茶堂-梼原町

2008年07月31日
暑い日が続くので、都会の史跡から離れて、気持ちだけでも涼しく感じられる場所に行きたいと思います。

梼原町(高知県高岡郡梼原町)の茶堂です。「ちゃどう」と読みます。
小さな建物の事で、地元の人々が、旅人に番茶をふるまうためにあるそうです。

梼原 水車
梼原町には今も茶堂はいくつかありますが、「太郎川公園」の茶堂は今でも、夏の日曜日に使われているそうです。
1996年8月4日朝日新聞より
水車の向こうに見えるのが、「太郎川公園」の茶堂です。


梼原村茶堂3  梼原村茶堂2
上の写真は那須の屋敷跡から500mくらいの場所にある茶堂です。
龍馬たちはこの前を通りました。
写真集坂本龍馬の生涯より

那須屋敷の近くの茶堂を訪れた時、保育園の園児達が先生とお散歩に来ていました。
茶堂の雰囲気と、可愛い子供達がすごくほのぼのとさせてくれました。
自然の中で遊べる子供は逞しそうです(笑)

この茶堂の前を龍馬が通ったといいますが、この茶堂のすぐ近くに(先日と重複しますが)↓
龍馬脱藩の道 がありました。
龍馬が通った時、この辺りはもっと山深かったのか、それとも今よりも人が多く住んでたのでしょうか?
那須父子や吉村虎太郎らを輩出した土地ですので、そんな寂れた土地だったとは考えにくいですね。
それに四国は、八十八箇所巡りの巡礼さんも多いので、あちらこちらに多くの集落があったのかもしれませんね。
今でも御接待が普通に行われていると聞いた事があります。

山の中を歩いて来たのならば、人の集まる村に出るとホッとしたのではないでしょうか?


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維新の門群像

2008年07月30日
梼原町の和田城跡に土佐出身の8人の志士の像がありあます。
維新の門群像(高知県高岡郡梼原町川西路)です。
維新の門2   維新の道7

維新の門1
      8名の配置

維新の道6
    掛橋和泉

維新の道4   維新の道5

維新の道2   維新の道3

和田城跡の広場にド~ンと、銅像が現れます。
梼原町には似合わないような…。と、これは私の勝手な感想です。
「維新の門」の字は橋本大二郎知事が書かれていました。

確かにこの維新の門群像を見るのも、希望の一つでした。
見た瞬間は、すごい! 見られてよかった!と思いましたが、ずっと印象に残っているのは、新しい銅像よりも、幕末当時からある茶堂や、那須父子邸跡などの古いものです。

和田城跡は梼原中学校の近くにありました。
町役場から国道179号を西に少し行ったあたりです。
少し判り辛かったです。
城跡で周りより少し小高い場所になります。

坂本龍馬の顔ぐらいしか知らないので、この銅像の容姿がどれだけ本人に似ているのかは、私にはわかりませんが、皆さん凛々しいお顔をされています。
似てるのでしょうか?


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維新の門 (補足)

2008年07月30日
あまり目にしない方々(あくまでも私の中で)の、略歴を紹介しておきます。
今のところ、下記に書いた人に関する、他の史跡を巡っていません。
地元や土佐勤王党関係では、大変有名な方なのかもしれませんね。

掛橋和泉
土佐の尊攘派。神官。
高岡郡梼原村の郷士那須常吉の次男に生まれ、のち神官掛橋因幡の養子となりました。
通称、順次。和泉と称しました。
郷士那須俊平について剣術と儒学を学びましたが、ペリーの来航後、尊皇攘夷を唱えるようになりました。
師の俊平、吉村虎太郎らと武市半平太の勤王党の運動に加わりました。
文久2年8月、藩主山内豊範の上京が実現し、吉村は単身で脱藩しました。掛橋も吉村にならって脱藩、上京の決意をしました。
しかし、活動資金を家から持ち出したり、他から借りていたことが家人に知られました。
養母にその使途を詰問されましたが、答えるわけにいかず、事情を友人に話して、養父の墓前で自殺しました。
幕末維新人名事典より


前田繁馬
高岡郡梼原村松原の庄屋。
土佐藩士下元善平について書を学び、のち前田恒五郎に浅山流の武技を学び、また公文藤蔵について長沼流の兵学を究めました。
安政6年、過失により庄屋の職を追われました。
文久3年2月、親戚の前田要蔵が藩務で京都守衛の為上京するので、奴僕となって京都に行き尊攘の士と交流を持ちました。
この年8月、天誅組が大和五条で挙兵、吉村虎太郎らと参戦しました。
各地を転戦中、9月7日に彦根藩兵が大和下市に駐屯するところを襲い、兵糧などを奪い任務を果たしました。
しかし戦いには敗れ、傷病者を助けて逃走し、初瀬で津藩兵と戦い倒れました。
墓は慈恩寺の共同墓地。享年26歳。
幕末維新人名事典より

沢村惣之丞
土佐国土佐郡潮江村の出身の土佐藩士。海援隊士。
間崎滄浪に学びました。
土佐勤王党にも参加し、吉村虎太郎に同調して脱藩しましたが、同志の説得ために引き返し、龍馬と再び脱藩しました。
龍馬と別れたあとは、公家に仕えていましたが、文久3年4月に再会した龍馬と大久保一翁と会談して啓発されました。
5月ごろには、勝海舟の門下となり、神戸海軍操練所で航海術を学びました。その後は亀山社中、海援隊の中心人物となりました。
英語に通じていたそうです。
龍馬の死後、京都油小路の天満屋を襲撃。慶応4年1月には、海援隊を率いて長崎奉行所を占領しますが、誤って薩摩藩士を殺害し、その責任を負って自刃しました。
享年26歳。墓は長崎市筑後町の本蓮寺。
坂本龍馬大事典より

梼原村

2008年07月29日
梼原街道が通る、梼原町(当時の梼原村・高知県高岡南梼原町)は龍馬脱藩の道です。
土佐の山々
  地芳峠付近からの風景

梼原村
愛媛県上浮穴郡柳谷村と高知県高岡郡梼原町との県境

龍馬脱藩の道
   梼原町にある案内板

かつて津野氏が支配して津野山郷と称し、独特の風俗・文化が生まれました。
幕末の頃、吉村虎太郎を輩出しました。

文久2年3月24日、龍馬と沢村惣之丞は脱藩の為高知を発ち、翌日の夜、梼原村太郎川の那須俊平・信吾父子の家に泊まりました。
翌26日早朝、那須父子の案内で梼原村を出て、四万川村の宮野々関を越え、茶屋谷から松ヶ峠番所を越えました。
そこから先は、険しい山道を国境に韮ヶ峠をと向かいました。
坂本龍馬大事典より


