池田七三郎(稗田利八)墓-真浄寺

2008年06月30日
池田七三郎(稗田利八)の墓真浄寺(東京都港区麻布台2-3-18)にあります。
池田七三郎墓
慶応3年に、土方歳三による隊士募集で池田七三郎の名で入隊し、局長附隊士となりました。
翌年1月の鳥羽・伏見の戦いで負傷し、3月の甲陽鎮撫隊に従軍し、勝沼の戦いでも重傷を負いました。
その後、会津戦争にも参戦し、母成峠の戦いで斉藤一らと会津に残りました。
如来堂を襲撃され、久米部正親らとともに会津田島へ出て、水戸諸生隊と水戸へ向かう途中の銚子で、高崎藩兵に捕えられました。
1年間謹慎した後、放免されました。
昭和13年1月16日、90歳で死亡しました。
新選組史跡大辞典より

昭和13年といば…、祖父母はもちろん、親戚のおじ・おばさん達も生まれている年です。
最後の新選組隊士と、おじ・おばが一緒の時代を生きている…と思うと、新選組というのは、本当についこの前の事だったのだと思います。

ただ池田七三郎は慶応3年の入隊なので、新選組全盛期を知らないというのは、仕方がない事でしょう。

池田七三郎の晩年の写真は、目にしやすいと思います。
刀を持ち、刀をピシッと見詰める姿は、修羅場を潜り抜けてきた風格があります。
手に持つ刀の鋭さに負けていません。

もし沖田総司の同じポーズの写真があったら、もう狂喜乱舞しているかもしれません。
池田さん、覚えている間に沖田さんの、似顔絵を書くとかしておいて下さればよかったのに。

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(2003/11)
不明

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称福寺

2008年06月29日
称福寺(東京都台東区今戸1丁目)は鳥羽・伏見の戦いでの負傷者の為の臨時病院になりました。
しょう福寺1
医学所などに収容されていた負傷者は、新政府軍の江戸入りを前に、30名ほどが移転しました。
松本良順も今戸神社に家族とともに移って、称福寺まで往診しました。

甲州勝沼の戦いで負傷した、池田七三郎、田村一郎などが収容されています。
新選組大辞典より

称福寺の門を見たときに、「お寺?」と思いました。
お寺の門といえば、木の重い門扉だと思い込み、そんな門の建物を探していたからです。
洋風の豪邸の門って感じでした。
あくまでも、私の勝手な思い込み・イメージです。

この頃になると、新選組もバラバラです。
脱走・離脱しても、追っ手が出される事もないようです。
それどころではない。という状況なのでしょう。

脱走・離脱だけでなく、亡くなった人も多くなって来ました。

私はこの時期の新選組には、あまり興味が出ません。
魅力を感じないのです。
敗者の美学が(私には)感じられないのです。

会津や箱館まで行くと、滅びの美学がまた感じられるのですが。

きっと、近藤勇の「家来」発言を発端に、永倉新八達との別離など、「鉄の規則の新選組」「同志」とい色が消えてしまっているからですね。

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(2007/09/03)
武光 誠

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医学所跡

2008年06月28日
近藤勇と沖田総司が入院した医学所跡(東京都台東区台東1-30南側一帯)です。
医学所跡
(菊地明氏・伊東成郎氏の「土方歳三写真集」に掲載されているのと、同じ場所を見つけられました。)

慶応4年、鳥羽・伏見の戦いでの負傷者の治療を命じられました。
前年に御陵衛士残党によって狙撃され、右肩を負傷した近藤勇と、肺結核の沖田総司も入院しました。
近藤の治療は医学所頭取の松本良順が行いました。
良順の次男・棟一郎が「私の家には近藤の肩から出た骨片と、渦巻きの絵がある印籠があった。」という内容の話を残しています。

軽傷の隊士29名は、治療後医学館へ移った記録があります。
山口次郎と改名していた斉藤一も、医学所で治療を受けたと記録があります。

その後、新選組は甲陽鎮撫隊として甲州へ出陣し、医学所の患者は臨時病院の今戸の称福寺に移されていました。近藤はふたたび医学所に入院しました。

永倉新八と原田左之助は、会津へ下ることを近藤に申し入れるために訪れました。
しかし、近藤が家来になる事を条件にした為、永倉たちは新選組を離脱しました。

その翌々月の閏4月、医学所は新政府に接収され、海陸軍附属病院となりました。
新選組史跡事典より

いよいよ沖田総司の最期が近づいてきました。
この付近で、沖田総司は寝込んでいたのです。

やはり小説や映画のように、「戦いたい」と思っていたのでしょうか?
元気だけれど謹慎というような場合は考えられますが、肺結核という病の場合はどうなのでしょうか?
病気で苦しくて、戦いたいと思う前に、「このまま死んで、楽になりたい。」とは思わないのでしょうか?
現代人と武士がいた時代とでは、考え方や感じ方も全然違うと思うのです。
生きている環境が違うだけで、死生観は違ってくるのでしょうか?

