新選組&幕末 ばんざい!!

新選組を中心に歴史の舞台を巡ります

アーカイブモード [2008年10月 ] 記事一覧

明保野亭跡

明保野亭跡(京都府京都市東山区清水産寧坂)の位置は今、料理旅館坂口のある辺りです。 説明板のある付近    料理旅館阪口付近 長州藩士がよく利用していた料亭です。 元治元年の禁門の変の後は商売がしにくくなり、主人は店を人に譲って下関で同名の店を開きました。 明保野亭事件 元治元年6月10日未明、料亭明保野に不審の浪士が集合しているとの情報を入手した新選組は、武田観柳斎、浅野藤太郎を指揮者として隊士15名と、...

大丸松原店跡

新選組があのだんだら羽織の調達に訪れたのが、大丸松原店(京都府京都市下京区松原通御幸町・寺町間の北側)です。 文久3年4月2日、大坂今橋の平野屋五兵衛方から100両の借金をして、それを元手にそろいの羽織を大丸呉服店に注文して製作しました。 浅葱色の地に、袖と裾に白く山形を染め抜いた割羽織だったそうです。 このだんだら模様は「仮名手本忠臣蔵」における赤穂義士の装束を模倣したものでした。 しかし、隊士の増加...

観音寺(山崎聖天)

観音寺(京都府乙訓郡大山崎町白味才62)、通称山崎聖天と呼ばれています。     真木和泉らを追って天王山に来た新選組の中で、山下で守っていた土方隊の中に、潜伏している敵兵がいるだろと、山下の寺と民家に放火した隊士がいたのを、近藤が知り激怒したそうです。 その放火した寺というのが、観音寺(山崎聖天)ではないかと考えられています。 境内の建物は、幕府軍によって焼き払われといわれ、明治になって再建され...

天王山

天王山(京都府乙訓郡大山崎字大山崎)といえば、新選組・幕末よりも、「天下分け目の戦い」といわれる天正10年の、豊臣秀吉と明智光秀との山崎合戦が有名です。 天王山は標高270.4mで、麓では桂川・宇治川・木津川が合流し、淀川となって流れています。 山頂付近には何度か城が築かれましたが、現在残る土塁・城跡はこの山崎合戦で勝利した、秀吉の築城によるものです。     真木和泉の墓碑 天王山より京都方面の眺望 ...

宝積寺

宝寺と呼ばれる宝積寺(京都府乙訓郡大山崎町字大山崎小字銭原)です。              禁門の変で敗れた久留米天宮の神官・真木和泉以下17名は、山崎・天王山山中に籠り陣を敷きました。 これに対して新選組は、会津藩兵、見廻組らとともに追討に向かい、元治元年7月21日早朝、伏見を出発して天王山に迫りました。 この時、新選組と会津藩兵らは、天王山を攻める隊と、山下を固める隊とに分けています。 天王山登山隊に...

大念寺

大念寺(京都府乙訓郡大山崎町大山崎小字上ノ田)も禁門の変の文字が出てきました。 元治元年、禁門の変の動乱に巻き込まれて全焼しました。 明治12年現在の規模に再興されました。 説明板より JR東海道本線(京都線)山崎駅を出ると、離宮八幡宮や山崎関門と逆(左の東側)の線路沿いに歩きます。 踏切があるのでそれを渡り、さらに真っ直ぐ、坂を上って行きます。 踏切から40mで道が二股になっているので、左側の道を進むと...

離宮八幡宮

離宮八幡宮(京都府乙訓郡大山崎町小字西谷)も幕末の舞台でした。    離宮八幡宮東門(江戸時代) 多宝塔礎石 二間半四方で高欄の回廊をめぐらせた多宝塔がここにありました。 江戸時代初めに幕府の命令で現在のJR線路より北に及ぶ広壮な境内に多くの社殿が修造新造されましたが、これはその一つでした。 しかし、殆どの建造物は「禁門の変」で長州藩屯所とされた為に戦火で焼失しました。 説明看板より 離宮八幡の門前大山...

山崎関門

山崎関門(京都府乙訓郡大山崎町)付近です。 JR山崎駅は京都府と大阪府に跨っています。 鳥羽伏見の戦いの時は、藤堂藩が守っていました。写真でみる維新の京都より JR東海道線(京都線)の山崎駅を出て、右(西)に歩きます。 60mほど行くと、主要地方道67に出ます。関戸明神の近くです。 その付近が府境になり、写真のような標識が建っています。 山崎関門付近だそうです。 駅の横なので、史跡巡りの行きか帰りにでも寄れ...

