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中島三郎助父子最期の地碑

2008年02月29日
千代ヶ岡陣屋跡は現在の千代台町になりますが、、中島三郎助父子最期の地碑は中島町(函館市中島町33番地6のグリーンベルト)に建てられています。
nakajima085.jpg
中島父子は千代ヶ岡陣屋で亡くなったので、千代ヶ岡陣屋跡に碑が建つ方が正確なのかもしれません。実際は道路状況などで無理があるのでしょうね。

中島町というのは、中島三郎助の名前に由来します。
俳人でもあり、辞世の句は「ほととぎす われも血を吐く 思い哉」
墓は神奈川県横須賀市東浦賀2丁目の東林寺


グリーンベルトにある碑は写真を撮るには不便ですね。
グリーンベルトには入れないですし、道路には車が通りますし…。
それでもこの碑は比較的、目立つので探すのには苦労しませんでした。
後で実感するのですが、ここから五稜郭は近かったです。
中島三郎助が五稜郭と連絡を取ったりするには、遠すぎず近すぎずだと思いました。

中島三郎助の戦死時の年齢が49歳~54歳まで、史料によってまちまちだったりします。
生年が文政2年。亡くなったのが明治2年。
新選組大事典の51歳が正確なのでしょうか。
旧暦だったり、数えだったりしますからね。

次は五稜郭だ!!
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千代ヶ岡陣屋跡

2008年02月28日
市電の谷地頭駅から電車に乗り、千代台駅まで降ります。(五稜郭は目の前です。)
駅から西に600mほど歩くと、千代台公園と中島小学校があります。この辺りが千代ヶ岡陣屋跡(函館市千代田台町・中島町付近)になります。
tiyogaoka084.jpg
元は幕府に蝦夷の警護を命じられた津軽藩が築いたものです。
明治元年に旧幕府軍が箱館を占領すると、箱館奉行並および砲兵頭並に就任した旧幕臣中島三郎助が、この陣屋を預かりました。
5月11日、弁天台場が孤立すると、新選組隊士(陸軍奉行添役)の大野右仲が援軍を求め五稜郭に向かう途中で、この陣屋で額兵隊二小隊を率いた土方歳三と出合っています。
大野は土方と一本気関門までいき、一本木関門を抜けて弁天台場に向かいました。しかしなぜか途中から兵が引いてきます。大野も千代ヶ岡まで敗走し、安富才助と大島寅雄から土方の戦死を聞きました。
5月15日、弁天台場が降伏し、陣屋にも新政府より降伏勧告が来たが、中島三郎助らはこれを拒絶しました。さらに五稜郭からの退去命令も無視しました。
翌16日、新政府軍と、大小砲戦の後、白兵戦となり、三郎助、長男恒太郎、次男英次郎ら全員が討死しました。 三郎助は胸壁に上がって戦っていて狙撃され、濠の中に落ちて絶命したと、林董が三郎助の戦死を目撃した青森口総督府軍監田島敬蔵話として語っています。
三郎助の首は御親兵の信州筑波地方出身の豪商樽沢信之助が討ち取ったそうです。                                                       新選組史跡事典より

立待岬

2008年02月27日
碧血碑から南東の方向に歩くことにしました。登って来た方向と逆方向です。地蔵山に迷い込まないように!
前が開けるとそこは、市営墓地です。
函館といえば私は「新選組」「土方歳三」ですが、普通の観光客の方は「石川啄木」でしょうか?
この墓地には「啄木一族の墓」があります。
そしてここには多くの観光客の方がいました。
石川啄木は明治40年5月5日から9月13日まで函館に住んだそうです。その啄木と両親、夫人、3人の子供が眠っているとのこと。「死ぬときは函館で…。」と啄木は言っていたのですか?
啄木のお墓を左に見て、岬まで歩きました。
立待岬です。
tatimati2131.jpg      tatimati1130.jpg
寛政末期に徳川幕府が、エゾ地を直轄地としたさい、北方警備のため台場を築いた場所です。

目の前は津軽海峡です。
そして向こうに見えるのは、本州青森県です。
泳いでいけそう(私はカナヅチですが)。
正確には青森から青函連絡船に乗った情景の歌ですが、思わず「津軽海峡冬景色」を口ずさんでしまいます。
津軽海峡冬景色の歌詞は、この風景にピッタリだと実感しました!凄い!