簡単に(?)切腹や、女性や子供も自害しますが、死にたくないとか、痛そうとか、思わないのかなといつも不思議に思います。

沖田さんもどのように思って、医学所に入院していたのでしょう。

空の石碑―幕府医官松本良順空の石碑―幕府医官松本良順
(2001/02)
篠田 達明

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医学館跡

2008年06月28日
医学所跡から1㎞ほど離れた場所が、医学館跡(東京都台東区浅草橋4-15・16付近)になります。

幕府の漢方医学校です。
慶応4年の鳥羽・伏見の戦いに敗れた幕府軍は当初、医学所に収容されていました。
しかし相次ぐ負傷兵の帰還により、旧幕府より負傷者を医学館に送るように通達が出されました。

医学館は漢方が専門だったため、西洋医学を修めた医学所の医師から処置法を学び、軽傷者の処置に当たりました。

医学館での治療時期は不明ですが、医学所頭取をつとめていた松本良順は、新政府軍の江戸到着を前に、医学所の負傷者を今戸の臨時病院に移しています。
この時点で、医学館での治療は終わっていたのではないでしょうか?

慶応4年8月15日、新政府によって医学館は種痘所と改称されました。
新選組史跡辞典より

道のりでは約1㎞ですが、直線距離だと500mほどでしょうか。
“佐久間町4”の交差点の付近です。
写真はありません。
「新選組史跡辞典」か「土方歳三写真集」を見ていただければ、医学館跡の写真が載っています。

沖田総司誕生の地

2008年06月28日
専称寺の北側付近に白河藩下屋敷(東京都港区西麻布1-2および3-1・2一帯)がありました。
新選組史跡大事典より

写真は撮ったつもりが、どこを探しても見つかりません。

首都高速3号渋谷線の北側、「六本木6」の交差点の西麻布1丁目付近から、
首都高速南側の、長幸寺・妙善寺・桜田神社付近にかけてになります。

幼少の頃に育った下屋敷の前が、永遠の我が家になっています。

大使館や領事館が多く立ち並ぶ場所なので、大通りから一本道を入るだけで、すごく静かでした。
さすがに個人のお宅も大きな家が多かったです。

専称寺-沖田総司墓

2008年06月27日
千駄ヶ谷か今戸かで亡くなった沖田総司の墓は、専称寺(東京都港区元麻布3-1-37)にあります。
専称寺213

専称寺1  専称寺2
専称寺3
沖田総司は天保13年、白河藩の江戸下屋敷で生まれたといいます。
父は勝次郎といい、白河藩の足軽小頭を務めていましたが、弘化2年、総司が4歳の時に死亡しています。
母親の名前は不明ですが、文久2年8月9日に死亡した、「誠心院清室妙林大姉」の戒名の人だと思われます。
総司の長姉・ミツは弘化3年に日野の井上林太郎を婿に迎えています。

嘉永5年ごろに総司は試衛館の内弟子となりますが、林太郎は安政7年頃まで白河藩に仕えていたので、内弟子になるまでの約10年間、下屋敷の長屋にいたようです。

総司の幼名は惣次郎、諱は春政、のち房良。
慶応4年5月30日、27歳で肺結核により死亡しました。享年27歳。
戒名「賢光院仁誉明道居士」と正面中央に刻まれています。
その左右に、「宝握全入信士」「宝閣燿雲信士」とあります。
どちらの戒名も、大野源治郎という人物のものですが、沖田総司との関係は不明です。

新徴組隊士で、総司の甥である、沖田芳次郎の墓もあります。
明治28年1月26日、43歳で死亡しています。
沖田総司の向かって左隣にあります。
塩竈の東園寺より移転した墓碑になります。

お墓は非公開です。
絶対にお寺に問い合わせをしないで下さい!もしされたら、年に1度の「総司忌」でのお参りも中止になります。永遠にお参りできなくなりますから!!
新選組史跡大事典より

沖田総司の説明は要らなかったですね。

私が一番最初に新選組を知ったのは、今から約30年前でした。
短編漫画を読んだ時に、魅かれてしまいました。

「沖田総司」の数文字の説明と、「菊一文字」という響きにやられてしまいました。
菊一文字って高貴そうで、儚そうで、謎がありそうで…。
小学生ながら、頭から離れなくなりました。

なので私の新選組の入り口は、「沖田総司」なのです。
また真偽はともかく、美男子で若くして病気で亡くなるというのも、入り口としは良かったのです。

大人(?)になって、史跡巡りを始めてもなかなか東京まで行く機会がありませんでした。
特に行きたくても行けないのが、沖田総司のお墓でした。
普段は非公開で、年に一度「総司忌」のみお参りができるのですが、その日にちに合わせて行く事もなかなか難しかったです。

最初に東京に行った時は、お参り出来る日ではなかったので、塀からお参りしました。
初めて、墓前でお参り出来たときは、感激でした。
ゆっくりお参りしたいのですが、多くのファンの人もお参りされるので、なくなく墓前から離れました。
それでも憧れの沖田さんに会えて幸せでした。

そういえば…。
昔、何十年前かも知りませんが、大阪のテレビ“探偵ナイトスクープ”(今は全国放送されています)で、沖田総司のお墓を見たいと、ヘリコプターを飛ばして上空から見たとか、見なかったとか…。
そんな噂も耳にした事があります。
私なら、京都の「人斬り新兵衛」のお墓を見てみたです。


沖田総司伝私記沖田総司伝私記
(2007/03)
菊地 明

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試衛館跡

2008年06月26日
試衛館跡(東京都新宿区市谷甲良町20)といわれる場所です。
誠衛館跡2

誠衛館跡3  誠衛館跡1
天然理心流四代目宗家、近藤勇の道場です。
天保10年に勇の養父周助によって建てられました。
小石川柳町とも牛込柳町ともされますが、牛込柳町の交差点を100mほど南下し、左手の坂を上りきった左の「コスモ市ヶ谷」付近にありました。
当時の町名は甲良屋敷でした。

道場は50㎡、住居は勇の書斎八畳、客間十畳、茶の間兼隠居部屋が八畳、台所、細長い食客部屋、それに中庭があったともいいます。
新選組大事典より

試衛館跡ですから、行ってみないと!
近藤勇をはじめ、そうそうたるメンバーがこの場所にいたのですから!
同じ場所に立たないと!!

