中村半次郎寓居跡

2008年05月31日
浮蓮亭から高瀬川沿いに、北に向かって進んで行きたいと思います。

四条小橋の東側に中村半次郎(桐野利秋)寓居跡(京都市中京区四条通小橋東詰)があります。
中村半次郎寓居跡
中村半次郎は薩摩藩士です。
示現流の達人で“人斬り半次郎”と呼ばれていました。
島津久光の供をして上京してきました。
四条小橋東詰の煙管屋田村の娘おさとと仲好くなり、禁門の変後は同家に潜伏し、長州の桂小五郎などと密議をしたそうです。

維新後は陸軍の幹部になりましたが、西郷隆盛の下野にともない官職を棄てて、鹿児島に帰りました。
明治10年9月、西郷に殉じました。
写真で見る維新の京都より


四条小橋から数m?
2軒目が寓居跡になります。
特に碑が建てられているわけでもありませんので、写真を撮るにはちょっと勇気がいりました。

私個人的には、
桐野利秋よりも、中村半次郎。
木戸孝允よりも、桂小五郎。
井上馨よりも、井上聞多。
維新後の名前より、幕末当時の名前の方が好きですね。
若々しさを感じる?仰々しくない?響きが好き?
私の中で、どれもが微妙に交じり合っているのでしょうね、きっと。

中村半次郎の写真をみると、意外と男前!?

浮蓮亭跡

2008年05月30日
浮蓮亭(うかれてい 京都市下京区 四条小橋高瀬川下ル船頭町)
浮蓮亭
中井庄五郎と土佐の那須盛馬がこの店で飲食後、四条橋側で沖田総司、永倉新八、斉藤一と斬り合いになったという話があります。

私はいったいどこでこの史跡の事を読んだのか…全く思い出せないのです。
気になります。
この史跡は“確かな話”ではなく、“という話がありますが…定かではありません”という場所です。
でもどこで読んだっけ?

阪急河原町から50mほど、地下から地上に出たらすぐの所にあります。
現在は「高瀬舟」というお店がある辺りになります。
「高瀬舟」は天麩羅のお店です。

この話が実話なら、中井庄五郎と那須盛馬は新選組Top3と対峙した事になります。
ちょっとやそっとの腕では、一刀両断にされているところです。
小説や映画でなら、オープニングで新選組の腕の強さを強烈に印象付けるシーン、という感じになるのではないでしょうか?

確かにお酒が入っていたりしたら、十分にありえる話だと思います。

会津藩西郷墓-長谷寺

2008年05月29日
井上馨の墓を訪ねた長谷寺で偶然見かけました。
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しかしこれは墓?顕彰碑?
そしてどなたの物?
全く分かりません。

当時の私の走り書きメモに「会津藩老職西郷」とは書いています。

会津藩  西郷  近思  老職  近房  明和  天明  文化  文政
この言葉だけは分かりましたが、それがつなげられません。

ただ会津藩のいつの時代かの、西郷さん関係だという事ですね。


会津藩家老の西郷さんと、薩摩藩の西郷隆盛は、遠い昔には繋がっていたそうですね。
歴史の長さを感じます。

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井上馨(井上聞多)墓-長谷寺

2008年05月28日
井上馨(井上聞多)のお墓(東京都港区西麻布)にも行きました。
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萩藩士井上光亨の次男に生まれ志道慎平の養子になりましたが、井上家の家督を継いで井上姓に戻りました。
明治3年、馨と改名しました。
藩主の側近に仕え、文久2年には尊攘志士たちと交わりました。
同年12月には、高杉晋作らと品川御殿山の英国公使館を焼き討ちしました。

元治元年8月、四ヶ国連合艦隊との下関講和談判に通訳として加わりました。
第一次征長軍を迎えて武備恭順論を主張。湯田で俗論党に襲われ瀕死の重傷を負いました。
元治2年、俗論政党を倒しました。
慶応元年閏5月、桂小五郎と西郷隆盛との下関会談が流れ、桂を説いて坂本龍馬、中岡慎太郎との会談させ、薩摩名義を利用して亀山社中を通じて長州の為に、小銃、軍艦を購入する事にしました。
英商グラバーから小銃7,300挺を購入、同時に亀山社中の斡旋で蒸気船ユニオン号を購入する事に決め、運用は亀山社中が長薩のための貿易に使用するという契約を結びました。
薩長同盟の成立に尽力しました。

明治政府成立後は、参与兼外国事務掛になりました。
外務、内務、大蔵などの大臣を歴任し、三井組と組んで日本財閥の育成に力を貸しました。
坂本龍馬大事典より

私が新選組以外の幕末・維新の人物を知るきっかけは、本(小説や史料本、漫画)など以外ではテレビが多いですね。
井上聞多を知った、というより、“覚えた”といった方がニュアンスは近いでしょうか。

ダウンタウンの浜田氏が坂本竜馬役で、三谷幸喜氏が脚本を書かれていた、「竜馬におまかせ!」で井上聞多を覚えました。
一般的にはあまり話題にならなかったのですが、このドラマ周辺の新選組好きの中では、ちょっと話題でした。
近藤勇と清河八郎が秀逸でした。

その中で、高杉晋作役の寺脇康文氏が、「聞多」「聞多」と叫んでいるのが凄く印象に残っています。

最近、萩に行って来ました。
湯田経由で帰ってきたのですが、湯田で「井上馨生家跡」もチェックしましたので、またこちらに書きたいと思います。

この番組でさらに興味を持ったのが、「近藤長次郎」饅頭屋さんです。
人斬り以蔵こと「岡田以蔵」は武市半平太とともに、前から興味はありました。
で、高知にも行って、饅頭屋さんの生家や以蔵のお墓など、行っていますのでこちらも紹介したいと思います。

相楽総三墓-青山霊園Ⅷ

2008年05月27日

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相楽総三の墓 (1イ-3-1 立山墓地)

