明保野亭跡

2008年10月31日
明保野亭跡(京都府京都市東山区清水産寧坂)の位置は今、料理旅館坂口のある辺りです。
明保野亭1
説明板のある付近

明保野亭阪口1  明保野邸阪口3
料理旅館阪口付近

長州藩士がよく利用していた料亭です。
元治元年の禁門の変の後は商売がしにくくなり、主人は店を人に譲って下関で同名の店を開きました。

明保野亭事件
元治元年6月10日未明、料亭明保野に不審の浪士が集合しているとの情報を入手した新選組は、武田観柳斎、浅野藤太郎を指揮者として隊士15名と、応援のために隊に出向していた、会津藩の青年5名とを明保野亭に急派しました。

捜査の結果、浪士集合の事実はない事が判明しました。
しかし、居合わせた一人の武士が現場から逃走しようとしたので、柴司(会津藩士柴幾馬の弟)が、これを制止しようとして槍で相手に傷を負わせました。

この武士は土佐藩士麻田時太郎で、単に飲酒中だけであった事がわかり、会津藩では土佐藩との関係に悪影響が生じるのを恐れ、見舞いの使者を派遣しましたが、土佐藩は麻田の挙動も不適切だったとして自刃させました。
両藩の関係に微妙な翳りが生じましたが、事態を憂慮した柴司は自ら望んで6月12日に自刃した為、事件は円満に解決しました。
新選組大事典より

二年坂から三年坂を上り、清水寺へというのは、京都一の観光スポットですのでご存知の方も多いと思います。
三年坂を上っていると、明保野亭と書かれた説明板があります。
実際はその場所ではなく、同じ三年坂にある阪口さんという料理旅館付近にあったようですね。

新選組ファンですが、武田観柳斎はあまり好きになれません。
武田ファンの方、ゴメンナサイ。
策士のような感じに感じるのですが、清河八郎や伊東甲子太郎よりは小物ではないですか?
自分の周り半径1m程しか画策できていないのに、新選組全体を牛耳っているような気になっている…というように思えてしまって、どうしても好きになれないのです。
そんな武田観柳斎が指揮をとったから、柴司や麻田藤太郎が自刃しなければならなくなったのではないか?なんて、意地悪な見方をしてしまいます。

柴司のお墓は黒谷の会津藩墓地にあります。
2008年4月5日の黒谷・会津藩墓地の項に写真があります。

大丸松原店跡

2008年10月30日
新選組があのだんだら羽織の調達に訪れたのが、大丸松原店(京都府京都市下京区松原通御幸町・寺町間の北側)です。
大丸松原店跡
文久3年4月2日、大坂今橋の平野屋五兵衛方から100両の借金をして、それを元手にそろいの羽織を大丸呉服店に注文して製作しました。
浅葱色の地に、袖と裾に白く山形を染め抜いた割羽織だったそうです。
このだんだら模様は「仮名手本忠臣蔵」における赤穂義士の装束を模倣したものでした。

しかし、隊士の増加に伴い、全員に行き渡らなくなり、夏服として作られた麻の安手の羽織であったため、次第に誰も着なくなったといいます。
実際に、文久3年中は羽織の目撃記録も多くありますが、元治元年には確実なものはありません。
池田屋事変・蛤御門の変の頃までは、使用していた形跡はありますが、それ以降は全くありません。
新選組大事典より

文久3年4月下旬、大坂今橋の鴻池善右衛門方を訪れた、8人の武士は「主人に合わせろ」と申し出ました。小金を包んで追い返そうとすると、京都守護職御抱えの新選組と名乗り、200両をせしめました。
大鉄扇を構えた、芹沢鴨でした。

その金で、浅葱色地に袖に山形を染め抜いた麻の羽織と、紋付のひとえ、小倉袴の三つ揃え、100人分の隊の制服を作られたといいます。
写真でみる維新の京都より


一番近い最寄駅としては、京阪電鉄清水五条駅(2008.10に五条駅から清水五条駅に変わりました)になります。
五条大橋を渡り、鴨川の西側を北に歩き、松原通まで行きます。
そこを左(西)へ、河原町通を越えた次の通りに郵便局があります。その北側付近に大丸松原店があったそうです。
私が行った頃には、「志津屋」というお店がありました。

だんだら羽織を作るために金の工面をした先が、大坂の平野屋と鴻池と書籍によって違っていました。金額も100両と200両でした。
どちらからも借金はしていますし、どちらも大坂の富豪ですから、羽織作りにはどちらかから借りているのは間違いないでしょう。
もしかしたら両方からかもしれません。

新選組といえば、「誠」の隊旗と浅葱色の羽織が必ず出て来る、シンボルです。
新選組に興味のない人でも、このイメージは持っているのではないでしょうか。
それが実際は、麻の安物だったとは…。
さらに着られていた時期も本当に短かった…。

今残っている、土方歳三の写真にダンダラ羽織を着せてみると…似合わない。
近藤さんは…いまひとつ…。
やはり時代劇などでは、似合うように作ってそれなりのメイクもしていますからね。

大丸松原店跡ですが、私の話を聞いて私の史跡巡りがどんなものか一度付いて行ってみたいと、友達も一緒に行きました。
新選組馬小屋跡という「塀」の写真もみていましたが、お店の前で路地の写真を撮っているのを目の前にして驚いていました(笑)
今でもその時の話は、笑い話として時々出ますよ。

道が狭いのですが、交通量は多い道でした。
今では、何も残っていません。


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島田順司さんは沖田総司で大ブレイクしたそうです。
島田順司さんは、“はぐれ刑事 純情派”の課長役でよくお見かけしましました。
いつも「沖田さんだぁ~」と思って見ていました。
NHK大河ドラマ「新選組!」でも沖田総司に関係のある役をされていました。
-沖田総司最期の地とされる植木屋-の主人でした。
また、土方歳三といえばこの人といわれた、栗塚旭さんも土方歳三の兄役でNHK「新選組!」に出られていましたね。
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観音寺(山崎聖天)

2008年10月29日
観音寺(京都府乙訓郡大山崎町白味才62)、通称山崎聖天と呼ばれています。
山崎聖天1250   山崎聖天2251
真木和泉らを追って天王山に来た新選組の中で、山下で守っていた土方隊の中に、潜伏している敵兵がいるだろと、山下の寺と民家に放火した隊士がいたのを、近藤が知り激怒したそうです。
その放火した寺というのが、観音寺(山崎聖天)ではないかと考えられています。

境内の建物は、幕府軍によって焼き払われといわれ、明治になって再建されました。
中には近くにあった西観音寺の観音堂や仁和寺の聖天堂など、寄進を受けたものもあります。
新選組史跡事典より

昔からこの地にあった聖徳太子作と伝えられる十一面千手観世音菩薩を本尊としています。
必ず極楽浄土へ行くことができるといい、尾張徳川家、仙台伊達家、高崎松平家、備中板倉家、宇和島伊達家など諸侯の信仰を集めといいます。
また、住友、鴻池、三井家も家運繁栄を願いました。
境内の梵鐘は五代将軍綱吉の生母桂昌院から、また銅製の大灯籠は江戸時代中頃に住友家から寄進されました。

JR東海道本線(京都線)山崎駅を出て、左(東)へ歩き、踏切を渡ります。
踏み切りを渡ったら、すぐに右(東)へさらに歩きます。
小さな川を渡り、さらに進むと、左手に長い階段が見えます。
その階段が観音寺への階段となります。