もちろん試衛館の面影など何もありません。
本当にとても残念です。
それでもそうであろうという場所はすぐに見つけることができました。

千年以上前の事が事細かに判明しているのに、200年も経たない、明治に手の届くような時代の事がわからないという事に、歴史の奥深さを感じます。
新選組をはじめ幕末維新には謎が多いですよね。


新選組アンソロジー―その虚と実に迫る〈上巻〉新選組アンソロジー―その虚と実に迫る〈上巻〉
(2004/02)
清原 康正

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今戸神社-沖田総司終焉の地 弐

2008年06月25日
植木屋宅跡付近の史跡より先に今戸神社(東京都台東区今戸1丁目)を書きたいと思います。
今戸神社2  今戸神社1
永倉新八の記録による、沖田総司最期の地です。
松本良順の今戸神社転居に伴い、沖田も医学所から神社境内の松平伊豆守の祈願所に移り、この場所で亡くなったと記しています。
当時の本殿は現在地より川沿いにありました。
現在の境内は梅林でした。
祈願所の詳しい位置は不明です。
新選組大事典より

沖田さんはどこで亡くなったのでしょうか。
こうやって諸説の解説を見ていると、今戸神社の方がありえそうな気がします。
松本良順が関係しているのでなおさらです。

小説としては、ひっそりと植木屋の納屋で匿われていたという方が、沖田総司の最期らしいとは思います。
誰もが恐れる、新選組一番隊長 沖田総司が最期は植木屋の納屋でひっそりと…。

どちらとしても、最期は穏やかに過ごせていればいいのですが…。

本の表紙に、当時「沖田総司か?」といわれた写真が載っています。
激録新撰組 上 (1)激録新撰組 上 (1)
(1977/04)
原 康史

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植木屋平五郎邸跡-沖田総司終焉の地 壱

2008年06月24日
植木屋平五郎宅跡(東京都新宿区大京町29)といわれる場所に行ってみました。
植木屋五郎邸跡(池尻)
植木屋平五郎は江戸千駄ヶ谷池尻橋に住んでいました。
結核を患った沖田総司が平五郎の納屋で療養し、そこで最期を迎えたといわれています。
(近藤勇五郎 談)
しかしまだ証明されていません。
新選組大事典より

沖田総司の最期の地についても諸説あります。
その中の一つが、植木屋平五郎宅の納屋というものです。
多くの小説に出てきます。

大内美予子氏の「沖田総司」
植木屋平五郎宅の沖田総司を土方歳三が訊ねて来るシーンは、今でも印象に残っています。

その舞台になったのがこの辺りです。
周りと少し違った感じの場所でした。
人もいてなく、ひっそりとした雰囲気がありました。


沖田総司沖田総司
(1999/04)
大内 美予子

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日枝神社

2008年06月23日
海舟邸を後にして、日枝神社(東京都千代田区永田町2-10-5)に向かいました。

日枝神社1  日枝神社2

沖田総司は、一文字則宗を所持しており、死後どこかの神社に奉納されたという話があります。
話の真偽はわかりませんが、小説や映画などでは“菊一文字”が沖田総司の愛刀として描かれる事が多くあります。近藤勇は“虎徹”ですが、こちらも真偽は…。
その「国宝 菊一文字則宗」が日枝神社にあります。
沖田総司の使用した菊一文字とは違っても、同じ菊一文字繋がりという事で、日枝神社にも寄ってみました。
万が一にも同じって事は…ないですね。
時々、公開されているようですが、私は見ることは出来ませんでした。
日本刀の美しさには魅かれますね。


菊一文字 (レグルス文庫)菊一文字 (レグルス文庫)
(2003/12)
吉川 英治

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勝海舟邸跡-弐

2008年06月22日
明治5年春から亡くなるまで住んだ勝海舟邸跡(東京都港区赤坂6丁目6番地)です。
勝海舟引越し邸跡1  勝海舟引越し邸跡2
勝海舟は、明治後に旗本の柴田松之丞の屋敷跡に住んだそうです。
旧氷川小学校付近です。
氷川神社内の四合稲荷(しあわせいなり)は勝の命名だそうです。
坂本龍馬大事典より


氷川小学校は無くなっているのですね。
私が訪れた当時は、校内に「史跡 勝安芳邸跡」と刻まれた碑がありました。
門を入ってすぐ、大きな木の横に碑が建っていました。

凄く近くに引っ越したのですね。
当時も引越しって大変ではないのでしょうか?