相楽総三は本名小島将満、通称四郎左衛門、のち四郎といい、下総(千葉県)北相馬出身の郷士で江戸赤坂に豪邸を持つ小島兵馬の末子です。
草莽の志士、赤報隊隊長。

慶応2年頃から京都に入り、志士と交流を深めました。
長州藩主毛利敬親にも知られました。
伊牟田尚平、益満休之助を通じて西郷隆盛、大久保利通と関東擾乱計画を練りました。
同じ年、伊牟田・益満とともに薩摩江戸屋敷にはいり、相楽総三と名乗り、野州、甲州、相州など各地に挙兵しました。
慶応4年、京で西郷から東征軍先鋒嚮導隊参加を求められました。その後、近江愛知川の妙寿院金剛輪寺において赤報隊を編制、鈴木三樹三郎(元新選組)、油川錬三郎とともに、軍裁に就任、一番隊長となりました。

租税半減をゆるされ、通過の村で実施しました。
慶応4年1月25日、東海道鎮撫使の指揮下に入ることを命ぜられましたが受けませんでした。
そのため、偽官軍として捕縛の布告が出されました。
2月18日、美濃大垣の東山道総督府で、捕縛命令は撤回され、薩摩藩の指揮下に入る指示を受けました。
29日、下諏訪の総督府に出頭、逮捕されました。
3月3日、同志7人とともに斬罪に処せられました。

長谷川伸は「相楽総三とその同志」において冤罪を明らかにしました。
幕末維新人名事典より

青山霊園での今回の目的は、相楽総三のお墓にお参りすることでした。
ちょうどこの頃、漫画で「るろうに剣心」(和月伸宏氏)が人気でした。
テレビでもアニメ化されていたのもこの頃だったと思います。
新選組&幕末ファンとしては、新選組の斉藤一(藤田五郎)が出ていますし、剣心の相棒の相楽左之助が新選組の原田左之助をイメージさせるのですから、読まないわけがないでしょう。

そこで左之助のテーマが「赤報隊 相楽総三」だったのです。
名前は知っていました。
が、それより少し前の大きな事件で、赤報隊を名乗る犯人がいたりで、あまりいいイメージは持っていませんでした。
漫画で少し興味を持ってみたら、ようやくそのイメージが変わりました。

お墓も大きな道を渡った、立山地区にありました。
探しても分からないので、管理事務所で訊ねたのですが、「そんなお墓ありました?」みたいな感じだったのです。
著名人のお墓のリストにも載っていませんでした。
やはり私が最初に持っていたのと同じようなイメージがまだあるのでしょうか?

やっとお墓に辿りつきました。
幕末の頃の人のお墓に行くと思うのが、若くして亡くなったのだな…。という事です。
近藤勇や土方歳三に坂本龍馬は30代。
沖田総司や相楽総三が20代。
彼らがもっと長生きしていたら、世の中は変わっていたでしょうか?


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佐々木高行-青山霊園Ⅶ

2008年05月26日
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佐々木高行 (1イ-21-8-8)

佐々木高行は、土佐国吾川郡長浜村瀬戸出身の土佐藩士です。
慶応3年、薩土盟約の件に関して、龍馬や中岡慎太郎と京都で会談を行っています。
この後、イカルス号事件に際し、龍馬はさらに佐々木との接触を深めています。
さらに土佐商会責任者として長崎行を命ぜられ、龍馬と長崎に向かっています。
長崎では、龍馬と頻繁に交流を続け、龍馬や海援隊士らに、物心にわたって援助しています。
龍馬も酒宴に誘うなどしています。
龍馬ががハットマン商会からライフル銃を購入する際、費用捻出の為の協力をしました。
慶応3年9月18日、ライフル銃とともに土佐へ向かう龍馬の震天丸を見送ったのが永訣となりました。
維新後は参議や枢密顧問官等を歴任しました。
坂本龍馬大事典より

龍馬とは太く短いお付き合いだったようですね。
それでもこれだけ、龍馬や海援隊の為に骨を折っているという事は、龍馬に惚れ込んでいたのでしょうね。


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後藤象二郎墓-青山霊園Ⅵ

2008年05月25日
後藤象二郎096  aoyamaboti7553.jpg
後藤象二郎の墓 (1イ-13-24-1)

後藤象二郎は土佐国高知城下片町出身で、後藤助右衛門の長男として生まれた、土佐藩士です。
義叔父吉田東洋に学びました。
土佐勤王党を弾圧し、武市半平太以下を断罪して公武合体を推進しました。

慶応3年1月、長崎清風亭で坂本龍馬と出会い、意気投合しました。
龍馬に「近頃の人物ニて候」と評されています。
後藤も龍馬を評価して、脱藩罪を解いています。
大政奉還の実現に向けて行動し、大政奉還の建白書を幕府に提出、徳川慶喜の決断を仰ぐために二条城にも赴いています。

維新後は大阪府知事、左院議長、参議など歴任。
実業界では成功せず、政界に復帰しています。
坂本龍馬大事典より

後藤象二郎で思い出すのは、今から10年前の出来事です。
ある女優さんの元夫の大祖父が後藤象二郎だそうです。
この元夫という人は、ある事件を起こして裁判がありました。
その時に、「後藤象二郎」という名前が、スポーツ新聞に大々的に載っていました。

後藤象二郎の写真をみると、体格のいい人です。
勝手なイメージですが、土佐系の顔というより薩摩系の顔だと思いませんか?
私だけでしょうか?


