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本伝寺

2008年09月30日

本伝寺(大阪府大阪市北区兎我野町14)に谷三兄弟の墓があります。
本伝寺
長男 谷三十郎は、備中高梁出身で、父は谷三治郎です。
直心流、神陰流剣術。副長助勤、七番隊組長を歴任しました。
備中松山藩士でしたが、何らかの失策によって安政3年頃にはお家断絶となり、大坂に出ました。

池田屋には土方歳三隊に属して屋内に斬り込んでいます。
元治2年のぜんざい屋事件では、万太郎らと踏み込み、足に軽傷を負っています。

三十郎の最期は、祇園石段下での斬殺説もありますが、フィクションだと考えられるそうです。
急病死と記録されているそうです。
光縁寺に仮埋葬されましたが、万太郎らによって改葬されました。


次男 谷万太郎は、種田流槍術、直心流剣流。槍術師範。
兄三十郎の失策による家の断絶に伴い、大坂に出て、医師の岩田文硯の食客となったといいます。
その後、南堀江2丁目に酒屋の納屋を改造して、剣術と槍術の道場を開きました。

岩田の次女スエと結婚し、二男二女をもうけましたが、末子弁太郎以外は早世しました。

池田屋では、近藤勇らと屋内に斬り込み、報奨金を受けていますが、この時まで在隊の記録がありません。

文久3年中の入隊とされますが、そのまま道場を経営していたようで、厳密な意味での入隊とは言い難いようです。
元治元年12月の編成では、伊東甲子太郎の二番組に所属しています。
しかし、ぜんざい屋に踏み込んだのが、三十郎と門弟二人だった事も、万太郎が一般隊士とは別行動をとっていたことをうかがわせます。

慶応元年7月ごろの隊士名簿に名前はありますが、慶応3年6月の幕臣取り立て名簿には記載されていません。
前年4月の三十郎の死亡後に離隊したと思われます。

維新後、大坂釣鐘町で道場を開きますが、失敗し、一子弁太郎を離婚した岩田スエに託し、その1年後に病死しました。享年51歳。


三男 谷周平は、池田屋事変の直前、近藤勇の養子となりました。
池田屋では近藤勇と斬り込みました。

元治元年12月の編成では、三浦啓之助とともに近藤の小姓格となりました。
しかし慶応12月、近藤は佐藤彦五郎らへ、天然理心流の後継は沖田総司と定めた書簡を送っていて、周平への期待感は薄かったようです。

慶応3年6月、諸士取調役兼監察の一員として、幕臣取り立てで見廻組並の格を受けていますが、この名簿では谷姓に戻っています。

慶応4年1月、江戸帰還後、脱走。
のち、山陽鉄道に奉職後、神戸で病没しました。
新選組大事典より

兎我野町は、大阪の中心地にあります。
JR大阪駅、阪神電鉄&阪急電鉄梅田駅、大阪市営地下鉄御堂筋線梅田駅、大阪市営地下鉄谷町線東梅田駅、大阪市営地下鉄四つ橋線西梅田駅、どこからでも行けます。

お寺の周辺は、ホテル街です。
女性が一人で歩くには、気持ち勇気がいるかも…。
でも、会社も多いですし、前は関西テレビも近くにあった場所なので、行けない事もないかと。

お寺は曽根崎(地名)から来た場合、大きな道路を渡ったすぐの所にあるので、ホテル街との境目ぐらいにあるので、こちらから歩いて来る方がいいかもしれません。
太融寺の方から南へ歩くのも、分かりやすいかもしれません。

谷三兄弟は亡くなった後も、一緒にいてるのですね。
長兄、三十郎の失策でお家断絶って…、何をしでかしたのでしょう。
お家断絶の原因を作った兄と一緒というのは、イヤではないのでしょうかね。
そこはやはり、家族愛・兄弟愛・武家社会の教育で、何とも思っていないのでしょうね。

お寺の門がきっちりと閉まっていたので、お寺の前までしか行きませんでした。
塀の外から覗くと、どのお墓が谷三兄弟のものかは分かりませんでしたが、表面が黒く焼けたお墓が多く並んでいた記憶があります。
大阪の空襲で焼けたのかも?と、勝手に思って帰ってきました。


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薩摩藩大坂中蔵屋敷跡

2008年09月30日
薩摩藩大坂中蔵屋敷跡(大阪府大阪市西区江戸堀)の碑はあります。
薩摩藩中屋敷1  薩摩藩中屋敷2

私が見た史料には「江戸堀5丁目」とありますが、現在は5丁目がありません。
ただ、土佐堀通を上蔵屋敷から東(肥後橋・淀屋橋方面)に歩いていた時に、道路の南側で見ました。
出来立てホヤホヤという感じの、土蔵と碑でした。
碑は小振りだったので、土蔵を目印に探してみられた良いと思います。

薩摩藩大坂上蔵屋敷跡

2008年09月29日
薩摩藩大坂上蔵屋敷跡(大阪府大阪市西区土佐堀2丁目4)が土佐堀橋の前にあります。
大坂薩摩蔵屋敷跡2   大坂薩摩蔵屋敷跡3
薩摩藩の大阪藩邸は、土佐堀2丁目に上屋敷、江戸堀5丁目に中屋敷、立売堀西之町に下屋敷がありました。蔵屋敷と称されていました。
上屋敷があった場所は、現・三井倉庫になっていて、碑が建てられています。

元治元年、神戸海軍操練所の閉鎖が決まり、11月頃から翌年4月上旬まで龍馬らの消息が途絶えます。
小松帯刀の大久保利通への書簡によれば、高松太郎が匿って欲しいとやって来たので、彼らを海軍に使ったら良いだろうと、西郷隆盛と相談の上、邸内に潜ませたとあります。
坂本龍馬大事典より

この薩摩藩邸は、鳥羽・伏見の戦いの時に自焼しました。
その後、大阪上等裁判所になりました。
下の写真の右の白い説明板に書かれていました。
大坂薩摩蔵屋敷跡1

どこから行くと一番近いか…、迷います。
常安橋から400m程西の橋が、土佐堀橋になります。
土佐堀通をブラブラ歩いてくるのもいいかもしれません。

蔵屋敷というのも判ります。
前が川ですから、船で物を運ぶには絶好の場所です。

小松帯刀に大久保利通といえば、ちょうどNHK大河ドラマで中心人物です。
その小松帯刀がここにいた?
それとも大坂からの書簡で、高松太郎らの事を知って処理をしたのでしょうか?
少なからず、薩摩藩邸ですから来たことはあるでしょうね。