さあ、谷地頭の駅まで戻って市電に乗りましょう。
五稜郭方面に向かいますが、その途中でいくつか史跡に寄って行く予定です。

 

碧血碑

2008年02月26日

函館2日目は、すっきり快晴という事にはなりませんでしたが、まずまずの天気になりました。
雨がやんだだけでもよしとしないといけませんね。
2日目は「碧血碑」からまわる事になりました。
“すごい場所”にあるとは聞いています。いったいどんな場所なのでしょう。
市電に乗って、終点の谷地頭まで行きます。
「谷地頭」-読めませんでした。「やちがしら」と読みますが、もう忘れません。
時々印象的な地名や、読み方が難解で忘れられない地名がありますが、ここもそのうちのひとつです。
(新選組とは無関係ですが、安心院(あじむ)や女の都(めのと)の読みを知った時も驚きました。)
谷地頭駅から山に向かって歩き始めました。
途中までは家も多くてごく普通の住宅街で、全然すごい場所ではありません。すごい場所には何時間も歩かなければいけないの?と不安になりました。
しかしいきなり山道という感じになり、山中に入って行きます。でもそれほどきつくはありません。散歩程度でしょうか。
十数分?数十分?で今日の最初の目的地碧血碑(函館市谷地頭町1番地)に到着しました。
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碧血碑
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碧血碑の裏
「明治一・二年にこの事がありました。石を建ててささやかな気持ちを表します」と刻まれています。
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血碑右裏の自然石
土方歳三の遺骸が埋葬されたという。確固たる話ではないが、島田魁の手記に、箱館にて討死1998人、箱館正魂社相建ち葬り有り。我隊長土方公もその正魂社の側に石台相建ち候なり-と認めています。(諸説あるうちの一つです)
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血碑の裏。徳川儀士宮田登輔の墓
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川熊吉翁之寿の碑
元々江戸の俠客だった。榎本武揚とは以前から面識があり、戦争中も旧幕軍の元で働いたり、五稜郭築城にもひと役買ったといいます。戦争後は、明治初めに組を解散し、碧血碑の近くで店を出し、墓守をしながら余生を送りました。

東軍の戦没者慰霊碑。元旧幕軍で碧血碑会会員の榎本武揚や大鳥圭介らによって、明治8年に建立されています。
碧血碑の三文字は大鳥の書といわれています。
碧血とは「義に殉じた士の血は三年たつと碧となる」という中国の古事に由来しています。

箱館戦争終結時の旧幕府軍兵士の遺体を、俠客柳川熊吉と実行寺住職が中心となり、実行寺に合葬し、それを明治4年に現在の碧血碑の場所に改装したとされています。しかし『碧血碑建築始末』には、碑が戊辰戦争の東軍戦没者の慰霊碑という目的で建立されたことが明記されています。
改装の事実がなかったことは、火災による焼失で移転する称名寺・実行寺・浄玄寺の墓地より墓の改葬の為、掘り起こしたという新聞記事が裏付けています。
また高龍寺・願乗寺・大円寺(無量庵)・宝珠寺(宝珠庵)・能量寺・霊鷲院にも遺体が埋葬されていた記述がある。

碧血碑に祀られている新選組隊士は、土方歳三・野村利三郎・三好胖・小久保清七・蟻通勘吾・武内武雄・佐治寛・粕谷十郎・長嶋五郎作・乙部剛之進・津田丑之助・栗原仙之助・白戸友衛・勇二郎・惣八・玉置良三の16名。
毎年6月25日に函館碧血碑会が碑前祭を行っています。   新選組大事典&新選組史跡事典より

碧血碑の建っている場所は、山の中でした。
木に囲まれて、淋しい所にありました。慰霊碑といいますが、この場所だと誰も訪れないのでは…?と思うような感じです。
いつものように、碑の周りを1周して、表も裏も側面もじっくりと見ました。
碑の周囲にも小さな墓石などもいくつかあります。
碧血碑に扉がついているのですが、もしかしてこの扉を開けると、遺骨が納められているのでは?と考えたり…。
ずっと見ていたい気もするのですが、あまりに淋しい場所なので長居するのもやめました。
五稜郭にも行く予定です。