階段が長い……………。
息切れしてしまいました。

観音寺は今年の春に行きました。
背割堤の桜を見に行った帰りに、近くを散策していて偶然この観音寺に行き着きました。

背割堤の桜252
背割堤の桜
250本の桜が、1.4㎞続いている、桜の名所です。
久々に感動するほどのお花見が出来ました。

境内の桜も綺麗でした。
しかし、このお寺に火をつけたのが新選組隊士かと思うと、やりきれない思いです。
離宮八幡宮や大念寺が焼けたのは、この火が原因なのか、それとも全く違う戦いの中での火災なのか…。
山下の寺や民家にとあるので、離宮八幡宮や大念寺の焼失も新選組隊士が原因かもしれません。

残党を探して、この近辺は捜索していると思うので、近藤や土方、永倉、斎藤、原田の誰かは来たかもしれませんね。
どの場所で、どの風景をみたのでしょうか?
桜の頃だと、桜を見てほんの瞬間だけでも、春を感じられたかもしれません。


背割堤の桜

天王山

2008年10月29日

天王山(京都府乙訓郡大山崎字大山崎)といえば、新選組・幕末よりも、「天下分け目の戦い」といわれる天正10年の、豊臣秀吉と明智光秀との山崎合戦が有名です。
天王山は標高270.4mで、麓では桂川・宇治川・木津川が合流し、淀川となって流れています。
山頂付近には何度か城が築かれましたが、現在残る土塁・城跡はこの山崎合戦で勝利した、秀吉の築城によるものです。
十七烈士墓1   十七烈士墓2

真木和泉墓
真木和泉の墓碑

天王山より
天王山より京都方面の眺望

天王山に久留米水天宮神官真木和泉をはじめとする、久留米・肥後・土佐等の17名の浪士が陣を置きました。
新選組は近藤勇と永倉新八・斉藤一の2隊40余人とともに、宝積寺に向かいました。
天王山下を土方歳三・原田左之助・藤堂平助・井上源三郎の隊のほか、軍事方浅野薫・武田観柳斎、諸士調役山崎烝・島田魁、小荷駄方尾関弥四郎・川島勝司ら150人と会津藩兵400人が固めました。

永倉新八『浪士文久報国記事』によると、
銃を持った浪士らを従えて、金の烏帽子に錦の直垂姿で現れた真木和泉は、姓名を名乗り合おうと呼びかけ、近藤勇はこれに応えたそうです。
そして、真木が詩を吟じると、浪士らは勝どきを上げて発砲してきました。
ふたたび陣所へ後退したので、近藤らが追っていくと、すでに陣小屋に火をかけて、真木ら17人は自刃を遂げていました。

この時、陣小屋の火薬で飛ばされた者もいたようで、後年元会津藩士柴太一郎は、死に切れない者を新選組が介錯したようだと語っています。
また、土方隊の中には、潜伏している敵兵がいるだろうと、山下の寺と民家に放火した隊士がいたのを近藤が知り、激怒したことも語っています。
この寺は観音寺(山崎聖天)のことか?

天王山の戦いの終結をみた近藤・神保の隊は、山上に上り、会津の大旗を掲げて鬨の声をあげました。

真木ら17名の自刃の地は、天王山山頂近くにあり、石柱に囲まれた墓所があります。
この中央には、正面左右に石灯籠のある石柱の囲いがあり、この真ん中に「烈士墓表」が建っています。
この墓表を囲んで、各人の墓碑が左右と後方に並んでいます。
新選組史跡事典より


天王山は宝積寺から登って行けます。
永倉新八は急な傾斜で大変だったように書き残していますが、今はハイキングコースになっていて、それほど困難な道ではないと思います。
私は3回ほど登りましたが、急勾配というより距離が長かったです。
同じ道を帰ってこずに、隣の駅に下りたので少し縦断気味だったからでしょうか。

道はそれほど大変ではないですが、ただ薄暗い道なので、女性ひとで歩くのはやめた方がいいです。
八幡番賀も人がいない場所だったので、女性ひとりはやめた方がいいといいましがた、こちらは田圃なので、見通しはいいのでまだ大声を出せばどうにかなるかもしれませんが、天王山は山の中で見通しも悪いので本当にやめた方がいいです。

そういえば、1度、マウンテンバイクを抱えて登ってくる人とすれ違いました。
???そんな事をするような山かな?

天王山の頂上付近まで登ると、真木和泉ら17名のお墓がありました。
山頂の近くにあるので、もっと小さなものかと思っていたのですが、立派なものが建てられていました。
この真木和泉を追い詰めたのが、新選組だということは小説などでも読んでいたはずですが、すっかり忘れていました。
どうしても禁門の変といえば、京都市内での話で終わりがちで、その後は、「真木和泉たちは天王山に籠り、自刃しました。」のような短い話で終わりますね。

当時は道も整備されておらず、もっと険しい道だったのかもしれませんね。
近藤勇たちと同じ登山道を歩いたのでしょうか?
今、一緒にハイキング登山が出来たら楽しいのにな。
そして新選組の皆さんと、山頂でお弁当を開いて…なんて、ここで眠っている人達が怒るか、一緒に入れてくれと来るか…ちょっとしたドキドキ感が味わえそうです。
幕末の人達だけでなく、秀吉・光秀の合戦の時の人達も来たりして…。


山崎合戦 豊臣秀吉 明智光秀
天王山

宝積寺

2008年10月29日
宝寺と呼ばれる宝積寺(京都府乙訓郡大山崎町字大山崎小字銭原)です。
宝積寺1  宝積寺1

宝積寺2  宝積寺2       宝積寺3
禁門の変で敗れた久留米天宮の神官・真木和泉以下17名は、山崎・天王山山中に籠り陣を敷きました。
これに対して新選組は、会津藩兵、見廻組らとともに追討に向かい、元治元年7月21日早朝、伏見を出発して天王山に迫りました。
この時、新選組と会津藩兵らは、天王山を攻める隊と、山下を固める隊とに分けています。

天王山登山隊には、新選組から近藤勇・永倉新八・斉藤一ら40名。
山下の通りを固めたのが、土方歳三・原田左之助・藤堂平助・井上源三郎ら150名。
永倉新八『浪士文久報国記事』

近藤勇率いる一隊が最初に向かったのが、この宝積寺でした。
近藤隊と会津藩神保内蔵助の隊100人ほどは、この宝積寺より山上へ攻めて行きました。

真木泉らは近づく近藤隊に発砲しましたが、陣所に火を放って自刃を遂げました。
彼ら17人が最初に葬られたのも、宝積寺の三重塔の前でした。
当時は、山崎や近在の人から「残念さん」と呼ばれて、香花を供えられていましたが、幕府側がこれを嫌い、彼らの遺骸を近くの竹林のなかに埋めなおして、参拝も禁じてしまいました。
現在の地、天王山山頂近くに再び改葬され、「烈士墓表」が建立されたのは、慶応4年3月でした。

宝積寺三重塔は、慶長9年の建立と伝えられて、重要文化財です。
この塔の前に、現在「殉国十七士墓」の石碑が建っています。
新選組史跡事典より


JR東海道本線(京都線)山崎駅を出ると、離宮八幡宮や山崎関門と逆(左の東側)の線路沿いに歩きます。
踏切があるのでそれを渡り、さらに真っ直ぐ、坂を上って行きます。
踏切から40mで道が二股になっているので、左側の道を進みます。
と、ここまでは大念寺の行き方と同じですね。
そのまま坂を上り続けると、宝積寺の前に着きます。

久しぶりに新選組に直接関係ある場所に来ました。
近藤勇がここから山頂に攻めていきましたが、土方歳三隊も来ていたのかもしれません。

近藤勇や永倉新八、斉藤一が踏みしめた場所を同じように踏みしめました。
山登りは得意だったのかな?
さすがに甲冑は着ていなかったと思いますが、刀って重いですよね。
元は鉄の塊だし…。
いつ敵が攻めてくるかもわからなですし、大変だったでしょう。