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土佐藩大坂陣営

2008年09月28日
土佐藩大坂住吉陣営(大阪府大阪市住吉区住吉2丁目)という名前があったのかは判りませんが、大阪市住吉区の住吉大社西南の一画に、軍事施設としての陣営を構えていました。
住吉大社
龍馬は文久2年2月8日、この陣営で安岡覚之助と会い、京都へ行き形勢を視察したのち土佐へ帰っています。
また住吉陣営にいた望月清平宛に書簡を送っています。

陣営の建物は、のちに京都の白川へ移され、陸援隊の兵舎となりました。
坂本龍馬大事典より

太鼓橋で有名な住吉大社です。
阪堺電気軌道阪堺線の住吉駅または住吉鳥居前駅か、南海本線の住吉大社駅の前です。
阪堺電車は路面電車です。
「チンチン電車」と呼ばれているはずです。(私の周りではそう言っていますが、地元の人はどうでしょう。)

今では考えられませんが、当時は海に面していたというのです。
莫大な面積を埋め立てという事がわかります。
それも幕末期は海に面していたのですから、幕末以降の近い過去という事になります。

龍馬はこの地を訪れているといいいます。
海も見えないので、いまひとつピンッと来ないです。


大阪 住吉大社
陸援隊

土佐藩大坂蔵屋敷跡

2008年09月27日
土佐藩大坂蔵屋敷跡(大阪府大阪市西区北堀江4丁目)は、土佐公園や土佐稲荷神社になっています。
土佐稲荷1
土佐公園内の土佐稲荷です。

鰹座橋  白髪橋
    “鰹座橋”交差点            “白髪橋”交差点

大坂に置かれた藩邸を蔵屋敷と称するのは、年貢米の換金や国許の物売り捌き財政を潤す機能を持っていたためです。
水運の便利な中之島や堂島には、各藩の蔵屋敷が建ち並んでいました。

土佐の名産は和紙、木材、鰹節などがありました。
鰹座橋、白髪橋、立売堀(いたちぼり)など、土佐ゆかりの名前が残っています。

龍馬が土佐藩蔵屋敷に立ち寄ったという記録は今のところ、見つかってはいません。
坂本龍馬大事典より

白髪橋の名前の由来は、土佐藩の禁伐区になっている(今は天然記念物)白髪山の桧を大量に持ってきてそこで売り、その桧で橋を架けたので、白髪橋という名が付けられたそうです。


ではこの土佐堀川も土佐藩から名前がついたのでしょうか?
土佐堀川

大阪市営地下鉄千日前線か長堀鶴見緑地線の西長堀駅からすぐです。
長堀通に出て、交差点を2つ歩けば、鰹座橋と白髪橋の交差点を通ることが出来ます。

坂本龍馬がここに来たという記録はないそうですが、新選組は地理を知るために1度くらいは近くを通ったかもしれませんね。
こんなところに、土佐藩大坂蔵屋敷があったのかと、写真を撮りに来てから数年後、まさかこの近くまで毎日通勤する事になるなんて思ってもいませんでした。
「これも運命?!」なんて、最初の頃は思いましたが、結局土佐公園や土佐稲荷まで会社帰りに行く余裕はありませんでした。

安治川河口

2008年09月26日
安治川河口(大阪府大阪市港区弁天6丁目&波除6丁目・此花区西九条7丁目)も新選組に関係があります。
安治川河口
元治元年1月、江戸から再上洛する将軍家茂の警備の為に、新選組は大坂に下りました。
土方歳三は安治川河口で警備を行った新選組の様子を、縁戚の日野・平家に図に書いて送っています。
土方歳三写真集より


“土方歳三写真集”を見ていただくと、ほぼ同じアングルの写真が載っています。
安治川河口としか記載がなかったので、とりあえず安治川の河口付近に行ってみました。
JR大阪環状線の西九条駅から海側に向かって1㎞近く歩きました。

安治川大橋に上ってみると、同じ風景画目の前に出てきました。
やった!推測が当たっていた!

しかしこの橋は国道43号線で、歩道はあるものの凄い交通量です。
さらに国道より海側は、工場地帯で歩いてウロウロする事は出来ません。
車は多くても、歩いている人はいてません。
少し不安になってきました。

土方歳三も新選組も、安治川という川を見たのでしょうね。
まさかこんな工場地帯になってしまうとは、想像もできなかったことは確かでしょう。
(工場という概念がないですものね)

今はこの写真の右奥あたりに、ユニバーサルスタジオジャパン(USJ)が出来ています。
USJに遊びに来られたときに、天保山と安治川も見てみてはいかがでしょう。

寺田屋

2008年09月25日
寺田屋(京都府京都市伏見区南浜町236番地)をめぐって、平成の寺田屋騒動が起こっています。
今日のテレビのニュースでは、京都市が「寺田屋は再建された建物」と結論をだしたようです。
寺田屋2  寺田屋1
寺田屋といえば、坂本龍馬というほどに有名です。
先日の大河ドラマでも「寺田屋騒動」の回がありましたね。
こちらは薩摩藩ですが。

文久2年4月23日、薩摩藩の急進派と島津久光の鎮撫派との争いにより、9名の犠牲者を出したという事件です。

今回、寺田屋は「当時の建物」か「再建された建物」かでもめていました。
寺田屋側は「当時の建物」と言っていました。

私は「坂本龍馬大事典」や「写真集 坂本龍馬の生涯」で、鳥羽伏見の戦いで焼け、すぐに再建されたという文章を見ていたので、今になってまだそんな騒動があるとは思ってもみませんでした。

特に「写真集 坂本龍馬の生涯」の著者の土居晴夫氏は、龍馬の甥直寛氏のお孫さんで、龍馬についていろいろと研究なさっておられます。
一坂太郎氏も、東行記念館の方で、幕末史のパイオニアです。
(東行は、高杉晋作の号です。)
その方々が、「寺田屋は再建」と書かれていたので、多分そうだろうな…と疑問も持っていませんでした。