勝海舟 (第1巻) (新潮文庫)勝海舟 (第1巻) (新潮文庫)
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子母沢 寛

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勝海舟邸跡-壱

2008年06月21日
東京で史跡巡りをしたなかで、あまりに怖くて忘れられない場所が勝海舟邸跡(東京都港区赤坂6-10-39・40付近)です。
勝海舟邸跡1  勝海舟邸跡2
この場所は、慶応4年4月1日に、新選組が流山へ転陣。
3日に近藤勇が投降、捕縛された後、土方歳三が勇の助命を頼む為訪れた勝海舟邸です。
海舟日記にも「土方歳三来る。流山顛末を云う。」と記されています。
現在の氷川神社の裏辺りになります。

海舟は弘化3年、本所から赤坂田町。
さらに安政6年、同じく赤坂氷川に転居しています。
新選組大事典より


何が怖かったか…。
別に勝海舟が怖いわけでも、海舟の幽霊が出たわけでもありません。
写真には写っていませんが、ここにカラスの大群がいたのです。
それも10、20ではききません、40…50…羽はいたのではないでしょうか。
塀の上に一列にぎっしり…、さらには木にもぎっしりととまっていました。

そのカラスの群れの中を通り抜けないと、氷川神社方面にいけなくて、いつ襲われるかとビクビク、ヒヤヒヤしながら通り抜けたのは忘れれらません。

土方さんが訪れたという勝海舟邸は、私がイメージする東京都港区赤坂という場所とは違いました。
ひっそりとした、違う雰囲気の場所でした。

この辺りを、土方さんは近藤さんの助命という、大きな使命を背負って歩いたのです。
もしかしたら悲壮感が漂っており、いつもの土方歳三とは思えない表情だったのかもしれません。
それとも、死を覚悟して任務をこなしてきた者には、悲壮感というものは無かったのでしょうか?


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八坂神社(日野市)

2008年06月20日
京都から再び江戸に…。
落ち着きがなくてすみません。

JR中央本線・日野駅前に八坂神社(東京都日野市日野本町3-14-12)があります。
八坂神社207
安政5年8月に、天然理心流門人は日野宿鎮守八坂神社(当時・牛頭天王社)に剣術上達祈願の額を奉納しています。
縦50㎝、横90㎝程の檜板です。


八坂神社2208

近藤周助藤原邦武
井上松五郎一俊(井上源三郎長兄)
佐藤彦五郎正俊(後の土方歳三義兄)
佐藤芳三郎信房
佐藤僖四郎信嘉
原孝之助胤正
井上源三郎一重
安西平助一徳(井上源三郎次兄)
中村忠三郎高正
田倉東十郎義則
谷幸吉照好
高木長次郎安景
日野万助義兼
古谷三之助義住
小島文五郎重輝
高木平次郎知衡
加藤亀吉光久
馬場兵助源武忠
中村太吉郎藤原満通
谷定次郎政泰
谷七郎源晴国
佐藤東三郎藤原徳連
渡辺庄三郎藤原盛正
沖田惣次郎藤原春政(後の沖田総司)
嶋崎勇藤原義武(後の近藤勇)

の名前が書かれています。
奉納額は非公開です。
参拝した神殿は神明造りの鞘堂で保護されています。
新選組史跡事典より


前述した宝泉寺と大昌寺の中間地点の付近にあります。
私が訪れたのは、初めて東京の史跡を巡った時でした。

宝泉寺、大昌寺と日野駅に着いた時は、もう辺りは薄暗く肉眼でも景色が判り辛いぐらいでした。
それでもと、とりあえずシャッターを押したのが、上記の写真です。
何が写っているのか判りません(涙)

奉納額は非公開なので目にする事は出来ません。
プラスに解釈すると、紫外線等を浴びて文字が消えて行く事を考えると、保護して後世に残す事も大切なのかもしれませんね。
でも、私は見てみたいです。

沖田総司は沖田惣次郎、近藤勇は嶋崎勇で、土方歳三の名前はありません。
土方さんはまだ、やんちゃをしていたのでしょうね。

三条制札場&三条大橋

2008年06月19日

三条大橋3  三条大橋4
お店の看板の辺りに、制札場があったようです。

三条大橋2
斥候として、橋本皆助と浅野薫が河原にいました。




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酒屋跡&古東領左衛門寓居跡

2008年06月18日
三条制札事件の見張りには、三条大橋西詰めの酒屋(京都市中京区三条通木屋町東入ル辺り)が使われました。

酒屋(見張り場)
三条大橋方面から見ています。
加茂川新館の向こう2軒目付近。

新井忠雄ら12名が待機していました。

また、この三条木屋町北東角から二軒目の同じ場所あたりが、古東領左衛門寓居跡ともいわれています。
古東領左衛門は淡路津井の庄屋でした。
文久2年に上洛し、3年8月天誅組に参加しましたが脱出、三条の桝屋藤十郎方に潜みました。
天誅組暴発を阻止できず京に戻った平野国臣は、隠れ家の山中成太郎方が新選組に襲われたため、古東の家に身を潜めました。
8月24日、ここも新選組の探索を受け、古東は平野を庇って捕えられました。
古東は後に捕えられた平野と、六角獄中で同志32人と一緒に斬られました。
新選組大事典&写真で見る維新の京都より

酒屋も古東領左衛門も、新選組と関係がありました。
そういう意味では、新選組史跡としては、濃い場所だという事です。
ここからだと三条大橋は目の前ですから、もしかしたら一番見渡せる適所だったと思います。

見張りというのは、どうやって行っていたのでしょう?
まさかお酒を飲みながら、客を装って外を見ている…というドラマや映画のシーンのような事はないと思うのですが。
息を潜めて、窓の隙間から外を伺い見ている?