高濱砲台

カテゴリを「京都 鳥羽・伏見戦」にまとめましたが、高濱砲台跡(大阪府三島郡島本町高浜)は、大阪府になります。    「高浜砲台跡」の碑の横の堤防から橋本方向を望む。 元治元年に幕府により設置された河川台場です。 淀川対岸には、楠葉砲台がおかれています。 国内では河川台場は他に例をみないです。 大坂湾から京都へ侵入する外国船を想定して築かれました。 周囲180mの長方形で、土塁の高さは2.5mほど、カノン砲四門...

久修園院

少し前までは、久修園院(大阪府枚方市楠葉中芝2-46)の前に「戊辰役橋本砲臺場跡」の碑が建っていました。楠葉台場は、橋本台場とも呼ばれる元治元年に幕府により設置された台場です。高濱台場と同じくカノン砲四門が設置されていたと考えれています。管理は高濱台場と同じ京都守護職・松平容保です。※高濱台場の項を参照して下さい。久修園院は鳥羽・伏見の戦いで、旧幕軍橋本本営となり、弾薬庫も設けられました。西遊寺に移...

橋本陣屋と砲台場跡

橋本砲台跡(大阪府枚方市楠葉中之芝2丁目付近)辺りになります。    砲台跡があった付近です。 明治末期までは砲台の土塁跡などがあったそうですが、京阪電鉄開通に伴い、土砂などは運び去られたそうです。戊辰正月の鳥羽伏見の戦いで敗色が強まり、淀城へ退きましたが、淀城への入城を拒否されました。 仕方なく八幡から橋本へと退いた幕軍は、5日夜にここで休陣し、6日早暁から橋本の入り口に障壁を築き、西軍の追撃に備え...

石清水八幡宮

石清水八幡宮(京都府八幡市八幡高坊)は“いししみず”ではなく、“いわしみずはちまんぐう”と読みます。 麓の鳥居です。    石清水八幡宮は、男山の山頂にあり、応神天皇、神功皇后、比神を祀っています。 土地の先住民が男山山中から湧き出る清水を神として祀ったのが始まりといわれています。 貞観年間に奈良大安寺の僧行教が宇佐八幡を勧請して石清水八幡宮と称しました。 伊勢に次ぐ宗廟として、朝...

八幡番賀-東軍戦死者埋骨地

淀の長圓寺の、戊辰之役東軍戦死者之碑の側面に刻まれている、八幡番賀(京都府八幡市番賀・番賀墓地)です。 遠くのブルーシートが見える所が、番賀墓地です。    (左写真)東軍戦死者埋骨地碑から八幡山が見えます。 墓地の南西端近くに、一般の墓石に混じって、「戊辰役東軍戦死者埋骨地碑」があります。 八幡山を背に東面して建っています。 八幡市役所と文化センターの裏手に当る川の向こう岸の田の中に墓地があります。 ...

念仏寺&安居橋

念仏寺(京都府八幡市八幡山路)には、鳥羽伏見で亡くなった大垣藩士の墓があります。    京阪電鉄八幡市駅前から山麓を南行する道は東高野街道で、鳥羽伏見戦で敗れた幕軍が、河内方面へ敗走していった道でもあります。 ただし、幕末の頃は、木津川は現在と違い、淀城の直下を流れていたため、淀大橋で木津川を渡り大坂街道を南下し、左へ切れて八幡の町へは常盤道か御幸道を通って入って来ました。 東高野街道を南行すると、大...

淀城跡

淀城跡(京都府京都市伏見区淀本町)は、宇治川、桂川の合流点と、木津川に挟まれた川中島にあります。    戊辰戦争時の1月2日、淀城は幕軍の宿泊所となり、当城から幕軍は伏見・鳥羽両街道へ進みました。 伏見・鳥羽両面での敗色が濃くなり、5日昼前退いて、淀城に入ろうとした幕軍は拒まれました。 城主の稲葉正邦は江戸におり留守でしたが、家臣たちの判断でした。 やむなく幕軍は淀の町に火を放ち、八幡から橋本へ向かい...

