新選組を中心に歴史の舞台を巡ります
浅見絅斎墓−西大谷墓地
2008年12月29日 (月) | 編集 |
西大谷墓地には、浅見絅斎墓(京都府京都市東山区五条橋東6丁目)もあります。
浅見絅斉墓
清水へ至る道から東へ分かれて行くと、東北端に近く、清水の塔の望まれる辺りに南面して、浅見絅斎の墓があります。

浅見絅斎は、江戸中期の朱子学者です。
浅見は山崎闇斎の門人三傑の一人で、大義名分を説きその学説は望楠軒に引き継がれ、その著『靖献遺言』は、幕末の志士に深い影響を与えました。


屋根が付いているので、こちらは島田左近墓よりもっと見つけやすいかもしれません。

浅見絅斎は幕末の人ではなく、江戸中期の人物だそうです。
それでも幕末に影響を与えた人でもあるそうです。

お墓に屋根が付いているのは、それだけ重要なお墓という意味でしょうか?

東大谷祖廟の島田魁のお墓は、無縁さんとして墓石は整理されてしまいました。
島田魁といえば、まだまだ縁者さんもいてそうなのに…。
反対に、島田左近の方は、出自も不明なのにちゃんとお墓があります。
そして浅見絅斎は、江戸中期の人であるにもかかわらず、屋根付きのお墓がちゃんとあります。

歴史的に有名無名は関係ないのですね。
いかにお墓を守ってくれる、縁者さんを探すかということにつきるのですね。


浅見絅斎
島田左近墓−西大谷墓地
2008年12月28日 (日) | 編集 |

西大谷墓地島田左近墓(京都府京都市東山区五条橋東6丁目)があります。
島田左近墓1  島田左近墓2
西本願寺の祖廟・大谷本廟です。
本堂に東に親鸞廟と、歴代法主の廟があります。

南谷の中央あたり、木立の中でも目立ちます。
写真でみる維新の京都より


京阪電鉄清水五条駅から五条通を東へ600mで東山五条交差点です。
分岐が複雑な交差点ですが、まっすぐ進む方向に西大谷があります。

多くのお墓がありますが、島田左近のお墓は本当に目立ちます。
正面に「嶋田龍章之墓」と刻まれています。
また「文久二年壬戌七月二十日 歿年三十六」とくっきり刻まれています。

古めのお墓、周りより黒い墓石をさがせば大丈夫です。
ド〜ッン!という感じに建っていました。
こんなに目立ったら、暗殺されてしまいますよ?!
もしかして、生前もこんな風に目立つ人だったのかもしれませんね。

島田左近の墓の一段崖の上、やや東方中程に松井中務の墓があります。
上面・表面の剥落が著しく、中務の文字も右半分を欠いています。

松井中務は西本願寺用人で、外国船の来航に備え、僧侶の武備を建議し、門末に勤王を説き、蝦夷地における末院の屯田兵設置を献言するなどしましたが、文久3年守護職に命じられた越前の松平春嶽が、翌春上京の際、本願寺境内を旅宿に使用することに賛成したため、中務は開港論者とみなされ、文久3年8月12日、自宅で暗殺されました。
写真でみる維新の京都より


松井中務のお墓はまだ訪れていません。
島田左近のお墓にお参りされた方は、近くにあるようなので、ぜひ探してお参りしてください。
私も、一度はお参りしたいと思います。

大雲院
2008年12月25日 (木) | 編集 |
大雲院(京都府京都市東山区祗園円山町)に佐土原藩士招魂碑があります。
大雲院
天正18年以来、寺町通四条下ルにありました。
昭和47年に祗園閣(山鉾に似た建物で、大倉喜八郎が別荘内に昭和3年に建てた)のある現在地に移ってきました。

境内には佐土原藩士の招魂碑が再建されました。
墓地内には信長・信忠を祀る碑や、石川五右衛門の墓もあります。

寺町四条の旧地に残っていた四塔頭も、それぞれ諸方に移転を終え、隣接墓地内の有名人の墓も、ちりぢりに各寺院とともに移転しています。
写真でみる維新の京都より


京都野外音楽堂の向かい、円山公園のしだれ桜横のから真っ直ぐ南下、もしくは高台寺より北上した場所にあります。

佐土原藩は、薩摩藩の支藩とされることもあるようです。
島津家が藩主でした。
支藩かどうかは、いろいろと説があるようですが、島津ということからもその辺りは微妙なようです。
佐土原は宮崎市の北にあるそうです。

昭和47年に移転したそうですので、それ以前なら有名人お墓も、旧招魂碑も見られたということなのでしょうか?
招魂碑が長い間風雨に晒されて、朽ち果てかけていたのは歴史なので仕方がないですが、お墓がちりぢりになってしまったのは残念です。
それこそ“そこに”歴史があったのですから。

