肥後藩屋敷跡

2008年03月31日

壬生寺や壬生屯所の近くに肥後藩屋敷跡(京都市下京区仏光寺通り壬生川南西角、壬生相合町)があります。 200mほどしか離れていません。
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京都における肥後藩邸は、文久3年頃から地図に登場しています。
南禅寺本坊を細川藩の旅館としるしているものもあります。   幕末維新京都史跡事典より


肥後藩は佐幕派と勤王派とが入り乱れていたようです。
第一・二次征長にも加わるなど、幕府側でした。
しかし、鳥羽伏見戦の後には官軍側につき、東海道先鋒軍に加わり、上野の攻撃、奥羽、仙台攻撃などに従軍しています。
横井小楠、宮部鼎蔵、河上彦斎が有名です。

最初にこの碑を見つけたとき、あまりに新選組屯所と近いので驚きました。
肥後藩=宮部鼎蔵や河上彦斎のイメージがあったので、新選組とこんなに近くていいのか?と思ったのです。
しかし新選組が京にいた頃は、藩としては親幕的だったので、この近さでも大丈夫だったのでしょう。
と、勝手に納得しています。
壬生寺、壬生屯所等は訪れても、なかなか肥後藩邸跡までは行かないですね。
近いので、是非訪れてみてください。
本当に近いですよ

横井小楠と松平春嶽 (幕末維新の個性)横井小楠と松平春嶽 (幕末維新の個性)
(2005/01)
高木 不二

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新徳寺

2008年03月29日

浪士隊から新選組へ変身する為の大切な要因が、この新徳寺(京都市中京区壬生賀陽御所町48)での清河八郎の大演説だったのではないでしょうか?
sintokuji154.jpg  sintokuji344.jpg
浪士上洛時、新徳寺は浪士組取締役の宿にあてられました。
京に着いて、清河八郎は浪士を新徳寺にさせると、尊攘建白書提出の演説をしました。
翌日には学習院に上表文を提出しました。
清河の行動に幕府は浪士隊を江戸へ帰還させました。
この時残ったのが、芹沢鴨と近藤勇一派です。
いわずと知れた後の「新選組」です。

清河八郎が演説をした本堂は当時のままです。
新選組発祥の地、壬生屯所の八木邸の斜め前にあります。
八木邸、前川邸、南部邸跡、新徳寺、壬生寺と150m四方の範囲になりますので、訪れ易いのではないでしょうか。

八木家

2008年03月28日
壬生寺と共に有名なのが、八木源之丞邸(京都市中京区梛ノ宮町24)です。
「新選組発祥の地」「壬生屯所」として知っている人も多いのでは?
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上洛してきた浪士隊のうち、八木家を宿としたのが、
近藤勇、土方歳三、山南敬助、沖田総司、永倉新八、原田左之助、藤堂平助。
そして平山五郎、平間重助、野口健司の10名。
さらに芹沢鴨、新見錦、井上源三郎も加わり13名になっていたそうです。
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八木家は壬生狂言の執行宗家でもあります。
八木家の母屋は、現在、京都市指定有形文化財となっています。
長屋門は文化元年に造られ、文化六年に造られた母屋もあります。建物はほぼ当時のまま残っています。

八木家でのエピソードのトップは、芹沢鴨が愛妾うめと暗殺された事件でしょうか。
土方歳三、沖田総司らが芹沢を暗殺した事件です。
襲われた芹沢は奥座敷から縁側廊下を左の部屋に逃げ、そこで絶命しました。
その時の刀痕が今も残っています。
奥座敷には、かつて天井まで血飛沫がついていたそうです。

八木家には「野辺帳」が残っており、これは文久3年4月8日の葬儀のときの芳名帳で、近藤勇、沖田総司、平間重助、斉藤一、佐伯又三郎、永倉新八の名前があるそうです。 
新選組史跡事典より



最近になって、有料で一般公開される事があるようです。
私も2度ほどお邪魔させていただきました。
最初にあがらせて頂いた時は、感激・感激でした。

刀痕もじっくりと見ました。
後で知ったのですが、皆が触るので、鋭角に斬れていた傷も、丸く角がなくなっているそうです。
もちろん今は、触る事は出来ません!!
芹沢が蹴躓いたという、文机もありました。
まさに新選組隊士、しかも芹沢鴨、沖田総司、土方歳三がかかわった「物」です。
本物ですよ!
もう持って帰りたい!(もちろんしませんし、触ることも厳禁ですよ。)と思ってしまいました。