淀小橋跡

淀小橋跡(京都府京都市伏見区納所)。 宇治川に架かり、淀城下町の入り口でした。実ははっきりと場所が思い出せないのです。淀をウロウロしていた時、2度ほどこの前を通りました。地図上で確認すると、納所交差点から競馬場方面へ行く道路(淀団地方面)へ行きます。その一つ目の曲がり角の辺りに淀小橋が架かっていたようです。淀小橋は72間(約130m)の橋だったようです。この付近をウロウロしてもらうと、写真のような碑が...

淀大橋(旧)北端

淀大橋(旧)北端(京都府京都市伏見区淀木津町)。 明治初年の木津川のつけ替えで、かつての淀大橋はなくなり、地形上にわずかにその痕跡を残すだけです。 写真でみる維新の京都より長圓寺と東運寺へ向かうために歩いて来た道を、そのまま南へ数m行きます。淀新町の交差点付近が、淀大橋の北端あたりになります。そこから南へ130間(約236m)の橋が架かっていたようです。今は地形が大きく変わり、川の形跡も橋の形跡もありま...

藩校明親館跡

藩校明親館跡(京都府京都市伏見区淀池上町)です。 現在の明親小学校がその跡になります。 淀藩の藩校でした。京阪電鉄淀駅から東へ歩き、突き当りを郵便局の方(右折・南)へ曲がります。そのまま進むと大専寺ですが、その手前の郵便局の横か、もう一つ南を左(東)に曲がると、明親小学校があります。藩校といえば勉学の場、そこが小学校になっていました。今も昔も、ここは勉学に最適の場なのでしょう。特に藩校跡を示すもの...

西遊寺

西遊寺(京都府八幡市橋本中ノ町)を初めて知りました。    鳥羽伏見の戦い時に、弾薬庫として使われた建物があります。もともとは久修園院にありました。久修園院は、鳥羽・伏見戦で旧幕軍橋本本営となり、弾薬庫もありました。その弾薬庫が西遊寺に移築されました。新選組史跡事典より京阪電鉄橋本駅の真ん前です。東側(川と反対方向)に出ると、すぐの所です。写真は残念ながら、逆光で白くなってしまいました。(当時はデジ...

東運寺-東軍戦死者埋骨地碑

東運寺(京都府京都市伏見区淀新町)です。    「東軍戦死者埋骨地碑」があります。 写真でみる維新の京都より 長圓寺のお隣が東運寺です。 東運寺の墓地に向かいます。 大木の下に東軍戦死者埋骨地碑が建っていました。大きな木の根元にあるので、愛宕茶屋の碑と同じような雰囲気でした。確かに目立つ木の根元などに埋骨するほうが、木が墓標の役割を担いそうですね。...

長圓寺-戊辰之役東軍戦死者之碑

長圓寺(京都府京都市伏見区淀新町)には、榎本武揚書の「戊辰之役東軍戦死者之碑」があります。    光明寺墓地にあった墓石 「戦死者埋骨地六所、二在本寺、一淀町光明寺墓地、一大専寺、一文相寺、一東運寺及八幡番賀」と書かれています。 写真でみる維新の京都より文相寺から元の道に戻ります。南に歩き橋を渡りすぐの細い道を左(東)に曲がると長圓寺があります。文相寺から400mほどの距離です。長圓寺には榎本武揚書の碑...

文相寺-東軍戦死者埋骨地碑

文相寺(京都府京都市伏見区淀新町)。    「東軍戦死者埋骨地碑」があります。 写真でみる維新の京都より大専寺から一本西のパス通りに戻り、南へ100mで文相寺があります。大専寺とは違う感じに碑が建っています。それでも寂しそうに見えませんか?ポツンっと建っていました。ここにも多くの人が眠っているのでしょうか?...

大専寺-東軍戦死者埋骨地碑

大専寺(京都府京都市伏見区淀下津町)にも、「東軍戦死者埋骨地碑」があります。    写真でみる維新の京都より京阪電鉄淀駅から東へ歩き、今度は突き当りを郵便局の方(右折・南)へ曲がります。 150mほどで下津というバス停があります。その一本奥辺りに大専寺があります。 境内の中に、低木や草に隠れるように「東軍戦死者埋骨地碑」があります。 光明寺跡の碑よりも、さらに風雨に晒されたような石碑です。 この整備されて...