どちらにしても、34~35人の隊士がこの任務に就いている事を思うと、大掛かりな、そして取り逃がしの赦されない仕事だった事がうかがえます。


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平野国臣

ありがとうございます

2008年06月17日

ありがとうございます。
カウンターが1,000を超えました。

のべ1,000人の方が、訪問して下さったと思うと大変嬉しいです。
始めた頃には、想像もできませんでした。
自分でも驚いています。
これからも1日1箇所を目標に、頑張りますので、宜しくお願い致します。



【これからの予定】
“京都” は、新選組だけでなく、土佐藩関係、長州藩関係、薩摩関係等々まだまだあります。
“東京” もまだもう少し。
“大坂” にも新選組関係の史跡は多いです。

“高知” “萩”に、“彦根城・名古屋城”等

さらに幕末を飛び出して、“聖徳太子” “安倍晴明” “赤穂浪士” “義経”

そして“いくつかの観光地”等々


これからも宜しくお願い致します。
次は2,000を目指して、頑張りたいと思います。

本当に、ありがとうございます。

荒物屋跡

2008年06月17日

三条制札事件の時の、新選組の見張りは三条会所だけではありませんでした。
二ヶ所目は、荒物屋です。
荒物屋
現在のバスターミナル北側辺りにありました。
ここには大石鍬次郎、茨木司ら10名が待機していました。
新選組大事典より

写真は三条大橋西側(三条会所付近)から、荒物屋のあった方向です。
茶色のビル(京阪とかかれたビル)の辺りではないかと思われます。

高瀬川から少し外れていますが、三条制札事件と三条会所との関連があるので、足を延ばしておきます。




新撰組顛末記新撰組顛末記
(1998/10)
永倉 新八

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三条会所跡

2008年06月16日
三条制札事件の取締りの時、新選組が見張りに使った場所、三条会所跡(京都市中京区木屋町通三条下ル東入ル石屋町125)が三条大橋の近くにあります。
三条会所
三条会所は先斗町町会所ともいいます。
現在の歌舞練場の北隣、うどん・そば屋の辺りです。
ここに待機していたのが、原田左之助ら12名です。

宮川助五郎らが鴨川沿いの先斗町を北上、原田隊は町会所から尾行して、制札を引き抜いた浪士と乱闘なりました。
これが三条制札事件です。
新選組大事典より

今だと、ここで見張りをする事は、すごく難しいのではないかと思います。
当時はもう少し、見渡せる状態だったのでしょうね。

歌舞練場という華やかな場所と、三条会所に新選組という組み合わせが、隣同士というのもミスマッチですが、動乱の京都を象徴しているように思います。


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三条制札事件
原田左之助

池田屋跡と西国屋跡

2008年06月15日
やっと新選組の史跡、池田屋跡(京都市中京区三条通河原町東入ル北側)に到着しました!
池田屋跡’95
1995年

池田屋跡’96  池田屋跡’96.12
1996年

池田屋は二階建てで、間口は約7m、建坪は約300㎡だったそうです。
一階に4部屋、二階には7部屋客室がありました。
池田屋事変当夜、桂小五郎が待っていたという、対馬藩別邸は裏手で、高瀬川沿いの木屋町通を50mほど北にありました。
その向かいに土方歳三らが捜索したという四国屋がありました。

元治元年6月5日、古高俊太郎の捕縛を知った同志達が、三条池田屋で善後策を練っていました。
そこへ新選組の近藤勇・沖田総司・永倉新八・藤堂平助・近藤周平が御用改めをかけました。
室内での戦闘が始まり、土方歳三や井上源三郎らの別隊も到着しました。

池田屋に集まっていた者達の死者は、宮部鼎蔵、大高又次郎、石川潤之助、福岡祐次郎、広岡浪秀、望月亀弥太、吉田稔麿らでした。
新選組では、奥沢栄助が死亡。
新田革左衛門、安藤早太郎、藤堂平助が重傷を負いました。(後二人死亡)
新選組大事典より

現在池田屋跡はそれを思わせるものは、“池田屋騒動之址”の碑だけになっています。
訪れる度に、お店も変わっている状況です。
池田屋が残っていないのは、本当に残念でたまりません。
新選組を一躍有名にした、幕末史上でもトップ3に入る事件だと思うのです。

池田屋の旧写真が残っているようで、その写真だけが当時の面影を探す手掛りになりそうです。
それを見ると、京都の古い建物そのものです。
時代劇で見る旅籠とは、また趣が違いますね。
二階の部屋や、戦闘のあった部屋などの写真(もちろん綺麗な普通の状態です)を見ると、この階段を上り、この畳の上を素足で(直に触れて)歩いてみたくなります。

池田屋には地下炭小屋があり、そこから裏の高瀬川の舟入りへ脱出したそうです。

舞台などで階段落ちが注目されますが、実際にはどんな戦いだったのでしょう?
昔の家屋は天井が低いので、大刀を振り回すより突きと聞いた事があります。
時代劇などで見るようなものとは、全然違うのでしょね。