真木和泉たちは、三重塔の前に最初埋葬されたそうですが、その場所は厳密にはどこなのでしょう?
もしかしたら、私が立ち止まった場所の下だったのかもしれませんよね。
手厚くまつられることを嫌い、竹林に埋め直した幕府も凄いと思いますが、山頂付近に改葬されたが慶応4年という事は、早い時期に改葬しなおしたなと感じました。
まだ“慶応”ですよ。
“明治”なら新政府と思えますが、“慶応”はまだ幕府という感じです。

それにしても、3度も埋葬されたら、遺骨はどんな状態になっているのでしょうか?
拾い集められて、骨壷のようなものに入れられているのでしょうか?
あっ、火葬かな?
土葬の感覚でしたが。
火葬なら骨壷もありですが、土葬なら最初の改葬時はまだ骨になっていなかったりして…。

幕末頃は、改葬という言葉もよく耳にします。
特に珍しいことではなかったのかもしれません。
志士と呼ばれる人たちや、幕軍として戦った人達も、見慣れていたのかもしれませんね。

大念寺

2008年10月28日
大念寺(京都府乙訓郡大山崎町大山崎小字上ノ田)も禁門の変の文字が出てきました。
大念寺
元治元年、禁門の変の動乱に巻き込まれて全焼しました。
明治12年現在の規模に再興されました。
説明板より


JR東海道本線(京都線)山崎駅を出ると、離宮八幡宮や山崎関門と逆(左の東側)の線路沿いに歩きます。
踏切があるのでそれを渡り、さらに真っ直ぐ、坂を上って行きます。
踏切から40mで道が二股になっているので、左側の道を進むと、大念寺の階段が右手にあります。

この大念寺には阿弥陀如来立像(重要文化財)があるそうです。
この仏様がこのお寺に来たのが、禁門の前なのか、後なのか分かりませんが、禁門の変で焼失しなくてよかったです。

離宮八幡宮は長州藩屯所として直接関係していますが、この大念寺は本当にとばっちりだったのかもしれませんね。
離宮八幡宮はすぐそこで、近いので、長州藩兵がウロウロとしていた可能性はありますが、屯所でもなかったのなら、いい迷惑だったのでしょうね。
今の規模がどれだけ小さくなってしまっているでしょう。

離宮八幡宮

2008年10月28日
離宮八幡宮(京都府乙訓郡大山崎町小字西谷)も幕末の舞台でした。
離宮八幡宮東門249  離宮八幡1
離宮八幡宮東門(江戸時代)

離宮八幡2
多宝塔礎石
二間半四方で高欄の回廊をめぐらせた多宝塔がここにありました。
江戸時代初めに幕府の命令で現在のJR線路より北に及ぶ広壮な境内に多くの社殿が修造新造されましたが、これはその一つでした。
しかし、殆どの建造物は「禁門の変」で長州藩屯所とされた為に戦火で焼失しました。
説明看板より

離宮八幡の門前大山崎町は、天王山を背に大河を前に八幡山に対し、交通の要衝で京都に向けての軍事上の要点でした。

禁門の変では、油座を司った離宮八幡宮内にも、長州兵が配備されました。
この禁門の変で一屋も残さずに焼失しました。
現在の社殿は明治時代の再建です。

鳥羽伏見の戦いの時、山崎関門は藤堂藩が守っていました。
正月5日深夜、勅使四条隆平は綸旨を携え、家老藤堂采女に会いました。
帰順を約した藤堂藩は、6日早暁から橋本の幕軍に砲撃を開始しました。
写真でみる維新の京都より


JR東海道本線(京都線)山崎駅を出て、真っ直ぐに進みます。
厳密には突き当りではありませんが、主要地方道67の大きな道に出る右(西)側にあります。
その道を右に曲がって進んでいくと、山崎関門に行く事もできます。数十mです。

広くて静かな境内でした。
この離宮八幡宮が幕末に関係があるのかは知らないままに、目に入ったので寄ってみました。
そこにあった説明に、「禁門の変」「長州藩」とあるので、慌てて写真を撮りました。

禁門の変の長州藩といえば、中心人物とはいわないですね、中心藩というのが正しいのでしょうか。
事件の中心にいた藩ではないですか。
その屯所となった場所だなんて、いろいろな本に書かれていますか?
新選組ファンの読むような本には、詳しく書いてないですよね?
京都の御所付近の戦いなどが中心ですよね。

禁門の変で多くの建物が焼失したのは、とっても残念です。
これは長州だけの責任ともいえないですが、歴史的建造物は焼かないでといいたいです。
木造建築だと注意しても、戦いなんてものが始まればあっという間なんでしょうね。

山崎という響きを聞いて気付いた方もいるのではないでしょうか。
大山崎駅の山側西方向に、サントリーの山崎蒸溜所・サントリーのウィスキー工場があります。
予約すれば工場見学も可能です。
成人の方は試飲もできます。(未成年者や飲めない方はそれに変わるものがあったはずです。)
お時間のある方は、プランに入れてみてはいかがでしょうか。


サントリー 山崎 ウィスキー 工場見学

山崎関門

2008年10月28日
山崎関門(京都府乙訓郡大山崎町)付近です。
山崎関門
JR山崎駅は京都府と大阪府に跨っています。
鳥羽伏見の戦いの時は、藤堂藩が守っていました。
写真でみる維新の京都より

JR東海道線(京都線)の山崎駅を出て、右(西)に歩きます。
60mほど行くと、主要地方道67に出ます。関戸明神の近くです。
その付近が府境になり、写真のような標識が建っています。
山崎関門付近だそうです。

駅の横なので、史跡巡りの行きか帰りにでも寄れる場所です。

府境や県境を通る時ってワクワクしませんか?
私だけでしょうか?
特に、自分の住んでいる市から離れていると、同じ県内でも他県に行くだけでワクワクです。
思わず「○○県に来た!」とか「あっ、○○県」と叫びそうになります。
一人の時は恥ずかしくて叫びませんが、聞いてくれる人が一緒の時は、多々(小声で)叫んでいる気がします(笑)

高濱砲台

2008年10月27日
カテゴリを「京都 鳥羽・伏見戦」にまとめましたが、高濱砲台跡(大阪府三島郡島本町高浜)は、大阪府になります。
高濱砲台2  高濱砲台3

高濱砲台より橋本方面
「高浜砲台跡」の碑の横の堤防から橋本方向を望む。

元治元年に幕府により設置された河川台場です。
淀川対岸には、楠葉砲台がおかれています。
国内では河川台場は他に例をみないです。
大坂湾から京都へ侵入する外国船を想定して築かれました。
周囲180mの長方形で、土塁の高さは2.5mほど、カノン砲四門が設置され、管理は京都守護職・松平容保があたりました。

慶応4年1月の鳥羽・伏見戦では、高浜砲台を津藩藤堂家が、楠葉砲台を小浜藩酒井家が守り、京都方面から来る薩長軍に備えていました。
津藩は5日の勅使・四条隆平の説得に応じて新政府への帰順を決め、翌6日正午過ぎに旧幕軍の八幡、橋本、そして楠葉砲台に砲撃を開始しました。

土方歳三ら新選組は橋本宿、八幡山付近で戦闘状態にありましたが、津藩の裏切りにより戦意を喪失した八幡、橋本の旧幕軍とともに楠葉に撤退し、大坂まで退くことになりました。

高浜砲台は高浜、広瀬あたりにあったといいますが、淀川改修工事により取り壊されました。
今は河川敷ゴルフ場となっています。
新選組史跡事典より


阪急電鉄水無瀬駅から東へ歩きます。
水無瀬交差点を渡り、そのまま東へ続く道を道なりに歩いてください。
途中クリーニング店の分岐で右に進みます。
高浜公会堂が見えてきますが、その横の神社の前に碑が建っています。
駅から約500mです。

観光客はあるいていない、ごく普通の生活道路を歩いて行くので、ほんとうにこの道であっているのか不安でした。
「高濱砲台」という碑を見たときは嬉しかったです。

今、この碑の前に立っても、堤防で橋本方面は何も見えません。
横の堤防を登ってやっとみることが出来ます。
さらに目の前はゴルフ場なので、鳥羽・伏見の戦いを想像するには、すごく違和感を感じる風景になっています。

ここを京都守護職の松平容保が管理していたのは、あまり出てきませんよね?
松平容保といえば、新選組と近い関係です。
新選組や旧幕軍も松平容保の管理下にある場所なら安心で、裏切りなど考えられなかったのではないでしょうか?

