新選組&幕末 ばんざい!!

新選組を中心に歴史の舞台を巡ります

アーカイブモード [2008年07月 ] 記事一覧

茶堂-梼原町

暑い日が続くので、都会の史跡から離れて、気持ちだけでも涼しく感じられる場所に行きたいと思います。 梼原町(高知県高岡郡梼原町)の茶堂です。「ちゃどう」と読みます。 小さな建物の事で、地元の人々が、旅人に番茶をふるまうためにあるそうです。 梼原町には今も茶堂はいくつかありますが、「太郎川公園」の茶堂は今でも、夏の日曜日に使われているそうです。 1996年8月4日朝日新聞より 水車の向こうに見えるのが、「太郎...

維新の門群像

梼原町の和田城跡に土佐出身の8人の志士の像がありあます。 維新の門群像(高知県高岡郡梼原町川西路)です。           8名の配置     掛橋和泉       和田城跡の広場にド~ンと、銅像が現れます。 梼原町には似合わないような…。と、これは私の勝手な感想です。 「維新の門」の字は橋本大二郎知事が書かれていました。 確かにこの維新の門群像を見るのも、希望の一つでした。 見た瞬間は、す...

維新の門 (補足)

あまり目にしない方々(あくまでも私の中で)の、略歴を紹介しておきます。 今のところ、下記に書いた人に関する、他の史跡を巡っていません。 地元や土佐勤王党関係では、大変有名な方なのかもしれませんね。 掛橋和泉 土佐の尊攘派。神官。 高岡郡梼原村の郷士那須常吉の次男に生まれ、のち神官掛橋因幡の養子となりました。 通称、順次。和泉と称しました。 郷士那須俊平について剣術と儒学を学びましたが、ペリーの来航後、尊...

梼原村

梼原街道が通る、梼原町(当時の梼原村・高知県高岡南梼原町)は龍馬脱藩の道です。   地芳峠付近からの風景 愛媛県上浮穴郡柳谷村と高知県高岡郡梼原町との県境    梼原町にある案内板 かつて津野氏が支配して津野山郷と称し、独特の風俗・文化が生まれました。 幕末の頃、吉村虎太郎を輩出しました。 文久2年3月24日、龍馬と沢村惣之丞は脱藩の為高知を発ち、翌日の夜、梼原村太郎川の那須俊平・信吾父子の家に泊まり...

武市半平太墓

武市半平太・富墓(高知県高知市仁井田3021、吹井)は、旧邸の最上段にあります。 妻・富の墓と並んで建っています。 向かって右側が半平太、左側が富のお墓です。 「武市半平太小楯 慶応元年乙丑壬五月十一日 三十七歳 故武市半平太太贈正四位碑」 「武市富之墓 大正六年四月二十三日八十八歳 墓碑半太誌」 武市半平太は、長身で端正な姿、角ばったあごが特徴だったそうで、親友の坂本龍馬は「武市のあご」「窮屈」とか呼ん...

瑞山神社

瑞山神社(高知県高知市仁井田3021、吹井)が、生家の上にあります。   旧邸を訪れた時、お墓に行く途中に神社がありました。 神社の横に碑があります。 大正4年に土地有志によって建てられた遺詠です。 「花依清香愛 人以仁義栄 幽囚何可恥 只有赤心明」が彫られています。 坂本龍馬大事典より 神社の境内に建物がありました。 扉がありました。開けてみていいものか…。 家ではなく、たとえるなら寒い地方のバス...

武市半平太旧邸

私のお気に入りの1枚です。 素晴しいできばえ!という訳ではありませんが、この雰囲気や風景・情景が好きです。 電車で高知に行ったので、この武市半平太旧邸(高知県高知市仁井田3021、吹井)に行く交通手段には困りました。 現・坂本氏宅です。瑞山橋バス停から南へ800m程進んだ所から、右側の山の手に入る所です。 かやぶき式平屋づくりの建物でしたが、屋根はトタンの鞘で覆われました。 間数は6室、客室は八畳で、小池の...

武市半平太像-須崎

昨日の坂本龍馬は、真夏の太陽が似合いそうですが、武市半平太は真夏の太陽より書斎が似合いそうなイメージを持っています。 武市半平太像(高知県須崎市横浪県立自然公園)です。    須崎市に銅像があるとは聞いていました。 車で海岸沿いを走っていると、偶然出会えました。 見てみたいとは思いながらも、今回は無理だろうと諦めていました。 なので本当に偶然、運よく通りかかったのです。 銅像の建つ周辺は、閉鎖して荒れ果...

