正運寺-森孫六墓

2009年02月23日
東町奉行所与力 森孫六墓のある正運寺(京都府京都市中京区蛸薬師通大宮西入ル北側)です。
正運寺
東町奉行所与力森孫六は、同僚大河原重蔵と西町与力の渡辺金三郎・上田助之丞と協力して、勤王の志士の捕縛に手柄を立てましたが、逆に薩長の志士に狙われるようになりました。
幕府は4人に江戸引き上げを命じましたが、文久2年9月23日夜、石部で4人とも暗殺団に殺されました。
森・渡辺・大河原の首は、粟田口に梟されました。

正運寺は、加藤清正の重臣飯田覚兵衛ゆかりの寺です。
寺宝として森孫六の研ぎあげた槍の穂先があります。
写真でみる維新の京都より

阪急電鉄や京福電鉄嵐山本線の大宮駅から、斜めに通る後院通に入ります。
四条大宮の交差点の交番の横を斜めに通っているのが後院通で、二条駅方面に続いています。
壬生交通局があります。
その前の蛸薬師通を東に入って行きます。
洛中小学校の斜め前が正運寺です。

暗殺団といわれる中に、薩摩の田中新兵衛や土佐の岡田以蔵がいたようです。
岡田以蔵はほぼ間違いないだろう…ということのようです。
もしかしたら、武市半平太も立ち会っていた可能性があるとか。
まさに暗殺のスペシャリストが勢ぞろいです。

猿の文吉は自分の娘を出世の道具として使っていたようですが、この4人に関しては特にそこまでの悪評は聞いていません、私は…ですが。
勤王の志士の捕縛に手柄というのも、幕府側の人間としては真っ当な職務です。
新選組もそうですもの。
そこを敵方から狙われる、ある意味仕方がないですね。
“人殺しは悪い”と今なら、堂々とその理由は通りますが、幕末時ではそれは通用しません。
やるか、やられるかです。

襲われた4人のうち、森孫六だけお墓が確認されているそうです。
墓石には「散忠義之居士」と刻まれています。
他の3人の人達は、どうされたのでしょう?
ゴミのように捨てられたことはないですよね?
どこかでひっそりと供養されているか、せめて無縁仏としてでも供養されているといいのですが。


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菊地 明

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長徳寺-小林良典墓

2009年02月19日
長徳寺(京都府京都市左京区川端通今出川上ル下柳町)に小林良典墓があります。
長徳寺
長徳寺墓地に、小林良典の遺髪を埋めた墓があります。

小林良典は安政の大獄の犠牲者。
鷹司家の諸大夫。官位は、民部権大輔兼筑前守従五位下。

嘉永6年米艦来航以来攘夷を主張し、その主前関白鷹司政通、その子輔熙を説いて朝議を動かそうとしました。
また中川宮や左大臣近衛忠熙、内大臣三条実万らや薩摩の日下部伊三次、越前の橋本左内らと親しく、とくに安政4年から一橋慶喜の将軍擁立と勅書の水戸降下を猛運動し、幕府側から宮廷の黒幕と目されていました。
安政5年、大獄が始まると、寺町丸太町の私宅を出て堺町門内の鷹司邸に潜入しましたが、9月22日ついに捕えられて、六角牢に拘禁されました。
牢内でも尊大な風格で獄吏を困らせたといいます。
12月江戸へ護送され、翌6年8月、八丈島遠島と決定しましたが、配所へ送られる前日の11月19日、52歳で獄死しました。
獄中で殺されたともいわれています。

贈正四位。
文久3年1月、高杉晋作らが遺体を回向院から世田谷若林松陰神社の地に改葬、別に京都の菩提寺、川端通今出川上ル 常徳寺に墓碑があります。
写真でみる維新の京都&幕末維新人名事典より