またまた出典がどの書籍だったのか、不明なのですが、
池田屋の斜め前に、池田屋事変の当日浪士2人が捕縛された、西国屋があったということです。



新選組・池田屋事件顛末記新選組・池田屋事件顛末記
(2001/06)
冨成 博

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新選組
池田屋事件
宮部鼎蔵
望月亀弥太
吉田稔麿

坂本龍馬寓居跡&海援隊屯所跡の酢屋

2008年06月14日
高瀬川沿いをさらに北進。
大黒橋の西側に、坂本龍馬寓居跡&海援隊屯所跡の酢屋(京都市中京区河原町三条下ル東入ル北側)が目に入ってきます。
坂本龍馬寓居跡酢屋1  坂本龍馬寓居跡酢屋2
慶応3年、龍馬は長岡謙吉と海路大阪へ入り、この酢屋こと材木商、中川嘉兵衛方へ入っています。
龍馬はここを海援隊の屯所としました。
同志の長岡謙吉、陸奥陽之助、白峰駿馬らと日夜、海援隊について話をしていました。

龍馬は丸山のイギリス水夫殺害事件の為長崎に向かい、京に戻るとすぐに越前で三岡八郎と会見するため向かいました。
帰京後は、身の危険の為、酢屋から近江屋へ住居を移しています。
坂本龍馬大事典より

さすがに坂本龍馬寓居跡というのでしょうか、すぐに見つけられました。
11月15日の龍馬の命日の日(誕生日でもあるのですよね)には、店前に写真等が並べられて、大変賑わっていました。

お店の前の通りは「龍馬通」となっていますし、坂本龍馬人気は凄いですね。
新選組も龍馬にはなかなか(人気では)勝てないようです。

この酢屋の前の道は、古高俊太郎寓居跡・谷干城寓居跡や土佐稲荷、後藤象二郎寓居跡のある路地とは違い、車も通れる広い道なので、明るい雰囲気があります。
坂本龍馬や海援隊士がこの場所に訪れたのは100%確実ですから、古い柱など歴史を感じるものを触りまくりたくなります。
もちろん触れてはいけない物には、触れていません。


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後藤象二郎寓居跡

2008年06月13日
材木橋まで北上した所で、西(左折)に曲がります。
河原町通に出る少し手前付近が、後藤象二郎寓居跡(京都市中京区河原町通三条下ル二筋目東入ル南側)になります。
後藤象二郎寓居跡

後藤象二郎の寓居跡となれば、目印になる碑などがあるかと思っていましたが何もありません。

ここからすぐの所に、坂本龍馬寓居跡があります。
お互いの住居を行き来していたのかもしれませんよね?

§2008.5.25に後藤象二郎墓があります。


次々回、ようやく新選組の史跡に到着です!


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中井弘三寓居跡

2008年06月12日
彦根藩邸跡碑の向かい側が、中井弘三(桜洲)寓居跡(京都市中京区木屋町通六角下ル東側)です。

中井弘三は薩摩藩士ですが、江戸に出て尊攘運動を行っていたのを処罰され、帰国させられましたが、脱走して土佐に逃れました。
後藤象二郎に重用されイギリスにわたり、翌年帰国しています。
帰国後は宇和島の伊達宗城に仕えました。
後藤象二郎の大政奉還案を薩摩の小松帯刀に取り次ぎ、薩土同盟の糸口をつくりました。
イギリス行使パークスが襲撃された時は、身をもって防いでいます。
明治26年、京都府知事となり、翌年在職のまま死去しました。
幕末維新人名事典&写真で見る維新の京都より

彦根藩邸跡から木屋町通を渡った辺りになります。
振り向けば、中井弘三寓居跡という事です。


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彦根藩邸跡

2008年06月11日
土佐藩邸跡碑より北へ150mの山崎橋の横に、彦根藩邸跡(京都市中京区西木屋町通六角下ル山崎町)の碑があります。
彦根藩邸跡
大老になった彦根藩十三代藩主井伊直弼は、紀州慶福を将軍に推し、勅許を待たずに日米通商条約に調印しました。。
その為、尊攘派の志士の非難も激しくなりました。
直弼は反対派の大名を処断し、志士達には厳しい弾圧を加えました。安政の大獄です。
直弼の死後、藩論は鳥羽伏見の戦い以後は薩長側につき、官軍として戦いました。
写真で見る維新の京都より

彦根藩といえば、“ひこにゃん”ですよね!! (彦根城に行ったのですが、会えませんでした。)
というのは置いておいて、“井伊直弼”ですね。

井伊直弼といえば、“桜田門外の変”。
桜田門外の変といえば、“幕末の動乱の始まり”(勝手なイメージです)

という連想はできるのですが、幕末の動乱の真っ只中では、特に彦根藩・彦根藩士を思い出せません。
鍵はあけたけれど、中に入ることが出来なかった印象があります。
実際のところはどうだったのでしょうか?


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土佐四天王像

2008年06月10日
はっきりと場所を覚えていないのですが、高瀬川沿いのビルの一角に出来ていたのです。
それが土佐四天王像でした。
土佐四天王像
しかし、その後その場所を通った時、無くなっていました。
いや、無くなったのではなくて、場所を移動しただけかもしれません。
私は見つけることが出来ませんでした。

坂本龍馬は判るのですが、他の3人は誰でしたっけ?

