白虎隊の墓

2008年04月30日
白虎隊の墓(福島県会津若松市一箕八幡弁天下)です。
飯盛山6  飯盛山4

飯盛山5
飯盛山で自刃した16名、その後を追った石川虎之助、不動滝上で遺体が見つかった3名が、飯盛山で自刃したといわれる20名だそうです。
会津戊辰戦争写真集より


白虎隊のお墓の前は、人だかりが出来ていました。
観光バスで訪れた団体さんや、修学旅行生も多いようです。

あまりの人の多さで、ここではゆっくりする事はできませんでした。
白虎隊士の人達も大変です。

白虎隊士自刃の地

2008年04月29日
お城が見えるのか、自分の目で確かめたので、白虎隊に思いを馳せたいと思います。
白虎隊士自刃の地(福島県会津若松市一箕町八幡弁天下)には、若松城を望む白虎隊士の像がありました。
飯盛山2  飯盛山1
白虎隊士は協議の上、お城と運命をともにする事に決し、集団自刃を遂げました。
遅れて飯盛山にたどり着いた石山虎之助も、あとを追って自刃しました。
会津戊辰戦争写真集より


歴史に“もし”は禁句ですが、もしほんの少し何かが違っていたら-誰かが一歩踏み出すのが遅かったとか、蹴躓いたと、そんな些細過ぎる些細な事でも-、白虎隊は自刃しなかったかもしれません。
自刃したとしても、蘇生・生き残った人数も違っていたかもしれません。
そう思わずにはいられません。

十代半ばの少年が…と思うと、やるせなさを感じずにはいられません。
ここが新選組とは違うところかもしれませんね。

私は新選組ファンですが、近藤勇、土方歳三、沖田総司、斉藤一、永倉新八、原田左之助、藤堂平助…と挙げればきりがないですが、彼らは十代ではなく、自由意志で新選組に入隊しているので、入隊しないという選択もあったわけです。
しかし白虎隊は“藩”という背景があるので、そうはいかなかったはずです。
確かに当時の思想は今と違い、若くても女性でも、「藩の為に」はという迷いは無かったかもしれません。
でも、でも、やはり十代でなんて…。
と、今の私には思えて仕方がありません。

飯盛山より若松城を望む

2008年04月28日

飯盛山の白虎隊自刃の地に着きました。
飯盛山から2
白虎隊が見た風景はまさにこんな感じです。
同じ風景を見ています。
今でもちゃんとみることが出来るのですね。
幕末ファンにすると、こんなに嬉しい事はないです。私だけ?

遥か向こうに、若松城が小さく見えます。
赤白ポールの向こうです。
(若松城から見たときも、赤白ポールの向こうにここ飯盛山がちゃんと見えていました。)

天候や時間等、それ以上に今は建物も増え、空気も澄んでいないという条件で左右されるのでしょうが、若松城から飯盛山をみた方がよく見えました。
お城が燃えているのか、その付近の家屋が燃えているのか、間違えるかといわれると、微妙なところかもしれません。

白虎隊士の自刃の地でもう少し、歴史を感じます。

さざえ堂-旧正宗寺三匝堂

2008年04月27日
さざえ堂-旧正宗寺三匝堂(会津若松市一箕町飯盛山)
戸ノ口堰から白虎隊士の墓地に行く途中にあります。
さざえ堂
戊辰戦争当時もここにあり、明治23年には観音像のあった場所に白虎隊十九士の霊像が安置され、
白虎隊とは少なからず関係があるので、息抜きをかねて紹介します。

会津さざえ堂は、福島県会津若松市の飯盛山に1796年に建立された、高さ16.5メートル、六角三層のお堂です。正式名称は「円通三匝堂」(えんつうさんそうどう)といいます。
その昔、飯盛山には正宗寺(しょうそうじ)というお寺があり、当時の住職であった僧郁堂(いくどう)の考案した建物です。

その独特な2重螺旋のスロープに沿って西国三十三観音像が安置され、参拝者はこのお堂にお参りするだけで三十三観音参りができます。また、上りと下りが全く別の通路になっている一方通行の構造により、たくさんの参拝者がすれ違うこと無く安全にお参りができるという世界にも珍しい建築様式を採用したことで、その特異な存在が認められ、平成7年に国重要文化財に指定されました。

さざえ堂に入りますと、上りに一回転半、下りにまた一回転半、合計三回転することになりますが、三匝堂の「匝」は「めぐる(匝る)」という意味があり、三回めぐりながら観音様をお参りすることになります。

当時、会津より西日本方面に出かけて各地の札所をお参りするということは一般民衆には夢のような話でした。そのため会津地方には三十三観音札所が点在しますが、それらをさらにコンパクトに一ケ所のお堂に集約したのです。

1780年代より、当時の民衆の観音信仰を背景に、江戸の羅漢寺をはじめ、関東を中心として全国各地にさざえ堂と呼ばれる建物が建てられました。やはりどちらのさざえ堂も観音像を安置し、一度にお参りするためのお堂です。有名なところでは群馬県太田市や埼玉県児玉町に現存しますが、会津さざえ堂の構造とは異なり、平面は方形で、中二階を用いた三階建てになっています。

明治になり、正宗寺は廃寺されました。また、神仏分離令によって三十三観音像は取り外されました。明治23年には観音像のあった場所に白虎隊十九士の霊像が安置されましたが、のちに会津藩の道徳の教科書であった、第八代藩主松平容敬(かたたか)公の編纂された「皇朝二十四孝」の絵額が掲げられ、現在に至っています。

入ってみました。
急な階段(坂に滑り止めがついている感じのものでした。)で、登るのも下るのも怖かったです。
それでも気付かないうちに、登りの通路から下りの通路を歩いていました。
すごく不思議な建物でした。

最近のニュースでみたのですが、
マナーのない観光客が、落書きや柱を彫って自分の名前などを刻んでいくという、悪質な行為が頻発しているそうです。
年月を重ねて、自然の摂理で傷んでくるのは歴史ですが、人為的に傷つけて朽ちるのは歴史ではありません!
世間にアピールしたいなら、人に迷惑をかけない方法で行ってください!

