新選組&幕末 ばんざい!!

新選組を中心に歴史の舞台を巡ります

アーカイブモード [2008年06月 ] 記事一覧

池田七三郎(稗田利八)墓-真浄寺

池田七三郎(稗田利八)の墓が真浄寺(東京都港区麻布台2-3-18)にあります。 慶応3年に、土方歳三による隊士募集で池田七三郎の名で入隊し、局長附隊士となりました。 翌年1月の鳥羽・伏見の戦いで負傷し、3月の甲陽鎮撫隊に従軍し、勝沼の戦いでも重傷を負いました。 その後、会津戦争にも参戦し、母成峠の戦いで斉藤一らと会津に残りました。 如来堂を襲撃され、久米部正親らとともに会津田島へ出て、水戸諸生隊と水戸へ...

称福寺

称福寺(東京都台東区今戸1丁目)は鳥羽・伏見の戦いでの負傷者の為の臨時病院になりました。 医学所などに収容されていた負傷者は、新政府軍の江戸入りを前に、30名ほどが移転しました。 松本良順も今戸神社に家族とともに移って、称福寺まで往診しました。 甲州勝沼の戦いで負傷した、池田七三郎、田村一郎などが収容されています。 新選組大辞典より 称福寺の門を見たときに、「お寺?」と思いました。お寺の門といえば、木...

医学所跡

近藤勇と沖田総司が入院した医学所跡(東京都台東区台東1-30南側一帯)です。 (菊地明氏・伊東成郎氏の「土方歳三写真集」に掲載されているのと、同じ場所を見つけられました。) 慶応4年、鳥羽・伏見の戦いでの負傷者の治療を命じられました。 前年に御陵衛士残党によって狙撃され、右肩を負傷した近藤勇と、肺結核の沖田総司も入院しました。 近藤の治療は医学所頭取の松本良順が行いました。 良順の次男・棟一郎が「私の家...

医学館跡

医学所跡から1㎞ほど離れた場所が、医学館跡(東京都台東区浅草橋4-15・16付近)になります。 幕府の漢方医学校です。 慶応4年の鳥羽・伏見の戦いに敗れた幕府軍は当初、医学所に収容されていました。 しかし相次ぐ負傷兵の帰還により、旧幕府より負傷者を医学館に送るように通達が出されました。 医学館は漢方が専門だったため、西洋医学を修めた医学所の医師から処置法を学び、軽傷者の処置に当たりました。 医学館での治療...

沖田総司誕生の地

専称寺の北側付近に白河藩下屋敷(東京都港区西麻布1-2および3-1・2一帯)がありました。 新選組史跡大事典より 写真は撮ったつもりが、どこを探しても見つかりません。 首都高速3号渋谷線の北側、「六本木6」の交差点の西麻布1丁目付近から、 首都高速南側の、長幸寺・妙善寺・桜田神社付近にかけてになります。 幼少の頃に育った下屋敷の前が、永遠の我が家になっています。 大使館や領事館が多く立ち並ぶ場所なので、...

専称寺-沖田総司墓

千駄ヶ谷か今戸かで亡くなった沖田総司の墓は、専称寺(東京都港区元麻布3-1-37)にあります。   沖田総司は天保13年、白河藩の江戸下屋敷で生まれたといいます。 父は勝次郎といい、白河藩の足軽小頭を務めていましたが、弘化2年、総司が4歳の時に死亡しています。 母親の名前は不明ですが、文久2年8月9日に死亡した、「誠心院清室妙林大姉」の戒名の人だと思われます。 総司の長姉・ミツは弘化3年に日野の井上林太郎...

試衛館跡

試衛館跡(東京都新宿区市谷甲良町20)といわれる場所です。   天然理心流四代目宗家、近藤勇の道場です。 天保10年に勇の養父周助によって建てられました。 小石川柳町とも牛込柳町ともされますが、牛込柳町の交差点を100mほど南下し、左手の坂を上りきった左の「コスモ市ヶ谷」付近にありました。 当時の町名は甲良屋敷でした。 道場は50㎡、住居は勇の書斎八畳、客間十畳、茶の間兼隠居部屋が八畳、台所、細長い食客部屋、そ...