お屋敷も広いです。
さすが京都壬生の名士のお家です。
こういう歴史に関わった家に住むのは、とても大変だと思うのですが、それでもやはり羨ましくも思います。

壬生寺

2008年03月27日
新選組と聞いて“壬生”という言葉を思い浮かべる人も多いと思います。
新選組が一番輝いていたであろう時期は、壬生に屯所を構えていた頃かもしれません。
逆境だからこそ、輝きを増す人もいてるでしょうけれど…。

その壬生寺(京都市中京区壬生梛ノ宮町31)です。
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律宗の別格本山で奈良の唐招提寺に属し、地蔵院とも宝幢三昧院とも称しました。
壬生寺のエピソードで有名なのが、沖田総司が近所の子供や子守りと鬼ごっこなどで遊んでいたという話です。
また境内では兵法調練を行って、大迷惑をかけてもいます。

壬生寺では春に狂言が行われています。
会津藩士本多四郎は文久3年3月25日に浪士たちと壬生狂言を見物しています。
また4月4日には井上松五郎が壬生を訪れて狂言見物をしています。   新選組史跡事典より

私も幕末の京都、壬生の辺りの子供だったら…と何度思ったことでしょうか。
沖田さんと遊べたかもしれないのに…。
確かに境内は広く、子供達と遊ぶには十分すぎる広さがあります。
残念ながら、今訪れても沖田さんはいてません。

新選組に思いを巡らすには良い場所かもしれません。

壬生新地跡

2008年03月26日
記録にない話になります。

写真で見る維新の京都に、下記の記載があります。
幕末当時、壬生寺の南側と西側のあたりに、壬生新地(京都市中京区仏光寺通坊城西入ル)という遊女街があったそうです。
規模や存続期間は記録が無く詳らかでないそうです。
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住所からするとこの付近になると思われます。

壬生寺の近くというのであれば、新選組隊士も訪れているのでしょうか?
近藤勇や土方歳三、沖田総司、更には斉藤一、永倉新八、藤堂平助に、井上源三郎、山南敬助…遊びに行ったのでしょうか?
上洛直後はお金もないので、島原には行けず、近場で遊んだのではないでしょうか?
でも、壬生新地が安いのかは不明ですね。

南部亀一郎邸跡付近

2008年03月25日
壬生界隈をもう少し。
南部亀一郎邸跡付近(京都市中京区坊城通綾小路下ル)です。
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文久3年2月江戸から浪士隊が上京しました。
一行は京へ着くと壬生に屯営し、取締付の者、常見一郎や石坂周三らは、南部亀一郎方へ泊まりました。
当時南部邸は、八木邸の南隣にありました。     写真で見る維新の京都より

600坪ほどの敷地があったという。
文久3年12月7日に死去した南部家の女性の通夜には、原田左之助が代表として列席し、10日に行われた葬儀には浪士一同も参列したそうです。    新選組史跡事典より


万代修氏の「新選組裏話」や市居浩一氏「高台寺党の人々」にエピソードが書かれています。

新選組裏話新選組裏話
(1999/03)
万代 修

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高台寺党の人びと (1977年)高台寺党の人びと (1977年)
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市居 浩一

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光縁寺 追記

2008年03月24日

新選組の墓石について、光縁寺のパンフレットに書かれています。

墓石の石は、「砂岩」とのことである。
明治の頃まではこの石がよく使われていた。
柔かく手で彫るのに便利である。
戦後は花崗岩が主流となるが、火に弱く、火に遭った墓石は大きく割れることがある。
また時間が経てば自然に表面の文字が不鮮明になる。
これに反して砂岩はいつまでも鮮明であるが、百年も経てば表面が剥落するのがこの石の難点である。ただこの石でも三百年もつ物もある。
新選組の墓もその点ではよくもっている方である。
しかし剥落も始まっている。
この剥落を防ぐために屋根を作ればとも考えるのであるが、
陽と風と雨に、また時には雪に浄められる方が自然の姿であろう。

上記のように書かれています。
もし一度でもお参りに行ってみたいと思われている方がおられましたら、少しでも早い方が、名前を確認できる確率が高いと思います。
名前が確認できないようになっても、それは歴史の重みであって、それはそれで十分素敵な事だとは思いますが。


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歴史を感じさせる墓石。



新選組証言録 『史談会速記録』が語る真実 (PHP新書)新選組証言録 『史談会速記録』が語る真実 (PHP新書)
(2004/07/16)
山村 竜也

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残念さん -長州藩士 山本文之助-

2008年03月23日
明日にでも紹介しようと考えていた史跡ですが、今日紹介する事にしました。
今日、甲子園で選抜高校野球を観戦しました。
第二試合の下関商業(山口)と履正社(大坂)の試合です。下関といえば山口県。山口県といえば長州藩。
明日紹介しようと考えていたのが、長州藩士の史跡で、尼崎市で亡くなっています。
尼崎市といえば甲子園のある西宮市とは武庫川を挟んでお隣で、電車だと数分です。
そしてその史跡が「残念さん」と呼ばれているのは偶然でしょうが、あまりにピッタリと合うので今日にします。