梼原町に向かう峠からみた、土佐の山々の風景が忘れられません。
あまりに美しかったのです。
日本の原風景を見た気がしました。

梼原町に入り、役場などがある中心部に行くまでの、山間の民家の風情がさらに印象的でした。
山道を進むと、数件の集落がポツポツとある感じです。
そこを歩いていたおばあさんがまたいい雰囲気で、風景に溶け込んでいました。

実際に住むとなると、大変な事が多いと思いますが、住んでみたいと思う風景でした。

龍馬はこの険しい山の中を、命がけで歩いたという事です。
私は愛媛方向から梼原に入りましたが、龍馬は愛媛方向に抜けた事になりますね。

武市半平太墓

2008年07月28日
武市半平太・富墓(高知県高知市仁井田3021、吹井)は、旧邸の最上段にあります。
武市半平太旧宅2
妻・富の墓と並んで建っています。
向かって右側が半平太、左側が富のお墓です。

「武市半平太小楯 慶応元年乙丑壬五月十一日 三十七歳 故武市半平太太贈正四位碑」
「武市富之墓 大正六年四月二十三日八十八歳 墓碑半太誌」

武市半平太は、長身で端正な姿、角ばったあごが特徴だったそうで、親友の坂本龍馬は「武市のあご」「窮屈」とか呼んでいたそうです。
半平太は龍馬の事を「龍馬のアザ」と呼んでいました。

江戸で薩摩、長州、水戸の尊皇攘夷派と交流し、土佐勤王党をつくりました。
帰国後、勤王党首領となり、一藩勤王をめざして192名の署名を集めました。

文久2年4月8日の吉田東洋の暗殺後は、土佐勤王運動は一時的に発展し、同年末には上士格となり留守居組みに列せられました。
しかし、かつて東洋を登用した前半主山内容堂が実権をもつと事態は一変しました。

文久3年9月、半平太及び勤王党有力者の多くが南会所と山田町の獄舎に入牢させられました。
半平太は1年半に渡り、厳しい尋問を受けました。
半平太の弟田内衛吉が服毒自殺、島村衛吉の拷問死などがありました。
半平太は東洋の暗殺を否定したまま南会所の獄内で切腹しました。
他に獄死2名、斬首3名、禁錮7名、岡田以蔵は獄門刑でした。
坂本龍馬大事典より


生家の横の道を登り、瑞山神社を通り過ぎ、さらに登ると墓地があります。

武市家のお墓で、すぐに判りました。

私の勝手な想像コーナーです(笑)
例の「竜馬におまかせ!」では、武市さんは口の臭い病気?というようなイッテる人物で出てきました。俳優さんは池田成志氏でした。
確かに、剣士より策士という感じでよかったです。
あのドラマにはあの武市さんはピッタリでした。

最近、自画像や銅像などを見て思うのは、大河ドラマ「新選組!」で山南敬助・「篤姫」で徳川家茂を演じた堺雅人氏が武市さんのイメージに合うのではないかと思うのです。
武市半平太ファンの方、いかがなものでしょう?


瑞山神社

2008年07月28日

瑞山神社(高知県高知市仁井田3021、吹井)が、生家の上にあります。
武市半平太旧宅3 
旧邸を訪れた時、お墓に行く途中に神社がありました。
神社の横に碑があります。
大正4年に土地有志によって建てられた遺詠です。
「花依清香愛 人以仁義栄 幽囚何可恥 只有赤心明」が彫られています。
坂本龍馬大事典より


武市半平太旧邸5217

神社の境内に建物がありました。
扉がありました。開けてみていいものか…。
家ではなく、たとえるなら寒い地方のバス停(雪除けの為に壁と扉が付いている)って感じのものでした。
一緒に旧邸を探しに付いて来てくださった運転手さんが、開けてみてくれました。

壁に、武市半平太の一生を描いたような絵が、何枚も飾ってあったような記憶があります。
その他には、祭祀かお祭に使う、何かが数点置いてあるだけだったような…。

旧邸、神社、お墓と三点セットの中で、一番印象の薄い場所でした。

武市半平太旧邸

2008年07月27日
私のお気に入りの1枚です。
素晴しいできばえ!という訳ではありませんが、この雰囲気や風景・情景が好きです。

電車で高知に行ったので、この武市半平太旧邸(高知県高知市仁井田3021、吹井)に行く交通手段には困りました。
武市半平太旧宅4

武市半平太旧宅1
現・坂本氏宅です。瑞山橋バス停から南へ800m程進んだ所から、右側の山の手に入る所です。
かやぶき式平屋づくりの建物でしたが、屋根はトタンの鞘で覆われました。
間数は6室、客室は八畳で、小池のある庭園なども保存されているそうです。

文政12年9月27日半右衛門正恒の長男として、ここで生まれました。
早くから学問に志、剣士として千頭伝四郎、麻田勘七らに学び、江戸に出て桃井春蔵の門下となりました。

この邸宅へ龍馬が来たという確証はありませんが、武市と坂本は遠戚に当たり、親交があったため、田淵新町の道場以外にも、この生家を訪れた可能性もあります。
坂本龍馬大事典より


高知駅前からタクシーに乗り、前述の桂浜の坂本龍馬像に行く途中に寄りました。
親切なタクシーの運転手さんで、幹線道路に車を止めて一緒に確認しに来て下さいました。
(ちなみに母も旅行を兼ねて一緒でした。)

生家の方は、現在住んでいる方がいらっしゃるので、生家裏にある武市半平太の墓地や瑞山神社に通じる道から外観を拝見させて頂くだけにしました。
写真は、車を止めた道から撮りました。
朝陽を受けて、山の木々の間に浮かぶ生家…、幕末の頃を想像させてくれるような雰囲気だと思います。

武市半平太像-須崎

2008年07月26日

昨日の坂本龍馬は、真夏の太陽が似合いそうですが、武市半平太は真夏の太陽より書斎が似合いそうなイメージを持っています。

武市半平太像(高知県須崎市横浪県立自然公園)です。
武市半平太像2  武市半平太像台座

須崎市に銅像があるとは聞いていました。
車で海岸沿いを走っていると、偶然出会えました。
見てみたいとは思いながらも、今回は無理だろうと諦めていました。
なので本当に偶然、運よく通りかかったのです。

銅像の建つ周辺は、閉鎖して荒れ果てた建物があったり、寂れた場所になっていました。
それが坂本龍馬と対照的でした。
武市半平太像より太平洋
武市半平太像より海を眺める