他にも、寺田屋で「えっ?」と思うことがありました。
それは飾られている“集合写真”です。
(これについてはここでは控えます)
なので、テレビで「当時のまま」という意見を聞いても、今ひとつ信じられませんでした。

でも火事がどの程度だったかは判らないそうです。
基礎などは残っていたのかもしれません。
なにより、あの場所にあったのは間違いないのでしょう。
また鳥羽伏見の戦い直後すぐに再建されていたのなら、当時と同じような形で建てられているかもしれません。

それにあの土地には、まだ薩摩藩士の方々がおられるようだと…。
泊まると、夜中に会えるというか、斬り合う音?声?がするとか聞いた事があります。(これは本当に噂です)

更なる研究、調査がされて、詳しい事がわかる日が来ることを願います。


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天保山-朝陽岡

2008年09月24日
天保山の頂上付近を歩いていると、朝陽岡(大阪府大阪市港区築港3丁目)がありました。
朝陽岡
これは、大阪港の開港と発展のために尽くし、大阪築港事務所初代所長を勤め、大阪府知事でもあった西村捨三が愛したという「朝陽岡」と彫られ彦根藩邸に在った庭石です。

西村捨三は天保14年(1844)彦根の医師の家に生まれました。
本名を得三郎といったが素行が悪く「捨三」と呼ばれたといいます。
10歳から14歳まで彦根藩主井伊家に仕えていた頃、庭園にあった此の石「朝陽岡」の前で休憩したと伝えられています。

17~18歳頃に江戸の彦根藩桜田屋敷に住み、20歳で京都周旋方を命じられ、戊辰戦争(慶応2年)では会津攻めに参加したそうです。

京都の半分を焼亡し、人口も落ち込んだ京都復興計画で平安遷都1100年記念祭が採用され、明治28年(1895)10月25日に行なわれたのが第一回時代祭です。その発起人が西村捨三です。

鳥羽・伏見の戦いで惨敗を喫した新選組の近藤勇は江戸に戻ると、甲陽鎮撫隊と名を改め、千葉,流山に陣を移して新政府軍を迎え撃ちました。
この時、新政府軍として近藤勇逮捕の功のあった西村は軍参謀になっています


明治5年、西村捨三は旧藩主・伊藤直憲の欧米視察に随しました。
帰国後の明治9年に内務省に勤務し職員として沖縄に行きました。
明治16年・沖縄県令を兼任後、明治19年には沖縄を訪れた山形有朋と上京し内務省土木局長として木曽川・長良川・筑後川等の河川改修工事を完成させています。
明治20年(1887)大阪府知事となっています。
大阪では水道の敷設し・淀川改修公園を造り大阪湾築港計画を立てました。
明治22年頃には 四条畷神社の創建や楠木正行の顕彰を訴えてもいます。
明治24年(1891)第1次松方正義内閣の農商務省次官を最後に退職後は北海道炭坑鉄道会社・大阪築港事務所長を歴任し、大阪湾工事の陣頭指揮を執り、明治36年秋に完成しました。
その頃捨三は、脳溢血に倒れて彦根に戻っており明治41年1月14日66歳で永眠しています。
港区HPなどより

この朝陽岡が何なのか、まったくわかっていませんでした。
気が向いたら、調べてみようと写真を撮っておいたのですが、今回調べてみて、
「近藤勇」「甲陽鎮撫隊」という文字が出てきて驚きました。

近藤勇の捕縛に功績があったと書いてあるではないですか。
この人西村って人が…。
意外なところで、近藤勇の名前を見て、歴史を侮ってはいけない、歴史って深い、人と人との繋がりは意外な所にあるんだ、といろいろと思いました。

写真を撮っていない、西村捨三の銅像を見に行かないと!


西村捨三
朝陽岡

天保山-明治天皇行幸記念碑

2008年09月24日
天保山の三角点の隣には明治天皇行幸記念碑(大阪府大阪市港区築港3丁目)もあります。
明治天皇碑1  明治天皇碑2
明治天皇が慶応4年3月26日に電流丸(咸臨丸型)、万里丸、千歳丸、三邦丸、華陽丸、万年丸の六隻(合計2452トン) フランス艦1隻で日本初の観艦式を行った行幸記念碑です。

天保山に登った時に、この碑が目に入りました。
「明治天皇」の文字が刻まれているので、明治時代のものだろうと思っていました。
慶応4年3月ですから、徳川幕府も終わっていますが、まだ鳥羽・伏見の戦いや会津戦争、箱館戦争と新選組(旧幕府軍)の戦いは続いています。

その時代のものだと思うと、接点がゼロではないので少し興味が湧いてきました。

しかし、この碑を目当てに天保山に来る人はいてるのでしょうか?

碑は海ギリギリの場所に建っています。
さらに「明治天皇観艦之所」という文字は、海を向いていて、写真が撮りにくかったのです。

天保山-三角点

2008年09月24日
天保山にはちゃんと三角点(大阪府大阪市港区築港3丁目)があります。

天保山跡2
この階段を上がり、下ったところが三角点です。

天保山三角点
天保山の三角点

天保山と大阪低山
大阪のその他の低山です。是非登ってみて下さい。

天保2年(1831年)から天保3年にかけて、船の航路を確保するために安治川の土砂を積み上げてできた山です。
当時、高さ約18m・周囲約180mで、裾地は約2kmでした。
幕府は目標(目印)山と名付けたが、庶民は天保年間にできた山なので、「てんぽうざん」と呼び、後
に正式名が「天保山」となりました。


天保山まで来たのですから、山登りしてみてください。
山登りといっても、山頂に行くには坂道を下ります。
三角点のある周りの方が高いので、山頂に行くには下らないといけません。
山頂から下山するときに、坂を登ります。
とっても変な気分ですよ。
思わず笑ってしまいます。
幼児からご年配の方まで、すべての方に優しい山です(笑)

近くのお店にいけば、登頂証明書を発行して頂けるようです。

この天保山には天保山山岳会があり、山岳救助隊もあるそうです。
まだ出動はないとか…。

是非一度、登頂制覇してみてください。


日本の低山

天保山

2008年09月23日
天保山(大阪府大阪市港区築港3の一帯)。
天保山跡1

天保山渡船場  天保山沖3

天保山沖  天保山沖2
天保2年に、安治川と海岸を浚渫して港を造り、土砂を積んで人工島を造りました。
年号にちなんで天保山となづけました。

江戸から船を使って京都へ行く場合は、この天保山で下船しました。

慶応4年1月の鳥羽・伏見の戦いで東軍が敗退すると、新選組は大坂の常宿、八軒家の船宿京屋に入りました。
1月9日に天保山より、永倉新八らの乗船した順動丸が抜錨しました。
強風のため出発が遅れた、近藤勇・土方歳三らの乗った富士山丸が翌日に抜錨しました。

