)の元治元年甲子及池田屋の変の人達のお墓です。
池田屋殉難者墓
龍馬・慎太郎のお墓の向かって右隣にあります。

墓石が並んでいます。
上の段、向かって左から
小橋友之助、安藤誠之助、津田愛之助、青木与三郎、内田弥三郎、中平龍之介、中村恒次郎、原道太、柳井健次、那須俊平、尾崎幸之進、伊東甲之助、半田紋吉、上岡謄治、田岡俊三郎

下の段、向かって左から
福岡祐次郎、河瀬室幸、河瀬太宰、駒井躋庵、古高俊太郎、大高又次郎、広岡浪秀、本山七郎、松田重助、伊藤香力、宮部鼎蔵、川嶋武二郎、武林八郎、粟屋良之助、若松弘之進
です。
写真でみる維新の京都より


この墓碑の下に、埋葬された人いるのか、遺髪などの何かが埋められているのか、はたまた墓碑だけが建っているのか、私にはわからないです。

左京区岩倉にある三縁寺に、池田屋の変の9名のお墓があり、埋葬されています。
この事からして、この9名の遺骨はここには無いと思います。
遺髪などはわかりませんが…。

多くの墓碑がありますが、正直なところ初めて名前を聞いた人も多いのです。
どんな人か調べようと、手元の資料をみてみましたが、元治元年に関しては記述が見つかりませんでした。
知る人ぞ知る!っていう、脇を固めていた人たちなのでしょうか。

小橋友之助  讃岐高松出身。
原道太     久留米藩士。真木泉に師事しました。禁門の変で鷹司邸にて自刃しました。享年27。
那須俊平    土佐国高岡郡梼原村で槍指南をしている郷士です。
          (2008年7月29日~8月4日を参照して下さい。)
伊東甲之助  伊藤甲之助(?)土佐藩士。武市瑞山の土佐勤王党に参加しました。
          禁門の変の時、堺町御門にて戦い、京都夷川の辺りで敵に囲まれ割腹。享年21。
半田紋吉    半田門吉(?)久留米藩士。天誅組。真木和泉に傾倒していました。
          禁門の変で鷹司邸で戦死。享年31。
上岡謄治    土佐高岡郡津野山村北川の郷士。武市瑞山の土佐勤王党に参加しました。
          堺町御門付近で戦いましたが敗北し、鷹司邸にて自刃しました。

河瀬太宰    川瀬太宰。近江膳所藩家老戸田五左衛門の五男。
          慶応元年会津藩の捕吏は、大津に帰る途中の彼を捕えました。
          1年余り獄につないだ後、慶応2年6月7日、京都町奉行の手で斬に処しました。
          夫妻の墓は、大津市小関越五本桜、池田家墓地にあります。
幕末維新人名事典より

大高又次郎、松田重助、宮部鼎蔵は2008年7月16日の三縁寺を参照して下さい。
また古高俊太郎の墓は後日UPする予定です。

その他の人達については、調べきれていません。
粟屋さんは、人名事典に2名書かれていました。どちらも同時期に亡くなっているので、この良之助がどちらかわかりませんでした。

幼名や通称や変名やいろいろと使っているので、なかなか判りませんね。
本人も呼ばれて、自分だと気付かない事はないのでしょうか?
ここでは「○○」と名乗っていたのに、間違えて「■■」と言ってみたりはないのでしょうか?
私なら絶対間違える自信があります。

源氏物語 宇治十帖-紫式部

2008年11月28日
源氏物語 宇治十帖 紫式部像(京都府宇治市宇治蓮華 宇治橋西詰)

源氏物語千年紀だそうです。

新選組&幕末とは、う~~~んと、離れていますがメモ代わりに書いています。

紫式部
 宇治橋西詰にある紫式部像


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源氏物語 宇治十帖巡り

源氏物語 宇治十帖-夢浮橋

2008年11月28日
源氏物語 宇治十帖 夢浮橋古墳(京都府宇治市宇治蓮華 宇治橋西詰)

夢浮橋1109  夢浮橋2110  (1992年)


夢浮橋3  夢浮橋6

夢浮橋4  (2008年)

のりのしと たづぬるみちを しるべにして
       おもはぬやまに ふみまどうかな

薫は横川僧都から浮舟であることを確かめました。
僧都に浮舟との仲介を懇願し、仏罰をおそれつつも消息をしたためてもらいました。
薫一行の来訪を知りつつ、浮舟はひたすら阿弥陀仏を念じました。
薫は自分の文に僧都のそれを添えて、浮舟の弟小君を訪ねさせました。
浮舟の心は乱れましたが、心強く逢うことを拒みます。
薫は誰かが浮舟を隠しすえているのかさえ、疑うのでした。
古典を歩く(2)源氏物語より


現在は、宇治橋西詰にありますが、以前はその向かい側のお店の前にありました。

源氏物語 宇治十帖-手習

2008年11月28日

源氏物語 宇治十帖 手習古墳(京都府宇治市莵道田中)

手習108  (1992年)


手習2  手習3

手習4  (2008年)

みをなげし なみだのかわの はやきせを
       しがらみかけて たれかとどめし

横川にはなにがしの僧都と呼ばれる名僧がいました。
その僧の母尼と妹尼が長谷詣の帰途、母尼が宇治で倒れ、僧都が駆けつけた折に、気を失った浮舟を発見しました。
妹尼は亡き娘の生まれ変わりかと驚きました。
僧都の懸命の祈祷により、浮舟は蘇生しました。しかし、素性は語りません。
妹尼の娘婿が尼たちのいる小野の地を訪れ、浮舟に一目ぼれします。
浮舟は尼たちが不在の時、僧都に請うて出家していまいます。
その後は手習三昧の日々を送ります。
内裏では女一宮の病で僧都が召され、そのついでに僧都は明石中宮に浮舟のことを話しました。
その話を伝え聞いた薫はさっそく横川に向かいました。
古典を歩く(2)源氏物語より

源氏物語 宇治十帖-蜻蛉

2008年11月28日
源氏物語 宇治十帖 蜻蛉古墳(京都府宇治市莵道大垣内 京都翔英高校横)

蜻蛉107  (1992年)


蜻蛉6  蜻蛉4

蜻蛉3  (2008年)


蜻蛉5
蜻蛉古墳の前の道路にはめ込まれていました。

ありとみて てにはとられず みればまた
       ゆくへもしらず きえしかげろう

宇治では浮舟が行方不明となり、大騒ぎをしています。
薫は母・女三宮のために石山に籠っていましたが、ただ仏に祈るばかりです。
匂宮も床に臥してしまいました。
薫は宇治に赴き、四十九日の法要を営みました。
六条院では、明石中宮が源氏と紫上のために法華八講を催し、薫は女一宮に惹かれるものを感じました。
薫・匂宮・浮舟の関係は中宮の耳にも入りました。
薫は蜻蛉の飛び交う夕べ、宇治の姫たちとの因縁を思います。
古典を歩く(2)源氏物語より


三室戸寺への巡礼みちに立っている“かげろう石”をあてています。
自然石に来迎阿弥陀三尊が線刻されています。

源氏物語 宇治十帖-浮舟

2008年11月28日
源氏物語 宇治十帖 浮舟古墳(京都府宇治市莵道滋賀谷21 三室戸寺)