坂本龍馬像-桂浜

暑い日が続いています。 西日本は暑いです。日本海側では、38度になったりと猛暑日も多発しています。 そこで暑さが似合いそうな熱い男、坂本龍馬像を今回の話題に選びました。 あくまでも私の勝手なイメージです。 新選組も熱い男達の集団ですが、「暑い夏」より「寒い冬」のイメージでしょうか。 坂本龍馬像(高知県高知市桂浜龍頭岬上)は有名ですので、知らない人は少ないと思います。     坂本龍馬 2度目に訪れた時は、...

御殿山下砲台跡

台場小学校の校庭に御殿山下砲台跡(東京都品川区東品川1-8-30)があります。   嘉永6年のペリー来航に衝撃を受けた幕府は、江戸湾防備の一環として、品川台場が建造されることになりました。11基が建造される予定でした。 ペリーが去った直後から着工され、御殿山などの土を削って舟で運ぶという難工事となりました。 財政難から、第四・第七台場は工事半ばで中断され、その代わりに海岸に御殿山下砲台が造られることにな...

一心寺(東京)

一心寺(東京都品川区北品川2-4-18)は、井伊直弼が建立にあたり、「日本鎮護、開国条約、宿場町民の繁栄安泰」を祈願したといいます。 由来には大老についてからのように書かれていますが、建立後に大老になっています。 品川宿本陣のすぐ近くだったので、井伊直弼は幕末という事で、前を通って次に行きました。 そんな感覚で訪れたので、どんなお寺でどんな場所にあったのか、思い出せないでいます。 写真を見る限り、あまり...

品川宿本陣跡

品川宿本陣跡(東京都品川区北品川2-7-21)は、聖蹟公園にあります。   品川宿は当初、南・北品川宿に本陣があったそうです。 後に、本陣は北品川宿一軒になりました。 慶応4年、戊辰戦争が始まると、品川宿は東海道を往来する兵士で溢れたそうです。 新政府軍の先鋒副総督大原俊実が三藩の兵士約500名と本陣に入りました。 先鋒総督の橋本実梁が池上本門寺に入り、江戸城を接収しました。 この頃は、品川宿の各寺院は宿舎...

釜屋跡

釜屋跡(東京都品川区南品川3丁目)を訪れました。   品川寺門前の立場茶屋です。主人は半右衛門。 立場茶屋というのは、宿場と宿場の間に作られた、馬子や人足の為の休憩所でした。 後に一般の旅籠も営むようになりました。 幕末期には、幕府の御用宿として利用されていました。 新選組も慶応3年10月21日に、土方歳三が江戸募集の新入隊士らと30人と昼食をとっています。 また、翌年1月には、鳥羽・伏見の戦いで敗戦し、江戸...

長楽寺-水戸藩留名の碑・尊攘の碑

長楽寺(京都市東山区円山町626)の水戸藩留名の碑と尊攘の碑です。 水戸藩留名の碑(左)は、藩主慶篤に従って上京し、落命した藩士62名の顕彰碑。 尊攘の碑(右)は、尊攘に活躍した水戸藩士とその事蹟を刻んであります。 この他、松平昭訓(慶篤の弟で文久3年京で歿)のお墓もあるそうです。 写真で見る維新の京都より 松平昭訓のお墓は行っていません。 どうして行かなかったのかな? ここまで来ておいてね~。 非公開だった...

長楽寺-大場一真斎墓

長楽寺(京都市東山区円山町626)には、大場一真斎の墓もあります。 大場一真斎も水戸藩士です。 文政12年、藩主斉脩の継嗣問題に斉昭を擁立し、下士、軽輩出身者の多いなかにあって目立つ存在でした。 弘化元年以降、幕府によって斉昭が処分を受け解除される度に、同じように免職処分と復職を繰り返しました。 文久2年執政に復帰、翌年藩主慶篤に従い藩兵を率いて上京、本圀寺に入りました。 本圀寺党の首領として一橋慶喜のうし...

長楽寺-原市之進墓

長楽寺(京都市東山区円山町626)には、原市之進の墓があります。 外史橋まで戻り、山道を辿るとあります。 原市之進は水戸藩士です。 会沢正志斎、藤田東湖に師事。 青山延光に学びました。 塩谷宕陰、藤森弘庵に学び、昌平黌に入りました。 川路聖謨に付いて長崎で、外国事情を学びました。 水戸藩下付の攘夷の密勅回達を主張し、江戸で運動しました。密勅返納の幕命に反対しましたが、表立っては行動しましせんでした。 奥祐筆...