途中には「熊に注意!」の看板もありました。
また淋しい場所なので、女性が一人で行くのはやめたほうがいいと思います。

函館に来たのですから、岬の方に下りて次に行くことにします。

土方歳三最期の地-一本木関門跡

2008年02月25日
いよいよ土方歳三最期の地です。
土方さんの最期の地については、諸説ありますが、まだ明確には判っていません。
その有力地の一つが、ここ一本木関門跡(函館市若松町333番)です。
saigo080.jpg
「土方歳三最期之地」碑は昭和33年12月14日に若松町33番地の旧若松小学校の敷地内に建立されました。昭和45年8月27日には、若松町34番地と35番地の大通りのグリーンベルト上に碑は移転されました。そして若松小学校跡地に総合福祉センターが完成し、平成4年11月7日に敷地内の小公園に再移転しています。

国道279号を五稜郭から千代台公園経由で函館駅に向かう道と、海岸町の「若松町」バス停付近で合流する道があります。この2本の道が箱館戦争時の旧道だそうです。
現在の海岸町と若松町の境界にほぼ合致して、一本木関門が設けられ、大森浜方面まで柵が巡らされていたそうです。
この関門では、通行料を取っていて、地元民には不興をかっていたそう。
明治2年5月11日未明、新政府軍の箱館市内と五稜郭への総攻撃が始まりました。
(その時の戦いの状況はここでは省略します。改めてかければと思います。)
土方歳三は、一本木関門へと出撃し、市中戦に敗れた伝習仕官隊を取りまとめ、大野右仲に伝習仕官隊と額兵隊を率いて反撃するように命じた。その戦況を見守っていたが、海戦に敗れた旧幕艦・回天の乗員を援護して上陸させると、土方は再び一本気関門へ戻った。
反撃を受けて後退する味方を指揮していたが、一発の銃弾が馬上の土方の腹部を貫き、土方は絶命しました。午前9時前後ではないかと推測されています。   新選組史跡事典より

最後の新選組隊士は、昭和まで存命でした。
しかし京都で壬生狼と呼ばれ“華”の時代を生きた、鬼副長の死は新選組というものの最後だったのだと思います。
永倉新八や斉藤一の明治は“冬”というイメージがあります。

土方歳三最後の地を目にして、真っ先に思ったのは、「小さい」「狭い」「寂しい」というものでした。
花が生けられて、写真やノートもおかれていて、ファンの皆さんの心遣いはちゃんと感じられました。
私がもっと華やか(?)なものを考えすぎていて、これだけ綺麗に手入れをされているのは、珍しいコトなのでしょうね。
たぶん、雨が降っている上に、訪れたのが夕方だったので、周りが暗かったからそう思ったのかもしれません。
ここで土方さんが亡くなったのかもしれないのです。風景は違っていますが、同じ空間に立っているんだ!と一緒にまわっている方と、二人で思いに耽ってしまいました。
あ~、函館に来て良かった。

1日目は、暗くなってしまったので、これでホテルに戻る事にします。
明日は、私的に重要(絶対に外せない)史跡をいくつかまわります。
「碧血碑」からになる予定です。

「土方歳三最期の地碑」の標識

2008年02月23日
函館市若松町の「土方歳三最期の地碑」に向かう途中にありました。
annai079.jpg
もうすぐ土方さんに会える!
ますますドキドキしてきました。
どんな場所でしょう?(実際は最期の地は不明で、この地碑も移動しているはずです。)
楽しみです。

ペリー会見所跡

2008年02月22日

歩いて函館を満喫する場合、南部藩士の墓から魚見坂を下り、市電との交差点を右折、市電沿いに歩きます。1㎞強でしょうか。
ペリー会見所跡(函館市弁天町15番付近)と書かれた木柱が見えてきます。
peri2127-2.jpg  peri078.jpg
安政元年3月、幕府はペリーと日米和親条約を結び、下関・箱館の開港を決めた。
翌月ペリー艦隊は調査のため箱館に来航した。

この会見所跡の姿見坂の上には山之上遊郭があり、開港後には外国人向けの茶屋もできたそうです。この電車の向かい右角が、ペリー来航時に接見応接場所となった山田屋寿兵衛宅跡といわれています。ペリーの「日本遠征記」にも、この会見場所の挿絵が載っているそうです。            隔月誌 はこだでぃより



本当に木柱と説明板しかありません。
当時を思わせるものがないので、写真を撮るのが恥ずかしい…。
と、普通の人なら思うかどうかは別として、建物もないのですから、撮らないでしょう。
でも私は、「ペリーだ、ペリーだ!」と、喜んで写真を撮りました(笑)
ペリーが来たから、“幕末維新”が始まった(?)のですから、これはもう重要人物でしょう。
実はこの史跡を見るまで、ペリーが箱館に来たのは知らなかったのです。
「浦賀に来た」事は歴史の時間に習いましたが、大抵歴史の授業もこのあたりになると、3月が目の前に来ていて、さぁ~っと流す程度ですからね。
維新の始まりのペリー、維新の最後の土方歳三、維新は箱館で始まり、箱館で終わったような気がしています。