三室戸寺

浮舟  浮舟4

浮舟3   (2008年)

たちばなの こじまはいろも かはらじを
       このうきふねぞ ゆくへしられぬ

匂宮は浮舟のことを忘れないでいました。
中君に宇治からの便りもあり、薫が宇治に浮舟を囲っていることを聞きます。
匂宮はある夜、薫を装って忍び入りました。
匂宮は翌日も留まり浮舟を慰めます。
しかし京での批難を聞き、しぶしぶ帰りました。
2月の雪の中、匂宮は再び宇治を訪れ、浮舟と宇治川で舟遊びをします。
ある日、薫と匂宮の使がかち合い、宮の宇治通いが露顕しました。
浮舟は2人の間で苦悩し、ついに入水を覚悟しました。
古典を歩く(2)源氏物語より


三室戸寺の参道にあります。
かつては莵道稚郎子陪塚あたりにありましたが移転、その後もとへ戻されましたが、再度ここへ移されました。

と、本にはありましたが、1992年に訪れた時は、三室戸寺境内の庭園にあった記憶があります。
そして2008年の今回は、本堂の横にありました。
今でも、浮舟のように転々としていますか?

源氏物語 宇治十帖-東屋

2008年11月28日
源氏物語 宇治十帖 東屋古墳(京都府宇治市宇治乙方 東屋観音前)

東屋105  (1992年)


東屋3  東屋4

東屋2  (2008年)

さしとむる むぐうやしげき あづまやの
      あまりほどふる あまそそぎかな

浮舟の母中将君は、常陸介の後妻となっていました。
浮舟には左近少将が求婚していましたが、介の財産目当てでした。
中将君は浮舟を中君に預けることにしました。
二条院の豪華さや薫の姿に中将君は魅了されますが、匂宮の好き心を案じて浮舟を三条あたりに隠しました。
薫は宇治御堂完成のため宇治にでかけ、その隠れ家を聞きます。
薫はその家から浮舟を宇治に移しました。
古典を歩く(2)源氏物語より

源氏物語 宇治十帖-宿木

2008年11月28日
源氏物語 宇治十帖 宿木古墳(京都府宇治市)

宿木104  (1992年)

やどりきと おもひいでずば きのもとの
      たびねもいかに さびしからまし

帝は女二宮を薫にと望み、菊の盛りに花に託して意中をほのめかしました。
薫は亡き大君を忘れかねています。
匂宮は夕霧六君との婚約を承諾させられました。
中君はすでに匂宮の子を宿しています。
薫は中君を慰めているうちに恋情も募ります。薫は中君に腹違いの妹浮舟がいることを聞きました。
あまり気乗りしないながらも、薫は女二宮と結ばれました。
薫は宇治の御堂造営を検分に行き、偶然長谷詣から帰る浮舟を目にし、大君を偲ばせるその姿に涙ぐみました。
古典を歩く(2)源氏物語より

平等院から宇治川を遡った院の御所山の麓にありました。

源氏物語 宇治十帖-早蕨

2008年11月28日
源氏物語 宇治十帖 早蕨古墳(京都府宇治市宇治山田)

早蕨103  (1992年)


早蕨2  早蕨4

早蕨3  (2008年)

このはるは たれにかみせむ なきひとの
       かたみにつめる みねのさわらび

父・姉と先立たれた中君は新春を迎えても、寂しげでした。
山の阿闍梨から蕨や土筆が届いて慰められました。
匂宮は宇治に通う薫と中君の仲を疑い、中君を二条院に移すことに決めました。
薫は今になって、中君のことが惜しまれます。
中君は2月、二条院に移されました。
夕霧は六君を薫にと転じたが、薫の心中はそれどころではありませんでした。
古典を歩く(2)源氏物語より

宇治神社の西北隅にあります。

源氏物語 宇治十帖-總角

2008年11月28日
源氏物語 宇治十帖 總角古墳(京都府宇治市宇治紅斉 源氏物語ミュージアム前&大吉山登山口)

総角102  (1992年)


総角2  総角3

総角4  (2008年)

あげまきに ながきちぎりを むすびこめ
       おなじところに よりもあはなむ

八宮の一周忌が近づいてきました。薫は法要の願文を書いたついでに、大君への思いを告白しました。その夜に大君に迫るが拒否されました。
大君は妹の中君を薫にと考えていました。
薫は中君を匂宮に譲れば、大君は自分に靡くだろうと勝手に思い込み、実行に移しましたが、大君は薫を恨みました。
匂宮は中君を引き取ろうとしますが、冷泉院や明石中宮の目が厳しく実行できません。
匂宮と夕霧六君との結婚の噂も立ち、大君は悲歎のあまり帰らぬ人となってしまいました。
古典を歩く(2)源氏物語より

源氏物語 宇治十帖-椎本

2008年11月28日
源氏物語 宇治十帖 椎本古墳(京都府宇治市莵道荒槇 彼方(おちかた)神社前)

椎本1100  (1992年)


椎本4  椎本3  (2008年)

たちよらむ かげとたのみし しいがもと
       むなしきとこに なりにけるかな

八宮の姫の話を耳にした匂宮は、長谷詣の帰途に、夕霧の宇治の別邸に立ち寄りました。
薫と匂宮は管絃を楽しみました。
八宮はその音色に感じて文を贈り、二人は八宮を尋ねました。
薫は秋に中納言に昇進しました。
八宮は厄年にあたるので、勤行に勤しんでいましたが、薫に姫のことを頼み他界します。
薫は大君に故八宮の遺言を訴えますが、大君は色よい返事をしません。
姫二人はひっそりと暮らしていましたが、薫は一人ひそかに垣間見ました。
古典を歩く(2)源氏物語より

源氏物語 宇治十帖-橋姫

2008年11月28日
源氏物語 宇治十帖 橋姫古墳(京都府宇治市宇治蓮華 橋姫神社)

橋姫1099 (1992年)

はしひめの こころをくみて たかせさす
       さおのしずくに そでぞぬれぬる

光源氏の異母弟・八宮は宇治に下がっていました。
宮は仏道に精進しながら、二人の姫を養育していました。
薫はこの宇治を訪れるようになり、ある晩秋の月夜に音楽を奏でる二人を垣間見ました。
薫は、求道への揺らぎを覚えました。
薫は八宮から出家を打ち明けられて、姫たちの後事を託されました。
その夜薫は、弁の尼から己の出生の秘密を聞かされました。

※薫は源氏の子。母は女三の宮。実は柏木と女三の宮との子。
古典を歩く(2)源氏物語より

宇治橋111
        宇治橋

橋姫神社は、宇治橋を守るとされています。

大化2年、宇治橋を架けられた際に、上流の櫻谷と呼ばれた地に祀られていた瀬織津媛を祀ったのが始まりとされています。
当初は橋の守護と管理を任されていた放生院常光寺(通称「橋寺」)敷地内で橋の中ほどに張り出して造営された「三の間」に祀られていました。
その後宇治橋の西詰に祀られ、明治3年の洪水による流出後、明治39年10月現在の場所に移されました。
Wikipediaより