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篠原泰之進墓-青山霊園Ⅴ

2008年05月24日
青山霊園には新選組隊士であった、篠原泰之進のお墓もあります。
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篠原泰之進の墓 (2イ-12-3-5)

篠原泰之進、篠塚友平、秦河内、秦泰之進、秦林親と名乗っていました。
筑後国生葉郡高見村出身の新選組隊士。
諸国を遊歴した中で、加納鷲雄と出会い、佐野七五三之助らと尊攘活動を約しました。
また加納を通して伊東甲子太郎を知りました。

元治元年、江戸での隊士募集に応じて上京し、入隊に至りました。
のち伊東甲子太郎らと新選組から分離し、孝明天皇の御陵衛士(高台寺党)として勤王活動を行いました。
油小路事件では、謀殺された伊東の遺体を同志と回収に向かいましたが、新選組の襲撃にあい薩摩藩邸へ入り、中村半次郎に庇護されました。
翌月、阿部十郎らと伏見墨染で近藤を銃撃し、負傷させています。
鳥羽・伏見の戦いでは、薩摩軍に属して戦い、のち赤報隊に加わっています。

維新後は弾正台出仕などを経て、実業界に進出しました。
晩年はクリスチャンとなりました。
新選組大事典より

篠原泰之進の写真はよく目にします。
晩年の写真ですが、威厳がありながらも、優しいおじいちゃんという雰囲気の写真です。
新選組の全盛期を知る人で、「秦林親日記」を残しているのです。
明治44年というと、私達の年代の祖父母が生まれた時には、ご存命だったかもしれないのですね。
そう考えると、明治はすぐそこという感覚です。



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有村次左衛門墓-青山霊園Ⅳ

2008年05月23日
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有村次左衛門の墓 (1ロ-12-8)

有村次左衛門は桜田門外の変に参加した唯一の薩摩藩士です。
井伊直弼の首を落としましたが、自分も斃れました。
有村仁左衛門兼善の第四子で、兼清といいます。
示現流免許の達人。

井伊の駕籠の左側から近寄り、井伊の頭に手をかけて引き出し、首を落としました。
太刀先に首を刺して高々と天に掲げ、日比谷門に来た時に後ろから頭を切り込まれました。
鍛冶屋橋手前まで来て動けなくなり、「介錯を頼む」と叫び息絶えたそうです。
幕末維新人名事典より

桜田門外の変といえば、“水戸の尊攘派”のイメージが強いです。
薩摩藩士一人だと、どうしても水戸色が強くなるのでしょうか。

私の中では桜田門外の変が“幕末維新の始まり”という位置づけになっています。



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大久保利通墓-青山霊園Ⅲ

2008年05月22日
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大久保利通の墓 (1イ-2-15~19)

大久保利通は薩摩藩士大久保次右衛門長男として生まれました。通称一蔵。
西郷隆盛とおなじ鹿児島城下の下加治屋町に生まれました。
文久2年、島津久光に随行して上京しました。
勅使大原重徳の江戸下向に久光と共に従い文久の幕政改革を進めました。
禁門の変では、西郷隆盛の上洛を斡旋し、会津と協力して長州軍を敗走させましたが、第一次征長軍解兵のあとは、西郷隆盛、小松帯刀と図って薩摩藩を討幕割拠の方向へ誘導しました。
慶応2年の薩長連合にも推進役を果たし盟約の席に臨みました。
その後薩長土の武力討幕提携を進める一方で、坂本龍馬、後藤象二郎の大政奉還にも協力する姿勢をみせました。

王政復古後、新政府の参与にあげられ、明治2年、参議、大蔵卿時代に版籍奉還、明治4年に廃藩置県を行いました。
明治6年西郷隆盛、板垣退助らの征韓論をおさえ、明治7年佐賀の乱を鎮定しました。
明治10年、西南の役で盟友西郷隆盛を討ちました。
明治11年、紀尾井坂で石川県士族島田一郎らに暗殺されました。
坂本龍馬大事典より

大久保利通については、私はよく知らないのです。
今の大河ドラマ「篤姫」に出ています。
それはもちろん知っています。
薩摩藩(鹿児島)の話ですから、西郷隆盛や大久保利通などは重要人物でしょう。

新選組ファンの私からみると、坂本龍馬ほど親近感を持てないのです。
どうも“薩摩藩”が苦手です。
政治や思想とかでいえば新選組と敵対した藩や人は多くありますが、嫌いな人はあまりいないのですが…。
凄く私的な好みだと思われます。
薩摩藩の歴史を知った時に、“薩摩人=西郷隆盛=濃い顔をしている”だったので、そのイメージが沁み込んでしまったのが原因だと思います。

大久保利通といえば、髭をはやしたあの顔をまず思い出しますね。
そして若い頃の方膝を立てた写真も、見たら「あ~、あった、あった。」という感じです。


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白峰駿馬墓-青山霊園Ⅱ

2008年05月21日
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白峰駿馬の墓 (1ロ-5-8-21)

白峰駿馬は越後国出身の海援隊士です。
文久2年に江戸に出て、勝海舟が頭取の軍艦操練所で学びました。
元治元年4月には神戸に赴き、買うtの海軍塾に入門し、龍馬らと神戸海軍操練所で修行に励みました。
慶応元年閏5月には、亀山社中の結成に参加しました。
翌2年10月に大極丸に野村辰太郎とともに船長として乗り組み、大阪に滞在しています。
翌3年6月に上京して酢屋嘉兵衛方に下宿しました。この酢屋に滞在中に龍馬の暗殺に遭遇しました。
明治2年にアメリカへ渡航し、帰国後海軍省に迎えられましたが、すぐに辞し、日本最初の民間造船所である白峰造船所を設立しました。
坂本龍馬大事典より

海援隊士についてはあまり詳しくないのです。
「龍馬の暗殺に遭遇した人」となるとちょっと注目ですね。
さすがに日本最初の民間造船所を作った人だけに、お墓も立派でした。
それでも“日本最初の…”という肩書きではなく、“海援隊士“”という大きな石碑がお墓の横に建てられていました。


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中江兆民-青山霊園Ⅰ

2008年05月20日

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中江兆民の墓 (1イ-1-24辺り)

