岡田以蔵墓

2008年08月31日

岡田以蔵の墓(高知県高知市薊野・真宗寺山)に行きたかったのです。
岡田以蔵墓1  岡田以蔵墓2
雨降りだったのと、墓石同士が近すぎて下がれない等、素人には難しい条件でした。(と、言い訳)
岡田以蔵墓3
この中が墓地です。

岡田以蔵宜振。土佐国土佐郡江ノ口村出身。
武市瑞山に剣術を、徳弘孝蔵に砲術を学びました。安政3年には江戸に出て、桃井春蔵に入門して剣術を学びました。
この時築地の土佐藩中屋敷では龍馬と同宿でした。
文久元年に結成された土佐勤王党に加盟しました。翌年上京すると、過激な勤王運動に身を投じ、天誅の名の下に暗殺をかさね、「人斬り以蔵」と恐れられました。

文久3年には、龍馬らと交流するようになり、京都では幕臣勝海舟を襲った刺客を逆に斬っています。
その後、脱藩して京坂に潜伏しましたが、元治元年6月に捕縛、投獄されました。
拷問受け、自白した以蔵は、翌慶応元年閏5月11日に斬首されました。
首は土佐の雁切河原に晒されました。享年28歳。
坂本龍馬大事典より

「人斬り」と呼ばれた、4人の剣客に興味がありました。
特に岡田以蔵は、反町隆史氏が演じた事で、興味倍増でした。
もちろんそれ以前から、一番興味があったのは岡田以蔵でした。
土佐藩という事(坂本龍馬関係)も大いに影響していましたし、どうもシュッとしたイメージがありました。

さあ、以蔵のお墓に行くぞ!という、高知2日目は大雨でした。

わかっているのは、“薊野”“真宗寺山”という事だけでした。
“薊野東”とかかれた書籍もありましたが、地図を見ても墓地がある記載は見られませんでした。
とりあえず、JRに薊野駅があるので、その辺りに行って見ました。

行ってみると、(当時は)あまり家も密集していない、静かな場所でした。
大雨だったので余計に、人が歩いていなかったのかもしれません。
だれにも会いませんでした。
それらし所に行って見ると、掛川神社だったり、何もなかったり…。
それでも線路より北側のようだと思い、何度も行ったり来たり、歩き回りました。

30~40分もウロウロしたでしょうか。
もしかしたらこの上?
という山というか丘のような場所を見つけました。
本で見た以蔵の墓は竹藪の中のようでしたが、竹の生えた場所がありました。
恐る恐る上ってみると、まさにそこは墓地でした。
きっとこの中にある!と思い、必死に歩きました。

丘全体が墓地でした。
丘を整備して墓地にしたというより、丘の中の空いている場所にお墓を建てたという感じの場所なので、道もないような感じです。
あちこちに、いろいろな家のお墓があります。
家ごとにお墓は固まっていますが、なかなか見つけられませんでした。

「岡田家」のお墓を見つけたときは凄く嬉しかったです。
そうすると、すぐに以蔵のお墓は見つけられました。
ここに以蔵が眠っている…はず…です。

雨で薄暗い中、竹藪の中でさらに暗かったですが、不思議と怖いという感情はありませんでした。
嬉しかったです。
当時「人斬り」とよばれた人達も、時代が違っていたら、正反対の生涯を送っていたかも知れません。
「竜馬におまかせ!」が放送され、反町氏が演じられたので、他にもどなたか来られているかと思いましたが、訪れる人はほとんどいないような雰囲気でした。
「私だけ」というちょっとした、優越感を感じてしまいました。

訪れる方は、あざみの保育所を探してください。
その前の丘が墓所です。
ちょうど保育所の前に、上り口があります。


村島健一氏の幕末酒徒列伝(旺文社文庫)に、以蔵の容姿として、

醜男。
縮れ毛、生え際が汚い、頬は出っ張り、目は引っ込んでいる。
眸には濁りがあった。

とありますが、本当にそんな容姿だったのでしょうか?
これ以外に以蔵の容姿について、読んだことがありません。
もちろん写真や肖像画なんてないですよね?




人斬り以蔵 (新潮文庫)人斬り以蔵 (新潮文庫)
(1969/12)
司馬 遼太郎

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河田小龍墓

2008年08月30日
河田小龍の墓等寺院墓地(京都市北区等持院北町)にあります。
河田小龍墓1  河田小龍墓2
等持院西北の山麓、立命館大学の北にある旧墓地内にあります。
写真でみる維新の京都より

「立命館大学の北側」これは大きなヒントです。
大学ならすぐにわかるので、お墓もすぐに判るだろうと思っていました。
しかし、北側にそれらしい墓地はありません。

なんと、大学の中を通らないといけなかったのです。
大学構内に入っていいの?
と思いつつも入ってしまいました。
悪い事をしに行くのではないし、ちゃんと理由も言えるし…。
共学の大学なら、いろんな人がいるので、誰が学生かわかりませんね。

大学の一番奥に、墓地がありました。
広い墓地内に、すくない数の墓石が建っていました。
目立つ場所に、河田家のお墓が建っていました。
向かって左端が河田小龍のお墓でした。

人口密度ならぬ、墓石密度が低く、木に覆われているのでもないので、日当たりもよく、風通しもいいので墓地という感じが低かったです。
この地で眠るには、見通しがよすぎて、どこからでも見られて眠りにくいのでは?とさえ思うほどでした。
もしかしたら、そのほうが地下で眠る人には特等席なのでしょうか?

河田小龍宅跡 (はりまや町)

2008年08月29日
河田小龍宅跡(高知県高知市南はりまや町2丁目2-1)です。
河田小龍邸跡1 
旧浦戸町はりまや町交差点から東へ200m、土佐橋の西端南側。
現在、「花嫁衣裳の寿」「四国トーア」の位置で、南街公民館南街消防署の前です。
碑も何もありません。
この辺りは裏戸町坊片町といわれ、運河に沿った堤防の片側町で、その岸辺に北向きの水天宮が鎮座していました。今、運河を埋め立てた公園の中に有馬神社の祠がありますが、それが現在の水天宮で、小龍は、この下側の家・土生玉助、竹研の長男に生まれました。

玉助は「水司」という職柄で、浦戸湾一帯の水運や船頭を司る役人でした。

小龍は13歳で島本蘭渓に絵を学び、のち京の狩野永岳に学びました。
江戸や長崎で学びました。
画技、学識共に秀でていた為、多くの弟子が出入りしました。近藤長次郎、長岡謙吉、新宮馬之助らが有名です。
中浜万次郎(ジョン万次郎)の聞き取りを『漂巽紀略』に残しました。

この家は安政の大地震で火災にあいました。
転宅後20歳の龍馬に操船技術の修得や洋船購入の必要性を説きました。
坂本龍馬大事典より


路面電車(土佐電鉄)の走る大通りより、一本南側の道沿いにありました。
お店ですぐにわかりました。
本当に碑も何もありません。

ここが火災にあった為に、仮住まいをして、坂本龍馬に出会ったというのですから、何がきっかけで歴史を変える事になるのかわかりません。
もしかしたら、「今」のこの行動が…。それはありえないですね(笑)