久修園院

2008年10月27日
少し前までは、久修園院(大阪府枚方市楠葉中芝2-46)の前に「戊辰役橋本砲臺場跡」の碑が建っていました。

楠葉台場は、橋本台場とも呼ばれる元治元年に幕府により設置された台場です。
高濱台場と同じくカノン砲四門が設置されていたと考えれています。
管理は高濱台場と同じ京都守護職・松平容保です。

※高濱台場の項を参照して下さい。

久修園院は鳥羽・伏見の戦いで、旧幕軍橋本本営となり、弾薬庫も設けられました。
西遊寺に移築、現存。

明治43年の京阪電車敷設工事により、台場の土塁はすべて運び去られました。
新選組史跡事典より

私は2度ほど訪れましたが、どちらの時も碑はまだお寺の前にありました。
何度も電車の窓から見ていて、お寺の前の碑が無くなっている!!と思っていました。
碑の位置が移されていたとは…。

なくなるよりはいいと思いますが、碑を動かす事に何の意味があるのでしょう。
それともより正確な場所に移されたという事でしょうか?
正確な場所から、邪魔にならない場所に…というのなら、私にとっては許せない出来事です。
いろいろと事情はあるのでしょうが、こういう碑はやはり正確な場所にあるのが一番だと思うのです。

砲台跡は広範囲によると思うので、この場合は特に問題はないのかもしれませんね。

高濱砲台跡より、やはり土方歳三や新選組が居たこちら側の方がいいですね。
同じ大地を踏みしめた感が涌きます。

橋本陣屋と砲台場跡

2008年10月27日
橋本砲台跡(大阪府枚方市楠葉中之芝2丁目付近)辺りになります。
橋本砲台1  橋本砲台6248
砲台跡があった付近です。
明治末期までは砲台の土塁跡などがあったそうですが、京阪電鉄開通に伴い、土砂などは運び去られたそうです。

戊辰正月の鳥羽伏見の戦いで敗色が強まり、淀城へ退きましたが、淀城への入城を拒否されました。
仕方なく八幡から橋本へと退いた幕軍は、5日夜にここで休陣し、6日早暁から橋本の入り口に障壁を築き、西軍の追撃に備えました。

しかし橋本の幕兵と西軍を迎え撃つはずの山崎の藤堂藩兵が、一夜の中に寝返り、対岸高濱の砲台から橋本の幕軍に対して砲撃を加えて来ました。
また八幡から迂回した土佐藩兵が、橋本の東方の山上から撃ち下ろしてきたので、幕軍はここも支えきれず、日暮れにいたってことごとく大坂へ敗走して行きました。
写真でみる維新の京都より


楠葉関所跡246
楠葉関所跡付近です。
橋本砲台跡からさらに南へ歩いた付近です。

大阪府と京都府の府境です。
橋本駅は京都府ですが、自転車置き場やロータリーを越えたあたりが府境になります。
大阪府に入ったあたりから、田圃や畑が広がります。

幕軍(若狭藩)の砲台があった場所で、今は広々としています。
上記左の写真に写っている山が天王山です。(天王山系というのかな?)
その麓の高濱砲台から、西軍(藤堂藩)の砲撃がありました。

この場所からは分かりにくいですが、橋本砲台と高濱砲台の間を淀川が流れていて、その東側を走る京阪電車か、西側を走る阪急電車やJRに乗って風景を見ると、距離感などがよくわかると思います。
昔の(失礼 笑)大砲で、この距離が届いたのでしょうか?
ちょっと見縊り過ぎですか?

高濱砲台から砲撃を受けた時、新選組・土方歳三たちは橋本宿にいたそうです。
やはりこの地に足を踏み入れて、留まっていたのですね。
土方歳三もここから、天王山方面を眺めていたのかもと、じっと天王山を見つめてしまいました。
遠くから見る山の姿は、当時とあまり変わっていないでしょう。

これだけ敗戦が続くと、新選組の隊士たちはどう自分達を鼓舞して戦いを続けたのでしょう。
沖田総司は病気で戦えず、近藤勇も丹波橋で銃撃を受けて負傷。
井上源三郎も戦死しています。
新選組もボロボロです。


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鳥羽伏見戦争 高濱砲台 橋本砲台
朝日新聞 枚方 淀川沿い お台場

石清水八幡宮

2008年10月26日
石清水八幡宮(京都府八幡市八幡高坊)は“いししみず”ではなく、“いわしみずはちまんぐう”と読みます。
石清水八幡宮4242
麓の鳥居です。

石清水八幡宮1  石清水八幡宮3
石清水八幡宮は、男山の山頂にあり、応神天皇、神功皇后、比神を祀っています。
土地の先住民が男山山中から湧き出る清水を神として祀ったのが始まりといわれています。
貞観年間に奈良大安寺の僧行教が宇佐八幡を勧請して石清水八幡宮と称しました。
伊勢に次ぐ宗廟として、朝廷に崇敬されました。

文久3年4月11日、石清水行幸が行われましたが、将軍家茂急病で、代参の慶喜も途中急病になり、攘夷の節刀の授与はありませんでした。

元治元年禁門の変の時には、京へ上る長州兵の根拠地となりました。

慶応4年正月6日、八幡村では戦火を避けて、大住村(田辺町)へ本宮を遷しました。
写真でみる維新の京都より


石清水八幡宮に関係する史跡
【松花堂弁当】
「松花堂」の名は、江戸時代初期の石清水八幡宮(京都府八幡市)の社僧であった松花堂昭乗に因むものです。昭乗は、農家が種入れとして使っていた器をヒントにこの形の器を作り、絵具箱や煙草盆として使用していました。

昭和の始め、大阪の料亭「吉兆」の創始者である湯木貞一が八幡でこの器の話を聞き、弁当の器にすることを思いつきました。
これが「松花堂弁当」です。

異説として「松花堂昭乗が、上記の十字の仕切りがはいった箱に料理を盛って、来客をもてなした」とするものもあるが、おそらくこれは後世の創作ではないかとされています。

【エジソンの竹】
エジソンが炭素白熱電球を発明 し、この石清水八幡宮に生えている竹が電球の命ともいえるフィラメントの材料として最も適していることを知り、電球発明の翌年から10数年もの長い間この竹を使ってたくさんの炭素電球を作りました。
Wikipedia&HPより


京阪電鉄八幡市駅の目の前です。
自信のない人は、山頂行きのケーブルカーが駅前から接続されているので、これに乗って山頂まで行く事が出来ます。
(私は乗った事がないので、どんな景色が見えるのかわからないのです。)

歩くことに自信のある人は、麓を東へ回ると登り口があります。
それほど大変ではありませんでした。
距離も短いですし、坂も急な場所もありますが、歩きなれている人なら余裕で登れると思います。

将軍が行幸で参拝する時は、駕籠?馬?徒歩?それともオンブ?
馬は途中で降りないといけないでしょうね。
駕籠なら本殿近くまでいけるのかな?