中江兆民は、土佐国高知城下山田町出身です。
自由民権運動家。
土佐藩江戸方下横目、中江元助の子として生まれました。
子供の頃、自宅近くの山田町獄舎で平井収二郎らの介錯人なしの切腹をひそかに目撃し、後年、「惨酷なる代はりに尤も立派に見えたり」と記しています。
慶応元年9月、藩から英学勉強の為の長崎派遣の命を受け、幕府外国語伝習所の済美館でフランス語を学んでいます。この長崎滞在中に、龍馬の屯所に出入りしたといわれています。
坂本龍馬大事典より

中江兆民の名前は、歴史の教科書で習ったぐらいしか知りませんでした。
歴史の教科書には「坂本龍馬と知り合い」なんてかいないですから、ほとんど興味もなく右から左でした。
土佐藩出身で、龍馬と面識があると知っていれば、もっと興味も涌いてテストでもバッチリ覚えられたかもしれなかったです。
少し遅かったです。

青山霊園(東京都港区南青山2丁目)



福沢諭吉と中江兆民 (中公新書)福沢諭吉と中江兆民 (中公新書)
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土方歳三生家

2008年05月19日

現在土方歳三生家(東京都日野市石田2761)として、私達が訪れているのは、厳密にいえば「生家」ではないそうです。
「生家」は天保11年の洪水で流出し、現在の場所に移ったそうです。
歳三6歳の時です。
「生家」はとうかん森より東北の方向、現在下水処理場がある辺りではないかといわれています。
土方生家2094  土方生家1092
平成2年に、建物は改築されましたが、玄関横に資料室が作られています。
相撲の稽古をしたという、大黒柱が保存されています。
また、庭には歳三が植えた篠があります。
新選組大事典・新選組史跡事典より


土方生家3095
生家のもとの家屋を支えていた柱(?)

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歳三お手植えの矢作
歳三が武士になりたいと願い、自らが植えた笹。

資料館に訪れたくて仕方がありませんでした。
土方歳三の生の資料が目の前で見られるのです。

「歳三忌」ではない時に訪れても、多くのファンの方が来られていました。

最初に見入ったのは、「和泉守兼定」です。
歳三とともに激動の日々を送った刀です。
人の血を吸ったかもしれない刀ですが、とても綺麗でした。
究極の夢は、この刀を手にとってみたいという事ですが、これだけは永遠の夢でしょうね。

その後ろには、有名な「豊玉発句集」が掛け軸になってありました。
俳句の出来は私にはわかりませんが、細くて流れるような字は、鬼副長のイメージとは正反対でした。
太くて力強い近藤勇の雨戸の落書き、細くて繊細そうな土方歳三の発句集、に現される対照的な二人に、沖田総司、井上源三郎たちの脇固めがあってこそ、新選組が世に出たのではないでしょうか。

元の家の柱や、歳三が植えたという笹など、こちらはガラス越しではなく、目の前で見る事ができました。

できればもっとそこに座っていたかったのですが、後ろ髪を引かれながら帰途に着きました。

とうかん森

2008年05月18日
石田寺から土方歳三生家に向かう途中で、とうかん森(東京都日野市石田)の寄りました。
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宝永5年以前に、土方家一族によってこの地に稲荷が祀られて、土方家の氏神となりました。
土方歳三写真集より


森といっても、巨木が数本あるだけです。
ムクノキやカヤの木だそうです。

土方家の歴史ですから、ぜひ立ち寄ってみてください。


土方歳三・孤立無援の戦士土方歳三・孤立無援の戦士
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土方歳三の墓-石田寺

2008年05月17日
京王線高幡不動駅から、高幡不動尊とは逆方向になります。徒歩で約20分と少し歩きます。
浅川を渡るともう間もなくです。
今はモノレールが開通しています。
私はモノレールが出来てからまだ行けていません。
高幡不動の末寺の石田寺(東京都日野市石田145)に、土方家と土方歳三の墓があります。
石田寺2090

石田寺3091  sekidenji3215.jpg
これは古いお墓になるのでしょうか?
今のお墓は平成12年に建て替えられたものだそうです。
正面中央に「歳進院殿誠山義豊大居士」と刻まれています。

石田寺089  hijikataseika4213.jpg
土方歳三顕彰碑。昭和42年に明治百年記念に建立されました。
樹齢400年のカヤの木の脇にあります。(写真右に写っている木です。)
新選組史跡事典より

という事は、私は新しいお墓にまだお参りしていないって事でしょうか?
行かなくては…!

大きな木が印象的なお寺です。
石田寺と書きますが、
×「いしだじ」ではありません。
○「せきでんじ」と読みます。

歳三さんのお墓は、角が削り取られていました。
削って持って帰る人がいるらしいのです。
ファン心理としては、持ち帰りたい気持ちも分からなくはない事もないのですが、それはやってはダメでしょう。
初めてお参りした時に、その姿を見て悲しかったです。

土方歳三の遺体はどこにあるのか、今でも判らないのです。
このお墓の下に、歳三さんは眠っていないのですから、お墓を削っていっても…。

こんな事を書きながらも、やっぱり土方歳三の墓を目の前にすると、ドキドキ・ワクワクしました。

子供の頃過ごした地を訪れて、子供の頃を見ることが出来るような錯覚が起こりました。

高幡不動尊&殉節両雄之碑

2008年05月16日

京王線高幡不動駅から200m位でしょうか、高幡不動尊(東京都日野市高幡733)に向かいました。
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高幡不動尊は土方歳三の家の菩提寺で、過去帳が残されています。

 歳進院殿誠山義豊大居士
       石田出生
   五月十一日 土方歳三殿事
        箱館浄土宗称名寺ニ
        石碑有之鴻池手代
        大和屋友次良建之