河田小龍寓居跡周辺 (築屋敷)

2008年08月28日
築屋敷の河田小龍の寓居跡(高知県高知市上町3丁目)付近です。
河田小龍邸跡2 
安政元年11月5日の地震による火災で自宅が全焼しました。
そのため築屋敷3丁目で仮住まいをしていました。

近くの本丁筋1丁目に住む龍馬が小龍のもとを訪れ、海外事情を聞いて啓発されたのはこの時であったといいます。
小龍の門人には、近藤長次郎、新宮馬之助、長岡謙吉らがいますが、のちに龍馬の同志となり、神戸の勝海舟塾や亀山社中で活躍しました。

河田小龍は土佐藩絵師です。
嘉永5年にアメリカから土佐に帰国した中浜万次郎(ジョン万次郎)から、漂流体験を聞き『漂巽紀略』を著しています。
また、安政元年には薩摩の反射炉視察の為、派遣されて図引役をつとめています。
坂本龍馬大事典より

築屋敷の寓居跡というのは、上町3丁目あたりだそうです。
「写真集 坂本龍馬の生涯」の写真を参考に探しましたが、同じ場所は見つけられませんでした。
なので、「上町3丁目」に入る付近で写真を撮ってきました。

坂本龍馬、近藤長次郎、中浜万次郎の名前に惹かれて河田小龍の史跡も回りました。
そういえば、ジョン万次郎は歴史で名前だけは習ったかな…。
『漂巽紀略』という文字は教科書に出ていました?
このあたりって、3学期も終わりかけていたりして、超特急で過ぎていくので、教科書を読む程度だったりして覚えていませんね。


龍馬を創った男 河田小龍龍馬を創った男 河田小龍
(1993/12)
桑原 恭子

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池内蔵太生誕之地

2008年08月27日
私が訪れた当時は、S氏、M氏、W氏家の位置に、池内蔵太生誕地(高知県高知市西町20番地から21番地付近)があったそうです。
(参考にした書籍には名前が載っていましたが、ここでは伏せておきます。)
池蔵太誕生地跡1   池蔵太誕生地跡2
江ノ口川を渡す車瀬橋を北へ渡り西町へ。
その東角の一角辺りといわれています。

藩士才右衛門の子に生まれました。
この付近は下級武士が住む屋敷町でした。土佐勤王党の結成に尽力した同志達が多く、内蔵太もその一人でした。天誅組の大和挙兵にも参加し、長州へ逃れ、慶応2年に亀山社中に入りました。
龍馬とは古くからの友人でした。
慶応2年5月2日ワイルウェフ号に乗船して、長崎から鹿児島へ向かう途中、嵐にあい、五島塩屋崎で遭難死しました。

この西町の家には、母と妻が残されました。
坂本龍馬大事典より


本当に住宅街の中でした。
お城からもそう離れてはいないと思うのですが、今では住宅街でした。
確かに下級武士が住む屋敷町程度には、お城からは距離があるとは思いますが、武士が住むのですから、そう離れてはいません。

橋を渡ると、記述した番地付近になります。
特に碑があるわけでもなく、普通に家が建ち並んでいます。
ウロウロすると、怪しい人と思われるかもしれません。
気をつけたほうがいいかも。

池内蔵太の死を悼んで龍馬が建てた慰霊碑が中通島(長崎県南松浦郡有川町江ノ浜郷)にあるそうです。


海援隊烈風録 (角川文庫)海援隊烈風録 (角川文庫)
(2002/10)
二宮 隆雄

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河野万寿弥誕生之地

2008年08月26日
河野万寿弥誕生之地(高知県高知市上町2丁目1)は第4小学校前にあります。
河野誕生地跡
河野万寿弥は、土佐国高知城下北奉公人町藩士河野嘉三郎長男として生まれました。
学問を江戸の安井息軒に学びました。

文久元年、江戸に居た頃、武市半平太も在府しており、土佐勤王党結成の動きが起こりすぐに加盟しました。
文久2年、五十人組に参加し、江戸に赴き山内容堂の護衛にあたりました。

文久2年3月25日に、坂本龍馬と沢村惣之丞が脱藩する時、土佐郡朝倉村まで二人を見送ったと伝えられています。
文久3年、勤王党の獄では、逮捕され永牢処分を受けました。

明治維新後、官界に入り、明治7年佐賀の乱首領江藤新平を裁きました。
明治15年、大隈重信らと改進党結成に参加、副総理となりました。のち農商大臣、司法大臣。

墓は東京都港区南青山2丁目の青山霊園にあります。享年52歳。
坂本龍馬大事典より

この史跡も学校の前にあります。
学校前やお店の前だと、地図にもしっかり載っていて迷う事は少ないです。

碑はありますが、学校になっているので、当時を偲ばせるものはありませんでした。
河野万寿弥誕生之地碑と、嶽洋社址碑、婦人参政権碑など3つの碑が並んで建てられていました。

坂本龍馬の脱藩の見送りをしたという事で、気になっていました。
確かに、坂本龍馬誕生之地からすぐそこです。
小さい頃からの知り合い?幼馴染?
脱藩の見送りというのは、どういう気持ちになるのでしょう。

武市瑞山殉節之地

2008年08月25日
武市瑞山先生殉節之地(高知県高知市帯屋町2丁目5-18)です。
武市半平太殉難の地跡1  武市半平太殉難の地跡2
四国銀行帯屋町支店の東角にあります。
元南会所があった場所で、慶応元年5月11日に武市瑞山らが、切腹した場所です。

前藩主山内容堂は、公武合体論の立場から、土佐勤王党の弾圧しました。
元治元年9月瑞山は投獄され、37歳で没しました。

大正8年9月建立した碑は戦災で無くなり、位置も少し移動して現在の場所に再建されました。
坂本龍馬大事典より


四国銀行の前にあります。
帯屋町は繁華街になるのかな?
はりまや町の方が繁華街でしょうか?
すぐに判りました。

銀行のシャッターが下りていたので、写真を撮りました。
銀行が営業中だと、碑のアップぐらいしか…。
銀行強盗の下見だと間違えられても困ります。
でも当時は、今ほど世間の人も神経質になっていなかったかもしれませんね。

元治元年に切腹しているので、元治から慶応と、維新の中盤以降には関わっていないというのが、あまりピンッと来ません。
土佐勤王党や人斬り以蔵が強烈な印象を与えているからでしょうか。


土佐・人物ものがたり (がいど・こうち)土佐・人物ものがたり (がいど・こうち)
(1986/03)
窪田 善太郎塩田 正年

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吉田東洋記念之地

2008年08月24日
吉田東洋先生記念之地(高知県高知市帯屋町2-1 追手前小学校東南角塀の外の路上・ベスト電器高知店の横)というのは、吉田東洋暗殺の地です。
吉田東洋暗殺地跡  吉田東洋記念之地2222
吉田東洋が、土佐勤王党の那須信吾・安岡嘉助・大石団蔵の三人に文久2年4月8日、暗殺された場所です。
この日は城内二の丸で、藩主豊範の為に「日本外史」「信長記」本能寺の変を講義していました。
最後の講義の日で、酒などが出されて亥の刻(午後10時頃)に、帰路に着きました。
雨が降っていたそうです。