長州藩士山本文之助(残念さん)のお墓(兵庫県尼崎市杭瀬南新町4丁目13 杭瀬東墓地内)です。
阪神電鉄大物駅 北東へ約400m
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山本文之助は、元治元年蛤御門の戦いに敗れた長州兵のひとりです。
京都から帰国途中、尼崎城下大物(だいもつ)で捕らえられ自害しました。
死に際に「残念、残念」と叫んだそうです。
そのため「残念さん」と呼ばれるようになり、幕府に反感を持つ民衆の同情を受け、大坂などから願掛けの参詣が大流行したそうです。
「残念な事があれば、ひとつだけかなえよう」と言ったとか…。
城下東の墓に葬られましたが、のち杭瀬南新町の明徳寺子坊墓地に移されました。
尼崎市発行 ミレニアム遺産100選集より


山本文之助という人は、全然知らなかったです。
夏にお墓を訪れたのですが、蚊の大群が凄くて、数秒とじっとしていられませんでした。
確かに幕末・明治維新は京都や江戸など、特定の場所だけで起こったのではないので、身近に関係史跡があってもおかしくはないのですが、不思議な感じがします。

大物(だいもつ)は、源義経が兄頼朝から逃れるために、大物浦から船出した史実が有名です。
謡曲「船弁慶」 歌舞伎「義経千本桜」

 




明日は、光縁寺の追記を紹介したいと思います。

光縁寺

2008年03月22日

馬小屋跡に行く時に目印にした光縁寺(京都市下京区綾小路通大宮西入四条大宮町37)です。

光縁寺の墓地には、新選組隊士18名の名を刻んだ、三基のお墓があります。
過去帳には25名の名前があるそうです。
改葬された高台寺党などの名前があるそうです。

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山門と本堂は幕末当時からありました。

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向かって左から
松原忠司・櫻井勇之進・小川信太郎・市橋鎌吉・田内知・矢口徤一郎・佐野七五三之助・中村五郎・茨木司・冨川十郎・阿比留榮三郎・田中伊織・野口健司・奥澤栄助・安藤早太郎・新田革左衛門・葛山武八郎・田中寅三・加藤羆
大石造酒蔵(新選組隊士大石鍬次郎の実弟)
山南敬助・河合耆三郎・柴田彦三郎
が刻まれた墓石が並んでいます。
そして右端には、
眞明院照譽貞相大姉と刻まれ、側面に「沖田氏縁者」と記された墓石があります。
この墓石に関しては、誰の者か、沖田氏とは沖田総司か?関係は?と謎だらけなのです。

お寺のパンフレットによりますと、
山南敬助を祀る墓石は、元は現在墓地の北側に走っている京福電鉄の軌道の東に南面して、立葵と紫陽花の花に囲まれていたそうです。
大石造酒蔵の墓石はその西側にあったそうです。
松原忠司らの墓石は大体現在の位置にあったそうです。
その後、京福電車の工事などで墓地内を何度か移動して、40年ほど前に現在の場所に安置されたそうです。


新選組馬小屋の跡

2008年03月21日

新選組馬小屋の跡(京都市中京区坊門町光縁寺前南入ル東側)という記述を見たときから興味がありました。
壬生寺や光縁寺は、写真集や紀行集などでも紹介されていますが、「馬小屋跡」というのは目にしたことがありませんでした。
さっそく行ってみることに。

「写真で見る維新の京都」という書籍に、馬小屋付近の現状の写真が載っています。
住所とその写真とを頼りに探しました。

光縁寺の前の路地を奥に入っていくと、細い道が曲がりくねっています。
そこに住んでいる方のみが使う生活道です。
私がウロウロしていると、確実に不審者でしょう。
(訪れたのは数年前だったので、今ほどではなかったのですが、今ならすぐに通報される可能性がありますね。)

突き当たり?と思う辺りが、写真と同じような風景でした。
それが↓の写真です。
umagoya1148.jpg  umagoya2149.jpg
新選組の幹部の乗馬用、その他に使用した馬の厩舎があった所。
写真で見る維新の京都より