 広長院釈義操 土方歳三事
        是ハ箱館 派箱館御坊
        乗玄寺内納涼寺建之

は、司馬遼太郎氏の「燃えよ剣」で有名になりました。
大日堂には近年作られた、歳三の位牌も安置されているそうです。
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また境内には、近藤勇と土方歳三の顕彰碑である、「殉節両雄之碑」があります。
高幡不動住職・賢雅、佐藤俊正(彦五郎の兄)、糟谷良循(歳三の実兄)、土方義弘(歳三甥)、本田定年(退庵)、橋本正直(道助)、近藤勇五郎(勇甥で娘婿)、小島為政(鹿之助)が中心になりました。

碑文は「両雄史伝」をもとに、元仙台藩儒者の大槻磐渓が撰文。
書は元幕府典医頭で医学所長の松本順(良順)。
篆額の揮毫は元会津藩主の松平容保。(徳川慶喜に打診したが回答が無かった。)

(写真右は、碑文の全文です。)
碑文の完成は明治9年。碑の建立許可は明治15年。落成は明治21年。

新選組大事典&新選組史跡事典より

京都以外の史跡では、この日野市の高幡不動尊が訪れた回数は一番多いです。
今までに3度訪れています。
初めて来た時は大感激した記憶があります。
土方さんの生家の近くだというので、ワクワクしていました。
ここだときっと、土方さんの「庭」同然だろうと思えたのです。

takahatafudo2559.jpg
その時はまだ土方歳三の銅像はありませんでした。
「殉節両雄之碑」はもちろんあったので、その碑を感動しながらみました。
しばらく訪れていないのですが、今はどれだけ変わっているのでしょうか?
再び訪れてみたいです!


新選組余話新選組余話
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大国魂神社

2008年05月15日
JR南武戦府中本町駅・京王線府中駅前の大国魂神社(東京都府中市宮町3-1)に足を延ばしておきました。
大国魂神社は近藤勇たち天然理心流の興行の地になります。
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日野宿の八坂神社に額を掲げ、天然理心流の存在をアピールした三代目近藤周助は、次に府中宿の大国魂神社(当時は武蔵総社六所宮)で万延元年9月30日に献額しました。
また、この境内で文久元年8月27日に勇の天然理心流四代目襲名披露の野試合が行われました。
この野試合には、土方歳三・山南敬助・井上源三郎・沖田総司・新徴組隊士となる沖田林太郎や、佐藤彦五郎、井上松五郎らの名前があります。

奉納額は、甲州勝沼戦で甲陽鎮撫隊が、東山道先鋒総督府参謀 板垣退助軍に敗退すると、府中まで逃げてきたという甲陽鎮撫隊士が腹を立てて、どこかへ捨てたとも、新選組との関わりを恐れた献額の連名者が捨てたとも言われているそうです。
新選組史跡事典より

この野試合は意外と小説などに出てきますね。
新選組幹部達の名前が多く出てきて、さらに剣の腕の布石になるからでしょうか?

大国魂神社はよく出てくるので、訪れては見たいと思っていましたが、実際に訪れてみると、特に魅かれるものが無かったのです。
沖田総司も土方歳三も、近藤勇もこの野試合に出ているので、ここで実際に試合をしているのに。
さすがに大きな神社だけに、多くの人が参拝に来られていました。
人が多すぎて無意識に、「イヤ」と思ってしまったのかもしれません…。
もしかしたら、次の史跡の方が気になっていたのかもしれません。きっとそうだったのでしょう。

このあと「青山霊園」に行っているのです。

日野市石田の土方歳三関連は、翌日の「歳三忌」に出席の為、明日まで持ち越しです。

佐藤彦五郎の屋敷跡

2008年05月14日
大昌寺から東にやはり約250mほど行くと、そば屋「日野館」(東京都日野市日野本町2-15-9)があります。
ここが、佐藤彦五郎の屋敷跡で、天然理心流佐藤道場跡になります。
satodojo1543.jpg  satodojo3545.jpg
道場は大正15年に火災で焼失しましたが、長屋門の門扉は冠木門として現存しています。
建物自体は文久3年(近藤・土方上洛後)の棟上だそうです。

この建物のでのエピソードとしては、

正面中央の玄関敷台では、甲陽鎮撫隊進軍時の休息中に病をおして沖田総司が四股を踏んでみせた。
土方歳三が昼寝をしたのは玄関すぐ奥の10畳間。
土方歳三の写真を持って来た、市村鉄之助が暫く滞在したのは、その向かって二つめの6畳間。
10畳間から奥に二つめの8畳間は、甲陽鎮撫隊時に歳三がノブに心配事を話した部屋。
その天井は文久3年当時、大工だった大石鍬次郎が張った。

などがあります。
新選組史跡事典より

「日野館」でお蕎麦を食べる。
史跡巡りのもう一つの楽しみでした。
中に入れる(もちろん食事という行為の為です)!というワクワク感がありました。
が、なんと定休日でした(涙)
ガックリです。
仕方がありませんね。
satodojo2544.jpg
駐車場となっている辺りに、四間四方の道場があったというので、そこだけはちゃんと見ないと。
広い駐車場です。
しかも定休日なので、車も止まっていません。
微かに見える、建物の屋根を見て、もしかしたら土方さんや沖田さん、近藤さんたちもこの屋根を見たかも…。
この地に立った事は間違いないな。
と思いながら、次の場所に向かいました。


天然理心流

佐藤家菩提寺-大昌寺

2008年05月13日
宝泉寺の東、約250mほどの所に、大昌寺(東京都日野市日野本町2-12-13)があります。
daisyoji1541.jpg
ここは、土方歳三の姉のぶと、その夫の日野宿名主佐藤彦五郎のお墓があります。
佐藤家の菩提寺になります。
彦五郎は土方歳三とは“いとこ”同士にあたり、彦五郎の母、まさは歳三の叔母になります。