この後は、いよいよ土方歳三さんの最後の地など、新選組により深い史跡を訪れます。

南部藩士の墓地

2008年02月21日

風雨が激しくなって来たので、歩いてでは予定の場所を回りきれなくなってきました。
もったいないですが、ここは少し贅沢にタクシーを使うことにしました。
今度いつ来られるかわからないですから、行きたいところ上位は行っておかなければいけません。
時間でお願いするか、ずっとメーターを倒したままで回ってもらうか、どちらが安いか判らなかったですが、タクシーの運転手さんが丁寧に対応してくれました。
これで心置きなく回れます!
そこで先ほど、行かなかった場所もタクシーで、ビュ~ンっと行ってしまうことにしました。
最初に訪れた、船見地区に戻ります。

称名寺や高龍寺の近くにあった外国人墓地の一角に、南部藩士の墓地(函館市船見町22番付近)があります。
nanbuboti077.jpg
寛政11年に蝦夷の警備の為に、津軽と南部藩士を派遣しました。
文政4年に幕府は松前藩に返した為、南部藩士は一旦帰藩しました。
しかし安政元年から再び直轄し、300余名の藩士が勤務していたそうです。
慶応3年、政権が幕府から新政府に移り、翌年箱館裁判所が置かれ、これにより蝦夷地の警備は箱館奉行所から総督清水谷公孝へ引き継ぎ、藩士たちは藩命により全員引き上げた。この間、藩士たちは不自由と辛苦に耐えたが、命を落とすものも多かった。
その後、墓石や碑が朽ちて荒れ果てていくのを憂い、昭和12年にこの地に集め、修復して慰霊する事になったそうです。
現在、この墓地には12名の藩士がまつられています。       説明の看板より


新選組や土方さんたちとは関係ないかな?とも思いますが、同じ幕末を過ごした南部藩士という事で決めました。
墓地の後方が海でした。
海風からお墓を守るように、木が植えられていました。
その風景が印象的でした。
何がというのではないのですが、後ろが海というのが妙に印象に残っています。

そして次はあの有名人「ペリー」が登場です。

函館水天宮

2008年02月20日
市電沿いに、市役所の方向に向かいます。
写真発祥の地から1㎞の辺り、函館市役所の東側に函館水天宮(函館市東雲町13番付近)があります。
mizutengu076.jpg
箱館当時の大砲が残されています。

“函館”ではなく“箱館”といわれれば行かねばなりません。
大砲発見!
これが幕末維新当時に使われたのかと思うと、思わず触ってしまいます。
幕末当時の映像が脳に送られてきたら…(それはどう考えても超能力としかいえませんが)なんて、ありえない事を思ってみたりしました。
動く土方歳三さんが見られるのに。
写真を撮ろうとしたのですが、大砲とそれを囲む柵がピッタリ一致しているので、どうしても柵がメインの写真になってしまいました。
あ~あ、残念。

すみません、船見町に戻ります。

北海道写真発祥の地碑

2008年02月19日
護国神社を出て、豊川地区に向かいました。
豊川地区は、函館の地形の一番細い部分の辺りになります。
函館山から、両側がウエストのように細くなっている風景をよくみますが、あの一部になります。
護国神社からなら、市電(チンチン電車)に乗るのもいいかもしれません。
当時は1日or2日乗り放題チケットがありました。 まだあれば、これはお薦めです。

北海道写真発祥の地碑(函館市豊川町)が豊川にあります。
東本願寺西別院向かいのグリーンベルトに石碑が建っています。
syasin126.jpg
木津幸吉が元治元年船見町90番地に(「道南青年の家」向かい付近)に北海道で初めて写真場を開きました。日本最初の写真師、下岡蓮杖の創業から2年後の事でした。
木津の写真場は、長崎で写真術を修行した田本研造によって引き継がれた。
田本の写真で人気があったのは、榎本武揚で多く焼増しされたそうです。
土方歳三の写真も田本が撮影したといわれています。     説明の看板より


グリーンベルトに石碑があったのですが、何故か写真がありません。
大雨だったので、失敗したのだったかな?
説明の看板と、ピンボケした遠景はあるのですが…。
土方歳三の写真を撮った人の縁の地だというのに、記憶にあまりないのは、やはり雨のせいだからでしょうか?

