掃部山公園-井伊直弼銅像

2011年04月09日
掃部山公園(神奈川県横浜市西区紅葉ヶ丘57)の井伊直弼銅像です。

井伊直弼1554

井伊直弼2555  井伊直弼3556

もと彦根藩井伊家の所有だったことから、井伊掃部頭直弼にちなんで掃部山と呼ばれるようになりました。

明治14年、井伊大老を追慕する彦根藩士有志により開港に際しての功績を顕彰するため記念碑建立の計画を立てました。
明治17年、この地の周辺の丘を求め、掃部山と称し、造園を施しました。
明治42年、横浜開港50周年にあわせて、園内に銅像を建立しこれを記念しました。
大正3年、井伊家より同地並びに銅像を横浜市に寄贈、掃部山公園として公開されました。

完成時の除幕式を中止するよう圧力がかけられ、それでも除幕式を強行すると、その夜のうちに銅像の首が切り落とされていたといいます。
また、戦時中には金属回収のため撤去されました。
昭和29に横浜市により再建れたようです。
台座部分は最初に建てられた時のものが遺っています。
横浜観光コンベンション・ビューローHPなどより

JR根岸線と市営地下鉄線桜木町駅が最寄駅です。
国道16号紅葉坂交差点を左折、一つ目の交差点を右に曲がれば、公園に突きあたる感じに出ます。

私もまだ行ってないのです。
友人が行って教えてくれました。

最初、横浜に井伊直弼像?と思いましたが、開国と関係があるときけばなるほど!と思います。
関西に住む私からすると、井伊直弼=彦根城=滋賀県(=ひこにゃん)になるのです。
後は、桜田門外ですね。
開国というキーワードは抜け落ち気味です。

この銅像のエピソードを聞くと、井伊直弼はやはり悪いイメージが強いのでしょうか。
除幕式の中止といい、首を切り落とされるなんて…。
明治も初期ならまだまだ幕末・維新の名残があると思いますが、後期、それももう大正になろうかという頃でもまだ、幕末の遺恨が残っているのですね。

江戸時代という長~い時間があったのですから、そうそう変化した世の中に順応したり、意識を替えたりするのは難しいとは思いますが、それを行動に移す人達がまだまだいたのですね。

井伊直弼もあの時代、ああするのが一番だと思い行動し、それは一番ではないと思い阻止する人たちがいて、だれもが一番を考えて、それぞれの一番に従って行動したのだと思います。
結果、明治維新を迎える事になって。
もし井伊直弼が違う考えを持って行動したら、明治維新はどうなっていたのでしょう。

幕末だけを見ると、井伊直弼は激動の人生でしたが、彦根城で会うひこにゃんはほのぼのしています。
といっても、彦根城に行った時、ひこにゃんの2回の登場時間と合わずに会えなかったのですが…。







大磯の年輪

2011年03月23日
伊藤博文別邸跡の滄浪閣(神奈川県中郡大磯町西小磯)の前に松の切株があります。

年輪1549  年輪2550

切り株の年輪に歴史的な事件と年号のステッカーが貼られ樹脂でコーティングされている。
この松は松くい虫により枯れたそうです。


樹齢200年少しというこの松は、幕末の頃には元気に生い茂り、幕末の出来事を見ていたのでしょう。
松がしゃべれたら色々と聞いてみたいです。





滄浪閣-伊藤博文別邸

2011年03月06日
伊藤博文別邸跡滄浪閣(神奈川県中郡大磯町西小磯)です。

伊藤博文公邸1547 

“大磯の滄浪閣”
明治23年頃、伊藤博文が小田原の滄浪閣へ行く途中、大磯に立ち寄り、その白砂松林の大磯が気に入り、梅子夫人の病気療養のためにも、この地に別荘を建築することに決めました。
別荘が完成すると、小田原の滄浪閣を引き払い、大磯の別荘の方を「滄浪閣」と名づけました。
明治30年10月1日、伊藤は本籍を東京から大磯町に移したため、滄浪閣は伊藤の別荘ではなく本邸となりました。