元治2年2月、屯所の西本願寺移転問題で山南敬助が脱走し、沖田総司は馬で追いかけたといいますが、もしかしたらこの馬小屋から引き出したのかもしれません。

この付近は確実に、近藤勇・土方歳三・沖田総司他新選組隊士が歩いています。
沖田総司だったら馬と戯れていたかもしれませんよね。


写真でみる維新の京都写真でみる維新の京都
(1986/11)
石田 孝喜

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前川邸跡 -土蔵内部&近藤勇の雨戸の写真-

2008年03月20日

今回は京都です。

前川邸跡(旧前川荘司邸跡 京都市中京区壬生賀陽御所町)といえば、新選組発祥の地の一つともいえる場所です。
清川八郎一派と上洛していた浪士組が、袂を分かち江戸に戻った後、八木家と前川邸に滞在した事は有名です。
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前川邸は綾小路に面した北側に長屋門があり、門を入ると正面石畳の突き当たりが玄関でした。
左手は勝手口で、土間を通ると広い裏庭。土蔵があり、左側の一つは西向き、正面の一つは北向きがあり、土蔵の横手裏に砂山を築いて大砲の訓練をしたそうです。
西向き土蔵は、古高俊太郎の拷問が行われたというものです。
玄関に続く屋敷も、長屋風に座敷が続き、坊城通りに向いて出窓がありました。この出窓は山南敬助が明里と涙の別れをした話が有名です。今は取り外されてありません。                 新選組史跡事典より


幕末関係の慰霊会で前川邸を見学する事ができました。
予定には無かったのですが、急遽見学する事ができることになりました。
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古高俊太郎が拷問されたという蔵に入れました。
「蔵」というものに入った事がないので、その蔵が広いのか狭いのかはわかりません。
それでも広くはありませんね。
ここが歴史の舞台!
池田屋事件の始まりの場所です。
この梁に…吊るされて…土方歳三が…古高俊太郎の足に五寸釘を…。


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その蔵には、近藤勇が落書きした雨戸も1枚保存されていました。
梁・雨戸の写真は、「どうぞ自由に写真を撮って下さい。」と仰って下さったので、夢見心地で撮らせて頂いたものです。

大森海岸

2008年03月19日
飛行機までの時間が、少し余裕が出来たので、大森海岸に下りました。
目の前は津軽海峡です。
北海道の海風を満喫しました。
2日前、北海道に上陸した時は、温帯低気圧と共に上陸した影響でしょうか、砂浜には多くの海草が打ち上げられていました。

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もちろん函館の史跡はこれだけではありません。
まだまだあります。
少し足を伸ばせば、まだまだ数えられない程あります。
行きたい!!!!!!

お昼過ぎの飛行機で私は帰阪しました。
来るときは伊丹空港から飛び立ち、帰りは関西空港に下ります。

関西空港に着いた時は、もう真っ暗でした。
飛行機に乗りなれている人はなんてことはないのでしょうが、空港の誘導灯が凄く綺麗で思わず見入ってしまいました。
無事着陸、楽しい3日間でした。

大庭恭平寓居跡

2008年03月18日
大庭恭平寓居跡(函館市元町)付近を偶然通りました。
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文久3年2月22日、野呂久左衛門(岡山藩士)、三輪田綱一郎(伊予の神職)、長尾郁三郎(京都商人)他十数名は、等持院の足利の木像の首を斬って、三条河原に晒首しました。
しかし仲間に会津の密偵大庭恭平がいたため、同志はたちまち捕らえられた。

↑事件で有名な、大庭恭平の寓居跡です。
事件は京都で、ここで大庭恭平の名前を聞くとは思いませんでした。
しかしこの付近は、住宅街でそれを思わせるものは何もありません。
道で立ち止まって、この辺りか。と思うだけです。

微妙に時間があります。
どうしようかな?

船魂神社

2008年03月17日
船魂神社(函館市元町7番)です。
funadama113.jpg
実は何故写真を撮ったのかわかりません。

おそらく、

保延元年(1135年)観音堂が建てられたのが始まりで、北海道最古といわれている。
源義経が津軽から渡航したとき、遭難しそうになったところを船魂明神の加護で無事上陸できたという伝説があります。
現在の建物は、大火で焼失し再建されています。


という、“源義経”で撮ったのだと思います。
学生時代のゼミが「吾妻鏡」だったのです。

もう一箇所行けそうです。

己巳役海軍戦死者碑

2008年03月16日
咬菜園のすぐ隣りといってもいいのでしょうか?
己巳役(きしのえき)海軍戦死者碑(函館市船見町6番地付近)があります。
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箱館戦争時の官軍側海軍戦死者慰霊の墓所です。
朝陽艦副艦長 夏秋又之助以下51名(61名?) 同乗の箱館府兵ら70人。
甲鉄、朝陽、春日、飛竜など新政府軍艦名が刻まれています。
明治6年建立されました。
石碑は高田屋嘉兵衛の屋敷の亀石の一部を使っています。  隔月誌はこだでぃ、説明看板より

この史跡は、新選組ファンの私からみると、敵方の関連史跡となります。
維新後の明治新政府はあまり興味がないのです。
幕末時代は新選組も敵方も嫌いではないです!
それでもこの碑はあまり印象に残っていないのです。