吉田東洋は、一藩勤王を目ざす武市半平太に対して、書生論だと、軽々しく発言して人々を煽らないように、ただし役所には申し出ることは遠慮しなくてよいと説論していたといわれています。
しかし切迫した時勢から、武市は東洋を暗殺し、一挙に推し進めようとしました。
坂本龍馬大事典より


坂本龍馬というより、岡田以蔵に嵌っていた頃でした(テレビドラマの影響ですが)。
岡田以蔵といえば、武市半平太。武市半平太といえば土佐勤王党。
ということで、土佐勤王党に関係する史跡にも行きたかったのです。

もちろん 新選組が一番好き! ですよ。

板垣退助誕生之地から、まっすぐ北へ300m行くとあります。
小学校の南東角、ベスト電器を探して行きました。
学校も電器店も大きな目標物になるので、ここもすぐに発見できました。

電器店の横という事で、碑の前には自転車や単車がたくさん止めてありました。
写真を撮るには少し大変。
どこから撮っても、自転車や単車が写り込みます。

今はこんなに賑やかなのに、当時は暗殺が行われるほど静かな場所だったのでしょうね。

後藤象二郎誕生地、板垣退助誕生地、吉田東洋記念之地と回って、同じような雰囲気の場所に、同じような碑が同じように立てられているなと、思いました。
たぶん、教育委員会が碑を建てているので、碑の形や建て方が同じパターンに統一されているのだと思います。なので、雰囲気が似てしまうのでしょうね。


維新土佐勤王史維新土佐勤王史
(2006/01)
瑞山会

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板垣退助誕生之地

2008年08月23日

今日は土佐史跡巡りでお願いします。
あ~、大阪の新選組に行きたかったのに。

後藤象二郎誕生之地から、北に200m行った所に、板垣退助誕生之地(高野寺:高知県高知市本町2丁目3)の碑があります。
板垣退助誕生地  板垣退助誕生地2221
乾退助。のちに板垣退助。
土佐国高知城下中島町に300石馬廻り乾正成長男として生まれました。
元治元年9月に就縛した武市半平太ら土佐勤王党の取調べをした中に、後藤象二郎、乾退助もいました。
元治2年1月に江戸に出て、騎馬術と蘭式兵学を学びました。

慶応3年、京都に来た時には武力討幕論でした。中岡慎太郎を通して、坂本龍馬とも交わっていました。
5月17日には薩摩藩の西郷隆盛や小松帯刀、吉井幸輔と会談して武力討幕同盟の密約を交わしました。しかし、6月22日、西郷らが後藤と結んだ薩土同盟は大政奉還路線です。薩摩は武力討幕と大政奉還の二股をかけていました。
6月に帰国後も、武力討幕を貫こうとして、8月に罷免されています。

慶応4年1月、上京し東山道先鋒総督府参謀を命じられた時に板垣と改姓しました。

明治4年7月、廃藩置県のあと明治政府参議になりましたが、明治6年10月、征韓論に敗れました。
明治11年、高知に立志社を創立して自由民権運動の先頭に立ちました。
明治14年、自由党を結成し、その総理となりました。
明治31年、進歩党と合併して憲政党をつくり、隈板内閣(大隈重信首相、板垣内相)を成立させましたが、4ヶ月で崩壊し政界から引退しました。

「板垣死すとも自由は死せず」

東京都品川区北品川高源院墓地に埋葬されました。高知市一宮にもお墓があります。
享年83歳
坂本龍馬大事典より

板垣退助誕生之地は、地図で高野寺を見つけたら“そこ”なので、判りやすいのではないでしょうか。
お寺の前に碑があります。

板垣退助といえば、“自由民権運動”と“板垣死すとも自由は死せず”が有名です。
学校でも習ったと思います。
が、“板垣死すとも…”は、板垣本人が口にしたのではなく、板垣の秘書が事件現場で叫んだ言葉や小室信介というジャーナリストの演題など、いろいろな説があるようですね。
私も随分前に聞いた事がありました。
これも謎のままでしょうね。


板垣退助―三日月に祈る自由民権の志士 (時代を動かした人々 維新篇)板垣退助―三日月に祈る自由民権の志士 (時代を動かした人々 維新篇)
(2003/10)
古川 薫岡田 嘉夫

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天の岩戸(恵利原の水穴)

2008年08月22日
天の岩戸といわれる場所は、日本全国にあるようです。
恵利原の水穴(三重県志摩郡磯部町恵利原)もその一つのようです。
天岩戸219
天照大神が須佐之男尊の悪事を戒める為、岩戸の中に隠れたという有名な伝説にちなんだ洞穴といわれています。
逢坂山中腹の洞穴から湧き出ており、志摩用水の源泉となっています。

洞穴より湧き出る清水は高さ3m程の禊滝(みそぎたき)と呼ばれる滝になっており、この付近一帯の主要な生活水となる神路ダムへ流れ込んでいきます。
この神路川は昔、”裏の五十鈴川”と呼ばれていました。
伊勢神宮とのゆかり深い地域です。
参考:恵利原の水穴HP&説明板より

県道を走っていると、案内標識がありました。
県道から外れて、細い道を1㎞ほど入って行きます。
本当に細い道です。
車1台がやっと、それもちょっと「アッ」と思った時には、側面を擦るか谷底に落ちるか…。
ここで対向車に出合ったらどうしたらいいのでしょうか?
車の免許が無い私にはさっぱりわかりません。

それでも車はOK。恵利原の水穴近くには駐車場がありますから。
道の最後の部分に駐車場があり、そこからは歩きます。
すこし距離がありますが、杉木立の中を歩くので雰囲気を楽しみながら歩くと苦になりません。

俗界とかけ離れたような雰囲気の中を歩くと、水穴がありました。
穴はそれほど大きくなく、近くから覗き込んで見ましたが、特に何も見えませんでした。
天照大神が隠れたというには、少し小さく思いました。
が、天照様は神様ですから、我々人間と同じと考えると失礼ですね。

荘厳な雰囲気が漂う場所でした。

適塾

2008年08月21日
適塾(大阪府大阪市中央区北浜3丁目3番地8号)といえば、緒方洪庵を思い浮かべるかもしれません。
しかし、橋本左内、大村益次郎、福沢諭吉、大鳥圭介、高松凌雲らも学んでいました。
適塾1112 
大阪大学が管理しているようですね。
私が訪れたのは、少し前ですが、大人220円で参観できました。
当時の刀傷が残っているのを見てワクワクしました。
これは斬りあいをしたのではなく、ふざけてつけたようです。

橋本左内、大村益次郎、福沢諭吉、大鳥圭介、高松凌雲と名前を並べてみても、同じ塾で学んでも幕末の生き方は十人十色ですね。
ただ、自分の信念は貫いたとはいえるかもしれません。