武市半平太といえば、「土佐勤王党」です。
土佐勤王党に参加したのは、192名でほとんどが郷士以下の下士・庄屋などでした。
勤王党の連判状の9番目に坂本龍馬の名前があり、中岡慎太郎の名前もあります。
写真集坂本龍馬の生涯より

江戸での最初の血判には、岡田以蔵も加わっていたと島村衛吉があかしているそうです。
武市半平太と大石弥太郎が連判状を前に密談をしているところを、以蔵に見つかり、不良の人物と知りながら加えたという話が、「皆山集」にありますが、いかにも小説めいていて真偽はわかりません。
しかし、大石団蔵・安岡嘉助・那須信吾の3名は抹消しており、吉村虎太郎・池内蔵太ものぞいています。
それは筆による抹消ではなく、紙を裁断して繋ぎ合わせたり、抹消された名前の上に別の同志の名を貼り付けているようです。
冒頭の江戸加盟の人たちの間に、土佐にいた間崎哲馬・門田為之助が挟まっているのはおかしいので、これは内蔵太と以蔵の上に重ねた可能性もあります。
武市半平太伝より

この消された連判状の話はどこまで本当なのでしょう。
もしかしたら、岡田以蔵の直筆が残っていた可能性もあったのかも…。




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坂本龍馬像-桂浜

2008年07月25日
暑い日が続いています。
西日本は暑いです。日本海側では、38度になったりと猛暑日も多発しています。
そこで暑さが似合いそうな熱い男、坂本龍馬像を今回の話題に選びました。

あくまでも私の勝手なイメージです。
新選組も熱い男達の集団ですが、「暑い夏」より「寒い冬」のイメージでしょうか。

坂本龍馬像(高知県高知市桂浜龍頭岬上)は有名ですので、知らない人は少ないと思います。
坂本龍馬像1
    坂本龍馬

2度目に訪れた時は、イベントがあり、銅像の横に櫓が建てられていました。
自由に登って、龍馬と対面できました。
坂本龍馬4216
上から龍馬を見下ろしました。見下ろすなんて滅多にないことです!

坂本龍馬像2櫓上より  坂本龍馬像3櫓上より
龍馬の横顔
同じ高さの目線で太平洋も眺められました。

太平洋に向かって建つこの像は、高村光雲の高弟・本山白雲が製作しました。
昭和3年5月27日に完成序幕が行われました。
銅像の高さは5m77㎝、台座を含めると14m68㎝です。
総工費約25,000円でした。

銅像建設会を発足させ、寄付金を募りました。
元宮内大臣田中光顕を通じて、秩父宮(昭和天皇実弟)から御下賜金をいただき、それを基金としたそうです。
除幕式には田中光顕も祝辞を述べました。

戦争中、銅像は供出されましたが、室戸岬の中岡慎太郎の銅像と共に、"海軍の祖""陸軍の祖"として残されました。
坂本龍馬大事典より

私が初めて桂浜を訪れた時は12月でした。
浜には誰もいてなくて、貸切状態!
龍馬象の周辺には、数人観光客がいましたが、それでも龍馬象も貸切状態でした!!
ただし、交通手段がなくて…。
私は車の免許がないので、高知には電車で来ていました。
さて、どうしたものか…?!
結局、タクシーで桂浜に行きました。
途中、武市半平太の生家などに寄ってもらって桂浜に来ました。
武市半平太生家は、この後書きたいと思います。

桂浜
     冬の桂浜です

桂浜でゆっくりとしたかったので、タクシーには待ってもらわなかったのですが、帰りにタクシーを捜すのに大変苦労しました。
が、高知のタクシーの運転手さんは、すごく親切で好印象を持ちました。

桂浜の坂本龍馬像は、太平洋を見ているせいもあるのでしょう。
青い空に映えそうです。
「暑さが似合う、熱い男」のイメージに合いそうでしょう。

御殿山下砲台跡

2008年07月24日
台場小学校の校庭に御殿山下砲台跡(東京都品川区東品川1-8-30)があります。
御殿山下台場跡2  御殿山下台場跡1
嘉永6年のペリー来航に衝撃を受けた幕府は、江戸湾防備の一環として、品川台場が建造されることになりました。11基が建造される予定でした。

ペリーが去った直後から着工され、御殿山などの土を削って舟で運ぶという難工事となりました。
財政難から、第四・第七台場は工事半ばで中断され、その代わりに海岸に御殿山下砲台が造られることになりました。第八台場以下は取りやめられました。

御殿山下砲台は、品川の海岸と陸続きだったので、陸台場とも呼ばれました。
安政元年5月に着工し、12月に完成しました。
五稜形の台場跡はそのまま区立台場小学校の敷地になっています。

小学校の正門を入った右手に、第二台場にあった品川灯台のレプリカがあります。
その下に敷かれた石は、品川台場の石垣に使用されたものです。
幕末維新江戸東京史跡事典より

この灯台の模型は覚えています。
日も暮れかかった時に見つけました。
川を渡ったのを覚えていますが、実は高浜運河だったようです。
運河といわれても、ピンッとこないです。

学校の運動場にも人っ子ひとりいませんでした。
小さな通用門が開いていたので、写真だけ撮らせてもらいました。

今の地形でいえば、運河がありますが、東京湾からは直線でも1.5㎞弱は離れています。
この地に砲台跡とか、灯台のレプリカを見ても、海はどこ?状態です。

学校の中に、幕末の史跡があるなんて羨ましいです。
小学生はきっと全然関心は無いでしょう。
でも、私には羨ましい!

一心寺(東京)

2008年07月23日
一心寺(東京都品川区北品川2-4-18)は、井伊直弼が建立にあたり、「日本鎮護、開国条約、宿場町民の繁栄安泰」を祈願したといいます。
江戸一心寺
由来には大老についてからのように書かれていますが、建立後に大老になっています。

品川宿本陣のすぐ近くだったので、井伊直弼は幕末という事で、前を通って次に行きました。

そんな感覚で訪れたので、どんなお寺でどんな場所にあったのか、思い出せないでいます。
写真を見る限り、あまり大きな境内があるお寺ではないですよね。

品川宿本陣跡

2008年07月22日
品川宿本陣跡(東京都品川区北品川2-7-21)は、聖蹟公園にあります。
品川宿本陣跡2  品川宿本陣跡1
品川宿は当初、南・北品川宿に本陣があったそうです。
後に、本陣は北品川宿一軒になりました。

慶応4年、戊辰戦争が始まると、品川宿は東海道を往来する兵士で溢れたそうです。
新政府軍の先鋒副総督大原俊実が三藩の兵士約500名と本陣に入りました。
先鋒総督の橋本実梁が池上本門寺に入り、江戸城を接収しました。
この頃は、品川宿の各寺院は宿舎となり、混乱しました。
その後、大総督有栖川宮熾仁親王が品川宿に到着しました。