箱館当時の大砲があるというので、水天宮に行ってみます。

 

函館護国神社

2008年02月18日
どうしても土方歳三自動販売機を先に見たくて、函館公園に行きましたが、その手前にあった護国神社(函館市青柳町9番)に戻ります。
gokoku075.jpg
護国神社の始まりは明治2年。
箱館戦争で、新政府軍側の戦没者の慰霊の為、招魂場を造営したことに始まる。
その後、招魂社となり、昭和14年護国神社となった。現在の社殿は昭和17年完成。
日清、日露戦争、第1次、第2次世界大戦の慰霊が祭られている外、様々な碑がある。
                                 護国神社の説明看板より 
gokoku2125.jpg
      官修墳墓
新政府軍の戦死者の墓。戦死者165柱の中には弁天砲台に釘を打ち込んで使用不可能にし、虐殺された千人同心斉藤順三郎の墓もある。
ほかに戊辰薩軍戦死者墓碑などがある。
個人の墓はほとんどが大野藩や弘前藩士のもの。
官修墓碑は船見町にもある。

新政府軍の慰霊の為なので、新選組や土方歳三には関係ないのですが、箱館戦争の関係という事で立ち寄りました。
護国神社が明治2年の始まりなので、ますます土方歳三は関係ないのです。
境内は広かったです。
護国神社は東京の靖国神社と同様に、戦死者を祀るところだそうです。
確かに建物の雰囲気は靖国神社に似ているような感じです。
でも靖国神社のように人はいませんでした。
官修墳墓のある場所も、鬱蒼と草木が茂っていて静かな場所でした。淋しい感じといった方が私の印象には近いです。
gokokuyori124.jpg
    護国神社より望む

北海道写真発祥の碑があるので、そちらにも行きましょう。
土方歳三も写真を残していますね。

土方歳三の血

2008年02月16日
函館護国神社に行く前に、ちょっと一息。

函館に行って、ど~~~しても買いたかったのが、「土方歳三の血」というワインでした。
wine2.jpg
函館の赤ワインの名前が「土方歳三の血」なのです。
私はこれを後ほど訪れる、五稜郭で買いました。
考えた人も凄い!と感心します。
赤ワインを「血」とネーミングする勇気に拍手です。

この一本は10年以上たった今でも、飲まずに大事にまだとってあります。
血というネーミングなのに、中の赤ワインが無くなったら………ちょっとね違う気が…。

土方歳三自動販売機-函館公園

2008年02月15日
元町公園を出て、約300m南東方向に歩くと、綺麗な教会が右側に見えます。
函館ハリストス正教会(函館市元町)です。
harisutosu072.jpg
ハリストスとはギリシャ正教でキリストのことだそうです。
安政5年にロシア領事、同時にロシアの国教であったハリストス正教会の司祭が着任しています。
明治5年ロシア領事館の廃止で、日本初の聖堂としてハリストス正教会となった。
明治40年火災で焼失し、大正5年、現在の建物が完成。
昭和58年国の重要文化財に指定された。            隔月本 はこだでぃより

これほど旅行ガイドや、パンフレットと全く同じ風景を見たことも少ないです。
というぐらい、そのままでした。
当たり前といえばそうなのですが、大抵写真は綺麗に撮られていて、「なんかちがう。」「小さぁ~。」とか、期待外れの事が多いですが、ここは違いました。
まさにそのまま!!
新選組や土方歳三とは関係ないですが、嬉しかったです。
安政5年に着任しているということは、土方さんが箱館にいた時には、当時の教会があったという事ですよね。目にはしているという事ですね。
土方歳三と教会…イメージが湧かない…。

その前が、元町カトリック教会です。
こちらも安政6年に建てられていますが、明治40年と大正10年の2度火事にあい、大正13年に再建されています。

教会を通り過ぎ800m近く歩くと、函館公園(函館市青柳町17番)に到着です。
hakodatekoen123.jpg
明治12年に開園した、北海道最初の洋式公園です。
そして私がこの公園に来たかったのは、「土方歳三の自動販売機」があると聞いていたからなのです。
土方歳三の自動販売機と聞いて、どんな自販機を思い浮かべますか?
私は土方歳三の形をした自販機を想像してしまいました。
もうすごくワクワクで…。
結果は下の写真のようなものでした。
jihanki074.jpg
ちょっとがっかり。でも、函館=土方歳三の様な感じがして嬉しかったりもしました。
実は元町公園にもありました。
売っているドリンクは、他の普通の自販機と同じでした。
新選組ジュースとか、土方歳三ジュース、沖田総司 茶とか、近藤勇饅頭とかあれば喜んで買ったのですが。
自動販売機と並んで一緒に写真を撮った私は、やはりマニア?オタク?でしょうか(笑)