適塾の維新―福沢諭吉別伝 (1983年)適塾の維新―福沢諭吉別伝 (1983年)
(1983/11)
広瀬 仁紀

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肥前鍋島藩邸跡

2008年08月20日
蜆橋からすぐ近くに、肥前鍋島藩邸跡(大阪府大阪市北区西天満2丁目)があります。
佐賀藩蔵屋敷跡
佐賀藩(鍋島家)の蔵屋敷跡です。
発掘調査により、堂島川から船を引き込む船入りの水門や石垣も発見されています。

堂島ビルの南側を東に入って行くと、大阪裁判所合同庁舎の大きなビルが見えます。
そこが蔵屋敷です。
確かに目の前は堂島川で、船で物資を運ぶには納得です。

大阪のほぼ一等地に藩邸(蔵屋敷)があったのですね。
堂島川を渡ったら、大阪市役所に日銀大阪支店、中の島公会堂などオフィスの中心街です。
今は工事中かも知れませんが、バラ園もあるので、寄ってみてもいいですよ。

2008年秋には、京阪電車が延伸されて、中之島まで開通します。
また、地下鉄も通っています。

蜆橋跡

2008年08月19日

土佐史跡巡りはまだ途中ですが、新選組が恋しくなってきました。
なので少し新選組巡りをしてから、土佐に戻りたいと思います。

蜆橋跡(大阪府大阪市北区曽根崎新地1丁目)のビルにあります。
蜆橋2  蜆橋1
新選組と大坂力士との乱闘の舞台です。
蜆川が堂島川に合流する地点に掛かっていた橋です。
しかし川が埋め立てられたため、現存はしません。
現在の堂島ビル脇の路地に蜆川が流れていたと思われ、ビルの斜め前方が蜆橋のあった場所ではないかと推測されます。

この付近は肥前鍋島藩の藩邸(現:裁判所合同庁舎)があったところから、鍋島河岸と呼ばれていました。

大坂力士との乱闘事件とは、
文久3年6月3日の事件です。大坂で、天下浪士と偽名で人を斬る事件があり、新選組隊士芹沢鴨ら10人ほどが大坂に出張りました。
犯人は捕まりましたが、翌日小船で川下りをしていた時、病人が生じました。
会所で手当てをしていると、相撲取り30人ほどが樫棒を持って乱入して来ました。

近藤はこの事件を、京都守護職と大坂東町奉行所へ報告しました。
新選組は無傷でしたが、相撲取りは側は14名が手傷を負い、関取熊川熊次郎が死に、ほかに3名が重体と報告しています。
新選組大事典より

JR大阪駅から御堂筋を南下します。750mほどでしょうか。
梅田新道交差点も越えて、堂島川の100mほど手前の滋賀銀行を目印に歩くといいと思います。
そのビルの南角に「しじみはし」と刻まれています。
橋の形跡はいっさいありません。ビルの定礎のようにはめ込まれています。

この路地の一本北側の通りあたりが、いわゆる「新地(北新地)」といわれる付近になります。多分…。
高級飲み屋街には、無縁ですから、大まかな場所でしか把握してません。

堂島ビルというのは、御堂筋を渡った斜め前にあります。
なので、堂島ビルとこの「しじみはし」ビルを結んだ感じで川が流れていたのかもしれませんね。

芹沢鴨が大阪のこんな身近に来ていたなんて…。
というのが、蜆橋の場所を知った時の感想でした。
御堂筋は大きな通りですが、そこから東西に入る道は細いです。
これだけ細いと、力士30人が乱闘するには不利なような気もします。


新選組烈士伝 (角川文庫)新選組烈士伝 (角川文庫)
(2003/10)
津本 陽三好 徹

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後藤象二郎誕生の地

2008年08月18日
山内神社から東へ500mに、後藤象二郎誕生の地(高知県高知市与力町5-18)があります。
後藤象二郎誕生地跡  後藤象二郎生家2220
現在、日本キリスト教団土佐教会と聖泉幼稚園のある場所です。
天神橋から30m坂を下り、土佐電鉄バス停「天神橋北詰前」の東側になります。

後藤象二郎は、少年の頃は保弥太といわれ、父は藩士助右衛門です。板垣退助とは竹馬の友でした。
義叔父吉田東洋に学び、のち江戸で大鳥圭介に英学を学びました。
武市半平太ら土佐勤王党の獄を断じましたが、のち藩命を受けて長崎に行き、龍馬と大政奉還を実現しました。
坂本龍馬大事典より

山内神社から近い場所にありました。
幼稚園の門の前に、碑が建っていました。

京都の後藤象二郎寓居跡は訪れていましたし、写真が残っているのを何度も見ていたので、「あ~、あの人が生まれたのがここかぁ~。」と思いました。
幼稚園の前でしたが、園児は誰もいてなくて静かでした。

教会と幕末史跡、なんだか不思議な取り合わせです。
後藤象二郎もキリスト教会が建つとは思っていなかったでしょうね。
そういえば、後藤象二郎は大阪府知事をしています。
今、大阪では「大阪維新」といって改革をしようとしています。
明治維新で活躍した人が、先輩知事としていたのですね。

私は大阪府民ではありませんが、明治維新を経験した庶民もこんな不安な気持ちだったのでしょうか?
弱者切捨てや、強引な政策というのも、ゼロではないですからね。
それで万人が幸せになれるのなら、間違いではないのかもしれません。


大政奉還 遠い崖6 アーネスト・サトウ日記抄 (朝日文庫 は 29-6) (朝日文庫 は 29-6)大政奉還 遠い崖6 アーネスト・サトウ日記抄 (朝日文庫 は 29-6) (朝日文庫 は 29-6)
(2007/12/07)
萩原 延壽

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山内神社

2008年08月17日
山内家下屋敷長屋の横に山内神社(高知県高知市鷹匠町2-4-65)があります。
山内神社亀石121
明治4年、最後の藩主(十六代)山内豊範公が、
三代忠豊公から十四代豊惇公までを、当地に社殿を造って祀りました。

昭和7年、歴代藩主を藤並神社に遷座して、
十五代藩主山内豊信公(容堂公)と豊範公を祀り、山内神社としました。

昭和21年、藤並神社・山内神社が戦火により焼失したため、昭和45年、社殿を再建し、両社を併せ、現在に至る。

参道には亀石と呼ばれる石があります。
参考:山内神社関連のHP

初めて高知に来た!と、ワクワクしていたのですが、山内神社についてはあまり印象に残っていないのです。
山内神社に行った事と、亀石の写真を撮った事を覚えているぐらいです。
新しく再建された神社なので、あまり古さ(歴史)を感じなかったからかもしれません。

筆山・筆山墓地

2008年08月16日
鏡川を渡って、筆山墓地(高知県高知市筆山町)に行く時間がありませんでした。
やはり、2泊3日ですべてを回る事は不可能ですね。

山内神社から、鏡川の向こうに見える筆山を眺めるに留めました。
筆山

筆山墓地には、
吉田東洋のお墓があるそうです。
他に、土佐勤王党の岡本恒之助・尾崎幸之進・島村左伝次・田所荘之助・谷嚋太郎・三原兎弥太・山本三治のお墓もあるようです。