会津藩降伏の二日前、京を発った明治天皇は10月12日に品川に到着。
内待所を荏原神社に奉安したあと、品川本陣に宿泊しました。
幕末維新江戸東京史跡事典より


公園の中に説明板が建っていました。
本陣跡というものは、その説明板ぐらいで、建物などは何も残っていませんでした。
品川宿といえば、東海道の最初の宿ですから、もっと何かが残っているのかと思っていました。

東京中心に近すぎて、何も残らなかったのでしょうか?
新選組関係者はここで宿泊はせずに、江戸なら目的地、京方面ならもっと先の宿まで行っているでしょうね。
そんな体力の無いものは、新選組隊士としてはやっていけないですよね。
宿泊しているとすれば、相手方の都合でしょう。


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釜屋跡

2008年07月21日
釜屋跡(東京都品川区南品川3丁目)を訪れました。
釜屋跡1  釜屋跡2
品川寺門前の立場茶屋です。主人は半右衛門。
立場茶屋というのは、宿場と宿場の間に作られた、馬子や人足の為の休憩所でした。
後に一般の旅籠も営むようになりました。
幕末期には、幕府の御用宿として利用されていました。

新選組も慶応3年10月21日に、土方歳三が江戸募集の新入隊士らと30人と昼食をとっています。
また、翌年1月には、鳥羽・伏見の戦いで敗戦し、江戸に帰ってきた新選組が15日から23日まで滞在しています。
新選組大事典より


京急本線青物横丁駅のほぼ前に品川寺があります。
この門前に釜屋がありました。
商店街を歩いた記憶があります。

今は説明板があるだけでした。

あまりに素っ気無かったので、印象に残っていないのです。
ただ、「え~、こんな所に、新選組関係の史跡があったのか!?」と思ったのは覚えています。

東京在住の新選組ファンの知り合いが、私が見落としていた場所にも多く案内してくれたので、「えぇ~!!」とい史跡の一つでした。

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長楽寺-水戸藩留名の碑・尊攘の碑

2008年07月20日
長楽寺(京都市東山区円山町626)の水戸藩留名の碑と尊攘の碑です。
水戸藩留名の碑
水戸藩留名の碑(左)は、藩主慶篤に従って上京し、落命した藩士62名の顕彰碑。
尊攘の碑(右)は、尊攘に活躍した水戸藩士とその事蹟を刻んであります。

この他、松平昭訓(慶篤の弟で文久3年京で歿)のお墓もあるそうです。
写真で見る維新の京都より

松平昭訓のお墓は行っていません。
どうして行かなかったのかな?
ここまで来ておいてね~。
非公開だったのか?
いやぁ~、そんな記憶はないのですが。
ただ単に、忘れていただけだと思います。

鵜飼家墓地があまりに強烈な印象だったので、他のお墓の事は記憶が薄くなっています。
火災後、拝観も再開されているようです。


流星の如く―幕末維新・水戸藩の栄光と苦境流星の如く―幕末維新・水戸藩の栄光と苦境
(1998/01)
瀬谷 義彦鈴木 暎一

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長楽寺-大場一真斎墓

2008年07月20日
長楽寺(京都市東山区円山町626)には、大場一真斎の墓もあります。
大場一真斎墓
大場一真斎も水戸藩士です。
文政12年、藩主斉脩の継嗣問題に斉昭を擁立し、下士、軽輩出身者の多いなかにあって目立つ存在でした。
弘化元年以降、幕府によって斉昭が処分を受け解除される度に、同じように免職処分と復職を繰り返しました。

文久2年執政に復帰、翌年藩主慶篤に従い藩兵を率いて上京、本圀寺に入りました。
本圀寺党の首領として一橋慶喜のうしろ立てとなり、在京の志士と交わりました。
元治元年主膳正となり、武田耕雲斎の西征軍討伐軍の監察として出陣しました。
明治元年、本圀寺党が帰国して諸生党の撃滅を目ざしたとき、病と称して京都にとどまりました。
明治4年正月病没、69歳。
幕末維新人名事典より

大場一真斎ファンの皆さん、ごめんなさい。
実はどんな方か全く知りません。
本圀寺党という言葉も初めて聞きました。

執政として藩主と行動をともにする程の大物なのですよね。
幕末を生きた人という事で、お墓を拝見させていただきました。

お墓の横に、写真のように名前を書いた木柱が立てられているので、すぐにわかりました。

長楽寺-原市之進墓

2008年07月20日
長楽寺(京都市東山区円山町626)には、原市之進の墓があります。
外史橋まで戻り、山道を辿るとあります。
原市之進墓
原市之進は水戸藩士です。
会沢正志斎、藤田東湖に師事。
青山延光に学びました。
塩谷宕陰、藤森弘庵に学び、昌平黌に入りました。
川路聖謨に付いて長崎で、外国事情を学びました。

水戸藩下付の攘夷の密勅回達を主張し、江戸で運動しました。密勅返納の幕命に反対しましたが、表立っては行動しましせんでした。

奥祐筆頭取となり藩政の枢機に携わり、改革を進言して幕府後見職一橋慶喜に知られました。
大場一真斎らと上洛、本圀寺で志士との周旋につとめました。
元治元年慶喜が禁裏御守衛総督摂海防御指揮に任ぜられた時、乞われて一橋家御雇となり、御側御用取扱を命ぜられ、幕府より三十人俸を受けました。
慶喜の信任あつく、以後幕政のすべてに深くかかわりました。

慶喜が将軍就任後、奥番格奥詰となり、目付に任ぜられました。
薩長や諸藩志士の反対を押し切り兵庫開港につとめ、勅許を得ました。
この為非難を一心に受け、付けねらわれました。
慶応3年8月14日、自宅で結髪中、幕臣鈴木豊次郎、依田雄太郎に暗殺されました。
山岡鉄舟、高橋泥舟の使嗾といわれています。
慶喜は深く悼み、長楽寺に丁重に葬りました。
幕末維新人名事典より

山道を辿ると…とありますが、こちらはちゃんと道があります。
鵜飼家墓地のように、登山する必要はありません。
きちんと墓域が作られているので、見逃す事はないと思います。

慶喜といえば、新選組からみても重要人物です。
その慶喜が全幅の信頼を寄せていた原市之進ですが、ほとんど詳細をしりませんでした。

安政の大獄以後、水戸藩士は鳴りを潜めているように思います。
その為か、水戸藩士中心の書籍を読んだ事がないような…。
私が新選組中心なので、ただ単に勉強していないだけでしょうか?