さあ、旅行前から楽しみにしていた自動販売機も見たので、函館護国神社に行きましょう。

箱館奉行所跡

2008年02月14日
“どうしても見ておきたい史跡を優先する”が基本なので、いちど船見地区から離れます。
元町地区まで、歩きましょう。
山上大神宮の坂を下りて、善福寺手前の道を右折します。そのまま600mほど直進すると、元町公園に出ます。
ここが箱館奉行所跡(函館市元町12番の一帯)になります。
bugyousyo073.jpg
箱館戦争の時は、旧幕府軍の箱館奉行所が置かれた場所です。
明治元年12月、蝦夷を平定した旧幕府軍は、アメリカを真似て入札(投票)を行い、各役職を決めたのは有名です。
総裁 榎本釜次郎
副総裁 松平太郎
海軍奉行 荒井郁之助
陸軍奉行 大鳥圭介
陸軍奉行並 土方歳三
箱館奉行 永井尚志
箱館奉行並 中島三郎助
江差奉行 松岡四郎次郎
松前奉行 人見勝太郎
などが決まった。
当時の箱館市街とは、今の若松町以西で、以東は亀田でした。(五稜郭も亀田村中にあった。)
箱館奉行所は江戸幕府時代の奉行所をそのまま使っていた。
五稜郭が本営で、箱館奉行所は分営。                   新選組大事典より

ここまで歩いてくると、船見地区とまた違った雰囲気です。
観光スポットがあるので、普通(マニアックに史跡巡りしている私達はちょっと普通ではない?)の観光客の人達も多く見られました。
箱館奉行所跡は公園になっていて、「箱館奉行所跡」と書かれた木柱が立っているだけでした。
後ろに見える「旧函館区公会堂」が印象的でした。ライトブルーと黄色の外装がとても綺麗でした。一見凄い取り合わせかと思いますが、実際に見てみるとピッタリと合っているのです。
「箱館奉行所」といえば、絶対に土方歳三が訪れています!
同じ土地に立って、同じ空気を吸っているという嬉しさを、ここに来て初めてしみじみと感じました。
箱館に来たんだ!!
ここで土方さんは、作戦を練ったり、仲間と語ったりしたのでしょうか。
同郷の友や、京で共に戦った仲間を思い出したりしたのでしょいか。
それすら考える時間は無かったのでしょうか。
ますますこれから行く、史跡が楽しみになってきました。
何か私なりに感じる事が出来るでしょうか。

明日はちょっと寄り道になるのかもしれません。
史跡ではないですが、新選組には関係ないともいえない…。そんな場所です。

山上大神宮

2008年02月13日
今まわってきた場所から少し移動します。
歩いて十分行ける距離です。少し戻るかたちになりますが、東本願寺船見支院の前を通り過ぎると、左折、坂を登ります。
急勾配の坂を上ったところに、上山大神宮(函館市船見町16)があります。
yamanoue071.jpg
この神社は、坂本龍馬の従兄弟という沢辺琢磨(土佐藩士)が関係しています。
「神明社」と呼ばれて亀田からはじまったといわれるが、明治7年に山上大神宮と名前も改めています。
「懐中時計ネコババ事件」で追われる身となった沢辺琢磨は、龍馬の勧めで江戸を脱走。神明社で宮司になった後、ハリストス正教会の司祭ニコライを斬り殺そうとするが、逆に心服、ロシア生協の日本人信者第一号となった。
また、箱館戦争の時、桑名藩主松平定敬の御座所となった場所です。桑名藩はいちはやく恭順したため定敬も明治2年4月に横浜へ脱出しています。      隔月本 はこだでぃ


訪れる前は、大きな神社を思い浮かべていました。
大神宮という名前で、先入観があったのかもしれません。
訪れてみると、確かに境内は広かったです。
奥にあるお社は想像していたより、うんと小さかったです。
しかし、お社は歴史を感じる雰囲気でした。また坂の上にあるので、そこから見る景色は良かったです。坂の町函館でした。
雨も少し小降りになっています。

いよいよ次は、元町の方に向かいます。
ハリストス正教会や元町カトリック教会のある辺りです。
もちろん歩きます!