山内神社から見ると、筆山はすぐ目の前なのですが、橋まで行ってグルッと回ると、思った以上に時間が掛かりそうです。
新幹線と特急「南風」に乗って高知に着いたのがお昼過ぎだったので、1日はそれほど時間がありませんでした。

遠くから見るかぎり、筆山はそれほど高い山ではありませんでした。
(地図には118mとありました)

旧山内家下屋敷長屋

2008年08月15日
高知市に初めて行った時、一番最初に訪れたのが重要文化財 旧山内家下屋敷長屋(高知県高知市鷹匠町1丁目3番35号)でした。
山内下屋敷跡1  山内下屋敷跡2
この長屋の建つ敷地は、幕末に家臣7人の屋敷地を召し上げて藩主山内容堂の下屋敷が設けられたところです。長屋については記録はないそうです。が、その時建てられたものと思われます。
屋敷は明治維新後、山内家の私邸となり、戦後売却され、現在大部分は三翠園の所有となっています。

長屋は旧屋敷地の西端にあり道路路に面し、桁行17間半、梁間2間半で南北に長くなっています。
2階建て、入母屋造、東面に庇をつけ屋根は桟瓦葺です。
高知市旧山内家下屋敷長屋展示館パンフレットより

高知城からすぐの場所にあります。
山内家の下屋敷=お殿様の下屋敷ですから、お城から遠いはずはないですね。
三翠園ホテルの真横になります。

長屋に沿って、坂道がありました。
その坂道が何故か印象に残っています。
長屋自体は古い感じがプンプンとしていて、史跡巡りに来た!という感慨がありました。
(工事をしていたのが少し残念でした。)

ただ小説や漫画から、山内容堂は非情な人の印象があるのですが…。
実像はどうだったのでしょうか?


鯨海酔侯 山内容堂 (中公文庫)鯨海酔侯 山内容堂 (中公文庫)
(2000/10)
吉村 淑甫

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神道無念流 練兵館跡

2008年08月14日
斉藤弥九郎の創設した神道無念流剣術道場の練兵館跡(東京都千代田区九段北3)です。
北辰一刀流玄武館、鏡新明智流士学館とともに「江戸三大道場」と総称されました。
(しかしこの通称は後世の造語のようです。)
練兵館跡2 
神田俎橋にあったが火災で焼失し、九段坂を800mほど西上した三番町に道場を移しました。

甲良屋敷の試衛館に他流試合の申し出があると、錬兵館に助っ人を要請したそうです。
練兵館の門人らが役目を果たすと、近藤勇は礼として、酒一升と沢庵漬け一樽を贈呈したそうです。
錬兵館と試衛館の間は2㎞ほどあります。
距離的には無理な話ではありませんが、このエピソードも真偽は不明です。

その後、明治2年に至近に新設された九段招魂社の社域拡張にともない、練兵館は牛込見附に移転しました。斉藤弥九郎は維新後、新政府に出仕したのち、明治4年に没しました。
新選組史跡事典より

この碑は、靖国神社境内にあります。

試衛館に他流試合があれば、練兵館に助っ人を頼むというのは、小説でもよく読みます。
練兵館からみると、"試衛館ごとき"だと思うのですが、わざわざ助っ人に来てくれたというも、どこか前から引っかかっていました。
もしかしたら、練兵館を通してではなくて、"直の営業""バイト"として、誰かが行っていたのかも…。
これは私の現在の感覚での考えであって、当時はそんな事は考えもつかないことだったかもしれません。

練兵館跡の碑がある場所は、何もない木が多く立っている場所でした。
靖国神社の境内(?)にあるというのが、とても驚きでした。
靖国神社といえば、首相の参拝などが問題になっているのをニュースでみていたので、もっと特別な場所、もっと特別な雰囲気のある場所、警備も厳しくてピリピリしている場所だと思っていました。
普段は特別どうこうといった場所ではないようですね。

練兵館跡に足を止める人はほとんどいませんでした。
高杉晋作、桂小五郎(塾頭)、品川弥二郎らが門人ですから、もっと訪れる人も多いと思っていました。


剣狼―幕末を駆けた七人の兵法者 (新潮文庫 し 5-91)剣狼―幕末を駆けた七人の兵法者 (新潮文庫 し 5-91)
(2007/05)
菊池 寛

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北辰一刀流 玄武館跡

2008年08月13日
北辰一刀流剣術・玄武館道場跡(東京都千代田区神田東松下町26、29)は千葉周作によって創設されました。
玄武館1  玄武館2
千葉周作は安政3年に死没しましたが、翌4年、隣家にあった東条一堂の漢学塾、瑤池塾の土地を譲り受け拡張し、後継の三男、千葉道三郎に引き継がれました。

永倉新八は山南敬助と藤堂平助を、北辰一刀流の千葉周作の門人として記録しています。
しかし永倉の記録にしかないので、実際のところは不明です。
山南は小野派一刀流大久保九郎兵衛道場の門人、藤堂は伊東甲子太郎の寄り弟子という記録もあります。

千葉周作の生涯門下生総数は、5,000~6,000名といい、山南敬助、藤堂平助のほかに、清河八郎、坂本龍馬らもいてます。

現在、東洋高等学校の玄関前に玄武館と瑤池塾の顕彰碑があります。しかし千葉周作存命中の道場は、顕彰碑から少し西に進んだ地点になります。
新選組史跡事典より

北辰一刀流が一番耳にする事が多いでしょうか?
新選組でも、藤堂平助や山南敬助、伊東甲子太郎で耳にしています。
またなんといっても、坂本龍馬の名で北辰一刀流はさらに知名度アップです。

都営新宿線の岩本町駅を上るとすぐです。
当時は門を入ってすぐの所に碑があり、門から数歩入って写真を撮るには支障はありませんでした。
現在はどうでしょうか?
不審者などの警備が強化されるようになっているので、もしかしたら門扉が閉まっているかもしれません。

千代田区神田…という地名から、もっとすごい繁華街かと思っていました。
下町っぽい、雰囲気の場所でした。
錬兵館のあった靖国神社前の靖国神社交差点より、靖国通りを東(隅田川方面)へ約3㎞行くと、玄武館跡があります。
意外と近い場所にありました。

私はこの玄武館跡にも訪れたかったのですが、弟定吉が開いた京橋桶町の道場に行ってみたかったのです。
あの三谷幸喜作品"竜馬におまかせ"に出てきた、伊東四郎氏演じる千葉定吉がGOODでした。
息子の重太郎と龍馬の掛け合いも楽しくて…。
なので超有名な千葉周作道場よりも、マイナーな定吉道場の方が興味がありました。

龍馬は周作の門人なのか、定吉の門人なのか?
龍馬に関しては、さらに勉強不足な為、まだ答えを知らないのです。


千葉周作〈上〉 (角川文庫)千葉周作〈上〉 (角川文庫)
(1998/09)
津本 陽

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日本剣客伝〈5〉千葉周作・沖田総司 (1982年)日本剣客伝〈5〉千葉周作・沖田総司 (1982年)
(1982/06)
不明

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辰ノ口糾問所跡

2008年08月12日
辰ノ口糾問所跡(東京都千代田区丸の内1-4南西部)は、兵部省に所属し、江戸幕府の評定所の跡地に設置されました。
辰の口糾問所跡 
明治2年、ここに3名の元新選組隊士が送致されています。