長楽寺-鵜飼家墓地

2008年07月20日
長楽寺(京都市東山区円山町626)で、次のお墓参りは鵜飼家の墓地です。
鵜飼家墓1  鵜飼家墓2

鵜飼家墓3  鵜飼家墓4

鵜飼家墓5
頼山陽の墓地の東脇を北へ50mほど行き、右手の山腹へ上ると鵜飼家の墓地があります。
道はほとんどありません
(※)
写真で見る維新の京都より

鵜飼吉左衛門は水戸藩士です。
天保年間京都留守居役となり、以後主として京都における水戸藩尊攘派の中心として、月照の潜伏を助けるなど活躍しました。
弘化元年、斉昭に対する幕府の謹慎処分に、参議橋本実麗に雪冤をはかって職禄を奪われ水戸に送還されました。嘉永6年に復職しました。
安政5年、幕府が通商条約承認の勅許を求める動きに在京の志士が反発しました。
水戸藩への攘夷の密勅降下をはかったさい、京都留守居役として水戸藩を代表して、積極的にかかわりました。
8月8日、万里小路正房から直接密勅を受け、長子幸吉に江戸小石川藩邸に伝達させました。
この事件をきっかけに安政の大獄がおこりました。
9月16日京都町奉行所によって逮捕され、松平飛騨守利鬯邸に禁固、拷問を受けました。
安政6年8月27日、伝馬町に獄にて斬罪に処せられました。


鵜飼幸吉は吉左衛門の長子です。
安政4年京都留守居役助役となり、在京の志士、公卿と交わり尊攘活動をしました。
翌年、密勅が水戸藩に下付された時、大坂蔵屋敷の小役人小瀬伝左衛門に姿を改め、大津で準備を整え、東海道で江戸小石川藩邸に運び込みました。
9月16日父とともに逮捕、榊原政恒邸に禁固されました。
安政6年8月27日、安政の大獄刑死者のうちもっとも重い獄門に処せられました。
幕末維新人名事典より

上記の(※)の、「道はほとんどない」を参考に墓地を捜しました。
私はこれを“よぉ~く探さないと、道を見つけられない”程度に思っていました。
が、それは大間違いでした。
本当に「道がない!」

それも平坦な道ではありません。急な上り坂です。
よくハイキングに行って、道を踏み外したら危ないと思う、急な谷底への道があると思います。
あれぐらいの坂道で、低木や高木が茂っています。
上る時も道がないので、木が生えていない場所を探しながら、木の根や幹を引っ掴んでよじ登って行きました。
さすがにそこまでして、鵜飼家墓地に行く人もすくないでしょうね。

坂を上ると、広くはありませんが、開けた平らな場所があり、そこが鵜飼家の墓地でした。
訪れた当時は、鵜飼父子の名前も初めて聞いたばかりでした。
今も“鵜飼”という名前を耳にした事がある程度ですが、大河ドラマの流れでなんとなく、どういう役割をしたのかは想像しやすくなりました。
ただし、私の想像が正しいかは判りません(笑)

上りも大変でしたが、下りはもっと大変でした。


覚書 幕末の水戸藩 (岩波文庫)覚書 幕末の水戸藩 (岩波文庫)
(1991/08)
山川 菊栄

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長楽寺-頼山陽・頼三樹三郎墓

2008年07月20日

長楽寺(京都市東山区円山町626)の名前は、テレビのニュースなどで耳にしたと思います。
収蔵庫が火災に遭ったニュースでした。
長楽寺
その長楽寺へは、円山公園南側の道を東へ辿ると着きます。

延暦24年に桓武天皇の勅命によって、最澄(伝教大使)が創建されたお寺です。
本尊は、最澄が彫ったと伝えられている准胝観音で二頭の龍にまたがった非常に珍しい観音様です。歴代の天皇の御即位式にだけ御開帳されます。
建礼門院が壇ノ浦の戦い後、出家したお寺といわれています。


この長楽寺には多くの有名な人のお墓があります。

本堂右脇を上ると墓地入口です。
外史橋を渡ると、頼山陽の墓があります。

頼山陽墓
    頼山陽墓

頼山陽は「日本外史」を著し、尊王論に基づいた史論は、幕末の勤王思想に大きく影響を与えました。
写真で見る維新の京都より

頼三樹三郎墓
  頼三樹三郎墓

墓地入口から、外史橋は迷わずに判りました。
山門までの階段は大変でしたが、この辺りは特に大変な道もありませんでした。
この油断が後で大変な事になるのに…。

頼三樹三郎のお墓は、東京の回向院にもあります。
頼三樹三郎の超略歴は回向院の回で。



頼山陽 上 (1)頼山陽 上 (1)
(2007/10)
見延 典子

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戒光寺-高村久蔵墓

2008年07月19日
戒光寺墓地(京都市東山区泉涌寺 泉涌寺山門前、即成院西側)にある高村久蔵の墓です。
高村久蔵墓
新選組隊士新井忠雄の臣です。

“新井忠雄の臣”としか判りませんでした。
いつ?どこで?の臣なのでしょうか?

戒光寺-茨木司・佐野七五三之助・佐原太郎・富川十郎・中村五郎・富山弥兵衛・竹川直枝墓

2008年07月19日
戒光寺墓地(京都市東山区泉涌寺 泉涌寺山門前、即成院西側)の佐原太郎・茨木司・佐野七五三之助・富川十郎・中村五郎・富山弥兵衛・竹川直枝の合同墓です。
茨木司達の墓
佐原太郎とは、新選組在籍中は篠崎信八郎と名乗っていました。
常陸松川出身で北辰一刀流を使いました。
慶応元年4月に江戸で入隊しました。慶応3年6月、幕臣に取り立てられ、見廻組並御雇の格を受けました。伊東甲子太郎らの分離には同行せず、6月以降に脱走して合流しました。その時に佐原太郎と改名しました。
油小路の変時は、伊勢に遊説中でしたが、帰京後、同志と近藤勇襲撃に加わり、鳥羽・伏見の戦いでは薩摩軍に属し、のち、赤報隊に所属しました。
その後、京都東本願寺に剣道場を開きましたが、中西登に刺殺されました。
享年24歳。

茨木司、陸奥中村出身の新選組隊士です。慶応元年7月頃に入隊しました。
勉強家で文武に秀で、剣術を免許以上に使ったため、近藤勇に重用されました。
伊東甲子太郎にも重用されていました。
大柄で正直だったようです。
伊東甲子太郎と不逞浪士探索の為奈良に行ったり、制札事件に参加しています。
伊東甲子太郎らの分離に同行を願ったが、近藤の留意で断念、伊東の密命を受けて新選組に残りました。
幕臣取立てに反発し、佐野七五三之助ら9名と新選組脱退を進言し、京都守護職屋敷で近藤と話しあいましたが、伊東甲子太郎らへの移籍は禁じられていたため、進退きわまり同志とその場で自刃しました。新選組の謀殺説もあります。
遺体は新選組の手で、光縁寺に埋葬されましたが、慶応4年3月13日旧御陵衛士によって改葬されました。