基本的に順動丸に動ける隊士が、富士山丸には負傷隊士が乗っていたようです。
新選組史跡事典より


慶応4年に出港したのを最後に、新選組の京阪での活躍は終わってしまいました。
そう思うと、悲しい場所です。

大阪市営地下鉄中央線の大阪港駅から700mほど歩くと、天保山の地名の付く場所に着きます。
今では沖縄の“ちゅらうみ水族館”が有名だと思いますが、赤と青が基調の建物“海遊館”が見えてきます。
じんべいざめが2頭(2匹?)泳ぐ大水槽がある“海遊館”です。
今は、1頭しかいないのでしたっけ?

海遊館の東隣に、天保山渡船場があり、対岸の此花区に船で行く事が出来ます。
(2枚目の写真)

またサンタマリア号という、観光船もあります。
(4枚目の写真の小さく写っている船です)
コロンブスがアメリカ大陸発見のときに使っていた船の名前で、その船の2倍の大きさで復元されているようです。
新選組が大坂を去った時の船とは違いますが、海岸から海と船を眺めていると、なんとなく当時はこんな感じの船だったのかな?と思えてきます。


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ぜんざい屋事件跡

2008年09月22日
ぜんざい屋事件跡(大阪府大阪市中央区瓦屋町1-11-1)には、碑が建てられています。
大利殉難の地碑
元治2年1月8日、谷万太郎ら4名が大坂のぜんざい店石蔵屋を急襲して、土佐の大利鼎吉を斬殺しました。

元治元年11月、長州に潜伏していた田中光顕ら土佐を中心とする浪士が、大坂城を焼き討ちにしようと企てていました。
道頓堀の鳥毛屋を拠点として準備を重ね始めました。
しかし幕府側に動向を察知されて、拠点を松屋町のぜんざい店・石蔵屋に移しました。
ここは武者小路家家臣の本多大内蔵が、商人に変じて開業した店でした。
田中光顕、大橋慎蔵、那須盛馬の3人が先に石蔵屋に入り、その後大利鼎吉が入りました。

この石蔵屋を、尊攘派とも交流のあった谷川辰蔵が訪れていました。
谷川は谷万太郎と旧知の関係で、田中らの潜伏と焼き討ち計画を谷に密告しました。

1月8日、田中・大橋・那須は鳥毛屋に同志を訪ねて、石蔵屋には主人の本多と大利が残っていました。
谷万太郎は兄の三十郎、門弟の正木直太郎、高野十郎とこの店を急襲しました。
高野はかつて阿部慎蔵と名乗って、新選組にいましたが、池田屋事件直前に脱走して谷の門弟になっていました。
谷らの急襲に本多と大利は抵抗しましたが、大利は斬殺されました。
本多は逃走しましたが、谷は本多の妻れんと母の静を捕縛しました。

その後、高野十郎は阿部十郎の名で新選組に復隊、さらに谷川辰蔵も隊士として加入しています。

現在、その場所には「贈正五位大利鼎吉遭難之地」という碑が建っています。
正面の碑銘は田中光顕の筆によります。
裏には「ちりよりもかろき身なれと大君にこころはかりはけふ報ゆなり」という大利が、死の前日に詠んだ辞世となったものです。

田中光顕は「遺骸は何処に埋められたか、はっきりしない」と書いています。
新選組史跡事典より


「大坂 新選組」 というキーワードからは、「ぜんざい屋事件 谷万太郎」を思い浮かべます。
私だけでしょうか?
新選組関係の中で「大坂」といえば「谷(兄弟)」となってしまいます。

このぜんざい屋事件跡の住所から地図をみると、店が並ぶ場所なので、このような碑が建っている事を知ったときは、とても驚きました。
松屋町筋といえば、“人形の町”です。
人形の町となった場所と、斬り合いのあった場所が結びつきません。

実際に行ってみると建っていました。
本当に人通りの多い、史跡があると思えないような場所に建っていました。

しかしこの碑が何の碑か関心を持って、立ち止まる人もいませんでした。
いたとしても、これがぜんざい屋事件の碑と思う人も滅多にいないでしょうね。
そのぜんざい屋事件は新選組が関係している…なんて知っている人も少なそうです。
碑の側面に簡単な、事件の内容等が刻まれていますが、もっと目立つような説明板でも建てたら立ち止まる人は増えるでしょうか?無理かな。

昭和61年の「大阪史跡事典」には、ぜんざい屋は現在菓子問屋になっているとあるそうです。
(新選組大事典には屋号も記されていました。)
建物は当時の物ではないのでしょうね。
そこまでは書いてありませんでした。
実際に見に行けば、判るかもしれませんし、推測もしやすいのですよね。


ぜんざいや事件
大利鼎吉

常安橋会所跡

2008年09月21日
家里次郎切腹の地である常安橋会所跡(大阪府大阪市北区中之島4~5丁目/西区土佐堀1~2丁目 常安橋)です。
常安橋会所跡
常安橋は土佐堀川に架かる橋です。
橋名は、中之島を開いた豪商・淀屋 岡本常安に由来しています。
しかし、南詰にあった和漢薬問屋の田辺五兵衛が、橋を架け替えたので、元禄の頃は田辺屋橋とも呼ばれていたそうです。

この橋のたもとに会所があっといわれています。正確な場所は不明。
文久3年4月から6月にかけて、新選組が何度か大坂での宿所として利用しています。
また4月24日、この会所で新選組の家里次郎が切腹しています。

家里は、幕府の募集した浪士組に参加して、上京してきました。
浪士隊が江戸へ帰る時、殿内義雄と、京都残留を希望しました。
同様に残留を希望した、試衛館一派と芹沢鴨一派らと同じく、会津藩御預かりとなりました。

壬生村に屯所を構え、家里の募集に応じたのは、10名ほど居たようです。
そのうち4名ほどは病気であったようで、阿比留鋭三郎は同年4月6日に亡くなっています。
(会津藩御預となったのは、文久3年3月15日)
また、建白書を出したとき、病気の4名と家里と殿内が連署していません。

殿内は3月25日に四条大橋で殺害されています。
旅支度姿であり、根岸も伊勢参りに行くとして同志2、3人と脱走。
のち根岸、遠藤丈庵、清水五一、鈴木長蔵、神代仁之助は新徴組に入っています。
粕谷新五郎も離れており、家里は別行動をとったか? 一人取り残されたか?