家茂が歩いて山登りしているのは想像できません。
あの肖像画の人でしょう…。
やはり家臣の手を借りて登ったのでしょうね。
家来も大変です。
昔の戦国武将なら、(イメージとして)歩いている姿も想像できるのですが。

初詣も終わり、少し落ち着いた時に行ったためか、あまり人もいませんでした。
エジソン関係のものが多くあって、すごく日本的な場所に西洋の記念碑というのが、なかなかしっくりときませんでした。
でも世界的発明の重要ポイントだと思うと、誇らしいですね。


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八幡番賀-東軍戦死者埋骨地

2008年10月25日
淀の長圓寺の、戊辰之役東軍戦死者之碑の側面に刻まれている、八幡番賀(京都府八幡市番賀・番賀墓地)です。
八幡番賀2
遠くのブルーシートが見える所が、番賀墓地です。

八幡番賀3  八幡番賀1
(左写真)東軍戦死者埋骨地碑から八幡山が見えます。

墓地の南西端近くに、一般の墓石に混じって、「戊辰役東軍戦死者埋骨地碑」があります。
八幡山を背に東面して建っています。

八幡市役所と文化センターの裏手に当る川の向こう岸の田の中に墓地があります。
通称「野墓」と呼ばれ、中世以来の墓所といわれています。
写真でみる維新の京都より


京阪電鉄八幡市駅から歩きます。
駅から石清水八幡宮のある男山と川の間の道を進みます。安居橋か八幡橋あたりで川を渡り、八幡小学校まで南へ向かいます。
八幡小学校北側の道を渡り、東へ歩くと川が見えてきます。その川を渡ります。
川を渡ると一気に家がすくなくなります。
川の横に道があるのですが、それが上記1枚目の写真の右に見える道です。
右(南)に曲がり、ひたすら田圃の中を歩くと、番賀墓地があります。

駅から2㎞ちょっとあります。
また最後の田圃の中の道だけでも600~700mほどあります。

川を渡る辺りから、一気に家が見当たらなくなりました。
田圃が広がります。
田圃に仕事に来られていない時期なら、人の気配がなくなりますので、女性一人で行かれる時は気をつけるに越したことは無いでしょう。
(この地域が危ないという話は聞きませんが、最近はどこにでも危ない人が出てきますからね。)
カラスも多くてちょっと雰囲気が怖かったです。

埋骨地碑はすぐに見つかりました。
ポツンと建っていて、花を入れるようなものもなく、特に誰かがお参りしているような感じはありませんでした。
周りの景色などから、すごく寂しく感じました。

古戦場(あくまでも私の中でのイメージです。関ヶ原も桶狭間も川中島も行った事がないので 笑)のような感じでしょうか。
何か戦いがあったと言われたら、あったに違いないと思うような雰囲気でした。

念仏寺&安居橋

2008年10月25日
念仏寺(京都府八幡市八幡山路)には、鳥羽伏見で亡くなった大垣藩士の墓があります。
安居橋2240  安居橋
京阪電鉄八幡市駅前から山麓を南行する道は東高野街道で、鳥羽伏見戦で敗れた幕軍が、河内方面へ敗走していった道でもあります。
ただし、幕末の頃は、木津川は現在と違い、淀城の直下を流れていたため、淀大橋で木津川を渡り大坂街道を南下し、左へ切れて八幡の町へは常盤道か御幸道を通って入って来ました。

東高野街道を南行すると、大谷川に架かる安居橋があります。

安居橋を横に見て、大きな石の道標の三叉路に出ます。ここを左折して行くと、右側に念仏寺があります。

道標241

念仏寺1243  念仏寺3245

念仏寺2244
寺内左手、大きな楠の木の廻りに墓石群があります。
この中に大垣藩兼用隊名波常蔵藤原忠好(24)の墓石があります。
楠の根方に浮き上がって前の方へ傾いています。
名波常蔵は正月5日鳥羽にて戦死といいます。

他に大垣藩の森国蔵(30)、矢野才次郎(31)、渡辺右一郎(22)が葬られていますが、墓石は見当たりません。
写真でみる維新の京都より


安居橋の付近は綺麗に整備されています。
振り向けば、石清水八幡宮のある男山です。

橋を渡らずに直進すると、大きな道標があります。
おそらく見落とすことはないでしょう。
昔も見落とすようなものだと、道標になりませんからね。
大きくて目立つようにしてあるのでしょう。

そして念仏寺へ。
幕末当時のお墓があるというので、古いお寺を探しながら歩いていました。
でもこの辺りのはずなのに、綺麗なお寺しかないな?と思いながら近づくと、ここが念仏寺でした。
新しくされたばかりのようでしたが、ちゃんと「戊辰史蹟念仏寺」という石碑が門前に建っていました。

境内の墓石群は拝見せずに前だけで失礼しました。
大垣藩の名波さん…。
すみません、大垣藩も名波さんもあまりよくわからなかったので、新選組と関係が遠そうだったので、次の場所(八幡番賀の戊辰役東軍戦死者埋骨地碑)を探す為にお寺のみで済ませました。

京阪電鉄八幡市駅から600mほどの距離です。

淀城跡

2008年10月25日
淀城跡(京都府京都市伏見区淀本町)は、宇治川、桂川の合流点と、木津川に挟まれた川中島にあります。
淀城1

淀城2  淀城3
戊辰戦争時の1月2日、淀城は幕軍の宿泊所となり、当城から幕軍は伏見・鳥羽両街道へ進みました。
伏見・鳥羽両面での敗色が濃くなり、5日昼前退いて、淀城に入ろうとした幕軍は拒まれました。
城主の稲葉正邦は江戸におり留守でしたが、家臣たちの判断でした。
やむなく幕軍は淀の町に火を放ち、八幡から橋本へ向かいました。

橋本付近に佐々木只三郎と見廻組が胸壁を構え、従来から橋本関門を守る小浜藩兵に会津と幕兵が加わり、桑名藩は八幡山へ陣しました。

しかしやがて、淀藩に続き、山崎を守る藤堂藩の裏切りが起きました。

淀付近の地形は明治以降大いに変わりました。
幕末維新京都史跡事典・写真でみる維新の京都より


京阪電鉄淀駅を降りた目の前です。
と、少しまえならそれで終わりだったのですが、今は淀駅の形状が変わったようです。
(私は通り過ぎた事はありますが、まだ降り立っていないので、不確かな情報です。何故なら、京都競馬場がある時と無い時で違う場合も考えられるのです。)
大阪方面と京都方面の駅が、300mほど離れているようなのです。

京都・中書島方面へ行く電車の淀駅の目の前が淀城跡です。

石垣しか残っていません。
淀藩は敗走してきた幕軍の入城を拒否するという裏切りに出ています。
そう思うと、あまりスッキリしないのですが、戦況をみてそうせざる得なかったのかもしれないですね。
おそらく、裏切りがなくても、それほど歴史は変わらなかったのではないでしょうか?