敷地面積は18,150㎡(5,500坪)。
建物は日本間と洋間が3つあり、日本間は10畳と8畳に仕切ってありました。
3つの洋間は英国調。
廊下等には明治天皇からの下賜品である絵襖が飾られています。
湯川松堂画伯により「源義家後三年の役」「静御前の舞」「太田道灌鷹狩り」「野見宿弥の相撲」の各場面が描かれたものです。

また、邸内に、元勲である三条実美、岩倉具視、大久保利通、木戸孝允を祀った四賢堂を造り、日々の戒めとしたと伝わります(伊藤の死後、梅子夫人が伊藤博文を加えて五賢堂となった) 。

大磯在住時の伊藤の日常は素朴を好み、散歩する際には鳥打帽に着物の簡単な服装で出かけました。
ふらりと農家に立ち寄っては、米麦の値段や野菜の出来具合を聞いたり、夜の海岸へ出かけて地引網の見物をし、イカ釣り船の漁夫に話しかけたりしたといいます。
地元の祭りの時には、四斗樽の鏡を抜いて酒を振舞い、地域との融和を心がけていたという。

伊藤の死後は梅子夫人が居住しましたが、大正10年に養子の伊藤博邦により朝鮮の李王家に譲渡されて別邸となりました。
大正12年の関東大震災では建物が倒壊するが、焼失は免れ再建されました。
第二次世界大戦終戦直後は一時、米軍に接収され、昭和21年2月、李垠から政治家・楢橋渡へ、さらに昭和26年5月には西武鉄道に売却されました。
昭和29年12月に宿泊施設として開業し、大磯プリンスホテルの別館となっています。
昭和35年4月、五賢堂が元首相・吉田茂邸内へ遷座されました(吉田茂は五賢堂に西園寺公望を合祀した。吉田の死後、吉田茂も加えられて七賢堂と改められた)。

“名称の由来”
「滄浪閣」の名の由来は、楚辞の漁父第七「滄浪之水清兮 可以濯吾纓 滄浪之水濁兮 可以濯吾足」(滄浪の水清まば、もってわが纓を濯うべく、滄浪の水濁らば、もってわが足を濯うべし)とされます。
「滄浪」は「あおあおとした波」又は「漢水」の意味で、滄浪の水の流れが綺麗なときは冠の紐を洗い、濁っているときは足を洗う、という意味から、何事も自然の成り行きにまかせて身を処する意味を表しています。

“現状”
平成19年3月31日の営業を以って西武グループとしての営業が終了し、売却されることとなりました。

平成18年11月に行われた公開入札で大手建設会社が名乗りを上げ交渉権を獲得しましたが、大磯町が、歴史的建築物を保存すべく、買取に向けてプリンスホテルと協議することになりました。
町が提示した価格・約25億5千万円と、交渉権を有していた大手建設会社の提示価格との間に大きな開きがあり協議は難航。
結局、町は買取を断念し、今後は新たな所有者に建物の保存を要望することになりました。
Wikipediaより


JR東海道本線大磯駅から約1㎞です。
駅から線路沿いに、途中線路を越えて大磯小学校前に出ます。
さらに線路沿いを歩き、高架の交差点で国道1号に出ます。

私はまだ実際に訪れた事がないので、上記の行き方が一番いいのかは確信がありませんので、参考程度にしてください。

伊藤博文は幕末より明治に活躍した印象があります。
幕末→吉田松陰、高杉晋作、久坂玄瑞
明治→伊藤博文
という感じでしょうか。
桂小五郎(木戸孝允)は、幕末よりかな…。
幕末、長州藩は維新の中心にいましたが、この人!という名前が出てきません。
それぞれにピンポイントで活躍していて、土佐の坂本龍馬のような強烈な印象を与える人がいないという感じです。