日柳燕石旧邸跡

2008年11月27日
日柳燕石旧邸・呑象楼(香川県仲多度郡琴平町榎井)です。
日柳燕石旧宅跡1  日柳燕石旧宅跡2
       呑象楼

日柳燕石旧宅跡4
   日柳燕石像

日柳燕石は、讃岐(香川県)琴平の勤王博徒です。
仲多度郡榎井村で質屋を兼ねる富豪の地主加島屋惣兵衛の一人息子として生まれました。
通称加島屋長次郎といいました。

天保元年の14歳の時から琴平の医者三井雪航について学びました。
4年間にわたって漢詩・漢文を修めました。
その他にも書や絵画などにも手を染めました。

しだいに博奕に親しむようになり、仁侠の世界における有力者にのしあがり、榎井の大親分といわれました。
しかし、頼山陽の「日本外史」などを読んで、尊皇の志を抱き、勤王博徒加島屋の異名は地元の四国だけではなく、京坂から中国、九州へも知れ渡りました。

嘉永元年、阿波より大坂、京都、大和方面へ遊歴し、大和五条の儒者森田節斎をはじめ、各地の士を訪ねました。
嘉永6年、ペリーが浦賀に来航し、尊皇攘夷運動が盛んになると、吉田松陰、久坂玄瑞、桂小五郎、中岡慎太郎らが立ち寄るようになりました。
また本間精一郎、椋木八太郎、木曽源太郎、松本奎堂ら尊攘派の浪士が援助を求めて訪れました。

慶応元年、高杉晋作は下関開港、欧州遊学などの開明策を抱いていたため、頑固な攘夷派からつけ狙われ、四国琴平へ逃れてきました。
燕石は高杉を別荘呑象楼に一月ほど潜伏させて助けました。
これが高松藩に知られ、同年5月より明治元年1月まで、3年に渡って投獄されました。

釈放後は京都から長州、長崎へと旅をし、6月から北越征討軍総督仁和寺宮の日誌方として従軍しましたが、8月、越後柏崎の陣中で病死しました。

爪髪は香川県仲多度郡琴平町榎井の先祖の墓所に日柳燕石士煥の墓として立てられています。

燕石の別宅は、その二階で酒を呑むと、盃に金毘羅宮がある象頭山がポッカリと浮かぶところから、“象頭山を呑む”意気を示す「呑象楼(どんぞうろう)」と名づけられました。呑象楼は興泉寺の前にありましたが、現在は榎井小学校北西に移築されています。
幕末維新人名事典より


日柳燕石(くさなぎえんせき)旧邸・呑象楼は、香川県にあります。
JR四国土讃線琴平駅か高松琴平電鉄琴平線琴電琴平駅が近いのではないでしょうか?
駅から1㎞ほどの場所、榎井小学校の横にあります。
国道32号との交差点のほぼ横です。

別の用事で、琴平の方に行きました。
レンタルサイクルを借りていたので、帰りの高速バスの時間までその自転車でウロウロとしていました。
そこで偶然、この前を通りかかったのです。

看板や碑があると、どうしても止まってみてみたくなりませんか?
私は、ど~しても見たくなるのです(笑)
「ちょっと待って。」と、自転車を止めてみてみました。
日柳燕石?誰?聞いた事ないな~。
と、建てられた説明を読むと「高杉晋作」の文字が…。

これは幕末関係か?!
と、写真を撮っておきました。
前回の「霊山墓地の高杉晋作墓」で、讃岐の日柳燕石が登場して、やっとわかりました。
遅すぎですね。

榎井小学校の敷地が一部、凹んでいます。
そこにこの旧宅が移築されていました。
交通量の多い道路に面していましたが、あまり目立っていませんでした。
やはり立ち止まる人も居ませんでした。

地元では有名な人だと思うのですが…。
そうでもないのかな?
桂小五郎は、兵庫県豊岡市出石へ潜伏し、高杉晋作は香川県仲多度郡琴平に潜伏。
長州の人は、潜伏先を見つけるのが巧いですね。
それにこだわり-変に意固地でない&融通が利く-ようですね。
潜伏先も長州や土佐など、一定の場所にこだわっていません。
だからこそ、時代の流れに適応して行けたのかもしれませんね。

ここに高杉晋作が隠れていたのは、本当に本当、初耳ですっごい驚きでした。

もとは興泉寺の前にあったそうですが、興泉寺はJR琴平駅から100mほどの所にあります。
移築された場所から500mほど離れています。
今だとさほど風景も、雰囲気も変わらない場所なのですが、当時はどのくらい違っていたのでしょう。


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月真院

2008年11月26日
二年坂・産寧坂の北に、御陵衛士屯所・月真院(京都府京都市東山区八坂下河原町463番地)があります。
月真院1  月真院
慶応3年3月20日、新選組を分離した伊東甲子太郎ら15名は、東山泉涌寺の塔頭戒光寺の長老湛然の肝煎によって、孝明天皇の御陵衛士を拝命しました。

6月8日、五条通の善立寺から臨済宗建仁寺派月真院に屯所を移しました。
月真院が高台寺の塔頭であったことから、伊東ら御陵衛士は高台寺党と呼ばれました。

11月18日、闇討ちに遭った伊東甲子太郎の遺体を引き取りに出かけた高台寺党7人のうち、藤堂平助、服部武雄、毛内有之助は斬死し、鈴木三樹三郎ら4名は、薩摩藩邸に庇護されましたが、御陵衛士は事実上壊滅しました。
新選組大事典より

月真院への行き方は、高台寺の北隣りとした方が判り易いでしょう。

私は月真院に行って、もう残念で残念で悲しかったです。
伊東甲子太郎や藤堂平助の屯所となった…と感慨に耽るどころではありません。

月真院の土塀の落書き!!!!!
誰がしたの!!!
塀、一面に落書きが…。落書きというより、土を削っているのです!!!
端から端まで、隙間なく、いろんな人が削って、掘って、見るも無残でした。

ここが高台寺党の屯所だから、落書きに腹を立てているだけではありません。
どこであろうと、人の物に落書きは犯罪です。
まして、歴史的建造物は修復したからOKとはいかないのです。
いままでの歴史が失われます。
本当に悲しくなりました。

1度、歴史研究家の先生方とのツアーで、門の中に入らせていただきました。
それが右の写真です。
この時はやはり、伊東甲子太郎や藤堂平助、間者として入った斉藤一などがいたのだな。と、想像に耽ることができました。

伊東は“武”より“論”のイメージですから、ここでは道場的な訓練より、議論を行うようなことが多かったのでしょうか?
剣を振り回す広さもなさそうにみえます。

月真院は宿坊もされているようなので、泊まることもできると聞きました。
今もされているのかな?