佐野七五三之助は尾張名古屋出身です。北辰一刀流。
文久3年ごろから横浜外国人居留地の警備の任につき、同僚の篠原泰之進らと尊攘を約し、伊東甲子太郎を知りました。
元治元年10月、江戸での隊士募集に応じました。同年12月の編成では、四番斉藤一隊に配属されています。
慶応3年正月から3日まで伊東、永倉新八らと島原角屋に居続け事件があります。
伊東甲子太郎分離の祭は、密命を受けて新選組に残留しました。
幕臣取立てに反発し、伊東派隊士と脱退を進言、京都守護職屋敷で近藤と会いましたが、脱退不能の為、茨木司らと自刃しました。
佐野七五三之助は、その際絶命しきれず喉を突いた脇差を抜き取り、大石鍬次郎に一刀を浴びせたため、隊士志村武蔵らにとどめを刺されました。しかし、なおも絶命しきれずに、縛った縄を噛んだといいます。
遺体は新選組の手で、光縁寺に埋葬されましたが、慶応4年3月13日旧御陵衛士によって改葬されました。


富川十郎は甲州出身とも常陸出身ともいいます。
慶応元年4月に江戸で入隊しました。
伊東甲子太郎らと通じていましたが、分離には同行せず隊に残りました。
幕臣取立てに反発し、京都守護職に嘆願書を提出しましたが、却下されました。伊東と相談のうえで再び守護職屋敷に赴き、近藤勇と話しましたが叶わず、邸内にて切腹しました。
享年24歳。

中村五郎は下野宇都宮出身で、慶応元年4月、江戸で入隊しました。
伊東甲子太郎と通じていましたが、分離には同行せずに隊に残りました。
幕臣取立てに反発し、京都守護職に嘆願書を提出しましたが、却下されました。伊東と相談のうえで再び守護職屋敷に赴き、近藤勇と話しましたが叶わず、邸内にて切腹しました。
享年19歳

富山弥兵衛は薩摩出身です。
元治元年10月前後に京坂で入隊しました。
薩摩藩の間諜として入隊しようとしましたが、疑惑を持たれ拒絶されていたところを、伊東甲子太郎の口添えで入隊したといいます。
慶応3年、伊東甲子太郎らと新選組から分離しました。
油小路の変では窮地を脱し、12月には近藤勇を狙撃し重傷を負わせました。
鳥羽・伏見の戦いでは薩摩軍属し、負傷しました。治癒後に越後出雲崎で水戸諸生党に捕えられ、脱走しましたが追っ手と戦闘となり死亡しました。享年26歳。

竹川直枝とは清原清の改名後の名前です。
肥後出身で、本名の西村弥左衛門を脱藩時に清原清と改名しています。
慶応元年4月、江戸で入隊しました。砲術師範。
伊東甲子太郎の分離には同行しませんでしたが、脱走して合流しています。竹川直枝に改名しました。
油小路の変の祭は伊勢に遊説中でしたが、帰京後、加納道之助とともに江戸へ出張中に鳥羽・伏見の戦いが勃発し、薩摩軍に属しました。
北関東から会津に転戦し、白河口の戦いで戦死しました。
享年37歳。
新選組大事典より



新選組血風録 (角川文庫)新選組血風録 (角川文庫)
(2003/11)
司馬 遼太郎

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戒光寺-毛内有之助墓

2008年07月19日
戒光寺墓地(京都市東山区泉涌寺 泉涌寺山門前、即成院西側)の毛内有之助の墓です。
毛内監物墓
毛内有之助は津軽藩士、毛内有右衛門祐胤の次男で、継母は歌人毛内滝子です。
身長5尺2~3寸、痩せ型で色白、眼光鋭く穏和ですが激しい気質でした。
勤王色が強い家風の影響を受けて、脱藩を決意しました。
江戸を出て学問教授で生計をたてるうちに、伊東甲子太郎と親交ができ、元治元年の新選組隊士募集に応じて上洛しました。
慶応3年3月、御陵衛士を拝命して、伊東と共に新選組を離脱しました。
油小路の変で落命しました。
新選組大事典より

毛内滝子…有名な歌人とありましたが、私は知りません。
聞いた事もないのです。
調べてみるのも面白そうですね。

身長とか痩せ型、色白などが、残っているというのはいいですね。
想像するにも、より具体的に想像できます。

痩せ型で色白というと、どちらかいうと学者タイプだったのかな?
継母も歌人ですし。
痩せていて色白って、私があこがれます。
そんな体型になって見たいものです。


司馬遼太郎短篇全集〈6〉1962.5~62.11司馬遼太郎短篇全集〈6〉1962.5~62.11
(2005/09)
司馬 遼太郎

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戒光寺-服部武雄墓

2008年07月19日
戒光寺墓地(京都市東山区泉涌寺 泉涌寺山門前、即成院西側)にある服部武雄の墓です。
服部三郎墓
服部武雄は、播州赤穂出身です。
元治元年10月前後に入隊したようです。江戸での入隊が有力です。
諸士取調役兼観察です。
慶応2年の三条制札事件に目付けとして出動し、報奨金を受けていまs。
伊東甲子太郎らと新選組から分離したのを機に、三郎兵衛と改名したようです。
享年36歳。
新選組大事典より

播州赤穂といえば、「赤穂浪士」を思い浮かべます。
新選組とは時代も違いますが、ふと播州赤穂の文字をみて思い浮かべました。

幕末の赤穂がどんな感じだったのかは、気にした事もありませんでした。
忠臣蔵以降の赤穂は?
歴史に出てこなくなりすね。


新選組・高台寺党新選組・高台寺党
(2004/03)
市居 浩一

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戒光寺-藤堂平助墓

2008年07月19日
戒光寺墓地(京都市東山区泉涌寺 泉涌寺山門前、即成院西側)の藤堂平助の墓です。
藤堂平助墓
藤堂平助は伊勢津藩藤堂和泉守の落胤ともいわれています。
神田お玉ヶ池千葉周作道場で、北辰一刀流を学び目録者となりました。その後、近藤勇の試衛館の内弟子となりました。
新選組では副長助勤。
慶応2年秋、近藤の東帰のさい、一足先に江戸に入り、深川佐賀町で北辰一刀流道場を開いている、旧知の伊東甲子太郎に会い、新選組入隊を勧めました。
伊東が入隊後、分離し孝明天皇御陵衛士(高台寺党)となった時、藤堂も伊東と行動をともにしました。
伊東甲子太郎が殺害された事を知らされ、藤堂平助も駆けつけましたが全身に刀傷を受け、絶命しました。享年24歳。
新選組の手で壬生の光縁寺に埋葬されましたが、慶応4年3月13日に戒光寺に改葬されました。
 益良雄(ますらお)の七世をかけて誓ひてしことばたがはじ大君のため
新選組大事典より