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淀小橋跡

2008年10月24日
淀小橋跡(京都府京都市伏見区納所)。
淀小橋
宇治川に架かり、淀城下町の入り口でした。

実ははっきりと場所が思い出せないのです。
淀をウロウロしていた時、2度ほどこの前を通りました。

地図上で確認すると、納所交差点から競馬場方面へ行く道路(淀団地方面)へ行きます。
その一つ目の曲がり角の辺りに淀小橋が架かっていたようです。
淀小橋は72間(約130m)の橋だったようです。

この付近をウロウロしてもらうと、写真のような碑が見つかると思います。
横の住宅案内図には「伏見納所町 八番町案内図」とあるので、この地名も参考にしてみてください。


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淀大橋(旧)北端

2008年10月24日
淀大橋(旧)北端(京都府京都市伏見区淀木津町)。
淀大橋
明治初年の木津川のつけ替えで、かつての淀大橋はなくなり、地形上にわずかにその痕跡を残すだけです。
写真でみる維新の京都より


長圓寺と東運寺へ向かうために歩いて来た道を、そのまま南へ数m行きます。
淀新町の交差点付近が、淀大橋の北端あたりになります。
そこから南へ130間(約236m)の橋が架かっていたようです。

今は地形が大きく変わり、川の形跡も橋の形跡もありません。
この写真は、坂になっています。
それだけが唯一の痕跡のようです。

藩校明親館跡

2008年10月24日
藩校明親館跡(京都府京都市伏見区淀池上町)です。
藩校明新館跡
現在の明親小学校がその跡になります。
淀藩の藩校でした。


京阪電鉄淀駅から東へ歩き、突き当りを郵便局の方(右折・南)へ曲がります。
そのまま進むと大専寺ですが、その手前の郵便局の横か、もう一つ南を左(東)に曲がると、明親小学校があります。

藩校といえば勉学の場、そこが小学校になっていました。
今も昔も、ここは勉学に最適の場なのでしょう。
特に藩校跡を示すものはありませんでした。


淀藩 藩校明親館
幕末 藩校

西遊寺

2008年10月23日
西遊寺(京都府八幡市橋本中ノ町)を初めて知りました。
西遊寺1  西遊寺2
鳥羽伏見の戦い時に、弾薬庫として使われた建物があります。

もともとは久修園院にありました。
久修園院は、鳥羽・伏見戦で旧幕軍橋本本営となり、弾薬庫もありました。
その弾薬庫が西遊寺に移築されました。
新選組史跡事典より


京阪電鉄橋本駅の真ん前です。
東側(川と反対方向)に出ると、すぐの所です。

写真は残念ながら、逆光で白くなってしまいました。
(当時はデジカメより、フィルム写真が主流だったので、現像してみるまではどう写っているかわかりませんでした。)
でも、弾薬庫に使われた建物はわかりますね。

この建物が弾薬庫として使われていたのは、知りませんでした。
私の所属する会のツアーで、先生に教えて頂きました。

初めから弾薬庫として使われていたものなのか、何かに使用されていた建物を弾薬庫に使ったのかは、聞いていないのですが、思ったより小さな建物でした。
土方歳三もこの弾薬庫を使ったのでしょうか?
(使うという表現は微妙に違いますね。開けた とか 触ったという程度のことを言いたかったのです。)

東運寺-東軍戦死者埋骨地碑

2008年10月23日
東運寺(京都府京都市伏見区淀新町)です。
東運寺1  東運寺2

東運寺3

東軍戦死者埋骨地碑」があります。
写真でみる維新の京都より

長圓寺のお隣が東運寺です。
東運寺の墓地に向かいます。
大木の下に東軍戦死者埋骨地碑が建っていました。

大きな木の根元にあるので、愛宕茶屋の碑と同じような雰囲気でした。

確かに目立つ木の根元などに埋骨するほうが、木が墓標の役割を担いそうですね。

長圓寺-戊辰之役東軍戦死者之碑

2008年10月23日
長圓寺(京都府京都市伏見区淀新町)には、榎本武揚書の「戊辰之役東軍戦死者之碑」があります。
長園寺2238  長圓寺

長園寺3239
光明寺墓地にあった墓石

「戦死者埋骨地六所、二在本寺、一淀町光明寺墓地、一大専寺、一文相寺、一東運寺及八幡番賀」と書かれています。
写真でみる維新の京都より


文相寺から元の道に戻ります。
南に歩き橋を渡りすぐの細い道を左(東)に曲がると長圓寺があります。
文相寺から400mほどの距離です。

長圓寺には榎本武揚書の碑があります。
榎本武揚書の戊辰之役東軍戦死者之碑を建てる場所はどうやって選んだのでしょう?
埋骨地碑なら埋骨した場所、というようにわかるのですが…。

長圓寺には光明寺墓地にあった墓石が、整然と並んでいます。
埋骨地碑は光明寺跡に戻されましたが、この墓石群をみると、墓石はさすがに戻せないと実感しました。

文相寺-東軍戦死者埋骨地碑

2008年10月23日
文相寺(京都府京都市伏見区淀新町)。
文相寺1  文相寺2

東軍戦死者埋骨地碑」があります。
写真でみる維新の京都より

大専寺から一本西のパス通りに戻り、南へ100mで文相寺があります。
大専寺とは違う感じに碑が建っています。
それでも寂しそうに見えませんか?
ポツンっと建っていました。

ここにも多くの人が眠っているのでしょうか?

大専寺-東軍戦死者埋骨地碑

2008年10月23日

大専寺(京都府京都市伏見区淀下津町)にも、「東軍戦死者埋骨地碑」があります。
大専寺1  大専寺2

写真でみる維新の京都より



京阪電鉄淀駅から東へ歩き、今度は突き当りを郵便局の方(右折・南)へ曲がります。
150mほどで下津というバス停があります。その一本奥辺りに大専寺があります。

境内の中に、低木や草に隠れるように「東軍戦死者埋骨地碑」があります。
光明寺跡の碑よりも、さらに風雨に晒されたような石碑です。

この整備されていないような場所に建っていると、本当にこの下に多くの人が埋葬されているような気がしてきます。
そして無名に近い人達が忘れ去られたように眠っているようです。

光明寺跡-東軍戦死者埋骨地碑

2008年10月23日

光明寺跡(京都府京都市伏見区淀池上町)です。
光妙寺1  光妙寺3
東軍戦死者埋骨地碑と、供養地蔵尊(屋根の下のお地蔵様です)

光明寺跡には、供養地蔵尊もあります。
廃寺となった光明寺跡は、現在駐車場となっています。
長円寺に移されていた、「東軍戦死者埋骨地碑」は、光明寺跡に戻っていました。
写真でみる維新の京都より



京阪電鉄淀駅東側の史跡を歩きましょう!

淀駅の東側のバス停のある道(淀出張所などもあります)を東に行くと、突き当たります。
右(南)をみると、郵便局斜め前にありますが、そこを左(北)に曲がり2筋目辺りに駐車場があります。
その駐車場が光明寺があった場所です。
駐車場の片隅に碑があります。

一時は長円寺に移されていた「東軍戦死者埋骨地碑」は元の場所に戻っていますが、墓石群は長円寺に移転されたままです。
駐車場に墓石は戻せないですね。

お地蔵様は屋根が付けられていますが、埋骨地碑は雨風に晒されています。
その分歴史を感じます。
ここの碑もお花が生けられて、お世話されているのがよくわかりました。
大事にされているようで、安心しました。

悲願寺墓地-東軍戦死者埋骨地碑

2008年10月22日

法伝寺の北東300m、国道1号京神倉庫西方100m程の電波塔の足下に、悲願寺墓地(京都府京都市伏見区下鳥羽柳長町)があります。
悲願寺墓地
この墓地は整備されて、児童公園予定地の南地区にあった「東軍戦死者埋骨地碑」も、昭和59年3月に供養を行った後、丁重に遺骨を掘り出して、新しい地区に改葬されました。
写真でみる維新の京都より


悲願寺墓地は、鳥羽地区七か寺外の共同墓地であり、寺院の建物はありません。
悲願寺の由来もハッキリとしていません。

鳥羽伏見の戦いで、この辺りで戦死した幕軍の戦死者の遺骸が棄てさられたままなのをみて、下鳥羽の人達は戦争のために自分の家も焼かれてしまいましたが、この墓地の一隅へ穴を掘って、焼け残った家の梁や柱を集めて戦死者の遺骸をその上に積み、火葬したうえで、燃え残った炭で遺骨のまわりを囲んで丁重に埋葬したそうです。