京阪電鉄および叡山電鉄出町柳駅を出たところすぐです。
出町柳バス停の前にあります。
「幕末維新人名事典」には菩提寺としてこの辺りにある、“常徳寺”と記載されています。
長徳寺はありますが、常楽寺というお寺が見当たりません。
そして長徳寺に遺髪墓があるので、常徳寺と長徳寺は同じお寺を指しているものと思います。

バス停の前にあるお寺ですが、そこにお寺がある事を主張していない感じです。
何度もこの前を通っていましたが、お寺があることが記憶にありませんでした。
地図で確認して、ここにお寺があったんだ!と思ったぐらいです。

回向院から東京の松陰神社に改葬された一人だったとは…。
遠島の前日に死亡というのも、おかしなものですね。
殺害説があってもおかしくない状況です。
もともと病弱だった?……ような感じではないですよね。
拷問を受けた……可能性はありますね。
遺髪だけでも京都に帰ることが出来てよかったのかもしれません。


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上善寺

2009年02月05日
浄土宗知恩院派の上善寺(京都府北区鞍馬口通寺町東入ル)です。
上善寺1  上善寺3

上善寺2

門前に六地蔵廻り1番の大きな石柱が建っています。
地蔵尊は深泥池地蔵といい、深泥池から移されました。

墓地内には、禁門の変で鷹司邸付近で戦死した、入江九一・原道太・半田門吉・那須俊平・田村育蔵・小橋友之輔・緒方弥左衛門と無名の人1名の計8名の首塚があります。
当時堺町御門警衛隊長、越前の桑山重蔵が、主君松平春嶽の許しを得て、越前藩の菩提寺である当寺へ葬ったものです。


原道太は、久留米藩士。
諸職を経歴して総奉行付属となりました。
早くより勤王の志を抱き、幽居中の真木和泉に師事して尊攘活動に加わりました。
文久2年2月、国を脱し同志とともに長州を経て大坂に赴きました。
幽居を脱した真木和泉が来坂し、真木の指導のもと尊攘活動を行いましたが、藩命により捕えられ藩邸に幽閉され、のち国に護送されて禁固されました。
翌3年5月赦されて、三条実美の親衛兵となり上京しました。

八・一八政変により三条ら七卿が長州に落ちるに従って三田尻に移り、真木の内命を帯びて薩摩に派遣されましたが至らず長州に戻りました。
翌元治元年7月、禁門の変に真木に従って上京、7月19日、会津藩兵との戦いに負傷し、鷹司邸に退き自刃しました。享年27歳。

半田門吉は、久留米藩士、天誅組の一人。
久留米藩の軽輩でしたが、藩命によって武田二郎と名を変え度々時勢視察のため上京していました。
そのうちに文久3年8月、中山忠光ら天誅組の挙兵に参加、砲隊長となりました。
上田宗児とともに十津川を踏査し、中山らを導きました。
上野地の本陣で天誅組解散後も中山につきそい、鷲家口で負傷しましたが、大坂から三田尻に逃げのび、長州にしばらく潜伏しました。
翌元治元年7月の禁門の変に、真木和泉らとともに東上し鷹司邸で戦死しました。享年31歳。
『大和戦争日記』を記しています。

小橋友之輔は、讃岐高松の尊攘派。
父は香川郡円座村の医者小橋安蔵です。

入江九一については、2008年11月25日
那須俊平については、2008年8月1日を参考にしてください。
写真でみる維新の京都&幕末維新人名事典より


京都市営地下鉄烏丸線今出川駅から歩くのが近いでしょうか?
その場合は地下鉄を降りてから、烏丸通を北へ850m、烏丸鞍馬口交差点を東へ折れて400m歩きます。
バスに乗り、烏丸鞍馬口バス停か出雲路橋バス停で降りて数百m歩くかになると思います。

相国寺から北へ歩いて上善寺に行き、下鴨神社にまわると観光にもなります。
時間のある時に、ゆっくりと歩くのがいいでしょう。
北の方に上ってくると、電車という交通手段がほとんどないので、バスを上手く使うのがいいのでしょうね。
そのかわり自然も多くなり、京都の中心部と違った京都が楽しめます。