京都市 高台寺

高杉・来島・久坂・寺島・入江・有吉墓-霊山墓地

2008年11月25日
霊山墓地(京都府京都市東山区清閑寺霊山町)にある、高杉晋作・来島又兵衛・久坂義助・寺島忠三郎・入江九市・有吉熊次郎の墓碑です。
高杉・久坂・来島墓
向かって右から、高杉晋作・来島又兵衛・久坂義助・寺島忠三郎・入江九市・有吉熊次郎です。

高杉晋作は、長州藩士です。
高杉小忠太の長男として萩城下菊屋横町に生まれました。実禄150石。
谷梅之助の変名もあります。

藩校明倫館に学び、安政4年吉田松陰の門に入って頭角を現しました。
久坂玄瑞とともに松下村塾の双璧といわれました。

幕府の船で上海に渡り、見聞を広めて帰国しました。
ヨーロッパ列強に植民地化された上海を見たことや、かつて横井小楠らの影響もあり、高杉は、尊攘激派の活動には批判的でした。
文久2年の江戸高輪の英国公使館放火事件に加わったものの、翌文久3年4月の京都において、10年もたてば自分の思う世の中が来るだろうからと、西行ともじって東行となのり、頭を丸めて松本村に閑居してしまいました。
文久3年5月10日から始まった、長州藩の関門海峡における攘夷実行の為に、ひっぱり出されました。

その時、組織したのが奇兵隊でした。
出身身分を問わない庶民軍隊は、その後長州藩の明治維新推進のための中核部隊となりました。

元治元年、長州藩では前年八・一八の政変で京都を追われた失敗を挽回するために、遊撃隊長来島又兵衛らは進発論を唱えて実力行使にでしょうとしました。
高杉はこれを阻止しようとして来島と激論、説得に失敗して自ら脱藩して大坂に出て、久坂玄瑞や入江九一らと会い、事を共にしようとしましたが、世子の召還により帰還し、野山獄につながれました。

しかし高杉晋作は、講和交渉のために採用されました。

しかし、幕府の第一次長州征伐に完全屈伏して恭順派が権力を握ったため、高杉は一旦亡命して筑前の野村望東尼のものとに身を寄せました。
慶応元年正月、奇兵隊以下の諸隊を率いて反乱、討幕派藩政府の樹立に成功しました。

その後反対派に狙われて、一時讃岐の日柳燕石の家に潜伏し、木戸孝允の尽力で帰藩しました。
第二次征長線では幕府軍を、四境の外に追い払う大成功を治めました。
しかしその時、すでに病は重く、慶応3年4月14日結核のため下関で死去。享年29歳。

墓は下関市吉田町東行庵。
他に下関市上新町桜山神社、京都市東山区清閑寺町霊山、萩市椿東椎原にも墓碑があります。


来島又兵衛については、2008年11月5日の「京都御所-来島又兵衛戦死の地」の記事に書いています。

久坂義助(久坂玄瑞)は、長州藩士。
松野三平、河野三平の変名を使っています。
萩城下平安古八軒屋に藩医久坂良迪の二男として生まれています。
吉松淳三の私塾に学び、ついで藩校明倫館に入り、のち医学所で蘭学を修めました。

14歳の時に母を、翌年父と兄の玄機を亡くし家督を相続しました。25石。
安政3年3月、眼病治療を兼ね、筑前から九州を遊歴、肥後熊本で兵学者宮部鼎蔵に会い、吉田松陰の名前を知り、帰藩後文通を始めました。
玄機の友人中村九郎や僧月性の推薦もあり、翌4年松陰門下生となりました。

その年の12月、18歳の時に松陰の妹文と結婚して、その実家杉家に同居しました。

師の松陰は前年大獄によって野山獄に入獄し、江戸送りとなりました。
この間、玄瑞は松陰のために奔走、その刑死にもっとも憤って、万延元年2月、在萩の松下村塾生と墓碑を建てて、松陰の意志を継ぐことを誓いました。

文久元年、桂小五郎や入江九一らと和宮降嫁阻止、長井雅楽の航海遠略策に反対して激しい運動を展開し、失敗して国許に追い返されると脱藩して再度上京、諸藩の志士と交わり、尊皇攘夷の急進論者としてめざましい活動を開始しました。

翌2年久坂の弾劾運動が功を奏して長井雅楽は失脚、長州藩は尊攘論に一転しました。
この年、高杉らと御循隊を組織して攘夷血盟書を作り、12月イギリス公使館の焼討ちを実行しました。

文久3年6月には、京都で真木和泉、宮部鼎蔵らと攘夷親征を謀り、朝廷工作に奔走して成功しかけましたが、八月一八日の政変によって、朝議は薩摩、会津藩系によって牛耳られ、長州藩兵は尊攘系公卿七人を擁して京都から撤兵しました。

帰藩後政務役となった久坂は、京都における失地回復を謀っていましたが、藩論は来島又兵衛ら進発論者によって制され、三家老が大軍を率いて上洛、久坂は時期尚早を説きましたが、真木、来島らが聞き入れず、久坂も決意して7月18日夜、戦端を開きました。
玄瑞は兵を率いて鷹司邸に押しかけ、19日、桑、彦、会、薩の兵と戦いましたが、流弾にあたって重傷を負い、入江九一に後事を託して自刃しました。享年25歳。

墓は京都市東山区清閑寺霊山町の霊山墓地、萩市椿東護国山、山口市朝日山招魂場、下関市上新地桜山神社。

寺島忠三郎は長州藩士。
一時、作間忠三郎ともいいました。
長州藩無給通士太次郎の子。
14歳の時、吉田松陰門下に入り、間部要撃策に血盟した十七士に名前があります。

安政5年、松陰が再び野山獄に投ぜられたとき、入江九一、有吉熊次郎、品川弥二郎らと藩庁におしかけ、その罪名を詰問し激論しました。
このため一同謹慎を命ぜられました。

万延元年、明倫館に入りました。
この頃、久坂玄瑞と親しくなり、久坂と共に江戸にでて、また文久元年には京都で、尊攘激派として活躍し、文久2年には公武合体論で藩論をリードしていた長井雅楽の暗殺を企てましたが、果たせず法雲寺に囚えられました。

この冬外館焼討を計画、翌3年攘夷の期限の決定を久坂らと朝廷に迫りましたが、八月の政変で長州藩兵は京都を撤退しましたが、探索の厳しい京都に残って活動を続けたので馬廻並に列せられました。

翌元治元年禁門の変で負傷、鷹司邸で久坂らとともに自刃しました。享年22歳。

入江九一(入江九市)は長州藩士。
萩土原の長州藩足軽嘉伝次の長男として生まれました。
和作(野村靖)は弟。

安政3年父を喪って、貧窮をきわめましたが、九一は江戸藩邸の下働きをして家計を助けながら、学問に励みました。
安政5年江戸より飛脚として帰国、その時初めて吉田松陰を知り、松陰に深く傾倒し、松陰も彼を信頼していました。
松陰は当時間部老中要撃策を計画中で、九一もその血盟者でした。
計画は失敗し、松陰は投獄され、門下生の高足高杉晋作、久坂玄瑞らが松陰に批判的立場をとりはじめた時期も、九一は変わらず松陰の指示に従い、大原三位西下策と伏見要駕策のため、弟和作と上京しようとしたところを捕えられました。

文久3年、士分の待遇をうけ、下関の外艦砲撃のさいは同地に赴き馬関総奉行所列座にあげられ、高杉を助けて奇兵隊創設に尽力しました。

元治元年禁門の変で戦死しました。
遺骸は京都市東山区清閑寺霊山の霊山墓地。
また、鞍馬通上善寺に首塚があります。享年28歳。

有吉熊次郎は長州藩士。

若くして藩校明倫館に入りましたが、安政5年16歳のとき吉田松陰の塾に入門しました。
松陰の間部老中要撃策の血盟に参加しています。

松陰が獄に下ると寺島忠三郎らと藩府を論難したために幽閉されました。

文久元年、高杉晋作とともに御番手として江戸に出て、藩邸有備館にありました。
翌年、高杉、久坂の指揮のもとで、品川御殿山の英国公使館を焼討ちしました。

文久3年藩命によって航海術を学び、京都の学習院に入って、松陰門下生や他藩の尊攘激派と親交しました。
この年5月、帰国して久坂らと八万隊を組織、翌年池田屋の変のさいは危ないところを逃れました。