戸ノ口堰の洞門出口

2008年04月26日
天寧寺から歩いて、飯盛山の白虎隊自刃の地の麓まで来ました。
この階段を登るのかとみると、隣には有料のエスカレーターがありました。
もちろん私は、階段を登ります。
途中にある戸ノ口堰の洞門出口(会津若松市一箕町八幡弁天下)を見なくていけません。
戸の口2  戸の口3

戸の口1
戸ノ口原の戦いで敗れ、若松方面に逃れた白虎二番士中組は、戸ノ口堰の洞門を潜り飯盛山に出ました。
篠田儀三郎   西川勝太郎   津川喜代美   安達藤三郎
野村駒四郎   梁瀬勝三郎   梁瀬武治     井深繁太郎
有賀織之助   間瀬源七郎   伊東俊彦     林八十治
永瀬雄治     鈴木源吉     石田和助     飯沼貞吉     の16名です。
会津戊辰戦争写真集より

戸ノ口堰の洞門という史跡に関しては、ある時まで聞いた事もありませんでした。
私が会津を訪ねる数年前に、同じ新選組ファンの方が会津史跡めぐりをされて、教えて頂いたのでした。
その時に見た写真が、水の中にポッカリと開いた穴でした。
この中を白虎隊の少年達が通ったと思うと、どういっていいのか…(自刃という結果を知っている為でしょうか)不憫、悲運、悲哀というようなものが入り混じった、戦争の悲惨さのようなものを感じたのです。
それからこの洞門が印象に残って、飯盛山に行くのなら絶対に見るぞ!と思っていました。

実際に見たときは、写真を見たときほどの衝撃はありませんでした。
きっと訪れている人も、ある程度おり、寂しさを感じる状態に無かったからでしょう。

多くの人に、知ってもらいたいと思う反面、史跡で多くの観光客の方々に遭遇すると、少し嫌だなと思うのは我が儘なのですよね。

天寧寺-近藤勇墓

2008年04月25日

ハイカラバスというバスが走っているのですが、1時間に1本しかなく、ちょうど阿弥陀寺滞在時間を短くすると、予定とは逆ですがすぐに来るので、それに乗り東山温泉の手前まで行ける事がわかりました。
本当は会津武家屋敷の方に行き、松平家御廟を訪れる予定でした。

しかしバスの予定で、天寧寺・近藤勇の墓(福島県会津若松市東山町大字石山慶山)に行く事にしました。
もちろん天寧寺は絶対に行く予定でした!新選組、近藤勇関係ですからね!!
天寧寺1

天寧寺3  天寧寺2
天寧寺裏の愛宕山中腹にあります。
慶応4年4月25日、板橋の刑場で近藤が斬首されました。
会津西街道の山王峠付近にいたであろう土方歳三が、いつ、どのようにして近藤の死を知り得たかは不明ですが、会津を退去する8月23日までに土方は天寧寺に近藤の墓を建てました。
そして、会津藩侯の松平容保に請願し、自らが建立したと伝えられる墓石正面には、丸に三つ引き紋の近藤の家紋と「貫天院殿純忠誠義大居士」の戒名が刻まれています。左側面には「慶応四年戊辰四月二十五日卒、俗称近藤勇藤原昌宜」とあります。
戒名は容保から依頼された天寧寺三九代吟月雲歩住職が授けたものといいます。
 
天寧寺の諸説
・日没の薄暗がりのなかを立派な武士が2、3人やってきて重そうな白木の箱を埋めた。
・京の粟田口の刑場に埋められた近藤の首級を新選組隊士が集まって会津まで運び、滝沢峠に会 津の兵が夜、松明を持って迎えた。
など、土方の建てた墓に近藤の首級を埋葬したととれるような言い伝えがあります。
また首級ではなく、遺髪であるとする説もあります。
新選組史跡事典より

会津に駐留していた新選組は、この天寧寺を屯所としていたようです。
8月22日、母成峠勝岩陣地から敗走した新選組はさんざん山を踏み迷いながらも同寺に集結し、宿陣しています。  新選組事典より

坂道を登っている時から人が多かったです。
斉藤一さんのお墓では誰にも会わなかったのですが、ここでは何人もの人に会います。

でもよく考えてみると、誰にも会わなかった斉藤さんのお墓には、斎藤さんが眠っているのです。
しかしこの近藤さんのお墓には、墓碑だけで近藤さんが眠っている可能性は低いのです。
もし遺髪が納められているとしても、斎藤さんのお墓の方が“お墓”なのです。
それなのに、近藤さんがいないかもしれない“お墓”の方が人気(?)というのは、おかしいといえばおかしいのかもしれません。
近藤勇は戊辰戦争では会津まで来ていないのですよ。

ただこの墓碑は、“土方歳三が作った”というのが惹きつけられるのかもしれません。 

人が多すぎて、墓碑の前で思いに耽ることもままならず、次に向かう事にしました。

阿弥陀寺・斉藤一夫妻の墓-弐

2008年04月24日
鶴ヶ城の近くからバスに乗り、阿弥陀寺へと向かいました。
七日町駅前のバス停からすぐのところに、阿弥陀寺 斉藤一と藤田時尾の墓(福島県会津若松市七日町4-20)があります。
斉藤一墓2

斉藤一墓1  斉藤一墓3
境内に入るとすぐわかりました。
斉藤一といえば、謎の多い人物です。
会津藩のスパイ説も聞いた事があります。新選組に入隊した時期にも諸説あったりします。
それでも最後は会津まで一緒に戦っているので、幕府側の人間だったのでしょう。