佐藤彦五郎は、近藤勇らが新選組を作った後も、物心両面で支援をしました。
甲陽鎮撫隊の勝沼戦では、春日隊を作り参加しました。
敗戦後、赦されました。
明治21年、「殉節両雄の碑」を日野市高幡不動金剛寺境内に建立、新選組の名誉回復に尽力しました。
新選組大事典より

daisyoji2542.jpg
「佐藤家の墓域の南側端に地蔵尊と石像があり、それに向かって右側に彦五郎とのぶの墓がある」
と、私はメモしているのですが、肝心のお墓にお参りしたのでしょうか?
すごく記憶が曖昧になっています。
お寺に行ったのは確かなのに…。

向かって左にある墓誌には、彦五郎さんとのぶさんの戒名・没年などが刻まれています。

井上源三郎生家

2008年05月12日
宝泉寺から直線距離で約300mもあるでしょうか、少し歩いた所に井上源三郎生家(東京都日野市日野本町4丁目11)がありました。
inoueseika1539.jpg  井上生家087
文久3年に上洛するまで、兄の松五郎ら家族と過ごした場所です。
井上兄弟は、土間や庭で剣術の稽古をしたそうです。
井上家の祖は戦国の頃にこの地に来たと伝えられています。
現在も子孫の方が住んでおられます。
新選組大事典より


宝泉寺からすぐでした。
史料本で見たのと同じ、蔵の外壁の「○(まる)に井」が見えました。

ただし、子孫の方が住んでおられるのでお家の方や、近所の方のご迷惑にもなってはいけないので、一瞬立ち止まるぐらいで、すぐに次の場所に移動する事にしました。
蔵の外壁を見ることが出来て満足です。



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井上源三郎の墓-宝泉寺

2008年05月11日
JR中央本線日野駅のすぐ近くに、井上源三郎のお墓のある宝泉寺(東京都日野市日野本町3-6-9)があります。
hosenji1536.jpg
元徳年間に開創された時は、日野市字姥久保にあったそうですが、天正末期に火災にあい、現在の地に移転されたと伝わっているそうです。
境内は約1,200坪あります。
境内には井上源三郎の墓と、昭和46年に建てられた記念碑があります。
hosenji2537.jpg  hosenji3538.jpg
このお寺にお墓のある、井上源三郎は八王子千人同心井上藤左衛門の三男として生まれました。
近藤勇、土方歳三、沖田総司らと京に上り、新選組副長助勤六番隊長となった事は有名です。
慶応4年の鳥羽・伏見の戦いで、淀千本松に布陣しましたが、銃弾により戦死しました。
享年38歳。法名 誠願元忠居士。
源三郎の首・刀は撤退途中の寺の門前に埋めたといわれていますが、寺の名はわかっていません。
新選組大事典より

これより更に数年前に、この訪れた事があります。
その時は、冬の6時頃だった(と記憶しています)ので、真っ暗になってしまってほとんど何も見えませんでした。
再び訪れた時は、快晴でした!

駅の近くにあるのですが、境内は静かでした。
大きな木があり、境内も美しかったです。

私の中で、井上源三郎という人は、“老人”というイメージがあるのです。
何故なのか…?何故なんでしょう?
亡くなった時は38歳ですから、いくら江戸末期の人としても“老人”ではないですよね。
漫画などでも、“老人”風に描かれる事が多いので、そのイメージがどこかにあるのかもしれません。
また、落ち着いた温厚な人だったようなので、それが他の新選組幹部と少し違ったイメージを抱かせる要因なのでしょうか?
井上源三郎さん、ごめんなさい。


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近藤道場撥雲館

2008年05月10日
近藤勇生家跡の道を挟んだ向かい側に、近藤道場撥雲館(東京都調布市野水)があります。

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勇の実父宮川久次郎が始めた天然理心流道場です。
当時はここも宮川家の敷地内でした。
近藤周助も出稽古に来ると撥雲館にも立ち寄りました。
近藤勇の一人娘瓊子と結婚して天然理心流五代目を継いだ近藤勇五郎が引き継ぎました。
撥雲館の命名は旧幕臣山岡鉄舟によると言われています。

近藤勇生家を見ていて、振り向くと「近藤道場撥雲館」が目に飛び込んできました。
生家だけだと思っていたので、その文字にはビックリしました。

広大な敷地があったので、道を挟んだ向かい側が所有地だったとしてもおかしくはないのですよね。


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近藤勇生家跡

2008年05月09日
龍源寺から200mほど離れた調布市に、近藤勇生家跡(東京都調布市野水1-6)があります。
isamiseika1529.jpg  isamiseika3531.jpg
昭和18年に、調布飛行場建設の為に、軍部の命により屋敷は解体されたそうです。
なので今は、草木が生い茂り、“産湯の井戸”が残っているだけでした。
残念でなりません。

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  産湯の井戸

訪れた時が、快晴で爽やかな天気だったからでしょうか、とても清々しい場所という印象が残っています。
京都で恐れられた「近藤勇」が生まれた場所とは思えないような、澄み切った場所でした。
isamiseika4532.jpg

人見街道と小金井道の岐路に位置していたそうです。
屋敷の広さ7,000㎡(約2,120坪)、母屋は2、3階が蚕室となっていたそうです。
母屋の他に、蔵座敷、文庫蔵などの建物があり、庭内南側中門をくぐると、築山、さらに西方の裏門を出て竹林でした。屋敷の周囲には、欅、樫の大樹が植えられて、夏は街道を行く人の涼になっていたそうです。
新選組大事典より

この記事をみると、すごい家だったのですね!!
想像もつきません。
屋敷の解体命令がなければ、当時の姿のお屋敷が見られたかもしれないのですね。
昭和18年…、ほんの少し前の事なのです。


近藤勇の墓-龍源寺

2008年05月08日

函館や会津周辺を廻ってきましたが、新選組でいえば「土方歳三」が中心の史跡でした。
近藤勇や沖田総司、また他の新選組隊士に近い史跡も巡りたいと思います。

東京都三鷹市にある龍源寺(東京都三鷹市大沢6丁目3-11)です。
新選組局長近藤勇のお墓があります。
会津でも、土方歳三が建てたといわれる、近藤勇のお墓をみましたが、この龍源寺のお墓が一番感慨深かったです。
故郷の菩提寺に、親族と眠っているからでしょうか?
それとも、首の無い遺体を埋めたと伝わっているからでしょうか?
近藤さんが一番近くにいる感じがしました。