中岡慎太郎?武市半平太?那須信吾?掛橋和泉?吉田東洋?吉村虎太郎?
どこかにメモしたはずなのに…。


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京都・土佐稲荷

2008年06月09日

土佐稲荷は正式名・岬神社(京都市中京区蛸薬師河原町東入ル備前島町)といいます。
土佐藩邸碑の角を西に入って行くとあります。

土佐稲荷1  土佐稲荷2
創建は貞和4年以前と伝承されています。
鴨川の中洲の岬に祠があり、後に西岸に移し、慶長年に土佐藩が屋敷を造るにあたり、祠も敷地内に取り込んだそうです。
明治10年、廃邸により社殿を一時、下大阪町に奉遷、近江屋新助らの尽力で明治20年頃、備前島町の旧土佐用人官舎地に遷座しました。
本殿は、旧幕当時のものと伝承されています。

龍馬が脱藩の罪を赦されて、七日間謹慎したとき、邸内の侍長屋の一室から礼拝したのではないかと推測されるそうです。
近江屋で『岬神社復旧理由書』が発見され、岬神社が土佐藩邸の中に取り込まれたため、信徒たちが嘆願し、大名邸の一角に一般町民が自由に出入りできるようになったそうです。
また、神社は通りに面し、図子(小路)が河原町に抜ける突き当りが近江屋の表入り口だそうです。
これらの事から、龍馬・慎太郎暗殺事件の刺客達は、この土佐稲荷に終結して、人の出入りをチェックし、着替えの衣服などを用意したとも推測されるそうです。
坂本龍馬大事典より

土佐稲荷3
この路地を入って行くと土佐稲荷があります。

周りに埋もれてしまいそうな、考えていたよりも小さな神社でした。
お参り出来なくなった時に、信徒が藩主に嘆願するという事から、地元の方には深く信仰されていた神社なのでしょうね。

坂本龍馬の像があります。
小さくて驚きました。
天下の“坂本龍馬”!ですから、これほど小振りの像とは思っていませんでした。

土佐藩邸跡

2008年06月08日
土佐藩関係が続いていますが、次も土佐藩の史跡です。
本間精一郎遭難の地から、北に100mの所に元・立誠小学校があります。
その角に土佐藩邸跡(京都市中京区木屋町通蛸薬師下ル西側)の碑があります。
土佐藩邸跡
江戸初期から明治4年まで土佐藩の京都藩邸でした。
勝海舟が坂本龍馬の脱藩罪の赦免を藩主山内容堂に願い、赦された龍馬は京都藩邸より徒目付島村寿之助に拉致され、七日間の謹慎を受けました。
坂本龍馬大事典より

ここまで高瀬川沿いを少し歩いただけで、土佐藩・土佐藩士に関する史跡がたくさんありました。
この後も、坂本龍馬・中岡慎太郎が襲われた近江屋や、龍馬寓居など土佐藩に関する史跡があります。
また、池田屋や他藩の屋敷も多くあります。
これだけ密集していたら、敵・味方入り乱れていたというか、いつでもバッタリ会っていたのではないのかと思うのですが…。

と、いう事は、この辺りはいろいろな人が、確実に歩いた道という事になるのですよね。
しかしこれだけ繁華街になってしまい、ビルが立ち並ぶと当時を偲ぶ事も難しくなりました。



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本間精一郎遭難の地

2008年06月07日

さらに北に進むと、紙屋橋の東側に本間精一郎遭難の地(京都市中京区木屋町通四条上ル)の碑があります。


本間精一郎遭難地1  本間精一郎遭難地2
本間精一郎は越後寺泊の人です。
早くから尊王の志を持っていました。

清河八郎が中川宮の密旨をうけて義士を募集した時、精一郎も真木和泉や平野国臣らとこれに応じました。
精一郎は四国へ渡り土佐藩を説きましたが歓迎されず、転じて長州へ走り久坂玄瑞、高杉晋作らに会い、薩摩に遅れを取らないように進言しました。
たまたま島津久光が東上する事を聞き、平野国臣らと姫路で久光を迎え、攘夷討幕を早く実行するように建言しましたが、あまりの激論に久光は彼らを諭しました。
精一郎はなお京都まで久光を追いました。
精一郎は入京しても、薩長の志士の間を往来して過激な議論で人目を引きました。

文久2年8月21日夜、木屋町先斗町の路地で酔っているところを、薩摩の田中新兵衛、土佐の岡田以蔵らに天誅として斬殺され、四条河原に梟首されました。

南隣のガレージ横の路地はふさがれていますが、元は瓢箪路地(39番)といい、先斗町に抜けられました。途中の民家の格子窓の柱に刀痕が残っているそうです。
幕末維新人名事典&写真で見る維新の京都より

この塞がれた路地というのを見てみたいです。
民家の格子窓の柱の刀痕…さらに見てみたいです!

田中新兵衛か岡田以蔵が付けた痕かもしれません。
「写真で見る維新の京都」には、旧写真として、刀痕の残った格子の写真が掲載されています。
実物が見てみたい…残念です。

それにしても、この本間精一郎という人物は、随分過激な人だったようですね。
過激というより、自己顕示欲が強くて、周りが見えていないといった感じに思えます。
それは当時では、大変危険な事だったのではないのでしょうか?