そして何故か私の中では、斉藤一は男前というイメージがあります。
土方歳三は確かに男前です。写真が残っているのですから、これは疑いようがありません。
沖田総司も男前な(どちらかといえば、少年っぽい)方が、演じられるように、ハンサムというイメージがありますね。
肖像画がありますが、姉ミツの孫要氏をモデルにしているという、西郷隆盛の肖像画方式なので、実際はどうだったのかは不明です。

たぶん若い方は、「るろうに剣心」の藤田五郎(斉藤一)からイメージを膨らませている人も多いのでしょうね。

斉藤一といわれる、明治になってからの写真をみると、実は男前とは言い難いかも…です。
それでも強かったのは確かでしょう。
幕末という、そう遠くない時代にもかかわらず、これだけ分からないことが多いというのも、新選組の魅力の一つかもしれません。

御三階
またこの寺院の本堂は、鶴ヶ城内の御三階を移築したものです。
三階といいますが、本当は四階です。藩主と重臣が密議を謀る時に使用した建物で、三階から四階への各梯子を取り外し、誰も登ってこられないようにしました。
裏に回ると、この白い壁に当時のお弾痕がそのまま残っています。
新選組大事典より

来るときに帰りのバスの時間を確認すると、到着後15分程で帰りのバスが出ます。
これに乗らないと、また待ち時間が長いので、他の場所を回る時間もなくなってしまいます。
しかたがありません。
阿弥陀寺滞在は10分ほどで、小走りで駅前のバス停まで戻りました。

気を取り直して、近藤さんに会いに行きましょう。

阿弥陀寺・斉藤一夫妻の墓-壱

2008年04月24日
【斉藤一】

 母成峠の敗走後、更に戦う土方に異を唱えて分離し、会津残留を決めました。
 会津落城後、藩士たちとともに斗南に移住しました。明治4年に東京に出ました。

 藩主松平容保の上仲人、佐川官兵衛、山川浩らの下仲人で、会津藩大目付故高木小十郎の娘・時尾と結婚、藩主の松平容保から藤田姓を賜り、藤田五郎を名乗りました。
 明治10年2月、警視局に就職、5月、西南の役に出征、勲章を受けました。
 警視局を退職後は女子高等師範学校書記などを務めました。
 時尾との間に三人の男子をもうけました。生来の酒豪で、胃潰瘍になり、大正4年に死去しました。臨終時には床の間に座布団を重ね、その上に端座して息を引取りました。享年71歳。

 生前の希望どおり、阿弥陀寺の戦死墓のかたわらに眠っています。戦死墓には会津戦争における城下市街戦の戦死者のうち1,281人が合葬されています。

 
 父祐助(明石藩足軽、のち、株を買い御家人となる)と母ますの二男として誕生しました。
 江戸で生まれ育ち、新選組には京都で入隊し三番隊隊長として活躍しました。
 慶応3年、伊東甲子太郎らの新選組分離に従い、御陵衛士にスパイとして潜入。
 慶応4年3月、甲陽鎮撫隊を組織した近藤に従って甲州に出陣しましたが、柏尾で敗れた鎮撫隊は江戸に敗走しました。
 その直後、斉藤は五兵衛新田に行った形跡はなく、負傷兵らを連れて会津に先発しています。閏4月、会津戊辰戦白河の戦いに際して、宇都宮戦で負傷した土方歳三に代わり、山口次郎として新選組隊長を務めています。

 8月の母成の戦いの敗戦、会津城下に西軍が侵入し、会津は籠城。以前から仙台侯の蜜命で、旧幕軍は仙台に移行と決まりました。斉藤はそれに強く反対して、如来堂の一戦以来、少数の部下とともに姿を消しました。
 会津落城後は藩士らとともに斗南に配流となり、一戸伝八と名乗りました。
新選組史跡事典より


 会津戊辰戦争の時、城下戦で死んだ会津人の屍は賊として西軍から埋葬を許可されず、腐敗し、鳥や犬に食われ死臭が漂っていたそうです。
 嘆願の末にやっと16箇所の穴を掘り、投げ込むように埋葬されました。阿弥陀寺もその一つでした。山門の左奥に戦死者ら1,281人が眠る墓所があり、傍らには藤田五郎(斉藤一)の墓があります。
 この墓所は味方の遺体の埋葬を手伝った高木時尾(藤田の妻)へ、松平容保から賜ったものといわれています。
新選組大事典より

内藤邸跡

2008年04月23日
西郷邸の道路を挟んで向かいに会津藩家老内藤邸跡(会津若松市追手町)があります。
現在の裁判所の場所になります。
内藤邸
屋敷跡に庭園が残っています。白露庭と呼ばれているようです。
遠州流庭園だそうです。
戊辰戦争の降伏式がこの庭園で行われたそうです。

実はこの場所は、ノーチェックでした。
西郷邸跡を見て、振り向いたら碑があったのでとりあえず写真を撮ったのです。
“家老内藤”…すみません、勉強不足です。

西郷頼母邸跡

2008年04月22日

お城の前に西郷頼母邸跡(会津若松市追手町)があります。
西郷邸3

西郷邸  西郷邸2
北出丸の前にあった西郷頼母邸では、薩摩藩士・川島信行が邸内に足を踏み入れたところ、すでに一族21名が自刃していました。
ただひとり16歳の三女・細布子は死に切れずにいました。
川島に敵か味方かを問い、味方との答えに安心して、介錯をうけました。 
会津戊辰戦争写真集より


この話を聞くと、1986年日本テレビで年末時代劇として12月30・31日に放送された「白虎隊」を思いだします。
堀内孝雄氏の「愛しき日々」はいまでも時々歌われています。
この時、細布子を演じていたのが、伊藤つかささんでした。
そしてこのシーンは今でも鮮明に覚えています。