長楽寺-鵜飼家墓地

長楽寺(京都市東山区円山町626)で、次のお墓参りは鵜飼家の墓地です。     頼山陽の墓地の東脇を北へ50mほど行き、右手の山腹へ上ると鵜飼家の墓地があります。 道はほとんどありません(※) 写真で見る維新の京都より 鵜飼吉左衛門は水戸藩士です。 天保年間京都留守居役となり、以後主として京都における水戸藩尊攘派の中心として、月照の潜伏を助けるなど活躍しました。 弘化元年、斉昭に対する幕府の謹慎処分に、参議橋...

長楽寺-頼山陽・頼三樹三郎墓

長楽寺(京都市東山区円山町626)の名前は、テレビのニュースなどで耳にしたと思います。 収蔵庫が火災に遭ったニュースでした。 その長楽寺へは、円山公園南側の道を東へ辿ると着きます。 延暦24年に桓武天皇の勅命によって、最澄(伝教大使)が創建されたお寺です。 本尊は、最澄が彫ったと伝えられている准胝観音で二頭の龍にまたがった非常に珍しい観音様です。歴代の天皇の御即位式にだけ御開帳されます。 建礼門院が壇ノ浦の...

戒光寺-高村久蔵墓

戒光寺墓地(京都市東山区泉涌寺 泉涌寺山門前、即成院西側)にある高村久蔵の墓です。 新選組隊士新井忠雄の臣です。 “新井忠雄の臣”としか判りませんでした。 いつ?どこで?の臣なのでしょうか?...

戒光寺-茨木司・佐野七五三之助・佐原太郎・富川十郎・中村五郎・富山弥兵衛・竹川直枝墓

戒光寺墓地(京都市東山区泉涌寺 泉涌寺山門前、即成院西側)の佐原太郎・茨木司・佐野七五三之助・富川十郎・中村五郎・富山弥兵衛・竹川直枝の合同墓です。 佐原太郎とは、新選組在籍中は篠崎信八郎と名乗っていました。 常陸松川出身で北辰一刀流を使いました。 慶応元年4月に江戸で入隊しました。慶応3年6月、幕臣に取り立てられ、見廻組並御雇の格を受けました。伊東甲子太郎らの分離には同行せず、6月以降に脱走して合...

戒光寺-毛内有之助墓

戒光寺墓地(京都市東山区泉涌寺 泉涌寺山門前、即成院西側)の毛内有之助の墓です。 毛内有之助は津軽藩士、毛内有右衛門祐胤の次男で、継母は歌人毛内滝子です。 身長5尺2~3寸、痩せ型で色白、眼光鋭く穏和ですが激しい気質でした。 勤王色が強い家風の影響を受けて、脱藩を決意しました。 江戸を出て学問教授で生計をたてるうちに、伊東甲子太郎と親交ができ、元治元年の新選組隊士募集に応じて上洛しました。 慶応3年3...

戒光寺-服部武雄墓

戒光寺墓地(京都市東山区泉涌寺 泉涌寺山門前、即成院西側)にある服部武雄の墓です。 服部武雄は、播州赤穂出身です。 元治元年10月前後に入隊したようです。江戸での入隊が有力です。 諸士取調役兼観察です。 慶応2年の三条制札事件に目付けとして出動し、報奨金を受けていまs。 伊東甲子太郎らと新選組から分離したのを機に、三郎兵衛と改名したようです。 享年36歳。 新選組大事典より 播州赤穂といえば、「赤穂浪士」を思...

戒光寺-藤堂平助墓

戒光寺墓地(京都市東山区泉涌寺 泉涌寺山門前、即成院西側)の藤堂平助の墓です。 藤堂平助は伊勢津藩藤堂和泉守の落胤ともいわれています。 神田お玉ヶ池千葉周作道場で、北辰一刀流を学び目録者となりました。その後、近藤勇の試衛館の内弟子となりました。 新選組では副長助勤。 慶応2年秋、近藤の東帰のさい、一足先に江戸に入り、深川佐賀町で北辰一刀流道場を開いている、旧知の伊東甲子太郎に会い、新選組入隊を勧めまし...

戒光寺-伊東甲子太郎墓

戒光寺墓地(京都市東山区泉涌寺 泉涌寺山門前、即成院西側)の伊東甲子太郎の墓です。 伊東甲子太郎については、【伊東甲子太郎道場跡】などで触れたので、ここでは真偽不明なエピソードを書きます。 慶応3年11月10日頃、坂本龍馬に身の危険を忠告したが聞き入れられなかったそうです。 (龍馬が襲撃されたのは、11月15日です。) 新選組大事典より 伊東甲子太郎と坂本龍馬に接点があっても不思議ではないでしょう。 しかしどう...