しばらくは墓標もないままでしたが、明治30年に建てられた石柱が現存しています。

先の戦争中までは、土地の者でも誰も教えることがないので、この埋骨地のことを知る人は少なかったそうです。
そして、会津墓地(黒谷金戒光明寺)内伏見淀鳥羽戦死者道しるべの石には埋骨所の位置に、悲願時共同墓地と彫ってありますが、慰霊祭の折にも、当墓所に詣でる人は皆無だそうです。

墓地改葬前に戦死者の遺族を探して慰霊祭を行いと地元の意思ですが、桑名藩の4人の子孫の消息がわかっているだけです。
幕末維新京都史跡事典より



城南宮や小枝橋などを巡ってから行くのであれば、国道1号か1本西側の道を南へ1.5㎞歩けば行く事が出来ます。
最寄り駅としては、近畿日本鉄道京都線か京阪電鉄の丹波橋が近いと思います。
駅から西へ真っ直ぐ、2㎞ほど歩きます。

国道1号の東側に京神倉庫があり、悲願寺墓地は国道1号を西側に渡った所にあります。
公園がの前に墓地が移転しています。
墓地は移転して改葬したばかりなのでとても綺麗です。
墓地の名前が“悲願寺”なので、名前からのイメージで寂しげな墓地かと思っていました。

戦死者の遺体を一つに集めて、火葬したというので、火葬された後はどの遺骨が誰のかは判らないのですね。
亡くなった本人や遺族にすれば、遺骨が無いというはとても悲しい事だと思います。
しかし、被災した町の人が、自分達の事は後にしてでも、火葬埋葬してくれた事が一番の供養になっているのかもしれません。
きっとそうだと信じたいです。

桑名藩の4人以外に、何人の遺族が見つかったのでしょうか。

法伝寺-戊辰東軍戦死之碑

2008年10月22日
法伝寺(京都府京都市伏見区下鳥羽三町)は、行基菩薩の開基といわれ、元は真言宗でしたが、延文5年以来は浄土宗の中本山として栄えました。
法伝寺2235  法伝寺3236
何故かこの2枚だけ、真っ白になっていました。

法伝寺
    戊辰東軍戦死之碑

法伝寺
墓地には室町期の珍しい八角五輪塔があります。

幕末当時の門前は鳥羽街道で、戊辰正月の3日から5日にかけては、激しい戦いが繰りひろげられました。

法伝寺には、会津藩使用の短銃・大刀・槍の穂先・砲弾大小などがのこされています。
また東軍戦死者名簿があります。
寺の門前脇には、「
戊辰東軍戦死之碑」が建っています。
写真でみる維新の京都より

【東軍戦死者名簿】
赤地金襴の葵紋入りの装釘の縦30㎝、横21㎝の和帖折本仕立てで、235士の姓名だけが列記されています。
裏面から開くと、一般の檀家の戒名が列記されています。その時代は古いものであるらしいです。

戦死者名簿については、ここに記された由来も、時期も記録されていなくて、原本なども全くわからないそうです。御香宮の東軍戦死者名簿との関連もないようです。

列記を調べると、名簿の初めの方には、当地以外での戦死者名が並んでいます。
京都付近以外での戦死者  97名
京都付近の戦死者      122名
不明               12名   合計231名(235名中4名は重複しているようです。)

その他、まだいろいろと不明な事が多い名簿のようです。
幕末維新京都史跡事典より


悲願寺墓地から200mほど西へ行くと、川の横の道に出ます。
川に沿った道に出て、南へ150mで法伝寺の前に着きます。

最初「戊辰東軍戦死之碑」がどこにあるのか探しました。
よくある、細長い大人の膝の高さほどの石碑かと思っていたのです。
そうしたら、なんて立派な石碑でしょう。

会津藩使用の短銃や大刀が残っているそうです。
会津藩は法伝寺の前で戦ったとか?
会津藩がいたのなら、新選組もこの付近で戦ったか、伝令が走ったとか、何か関わったことがあるかもしれません。
沖田総司はこの頃はもう参戦していないのですね。

碑の他に、室町時代の八角五輪塔にも魅かれました。
幕末でも“歴史”なのに、室町です!
600年以上前の世界です。
幕末のものでも、無くなったものが多いのに、室町時代のものが残っているのです!
感動です!

妙教寺-戊辰之役東軍戦死者之碑

2008年10月22日
法華宗の妙教寺(京都府京都市伏見区納所北城堀)は、淀古城区域の南端にあります。
妙教寺1  妙教寺2

妙教寺5  妙教寺6  妙教寺4
戊辰正月の戦いは、3日夕方に勃発して、次第に幕軍の敗色が濃くなりました。
納所・淀方面に主戦場が移ったのは、5日以降のことです。
しかしこの妙教寺には、既に4日に本堂内陣に東軍の砲弾が飛び込んだといいます。

妙教寺本堂前には、明治40年に建てられた、榎本武揚書の追悼碑、「
戊辰之役東軍戦死者之碑」があります。

また同寺には東軍使用銃一、小銃弾十五、橋本にて出土の東軍刀片一、本堂を貫いた東軍不発砲弾一、その時あいた板一枚などが保存されています。
写真でみる維新の京都・幕末維新京都史跡事典より


京阪電鉄淀駅を西側に出て、西に向かいます。
納所交差点から旧京阪国道(主要地方道13 ガソリンスタンド沿いの道)を北に歩くと、150mほどの角を曲がると納所小学校があります。

京阪電鉄淀駅を西側に出て、西に向かいます。
納所交差点から旧京阪国道(主要地方道13 ガソリンスタンド沿いの道)を北に歩くと、150mほどの角を曲がると納所小学校があります。
と、ここまでは納所会館の行き方と同じです。
妙教寺は納所小学校の裏にあります。
納所会館の前を西へ行きすぎ、突き当たりを右に曲がると山門があります。

境内の背の高い木が見えると思います。
門を入り奥へ進むと、突き当りが本堂ですが、その右側に碑があります。
榎本武揚の書です。
榎本武揚といえば、箱館で土方歳三と一緒だった人です。
新選組と遠からず縁のある人です。

このお寺には砲弾や、穴の開いた板など、戊辰戦争を語るものが多くあるようです。
弾が飛んで来た場所です。
今のお寺からは考えられない状況下にあったお寺なのです。
境内の空間はスッキリしているのですが、やはり戊辰之役東軍戦死者之碑というものを目にすると、本当に戊辰戦争があったのだなと、思い出させます。

八番楳の木・千両松-戊辰之役東軍戦死者埋骨地

2008年10月21日
八番楳の木・千両松(京都府京都市伏見区納所・千両松・下野)と呼ばれる場所です。
八幡楳木3  八幡楳木2

井上源三郎戦死の地でもあります。

正月4日夜、伏見の高瀬川堤防や中書島に布陣した幕軍も敗色濃く、宇治川堤防を淀へ向けて後退しました。

5日朝、石川厚狭介の率いる長州偵察隊は、宇治川堤を淀方面に向かって進撃しました。
千両松で東軍と出会いこれを撃破し、さらに追撃しようとしますが、部下の躊躇う姿に叱咤激励し、自ら突撃した石川は、千両松北側の堤防下に潜伏する佐川隊の槍隊の猛反撃にあい戦死しました。

長州偵察隊の旗色は悪くなりますが、薩藩砲兵の射撃と第二偵察隊、奇兵隊などの応援で、幕軍の別選隊・新選組・大砲隊などを相手に大激戦となりました。

双方とも死傷者を出しながら、官軍は幕軍を追い詰め、幕軍は会津藩別選組は大半戦死し、新選組も井上源三郎などが戦死、林権助の倅又三郎も戦死しました。
淀から八幡方面へ退きました。