ちなみにこの時、新選組の沖田総司役をしていたのが中川勝彦氏でした。
今、人気のタレント、中川翔子さんのお父さんです。

土方歳三は近藤正臣氏。
松平容保は風間杜夫氏。
飯沼貞吉(生き残る白虎隊士)は宮川一朗太氏。

そして世良修蔵の和泉しげる氏は、あまりに印象が強すぎて忘れられません。

会津若松城-鶴ヶ城

2008年04月21日
十六橋から会津若松市内に入りました。
市内は公共交通機関を使った方が便利ですから、バスを使って回ります。
最初に訪れたのはやはり、会津若松城・鶴ヶ城(福島県会津若松市追手町1-1 )です。
会津若松城

会津戦争の象徴的な物です。
飯盛山の白虎隊の「お城が燃えている」はあまりに有名です。

江戸から甲州に向かった斉藤一(山口次郎)や、流山、下館、宇都宮と転戦してきた土方歳三や新選組は、会津支援のために若松城に入城し、松平容保と面会しています。
母成峠から猪苗代、戸の原口と敗走した東軍(幕軍)は、若松城へ籠城しました。約1ヶ月籠城しましたが、城を明け渡しました。
国指定重要史跡となっています。           新選組大事典より

現・天守閣は昭和40年に再建されたもので南に向かって走り長屋があります。
平成13年に干飯櫓と南走り長屋が復元されました。二つの走り長屋を東西に繋ぐかたちで、本丸への表門の鉄門があります。
滝沢本陣から蚕養口を経て城内に戻った容保は、鉄門を入ったところを御座所とし、ここが作戦を指揮する本陣になりました。天守閣の陰であり、両走り長屋の石垣を防壁として利用しました。容保と喜徳(一橋家からの養子)は高台に並び椅子に腰掛けて采配を振るったといわれています。
9月22日巳の刻(午前10時)、この御座所の前に白旗が立ちました。 新選組史跡事典より


会津若松市内に入ったころから、天気も回復してきました。
天気が回復する事は、とっても嬉しいですが、どうして母成峠で晴れてくれなかったのでしょう。

再建天守閣ですが、それでもこういうふうに土方歳三や、斉藤一は若松城を見上げてたのかと思いました。土方歳三や斉藤一と同じ場所に立ちました!
ファン冥利に尽きます。

お城を見ると、会津に来たんだなぁ~と、しみじみと思いました。

若松城から2  若松城から1
お城から飯盛山方向を見ました。
赤白のポールが目印として建てられていました。
意外とハッキリと見えたので、驚きました。
あとで飯盛山に行く予定です。飯盛山からお城はどのように見えるのでしょうか?

十六橋

2008年04月20日

母成峠から会津若松市内に向かう途中に、十六橋(福島県耶麻郡猪苗代町/会津若松市)があり、もちろん寄って行きます。
十六橋1  十六橋4
            猪苗代側からと、会津若松側から

十六橋2  十六橋3
8月22日に母成峠の戦いに敗れ、猪苗代を放棄した会津藩兵は十六橋を渡って若松城下に退きました。敗報を受けた若松城では、十六橋を破壊して新政府軍を阻止するために奇勝隊を派遣し、佐川官兵衛も兵を率いて強清水に出陣しました。
22日夕刻、十六橋の破壊途中で新政府軍の先陣が駆けつけました。敵の襲来を予想していなかった奇勝隊以下は、突然の銃撃に破壊を断念して撤退しました。  
会津戊辰戦争写真集より


母成グリーンラインを猪苗代湖方面へ走り、国道49号に出てきました。
猪苗代湖沿いに会津若松方面に走っていると、野口英世記念館や天鏡閣などがありますが、今回は停まることなく進みます。
“金の橋”(バス停留所あり)を右折します。
周りになにもない、山道のような感じになり、一瞬不安になりました。
人影がありません。途中、釣りをする人の車が1台停まっていただけでした。
それでも間違っていない!と信じて、500mほど進むと、十六橋がありました。

今はすっかり架け替えられています。
傍らに「十六橋」と刻まれた石がありました。

相変わらず雨は降り続いています。

母成峠-弐

2008年04月19日

母成峠 福島県猪苗代町蚕養ホナリ

母成峠には(大げさにいえば)一生行けないと思っていました。
「女性が歩いて、ひとりで行くのは危険」
と聞いていました。

私は車の免許が無いので、行くとしたら歩いて山登りしか手段がない!という状況でした。

「もし行くのなら、タクシーに頼んで行ってもらいなさい」
といわれていました。
しかし、タクシーで峠越えをしたら、いったいいくら掛かるのか?!
それに好きなだけ、頂上で史跡巡りが出来ません。

車で連れて行ってもらえることに!!

喜び勇んで当日を迎えました。が、なんと雨です。
やっぱり…と、言われてしまいましたよ。
私が出かけると雨が降ります。
先に書いた、函館旅行も大雨、また後で書く予定の高知も大雨でした。

車で母成グリーンラインを母成峠頂上に向かいました。
対向車にもあいません。確かにひとり歩きは危ないかもしれません。
この山の中を、土方歳三や斉藤一、新選組隊士や会津藩兵、さらには新政府軍の兵士達が歩き、戦ったのかと、左右を忙しなく見渡していました。
母成峠4  母成峠3
頂上にある「母成峠古戦場」の碑を見つけ-駐車場にドーンとあるので探す必要はありませんでした-思わず走って駆け寄ってしまいました。
雨が降っていようがお構いなし!