一応これで史跡巡りは終わりでしょうか。
ちょっとあちこち寄りましょう。

咬菜園跡

2008年03月15日
初日の最初に来た、船見町まで戻ってきました。
咬菜園跡(こうさいえんあと)(函館市船見町)を訪れました。
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安政4年に箱館奉行から1,140余坪の土地を払い下げてもらった、堺屋新三郎が庵を作り、各地の名木等を移植した名園として親しまれていました。
咬菜とは粗食のことで、五稜郭設計監督の武田斐三郎が名づけ親です。
明治2年3月14日、榎本武揚は幹部6人(中島三郎助、高松凌雲ら)と、今宵最後と一夜の宴を開いた場所です。
明治9年には、寺島宗則、伊藤博文の宿所ともなっています。       説明看板より

咬菜園跡と聞いて思い出すのは、坂を上ったという事です。
民家の間の坂を上った記憶があります。
本当にここであってる?家しかないのでは?と思いながら歩きました。
着いて看板を見て、でも他には特に何もありませんでした。
看板がなければ、ただの草木の生い茂った場所としか思わない場所でした。

せっかく坂を上ってきましたが、次に行きましょう。
己巳役海軍戦死碑も近くにあるようです。

弥生小学校

2008年03月14日
函館史跡めぐりも、いよいよ最終日になってしまいました。
午後の飛行機で帰らなければいけません。
とりあえず、「必ず行くぞ!!」と決めていた場所は、前日までにまわれたので、今日は飛行機の時間まで近くの史跡を訪ねる事にしました。

最初に初日に行った、称名寺・実行寺、浄玄寺が元あったという場所、弥生小学校(函館市弥生町4番地・函館市大町4番地)に行きました。
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弥生小学校敷地の北半分と大町4とそれに隣接する弥生坂がその跡地になります。
北に実行寺、南に能量寺(浄玄寺)が隣接していました。明治12年12月の大火で焼失して、明治14年に現在地に移転しました。
土方歳三の箱館市中取締就任にともない箱館警備の任に就いた新選組の屯所となりました。
警備地点のひとつにもなっていたようで、明治2年ごろの新政府軍スパイの探索書に記載があるそうです。
明治2年4月7日から、新政府軍の来襲に備え、弁天台場に屯所を移しました。

土方歳三戦死後、箱館商人・大和屋友次郎らは土方の法要を行い、称名寺に墓碑を建てたといわれています。
島田魁は日記で、称名寺ではなく招魂社(護国神社)のそばに墓碑を建てたと記しています。称名寺所有の墓地で、今は函館市青柳町10番の潮見中学校となっています。     新選組大事典より

パッと見たところ、小学校とは思えないような建物でした。
アンティークな建物という感じでした。
さらにこの場所に昔お寺が並んでいて、寺町と呼ばれ、実行寺の西側に遊郭があったとは、さらに感じられません。
しかし箱館戦争当時は、ここがお寺のあった場所で、この地に土方さんがいたのです。
どこをどのように、歩いていたのでしょうか?

船見町の咬菜園跡に行きます。

夜景

2008年03月13日
せっかく函館に来たのですから、100万ドルの夜景を見ないと!
すごい人、人、人でした。
テレビ、写真でみたあの形の函館の地形が、キラキラとしていました。
快晴だったらどれ程美しかったのでしょう!?

でも神戸の夜景も負けてないですよ!!

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南部藩陣屋跡

2008年03月12日
異国橋から500mほど歩くと、南部藩陣屋跡(函館市元町18番付近)の石垣が見えてきました。
nanbuhan105.jpg
箱館総攻撃を前に市民は大森浜、願乗寺境内、七面山等に避難しました。
箱館山麓にあった南部藩陣屋もそのひとつとされました。     箱館戦争写真集より

この陣屋の跡地に裁判所(明治8年から30年まで)ができました。またその後にNHK函館放送局ができました。現在NHK放送局跡のあります。         隔月刊はこだでぃより


日も暮れ始め、辺りは薄暗くなって来ていました。
石垣が残っているだけなので、多少暗くて大丈夫だったのが幸いでした。
ここは時間があれば…程度だったのですが、坂道が印象的な場所でした。