元治元年の禁門の変では久坂らと鷹司邸において戦い、最期に従僕に託して母親に戎衣を送り自刃しました。享年23歳。

墓は京都市東山区清閑寺霊山町の霊山墓地と山口市朝日招魂場です。
幕末維新人名事典&新選組大事典&坂本龍馬大事典より


大村益次郎(大邨君之神霊)墓の後ろにある階段を登り、すぐの階段をもう一度登った辺りに5柱並んでいます。

高杉晋作については、下関の東行庵に埋葬されているようですが、
その他の人に関しては、埋葬あるいは遺髪か遺品かが埋められているように思います。
有名人のお墓に関しては、あちこちにあって、遺髪塔や遺品のみなどがあって、私が勝手に勘違いしていることも多々あります。
この5人についても、自信があまりありません。
墓碑については、間違いありません。

高杉晋作の辞世の句

おもしろき こともなき世を おもしろく すみなすものは 心なりけり

の「すみなすものは 心なりけり」は野村望東尼が詠んだといわれています。
しかし、この句は前年にすでに読んでいたという記録も残っているそうですね。
でも、高杉晋作が詠んだことにはかわりないのでしょ?

土方歳三とどちらが味のある歌をよんだのでしょう。
新選組ファンとしては、土方さんに1票を入れたいところですが…。

都々逸の「三千世界の烏を殺し、主と朝寝がしてみたい」も高杉晋作作という説もあるそうですね。
このフレーズ聞いた事があります。

高杉晋作といえば、一人で写っているあの写真を思い浮かべます。
頬が窪んで、口が大きくて、“馬面”といったら失礼でしょうか。
容姿としては、あまり美丈夫とはいえないと思います。

しかし、伊藤博文ら3人と写っている、もう少し若い頃の写真(?)は、また感じが違いますね。
こちらの高杉晋作の方が好きです。

高杉晋作も結核で、若くして亡くなっているので、どうしても沖田総司を思い出します。
沖田総司の方が若干若いですね。
当時は結核といえば、不治の病。
今でも、また結核が流行っていて、亡くなる人が増えているそうです。
現在でもそんな状況ですから、罹ったらもう終わりを覚悟してたのかもしれません。

体を鍛えていた武士なので、体力があったでしょうから、病気の進行を遅くできたのか?
武士だからこそ、病気療養が出来なくて、働き続けたので病気の進行が早まったのか?
どちらだったのでしょうか?

きっと沖田総司も高杉晋作も、病で亡くなることには不満だったのでしょうね。


高杉晋作の29年―クロニクル高杉晋作の29年―クロニクル
(2008/07)
一坂 太郎

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興正寺

2008年11月24日
興正寺(京都府京都市下京区七条堀川上ル花園町70番地)は、西本願寺の南隣りにあります。
興正寺
興正寺事件といわれる出来事がありました。
慶応3年12月7日、天満屋事件の同日同時刻に起きた紀州藩要人暗殺未遂事件です。

天満屋事件が紀州藩の三浦休太郎を狙ったものであるのに対し、家老水野大炊頭が宿舎の興正寺で襲われたものです。
坂本龍馬殺害を紀州藩の手引きによるものと考える集団の犯行と思われますが、実体は不明です。

新選組は水野の護衛として土方歳三、原田左之助、吉村貫一郎、岸島芳太郎、相馬肇らが配置されていて、被害はありませんでした。

当時の風聞集『丁卯雑拾録』のみに記されているので、天満屋事件と混同した可能性も考えられます。
新選組大事典&坂本龍馬大事典より

西本願寺の南隣です。
広い境内のお寺ですが、西本願寺があまりに広く大きすぎるので、狭いと錯覚しそうです。

興正寺事件そのものが本当にあったのかもわかりません。
天満屋事件と同日同時刻というのもすごく不思議です。
作戦として一斉攻撃を仕掛けたのならまだしも…。

でも土方歳三や原田左之助が出動していのなら、あながち無かった話でもないのでしょうか?

ここで事件が起こっていなくても、西本願寺の隣ですから、西本願寺に屯所を移した時には、多くの隊士が立ち寄っていると思います。
土方歳三はあいた時間に、フラッと立ち寄って、俳句を練ったりはしなかったのでしょうか?

天満屋騒動之跡

2008年11月23日
天満屋騒動之跡(京都府京都市下京区油小路通花屋町下ル)。
天満屋騒動跡2  天満屋騒動跡1
慶応3年12月7日、京都の旅宿天満屋に滞在中だった、紀州藩周旋方の藩士、三浦休太郎を土佐海援隊と陸援隊を中心にした集団が襲い、三浦の警護についていた新選組隊士達と激闘を展開しました。

三浦休太郎は、京都で幕府と朝廷間の周旋に邁進していた人物でした。
佐幕よりで行動していたため、討幕派から狙われていたといいます。

またこの年、海援隊が運行していた艦船いろは丸が、紀州艦の明光丸と衝突事件を起こし、紀州藩が海援隊側に多額の賠償金を支払うという事件がありました。

その後、11月15日に、海援隊長の坂本龍馬が、陸援隊長の中岡慎太郎と暗殺されました。
そこで、この暗殺事件は賠償金を要求された紀州藩のさしがねで、三浦が中心人物だと思い込む人達がいました。
さらに、坂本龍馬・中岡慎太郎の暗殺現場には、原田左之助のものとされる刀の鞘が落ちていたとされたため、新選組が犯人だと確信していました。
結果、龍馬と慎太郎の暗殺は、三浦休太郎が計画し、新選組が実行したと誤認しました。

三浦休太郎が会津藩と密約して、京都に紀州兵を大挙して進駐させるという計画を進めていた、という情報をつかんでいたともいいます。
龍馬暗殺への遺恨と、討幕運動推進への危機感から、三浦休太郎の暗殺計画は推進されたようです。
そしてその計画の中枢にいたのは、海援隊士の陸奥宗光と陸援隊士の岩村精一郎らでした。

また、いろは丸賠償の示談交渉の場となった長崎で、海援隊と交渉にあたった紀州藩士の三宅精一が、この時三浦と天満屋に同宿していました。

坂本龍馬暗殺後、三浦達への不穏な動きを察知した紀州藩は、京都守護職に警護を要請し、7日の午後に新選組から一小隊が天満屋に派遣されました。
指揮官の斉藤一、大石鍬次郎、宮川信吉、中村小二郎、中条常八郎、梅戸勝之進、舟津釜太郎の7名でした。

天満屋内に入った襲撃メンバーは、2階で酒宴中の三浦休太郎に一太刀を浴びせました。
三浦の顔面を斬り付けました。

7名の新選組隊士も反撃しましたが、蝋燭を斬り部屋を暗闇にされたため、苦戦しました。

三浦は負傷しましたが、結果的には新選組は襲撃者を撃退させました。
しかし宮川信吉が即死、舟津釜太郎が重傷致死。梅戸勝之進が重傷、斉藤一、中村小二郎、中条常八郎が負傷しました。