私の藤堂平助イメージは、“可愛い”です。
これも恐らく、小説や漫画からのイメージだと思います。

沖田総司と同じくらい、若い隊士です。
小説や漫画でも、沖田総司と同じイメージで無邪気さを強調させていたりで、子供っぽい可愛らしさを持ってしまいます。
藤堂平助も写真や肖像画が残っていないので、どんな容姿だったのかは興味があります。

そして油小路の変でも、よく近藤勇が「藤堂平助だけは助けたい」と言って、逃そうとした所を、新入隊士が後ろから斬ってしまった。という話が書かれます。
この話は本当なのでしょうか?
「藤堂平助だけは助かって欲しかった」です。
最後の新選組隊士になって欲しかったです。


新選組藤堂平助 (文春文庫 (あ44-2))新選組藤堂平助 (文春文庫 (あ44-2))
(2007/11)
秋山 香乃

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戒光寺-伊東甲子太郎墓

2008年07月19日
戒光寺墓地(京都市東山区泉涌寺 泉涌寺山門前、即成院西側)の伊東甲子太郎の墓です。
伊東甲子太郎墓
伊東甲子太郎については、【伊東甲子太郎道場跡】などで触れたので、ここでは真偽不明なエピソードを書きます。
慶応3年11月10日頃、坂本龍馬に身の危険を忠告したが聞き入れられなかったそうです。
(龍馬が襲撃されたのは、11月15日です。)
新選組大事典より

伊東甲子太郎と坂本龍馬に接点があっても不思議ではないでしょう。
しかしどうも、しっくり来ません。

世界が違うというか、次元が違うというか…。

私は新選組ファンです。
でも伊東甲子太郎と坂本龍馬なら、坂本龍馬の方が高尚な感じがするのです。
伊東甲子太郎の話というのが、新選組内部だけでのイザコザが中心になるからでしょうか?
すごく(人物が)小さくうつってしまいます。

なので坂本龍馬と知り合いとしても、なかなか耳を傾けてもらえなかったのでは?と想像します。
如何なものでしょうね?


龍馬と新選組 <文>でよむ幕末 (講談社選書メチエ)龍馬と新選組 <文>でよむ幕末 (講談社選書メチエ)
(2004/09/11)
管 宗次

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戒光寺

2008年07月19日

戒光寺墓地(京都市東山区泉涌寺 泉涌寺山門前、即成院西側)の高台寺党のお墓です。
戒光寺1

戒光寺墓地1  戒光寺墓地2

           戒光寺墓地配置図

戒光寺(京都市東山区泉涌寺山内町)は泉涌寺の塔頭です。
新選組を分離脱退した伊東甲子太郎が、新選組によって暗殺されました。
さらに掛け付けた高台寺党の、藤堂平助・服部武雄・毛内有之助が討死しました。
伊東甲子太郎ら4名の遺骸は、新選組によって壬生の光縁寺に葬られましたが、慶応4年3月に、篠原らによって戒光寺墓地に改葬されました。
新選組大事典より

戒光寺墓地を探すのも少し大変でした。
戒光寺はすぐに行けました。
泉涌寺へ向かう道を歩いていると、途中にありました。
でも墓地が見当たらないのです。
お寺の周辺を見ても、墓石が見えない…。

初めて訪れた時は、断念して帰りました。
2度目に訪れた時に、「あれっ?」と思う角を見つけました。
それは戒光寺から150m近く手前(泉涌寺道の交差点から、泉涌寺に行く場合)でした。

即成院の墓地かな?と思う墓地が、戒光寺の墓地でした。
「やったぁ~!!見つかった!!」と心の中で叫びました。

これで伊東甲子太郎や藤堂平助に会うことができます。

小川亭跡

2008年07月18日

小川亭跡(京都市東山区縄手通三条下ル西側)は、かつて「魚卯」と称した諸藩の肴屋で、肥後藩との縁が深かったのですが、家業を継ぐ事が許されず、旅館業に転じました。
小川亭2   小川亭1
女将・リセは、嫁のテイと倒幕派に力を貸していました。
平野国臣・松田重助・宮部鼎蔵・桂小五郎らが出入りして、離れ座敷で会合を開いていたといいます。離れ座敷は八畳で、鴨川の河原に面していました。

池田屋事件で小川亭が探索された記録は見つかっていませんが、近藤勇が「縄手二ヶ所」と書いているので、小川亭も視野にあったのかもしれません。

元治元年6月1日に、宮部鼎蔵の下僕が新選組に捕縛され、南禅寺山門に生き晒しになった時、テイが助けたというエピソードもあります。
(このエピソードには疑問があるそうです。)
京阪電鉄三条駅の構内南側に石碑があります。
新選組史跡事典より


三縁寺&小川亭 旧三縁寺跡と小川亭跡

小川テイさん、羨ましいです。
新選組の協力をしていたのではないですし、命がけの使命ですが、幕末の志士の力になっていたなんて…。
(寺田屋のお登勢さんもそうですね。)

テイさんの写真を見ましたが、誰かに似ている…。
誰だかは思い出せません。誰だろう?
写真は、パッと見たら小柄で細い女性なのですが、どこか気の強そうな感じがあります。
血を見ても倒れなさそうです。

それでも当時は、いつどんな理由をつけて捕縛されるかも判らないので、今では想像できないほど精神的に大変だったのでしょう。
それでもやっぱり、私は新選組の皆さんとお知り合いになりたいです。

旧三縁寺

2008年07月17日
三縁寺旧跡(京都市東山区縄手三条下ル東側)は、京阪電車三条駅の東側のバスターミナルにありました。
旧三縁寺跡2 
北より、西願寺・三縁寺・養福寺・高樹院の四ヶ寺がありました。
昭和54年6月16日、旧墓地内の志士の遺骨は丁重に発掘され、岩倉の墓地に埋葬されました。
写真で見る維新の京都より