同年4月21日、将軍家茂の警護の為に大坂へ下りました。
家里が殺害されたのは三日後の事でした。
家里は近藤らによって、常安橋会所まで引き立てられて、詰め腹を切らされました。
享年25歳。
新選組史跡事典&新選組大事典より

ん~、常安橋に一番近い駅は………。
難しいですね。
JR環状線の福島駅・JR東西線の新福島駅、または阪神電鉄の福島駅から南下。
大阪市営地下鉄四つ橋線の肥後橋から西に歩く。
これらが1㎞ちょっとで、同じぐらいの距離です。

200mほど遠いですが、
もしくは大阪市営地下鉄四つ橋線(中央線・御堂筋線もありかな)の本町駅から北上。
というのも考えられます。

福島駅&新福島駅から南下するルートがいいかなと思います。

常安橋そのものが新選組関係の史跡ではありません。
この橋の近くに会所があったそうです。

家里次郎の切腹には近藤勇も関わっています。
近藤勇もこの橋を渡った事があります。
井上源三郎の兄、八王子千人同心の松五郎もその時、この会所に泊まっていたようです。
主要メンバーが大集合!
初期新選組の誰もがこの橋を渡っています。

もちろん橋は架け替えられていますが、もし当時の何かが残っていたら、きっと触りまくっていたと思います。
どこに会所があったのでしょう?


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藤井藍田邸跡

2008年09月20日
藤井藍田邸跡(大阪府大阪市西区南堀江3丁目1)が高台橋公園になります。
藤井藍田 跡
藤井藍田は大坂の町人志士で、安政4年に私塾「玉生堂」を開き、長州系志士を中心に交流を持ちました。
慶応元年5月26日、新選組に捕縛され、万福寺(大坂の屯所)に引き立てられました。
藤井は新選組の取調べに黙秘を貫きました。

藤井は大坂西町奉行所に引き渡されたのち獄死とも、完全黙秘に腹を立てた新選組が、納屋の四方から槍で射したとも言われています。

慶応元年閏5月12日、享年50歳。
遺体は芦原墓地に仮埋葬の後、1年後に茶臼山邦福寺(現:統国寺)に改葬されました。
新選組史跡事典より


私が藤井藍田邸跡の高台橋公園に行った時は、大阪市営地下鉄千日前線の桜川駅から、まっすぐ北に歩きました。400mほどです。
西長堀駅でも距離的にはかわらないようです。
地下鉄桜川駅から地上に出ると、真上に阪神高速道路が走り、前は千日前通という大通りで、年季の入ったマンションしかないな~という印象でした。

下町っぽいというか、行きなれないと一人では歩きにくい雰囲気でした。
その日がたまたま休日で、人出が少なかっただけかもしれません。
お天気も、どんよりとした曇り空でしたし。

公園は見つかりましたが、特に碑があるようではなかったです。
公園の中や周りをぐるっと廻ってみましたが、私は見つけられませんでした。

藤井藍田の最期ははっきりと判りませんが、
新選組がここに来て、藤井藍田を捕えた事は事実ですね。
大坂の新選組といえば、谷万太郎が真っ先に思い浮かびます。
藤井藍田捕縛のとき、谷万太郎は大坂にいたようですが、正確な記録がないそうです。

雲雷寺-加嶋屋作兵衛墓

2008年09月19日
雲雷寺(大阪府大阪市中央区中寺1丁目)に加嶋屋作兵衛の墓があります。
加嶋屋墓
加嶋屋は入替両替・大名貸しを営む大坂の豪商で、大川町に店を構えていました。
代々、作兵衛を名乗り、「加作」と呼ばれていました。
新選組と関わりがあった政達は九代目で、京都の三井家から婿養子に入りました。

文久3年6月、芹沢鴨は大内真蔵、石沢千吉という者を店にやり、遊興費であろう30両を借りています。
「いずれ命があったら返済する」という証文を残しています。

元治元年12月、近藤勇が京都守護職御用の名目で、金71,000両を用立てるように申し入れた際は、鴻池に次ぐ5,400両を負担しています。
慶応3年12月8日には、土方歳三の名で、当家を含む10家から、1家あたり400両を借り出しています。
新選組大事典より

鴻池善右衛門の墓のある顕孝庵からすぐの所に、雲雷寺があります。

加嶋屋さんを詳しく勉強していなかったので、前で写真だけを撮ってきました。
大坂はお金持ちが多かったのですね。
さすが商人の町?!
江戸は武士の町ですよね?

まだまだ豪商の名前が出てきています。
これからまた、廻ってみたいと思います。
新たな目標が出来て嬉しいです。


加嶋屋作兵衛
鴻池善右衛門
大坂 豪商

平野屋五兵衛邸跡

2008年09月18日
両替商の平野屋五兵衛邸跡(大阪府大阪市中央区今橋1-5)です。
平野屋五郎邸跡
「天五に平五 十兵衛横町」と刻まれています。

代々、五兵衛と名乗り「平五」と呼ばれていました。
幕末の頃は九代目で、新選組は借金の申し込みのたびに、主人は留守と断られていました。
そのため、文久3年4月2日に、芹沢鴨・近藤勇・新見錦・土方歳三・永倉新八・沖田総司・野口健司が主人が帰って来るまで店で待つと、居座る事にしました。
平野屋は奉行所に助けを求めましたが、乱暴を働いていない為、役人は来てくれませんでした。
しかたなく100両を渡しました。この金でダンダラ羽織をあつらえたといわれています。

永倉新八の「新撰組永倉新八」により、鴻池での出来事とされていますが、借用書の日付や羽織の目撃などにより、平野屋での出来事ではないかと思われます。

元治元年12月、近藤は大坂の豪商22家より、金71,000両を借用します。
平野屋は3,700両を負担しています。

慶応4年1月の鳥羽・伏見の戦いのあと、1月6日に大坂八軒家の京屋へ到着した新選組は、島田魁と尾関雅次郎を平野屋へ行かせ、兵糧の炊き出しを依頼しています。
新選組史跡事典より