今戸神社-沖田総司終焉の地 弐

植木屋宅跡付近の史跡より先に今戸神社(東京都台東区今戸1丁目)を書きたいと思います。   永倉新八の記録による、沖田総司最期の地です。 松本良順の今戸神社転居に伴い、沖田も医学所から神社境内の松平伊豆守の祈願所に移り、この場所で亡くなったと記しています。 当時の本殿は現在地より川沿いにありました。 現在の境内は梅林でした。 祈願所の詳しい位置は不明です。 新選組大事典より 沖田さんはどこで亡くなったので...

植木屋平五郎邸跡-沖田総司終焉の地 壱

植木屋平五郎宅跡(東京都新宿区大京町29)といわれる場所に行ってみました。 植木屋平五郎は江戸千駄ヶ谷池尻橋に住んでいました。 結核を患った沖田総司が平五郎の納屋で療養し、そこで最期を迎えたといわれています。 (近藤勇五郎 談) しかしまだ証明されていません。 新選組大事典より 沖田総司の最期の地についても諸説あります。 その中の一つが、植木屋平五郎宅の納屋というものです。 多くの小説に出てきます。 大内美...

日枝神社

海舟邸を後にして、日枝神社(東京都千代田区永田町2-10-5)に向かいました。   沖田総司は、一文字則宗を所持しており、死後どこかの神社に奉納されたという話があります。 話の真偽はわかりませんが、小説や映画などでは“菊一文字”が沖田総司の愛刀として描かれる事が多くあります。近藤勇は“虎徹”ですが、こちらも真偽は…。 その「国宝 菊一文字則宗」が日枝神社にあります。 沖田総司の...

勝海舟邸跡-弐

明治5年春から亡くなるまで住んだ勝海舟邸跡(東京都港区赤坂6丁目6番地)です。   勝海舟は、明治後に旗本の柴田松之丞の屋敷跡に住んだそうです。 旧氷川小学校付近です。 氷川神社内の四合稲荷(しあわせいなり)は勝の命名だそうです。 坂本龍馬大事典より 氷川小学校は無くなっているのですね。 私が訪れた当時は、校内に「史跡 勝安芳邸跡」と刻まれた碑がありました。 門を入ってすぐ、大きな木の横に碑が建っていま...

勝海舟邸跡-壱

東京で史跡巡りをしたなかで、あまりに怖くて忘れられない場所が勝海舟邸跡(東京都港区赤坂6-10-39・40付近)です。   この場所は、慶応4年4月1日に、新選組が流山へ転陣。 3日に近藤勇が投降、捕縛された後、土方歳三が勇の助命を頼む為訪れた勝海舟邸です。 海舟日記にも「土方歳三来る。流山顛末を云う。」と記されています。 現在の氷川神社の裏辺りになります。 海舟は弘化3年、本所から赤坂田町。 さらに安政6年...

八坂神社(日野市)

京都から再び江戸に…。落ち着きがなくてすみません。JR中央本線・日野駅前に八坂神社(東京都日野市日野本町3-14-12)があります。 安政5年8月に、天然理心流門人は日野宿鎮守八坂神社(当時・牛頭天王社)に剣術上達祈願の額を奉納しています。 縦50㎝、横90㎝程の檜板です。 近藤周助藤原邦武 井上松五郎一俊(井上源三郎長兄) 佐藤彦五郎正俊(後の土方歳三義兄) 佐藤芳三郎信房 佐藤僖四郎信嘉 原孝之助胤正 井上源三...

三条制札場&三条大橋

  お店の看板の辺りに、制札場があったようです。 斥候として、橋本皆助と浅野薫が河原にいました。京都・三条通ウォーク (らくたび文庫-ポケットに京都ひとつ- (No.027))(2008/02)吉野 智子商品詳細を見る新選組異録 無頼 (1)(2004/05)岩崎 陽子商品詳細を見る...

酒屋跡&古東領左衛門寓居跡

三条制札事件の見張りには、三条大橋西詰めの酒屋(京都市中京区三条通木屋町東入ル辺り)が使われました。 三条大橋方面から見ています。 加茂川新館の向こう2軒目付近。 新井忠雄ら12名が待機していました。 また、この三条木屋町北東角から二軒目の同じ場所あたりが、古東領左衛門寓居跡ともいわれています。 古東領左衛門は淡路津井の庄屋でした。 文久2年に上洛し、3年8月天誅組に参加しましたが脱出、三条の桝屋藤十郎方...