池田屋事変の翌朝、検死後即死者と付近に倒れ死んでいた者の9人の遺体を、四斗樽につめて三条大橋東、縄手下ルの三縁寺に担ぎ込みました。
当時の住職といわれる吉水賢融上人は、江州野洲の出身で、三縁寺で出家し、下京の正行院に住職として務め、再び三縁寺に転住しました。記録の日付から、池田屋事変の頃は、三縁寺の住職ではありません。
しかし、腐っていく志士の遺体に同情して、誰か識別できない状態であったのを、池田屋の女中頭清水うのに見改めさせ、遺体確認のあと、志士の遺骸を葬りました。
遺体確認は小川亭のテイであるという説もあります。
賢融は20歳でした。後に、大本山清浄華院法主となり、大正5年に黒谷の院主となりました。
幕末維新京都史跡事典より

幕末当時、三縁寺のあった辺りは、なにもそれを思い出させるものはありません。
交通量の多い場所です。
京阪電車の三条駅(地下)を地上に出ればそこが、三縁寺のあった場所であり、小川亭のあった付近になります。

池田屋跡からは、目と鼻の先です。
池田屋の前の三条通を東に300m行くと、そこがバスターミナルです。
確かに池田屋で即死したり、周辺で死んでいる人間を運ぶには、距離的にいい場所にありました。

沖田総司や近藤勇、土方歳三と戦った人達が、葬られていたのですね。
その場所を掘り起こして、遺骨の調査をしたのが、昭和54年だという事です。
私、生まれていました!
でもまだ新選組の事は知らなかったか、ちょうど知った頃です。
もし今ぐらいのファンだったら、新聞の切り抜き(新聞に載ったかは不明ですが)等を取っておいたのに…。
実際に見られなくても、この場所まで来ていたと思います。

どうしようもないですが、本当に残念です。

三縁寺(岩倉)-上松源友胤墓

2008年07月16日
三縁寺(京都市左京区岩倉花園町)には、上松源友胤の墓もあります。
上松墓
上松源友胤って誰?
幕末関係の人名事典を見ても載っていません。
でもお墓はあります。
名前も残らない、ほんと~に普通の人なの?
と、手がかりがまだつかめていませんでした。

その時、インターネットで見たのが下の記事でした。

池田屋事変殉難烈士の墓に並んでいる「上松源友胤」は宮部鼎蔵の弟子。
文久3年7月26日、二条家の親幕派公卿を斬った際、相手に重傷を負わせたものの自分も斬られた。
これを同士が密かに三縁寺に葬ったといわれている。


ほ~、宮部鼎蔵の弟子ですか。
でもそれ以上今のところ、私は調べきれていません。
が、池田屋の変に関係はないようですので、時間がある時にでも調べてみます。

三縁寺(岩倉)-大高又次郎墓

2008年07月16日
三縁寺(京都市左京区岩倉花園町)の大高又次郎の墓です。
大高又次郎墓
大高又次郎は播州林田藩士・大高六八郎義郷の次男として生まれました。
武芸・西洋砲術、革具足製作に精通していました。姫路で甲冑製造に従事していましたが、勤王を志て、安政5年に脱藩して京都に入りました。
京都では梅田雲浜に師事しました。雲浜亡き後は、長州藩邸内に住み、吉田稔麿・吉岡庄助・宮部鼎蔵らと交わり、同志の武具を製作していました。
後に、古高俊太郎の店の別棟に移り、家族を呼び寄せて、同志の武具・兵器の調達にあたりました。
元治元年6月5日朝、古高は新選組に捕えられました。宮部と三条木屋町の丹虎にいた又次郎は難を逃れましたが、その夜池田屋にいた又次郎は斬死しました。
享年44歳。
新選組大事典より


吉田稔麿たちのお墓の横に、建てられています。
大高又次郎という名前は、前から聞いてはいましたが、甲冑製造など武具・兵器の調達係だったのですね。
実践で戦うより、裏方といった方がいい大高又二郎が池田屋の変で戦うのは、無理があったのではないでしょうか?
特に、相手は新選組、戦うために集まった集団ですから…。

池田屋に居合わせた人も、様々だったのですね。

三縁寺(岩倉)-宮部鼎蔵・松田重助墓

2008年07月16日

三縁寺(京都市左京区岩倉花園町)。
宮部鼎蔵・松田重助の墓です。
宮部鼎蔵達の墓  松田重助墓
宮部鼎蔵
は姓は中原、名は増美です。医者春吾の子。
肥後国益城郡田城村出身で、弟春蔵は禁門の変に敗れて、天王山で屠腹。
鼎蔵は山鹿流軍学師範の叔父丈左衛門の養子となり、跡を継ぎました。
熊本に来た吉田松陰と親交を結び、嘉永4年に江戸へ上り、松陰とともに東北地方を遊歴しました。
弟らの喧嘩に巻き込まれ免職。帰省中に清河八郎に会い、文久2年上洛して勤王の志士と交わりました。
八月一八日の政変では、七卿とともに長州に下りました。
元治元年、鼎蔵は松田重助、高木元右衛門と上京し、桝屋に潜んでいました。下僕忠蔵が捕えれら身の危険を感じた鼎蔵は、小川亭に潜んでいました。
しかし古高が捕まり、池田屋の変が起こりました。

松田重助は肥後国熊本城下に生まれました。
林桜園に国学、宮部鼎蔵に兵法を学びました。
17歳で藩の小吏となり、次いで藩主の弟・護久に仕えました。
安政2年、江戸を出て途中、江川太郎左衛門に会い、京で梅田雲浜の家に寓しました。
桂小五郎と謀り、肥州と水戸と長州との同盟を周旋しますが失敗しました。
安政の大獄を避けて、高野山から四国・九州へ逃れました。
文久2年、肥後勤王党の糾合を図りましたが失敗。文久3年、天誅組蜂起には合流せず、丹波から京都への途中で、七卿落ちの一行に逢い、長州へ下りました。
元治元年、宮部鼎蔵らと上京しましたが、池田屋の変に遭い闘死しました。享年35歳。
新選組大事典より


鳥居(?)の真正面が、写真左の墓碑でした。
やはり池田屋の変の犠牲者の中での大物はこの人でしょうか?
それとも吉田稔麿?

私の中では、宮部鼎蔵と吉田稔麿の名前があります。
小説などでも、中心的に書かれていませんか?

宮部鼎蔵が清河八郎と会っていた・知り合いだったのですね!
こんなところにも、新選組との接点がありました。
厳密には清河八郎は新選組隊士ではありませんが、きっかけを作った張本人です。
世間て広いようで、狭いですね。

正面にあって、少し高いところにお墓はあるので、仲間を見守っている雰囲気で建てられています。

そして写真右の墓碑(同じく宮部鼎蔵と松田重助の名が刻まれています)は、鳥居を入って右にありました。

同じ人物の墓碑が2基もありました。
私の勘違いではないはずです。
やはり大物?

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