母成峠11  母成峠7
母成峠8  母成峠9
その付近には「堡塁」跡や、慰霊碑等、いろいろあるような記事なども見ていたので、木々が生い茂る道なき道に突入してみたりしました。
慰霊碑などなくても、こういう場所を土方さん達が歩いたんだと思ってみたり、泥だらけになっても私は楽しかったです。付き合わされた人は大変。


母成峠12  母成峠10
母成峠からみる景色は残念ながら、雨で霞んでいました。
それでも悲願の母成峠に来ることが出来て嬉しかったです。


住所としてはいろいろと書かれています。峠なので、境界線の関係かもしれまん。
また、平成の大合併で変わっている可能性もありますが、母成峠で地図をみれば大丈夫でしょう。


母成峠-壱

2008年04月19日

母成峠 福島県耶麻郡猪苗代町母成

母成峠の戦いについて、新選組史跡事典新選組大事典より勉強しました。

 新政府軍は若松侵攻のため二本松・本宮に3000の兵を終結させ、中山口に400の陽動部隊を進め、残る2600の兵で母成峠を攻略する事に決めました。 

 母成峠の陣は、石筵の北方2㎞の萩岡に第一台場、さらに北方3.5㎞の地点に中軍山とその両翼に広がる第二台場、ふたつの台場のほぼ中間にあたる八幡山に第二台場の前進陣地が置かれ、峠の頂上に本営がありました・頂上部には土塁柵と二ヶ所の関門があり、後方には20軒ほどの陣屋が設けられ、守備陣の総員は800名ほどだけでした。

 慶応4年8月21日午前4時、新政府軍は進軍を開始し、午前9時ごろに峠頂上から号砲が響きました。これが開戦の合図で、会津藩兵は続々と関門を繰り出し、一時間後に石筵口の戦いは始まりました。
 砲撃戦が展開されましたが、新政府軍の火器の前に陣は壊滅しました。

 新政府軍は八幡山の陣を突破しました。、さらに
中軍山でも新選府軍の砲撃に敗色が濃くなり、ほぼ同時に勝岩と中軍山は突破されました。

 頂上の本営には敗兵が続々と駆け込み、全山を濃霧が覆って混乱に輪をかけました。そこに新政府軍の迂回部隊が潜入し、陣屋に火を放ち、退去命令の伝達もできないまま、全軍は総崩れとなって大原・木地小屋方面へと敗走しました。午後4時ごろだと思われます。
 母成峠一帯の戦いにおける会津・二本松・唐津藩の討死者は45名、新選組は6名、仙台藩や伝習隊の討死者は不明です。一方、新政府軍は51名でした。

 標高973mの峠の頂上は整備されており、そこに「母成峠古戦場」の石碑が建立され、その中央台地に土塁跡があります。かつてはその麓に「堡塁」の案内板がありましたが、現在は確認できません。
 近くに「東軍殉難者慰霊碑」と「東軍殉難者埋葬地」があります。

草鞋を脱いで

2008年04月18日

このまま京都の史跡を巡るか、江戸に行くか、会津もいいかな?と悩んだのですが、会津に決めようかと思います。
前回が黒谷金戒光明寺だったので、会津藩つながりという事です。
京都に行ったり、大坂に行ったり、江戸や会津に行ったりと、決めずに気ままに行くことにします。

会津は1度行ってみたい場所でした。
しかし関西からは交通手段の難しい場所でもあったのです。
特に行きたいと思う場所は、車がないといけないと聞いていました。
ようやくその場に立つことができました。

関西から電車で行くと、片道5時間30分~6時間かかるようです。
今回は史跡めぐりがメインではなく、「会津方面を車で旅行」に史跡めぐりを組み込んだので、王道な史跡しか巡っていません。

出発1日目は、会津若松の手前、桧原湖近くでとまりました。
母成峠はもう目と鼻の先です!

桧原湖も土方歳三や斉藤一をはじめ、新選組隊士が見たかも知れません。


桧原湖 福島県耶麻郡北塩原村桧原
福島県北部にある湖。磐梯山の大爆発によりできた。堰止湖の一つ。
湖面標高822m、最大深度31m、面積10.7k㎡

 1888年7月15日に磐梯山の噴火に伴う山体崩壊によりできた堰止湖の中では最大規模。噴火の際には500人以上の死者が出たほか、現在の湖底の位置にあった桧原村が水没、地域社会が消滅した。現在でも湖水位の変動により、昔の集落にあった神社の鳥居や墓石が顔を出す場所である。
桧原湖


五色沼
 毘沙門沼、赤沼、みどろ沼、竜沼、弁天沼、青沼、柳沼など、40以上の湖沼の総称です。
五色沼2065  五色沼2066

五色沼2067  五色沼2068

五色沼5069  五色沼6070


明日は念願の母成峠です!!

会津藩本陣・金戒光明寺 清和殿

2008年04月17日
黒谷浄土宗の本山、金戒光明寺(京都市左京区黒谷町)は会津藩本陣になった場所です。
kurodani3161.jpg
文久2年12月24日、会津藩主松平容保は、入洛し金戒光明寺の庫裡を宿陣にしました。
以後5年間、京都守護職として務めましたが、終始ここが会津藩の本陣でした。

kurodani4268.jpg
庫裡は昭和4年に内部が改造され、清和殿として、信徒の集会や宿泊に利用されています。
写真でみる維新の京都より


金戒光明寺の山内は広いです。
JR京都駅や私鉄の駅から少し離れた場所で、いわゆるメインの観光スポットでもないので、人で溢れかえる光景は見られません。
その分、ゆっくりとした時間を過ごせる場所です。

幕末期はきっと、こんなに静かではなかったのでしょうね。
近藤勇や土方歳三、沖田総司や新選組隊士が何度となく訪れたであろう場所です。
これだけのお寺ですから、当時のままの物も多く残っていると思います。
松平容保はもちろん、近藤、土方、沖田が触れた物もあるのかも知れません…。
マニア的にいえば、
同じ土を踏みしめているかも…。
この木は当時を知っているのかも…。
なんて想像(妄想?)して、ニンマリかもしれません。