ありがとうございます

ありがとうございます。 カウンターが1,000を超えました。 のべ1,000人の方が、訪問して下さったと思うと大変嬉しいです。 始めた頃には、想像もできませんでした。 自分でも驚いています。 これからも1日1箇所を目標に、頑張りますので、宜しくお願い致します。 【これからの予定】 “京都” は、新選組だけでなく、土佐藩関係、長州藩関係、薩摩関係等々まだまだあります。 “東京” もまだもう少し。 &...

荒物屋跡

三条制札事件の時の、新選組の見張りは三条会所だけではありませんでした。 二ヶ所目は、荒物屋です。 現在のバスターミナル北側辺りにありました。 ここには大石鍬次郎、茨木司ら10名が待機していました。 新選組大事典より 写真は三条大橋西側(三条会所付近)から、荒物屋のあった方向です。 茶色のビル(京阪とかかれたビル)の辺りではないかと思われます。 高瀬川から少し外れていますが、三条制札事件と三条会所との関連が...

三条会所跡

三条制札事件の取締りの時、新選組が見張りに使った場所、三条会所跡(京都市中京区木屋町通三条下ル東入ル石屋町125)が三条大橋の近くにあります。 三条会所は先斗町町会所ともいいます。 現在の歌舞練場の北隣、うどん・そば屋の辺りです。 ここに待機していたのが、原田左之助ら12名です。 宮川助五郎らが鴨川沿いの先斗町を北上、原田隊は町会所から尾行して、制札を引き抜いた浪士と乱闘なりました。 これが三条制札事件です...

池田屋跡と西国屋跡

やっと新選組の史跡、池田屋跡(京都市中京区三条通河原町東入ル北側)に到着しました! 1995年   1996年 池田屋は二階建てで、間口は約7m、建坪は約300㎡だったそうです。 一階に4部屋、二階には7部屋客室がありました。 池田屋事変当夜、桂小五郎が待っていたという、対馬藩別邸は裏手で、高瀬川沿いの木屋町通を50mほど北にありました。 その向かいに土方歳三らが捜索したという四国屋がありました。 元治元年6月5日...

坂本龍馬寓居跡&海援隊屯所跡の酢屋

高瀬川沿いをさらに北進。 大黒橋の西側に、坂本龍馬寓居跡&海援隊屯所跡の酢屋(京都市中京区河原町三条下ル東入ル北側)が目に入ってきます。   慶応3年、龍馬は長岡謙吉と海路大阪へ入り、この酢屋こと材木商、中川嘉兵衛方へ入っています。 龍馬はここを海援隊の屯所としました。 同志の長岡謙吉、陸奥陽之助、白峰駿馬らと日夜、海援隊について話をしていました。 龍馬は丸山のイギリス水夫殺害事件の為長崎に向かい、京...

後藤象二郎寓居跡

材木橋まで北上した所で、西(左折)に曲がります。 河原町通に出る少し手前付近が、後藤象二郎寓居跡(京都市中京区河原町通三条下ル二筋目東入ル南側)になります。 後藤象二郎の寓居跡となれば、目印になる碑などがあるかと思っていましたが何もありません。 ここからすぐの所に、坂本龍馬寓居跡があります。 お互いの住居を行き来していたのかもしれませんよね? §2008.5.25に後藤象二郎墓があります。 次々回、ようやく...

中井弘三寓居跡

彦根藩邸跡碑の向かい側が、中井弘三(桜洲)寓居跡(京都市中京区木屋町通六角下ル東側)です。 中井弘三は薩摩藩士ですが、江戸に出て尊攘運動を行っていたのを処罰され、帰国させられましたが、脱走して土佐に逃れました。 後藤象二郎に重用されイギリスにわたり、翌年帰国しています。 帰国後は宇和島の伊達宗城に仕えました。 後藤象二郎の大政奉還案を薩摩の小松帯刀に取り次ぎ、薩土同盟の糸口をつくりました。 イギリス行...

彦根藩邸跡

土佐藩邸跡碑より北へ150mの山崎橋の横に、彦根藩邸跡(京都市中京区西木屋町通六角下ル山崎町)の碑があります。 大老になった彦根藩十三代藩主井伊直弼は、紀州慶福を将軍に推し、勅許を待たずに日米通商条約に調印しました。。 その為、尊攘派の志士の非難も激しくなりました。 直弼は反対派の大名を処断し、志士達には厳しい弾圧を加えました。安政の大獄です。 直弼の死後、藩論は鳥羽伏見の戦い以後は薩長側につき、官軍と...