今日の“史跡めぐり”は終了です。おつかれさま。

異国橋跡

2008年03月11日
さらに南下します。JR函館駅も越えて、異国橋跡(函館市豊川町7番31号)を探しました。
市電の十字街駅のすぐ横の交差点のあたりでした。
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現在の十字街派出所の場所になります。このわき道は明治中期まで掘割であり、橋が架かっていたそうです。栄国橋といいましたが、港中に築島が幕末に外国人居留地に指定されたため、異国橋の名称が生まれました。
土方歳三が、この異国橋の傍らで銃撃され落命したと記すものがあります。
「一本木」「鶴岡町」とする説もあります。
一本木は異国橋から1.8㎞東、鶴岡町は両所のほぼ中間西寄りになります。
土方歳三は異国橋まで進出して戦い。一本木に引き返したところで銃弾に倒れたとするものもあるそうです。掘割は明治22年に埋め立てられ、異国橋はなくなりました。     新選組大事典より

土方歳三さんは戦死の地も、埋葬地も不明なのです。
これだけ人気があって、研究も盛んであるだろうに、わからないというのがまたロマンなのかもしれません。
前回も書きましたが、沖田総司の容姿もしかりです。
原田左之助の維新後もいろいろ噂がありますね。
さて異国橋ですが、橋があったという事は、今の様子からは全くわかりません。
市電の分岐駅なので、通りは広いです。
“橋”を想像していたので、少し拍子抜けでした。
今まで巡ってきたどこかで、土方さんが亡くなった可能性が大きいのですよね。そう思うと、函館に来て良かったとひしひしと感じました。

時間的にもう一箇所、南部藩陣屋跡によって、2日目は終わりかな。



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亀田八幡宮

2008年03月10日
ようやくJR函館本線沿いに戻ってきました。
函館2日めも、ラストスパートです。
亀田八幡宮(函館市八幡町3番)に着きました。
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旧社殿は文久3年の改築です。
当時はうっそうとした森だったといわれています。
明治2年5月17日、榎本武揚率いる旧幕軍は降伏を決め、八幡宮に参拝し、五稜郭や兵器・兵隊の引渡しを行いました。
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旧社殿の羽目板には、箱館戦争当時の弾痕が沢山残っています。

ここを訪れたのは、当時の弾痕跡を見るためです。
旧社殿を1周して、探しました。弾痕跡だろうというものを見つけました。
この付近で、銃撃戦があったという印になるものです。
今から100年以上前のものが残っているとは、生々しいですよね。
この八幡宮でも亡くなった人達がいたのでしょうか…。

少し急がないと暗くなってきました。
土方歳三戦死の地といわれるもう一つの場所、異国橋に急ぎます。

五稜郭駅

2008年03月08日
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四稜郭からの帰り道、山が綺麗に見えました。

eki136.jpg   kippu099.jpg
JR五稜郭駅です。
駅名のところが五稜郭の形になっていました。

四稜郭

2008年03月07日

五稜郭を出発して、途中旧東照宮に立ち寄りましたが、歩けど歩けど四稜郭(函館市陣川町)に着きません。
おそらく歩くしか手段がないと思うのです。
歩く事は特に苦痛ではないので、それ自体はいいのですが、ちゃんと見つかるかも不安要素です。
旧東照宮までは、住宅も多くあったのですが、旧東照宮を過ぎると急に家がなくなりました。
途中でみた標識にもあと「1.9㎞」の文字が…。まだまだ先は長そうです。
本当にこの道であっているのかな?と不安になって来た時に、それらしきものが目に入りました。
ありました~!
「四稜郭」と書かれた看板が見えました。
森か林かというように木が生えています。そしてその奥に進むと、一転目の前が開けました。
“広い草っ原”という風景が目に飛び込みました。これが四稜郭でした。
五稜郭とは大きさも、雰囲気も全然違います。
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築造当時は、「神山台場」や「神山の新台場」と称しました。
土地の人々は単に「台場」と言っていました。また箱館戦争の雌雄を決する5月11日m、ここを占領した岡山藩の軍艦水原久雄は「新五稜郭」と呼んだという。多分、五稜郭の背後にあったことでの表現だと思われます。
設計は大鳥圭介といわれています。土塁の一周340mの小さな堡塁で、蝶が舞うような美しい姿をしています。

ここがそれほど重要な場所であったとは思えなかったです。
人通りさえ滅多になさそうで、町の外れにありました。(あくまでも私が訪れた当時です。)
交通手段もなく、年間で訪れる人も少ないのではないでしょうか?
しかしそれでこそ、訪れたときはちょっぴり優越感(?)でした(笑)

さて、町の中心部に戻りましょう。

南柯紀行・北国戦争概略衝鉾隊之記南柯紀行・北国戦争概略衝鉾隊之記
(1998/09)
大鳥 圭介、今井 信郎 他

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四稜郭への標識

2008年03月06日
旧東照宮の次に目指すのは、四稜郭です。
五稜郭は有名ですが、四稜郭があるなんて…。
本当に勉強不足でした、知りませんでした。
でもちゃんと地図に載っています。
途中で見つけた標識(看板)ですが、四稜郭の形をしています!
凄い!函館市!!
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函館市函館市
(2003/06)
不明