勝沼戦争の後に新選組を離れた大石鍬次郎が、当時新政府軍に所属していた、加納鷲雄と三井丑之助によって東京で捕縛されていました。
加納は伊東甲子太郎殺害者を探していたので、大石は厳しい拷問を受けています。
大石が自白したかは不明ですが、坂本龍馬殺害に関して、新選組の仕業だと話しています。

この自白を重視した新政府は、大石を糾問所へ送致しました。
その後、この大石鍬次郎の自白から、箱館から東京に護送されてきた、元新選組隊士の横倉甚五郎と相馬主計、元見廻組の今井信郎が糾問所へ送られる事になりました。

坂本龍馬殺害の件について、大石鍬次郎は発言を翻しました。横倉と相馬も新選組とはまったく無縁であると自白しています。
元新選組隊士3名と、今井は身柄を刑部省へ引き渡されました。

現在、辰ノ口糾問所の跡地は、住友信託ビルなどが建っています。
新選組史跡事典より

糾問所という漢字からのイメージが、拷問を受ける場所でした。
(大石鍬次郎も拷問を受けたそうです。)
「糾問」は「罪や不正を厳しく問いただすこと」なので、必ず拷問を受けるとは決まっていないですね。
拷問関係だとしても、現在はそれを感じさせるものはありません。

オフィスビルが建ち並ぶ、大都会の情景しか見えてきません。
皇居を訪れた時に廻ったので、早朝だったので、まだ出勤してくる人もまばらでした。
日中に訪れたら、どれ程の人が溢れかえっていたのでしょう?
大阪のオフィス街と同じかな?

芹沢鴨が同志を斬って入牢したという話もあるそうです。

新選組は少なからず、この糾問所と接点があるのですね。
しかしこの場所で、新選組を感じる事は難しいです。


新選組100話 (中公文庫)新選組100話 (中公文庫)
(1996/12)
鈴木 亨

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江戸城 坂下門

2008年08月11日
文久2年1月15日、江戸城坂下門(皇居外苑北)外の広場で、登城中の老中安藤信睦(磐城平藩主)が水戸浪士らに襲撃されました。
坂下門 
五つ時、安藤の行列は平藩上屋敷の北側の登城口を出て、斜め前方約100mの坂下門へ進みました。年始で坂下門前の広場は、多くの大名の供回りなどで大混乱していました。
浪士は高畑房次郎、黒沢五郎、小田彦三郎、川本杜太郎、平山兵介、河野顕三ら6名でした。川辺左次衛門が遅刻しなければ7名でした。
襲撃の浪士6名は即死しましたが、安藤はかろうじて一命を取り留めました。
浪士の遺体は収容後、小塚原に遺棄されたようです。

安藤は3月25日まで療養したあと、再登城し、信正に改名しました。
しかし、政治的に失墜して、4月11日に老中職を罷免となりました。

坂下門を正面にみて、皇居外苑西側の玉砂利道が続いています。この砂利道は坂下門前でアスファルトに変わっていますが、このアスファルトの門前の広い一角が事件現場です。
幕末維新江戸東京史跡事典より

"○○門"といえばどうしても、井伊直弼の「桜田門外の変」が最初に浮かびます。
大老井伊直弼が襲われた後、幕末から明治へと維新という大きな変革がありましたが、安藤信正が襲われた時は、すでに維新の波の中にいて、この事件がなにかのカギになっていないので、あまり印象に残っていないのかもしれませんね。

江戸会津上屋敷跡を訪れた時と同じ日、同じ時刻にこちらにも廻ったので、やはり人も気配もなく静かでした。
襲撃時はこんな静寂さはなく、叫び声や砂煙、血飛沫など騒然としていたはずです。
正反対の風景を見ているのかもしれません。

和田倉門から入ると、そのまま真っ直ぐ進んだ辺りに坂下門があります。
その奥は宮内庁や皇居になります。


坂下門外の変―閣老安藤対馬守信正の記録 (1982年)坂下門外の変―閣老安藤対馬守信正の記録 (1982年)
(1982/06)
斎藤 伊知郎

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会津藩江戸上屋敷跡

2008年08月10日
会津藩江戸上屋敷跡(東京都千代田区皇居外苑)は、江戸城西の丸の内桜田門外広場の前にありました。さらに会津藩は上屋敷の北に隣接して、和田倉門の脇に中屋敷がありました。
江戸会津藩邸跡

和田倉橋
和田倉橋です。堀の向こう側に和田倉門があります。

新選組は会津藩御預りの為、東帰の折、幹部たちも藩邸を訪問しています。

元治元年9月、隊士募集などのため江戸へ戻った近藤勇が、永倉新八、武田観柳斎、尾形俊太郎と訪れています。
慶応4年1月18日には、土方歳三と訪れ、会津藩に金2,000両の軍資金を用立ててもらっています。

戊辰戦争時には、松平容保は会津へ戻っているので、会津藩邸は幕府陸軍歩兵の屯所などに使われていたようです。

慶応4年3月に新選組から離れた永倉新八は、靖共隊を組織しました。その直後、この会津藩邸に入り、フランス式の調練を行っています。その時に、幕臣の米田圭次郎が300名の歩兵といました。

会津は上屋敷跡は、現在の皇居外苑の北側の遊歩道やベンチ、芝生などがある辺り。
皇太子成婚記念の噴水や休憩所などの場所が、中屋敷跡になります。
新選組史跡事典より

この時写真は、朝の7時頃の皇居外苑です。
この時は、史跡巡りがメインではなく、他の用事で東京に来ました。
それも現在は廃止になった、寝台急行「銀河」に乗りました。
朝の6時台に東京駅に着いたので、ランチを食べるのにもお店が開いていなくて、散歩がてら皇居に行ってみたのです。

広かった。
しかし、この広さは京都御苑に似ているようで、似ていない?!
ただ皇居には天皇御一家がお住まいになられているので、人の息吹を感じました。

この地に土方歳三や近藤勇、永倉新八が訪れたというのは、不思議な感じです。
今のこの地では、そんな血なまぐさい戦いがあったと思えない朝の静寂さでした。


京都守護職日誌 (第2巻)京都守護職日誌 (第2巻)
(2008/07)
菊地 明

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金刀比羅宮

2008年08月09日
♪ こんぴら 船々 追手に帆かけて シュラシュシュシュ
  廻れば 四国は 讃州那珂の郡 象頭山 金毘羅大権現 一度まわれば ♪

で有名な、金刀比羅宮(香川県仲多度郡琴平町892-1)に廻りました。
金比羅宮

金比羅宮より
     金刀比羅宮より

大物主神を祀り、琴平神社と称していました。
中古、金毘羅代権現と改称し、永万元年に崇徳天皇を合祀しました。
その後、明治元年に神仏混淆が廃止されて元の神社にかえり、金刀比羅宮と改称しました。

大物主神は天照大御神の弟、建速素盞鳴命の子、大国主神の和魂神で農業殖産、漁業航海、医薬、技芸などの神徳を持つ神様です。
参考:金刀比羅宮HP


上りました、785段!
(奥社までは帰路途中な為、時間的余裕がありませんでした。奥社まで行くと1,368段だそうです。)
785段といっても、途中階段ではない平らな場所があるし、大丈夫と思って上り始めました。
最初の方が辛かったですね。
上る程に、楽になってきました。
マラソン選手などが言われる“ランナーズハイ”状態だったのでしょうか?