どうやって龍源寺に行ったのか…、実は分からないのです。
私は関西在住で、吉祥寺に泊まっていました。
東京在住の新選組仲間の友人が、バスで連れて行ってくれたので、気付いたらもう龍源寺でした。

朝9時前から動いていたので、着いた時はまだ人は誰もいませんでした。
静かな場所に、龍源寺がありました。

ryugenji2524.jpg
今度勇の生家の宮川家の菩提寺です。
生家は調布市で、200mほどしか離れていません。
境内は幼少の頃は遊び場だったそうです。
寺は昭和59年に改築されていますが、本堂裏には天然理心流五代目近藤勇五郎(勇の甥で勇の娘瓊子の夫)などの墓があります。
慶応4年4月25日、勇が板橋で処刑され、そこに埋められた首のない遺体を勇五郎や長兄音五郎らが掘り出し、約20㎞の道のりを運んで埋葬した場所です。
勇とつね夫人の写真や鍛錬に使った木刀、勇の羽織袴、当時の金銀出納帳などが保存されています。
新選組大事典より

龍源寺1081  龍源寺2082
龍源寺5085  龍源寺3083


ryugenji3525.jpg  龍源寺4084
お寺の境内にある、近藤勇の銅像です。後ろ姿も凛々しい?

ryugenji4526.jpg  ryugenji6528.jpg
近藤勇の墓石


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向かって左が近藤勇五郎の墓。その隣(真ん中)が近藤勇の墓。

近藤勇五郎086
近藤勇五郎の墓石

男体山&草津温泉

2008年05月07日

東照宮からいろは坂に入りました。
少しドキドキです。
ちょうどいろは坂の凶暴な猿がクローズアップされていたので、その猿が襲ってきたらどうしようかと一人で緊張していました。
1匹だけ見かけましたが、全く大丈夫でした。
男体山1
途中の明智平から男体山(栃木県日光市)を見ました。
円錐状成層火山。標高2,484m。
中腹に中宮祠、山麓に中禅寺湖、山上に二荒山神社奥宮があります。

男体山という山名は、東北側の山続きの女峰山との対で付けられたものと考えられます。
男体山と女峰山は、間に大真名子山、小真名子山という二つの「愛子(まなご)」を抱え、また男体山の北西側には太郎山を擁し、火山一家を成しているところが特徴的です。


華厳の滝2
明智平からの中禅寺湖と華厳の滝

有名な草津温泉(群馬県吾妻郡草津町)泊まりでした。
草津温泉1  草津温泉2
確かに硫黄臭がしていました。
本当に、湯畑もありました。
「湯もみ」(観光客用のものです)も見てきました。

草津温泉に来たことがある新選組隊士っていてるのかな?

白馬や糸魚川をまわって帰阪しました。
これで今回の会津史跡巡りは終了です。
次回からは、京都か東京の史跡めぐりの予定です。
どこに行こうか考え中。



日光東照宮

2008年05月06日
いよいよ日光東照宮(栃木県日光市山内)です。
東照宮6  東照宮2
戊辰戦争との関係では、宇都宮城の戦いに敗れた旧幕軍は日光に陣を移し、東照宮を拠点としました。
会津戊辰戦争写真集より

また、戊辰戦争で官軍に降伏した会津藩主・松平容保は領内滝沢村の妙国寺に拘禁され、領地を没収されました。のち東京に移され、下北半島に斗南藩を置くことを許されました。
明治5年に謹慎を解かれ、東照宮宮司となりました。明治20年没
幕末維新人名事典より

東照宮4
煌びやかでした。
テレビなどで時々みますが、それ以上綺麗に見えました。

東照宮3
驚いたのは「みざる・いわざる・きかざる」の猿達のいてる場所が、厩舎に彫刻されている事です。
あまりに有名な猿なので、陽明門や本殿のような所に彫刻されていると思っていました。
本当に驚きました。

東照宮8  東照宮10
眠り猫もしっかりと見てきました。
猫の裏にスズメが彫られています。
猫が起きていれば雀は食べられますが、猫も居眠りして雀と共存共栄しています。というような事を、団体のガイドさんが話しているのが聞こえてきました。フムフム。

東照宮7  東照宮9

旧幕軍や松平容保が関係しいるので、私は史跡巡りと意気込んで訪れました。
しかし、あまりに目を奪われる豪華さ、荘厳さ、楽しさに幕末の感慨は忘れていました。

見るべきもの、見たいものが多すぎました。
もっと勉強していけば、さらに楽しく回れたかもしれません。


ストラップ
東照宮で買いました。



中禅寺湖・華厳の滝

2008年05月05日

東照宮(幕末関連の史跡として)に行く予定でしたが、湯野上温泉や塔のへつりでゆっくりしたので、今からだとゆっくりと見ることができません。
東照宮を翌日にして、華厳の滝(栃木県日光市中宮祠)を見に行きました。
華厳の滝
溶岩流の断崖にかかり、高さ約97m、幅約7mです。
中禅寺湖から流れでて、その末は大谷川となります。
霧降滝・裏見滝とともに日光三名瀑の一つです。

確かに水量も豊富で、“豪華”な滝でした。
地元にも有名な滝がありますが、これほど“大きく”ありません。
滝というイメージどおりの滝でした。

中禅寺湖
中禅寺湖(栃木県日光市)にも行ってみました。

男体山の南麓にある湖。男体山の噴火の結果、噴出物によって大谷川の渓谷が堰き止められて生じた湖です。
華厳の滝、大谷川の水源です。
湖面標高1,269m、最大深度163m。周囲24㎞、面積11.8k㎡。
水温が低すぎて、魚が住めないそうです。