紀州藩側は三浦の若党藤左衛門ら3名が死亡しました。
襲撃側では十津川の中井庄五郎が即死、ほかに竹中与一郎が左手首切断の重傷を負いました。
新選組史跡事典より


西本願寺の門前から、堀川通を渡り1本東側の油小路にあります。
位置としては、西本願寺太鼓楼を真っ直ぐ東に行ったあたりになります。
マンション前のお地蔵様の横に碑が建っています。
正面に「勤王之士贈従五位 中井正五郎殉難之地」
側面に「維新史跡 慶応3年12月7日 天満屋騒動之跡」とあります。

マンションの入口の真ん前に建っています。
立ち止まってみると、マンションの部屋の中を覗いているのと間違えられそうです。
特に最近は、ややこしい世の中ですから、「李下に冠を正さず」「瓜田に履を納れず」を肝に銘じておかないと大変な事になります。

お地蔵様の祠があるので、まだ大丈夫かとは思いますが、ご迷惑をかけないように気をつけないといけませんね。

天満屋騒動は、新選組どうした?! しっかり!? という結果ですね。
圧倒的勝利ではなく、ギリギリのところで勝ったという感じです。
今までも、戦闘で死傷者は出ていますが、こんなに危なっかしい戦いは滅多になかったと思います。

出動メンバーが悪かったのでしょうか?
斉藤一、大石鍬次郎、宮川信吉以外は、ごめんなさいお名前を存じませんでした。
あまり出来る隊士でなかったのでしょうか?

それにしても、不動堂屯所と天満屋は500mほどしか離れていません。
何人かを応援に向かわすとか、何か手はなかったのでしょうか?

今はマンションなので、当時を想像する事も難しいのですが、ここでは斉藤一が戦ったのですね。
少女マンガで、美男子に書かれた斉藤一と、るろうに剣心での悪~い顔をした斉藤一が入り乱れて、想像されます。
私の中では、どちらかに統一できないです。
斉藤一は藤田五郎としての写真が残っていますが、その姿では新選組斉藤一と私のイメージが一致しないのですよね。

もっと美男子のはず!と、頭の中で否定してしまいます。
昔の写真なので、カメラ(写真)が悪いのかもしれません(笑)
ちゃんと後世に残す為に、写真を撮っておいてくだされば嬉しかったのに。


龍馬と伊呂波丸龍馬と伊呂波丸
(1996/01)
神坂 次郎

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大村益次郎墓-霊山墓地

2008年11月23日
霊山墓地(京都府京都市東山区清閑寺霊山町)の大村益次郎の墓です。
大村益次郎墓

大村益次郎については、2008年10月1日の“大村益次郎寓居跡”(大阪市)と“大村益次郎殉難の碑”(大阪市)をご覧下さい。

大村益次郎の最期の言葉はイネ(シーボルトと丸山の遊女其扇(そのぎ)との間に生まれた娘。その後医者となり、益次郎が妻以外に愛したとされる女性。)に言ったオランダ語の「さようなら」だったといいます。
益次郎の亡骸は、妻お琴や吉富音之助、篠田武造らの手によって、郷里へ運ばれました。
鋳銭司(すせんじ)村の丸山です。
人物日本歴史館 幕末・維新篇後期より

霊山墓地の龍馬・慎太郎のお墓と同じ並びで向かって左方向にあります。
「大邨君之神霊」と刻まれています。

遺体は郷里へ運ばれたとありますので、これは「墓」というより「記念碑」的なものでしょう。
もしかしたら何か、一緒に納められているのかもしれません。

大村益次郎…やはりあのおデコの広いというのか、頭が大きいのか…という肖像画が出てきます。
頭が良かったという証拠でしょうか?
でも今まで、あんなに頭の大きな人に会ったことがありません。

肖像画の描写の精度というのはどれぐらいのものなのでしょうね。

女紅場跡

2008年11月22日
女紅場跡(京都府京都市中京区土手町通丸太町下ル、電気通信技術史料館)です。
女紅場跡
明治5年4月14日、旧岩倉邸内に新英学校と女紅場が開設され、英人ホーンヴィ夫妻が教授となりました。
梅田雲浜の後妻千代子は、女紅場の生徒取締に任ぜられ、娘縫子も英語・裁縫の助教を勤めました。

女紅とは、裁縫・手芸・家事など女子に必要な教養を教えることで、本教場は府立第一高等女学校の前身です。

この後市内各区に女紅場ができ、遊所にも設けられました。
逐次各種教育施設に変身してゆき、明治半ばに女紅場の名は消えました。
写真でみる維新の京都より


京阪電鉄神宮丸太町駅で降り、丸太町橋を渡ります。
丸太町橋を渡りきった南側にあります。

時代を感じる建物の角に建っています。
丸太町通に面しているので、見落とすことは無いと思います。

この“女紅場”もなんて読むのか、知りませんでした。
が、特に捻らなくてもよかったようです。
“にょこうば”でいいそうです。

何となく、“女” “紅” “場”という、それぞれの漢字のイメージから、女性が虐げられる場所かと思っていました。
“紅”という文字で、遊女を連想しました。
しかし江戸時代のものではないのでは?と想像していたので、次に頭に浮かんだのが、「あゝ、野麦峠」でした。
女性・虐げられる話ですから…。

きっとここでも、女性が汗水たらして働かされていたのだろうと思っていました。

しかし、実際は間逆に近かったようですね。
“労働”ではなく、英語や裁縫・手芸・家事など、“習う”場所でした。

でもやはり戦前教育ですから、家事を中心に枝葉が伸びているような科目ですね。
この頃は絶対出来なければいけない事ですものね。

舎密局跡

2008年11月22日
石長松菊園の南隣にある高校の南端に、舎密局跡(京都府京都市中京区土手町通夷川上ル)の説明板が立っています。
舎密局跡
舎密局跡、“せいみきょく”と読みます。
明治維新の後、東京が中心となり、古都京都は寂れ諸産業は衰微しました。
府参事(後の知事)植村正直は、産業振興のために、勧業所・織所・牧畜場などとともに舎密局を建て、明石博高を主任にし、オランダ人ヘールツ、ドイツ人ワグネルの指導で、理化学研究と教育、そして実地応用の各種製品の製造を行いました。

明治6年8月に完成した本局は、明治14年正月植村知事の転任で廃止されました。
写真でみる維新の京都より


ます舎密局が読めませんでした。
“しゃみつきょく”? “しゃみっきょく”? と考えました。
“せいみきょく”だなんて…。

次に“舎密局”って何?って思いました。
“秘密の仕事をする場所”? “密偵に関係する”? なんて思いました。
理化学研究系の施設ですか…。

そしていつの時代のもの? わかりませんでした。
“幕末”? “意外と江戸初期”? と勝手に想像しました。
明治6年かぁ…。

結局、ここは幕末・維新という時代からは、微妙に外れているようです。

政治の中心が東京に移ると、京都は寂れてしまったのですね。
政治の中心地が繁栄するのは、いつの時代も変わらないようです。

それでも京都は観光という武器で、立ち直った方ではないでしょうか?