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旧東照宮(権現台場)

2008年03月05日

まだまだ五稜郭でウロウロしたいのですが、そうもいっていられません。
東北に向かって歩きます。
目的地の手前に旧東照宮・権現台場(現:神山稲荷神社 函館市神山3丁目18番)があります。
五稜郭から3㎞東北になります。
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別名権現台場。元治元年五稜郭が完成した時、その鬼門(東北)の守護神として、日光東照宮から分霊奉造を受けた日高様似の天台宗の寺から東照大権現を分霊して祀ったのが始まりだそうです。
明治元年、五稜郭を占領した旧幕府軍は、翌年東照宮に砲台を設置しました。
しかし、新政府軍の攻撃を受けて、社殿を焼失しました。
その後、青柳町天祐寺、宝来町と移転、平成3年、現在の陣川町に移りました。    隔月刊はこだでぃより
この場所から2㎞ほど離れた場所になります。
この場所には、「元治二年」と刻まれた、当時の鳥居だけが残っています。

箱館巡りにくるまで、この史跡の事は知りませんでした。
鳥居に「元治二年」の文字を見つけた時は、思わず鳥居を触っていました。
もしかしたら土方さんが触ったかもしれない(笑)
新選組ファン-だけではなくて、その他時代の歴史ファンの方もわかってくださいますよね?
歴史が残っている!
嬉しいですね。

もう少し北に歩きましょう。



燃えよ剣 (上巻)燃えよ剣 (上巻)
(1972/05)
司馬 遼太郎

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五稜郭-参

2008年03月04日
五稜郭にはまだまだ史跡があります。
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箱館奉行所玄関屋根
元治元年五稜郭内の役所が完成し、箱館奉行所が移転して業務が行われた。
慶応4年閏4月に明治新政府に引き継がれ、箱館裁判所・箱館府となった。その後、旧幕府脱走軍に占拠され、箱館戦争の舞台となったが、明治2年再び新政府の所管となり、明治4年開拓史の札幌移転に伴い、奉行所庁舎が解体され、その多くが払い下げられた。
この屋根は、奉行所の内玄関式台に使用されていたもので、当初は瓦葺き屋根であったが、旧函館税関や民間で利用されたときにトタン屋根に変えられたようである。
昭和43年、幕末の建築技術を知る貴重な資料として移転された。     説明看板より

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兵糧庫
元治元年五稜郭が築城された当初のものです。
当初、五稜郭内には箱館奉行所庁舎、土蔵厩舎があり、また郭外には奉行所に勤務する人々の役宅がありました。
明治元年10月、旧幕臣榎本武揚等が五稜郭を占領したさいも、使用されましたが、郭外の役宅は翌年2年、戦火にあい焼失し、郭内の建物も同4年開拓史の手により解体されました。
この「兵糧庫」だけは解体をまぬがれ、長い間の風雪にも耐えてきたのですが、老朽化が著しいため昭和47年から昭和49年にかけて、復元工事を実施しました。       説明看板より

兵糧庫の裏には、土方歳三や伊庭八郎を埋葬したといわれている松の木があります。


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大砲
イギリス製で旧幕軍のものといわれているものと、官艦「朝陽」の艦載砲です


箱館戦争写真集箱館戦争写真集
(1999/03)
菊地 明、横田 淳 他

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五稜郭-弐

2008年03月03日
前回に引き続き、五稜郭です。
五稜郭に土方歳三が埋葬されているのでは?というのは有名な話です。
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土饅頭
五稜郭内に残る土饅頭の下に土方歳三が埋葬されているともいわれています。
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半月堡
五稜郭から堀を挟んで離れている堡塁。五稜郭は非常時に役人の家族や付近の住民まで収容できる予定であった。その為、防備はより堅固でなければならなかった。半月堡も当初は五箇所の予定だったが、予算縮小で一箇所となったらしいです。


新選組史跡大事典では、
土方歳三の遺体は小芝長之助によって、五稜郭に運ばれたと「佐藤家文書」では伝えられています。『箱館軍記』に、小芝はこの日の朝に南部陣屋の裏手付近で、長州藩士に捕縛されたと記録があります。

明治6年頃の『両雄士伝』や、明治32年9月10日の「旧幕府史談会」では、
 従士、歳三の屍を担いて五稜郭に帰り、儣を穿ちて之をほうむる

 伊庭八郎君の墓は函館五稜郭、土方歳三氏の墓の傍らに在り。
と記されています。
その場所は、元松前奉行・人見勝太郎、元会計士官・山内六三郎、元新選組隊士・田村銀之助の協力を得た、箱館戦争研究家の旧伊予松山藩士片上楽天の調査によって、現存兵糧庫のそばにある土塁沿いの合葬埋葬地。一本松のある土饅頭であると大正年間に判明した。