首塚には行けませんでした。
門の前に建つ、“贈正四位 入江九一他七名首塚”という碑だけチェックして来ました。
首塚-首が葬られているのですね。
そうか…、南に行けばすぐ京都御苑・京都御所ですから、運ぶとしてもそれほど遠い距離ではないので、ありえない話ではないですね。
当時の人にすれば、京都御苑北側まで直線で800mほどというのは、特段遠いという距離ではなさそうに思います。

無名の1人というのが気になります。
何故無名なのでしょう。
本当に末端の人、最前線で働く軽輩だったのか、身元もわからないほど無残な姿になっていたのでしょうか?
今ならDNA鑑定も出来ますし、身元調査が出来たのに。
この無名の方を知りたいです。


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十念寺

2009年02月05日
竹内式部の墓が十念寺(京都府京都市上京区寺町通上立売上ル)にあります。
十念寺
新潟出身の垂加流神学者、竹内式部の学問は、若い公卿たちの間に尊王思想を目覚めさせました。
桃園天皇にまで進講が企てられたため、保守的な摂関家はこれを危険思想とみて、伝奏から所司代に申し入れがあり、式部は奉行所に呼ばれて尋問されました。
式部父子は重追放と京都御構の処断を受けました。
宝暦事件といいます。

竹内の思想は明治維新の思想の先駆を成したものでした。
写真でみる維新の京都より


相国寺の東にある“甲子役戊辰役 薩摩藩戦死者之墓”の前を通り過ぎます。
寺町通に突き当たると、北へ曲がります。
約150mの所にあるのが十念寺です。

幕末の人ではありません。
なので私も前を通るので、写真だけパチリと撮らせていただきました。

今までも、「志士に影響を与えた人」として、幕末より前の人が何人か出てきました。
綿々とその思想が引き継がれて来て、幕末という時流に乗って大爆発したのが明治維新でしょうか。
もしこういう人がいなければ、明治維新はどんなかたちになっていたのでしょうか。


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甲子役戊辰役 薩摩藩戦死者之墓

2009年02月04日
相国寺の東側にある、甲子役戊辰役 薩摩藩戦死者之墓(京都府京都市上京区上立売通寺町西入ル北側)にも廻ります。
薩摩藩墓地1  薩摩藩墓地2
相国寺東門のやや東、北側に石柵で囲まれた大石碑があります。
大正4年10月に建てられた、蛤御門と鳥羽伏見の戦いに戦死した薩藩士72名の合葬碑で、背面に戦死月日・所属・氏名・行年が刻まれています。
傍らの殉国羣光の碑は慶応4年4月に建てられたものです。

大石碑の裏手に、個人の墓石が並ぶ、林光院(東門内南側)の墓地があります。
伊集院與一藤原兼豊の墓もあります。
写真でみる維新の京都より


相国寺東門を出て、小さな川を渡ると突然現れます。
目に入った時は、それが何なのかわかりません。
前まで来ても、何なのかはか判りづらいです。
石柵があり、門も閉じられているので、碑の前まで歩いていけないので、碑に刻まれた文字を読むことが大変なのです。
碑の背面に刻まれた文字は絶対目にする事ができないのです。

この大石碑は、大正4年に建てられているのなら、ここに埋葬されたのではないのでしょうか?
しかし合葬といのですから、意味からすると複数の遺体を葬っているはずです。
あちらこちらに葬られていた遺骨を、この地に集めて合葬し、碑を建てたのかもしれません。

薩摩藩邸から近い場所なので、この地が選ばれた可能性がありますね。
私が訪れた時は、木の葉も落ちて寒々しく、その分寂しい感じを受けてしまいました。
大きな碑が建てられているのですが、忘れられた薩摩藩士。
そんな雰囲気でしょうか。
春が来て、緑の葉に覆われると、柔らかな落ち着いたいい雰囲気になるのかもしれません。

もう少し先まで碑に近づけると嬉しいのに、と思いながら後にしました。


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