木戸孝允邸跡

2008年11月21日
木戸孝允邸跡(京都府京都市中京区土手通竹屋町下ル)の碑があります。
木戸孝允邸跡1  木戸孝允邸跡2
旅館・石長松菊園とその前の碑です。

木戸孝允邸跡3
お宿いしちょうと碑です。

京阪電鉄神宮丸太町駅で降り、丸太町橋を渡ります。
河原町丸太町バス停のある角を南に曲がり、200m歩くと、お宿いしちょうと旅館・石長松菊園があります。

どちらにも同じように碑があります。
この奥に木戸孝允終焉の邸宅跡があります。
やはりこの3点とを結んだ範囲内ぐらいに、お屋敷があったのでしょうか?

阪急電車の河原町駅からずっと高瀬川沿いに歩いてくると、御池通を越えた辺りから、雰囲気がガラッと変わります。
人通りが少なくなります。
観光客がいなくなるのです。

木戸孝允が病気療養の頃もきっと、静かな場所だったのでしょうね。
ここであの桂小五郎が病に臥せっていた…。
いよいよ維新も終焉を迎える時が来ました。

この石長松菊園に1度泊まったことがあります。
短大時代の友人3人と泊まりました。
偶然、友人に一人が、割引優待券があるので、同窓会(?)を兼ねて行くことになりました。
そんな事でもないと、なかなか日帰りで行ける場所で泊まれませんね。

友人は私が新選組ファンという事は、知らないことはないですが、こんなマニアだとは思っていなかったのではないでしょうか?(笑)
木戸孝允邸跡を見ても何の反応もなかったので、新選組と関係していた事は知らなかったのでしょう。
私は内心、ワクワクしていたのですが、友人達があまりこういう話に興味がないので、あくまでも心のなかでワクワク、ドキドキしておきました。

桂小五郎の史跡上で泊まってる~。と、満喫しました。
夜に出てきてくれた……とかは、ありませんでした。残念です。


木戸孝允邸跡

2008年11月21日
木戸孝允が亡くなった屋敷跡(京都府京都市中京区土手町通竹屋町下ル東側)です。
木戸孝允終焉の地1  木戸孝允終焉の地2
維新後、桂小五郎は開国和親の方針を採り、版籍奉還、廃藩置県等を達成しました。
岩倉具視の特命全権使節団の副使として欧米を視察し、明治6年7月に帰国しました。
西郷・板垣らによってとなえられていた征韓論には反対しました。

明治8年6月第一回地方長官会議の議長を務め、翌9年3月参議を辞任して内閣顧問とりなり、この年6月の東北・北海道巡幸に随行しました。
そして健康を害した彼は、明治10年2月、西南戦争が起こると国や西郷を案じ、病はますます重くなりました。
この頃、京都には行在所が置かれていて、5月19日朝、明治天皇は木戸邸に病気見舞いに訪れました。

5月25日勲一等に叙せられ、旭日大綬章を授けられました。
翌26日満44歳にて永眠。
正二位を贈られ、遺言により東山霊山に葬られました。
同34年従一位が追贈されました。

木戸孝允が病に臥し、亡くなった処がこの邸です。
写真でみる維新の京都より


京阪電鉄神宮丸太町駅で降り、丸太町橋を渡ります。
河原町丸太町バス停のある角を南に曲がり、200m歩くと、お宿いしちょうと旅館・石長松菊園があります。
そのおやどいしちょうと旅館・石長松菊園の間の路地を入って行った突き当り、市職員会館かもがわ横にあります。
(お宿いしちょうと旅館・石長松菊園は別記事で書きます。)

当時もこの建物しかなかったのでしょうか?
別棟と続いていたとか、大きな建物だったのでしょうか?
お宿いしちょうや旅館・石長松菊園の前にある碑などから考えて、敷地は広かったと思うのですが…。

あの桂小五郎が晩年を過ごした家が、これほど小さいのは少しギャップを感じます。
坂本龍馬ほど人気がないとしても、西郷隆盛、大久保利通と共に、維新の三傑と称された木戸孝允です。
もっと広大なお屋敷かと思っていました。
やはりもっと大きかったのでしょうね。

遺言で霊山墓地に埋葬されたそうですが、桂小五郎はそれほど京都に愛着を感じていたのでしょうか?
私は桂小五郎時代も木戸孝允時代も、それほど詳しくありませんが、京都が好き!骨を埋めたい!と思ったような記述(資料や小説等)を見たことがありません。
どちらかといえば、土地に執着をもつタイプで無いようなイメージです。
ある意味坂本龍馬的な感じです。

なので長州山口、萩に愛着があるかというと、そんなイメージもありません。
あえていえば、江戸というより東京というイメージでしょうか。

京都に居られた、「天皇」に愛着があったのかも知れませんね。


桂小五郎―奔れ!憂い顔の剣士 (時代を動かした人々 維新篇)桂小五郎―奔れ!憂い顔の剣士 (時代を動かした人々 維新篇)
(2004/11)
古川 薫岡田 嘉夫

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昌念寺-桂小五郎潜居跡之地(?)

2008年11月20日
「桂小五郎潜居跡之地碑 陸」で書いた碑の東隣に昌念寺(兵庫県豊岡市出石町魚屋)があります。
昌念寺
「桂小五郎の潜伏地で、ここで囲碁を打っていた。」
という記述もあります。

“碑”は建っていませんでした。
しかし、6つしか碑を見つけられなく、パンフレットにも6つしか書かれていません。
ということは、この昌念寺も潜居地として数えて、あわせて7つ(7ヶ所)とするのでしょうか?

1つははっきりとわかりませんでしたが、この町を桂小五郎が歩いたのは事実なのです。
荒物屋に扮していたというので、今残っている写真とは全く違う格好だったのでしょう。
さすがにその姿は残っていないでしょうね。

桂小五郎潜居跡之地-陸

2008年11月20日
桂小五郎潜居跡之碑(兵庫県豊岡市出石町魚屋)がここにもあります。
木戸孝允潜伏地6

辰鼓楼から北に進み西方寺の交差点を、先ほどと反対側の東に曲がります。
100m進んだところの、塀の側面(?)に碑が建っています。

桂小五郎潜居跡之地-参・肆・伍

2008年11月20日
桂小五郎潜居跡之碑(兵庫県豊岡市出石町田結庄)が3ヶ所、かたまってあります。
出石2264

木戸孝允潜伏地2  木戸孝允潜伏地1
“桂小五郎潜居跡之碑 参”
寿し梅前にある碑です。

木戸孝允潜伏地3
“桂小五郎潜居跡之碑 肆”
寿し梅の斜向かいの玩具屋の横にあります。

木戸孝允潜伏地7
“桂小五郎潜居跡之碑 伍”
玩具店の横の道を挟んで西隣で、駐車場の辺りにあります。

この3つの碑は、交差点に立って一回転すると、すべて見ることが出来ます。
交差点の3つの角にあるといっても大丈夫ですね。

こんなに近い場所で、隠れ家を変えてもあまり意味がなさそうな…。
少し他の場所に移って、戻って来たら前の場所の隣だったとか…?
そうでないとおかしいですよね。

この小さな碑を見る人は、ここでもいませんでした。
私が行く場所は、観光地であってもその中でのマニアックな場所だからでしょうか、立ち止まる人を見ることがありません。
この出石でもそうでした。
大きな碑の“勤王志士桂小五郎再生の地”はまだ1組止まっているのを見かけましたが、この小さな碑では誰もみかけませんでした。