伊藤博文も幕末に名前を聞かない事は無いけれど、やっぱり明治になってから、初代総理大臣という印象です。
実際は初代総理大臣より1,000円札なんです。
今の若い人には“???”な事ですね(笑)

これからこの滄浪閣はどうなるのでしょう。
手つかずになって廃墟になる事だけは避けて欲しいです。







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大磯-海水浴発祥の地

2011年02月04日
松本順が海水浴場を開いた大磯(神奈川県中郡大磯町大磯)です。

海水浴発祥1543
     海水浴発祥碑

海水浴発祥2544

松本順謝恩碑1542
  松本順謝恩碑

 当時の海水浴は、潮流で身体に刺激を与え海辺の清涼な空気を吸うことでした。
泳ぐというのではなく、岩の所々に差してある鉄棒につかまり、海水につかっているだけで、いわば塩湯治のようでした。
isotabi.comより


明治時代の新聞「公文通誌」に明治7年に緒方惟準が鎌倉・七里ガ浜で海水浴をしたとの記事があるそうです。


大磯といえば、私の年代では“スター大運動会”ですね。
古い!(笑)
スター大運動会がわかる年代の男性は、騎馬戦での水着がハラリに目が釘付けだったのではないですか?

大磯が海水浴場発祥の地かは、鎌倉の七里ガ浜での記録が出てきたのであやしいのかもしれませんが、松本順が開いた場所には違いがないので幕末関係者の史跡ではありますね。





鴫立庵-松本順(松本良順)墓碑

2011年01月25日
鴫立庵(神奈川県中郡大磯町大磯1289)です。

鴫立庵1545
       鴫立庵

鴫立庵2546
鴫立庵の観音堂の傍の松本順の墓碑
球体の石に漢字で「守」と刻まれています。
大磯に日本初の海水浴場を開きました。
大磯町民が建てた墓碑で墓は妙大寺にあります。

京都の落柿舎、滋賀の無名庵と並び、日本三大俳諧道場の一つとされます。
敷地内に建てられた石碑にある銘文「著盡湘南清絶地」から、「湘南発祥の地」とされることもあります。
場所は大磯の国道1号線(旧、東海道)沿いの鴫立沢にあります。
名称は西行の歌「こころなき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮」(『新古今和歌集』)による。

寛文4年、小田原の崇雪が草庵を結んだのがはじまりで、元禄8年、俳人大淀三千風が入り、第一世庵主となりました。
明和5年3月、白井鳥酔が再興し、庵主となりました。
Wikipediaより

松本順(松本良順)
幕府医官。
江戸を脱走して、官軍に抗しました。

佐藤泰然の次男に生まれ、幼名を順之助といいます。
幕医松本良甫の養子となり、良順また順と名乗りました。

伊東玄朴、竹内玄洞に洋医学の手ほどきを受け、幕医には禁じられていた洋医学の本格的修業許可を強く出願し、安政4年許されて長崎に赴き、オランダ人医師ポンぺについて学びました。
ポンぺの医学教育所は海軍伝習附属の形になっていましたが、伝習所が江戸に移ってからもしばらく長崎で修業し、精得館医学所の頭取をつとめました。

文久3年大槻俊斎、緒方洪庵のあとを受けて幕府医学所の頭取となり、七科のセクションをおいて近代的整備を行い、のち東京大医学部となる基礎を築きました。
前年、法眼となりました。

将軍慶喜の大政奉還直後、本多晋、柏木忠俊、立花種恭らとともに事態収拾にあたろうと奔走しました。
慶応4年8月榎本武揚とともに江戸を脱走、東北地方で官軍に抗戦、降伏して入牢させられましたが、のち赦され、東京早稲田に病院を建てました。
兵部省に出仕し、衛生部を設置、また陸軍軍医制度の確立に尽力しました。
幕末維新人名事典より


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