黒谷・西雲院-会津小鉄墓

2008年04月16日
会津の小鉄 1845-1885
kurodani6270.jpg
法然上人が紫雲光明を見たという紫雲石のある西雲院は黒谷山内塔頭の一つです。

京都北白川に勢力を張っていた侠客。
本名を上坂仙吉といい、会津の出身とも大坂に生まれたともいいます。
15歳の頃、人と争い追われて会津屋敷の中間部屋に逃げ込み、会津屋敷に出入りしていた侠客大沢清八に引取られて成長しました。
文久2年、松平容保が京都守護職に任命されて以後、その下にあって尽力する事が多かった。
会津の印入りの法被を着て、小鉄を名乗ったので会津の小鉄と呼ばれるようになったといわれています。
鳥羽伏見の戦い後、捨てられたままの、会津・桑名の戦死者の遺体を子分とともに収容し、会津墓地に葬り、丁重に回向をしました。

維新後は京都の侠客として名を馳せていました。
伏見墨染の九条寅と勢力を争い、その抗争は京都の住民を畏怖させました。
他方、同志社の学生の世話をし、人を助けることもありました。
幕末維新人名事典&写真でみる維新の京都より


会津墓地に行く途中にあります。
西雲院という塔頭の中にあるので、分かりやすいと思います。
西雲院までいくと、すぐに分かります。

“小鉄”といえば、「じゃりんこチエ」の猫の小鉄を思い出します(笑)

清水の次郎長、黒駒勝蔵と会津の小鉄は、幕末維新の人なのですよね。
もっと古い時代の人というイメージがありました。


会津小鉄と新選組会津小鉄と新選組
(2004/05)
原田 弘

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黒谷墓地-近江屋(井口)新助

2008年04月15日
近江屋(井口)新助(いぐちしんすけ) 1837-1910

新選組よりファンが多い坂本龍馬ファンの方ならご存知でしょう!

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土佐藩御用達の醤油商。
彼の家(近江屋)の二階で、坂本龍馬と中岡慎太郎らが暗殺されました。
その後も新助は勤王に勤めました。
明治43年に没。従五位を贈られました。    写真でみる維新の京都より

高倉永祜のお墓に行く時と同じで、文殊塔の少し手前で南(右)に曲がります。
今度はすぐに曲がらずに、もう少し南に進みます。
東(左)に曲がれる3本目の道を曲がります。
道なりに直進すると、右側にお墓があります。

近江屋・井口と正面に刻まれていません。
「釋智侠」と刻まれています。

黒谷墓地-高倉永祜

2008年04月14日
高倉永祜(たかくらながさち) 1838-1868
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公卿。
高倉家三十四代、八一二石永胤の子。
安政2年家督を継ぎ、侍従に任官しました。
慶応2年従三位。
明治元年、北陸道鎮撫総督に任ぜられました。
北陸から越後へ回り、中山道を経て江戸浅草東本願寺に着陣しました。
ついで北陸道鎮撫総督兼会津征討総督の名で東北征討戦に参加、海路北海を回って、越後高田に付き、ここで奥羽征討越後口総督となりました。
高田を本拠地に、越後各地を点線し、高田で病没しました。
遺体が京都に着いたとき、正三位を贈られました。   幕末維新人名事典より


金戒光明寺の山門を東(左)に曲がり、石段を上ります。
あと少しで文殊塔という少し手前に南(右)に曲がる道があります。
そこを右に曲がると、すぐにまた東(左)に曲がる道-文殊塔の方向-があります。
文殊塔を左に見ながら、裏側が見えるあたりに高倉永祜のお墓があります。


京都時代MAP 幕末・維新編京都時代MAP 幕末・維新編
(2003/12)
新創社

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黒谷墓地-今井太郎右衛門

2008年04月13日
今井太郎右衛門(いまいたろうえもん) 1824-1877
今井似幽・大黒屋とも。
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長州藩尊攘派。
国学者似閑の後裔であるため似幽と号しました。
代々長州藩の半座用達を勤めて京都に住みましたが、吉田松陰から強い影響をうけていました。
安政・文久年間、諸藩の志士に自邸を密会場所として提供していました。
桂小五郎を支援していました。
元治元年禁門の変には兵站を受け持ちましたが、家は類焼し丹波に逃れました。
維新以後は志士先賢の遺芳を集めることに専念し古聖堂と名づけました。
幕末維新人名事典より

山崎闇斎の墓を左に見て、さらに直進します。
右に道が曲がっていますが、その辺りにあります。

円柱形のお墓で、今井似幽墓とはっきりと刻まれています。

黒谷墓地-山崎闇斎

2008年04月12日
山崎闇斎(やまざきあんさい) 1618-1682
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京都の人。
江戸初期の儒者。垂加神道を興し、勤王論の学統の祖となりました。 写真でみる維新の京都より

1665年、会津藩主保科正之の賓師に迎えられ、藩政への助言者として活躍しました。。領内の寺院・神社の整理をおこない、神仏習合を排除しました。
彼の提唱した朱子学を、崎門学または闇斎学といいます。従来の神道と儒学を統合して、垂加神道を開きました。水戸学・国学などとともに、幕末の尊王攘夷思想に大きな影響を与えました。

金戒光明寺の山門を東(右側)に曲がり、石段を登ります。
赤松小三郎のお墓の途中まで同じ道になります。
赤松小三郎のお墓に行く為に石段の途中で左に曲がりましたが、そこを曲がらずに直進します。
がんばって石段を頂上まで登ってください。
文殊塔が頂上です。
そこを北(左)に曲がり、1本目の角を東(右)に曲がると、左側にあります。

石段を一番上まで上がるのは、大変ですが頑張ってください!