外人墓地

2008年02月12日
高龍寺の斜め前、150mほど南の外人墓地に寄っていきました。
ペリー艦隊の水兵2人を葬ったのが始まりだというので、幕末に関係はあるのです。

日本という異国で亡くなって、祖国の地で眠れないという事はどういう心境だったのでしょうか?
もし私が…と思うと、考えられません。
特別神様や仏様を信仰しているのでもなく、死後の世界感が…という事もない、典型的な現代日本人です。そんな私でも異国の地で葬られると思うと、淋しく感じます。
仮に異国で葬られても、今だと飛行機などで、お墓参りは可能ですよね。
しかし、あの時代は日本に来るのは、考えられないほどの困難だったはず…。愛する人が訪れることもない地で眠るのですよね…。

そう思いながら墓地に佇むと、悲しい気持ちが湧いてきます。

さあ気分をかえて、次回は「山上大神宮」に行きましょう。

高龍寺-傷心惨目の碑-

2008年02月11日

コースとしては、上手くまわれていませんが、称名寺の方に戻ります。
称名寺の西隣に高龍寺・箱館病院分院跡(函館市船見町21蕃11号)が建っています。
弁天町2の辺りにあったのが、明治12年に現在地に移転してきています。
kouryuuji069.jpg  syousinzanmoku070.jpg
                        傷心惨目の碑
明治2年5月11日午後3時ごろ、新政府軍(津軽・松前藩兵)が箱館病院分院(高龍寺)に現れた。
入院していた傷病兵ら十数名を惨殺し、寺に放火したといわれている。
しかし怯えた傷病兵が発砲し、放火も弁天台場に篭る旧幕兵による「脱走火事」(戦略)の類焼ではないかとの説がある。
明治13年この事件で亡くなった兵士達のため、旧会津藩関係者により「傷心惨目の碑」が建てられている。
桑名藩出身の新選組隊士、佐治寛が埋葬されている。
(新選組史跡事典&箱館戦争写真集を参考にさせて頂きました)

傷心惨目の碑が建っているの場所が、少し寂しく感じました。
高龍寺に来たあたりで、雨が一段と強くなってきました。
写真を撮ったのですが、多くがピンボケになってしまいました。
やはりここも、大雨のせいか誰も訪れる人がいませんでした。

次はこの周辺のその他の史跡の紹介か、「山上大神宮」かに向かいます。

東本願寺船見支院・旧浄玄寺

2008年02月09日

称名寺、実行寺の隣が、東本願寺船見支院・旧浄玄寺(函館市船見町)です。
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幕末の頃は、称名寺の隣にあったそうです。
函館戦争終結後、旧幕軍兵士は称名寺、実行寺、浄玄寺に預けられ、本州に渡った。

元町にある日本最初のコンクリート寺院・東本願寺函館別院の墓地を管理するために立てられたそうです。この墓地には、五稜郭や弁天台場を設計した武田斐三郎の夫人などのお墓があるそうです。

じつはこのお寺の印象が全くありません。
写真も残っているので、訪れた事はたしかなのですが、どうも記憶にありません。
直接「新選組」というキーワードと結びつかないからでしょうか…。
ん~、本当に思い出せません(涙)

もう少しこの辺りをウロウロします。
「高龍寺」も覘きましょう。

実行寺

2008年02月08日

称名寺の東隣に実行寺(函館市船見町18番18号)があります。
地図を出して、探さなくてもOK!
旧場所では、称名寺の西隣にあったが、称名寺と同じ経緯を辿り現在の位置に(今は称名寺の東隣になっていますが)移転したそうです。
jitugyouji066.jpg    genjitusyou068-2.jpg
                    手前が実行寺、奥(坂の下)が称名寺
箱館戦争終結後、旧幕府軍死者の遺体は政府軍の目を気にして、そのままになっていた。
俠客柳川熊吉と大工大岡助右衛門が実行寺の住職に相談して、実行寺に運び仮埋葬したそうです。
函館山山腹に改装、慰霊碑を建てたのが碧血碑になりました。
(碧血碑はもう少し後で、訪れます。)
実行寺墓地にも旧幕軍の慰霊があり、会津遊撃隊長諏訪常吉らの墓もあります。
新選組では、竹内武雄を葬ったという記録があるそうです。
また土方歳三や伊庭八郎などの名前もあるとか。    新選組大事典などより