今度は奥宮までの1,368段を上ってみたいです。


金刀比羅宮―こんぴらさんへの招待金刀比羅宮―こんぴらさんへの招待
(2000/04)
藤田 健

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大豊 杉の大スギ

2008年08月08日
八坂神社(高知県長岡郡大豊町杉)に「杉の大スギ」という、推定樹齢3000年の杉があります。
大豊のくすのき
昔、須佐之男命(すさのおみこと)が植えられたと伝えられる推定樹齢3000年の巨木です。
この「杉の大杉」は、それぞれ南大杉、北大杉と呼ばれる二株の大杉からなっており、二株が根元で合着していることから、別名、夫婦杉とも呼ばれています。
南大杉は根元の周囲が約20メートル、樹高が約60メートルで、北大杉は根元の周囲が約16.5メートル、樹高が約57メートルあり、昭和27年に国の特別天然記念物に指定されました。
大豊HPより


高知県の大豊には少なからず興味がありました。
前職で少し関わりがあり、「大豊は冬は積雪で通行止めが多い」「山の中」という事を聞いていました。
四国&高知=南国・暖かいと思っていたので、不思議な感じがありました。
いったいどんな土地なんだろう?と。

大豊に行ってみると、南国の暖かい土地というは、高知市周辺の方なのだろうなと、思いました。
前回高知市に行った時、タクシーの運転手さんが、「先日は積雪で大変でした。」と言っていたので、高知市でも雪は積もるのかと、驚いた記憶があります。
山間だと、冬は雪が積もりやすいでしょうね。

「杉の大スギ」は、八坂神社の外から拝見して、休憩は終了。
次の目的地に向かいました。


巨樹・巨木―日本全国674本 (ヤマケイ情報箱)巨樹・巨木―日本全国674本 (ヤマケイ情報箱)
(1999/03)
渡辺 典博

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道後温泉

2008年08月07日
道後温泉本館(愛媛県松山市道後湯之町5-6)です。
道後温泉
道後温泉本館は、明治27年に建築された三層楼建物です。
1階の大浴場を神の湯、小さい方を霊の湯といい、浴槽は花崗岩でできています。
泉質は、アルカリ性単純泉。

本館三層楼の屋上にある振鷺閣(しんろかく)は、閣内の広さは約1坪、周囲の窓は赤いギヤマンをはめた障子で、夜になると中央天井の釣ランプをともしたことから、それが赤いギヤマンに反射し、ネオンのない当時の湯の町の夜空に異彩を放ったといわれています。
 また格天井の中央から吊るされた太鼓は、時刻を告げる「刻太鼓」として1時間毎に打ち鳴らされていましたが、今は朝・昼と夕方だけになりました。
参考:道後温泉HP

道後温泉時計台   坊ちゃん列車218
道後温泉駅前のカラクリ時計      坊ちゃん列車

道後温泉を訪れたのは初めてでした。
テレビや雑誌などを見てこの建物は知っていました。
しかし実際に訪れると、想像と全く違っていました。
松山市の中心部からすぐの所だった事に驚きました。
もっと鄙びた所だと考えていました。
こんな街中にあるとは…。

道後温泉本館のお風呂は素晴しかったです。
振鷺閣の太鼓の音も聴く事が出来ました。

お風呂の後、近くのお店で飲んだビールは美味しかったです。
地ビールはクセがあってあまり美味しいと思うものに出会わないのですが、この時飲んだビールは美味しかったぁ。

夏目漱石ファンの方は、やはり「坊ちゃん」の舞台となった道後温泉には、一度訪れてみたと思うのでしょうか?


るるぶ愛媛道後温泉松山 ’08 (るるぶ情報版 四国 3)るるぶ愛媛道後温泉松山 ’08 (るるぶ情報版 四国 3)
(2007/06)
不明

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三浦啓之助墓

2008年08月06日
三浦啓之助の墓(愛媛県松山市祝谷東町442 鷺谷共同墓地)が松山市にありました。
幕末関係(松山) 
新選組食客で、長野県松代出生で父は佐久間象山です。
本名佐久間恪二郎。新選組入隊後、三浦啓之助と称しました。
明治4年に佐久間恪(いそし)と改名、松山では格(まさる)と記録にあります。
明治6年に町人の娘ますと結婚、同9年に男子継述(つぐのぶ)が生まれましたが、明治12年に没しています。ますは静枝と改名し、明治34年に没しました。

恪は司法省出仕四級判事となり、堂省大丞、象山門下で松代出身の渡辺驥の世話で、愛媛県司法省十二等出仕、県庁聴訴課付となりました。

明治8年末に単身赴任し、河内うたとの間に、娘小松が生まれました。
松山での仕事は、松山裁判所判事として仕事をしていたようですが、在職中に急逝しました。
死因は、大酒豪で、うなぎ料理による中毒死。
酒乱の果て庭の池に落ちた転落死、また明治10年松山地方に流行したコレラによる病死と、明確ではありません。享年29歳。

墓所も二ヶ所説があります。
1、愛媛県和気郡祝谷村鷺谷共同墓地
2、松山市祝谷東636 祝谷山常信寺
1、については、道後温泉鷺谷共同墓地ですが、台帳にはありません。
2、はお寺には墓は存在しませんが、鷺谷共同墓地の無縁墓地に拝み石塔として現存しています。
明治41年に没した、娘小松の墓も隣にあるといいますが、これは不明です。
新選組大事典より

という事で、道後温泉の裏(?)に行き、共同墓地は見つけました。
「新選組大事典」の墓の写真を参考に、お墓探しをしました。
しかし写真の通り、日も暮れて周りが見えないほどで、墓石に刻まれた名前を読み取る事が難しく断念せざる得ませんでした。

道後温泉という“超”が付くほど有名な温泉街の裏に、こんな場所があるとは思いませんでした。
確かに、私達は道後温泉に遊びに行きますが、そこで生活している人がいないと私達が疲れを癒しにいけません。
生活する方が居られるという事は、亡くなられる方も居られるという事ですものね。

三浦啓之助という人物は、あまり好印象はありません。
親のコネで入った、出来ない人物という印象です。
いつの間に、新選組から離れていました?

亡くなった死因も不明、墓も不明(拝み石塔はありますが)…やはりどこか、中途半端な人なイメージが拭えません。
ます(改名後静枝)さんとは、離縁していのですか?
もしかして、河内うたさんはお妾さん?
それとも今でいう不倫で娘が生まれました?
なんだか、何もかもはっきりしない人ですね~。

お父さんが偉大すぎました?


佐久間象山―幕末の明星佐久間象山―幕末の明星
(2004/04)
童門 冬二

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原田左之助奉公の地

2008年08月05日
久しぶりに新選組関係の史跡です!