碑が建っていますし、説明板もあるのですぐに見つけられます。


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宮川助五郎寓居跡

2008年06月06日
真橋から北へ、次の十軒町橋まで歩きます。
旅館となっている(今現在はどうでしょうか?)場所が、宮川助五郎寓居跡(京都市中京区木屋町通四条上ル鍋屋町)でした。
巴屋
宮川助五郎は土佐国土佐郡潮江村出身の土佐藩士(馬廻格)です。
残された写真は細面で、華奢な印象を受ける(そうです)が、気性は激しかったらしいです。
土佐勤王党に龍馬と同じく同盟し連署血判しています。

慶応2年9月12日夜、三条大橋西詰制札場の制札を破棄する目的で出掛けました。
予め警戒していた新選組の襲撃を受けました。
重傷を負わされて、首を打ち落とされようとしたところを、新選組の目付役・新井忠雄が制して一命をとりとめました。
町奉行所に身柄を拘束された後、翌年11月14日になって土佐藩へ引渡しが通告されましたが、大監察福岡藤次の判断で中岡慎太郎預かりとなりました。
翌日の15日、中岡が龍馬とともに近江屋で遭難したのは、宮川の処遇について相談するために訪問した事に起因するといいます。

戊辰戦争では、会津や箱館などに出陣し、功績を挙げました。
しかし、酒が過ぎて健康を害し、明治3年に東京で病死。享年27歳。
墓は東京都港区高輪2丁目の泉岳寺です。
坂本龍馬大事典より

高瀬川沿いは、古いモノと新しいモノが混在しています。
歴史のある古いものは変化は少ないですが、それでもこの宮川助五郎寓居跡も今、この時、どう変わっているのかわかりません。
私が写真に収めた時は、旅館でした。

この寓居跡に新選組が踏み込んだという話は、読んだ記憶がありません。
踏み込んだ場所ではなくても、新選組もマークしていた場所でしょうね。
市中巡回で前は通っているでしょうね。


坂本龍馬大事典では、
下宿先の木屋町三条下ル2丁目「瓢屋」から同志と出かける。
とあります。
新選組大事典では、
事件当夜、土佐系浪士が飲食していた、木屋町四条上ル「巴屋」は現在も旅館として往時を偲ばせる。
とあります。
「瓢屋」「巴屋」どちらが当時の名前だったのでしょう。
もしかしたら、この二つは違う場所の事だったのでしょうか?
まだまだ勉強不足です。



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宮川助五郎

塩屋勘兵衛宅跡

2008年06月05日
もう一度、高瀬川まで戻ります。
高瀬川に掛かる真橋を渡り、木屋町通を歩きます。
が、真橋を渡った真ん前辺りが、塩屋勘兵衛宅跡(京都市中京区木屋町通四条上ル鍋屋町)がありました。

塩屋勘兵衛は京都の人で勤王の志篤く、山陵の荒廃を憂い、家業を弟に譲り山陵調査をしました。
蒲生君平の『山陵志』などで不明とした中の、二十陵程を明らかにしたそうです。
写真で見る維新の京都より


新選組や幕末の動乱との係りは見出せなかったのですが、木屋町通を歩くと目の前を通るので、思い出したら立ち止まってみてもいいのではないでしょうか?
やはり特に碑などは無かった…はずです。


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中岡慎太郎寓居跡

2008年06月04日
谷干城寓居跡前をそのまま、河原町通まで抜けてしまいます。
河原町通に出たら北(右折)に数m(お店にして4~5軒目)です。
そこが中岡慎太郎寓居跡(京都市中京区河原町通四条上ル東側)です。
中岡慎太郎寓居跡2  中岡慎太郎寓居跡1
写真の手前の方に見える、鉄の扉の向こう(中)に、写真右の碑がありました

中岡慎太郎は土佐国安芸郡北川村柏木の出身の土佐藩士です。
間崎滄浪や武市瑞山に学問、剣術を学びました。
土佐勤王党結成時には十七番目に血盟、龍馬は九番目に名を連ねていました。
その後脱藩しました。

龍馬の協力もあって薩長同盟を成し遂げました。
元治3年4月には、藩から龍馬とともに脱藩罪を赦され、土佐藩遊軍の陸援隊を組織統率しました。

慶応3年11月15日、京都近江屋で龍馬と会談中に襲われ負傷、2日後に亡くなっています。
享年30歳。
墓は京都市東山区清閑寺霊山の霊山墓地です。
坂本龍馬大事典より

私が訪れた頃(もう何年も前です。その後は写真を撮る事がないので、碑を見て前を通るだけになっています。)は、有名ブランドの服屋さんでした。
本には碑の写真があるのに、碑がどこにもありませんでした。
何度か通っている間にありました。
店と店との間の従業員の方の通用口に通じる場所にありました。
河原町通に鉄の門扉があり、その奥に碑があったので、普段は従業員の方の通行で門が開かないと見えない場所だったのです。
偶然、少し開いていて、碑らしきものが見えて覘いてみたらあったのです。
この時は嬉しかったですね。

今はどうなっているのか、去年か一昨年か通ったときに、服屋さんではなくなっていて、碑もパッとみたところ分からなかったのです。
どうなったのかまた確認に行きたいと思います。


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