淀(京都)競馬場の近くの元堤防
跡に、東軍戦死者の八番楳の木埋骨の碑があります。
写真でみる維新の京都より


井上源三郎は、一発の銃弾で倒れました。
「叔父さんは撃たれると手当てをする暇もなく息を引き取ってしまった。」と11歳で戦闘に参会していた、甥の泰助の遺談だそうです。
銃弾は、頭部か胸部かは語っていないそうです。

泰助は叔父の首と刀を持ち歩きましたが、「人間の首があんなに重いものだとは思ってもみなかった。と語っています。
そして首を持ちきれず、あるお寺の門の前の田圃を掘って首と刀を埋めたと語り残しています。
泰助は寺の名を長男覚太郎氏の嫁「ケイ」さんに言い残したそうですが、ケイさんも死去されて今では知るすべもなくなりました。

昭和40年ごろ、この地に淀競馬場の駐車場が造られることになり、この碑が片付けられ、淀堤が切り崩され、飯場が建てられました。
しかしこの飯場で、夜中、紫色で袖に白いだんだらのついた羽織を着た血みどろになって武士が現れ、「元に返せ、元に返せ」と叫んだ夢を皆が見て、恐ろしさのあまり、関係者に話をして、埋葬地の碑を駐車場入口の一角に建て直し、競馬場関係者の名前を付した「誠の旗」10本程を立てて慰霊祭を行ったそうです。
新選組事典より

この場所は思い出深いのです。
何度行っても、ここを見つける事が出来なかったのです。
住所も細かく書かれているものがなくて、大まかな住所と写真の風景、それに添えられている文章の内容から探しました。
結局2ヶ月の間に4回通い、ようやく辿り着くことができました。

場所は、京阪電鉄淀駅から淀競馬場(京都競馬場)沿いに歩きます。
真っ直ぐ行ける道が無くて、少し住宅街を通り抜けなければ(当時は)行けませんでした。

そしてこの場所は、京都競馬場の駐車場(?)にありました。
駐車場に止めた方ようの高架(?)のような、橋の橋脚のたもとに建っていました。
京阪電車の窓からも、見ることが出来る場所です。

2ヶ月で4回も通ってでも行きたかったのは、井上源三郎が戦死した場所だと聞いていたからです。
新選組の重鎮の戦死地です、行ってみておかないと何時までもモヤモヤしてしまいそうです。
しかし、首と刀はどこかの寺の前の田圃に埋めた…ちょっとショックです。
頑張って持って歩いて欲しかったです。
そしてせめて墓標なりを建てて、埋めて欲しかったです。
戦争中ですから無理だったのはわかるのですが…。

綺麗に手入れがされています。
私が新選組仲間と行った時、近くのおじさんという方が話しかけられてきました。
そして「ここの手入れは、わしがやってるんや。花代も馬鹿にならない。」と延々と聞かされました。
言われてもどうする事もできませんからね。
「ありがとうございます。」と言って、ちょっと心残りがありましたが、井上源三郎さんに別れを告げて帰ってきました。

もう1度行きましたが、その時はおじさんは居られなかったので、ゆっくりとしてきました。

井上源三郎さんの首と刀はここには無いですが、井上さんらしき人が夢の中に出て来るというのは、この場所がお気に入りで、安心していられる場所なのかもしれませんね。
意外と戦さに嫌気がさして、ゆっくりしたいと思っていたのかもしれません。


八王子千人同心 (同成社江戸時代史叢書)八王子千人同心 (同成社江戸時代史叢書)
(2002/12)
吉岡 孝

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八王子千人同心

納所会館-鳥羽伏見戦跡の碑

2008年10月21日
納所会館(京都府京都市伏見区納所妙徳寺)の前にも、「鳥羽伏見戦跡」の碑があります。
納所会館前
この碑はかつては愛宕茶屋の埋骨の碑から20mほど南の堤防の上にありました。
この「鳥羽伏見戦跡」の碑は、昭和50年頃引き抜かれたままで転がっていました。
今は、地元の郷土史家の手で、この場所に移されました。
幕末維新京都史跡事典より

桂川
愛宕茶屋付近から見た桂川と堤防

京阪電鉄淀駅を西側に出て、西に向かいます。
納所交差点から旧京阪国道(主要地方道13 ガソリンスタンド沿いの道)を北に歩くと、150mほどの角を曲がると納所小学校があります。
その横に納所会館があります。
納所会館入り口は、階段を登ったところにあるのですが、その前に碑が移されています。
目標にするのはずばり「納所小学校」です。

鳥羽伏見戦跡の碑ですが、元々は愛宕茶屋のそばにあったものなので、直接この場所に関係があったとはいいがいのかもしれません。
もちろん、鳥羽伏見戦は一箇所、ピンポイントであったわけではないでしょうから、この場所も戦闘地となっていたとは思います。
でも、元あった場所からこれほど移動されてしまうと、残念でしかたがありません。

こういう碑は、元々あった場所にあるのが一番重要ではないかと思うのは、私だけでしょうか?
捨ててしまわれるよりは良かったとは思います。

愛宕茶屋-戊辰之役東軍戦死者埋骨地

2008年10月21日
鳥羽・伏見戦の激戦地、愛宕茶屋(京都府京都市伏見区納所外島および中河原地区)です。
愛宕茶屋2  愛宕茶屋4
横大路から鳥羽(大坂)街道の堤防を、南へ2㎞ほど行くと、富の森の南あたりで路傍に高く聳える銀杏の木があります。
その根元に「戊辰之役東軍戦死者埋骨地」の石碑が建っています。

このあたりには、もと鎮火の神として名高い愛宕神社の分祀された小祠がありました。
明治5年予杼神社に合祀されています。
そして堤防上には、旅人の憩う茶屋があったので「愛宕茶屋堤防」といわれていました。

正月5日にこの辺りは幕軍砲兵の陣地となり、歩兵を潜ませて、官軍の来攻に備えていました。
5日払暁、椎原小弥太・逸見十郎太ほかの率いる官軍は富の森へ向けて総攻撃を仕掛け、幕軍も白井(大砲)隊の応援で反撃するなど、激戦となりました。

官軍は椎原小弥太・市来勘兵衛らが戦死し、幕軍も多数の戦死者を出し、納所から淀へ敗退しました。
幕末維新京都史跡事典・写真でみる維新の京都より


京阪電鉄淀駅周辺の史跡です。
淀駅を出て西に向かって歩くと、桂川に出ます。
その桂川を渡らずに、堤防の上を北へ向かって2㎞ほど歩くと、大きな木が見えてきます。
その根元に戊辰之役東軍戦死者埋骨地の碑があります。

本当にこの道でいいの?と不安になるほど、堤防の上を歩きました。
行けども行けども、それなりに大きそうな木はあるのですが、碑がありません。
もうそろそろ引き返すべきかな?と思っていた時に、ようやく目的地に到着でした。

確かに群を抜いて大きな木でした。
葉が生い茂っている時に行った時は、直射日光や雨から碑を守ってくれているようでした。
ただ冬に行った時は、葉はすべて落ち、木と共に寒さに耐えているようでもありました。

「埋骨地」というのは、やはり戦死した人達が埋められているのですよね?
この碑が動かされていなければ、この碑の下あたりに多くの人が眠っているのでしょうか?

幕軍砲兵の陣地で、歩兵を潜ませて…といいますが、今の風景では身を潜める場所もなさそうです。
当時は今と全く違う感じだったのでしょうか?
昭和初期の城南宮の写真や、明治・大正期の京都(中心部)の写真を見ても、そんな場所があったとも思いにくいです。

寂しげな場所に思いましたが、お花も飾られていて、お世話して下さっている方がいるのが嬉しかったです。
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