原田左之助奉公の地(中島隼太屋敷跡 愛媛県松山市南堀端町1)です。
原田佐之助関係(松山)

原田左之助は(もちろん)新選組隊士です。伊予松山藩城下矢矧町(現・松山市緑町1)に下級武士の中間、または小間使いの身分の子として生まれました。
新選組が関わりあった事件のほとんどに名前があります。
隊士として家庭を持ち、29歳で亡くなっています。

明治40年6月15日の『史談会速記録』に左之助を見かけた内藤素行が語っています。
内藤が11歳の頃、松山で左之助を見かけました。
「裸体でふんどし一つで頬冠りをして其頃専ら習いました蘭式の銃隊に用います太鼓を、革帯を以って肩から左の腋へ下げて撥を持ってドンドンと鳴らし乍らやって来る者が…」と述べています。

幕末当時の松山藩武家屋敷は、勝山の本丸、二の丸の城郭を中心に、南西方の城裾下に三の丸、東南西の要所に家老職の屋敷、堀の内に上級家臣、頭部1~3番町と、南・西堀端通りに、上中級家臣団屋敷、東北側に下級家臣を配しています。
左之助の住む辺りは、城山の陰で日当たりが悪かったです。

内藤素行の証言する場所は…。
内藤は城の北西部の松山平和通りで、左之助を見かけることは無理です。その後移った南馬場東角(現・堀の内市営プールの南東角地)が妥当です。
この頃、左之助の主人、中島家は3回転居しており、左之助奉公時は、南堀端通り東より3軒目(現・南堀端町の松山家庭裁判所東北角地と、市電通りの1部を含む場所)です。
交野家は2回転居し、二番町通り会所藩明教館学問所(現・松山市二番町4・水産会館)より西角北寄2軒目(松山市二番町4、番町小学校内)です。

内藤・中島家は、城の堀を挟んだ所に、交野家は中島家より東方、道路二つ目の位置にあったことになります。
内藤の談話どおり、左之助の太鼓の音で、素行が屋敷前の内堀土手に上り、堀越に歩く左之助を見かけ、その左之助が中島家より、現・伊予銀行前の市電通りを歩いて、東の現・松山市役所前を城に向かって左折し、当時道路であった市役所の本館と別館の間を東に、突き当りの道路を30mほど右折した番町小学校校庭内にあった交野家まで歩いた事になります。
新選組大事典より

参考にした「新選組大事典」に、左之助が歩いた経路が詳しく書かれていました。
松山に着いたのが、夕方近かったので大変な人混みでした。
本当なら、この経路に出てくる一つ一つの場所を写真に収めたかったのですが、あまりの人でさすがの私も断念しました。(大抵の事なら躊躇いつつも、シャッターを押します。マナーはちゃんと守ります)
伊予銀行前だけは、どうにかこうにか写真を撮ることが出来ました。

もちろん、家庭裁判所・市役所などはちゃんと見てきました。
お城に行く事も思ったのですが、山の頂上にあり、さらに改修工事中で足場を組みシートが掛かっていたのが下からも見えたので、下での散策をする事にしました。

松山市という所は、私が想像していたより“町”でした。ゴメンナサイ。
大阪市や神戸市に近い所に住んでいるので(私の住むところは大都会ではありません)、どうしても大阪市や神戸市を基準に考えてしまうので…。
今、地図で上記の建物を確認しても、鮮明に思い出せます。
市電にも乗り、市電からも見たので、記憶にインプットされ易かったのでしょう。

原田左之助といえば、新選組の中心人物です。
松山藩出身という事は知られていますが、実際に松山に行ってみると、この土地から江戸や京都で活躍した事が不思議です。
そんな事を言ったら、太平洋側の土佐出身者はどうなる?って事になりますが。
今と違って、しまなみ海道も、瀬戸中央道も、鳴門・明石海峡大橋も無い時代ですからね。


あさぎ色の伝説 1 (1)あさぎ色の伝説 1 (1)
(2000)
和田 慎二

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六志士の墓

2008年08月04日
梼原町での最後は、六志士の墓(高知県高岡郡梼原町)です。
六志士の墓5

六志士の墓2  六志士の墓3

六志士の墓1  六志士の墓4

梼原町の滞在時間は3時間弱しかありませんでした。
松山から土佐山田町に行く時に、梼原町経由で行くと私が言い張ったのです。
それで梼原町での史跡巡り、3時間弱を強引に貰いました。
梼原町ではまだ、大越峠や宮野々関所跡など見たい所があったのですが、やはり時間的な事を考えて、今回は町役場周辺だけにとどめました。
東津野村の吉村虎太郎生家も見ごたえがありそうです。

本当に数時間でしたが、梼原町の雰囲気は満喫できました。
すごく良い町でした。
愛媛から梼原町に入った辺り(数軒の家しかない辺り)で、車の中の私達に会釈してくれたおばあさんが忘れられません。
忘れられた日本の心に触れたようで、ポッと気持ちが暖かくなりました。
東京や大阪では考えられないですよね?

六志士の説明板を見ていただくと、那須俊平と中平龍之助は会津藩兵と戦った事がわかります。
新選組と会津藩兵は、遠からず縁があるので、この史跡も末端の方では新選組関係といえるのかもしれません。

旧掛橋和泉邸

2008年08月03日
旧掛橋和泉邸(高知県高岡郡梼原町梼原)です。
旧掛橋和泉邸2?

写真を撮って、その横に立つ説明文も写真に撮っていました。
それが下の写真です。
旧掛橋和泉邸
吉村虎太郎庄屋屋敷跡1   吉村虎太郎庄屋屋敷跡3
帰宅後写真を整理していて、どの説明が正しいものなのかわからなくなっていました。
1枚のお屋敷の写真に、説明などの写真が3枚…。
屋敷の写真で取り損ねたものはないはずなのに…。

今回、これを書くにあたって、じっくりと調べて解決しました。

この敷地は津野郷の大庄屋屋敷があった場所で、吉村虎太郎も、津野山騒動の中平善之丞もここに住みました。
この建物は近くにあった、掛橋和泉邸を移築しています。
町役場もかつてはここに建っていました。
『街道をゆく』HPより

そうだったのですか、この建物自体は掛橋和泉邸であり、この地には吉村虎太郎も住んだことがあるけれども、この建物ではないという事ですね。
やっと判りました!


週刊 「 司馬遼太郎 街道をゆく 」 1号 1/30号 檮原街道 [雑誌]週刊 「 司馬遼太郎 街道をゆく 」 1号 1/30号 檮原街道 [雑誌]
(2005/01/18)
不明

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那須俊平・信吾招魂碑

2008年08月02日
那須邸跡から道に戻ったすぐの所に、那須俊平・信吾招魂碑(高知県高岡郡梼原町)があります。
那須親子墓1
邸宅跡のすぐ上にあります。

招魂とは、「死者の霊をまねいて祭ったり鎮めたりすること。」と辞書にあります。
その碑ですから、お墓ではありません。

記念碑に近いものでしょうか。
そう考えると、招魂碑も気にはなりますが、龍馬が泊まったという邸宅跡の方が興味津々となってしまいました。
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