戒光寺

戒光寺墓地(京都市東山区泉涌寺 泉涌寺山門前、即成院西側)の高台寺党のお墓です。              戒光寺(京都市東山区泉涌寺山内町)は泉涌寺の塔頭です。 新選組を分離脱退した伊東甲子太郎が、新選組によって暗殺されました。 さらに掛け付けた高台寺党の、藤堂平助・服部武雄・毛内有之助が討死しました。 伊東甲子太郎ら4名の遺骸は、新選組によって壬生の光縁寺に葬られましたが、慶応4年3月に、篠原らに...

小川亭跡

小川亭跡(京都市東山区縄手通三条下ル西側)は、かつて「魚卯」と称した諸藩の肴屋で、肥後藩との縁が深かったのですが、家業を継ぐ事が許されず、旅館業に転じました。     女将・リセは、嫁のテイと倒幕派に力を貸していました。 平野国臣・松田重助・宮部鼎蔵・桂小五郎らが出入りして、離れ座敷で会合を開いていたといいます。離れ座敷は八畳で、鴨川の河原に面していました。 池田屋事件で小川亭が探索された記録は見...

旧三縁寺

三縁寺旧跡(京都市東山区縄手三条下ル東側)は、京阪電車三条駅の東側のバスターミナルにありました。  北より、西願寺・三縁寺・養福寺・高樹院の四ヶ寺がありました。 昭和54年6月16日、旧墓地内の志士の遺骨は丁重に発掘され、岩倉の墓地に埋葬されました。 写真で見る維新の京都より 池田屋事変の翌朝、検死後即死者と付近に倒れ死んでいた者の9人の遺体を、四斗樽につめて三条大橋東、縄手下ルの三縁寺に担ぎ込みまし...

三縁寺(岩倉)-上松源友胤墓

三縁寺(京都市左京区岩倉花園町)には、上松源友胤の墓もあります。 上松源友胤って誰? 幕末関係の人名事典を見ても載っていません。 でもお墓はあります。 名前も残らない、ほんと~に普通の人なの? と、手がかりがまだつかめていませんでした。 その時、インターネットで見たのが下の記事でした。 池田屋事変殉難烈士の墓に並んでいる「上松源友胤」は宮部鼎蔵の弟子。 文久3年7月26日、二条家の親幕派公卿を斬った際、相手に...

三縁寺(岩倉)-大高又次郎墓

三縁寺(京都市左京区岩倉花園町)の大高又次郎の墓です。 大高又次郎は播州林田藩士・大高六八郎義郷の次男として生まれました。 武芸・西洋砲術、革具足製作に精通していました。姫路で甲冑製造に従事していましたが、勤王を志て、安政5年に脱藩して京都に入りました。 京都では梅田雲浜に師事しました。雲浜亡き後は、長州藩邸内に住み、吉田稔麿・吉岡庄助・宮部鼎蔵らと交わり、同志の武具を製作していました。 後に、古高俊...

三縁寺(岩倉)-宮部鼎蔵・松田重助墓

三縁寺(京都市左京区岩倉花園町)。 宮部鼎蔵・松田重助の墓です。   宮部鼎蔵は姓は中原、名は増美です。医者春吾の子。 肥後国益城郡田城村出身で、弟春蔵は禁門の変に敗れて、天王山で屠腹。 鼎蔵は山鹿流軍学師範の叔父丈左衛門の養子となり、跡を継ぎました。 熊本に来た吉田松陰と親交を結び、嘉永4年に江戸へ上り、松陰とともに東北地方を遊歴しました。 弟らの喧嘩に巻き込まれ免職。帰省中に清河八郎に会い、文久2年...

左サイドメニュー

My bookshelf

kamaboko

Author:kamaboko
新選組と幕末だらけの本棚
実は二重になっているので、
後ろにも本棚が…。

Basic Calendar

<06 | 2008/07 | 08>
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -

最近の記事

ブログ内検索

月別アーカイブ

FC2カウンター

右サイドメニュー

Useful information

Let's go for a trip

国内最大級の旅行予約サイト【楽天トラベル】                               旅行の大バーゲン!格安旅行満載の阪急交通社                          オンライン予約・決済可能な日本旅行「赤い風船」国内宿泊                             スーツケースレンタル・トラベルグッズなら【アイレンタル】

Google Search

カスタム検索

Comrade

にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ ブログランキング・にほんブログ村へ

ブロとも申請フォーム