開平小学校の前に建っています。
住所からして、ここに間違いがありませんが、
「天五に平五 十兵衛横町」という碑が、平野屋五兵衛邸跡だとはわかりませんでした。
「平五」と呼ばれていたのですね。
納得。

鴻池旧本宅跡と300mほどしか離れていません。
ただ堺筋を渡らないといけないので、気持ち遠い気分になりました。

証券会社や銀行などが多い地域ですが、幕末以前から両替商などが多かった所以なのかと、改めて感じます。

近藤勇・土方歳三・沖田総司・永倉新八や芹沢一派もここで居座ろうとしたという事は、ここに来ていたという事です!
新選組は「京都」というイメージですが、意外と大坂にも足を伸ばしていますね。
こんな近くに、新選組の足跡があるなんて思ってもいませんでした。

顕孝庵-鴻池善右衛門墓

2008年09月17日
鴻池善右衛門墓が顕孝庵(大阪府大阪市中央区中寺2丁目4-6)にあります。
鴻池墓
元は玉泉寺といいました。
廃寺となっていたのを1661年(寛文元年)鴻池家が一族の菩提寺として復興し、顕孝庵と改名しました。
大阪市中央区HP

私は外観しかみませんでしたが、境内は鴻池一族の墓で埋め尽くされているそうです。
五輪塔も70基ほどあるそうです。

大阪市営地下鉄谷町線か大阪市営地下鉄千日前線の谷町九丁目駅から250mほどです。
お寺が多い場所ですが、静かな場所でした。

鴻池本宅跡

2008年09月17日

鴻池本宅跡(大阪府大阪市中央区今橋2)は、現在大阪美術倶楽部になっています。
鴻池本宅跡3  鴻池本宅跡1
代々善右衛門を名乗っています。幕末時は10代目になります。

当時、金策に来た浪士を、近藤が派遣した土方、山南らが斬伏せました。
鴻池では名刀をそれぞれに贈ったと『両雄士伝』にあります。

文久3年7月4日に芹沢鴨、近藤勇が鴻池より200両、ほかに30両の金を受け取っています。
元治元年12月、長州征討のための資金集めを引き受けた近藤は、大坂の商人を集めて献金を要請しています。
鴻池は加嶋屋(長田)作兵衛とともに、200貫匁の最高額を引き受けています。
また慶応3年12月8日にも400両を貸し出しています。

近藤の佩刀虎徹は鴻池が贈ったとものともいわれています。
箱館称名寺に土方歳三の日を建てた大和屋友次郎は当家の手代とも伝わっています。

維新後、鴻池と改姓しています。
新選組史跡事典より


鴻池善右衛門は、江戸時代の商家である鴻池家で代々受け継がれる名前です。

遠祖は尼子氏家臣の山中鹿介(幸盛)であると言われています。
鹿介の子の幸元は、遠縁を頼って摂津・川辺郡鴻池村(現・伊丹市)に住みつき、酒造りを始めました。
清酒の製法を初めて発見しましたが、これは、叱られた腹いせに濁酒のなかに灰汁を投込み、偶然に生まれたのが最初だといわれています。
清酒の江戸送りの成功により、海運業も手がけました。

後の鴻池財閥につながる大阪・今橋の鴻池家は、幸元の八男、善右衛門(山中正成)が初代当主で、三代目の 善右衛門(山中宗利)のときに飛躍をとげ、現在の東大阪市鴻池新田の開発・経営も手がけています。
鴻池は初期の酒造・海運業・商品取引から大名貨を中心とする両替業を専業とするようになりました。

上方落語の「鴻池の犬」、「はてなの茶碗」に鴻池善右衛門の名前が登場します。
HPより

2度ほど前を通りましたが、いつも車が多く止まっていました。
いわゆる路上駐車ですが、今は取り締まりも厳しくなっているのでそれほどではないでしょう。

鴻池財閥の本宅跡ですから、もし建物が残っていたならば、驚くほど大きなお屋敷だったのではないでしょうか。
残念ながら、大阪美術倶楽部というビルになっていました。

ここに芹沢鴨や近藤勇、土方歳三が来て、お金を無心したのですね。
なんとなく、芹沢鴨は肩をいからせて、肩で風を切って堂々と悪びれることもなく、「金を出してくれないか」なんて感じで来たイメージがあります。
近藤勇や土方歳三も、ペコペコしているイメージはありませんね。
実際はどうだったのでしょう。
心の中は?

大阪府東大阪市にある鴻池新田は史跡として残っています。
鴻池新田の写真とともに、ここから新選組の借用書が出てきたという記事を目にした事があります。
鴻池新田から借用書…というのも、なんだかピンッと来ませんが、鴻池が手がけた開発地ですから、可能性がゼロとはいえませんね。
いつも電車で鴻池新田の横を通るたびに、一度は行かなくては!と思っています。

鴻池本宅跡は、大阪市営地下鉄堺筋線か京阪電鉄の北浜が近いです。
また、鴻池新田はJR片町線(学研都市線)の鴻池新田駅を降りてすぐです。

もう一つ思い出しました。
兵庫県伊丹市には、“鴻池”という地名があります。
兵庫県尼崎市出身の国会議員の鴻池氏も、鴻池善右衛門さんと繋がっているのでしょうか?