移転しなければならないことも、これもまた歴史なのかもしれませんね。


佐土原藩
織田信長 信忠
石川五右衛門
四条隆謌卿夫妻墓−妙傳寺
2008年12月25日 (木) | 編集 |
七卿落ちのひとり、四条隆謌夫妻の墓妙傳寺(京都府京都市左京区東山通二条下ル東側)にあります。
妙傳寺
四条隆謌は、尊攘派の公卿で、維新後は陸軍将官となりました。
父は代々庖丁道を司る四条隆生です。

文久2年12月国事御用書記になり、翌年には国事寄人に任命され、攘夷監察使として播磨国明石に出張するなど、攘夷決行に力を尽くしました。

八月十八日の政変で三条実実らとともに長州に下りました。
官位を剥奪され、謌と改名し、三田尻、山口湯田に滞留しましたが、第一次征長の後大宰府に移されました。
王政復古により、復位入京が許され、鳥羽・伏見の戦いには錦旗奉行となり、仁和寺総督宮の参謀を勤めました。
ほどなく中国四国追討総督、のち参与、左近衛権少将に任官しました。
関東へ出向して甲府・駿府表鎮撫使、仙台・奥羽追討平潟口総督を歴任して、明治2年6月、陸軍少将に任命されました。
その後、北九州地方の巡察使の任務を課すと、大阪・名古屋・仙台各鎮台司令官を経て陸軍中将に昇進しました。
幕末維新人名事典より


京都市営地下鉄東西線東山駅を出て、東大路通を北へ向かいます。
500m程で妙傳寺です。

七卿落ちで長州に下った、四条隆謌夫妻の墓があります。
七卿落ちは知っていても、四条隆謌をよくしらないので、あまり興味が湧きませんでした。
偶然、妙傳寺の近くを通っていたので、本堂だけ写真に収めました。

お墓の参考資料も持っていませんでした。
お墓の正面に「陸軍中将」から始まる文字と、隣に奥さんの名前?戒名?資料でははっきり読み取れませんが、刻まれているようです。

四条隆謌を好きな方、中途半端ですみません。
防長殉難者の墓・崇忠之碑
2008年12月23日 (火) | 編集 |
防長殉難者の墓・崇忠之碑(京都府京都市東山区本町東福寺恵日山南岳)です。
防長殉難者6268  防長殉難3
墓石が並んでいます。
1枚目の写真の右より後ろに、天皇陵が見えます。

防長殉難1  防長殉難者7269
    崇忠之碑            大石灯籠

東福寺南端、六波羅門を出て、左方坂道を辿ると、月輪南陵と仲恭天皇九条陵へ参る為の分岐に着きます。
この道は、戊辰の役で宇治川右岸千両松辺りで戦死した、石川厚狭介ほか48名の長州藩士の墓石の並ぶ処に通じています。
道は月輪南陵を経て九条陵に至りますが、九条陵の真ん前の開豁地内に、墓石が整然と並んでいます。
墓石群の前面には、1基の大石灯籠と、和文草書体で長州兵戦没者の功を讃えた文を刻んだ、崇忠之碑が建っています。
写真でみる維新の京都より


六波羅門を出て、東へ歩きます。
150mほどの場所で、「→車阪町 ↓南明町 ↑本寺山町」という道標に出会います。
そこをまだ東へ真っ直ぐ50mです。
右に向かう坂道が出てきます。角には「九條陵月輪南陵参道」という道標があります。
その坂道(階段だったかな)を登っていくと、九条陵の手前、右側に開けた場所があります。
九条陵と同じ方向を向いて(陵を背にするように)墓石が並んでいます。

広い場所に綺麗に並んでいますが、草が生えていました。
それが忘れられた墓石群という感じに見えてしまいました。
訪れたのが、真夏だったので、刈っても刈っても生えてくるのかもしれません。

防長殉難者の墓ですが、歴史の表舞台に立った人は少なかったのではないでしょうか。
特に説明されたものもありませんでした。
有名な志士と呼ばれる人たちの下で、必死に戦った人たちだったのかもしれません。
千両松付近で戦死した人の墓もあるというのは、ここに埋葬されたのでしょうか。
多くは遺体の身元もわからずに、穴を掘って一緒に埋葬したりしているので、同じようにどこかに埋められた後、墓石だけを建て祀ったものなのでしょうか?
お寺の墓地でもないこの場所にお墓が建てられるというのは、もしかしたらこのまま忘れられて、荒れ果ててしまう可能性もあります。
それが心配です。
故郷にも帰れなかったのは、悲しかったでしょうね。

この辺りは、新選組はそれほど来なかったのではないでしょうか。
巡回や仕事で来たとしても、滅多になかったのでしょう。
壬生からは随分と離れています。
土方歳三や沖田総司もこの風景は見ていないでしょう。

この防長殉難者の墓のある場所ですが、女性一人では注意深く来た方がいいかもしれません。
あくまでも私が来たときの感想です。
この場所が危ない場所と聞いたわけではありませんが、少し山中になりますし、訪れる人も滅多にないようです。
木が生い茂り、何かあって大声を出しても聞こえる範囲で家は無かったと思います。
(坂の下まで行かないといけません)
大丈夫だと思いますが、用心に越した事はありません。
友人を連れて行って、ついでに幕末ファンにしてしまって下さい。