新選組の史跡は黒谷墓地の紹介が終わってからの予定です。
あと数人の予定です。

黒谷墓地-赤松小三郎

2008年04月11日
赤松小三郎(あかまつこさぶろう) 1831-1867
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洋式兵学者。
信州上田藩士芦田勘兵衛の二男。のち赤松家を継ぎました。
藩校明倫堂に学んだが、江戸に出て、
内田弥太郎、佐久間象山らに蘭学、西洋砲術を学び、勝海舟に学びました。
海舟が長崎の海軍伝習所に赴任するとき従者として随い、伝習所でさらに西洋兵学と軍事技術を学びました。
帰藩して藩の助教・操練長を兼ね、またイギリス式歩兵制を進言しましたが、採用されませんでした。
結局藩を出て、京都で私塾宇宙堂を開きました。
諸藩から招聘をうけ、薩摩藩にいましたが、公武合体論者であったため、帰藩の準備中京都で薩摩藩士に暗殺されました。   幕末維新人名事典より

金戒光明寺の山門横の道を、東(右側)に進みます。
しばらく行くと、左側に会津本陣となった清和殿(別記、写真を載せます)が見えてきます。
清和殿を左に見ながら直進、池を渡ると長い階段が目の前に現れます。
その階段を半分ほど登ると、左に曲がる道があります。
(お墓の中の細い道ではなく、本道です)
北(左)に曲がり、少し進むと、左側に赤松小三郎のお墓があります。

石段が大変ですが、頑張って登ってください。
京都の風景が眼下に見えてきます。

黒谷墓地-北垣国道

2008年04月10日
北垣国道(きたがきくにみち) 1836-1916
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但馬の志士。養父郡能座村(兵庫県)の豪農の家に生まれました。
農兵を組織して日本海の海防に備えるなど、急進的な尊攘論を持っていました。
同郷の富農中島太郎兵衛、僧侶本多素行らと計画をすすめ、文久3年には上京して山岡鉄舟、清河八郎らに相談しました。
さらに幕府から農兵募集の許可を得るために、真木和泉、久坂玄瑞に会って朝廷に働きかけたが、果たせませんでした。
だが農兵組織の勅許を入手、農兵募集の計画に着手、平野国臣らも参加して、大和の天誅組挙兵に呼応して但馬に兵を挙げることに決定しました。
長州三田尻にある沢宣嘉を迎えるため西に下りました。長州藩は反対しましたが、奇兵隊が相当数賛同して脱藩、主戦論が勝って生野代官所を占拠しました。
しかし、近辺に諸藩の兵が迫ると分裂し、沢は脱出し国道らは偽浪士として農兵に襲われ、同志の殆どが殺されました。彼はどうにか鳥取に逃れました。
維新後鳥取藩に属して戊辰戦争に参加しました。
明治14年、京都府知事に就任し、琵琶湖疏水事業を完成しました。
のち内務次官、北海道庁長官などを歴任、貴族院議員、枢密顧問官となり、男爵を授けられました。
幕末維新人名事典より

千種父子のお墓の近くです。
納骨堂の横を通り突き当たりを右に曲がります。
そこから右奥に千種父子のお墓がありましたが、曲がらずに直進します。
その突き当たり付近にあります。

黒谷墓地-千種有功・千種有文 父子

2008年04月09日
黒谷墓地に眠る、幕末・維新関係者を紹介します。

千種有文(ちぐさありぶみ) 1815-1869
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公武合体派と目され尊攘派志士から奸臣として弾劾された公卿です。
文久元年、中山忠能や岩倉具視とともに和宮を供奉して江戸へ下りました。
尊攘派志士からは久我建通、岩倉具視、今城重子、堀河紀子らと三奸二嬪とされて身辺をつけねらわれました。
文久2年、三条実美、姉小路公知、豊岡随資、長谷信篤ら13名の公卿から、久我、岩倉、富小路敬直とともに四奸臣として弾劾されました。
有文は辞官し、隠退して自観と号して身を潜めました。
文久3年には家臣賀川肇が殺害され、脅迫文と片腕が千種家に投げ入れられました。
慶応3年、王政復古のあと復帰しました。


千種有功(ちぐさありこと) 1797-1854
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有文の父。
堂上公家。歌人。
号千々廼舎。                 幕末維新人名事典より


千種父子の墓は、金戒光明寺山門を潜り、御影堂西(向かって左側)の道をさらに北に進みます。
突き当たりを右折後、少し東に進んだ後の右奥にあります。

壬生寺墓地 及び 壬生村共同墓地

2008年04月08日
壬生寺には壬生塚とよばれる一角があります。
近藤勇の胸像や、芹沢鴨や平山五郎、河合耆三郎らのお墓があります。
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これらは当初壬生村共同墓地(京都市中京区千本通仏光寺東入ル南側)にありました。
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壬生村共同墓地は壬生寺南門の道を隔てた斜め向かいです。
芹沢鴨と平山五郎の墓碑は老朽化の為に建て替えられ、今は二代目の墓石になります。
芹沢と平山は頭を合わせるように葬られたそうです。
八木家の墓所でもあり、八木為三郎墓地もあります。


胸像は昭和47年、俳優の上田吉二郎により建立されています。
現在は三橋美智也の歌碑なども並んでいます。      新選組史跡事典より

最近訪れた時、壬生塚に入る手前に建物が建ち、拝観料(?)が必要となっていました。
もう気軽に訪れられません(涙)
壬生寺には入れます。
いろいろ整備とかも必要なのでしょうが、やはりお金がいるというのはショックでした。

島原住吉神社

2008年04月07日
西の出口の北に島原住吉神社(京都市下京区西新屋敷下之町)があります。
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「(前略)縁遠き女この社に祈願をかくれば、良縁立ちどころになる(攻略)」と、おびただしい人が訪れ、当時は祭事がとり行われたそうです。
これは明治維新時に廃され、明治19年にふたたび道筋の西の突き当たりに仮祠ができ、明治37年夏に、新しくもとの場所に社殿が建立されました。