豪商鴻池―その暮らしと文化豪商鴻池―その暮らしと文化
(2003/03)
不明

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京屋跡・八軒家船着場跡

2008年09月16日
京屋跡(大阪府大阪市中央区天満橋京町1番)が大坂城近くにあります。
八軒家船着場跡1
「八軒家船着場の跡」碑

京屋2
赤い屋根のレンタカー店の右横の端のビル付近が、ナニワビルの辺りです。
上の八軒家船着場の跡碑の道を挟んだ向かい側です。

京屋1
キャッスルホテルを対岸から見ました。

大坂での新選組の常宿が大川の左岸、天満橋の下手にあった八軒家の京屋中兵衛でした。
天満橋と天神橋の間に八軒の船宿があったからといいますが、幕末には十軒ありました。
京屋は、その東端で天満橋の南詰にありました。

ここを拠点に大坂豪商から軍資金調達に奔走した記録もあります。

鳥羽・伏見の戦い後、新選組隊士近藤芳助は京屋で重傷の山崎烝を目撃し、三浦常次郎の死亡を確認しています。

現在のキャッスルホテルの西側のナニワビル付近が京屋跡です。
昆布店前に「八軒家船着場の跡」の碑があります。
新選組大事典より

京阪電鉄や大阪市営地下鉄谷町線の天満橋駅を地上に出た辺りになります。
京阪電車なら、キャッスルホテルと連絡しています。

車も人も多い場所です。
歩いて5分もすると、官庁街で、大坂東町奉行所跡です。
という事は、大坂城もすぐそこです。

京都から船で川を下ってきて、ここに着いたら便利でしょう。
お城もそこですからね。
船上以外の将軍の警護も少なくて済みますしね。

「八軒家船着場の跡」碑を写真に撮ろうとしたら、昆布店がガラス張りで中が見えます。
なかなか大変でした。
お客さんの途切れた時を見計らって、碑だけをパチリと撮りました。
人通りも多かったです。

江ノ口という地名

2008年09月16日
岡田以蔵の出身が、土佐国土佐郡江ノ口村というので、江ノ口という地名があると、どうしても「江ノ口」を写真を撮りたくなりました。
私は今のところ、江ノ口村という地名しか調べきれていません。
どの辺りに生家があったのかわかっていれば、そこに慶び勇んで行ったのですが。
わかっているのでしょうか。

江の口方面
JR高知駅(高知県高知市栄田町・北本町)より江ノ口方面を望む

江の口東公園
江ノ口東公園(高知県高知市比島7丁目)

高麗橋

2008年09月15日
今橋から南へ50mも歩かないでしょう。
次の橋が高麗橋(大阪府大阪市中央区高麗橋1丁目)です。
高麗橋
司馬遼太郎氏の「竜馬がゆく」の冒頭に近い部分(“江戸へ”の章)にこの高麗橋が出てきます。

坂本龍馬と岡田以蔵が大坂のここで出会います。
以蔵が龍馬とは知らず、お金の為に辻斬りをしようとします。
お互いがそれぞれの噂などは知っており、その後、2人で八軒家の船宿京屋治郎作に行きます。

「燃えよ剣」の次に読んだと思う「竜馬がゆく」ですので、あまり新選組にも幕末維新にも知識が無かった頃ですが、このシーンと高麗橋という地名がやけに印象的でした。

高麗橋も今橋と同じ北浜からすぐの所なので、オフィス街です。
やはり日曜日に行くと、人通りが少なくてゆっくりと歩けます。
小説とはいえ、この橋の上で龍馬と以蔵が会ったと思うと、少しワクワクしました。
辻斬りは横に置いておいても、単純に会うということは可能性はゼロではないでしょう。


竜馬がゆく〈1〉 (文春文庫)竜馬がゆく〈1〉 (文春文庫)
(1998/09)
司馬 遼太郎

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坂本龍馬記念館

2008年09月15日
坂本龍馬記念館(高知県高知市浦戸城山830番地)

坂本龍馬記念館224

やはり土佐高知といえば、坂本龍馬ですね。

そして坂本龍馬とも、土佐勤王党とも関係ありませんが、
桂浜水族館には“幻の魚 アカメ”がいるそうです。
今まで水族館に廻るだけの時間的余裕が取れないので、ご対面はしていませんが、いつかは見てみたいですね。


桂浜水族館

浦戸大橋

2008年09月15日
浦戸大橋(高知県高知市種崎・浦戸)

浦戸大橋

1,480mの橋です。
1972(昭和47)年7月に完成しました。

坂本龍馬記念館より浦戸大橋方向をみています。

今橋

2008年09月14日
今橋(大阪府大阪市中央区今橋1丁目)は、阪神高速の高架下付近に掛かっています。
今橋
内山彦次郎暗殺の翌日、大坂今橋などに斬奸状が貼り出されました。
土方歳三写真集より

大阪市営地下鉄堺筋線か京阪電鉄の北浜駅から歩くとすぐです。
北浜付近は金融街なので、日曜日に訪れたので、人がまばらでした。
史跡巡りをするには、絶好のロケーションでした。

もちろん幕末当時は、高速道路などはなく…。
ビルも高速道路もない大阪はなかなか想像しにくいです。

袂石・厳島神社

2008年09月14日
袂石(高知県高知市御畳瀬)。
袂石
この辺りにあるはずですが、どうしても袂石を見つけられず。

厳島神社
下記に出てくる厳島神社です。

震天丸碇泊場所。御畳瀬港の北端厳島神社に接して石油タンクがあります。それより北方200mの所に、小さい岬があり、その先端付近に海上に浮かんだ石が見えます。
高さ4m、周囲12m、根元周り15mの円錐形。
昔、鬼が袂に入れて持って来たという伝説の石です。また小さい石が次第に大きくなったという珍説が残っています。
この付近が、慶応3年9月24日(一説には23日)、龍馬を乗せた芸州船震天丸が、ライフル銃1,000挺を積んで入港、碇泊した場所です。

長崎でオランダのハットマン商会からライフル銃1,300挺を買ったのが9月14日。
100挺を請人の商人鋏屋与一郎、広瀬屋丈吉に抵当として預け、200挺は下関で海援隊士陸奥宗光と菅野覚兵衛に渡し、1,000挺を土佐藩に売るために帰国したのです。

交渉は長崎から同行した岡内俊太郎が、藩の参政渡辺弥久馬らと折衝しました。
同行者は中島作太郎、戸田雅楽、岡内俊太郎、広瀬屋丈吉ら。

龍馬は交渉中、中城家、吸江寺、船内に泊まったと言われていますが、交渉終了後、5年ぶりに上町の家に戻り、兄権平、姉乙女達と会ったそうです。
10月1日震天丸は浦戸を出港、これが龍馬最後の帰郷でした。
坂本龍馬大事典より

桂浜より直線で2㎞ほど北西に行った辺りに、御畳瀬(みませ)があります。
観光シーズンから外れた冬だったため、バス等がなく、タクシーで桂浜から廻ってきました。
漁師さんの家という感じの家が続いていた場所は、この辺りだったのでしょうか。
獲った魚を干している風景が続いていました。