光明寺跡-東軍戦死者埋骨地碑

光明寺跡(京都府京都市伏見区淀池上町)です。    東軍戦死者埋骨地碑と、供養地蔵尊(屋根の下のお地蔵様です) 光明寺跡には、供養地蔵尊もあります。 廃寺となった光明寺跡は、現在駐車場となっています。 長円寺に移されていた、「東軍戦死者埋骨地碑」は、光明寺跡に戻っていました。 写真でみる維新の京都より京阪電鉄淀駅東側の史跡を歩きましょう! 淀駅の東側のバス停のある道(淀出張所などもあります)を東に行くと...

悲願寺墓地-東軍戦死者埋骨地碑

法伝寺の北東300m、国道1号京神倉庫西方100m程の電波塔の足下に、悲願寺墓地(京都府京都市伏見区下鳥羽柳長町)があります。 この墓地は整備されて、児童公園予定地の南地区にあった「東軍戦死者埋骨地碑」も、昭和59年3月に供養を行った後、丁重に遺骨を掘り出して、新しい地区に改葬されました。 写真でみる維新の京都より 悲願寺墓地は、鳥羽地区七か寺外の共同墓地であり、寺院の建物はありません。 悲願寺の由来もハッ...

法伝寺-戊辰東軍戦死之碑

法伝寺(京都府京都市伏見区下鳥羽三町)は、行基菩薩の開基といわれ、元は真言宗でしたが、延文5年以来は浄土宗の中本山として栄えました。   何故かこの2枚だけ、真っ白になっていました。     戊辰東軍戦死之碑 墓地には室町期の珍しい八角五輪塔があります。 幕末当時の門前は鳥羽街道で、戊辰正月の3日から5日にかけては、激しい戦いが繰りひろげられました。 法伝寺には、会津藩使用の短銃・大刀・槍の穂先・砲弾...

妙教寺-戊辰之役東軍戦死者之碑

法華宗の妙教寺(京都府京都市伏見区納所北城堀)は、淀古城区域の南端にあります。         戊辰正月の戦いは、3日夕方に勃発して、次第に幕軍の敗色が濃くなりました。 納所・淀方面に主戦場が移ったのは、5日以降のことです。 しかしこの妙教寺には、既に4日に本堂内陣に東軍の砲弾が飛び込んだといいます。 妙教寺本堂前には、明治40年に建てられた、榎本武揚書の追悼碑、「戊辰之役東軍戦死者之碑」があります。 ま...

八番楳の木・千両松-戊辰之役東軍戦死者埋骨地

八番楳の木・千両松(京都府京都市伏見区納所・千両松・下野)と呼ばれる場所です。    井上源三郎戦死の地でもあります。 正月4日夜、伏見の高瀬川堤防や中書島に布陣した幕軍も敗色濃く、宇治川堤防を淀へ向けて後退しました。 5日朝、石川厚狭介の率いる長州偵察隊は、宇治川堤を淀方面に向かって進撃しました。 千両松で東軍と出会いこれを撃破し、さらに追撃しようとしますが、部下の躊躇う姿に叱咤激励し、自ら突撃した...

納所会館-鳥羽伏見戦跡の碑

納所会館(京都府京都市伏見区納所妙徳寺)の前にも、「鳥羽伏見戦跡」の碑があります。 この碑はかつては愛宕茶屋の埋骨の碑から20mほど南の堤防の上にありました。 この「鳥羽伏見戦跡」の碑は、昭和50年頃引き抜かれたままで転がっていました。 今は、地元の郷土史家の手で、この場所に移されました。 幕末維新京都史跡事典より 愛宕茶屋付近から見た桂川と堤防京阪電鉄淀駅を西側に出て、西に向かいます。納所交差点から旧...

愛宕茶屋-戊辰之役東軍戦死者埋骨地

鳥羽・伏見戦の激戦地、愛宕茶屋(京都府京都市伏見区納所外島および中河原地区)です。    横大路から鳥羽(大坂)街道の堤防を、南へ2㎞ほど行くと、富の森の南あたりで路傍に高く聳える銀杏の木があります。 その根元に「戊辰之役東軍戦死者埋骨地」の石碑が建っています。 このあたりには、もと鎮火の神として名高い愛宕神社の分祀された小祠がありました。 明治5年予杼神社に合祀されています。 そして堤防上には、旅人の...

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Author:kamaboko
新選組と幕末だらけの本棚
実は二重になっているので、
後ろにも本棚が…。

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