この住吉神社の境内に祀られている幸天神で、正月14、15日の両日に“ウソ替え神事”が行われていました。思い思いの色紙短冊を持ち寄って取り交わしたそうです。

住吉神社は2001年頃全面的に改築されました。   新選組史跡事典より

島原に来て、大門・輪違屋・角屋は来ていたのですが、住吉神社までは来ていませんでした。。
小説などにもほとんど出てきませんから、住吉神社がある事も知りませんでした。
何かの史料で「新選組と一橋家臣の殺傷事件」がこの前で起こっているのを知り、慌てて訪れたというわけです。
その“何かの史料”が何なのか思い出せないのです。
本棚にあるどの本のどこで見たのかと…皆目検討もつきません(涙)

しかし前に書かせて頂いた、共著の書籍に私自身が書いているので、確かに見ているのです!
思い出せないと、気持ち悪いですね。

輪違屋

2008年04月06日
大門を入ってすぐにあるのが輪違屋(京都市下京区西新屋敷中之町)です。
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中之町の通りには昔は妓楼が両側に軒を並べていたそうです。
輪違屋は“置屋”(芸妓を抱えて置き、揚屋(角屋など)に派遣する店)です。
輪違屋は入り組んだ階段など、独特の構造があるそうです。

輪違屋には近藤勇の筆になる屏風が一双所蔵されています。    新選組史跡事典より


輪違屋は角屋よりは小さな建物ですが、当時を偲ばせてくれる風情です。
現在も太夫を抱えていると、何年か前には聞きました。

黒谷・会津藩墓地

2008年04月05日
前回に引き続き、桜の季節に美しかった場所にしました。
黒谷の会津藩墓地(京都市左京区黒谷町121・金戒光明寺内)です。
<黒谷金戒光明寺については後ほどにさせて頂きます。>
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文久2年に京都守護職を拝命して入洛した会津藩主松平容保は、黒谷金戒光明寺に本陣を構えました。
以後、慶応4年の戊辰戦争、鳥羽・伏見の戦いまで多くの会津藩士が上京しました。
禁門の変などで亡くなった藩士の墓所となったのがこの地です。
文久3年や元治元年の墓石が多いのは、禁門の変による戦死者が多いからです。

250基余りの墓石があります。
墓碑銘に「○○神霊」とあるものは、神道の為です。    新選組史跡事典より

入り口から左側の中央付近にある、柴司は新選組に関係があります。
池田屋事変後の明保野亭事件で自刃した柴司のお墓です。
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会津墓地入り口左側には、「慶応の役伏見鳥羽淀会津戦死者の碑」が建っています。
碑銘の下、戊辰戦争、鳥羽・伏見の戦いで、砲兵隊を率いた林権助を筆頭に、115名の姓名が記されています。
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「伏見淀鳥羽戦死者みちしるべ」の石柱。
側面に戊辰戦争東軍戦死者の埋骨地を刻んであります。
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会津墓地の知る辺
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最初に訪れた時は、桜の季節でした。
墓地の静寂さと、桜で薄紅色に染まった空気に息を呑みました。
墓地とは思えないほどの清々しさで、空気が澄んでいると私は感じました。
いろいろな思いを抱きながら、この地で眠っていると思うのです。
憎しみや悲しみ、怒りを抱いている人もいているであろう場所で、それは微塵も感じられません。
(私に霊感はゼロです。)
ここで眠れたら幸せ…と思ったほどです。

桜が終わった後に訪れた時は、緑に覆われていました。
このときは、爽やかさをひしひしと感じました。
会津墓地は心落ち着く何かがあるのかもしれません。




醍醐寺

2008年04月04日

ちょうど桜が満開の季節なので、秀吉の醍醐の花見で有名な醍醐寺(京都市伏見区醍醐伽藍町)です。
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禁門の変で敗走し、興正寺門主にたすけられ、醍醐三宝院に身を隠したのが、長州藩金剛隊士、松渓・千代松・大心・円暁・皆従・恵定ら6名です。
しかしすぐに、探索に来た新選組に捕えられ、六角牢に入れられました。 
写真で見る維新の京都より

今回は醍醐寺の写真よりも、桜の写真がメインです。
この桜、醍醐寺の桜ではありません。
醍醐寺近くのお宅の桜です。
あまりに見事な桜で、見入ってしまいました。

今年も綺麗に咲いているのでしょうか?

角屋

2008年04月03日
角屋(京都市下京区島原西新屋敷揚屋町)へは、大門から西へ150mほど行った左側にあります。
重要文化財に指定されており、「角屋もてなしの文化美術館」として一般公開もされています。(予約制
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新選組の角屋での話題といえば、
・芹沢鴨が大暴れし、角屋を営業処分にした。
・角屋の会合でしこたま飲まされ、泥酔したところを八木家で殺害された。
などが有名です。
玄関口前の柱の傷に「新選組の刀痕」と案内板があるそうです。

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佐幕・勤王を問わず、出入りしていました。
西郷隆盛、久坂玄瑞、月照などは、よく来ていたそうです。   新選組史跡事典などより


島原まで行けば、角屋を探すのは簡単です。
迷うことはないです。
私も一度見学に参加させて頂きました。
内部は広くて、豪華絢爛でした。
薄暗かったというイメージがあります。
そんな陽がサンサンと射す必要はないですし、薄暗い方が良かったのですね。

新選組&幕末の有名人が、歩いた床(畳、もちろん畳は替えてありますが…。)を、同じように踏みしめて来ました。
また同じもの(調度品など)を見ている!
感動しました。

ただいろいろと、愉快で無い事もあって、ちょっと残念でした。
あくまでも私個人の感じ方です。


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