土佐四天王像

はっきりと場所を覚えていないのですが、高瀬川沿いのビルの一角に出来ていたのです。 それが土佐四天王像でした。 しかし、その後その場所を通った時、無くなっていました。 いや、無くなったのではなくて、場所を移動しただけかもしれません。 私は見つけることが出来ませんでした。 坂本龍馬は判るのですが、他の3人は誰でしたっけ? 中岡慎太郎?武市半平太?那須信吾?掛橋和泉?吉田東洋?吉村虎太郎? どこかにメモしたは...

京都・土佐稲荷

土佐稲荷は正式名・岬神社(京都市中京区蛸薬師河原町東入ル備前島町)といいます。 土佐藩邸碑の角を西に入って行くとあります。   創建は貞和4年以前と伝承されています。 鴨川の中洲の岬に祠があり、後に西岸に移し、慶長年に土佐藩が屋敷を造るにあたり、祠も敷地内に取り込んだそうです。 明治10年、廃邸により社殿を一時、下大阪町に奉遷、近江屋新助らの尽力で明治20年頃、備前島町の旧土佐用人官舎地に遷座しました。 ...

土佐藩邸跡

土佐藩関係が続いていますが、次も土佐藩の史跡です。 本間精一郎遭難の地から、北に100mの所に元・立誠小学校があります。 その角に土佐藩邸跡(京都市中京区木屋町通蛸薬師下ル西側)の碑があります。 江戸初期から明治4年まで土佐藩の京都藩邸でした。 勝海舟が坂本龍馬の脱藩罪の赦免を藩主山内容堂に願い、赦された龍馬は京都藩邸より徒目付島村寿之助に拉致され、七日間の謹慎を受けました。 坂本龍馬大事典より ここまで...

本間精一郎遭難の地

さらに北に進むと、紙屋橋の東側に本間精一郎遭難の地(京都市中京区木屋町通四条上ル)の碑があります。  本間精一郎は越後寺泊の人です。 早くから尊王の志を持っていました。 清河八郎が中川宮の密旨をうけて義士を募集した時、精一郎も真木和泉や平野国臣らとこれに応じました。 精一郎は四国へ渡り土佐藩を説きましたが歓迎されず、転じて長州へ走り久坂玄瑞、高杉晋作らに会い、薩摩に遅れを取らないように進言しました。 ...

宮川助五郎寓居跡

真橋から北へ、次の十軒町橋まで歩きます。 旅館となっている(今現在はどうでしょうか?)場所が、宮川助五郎寓居跡(京都市中京区木屋町通四条上ル鍋屋町)でした。 宮川助五郎は土佐国土佐郡潮江村出身の土佐藩士(馬廻格)です。 残された写真は細面で、華奢な印象を受ける(そうです)が、気性は激しかったらしいです。 土佐勤王党に龍馬と同じく同盟し連署血判しています。 慶応2年9月12日夜、三条大橋西詰制札場の制札を...

塩屋勘兵衛宅跡

もう一度、高瀬川まで戻ります。 高瀬川に掛かる真橋を渡り、木屋町通を歩きます。 が、真橋を渡った真ん前辺りが、塩屋勘兵衛宅跡(京都市中京区木屋町通四条上ル鍋屋町)がありました。 塩屋勘兵衛は京都の人で勤王の志篤く、山陵の荒廃を憂い、家業を弟に譲り山陵調査をしました。 蒲生君平の『山陵志』などで不明とした中の、二十陵程を明らかにしたそうです。 写真で見る維新の京都より 新選組や幕末の動乱との係りは見出せな...

中岡慎太郎寓居跡

谷干城寓居跡前をそのまま、河原町通まで抜けてしまいます。 河原町通に出たら北(右折)に数m(お店にして4~5軒目)です。 そこが中岡慎太郎寓居跡(京都市中京区河原町通四条上ル東側)です。   写真の手前の方に見える、鉄の扉の向こう(中)に、写真右の碑がありました。 中岡慎太郎は土佐国安芸郡北川村柏木の出身の土佐藩士です。 間崎滄浪や武市瑞山に学問、剣術を学びました。 土佐勤王党結成時には十七番目に血盟、...

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Author:kamaboko
新選組と幕末だらけの本棚
実は二重になっているので、
後ろにも本棚が…。

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