いよいよ明日は日光東照宮です。

湯野上温泉&塔のへつり

2008年05月04日

翌日、会津若松に別れを告げて、次の地へと向かいました。
日光東照宮に行く予定です。
途中、いくつかの場所に立ち寄っていきます。

福島県の湯野上温泉(福島県南会津郡下郷町湯野上)に…。
大川(阿賀川)沿いの、混浴岩露天風呂です。
脱衣所も何もありません。
私はさすがに入る勇気はありませんでした。
ナイスバディーなら入ったかも…(笑)
河原1077  河原2078
温泉から少し離れて、自然を満喫して時間を過ごしました。


次に塔のへつり(福島県南会津郡下郷町)にも寄っていきました。
塔のへつり1  塔のへつり2079
「へつり」とは壁を伝って移動するという意味の会津地方の方言だそうです。
長い年月をかけて侵食、風化を繰り返して造り出された奇岩が連なっています。

私も歩いてきました。
もっと細い道しかないのかと思っていましたが、奥行きがあって歩くのに困難という事はありませんでした。
中を歩いている時より、対岸から眺める方が、「へぇ~」と感心しました。

さすがにここには、新選組関係者は立ち寄っていないでしょう。
もし幕末の混乱期でなければ、会津関係者が通りすがりに寄ったかもしれない…?

果報は寝て待て-壱

2008年05月03日

今回訪れることが出来なかった場所です。
機会を作って、是非行ってみたいです。
そしてこの写真と同じ風景を、実際に見てみたいと思います。

駅前071
JR会津若松駅前の白虎隊の銅像

日新館073
会津藩校日新館(福島県河東町南高野高塚山10)

会津武家屋敷1074  会津武家屋敷2075
会津武家屋敷(福島県会津若松市東山町石山院内1)
会津藩家老西郷邸を中心に、武家の暮らしを再現した建物が並びます。
佐々木只三郎墓076
佐々木只三郎の旧墓碑
京都見廻組を率いて戦った佐々木只三郎は会津藩士・手代木直右衛門の実弟でした。
京都と大阪の境界、橋本の戦いで腰に被弾し、紀州の紀三井寺で療養していましたが亡くなりました。
この墓碑は、紀三井寺に新墓が建立されたさいに、会津武家屋敷に移転されました。

御薬園072
御薬園(福島県会津若松市花春町8-1)
会津藩主の別荘・庭園。現在でも会津産薬草や地方薬草、外来薬草などが植えられています。

会津戊辰戦争写真集より

写真は函館や東京を一緒にまわった新選組ファンの方から頂きました。

果報は寝て待て-陸・郡山市&下郷町など

2008年05月03日
いよいよ最後です。

【郡山市】

橋本次郎七の顕彰碑 福島県郡山市熱海町石筵原田 観音寺
               新政府軍の挑発をうけ、母成峠の道案内をした猟師。

銚子ヶ滝 福島県郡山市熱海町石筵
        新選組をはじめとする旧幕軍と二本松藩兵が布陣していました。
        間道より進軍した敵兵に背面攻撃を受けて敗走しました。

新選組来訪の地・福良御用場 福島県郡山市湖南町福良字中町51・53・56
                    福良本陣の向かいにあった。
                    福良を訪れた土方、新選組が来た可能性大。

福良本陣跡 福島県郡山市湖南町福良字荒町付近
         新選組の宿陣地。

松本喜次郎の墓 正福寺 福島県郡山市湖南町三代字寺ノ前289
                 新選組隊士。

【下郷町】

大峠 福島県南会津郡下郷町・黒磯市
     館林・黒羽藩兵は大峠に進撃しましたが、
     会津藩の築いた陣地に兵の姿はありませんでした。

駒返坂 福島県南会津郡下郷町
       館林・黒羽藩兵と会津藩兵が抗戦した場所です。

大内宿 福島県南会津郡下郷町大内
      会津藩兵は退却時に火を放していましたが、
      大内宿だけは名主の必死の懇願により免れ、現在まで残っています。

笹沼金吾の墓 福島県南会津郡下郷町大内 正法寺
           会津藩兵は敗走していきましたが、砲兵隊・笹沼金吾は単身で残り、
           新政府軍を待ち伏せました。

戦死二十四人墓 福島県南会津郡下郷町大内
            23名が新政府軍、1名が会津藩兵・小出勝之助といいます。

【田島町】

山王峠 栃木県藤原町・福島県田島町
      追撃する宇都宮・芸州藩兵と会津藩兵の戦いがあった場所です。

山王茶屋跡 福島県田島町糸沢
         撤退する会津藩兵は、村々に火を放ちました。
         この茶屋も焼失しました。明治2年の再建です。

田島陣屋跡 福島県田島町後町甲
         会津藩が陣屋をおいていました。

官軍戦死十九人墓 福島県田島町田島後原甲
              芸州・肥前・宇都宮・大田原藩兵の墓。

土方歳三が訪れた陣屋・田島陣屋跡 福島県南会津郡田島町大字田島字中町付近

【その他】

墓碑群 戸ノ口原
      小沢新十郎ら。

大野ヶ原 福島県河東町
       戊辰戦役滝沢峠戸ノ口原両軍殉難者九十八士供養塔

強清水
    佐川官兵衛が布陣。街道沿いには戦死墓が点在します。

戦死十六人墓・戦死六人墓 福島県河東町強清水

棚倉城址 福島県東白河郡棚倉町棚倉城跡

戦死七人碑 福島県安達町渋川
         二本松藩兵は米沢・仙台・棚倉の藩兵と、
         城下北方より奪還戦を挑んだが敗走しました。
         戦場の一つとなった、取場坂に戦死者7名の碑があります。

塹壕跡 福島県耶麻郡西会津町
      会津藩兵が築きました。


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