飛行機と一緒にやってきた、温帯低気圧の影響で風雨が強くなて来ました。
もともと歩き方の悪い私は、靴の中まで濡れてしまいました。
地図を片手に、キョロキョロと歩くので、傘も役立っているのか、いないのか…。
一番困るのは、写真を撮る時です。
本当に傘が邪魔です。
写真も当時はデジカメはまだ出始めなので、フィルムが主流です。
現像してみないと、ちゃんと写っているのかわかりません。
多めにシャッターを押していましたが、やはり水滴でぼやけていて、何が写っているのかわからない写真も多いです。ショック!
称名寺の碑もそんな運命でした。
でも、雨になんて負けない!!

五稜郭や碧血碑はもう少し先ですが、早く行きたいです。
次は「東本願寺船見支院」です。

称名寺

2008年02月07日
弁天台場から次に訪れたのが、称名寺(函館市船見町18番14号)でした。
弁天台場から南西方向に500mほど歩くと、お寺が集まった場所にでます。
その一つが称名寺になります。
syoumyouji1064.jpg  syoumyouji2065.jpg
創建当時は、現在地より6㎞東の亀田村に建っていたが、宝永5年に今の弥生小学校の地に移り、明治12年に火災で焼け、現在地へ移ってきています。
しかもそのこの地でも火災に遭い、記録や過去帳は新しいものしか残っていないそうです。
東京日野市金剛寺の過去帳に、箱館の称名寺に土方歳三の供養費があり、鴻池手代大和屋友次良の建立とある。また、納涼寺にも碑があると記されている。称名寺の墓地台帳には、野村利三郎ら4名の墓があったとの記録もある。火災や台風の為、いずれも現存していない。そのために、称名寺では昭和47年に新選組の供養碑を建立している。
この寺は新選組の仮屯所にもなっていた。
(納涼寺は称名寺隣の東本願寺の坊ですが、今は無い。)     新選組大事典より

確かにお寺は、木造ではなく、新しい感じがしました。
新選組が仮屯所とした場所も、この地ではないのがとても残念です。
称名寺の目的は、新選組のいた同じ場所に立つのではなく、近年立てられたという「土方歳三と新選組の供養碑」を見に行くというものになりました。

次は「実行寺」に向かいました。

弁天台場

2008年02月06日

一度行って見たいのが、冬の函館です。
土方歳三も体験した、雪で白くなった冬の函館に行ってみたいです。

私が函館に行ったのは、今から10年近く前の事になります。
その時、私は飛行機で台風から変わった温帯低気圧と共に、初めての北海道に上陸しました。
2度目の飛行機が、客室乗務員も「安全の為、サービスは中止します」というほどの揺れで、怖かったのを覚えています。

現地で合流した新選組仲間と、歩きまわる予定でした。
しかし強風と雨の為、タクシーも使って効率よく巡る事に…。せっかく来たのだから、少しぐらい贅沢しても巡らないともったいない!

最初に訪れたのが、弁天台場(函館市弁天町)でした。
市電函館ドック前に弁天台場跡の説明板と、函館ドック通用門前に標柱があります。
bentendaiba063.jpg
新選組は弁天台場を本営として、箱館山の守備につき、ついには台場に篭城しました。
武田斐三郎の設計により、六十斤砲二門、二十四斤砲十三門を備えていた。
函館戦争では、明治2年5月の戦いで、旧幕軍は新政府軍の奇襲を受け台場は孤立、また箱館山と海上から挟み撃ちされ長井玄蕃以下二百数十名が五稜郭に先駆けて5月15日に降伏した。                  新選組大事典などより                  


弁天台場には歩いて行きました。
雨だった為か、人通りもほとんどありませんでした。
それでも目に付くところに説明板があり、迷うことなく到着。
新選組の本営!!と思っても、今は標柱がある程度で、その面影は何もありませんでした。

こんな感じで、もっと楽しくなるように工夫して行きます。
次回は「称名寺」の予定です。

函館から

2008年02月06日
これから新選組や幕末関係の有名な場所や、ちょっとマニアックな場所など、私が訪れた場所を紹介していきます。
(新選組以外ににも、古代~現在までの歴史の舞台もちょくちょく出てくる予定。)

新選組といえば、近藤勇や土方歳三の生まれ故郷の東京や、活躍した京都を思い浮かべる人が多いと思います。
しかしここは敢えて、函館から書いていく予定です。
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