観光で来る人なら、辰鼓楼と城跡でしょうね。

桂小五郎潜居跡之地-弐

2008年11月20日
出石にある7つの桂小五郎潜居碑(兵庫県豊岡市出石町田結庄)の1つです。
木戸孝允潜伏地5
この碑があった場所がここなのか、不確かになってしまいました。
もちろん出石にある7つの碑の内の1つには、間違いありません。

“勤王志士桂小五郎再生之地”碑からそのまま西へ50m進むと、桂小五郎潜居跡之碑と書かれた、小さな碑があります。

ヨイダマチ通と田結庄通が交わる少し手前の、ヨダイマチ通にあります。
米穀店の斜向かいの割烹店の横に建っています。

桂小五郎潜居跡之地-壱

2008年11月20日
兵庫にある桂小五郎潜居跡之地(兵庫県豊岡市出石町宵田 中央南側)です。
桂小五郎居住跡1  桂小五郎居住跡2
文久3年8月18日の政変で、七卿とともに京を追われた長州藩でしたが、桂小五郎は京で藩の無実の罪を雪ごうとしましたが、果たせず9月に帰藩しました。

元治元年4月に、京都留守居役として再上洛、この年7月に禁門の変が起こり、長州藩は敗退しました。
しばらく対州藩邸に潜んだ後、小五郎は広江孝助と変名して但馬出石に、荒物屋を装って潜居しました。

その時に手引きしたのが、出石の商人・広戸甚助でした。
出石では9ヶ月間の潜伏生活を送っています。
現在、出石には7つの潜居碑があり、何度も隠れ家を変えていたことがうかがえます。

これらの事から、小五郎は慎重な性格のようですが、博打好きで大きな借金も作ったようです。
甚助が博徒だった影響もあるかもしれません。
写真でみる維新の京都&JR西日本平成16年度パンフレットより


JR西日本のパンフレットに書かれている、出石への行き方です。
JR大阪駅から、福知山線特急「北近畿」で豊岡駅へ行き、全但バスで約30分出石営業所まで行きます。
又は、JR姫路駅から特急「はまかぜ」で豊岡駅へ、全但バスで出石営業所で降ります。
車が可能なら、車で行かれた方がいいかもしれません。

出石といえば、出石そばが有名です。
是非出石の皿そばを食べてみてください。

平成の大合併で豊岡市になりました。
豊岡といえば、「コウノトリ」ですね。
盆地なので、夏は近畿地方で一番暑くなります。40度前後のこともしばしばです。
そして冬になると、極寒です。
少し北に上がると、日本海です。
冬は城崎温泉でカニもいいですね。
餘部鉄橋はコンクリートに工事中(もう工事は始まったのかしら?)です。

さて、出石の桂小五郎潜居の地ですが、一番大きな碑「勤王志士桂小五郎再生之地」は、豊岡市出石町宵田にあります。
辰鼓楼から北へ真っ直ぐ歩きます。
西方寺のある角を西へ曲がり、100mほど行ったおそば屋さんの前に碑があります。

この場所に桂小五郎が潜伏したのは信じられませんでした。
ある種の、「そういう噂もあります」話、かと思っていました。
でも違ったのですね。
長州の田舎の方とか、交流のあった有名な志士の故郷とかなら想像しやすいと思います。
でも出石ですよ。
だれも出石なんて思い浮かべませんよね。

私もがそう思うという事は、潜伏は大成功という証ですね。
潜伏なのだから、人に知られては失敗になりますね。
荒物屋を装ったそうですが、店は繁盛したのでしょうか?
幾松が接客に長けているでしょうから、看板娘ならぬ看板奥様で繁盛でしょうか。

木戸孝允墓-霊山墓地

2008年11月19日
霊山墓地の頂上あたりに木戸孝允墓(京都府京都市東山区清閑寺霊山町)があります。
木戸孝允墓
木戸孝允(桂小五郎)は、萩藩医和田昌景次男でしたが、萩藩士桂九郎兵衛の養子となりました。
慶応元年9月、木戸貫治と改名。名は孝允、号は松菊など。

嘉永5年、江戸にて斉藤弥九郎の練兵館道場の塾頭に進み剣名を高めました。
安政4年10月の鍛冶橋土佐屋敷での仕合に坂本龍馬、桂小五郎の名前もあるそうです。

文久3年、京で尊攘運動を進めましたが、堺町門の変のあと一度帰国し、文久4年1月に京都留守居役として再上京しました。
元治元年6月5日の池田屋の変では、顔を出した時間が早く対馬藩邸に入っていて難を逃れました。
7月19日、禁門の変のあと京都を脱出し、但馬に潜伏しました。
慶応元年4月、下関に帰りました。

慶応元年閏5月1日に、坂本龍馬が下関にあらわれました。
桂小五郎は6日に山口から出関して共に西郷隆盛を待ちましたが、西郷は鹿児島より上方へ直行し、中岡慎太郎だけが姿を見せました。
桂は坂本、中岡と薩摩名義による長州の小銃軍艦購入について相談しました。
坂本は上京し、西郷の承諾を取り付け、10月4日までに下関に戻りました。
表面上は薩摩の兵粮調達交渉でしたが、本意は桂の上京を説得することでした。

慶応2年1月21日、京都薩摩屋敷で、西郷と木戸(桂)は坂本龍馬立会いのもと、薩長同盟を結びました。

12月14日、土佐藩士溝淵広之丞を伴って下関に入港した坂本龍馬は、山口に木戸孝允を訪ね、長土の復交について意見をかわしました。
慶応3年8月20日、長崎に出張していた木戸は、イカルス号事件のためやってきた坂本龍馬と会談しました。
この時龍馬は、佐々木高行を紹介しました。
木戸は土佐藩が進めている大政奉還建白には消極的でした。

慶応4年1月、木戸は総裁局顧問として、いきなり新政府の枢要の地位に就きました。

西南戦争の最中、45歳で病に斃れました。

墓は京都市東山区清閑寺霊山町の霊山墓地。
山口市糸米に木戸神社があります。
坂本龍馬大事典より


霊山墓地を上って行くと立派なお墓があります。
向かって左には、松子夫人のお墓もあります。
松子夫人は、あの有名な幾松ですね。

坂本龍馬に続いて驚きました!
木戸孝允のお墓もここなのですね!!
萩にあると思っていました。
萩に無かったですか?
だれかと間違えているかな?

“しょーもなぁ~”といわれるようなことなのですが、
木戸孝允という名前より、“桂小五郎”の方が好きです。
木戸孝允が硬い響きで、偉そうな感じがするからかな?
それとも幕末期の活躍は“桂小五郎”の時だったからでしょうか。
自分自身のことですが、何故かというはっきりとした原因がわかりません。

ちなみに桐野利秋よりも、“中村半次郎”の方が好きです。

近藤勇や土方歳三も京都を去る頃から、変名を名乗っていたりしますが、やはり“近藤勇”“土方歳三”が好きです。


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