袂石をどうしても見つけられませんでした。
もう少し北から海面をみるべきだったのでしょうか?
でも厳島神社はあったのですが…。

こういう感じの風景という事です。
龍馬が最後に見た土佐の風景という事になるのでしょうか。
お城のみえる場所の高知市と、海のみえる場所の高知市とは雰囲気が全然違っていました。
幕末当時だと、もっと顕著に違っていたのかも知れませんね。
この海が龍馬を世界に羽ばたかせようとした源なのですね。

一心寺

2008年09月13日
一心寺(大阪府大阪市逢阪2丁目8-69)に「明治戊辰伏見之役 東軍戦死者招魂碑」があります。
一心寺

「戊辰戦没会津藩士墓地」もあるのですが、碑があると知って、訪れた後に知ったため、会津藩士墓地にはまだお参りしていません。
近いうちに訪れられるといいなと思っています。

一心寺は四天王寺の西、天王寺公園の北にあります。
お寺の門はアート作品のような鉄筋で、大きな仁王様がおられます。
四天王寺(天王寺さん)と同じように、有名なお寺なのですぐに判ると思います。
“遺骨で出来た仏様”も有名なようです。
私には、夏に一心寺シアターで行われる、“怪談話”のイベントの方が気になります。

東軍戦死者招魂碑は、本堂の前、向かって左側にあります。
会津藩士墓地は本堂の真向かい、仁王門入って左側に進むとあります。


開成館 弐

2008年09月13日
開成館の遺構(高知県高知市城北1)が残っています。
開成館№1
県立小津高校に、開成館の玄関の一部と開成門が残っています。
坂本龍馬大事典より


高校内なので、お邪魔することはしませんでした。
特に、どうしても見たい!と思うものだったら、見せて頂けるか訊ねたかも知れませんが、そうでもなかったので…。

次の史跡に行く途中にあったので、前を通るのみにしました。


高知 開成館
自由民権運動

開成館 壱

2008年09月13日

開成館跡(高知県高知市九反田 九反田公園)です。
開成館1
「開成館址」と書かれた碑

開成館3
「憲政記念館」
板垣退助の功績を讃える為に造られた?

開成館2
「憲政之祖国」の碑
これも幕末以降の板垣退助関係でしょうか?
自由民権運動関係?

土佐藩主山内容堂は、参政吉田東洋の遺策を容れ、東洋の遠縁にあたる後藤象二郎に命じ、慶応2年2月に開成館を開設し、経営に当たらせました。
開成の名は易経に記された
「開物成務」-人知を開発し事業を成しとげる- を由来とします。

開国主義をとった土佐藩が、富国強兵を目指し、海外との貿易や新技術の導入をはかり、人材開発をすすめる拠点とするのが目的でした。
しかし民業を圧迫する官業のそしりは免れず、また開成館の建築や運営に巨額の資金や労力を必要とし「阿房館」などとも言われました。

開成館は大坂と長崎に出張所を設け、長崎出張所を土佐商会と名づけ、土佐の樟脳を輸出し、外国から艦船や武器を買い付けました。

龍馬の亀山社中も同じような仕事内容でしたが、資金的に経営が苦しかったようです。
一方、藩が後ろ盾となっている土佐商会は資金的不安はありませんでした。

後藤象二郎は龍馬を評価し、龍馬も土佐藩の財力や後藤の地位と政治力を利用しようと考えました。
後藤と亀山社中は、土佐勤王党による吉田東洋の暗殺、それに対する後藤の土佐勤王党への断罪などで、激しく反目していましたが、利害の一致と、改革の志によって開成館を軸に歩みよりました。
坂本龍馬大事典より

九反田公園を訪れたのは、高知から帰る3日目でした。
3日目にやっと快晴!
2日目に晴れて欲しかったです。
昨日は大雨で、ホテルに戻った時には、下着までずぶ濡れで、リュックの中も水が溜まっていました。

この九反田公園には行く予定はなかったのです。
桂浜の辺りを廻り、帰路に着くため駅に向かいました。
駅では少し時間がありました。地図を眺めていると、車だと時間内に往復できそうな場所に、開成館跡の九反田公園がありました。
そこで私は、駅で待っているという母を残して、タクシーに飛び乗り九反田公園まで、走って貰いました。

公園に着いたら、急いで写真を撮りました。
もう周りをゆっくと見ている余裕もありません。
公園にあるものをとりあえず写しておきました。 詳細は帰宅後調べよう!
再びタクシーに飛び乗り、駅まで戻りました。

もちろん電車の時間には間に合いました。


土佐の自由民権運動入門 〔高知新聞ブックレットNO.1〕土佐の自由民権運動入門 〔高知新聞ブックレットNO.1〕
(2007/01/30)
公文 豪

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大善寺

2008年09月12日
大善寺(大阪府大阪市天王寺区生玉寺町)に行っていますが、新選組との関わりがわかりません。
だいぜんじ
大宝寺の向かいにあります。

「(新選組関係の資料に)名前が出ています。」
という記述しか(といっても、私自身が書いたのですが)見つけられませんでした。
私はどこでそれを読んで、書いたのでしょう?

たぶん、おそらく、大宝寺が宿舎となった時に、大善寺も同様に宿舎になっていたという記述だったよような…。
書いてある書籍を探しあてたら、また紹介したいと思います。

高知城

2008年09月12日
高知城(高知県高知市丸ノ内1丁目)。
高知は土佐二十四万四千石、山内氏の旧城下町です。

高知城1   高知城2

高知城です。
雨でやはり霞んでいます。

思っていたより小さかったです。
土佐藩・山内容堂という言葉に、強い印象を持っていたので、お城も巨大というイメージがありました。

よく目にするのが大阪城で、ローカルニュースでは姫路城もよく目にするので、これらのお城と同じ大きさをイメージしていました。

このお城に坂本龍馬は登城する事はなかったのですね。
下から見上げるだけ…。
でも龍馬は見上げることさえしなかったかもしれません。
志を強くするまでの子供の頃は、お城をみて何かを思ったのかも知れませんが、
大人になって、“でっかいこと”をしようと思った瞬間から、そんなちっちゃな事は眼中に入らなくて、大海原の先を見ていたのでしょう。


よみがえる日本の城 (13) (歴史群像シリーズ)よみがえる日本の城 (13) (歴史群像シリーズ)
(2005/02)
不明

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