しかし、大正15年10月の発掘調査では、遺骨は発見されていません。
だが、明治16年10月13日と16日に、明治11年に土塁沿いから遺骨が大量の発見されたという記事がある。
その遺骨は東川町願乗寺(現・本願寺函館別院)に改葬されたが、以後不明になっているそうです。

そして現在、五稜郭では
箱館奉行所庁舎復元  土蔵の事務所棟  板庫の便益施設の設置  五稜郭分館の撤去  公園管理事務所の移設  堀石垣や土塁の補修工事などの事業が行われています。

五稜郭で土方歳三の埋葬地の研究をされている方によると、新たな事実が判明しているそうです。
この事実については、現在発表されている途中なので、また後日改めて紹介できればと思います。
近い将来、土方さんと会える日が来るかもしれません。

五稜郭をまわっていて、ずっと目で追ったのがやはり土饅頭です。
もしかしたらこの下に土方さんが眠っているのかも…と、土饅頭をみる度に考えてしまいました。
五稜郭は広すぎて、すべての土饅頭を見られないのが残念でした。
箱館戦争のすべてが、この五稜郭に集約されている気がするのです。
そういえば昔、霊能力者が五稜郭で霊視したというのもありました。
土方歳三の埋葬地と沖田総司の容貌は新選組ファンの永遠の謎かもしれません。

次回もう1回、五稜郭かな…。

五稜郭-壱

2008年03月02日
いよいよ五稜郭(函館市五稜郭町・本通)です。
五稜郭はいわずと知れた、土方歳三ら旧幕府軍の本拠地です。
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箱館開港に伴い、北辺防備の拠点として、江戸幕府が大洲藩士武田斐三郎に設計させました。
安政4年に着工、元治元年に完成。石垣積みの土塁と五稜星形にめぐらせて、水堀で囲んだ日本初の洋式城郭でした。
箱館山の山腹にあった箱館奉行所の機構を移していましたが、慶応4年の大政奉還により新政府に渡り、箱館裁判所となっていました。

土方歳三や新選組の五稜郭での経緯は、

明治元年
・10月19日~23日 艦隊を蝦夷内浦湾鷲ノ木に投錨。
・10月20日 伝習士官隊の滝川充太郎と伝習歩兵隊の大川正次郎が30名の護衛兵と、旧幕府軍による北辺警備を認めてもらうために知事宛の嘆願書を持って、七重ルートで五稜郭を目指します。
・   22日 土方歳三が、島田魁を隊長とする守衛新選組の数名と衝鋒隊・陸軍隊・額兵隊と川峠汲峠を出発しました。
・   22日深夜 滝川らは箱館府兵に攻撃されましたが、撃退します。
・   23日 大鳥圭介率いる新選組・伝習歩兵隊・伝習士官隊・遊撃隊・工兵隊が七重ルートへ行軍を開始します。
・   26日 箱館府が連敗し撤退したため、五稜郭が無血開城されました。
・   28日 土方歳三は、松前攻略の為に彰義隊・陸軍隊・守衛新選組と出発しました。
・   30日 新選組が五稜郭に至る。箱館市中取り締まりの任務を与えられます。
・12月 5日 五稜郭に戻り、二番屯所の取り締まりを命じられました。
・   15日 土方歳三が五稜郭に凱旋しました。
・   22日
・   28日 22日との両日の入札により、土方歳三は陸軍奉行並および箱館市中取締裁判局頭取に就任します。

明治2年
・4月15日 土方歳三は五稜郭より二股口へ出陣しました。
・5月 1日 無敗のまま五稜郭へ帰陣しました。
・   11日 籠城状態になった弁天台場に向かい、一本木関門の戦いで、腹部に銃創を受けて戦死してしまいました。
・   14日 五稜郭降伏をすすめる青森口総督軍監田島敬蔵の使者のひとりとして、新選組隊士相馬主計が五稜郭を訪れ、千代ヶ岡の付近で会見が行われる事となったが、榎本武揚らは降伏に同意しなかった。
・   16日 新選組隊士安富才助が、日野の土方隼人宛に、歳三戦死を伝える手紙を認めます。
・   18日 五稜郭が降伏しました。
                                           新選組史跡事典より
                          
五稜郭での土方歳三や新選組の経緯はこんな感じでした。
土方歳三の遺骸は、現在でもどこに埋葬されたかはわかっていません。
五稜郭に埋葬されたという説もあります。
それらの事や、五稜郭の感想などは次回に書きたいと思います。
今回は、五稜郭の概要だけで長くなってしまいました。

次回、もう一度五稜郭です。
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